2022年12月31日土曜日

2022年 私の挑戦 ② ママさんコーラスで歌う

  大学院の指導教員の対応に悩んでいたとき、「私は間違った方向に進んでいるのかもしれない。他に目を向けなさいという、天からのメッセージかも」とも考えました。

 こうした場合は家族に目を向けるのでしょうが、私は一応は家族を大切にしているつもりですので、きっと家族以外の社会参加だろうと考えました。そして気が付いたのは、大学院に行き始めてからPTA活動にあまり関わっていないということでした。

 で、まず、手を挙げたのは息子の小学校の家庭科ボランティアです。ちょうど息子は調理やミシンがけなどが始まる5年生。実習を手伝ってみると、子どもたちの生き生きとした様子が見られて、とても楽しかった。子どもはあっという間に育ちますので、こうして、学校に関われたことは、とても良かった。

 そして、娘の通うインターナショナルスクールにも目を向けました。そして手を挙げたのが、クリスマスバザーの手伝い。綿あめ・ポップコーンブースの取りまとめ役に手を挙げました。このブースは大盛況で利益も沢山出すことが出来、PTA活動に貢献できました。また、今月中旬には手伝ってくれたママさんパパさん9人と「お疲れ様会」をワインバーで開くことが出来ました。子どもたちの進路の話などで盛り上がり、高校最後の年に他のママさんパパさんと交流が出来て、嬉しかった。

 そして、もっとも楽しかったのはママさんコーラスに参加したことです。週に1度2時間の練習を重ね、クリスマスソングをバザーや子どもたちのクリスマス会で歌いました。

「いつもママさんたちのコーラスを見るたびに、ママに歌ってほしいなって思っていた。歌ってくれて嬉しい」と娘。夫や子どもたちは、大学院のことでふさぎ込む私を見てきたので、楽しそうに歌う私を喜んでくれていたのかもしれません。ニコニコして私の”舞台”を見ている家族を見ながら、私も仲間のママさんたちと一緒に幸せな気分で歌えたのでした。

 大学院ではつまずきましたが、こうして楽しく社会参加が出来ました。2022年も良い年だったと思います。

 

2022年 私の挑戦 指導教員の変更

  私にとって2022年はとても難しい年でした。大学院博士課程の指導教員の対応に苦しみ、解決に向け様々な手を打つものの突破口が見つからないーそんな膠着状態が続いて、心身ともに疲弊した年でした。

 指導教員の対応に疑問を持ったのは入学前の3月でした。4、5月と悩み、まずはすでに博士号を取得している友人と現在博士課程で研究を続ける友人、博士課程を指導教員が問題で辞めざるを得なかった夫の友人に相談しました。「それはアカデミックハラスメントだ」と言われ、いくつかアドバイスをもらいました。

 熟考し、突破口として他の教室のゼミに参加させてもらうことにしました。6月のことです。その教室の講師と助教授にそれとなく相談を持ち掛けました。「指導教員に相談を」と言われ、諦めました。

 意を決して大学内のハラスメント相談所に連絡をしたのが夏。相談を重ね、同所を通す形で専攻長に会うことにしました。専攻長には指導教員変更の了解を得られましたが、指導をお願いしたゼミの教授には「医学のバックグラウンドがない」「年齢」を理由に断られました。

 もう辞めるしかないと考え、指導教員に「私に辞めてほしいと思っていますか?」と面と向かって聞きました。「辞めようと辞めまいとあなたの決断だ」と突き返されました。そして11月、指導教員のある言葉がきっかけで、研究室に行くのを辞めました。その後は、大学の図書館で研究を続けました。

 博士課程の研究生が、指導教員なしにどうやって博士論文を書くことが出来るのか? 本やインターネットでリサーチを続けました。それはほぼ不可能であることが分かりました。でも、このまま辞めるのはあまりにも悔しいと思いました。そして、指導教員なしに研究を続ける方法を考えました。

 少し、動きがあったのが12月です。再び、専攻長に会い、専攻長が別の教室の教授に私の指導をお願いしてくれることになりました。私より一回りくらいは若い、信頼できる印象の専攻長は、私と現指導教員の関係について「どちらが悪いということではない。ミスマッチだ」と判断しました。専攻長によると、指導教員の変更は彼がその職務に在籍している3年間で一度もないと言います。それほどに、珍しい(難しい?)ことなのだと思います。

 私を引き受けても良いと言ってくれた教授とは2時間の面接をしました。様々な話をしました。そして、その対話の後、「この人は信頼できる人だ」との印象を持ちました。

 専攻長から、現指導教員と新しい指導教員(いずれも女性)の双方に了解が得られたとメールで連絡があったのが今月19日。書類を送ると書かれていましたが、その後、音沙汰がありません。宙ぶらりんな状態で年を越すことになりました。が、もうこのような状況には慣れました。もしかしたら、どんでん返しがあり、全てがご破算になるかもしれません。その覚悟も出来ています。

 最近読んだ、自律神経の専門家・小林弘幸順天堂大学医学部教授の「リセットの習慣」(日経ビジネス文庫)で次のようなことが書かれていました。「常にコンディションを崩し、もっとも苦しい生きかたをしているのは求められていないフィールドで、必死に求めて生きている人です」。まさに私のことだと、苦笑しました。

 苦しい一年でした。そして、苦しみを通じて人として少しは成長できたかなーと思える年でもありました。

 

2022年12月25日日曜日

メリークリスマス_2022

  今年のクリスマスも家族全員でお祝いすることが出来ました。

 24日午前は娘がヴァイオリンのレッスンで、夫が送迎。息子は歯医者さんの予約が入っており私が送迎して、相変わらず慌ただしい一日のスタートでした。息子の歯医者さんが終わった後は、ブイヤベースの材料を仕入れにスーパーへ。その後は息子のクリスマスプレゼントの自転車を買いに行ったり(ギリギリ間に合いました)、あっという間に時間が過ぎました。

 午後3時ごろ帰宅し、夫がスペアリブ、私がブイヤベースとコロッケを作り、夕方5時に教会へ。厳かな気持ちで神父さまの説教を聞き、賛美歌を歌いました。久しぶりに会った友人家族とも話が出来、幸せな気持ちで教会を後にしました。

 帰宅後、テーブルセッティングをして料理を並べたころに母がケーキを持って訪れました。母は料理を美味しそうに食べ、シャンパンも飲んで、楽しそうにおしゃべりをしていました。父が亡くなった後は何年間も一人でクリスマスやお正月を過ごしていた母。こうして、家族で過ごすことが出来、喜んでくれていると思います。

クリスマスディナー。メニューはブイヤベース、スペアリブ、コロッケとオニオンリング

 食事の後、子どもたちはサンタさんが来るのを楽しみに、二人で一緒に娘のシングルベッドで寝ました。ベッドの横には娘がサンタさんのために作ったパンプキンスコーンと牛乳、トナカイさんにニンジンを切って、置いておきました。

サンタさんのためにスコーンを作る娘

 25日の朝、子どもたちのところにちゃんとサンタさんが置いていってくれたプレゼントがありました。サンタさんはスコーンを一つ食べ、トナカイさんもニンジンを食べてくれたよう。娘と息子がプレゼントの袋を開けると、大好きなアニメのフィギュアやキャンディが入っていました。

 娘が「サンタさんは私たちの好きなものをちゃんと分かってくれているんだね。感謝だね」と息子に言います。サンタさんからのプレゼントを喜んでいる子どもたちを見て、私も幸せな気分に浸りました。

 25日はクリスマス気分も早々に朝8時45分から息子の塾の冬期講習が始まりました。息子が頑張っている間、私は子どもたちの大好きなマカロニチーズとチキンを準備。息子の帰宅を待って、クリスマス・ランチです。母が持ってきてくれたケーキは食べ終わりましたので、もう一つ準備していたケーキを食べました。

25日のランチ。メニューはマカロニチーズとチキン

 2日間で、ちょっぴり体重が増えたマイヤー家でした。


子どもたちがサンタさんとトナカイさんのために準備したスコーン、牛乳、ニンジンと手紙

娘がサンタさんに描いた絵。娘と息子が手をつないで一緒にベッドに寝ています

2022年12月19日月曜日

初めての恋バナ

  金曜日の夜、娘は夜8時過ぎに帰宅しました。普段は寄り道をせずに帰宅する娘ですが、今年最後の通学日なのでお友達とご飯でも食べているのかな?と思っていましたので、特に心配はせずに帰りを待っていました。

 「ただいま!」と元気に玄関に入ってきた娘は「ママ、今日は恋バナ(恋の話の略語)したんだよ。初めての恋バナ」と嬉しそうです。10年生(日本の高1)の女子2人に誘われ、パンケーキの美味しい店に寄り、おしゃべりをしたと言います。インターは学年の垣根が低く、他の学年の生徒とも仲良くなれるのが良いところです。

「そう? 自分の好きな人の話?」

「ううん。私、好きな人いないでしょう。友達のユミもレイも好きな人がいなくて、恋バナをしたことがないの。で、一度恋バナをしたかったから、とっても楽しかった」

 10年生のお友達の1人には彼氏がいて、もう一人は片思い中だそうです。その2人の話をずっと聞いていたと娘が言います。聞き役でも恋バナに参加できて、とても楽しかったのだとか。

 私の高校生時代を振り返っても、その10年生の子の話が普通で、「好きな人がいない」という娘と娘の友達のほうが、不思議に思えます。娘たちはきっと勉強や自分の好きなことに一生懸命で(娘の場合はアニメ)、恋はもう少し先のことなのかもしれません。

 娘から好きな人の話を聞いたことがありませんので、以前、娘に「好きな子は男の子? 女の子?」と聞いてみたことがあります。娘は「リアルでは好きになったことがないけど、男子だと思う。だってKポップで好きな子もアニメで好きな子も男子だから」と答えました。

 クラスメートで素敵な男子が何人もいるので(本当に格好良い子が多い)、「K君はどう? 清潔で精悍な感じが良いよね。O君は? グッドルッキングだし優しそう」と持ち掛けてみるのですが、興味がなさそうです。まぁ、大学に行けば、きっと好きな人が出来るだろうと思っています。

 娘の話題は10年生の子たちが食べたパンケーキに移ります。「あの子たち、リッチなんだよ。2300円のパンケーキ食べていたの。私、1000円しかもっていなくて、どうしようかなぁと焦ったら、700円台の小さなパンケーキがあってほっとした」

 娘にはひと月3000円のお小遣いをあげており、娘はドラッグストアで化粧品、300円ショップでイヤリングを買ったり、お友達とたまにお茶をするなどして使っています。事前にお友達と食事に行く、ディズニーランドなどのテーマパークに行く予定が分かっていれば、その都度あげています。が、この日の話から、「急にお友達に誘われても行けるように、もう少し金額を上げたほうがいいかなぁ」と思いました。

 娘はもらった金額の中で工夫して使い、特に足りないなどと文句を言うこともありませんので、3千円のままでした。娘の初めての恋バナ参加の話を聞いて、高校生最後の年ですので、来年1月からお小遣いをアップしようと決めたのでした。

2022年12月18日日曜日

サンタさん、まだ信じている?

  金曜日は忙しい日でした。朝8時から横浜にある娘のインターナショナルスクールでPTAの活動。その後はママさんたちと元町のカフェでお茶をし午前11時から、なんと中華街のカラオケ店でお疲れ様会でした。盛り上がる中、私は2時間で切り上げ、息子の通う地元公立小学校の保護者会へ。忙しくも充実した一日でした。

ママさんたちとカフェで”朝茶”。アップルシナモンティが美味

 カラオケはとても楽しかった。ママさんたちの歌の上手なこと。参加した8人中、50代は5人、40代は2人、30代が1人。50代のママたちが歌う、松田聖子、中森明菜、山本リンダのウケること。その弾け方に、インターのママは違う、とただただ圧倒されました。

 英語の歌、日本語の歌、中国語の歌など入り混じり、皆で笑い、口ずさみながらの楽しいひとときでした。名残惜しかったのですが、私は先に失礼し、電車で40分揺れながら東京に戻り息子の学校へ。

 久しぶりの保護者会で、まずは担任の先生から二学期の報告がありました。子どもたちが取り組んだSDGs(Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標)の動画を紹介。息子は運動委員を一緒に務めているM君と二人での発表でした。

 自分の周囲の人に元気に挨拶をすることで、「すべての人に健康と福祉を」というSDGs3番目のゴールに近付くそうです。挨拶は人を嬉しくする効果があり、それが健康につながると考えたそうです。息子は大きな声で元気に発表していました。それだけで、十分でした。

 先生から報告の後は、お母さんたちがいくつかのグループに分かれ、お話し合いがありました。あるお母さんから振られた話題は、「まだ、サンタさん信じている?」 5年生は微妙な年齢で、一人には昨年サンタさんは来なかったそう。他の2人はまだ信じていて、今年もサンタさんは来るだろうとお母さんたちも期待していました。

 我が家の息子も、18歳になる娘も昨年まで信じていました。サンタさんが世界中の子どもたちにプレゼントをくれる。そして、娘にとっては自分が中学生になっても高校生になってもサンタさんはプレゼントを忘れないー。そのことが嬉しかったようです。娘と息子にすれば、お友達が「プレゼントをくれるのは親だよ」と言おうと、自分にはサンタさんがプレゼントをくれるーと信じたほうがずっと楽しいという発想だと思います。で、私たちも今年もサンタさんは我が家に寄ってくれると信じています。

 お母さんたちとのお話が終わった後、担任の先生に息子の様子を聞きました。勉強については、「算数は良くできますよ。社会も理科もしっかり勉強しています。国語は漢字が課題ですが、これはとにかく毎日、コツコツと練習するしかありません。小テストに良い点数を取るように頑張ろうと伝えています」とのこと。お友達とも仲良くし、問題行動もなく、「頼りになる存在ですよ」と言ってもらえました。とりあえず、ほっとしました。

 昨夜は息子が英語教室、娘が今学期最後の日でお友達とお茶、夫は会社の忘年会で私は一人でした。家族の帰りを待ちながら、子どもたちの大好物のパンプキンパイを作りました。穏やかな気持ちで過ごせた夜でした。

2022年12月15日木曜日

クリスマスコンサート

 今日、娘の通うインターナショナルスクールで生徒たちによるクリスマスコンサートが開かれました。ブラスバンドやコーラス、そしてオーケストラの演奏は約1時間半。生徒たちの奏でる音楽で、ひと足早くクリスマス気分を味わいました。

 ヴァイオリンを弾く娘は、オーケストラのコンサートマスターを務めました。オーケストラのメンバーが着席して待つ中、舞台の袖からゆっくりと歩いてきて客席に深々と礼をする娘。娘の弾く弦の音に合わせて、メンバーらがそれぞれの楽器を鳴らし、音合わせをします。 

 そして、演奏が始まりました。堂々と演奏する娘を観客席から見ながら、成長したなぁと感慨深かったです。

 娘がヴァイオリンを初めて弾いたのは幼稚園の年長さんのとき。サンタさんに「ヴァイオリンが欲しい」とリクエストし、25日の朝、部屋のカーテンの側に届いていたのを見つけたのです。

 さっそく、個人レッスンをしている先生を見つけて習い始めました。その先生には今も週1回レッスンを受けています。娘が小さいころは練習させるため随分厳しくしましたが、今は一生楽しめる趣味となったようです。大学にオーケストラがあれば、入りたいと言っていますので、また、コンサートを観に行けるかなと楽しみです。

 今日は母も連れて行きました。孫が舞台で演奏する姿を見て、とても嬉しそうでした。コンサートの前や休憩時間にはPTAのお母さんたちが準備してくれたワインやスープ、クッキーなどを頂き、母もインターナショナルスクールの雰囲気を味わい満足してくれたようです。

 

2022年12月13日火曜日

Yさんとの楽しいひととき

 今、私が一番行きたい場所は室蘭だと以前ブログに書きました。私が12年間勤めていた北海道新聞社の初任地で、楽しかったことや辛かったことなど沢山の思い出が詰まった街です。

 室蘭は私にとって、仕事の原点となる場所でした。「新日本製鉄室蘭製鉄所」内でボヤが出たという情報が入れば、ヘルメットを被って駆け付けました。街で火事があれば一眼レフカメラをつかんで現場に向かいました。地震で大きく揺れたときは被害状況を確認しに商店街に飛んでいきました。ネタを探しに警察署や市役所、学校の職員室、街おこしに奮闘する経営者の店を巡りました。

 前任者の書いた記事が気に食わなかったと玄関先で怒鳴られ泣いたこともありますし、強面の漁師さんをドキドキしながら取材し沢山の魚をお土産にもらって帰ったこともあります。室蘭報道部で唯一の女性記者だった私は、優秀な男性記者たちに囲まれ、空回りばかり。そんな私を指導してくれたのが、若手記者を取りまとめ原稿をチェックするデスクという役職についていたYさんでした。

 Yさんには、右も左も分からなかったその新人時代に、取材や記事執筆のイロハを教えていただきました。お正月にお宅に伺い、奥様の美味しい手料理をご馳走になったこともあります。私が退社した後も、メールでやり取りをさせていただき、Yさんが1、2年に一度奥様の絵の展覧会に付き添って東京にいらっしゃったときにお会いするようになりました。昨年は娘と一緒に実家の様子を見に行ったとき、札幌のお宅にお邪魔しました。この日も奥様の心尽くしのお料理をいただき、とても楽しい時間を過ごしました。

 そして、一昨日、Yさんと1年数カ月ぶりにお会いすることが出来ました。Yさんがこちらにいらっしゃるときにいつもお会いする和食店で、美味しい料理と日本酒をいただきながら、沢山お話しさせていただきました。


  人と話をするときは、「こんな話をすると、情けない人間だと思われないだろうか?」などといつも気になります。でも、Yさんには、自分の欠点も悩み事も包み隠さず、話をすることが出来ます。何事にも自信が持てない私ですが、自分自身をさらけ出しても、全面的に肯定してくれるYさんという存在がいてくれることをとても有難く思っています。 

 Yさんと私は同じ病気を患った経験があります。お互いにもう10年以上も再発をせずに元気にしていますので、これからも美味しいお料理とお酒をいただきながら、お話しできる機会をたくさん持てることを心から願っています。

 

2022年12月8日木曜日

幸せな時間

  昨夕、ズームでの国語の個別指導を終えてから、息子は夫と一緒にクラシックのコンサートに行きました。会場は銀座の「王子ホール」でしたので、息子は「銀座に行くから、お小遣い持っていく!」と張り切っていました。数百円の予算で銀座で何が買えるか分かりませんが、久しぶりの夫との外出が嬉しかったようです。

 このクラシックのコンサートチケットは夫が教会のチャリティーバザーで購入したもの。数万円支払ったようですが、私が娘と母と、そして夫が娘と息子をそれぞれ連れて、合計4回家族で楽しむことが出来ました。平日の夕方は塾と習い事で埋まっている息子ですが、昨日は国語の個別指導の先生にお願いして授業時間を前倒ししてもらい、夫に連れていってもらうことが出来ました。

 私は娘と二人、とても幸せな時間を過ごしました。娘は学校の課題や大学への出願手続きが続き、この1カ月間ほどストレスの多い日々を送っていました。連日夕方、泣いて電話がかかってきたこともあり心配しましたが、ようやくピークを越えたよう。昨日は課題の一つ、絵の仕上げに取り組んでいました。

 私はキッチンから娘を眺めながら、ひたすら料理をしました。ピクルスなど作り置きの食べ物や今日の夕食の仕込みなど。料理をしているととても幸せな気持ちになります。


 BGMは娘が私のために作ってくれたデジタル音楽配信アプリSpotifyのアルバムです。入っているのは次のような曲。これらの曲にうなずいてくれる人は、紛れもなく同年代です。笑。

 ★ユーミンの「中央フリーウエイ」★スガシカオの「夜空ノムコウ」★ワムの「ラストクリスマス」★アース・ウインド・アンド・ファイアーの「セプテンバー」★「私のお葬式にはこれをかけてね。かけてくれなかったら化けて出るよ」と夫と娘に言い伝えてあるビリー・ジョエルの「素顔のままで」★ビートルズの「ヘイ・ジュード」★大好きな映画「カサブランカ」の主題歌「As time goes by」など

 これらの大好きな曲を聴き、絵を描く娘とおしゃべりをしながら、料理を作る。至福のひとときでした。で、今晩のおかずは昨夜、幸せな気持ちで仕込んだローストポーク。庭で育てたローズマリーをたっぷり使いました。

 

2022年12月7日水曜日

息子のつぶやき

  中学受験目指して塾に通う小5の息子の成績が、じわじわと下がってきました。得意だった算数もついていけなくなり、「分からない」を繰り返します。どうしたものかと今春見事志望校に合格した男子のママさんに電話をしてみました。

「いつから、分からなくなったの?」

「それが、2週間前ぐらいからなの。それまで出来ていたのに、急に『分からない』って言い出して」

「分かる、分かる。小5の秋から急に難しくなるのよ。御三家(東大など難関大への合格者が多い中高一貫校・男子校は開成/麻布/武蔵)を狙う生徒が多い塾ではそっちが照準になるから」

「算数も国語もすごく難しいの。息子、すっかりやる気をなくしてしまって。この時期だと転塾も難しいし」

「思い切って転塾もありだと思うけど、大手はかなりスパートをかけてきているから、転塾したところでついていくのも大変かも。仕組みになれるのにも一定の時間がかかるし。個別の塾とかは?」

「国語は個別でつけているけど、成績はずっと低迷」

「男子に国語の個別の先生なんて、お金の無駄よ。男子は女子に比べて精神年齢低いんだから、国語の読解なんて、6年の夏にようやく追いつくぐらいよ」

「そうなんだね。あーあ、どうしようかなぁ?」

「なんで、インターにしないの?」

「ほら、インターは夏休みが3ヶ月近くあるでしょう。日本の学校みたいに部活がないから、スポーツ好きな男子は持て余すのよ。地元のサッカーチーム入ったり、トライアスロンのチーム入ったりしているみたいだけど、出来れば息子には中高一貫校でスポーツに力入れてほしいなと考えて」

「そうかぁ。インターは入れるんだったら、そっちのほうがいいと思うけど。うちの息子は英語で苦労しているから」

 こんな会話を延々と30分。いくつかアドバイスをもらって、電話を切りました。息子に転塾の話を持ち掛けてみました。

「ママ、もう面倒だよ。慣れるのに時間かかるし。それに、転塾したってどうせ一番下のクラスだよ」

 中学受験という熾烈な戦いの渦の中に、息子を放り込んでしまった私。それなりの考えはあったのですが、息子はすっかり自己肯定感の低い子になってしまいました。私はどうフォローしたら良いでしょうか。 

 とりあえずは、息子の横に座って、根気強く算数の問題を解かせています。社会など暗記ものは私が読んで問題を出すなどの工夫をしています。国語は漢字が覚えられないので、ひたすら練習をさせます。こんな感じで本当に間に合うのか検討もつきません。

 塾に行く10分ほど前になりました。息子はポツンとベッドに座っていました。

「もう、そろそろ行く時間だよ」

「ママ、一緒に寝っ転がろう」

「いいよ」

 2人でベッドにごろんと寝っ転がりました。あーあ、まだ小5の息子にこんなプレッシャーをかけてしまっているー。私は息子をぎゅっと抱き締めながら、反省と後悔の入り混じった気持ちになったのでした。

2022年12月6日火曜日

夫を大学に案内

  先日、夫を初めて大学に連れていきました。銀杏並木が見頃のキャンパス内を歩き、学生たちがひしめき合う食堂でランチ。学生時代を思い出しました。

 夫はシカゴ、私は札幌と秋にぐんと気温が下がり冬は雪が積もる街で育ちましたので、二人とも冬に向かう直前の紅葉に郷愁を覚えます。金色に輝く銀杏並木をバッグに2人で自撮りしました。画像をチェックすると、まぁ、お互いにずいぶん年を重ねたなぁと改めて思いました。


 写真を写した後は食堂へ。パスタなどカフェ風のメニューもありましたが、夫は「学生食堂っぽい食べ物がいい」と言います。

 プラスチック製のトレイを持って、若い学生たちの後ろに並びます。まずはメイン料理を注文。夫はアジフライ、私はトリ肉の塩コショウ焼きを注文しました。次にお味噌汁か豚汁を選べましたので、二人とも豚汁を頼みました。ご飯は私が一番小さいサイズの麦飯、目下ダイエット中の夫はご飯はなし。お会計は二人で880円でした。

 私は講義やゼミがあるときはここで食事をします。最初のころは学生食堂で食べるワクワク感がありましたが、学生たちが楽しそうに食事をしているのを見ながらひとり黙々と食事をしていると、大学院と言えども若いころに来るものだなぁと思うようになりました。講義でも、院生が「僕は28歳で…」と話すのを聞いて「この子の親は私と同じぐらいの年代なんだろうな」と思ったりします。

 食事の後は、夫を図書館に案内しました。まずは、総合図書館へ。初めて、この図書館に来たときは本当に感動したものです。入り口から3階まで続く階段は赤いカーペットが敷き詰められています。それぞれの階の閲覧室は天井が高く、机は重厚な木で作られており、歴史を感じさせます。その机に座り、資料や本を読んでいるだけで、若いころに戻ったような気持ちになります。次に私がよく利用する医学図書館にも連れていきました。

 そういえば、私も大学生のころは連日図書館が閉館する午前0時まで勉強をしていました。あのときは人生で一番勉強しました。今、思い出しましたが、キャンパス内は暗いので女子学生を車で寮まで送り届けてくれる仕組みがありましたっけ。帰宅後はルームメートにボーイフレンドの話を延々と聞かされたのも懐かしい思い出です。

 最後に構内にあるスターバックスに寄り、カフェラテを飲みました。夫との会話も弾んだ楽しいひとときでした。今度は、娘を連れてきたいなと思っています。 








2022年11月29日火曜日

娘が18歳に

  娘が18歳になりました。もう立派な成人です。数日前まで「もう子どもじゃなくなってしまうのは、寂しいな」と言っていた娘。私のほうも改めて、娘を育てるのは楽しかったなと振り返り、娘との暮らしがまだもう少し続いてくれることを願っています。

 誕生日の食事は娘のリクエストで、ラザニアとステーキにしました。ケーキは夫の手作りのチーズケーキと私の作るアップルパイ。娘はこれまで一度もレストランで食べたいと言ったことも、市販のケーキを食べたいと言ったこともありません。友達を招いてパーティをしたこともありましたが、いつもリクエストは「家族でお祝い」と、私と夫の手作りの料理と、「ママのアップルパイとダディのチーズケーキ」。その言葉に甘えて、私も夫も、毎年張り切って作ります。




  2680グラムと小さく生まれた娘は身長182㌢まで成長し、絵とバイオリンが得意な、何事にも真面目に取り組む、心の優しい子に育ちました。これまで、どれほど娘に癒されたことか。成長がゆっくりで小さいころは心配が多かったですが、今は心配がいらないほど、しっかりしてきました。お友達がいなくて悩んだ日々もありましたが、レイちゃんという親友が出来て、私たちも安心しています。今は大学受験でストレスの多い時期ですが、娘ならきっと希望の大学に合格できると信じています。

 娘と一緒に生まれるはずだった天国の息子。遺骨は私のベッドの横に置いてあります。その小さな骨壺を包む袋は色あせていて、18年経ったんだなぁと思います。あのときの刺すような悲しみは少しずつ薄まり、今は、「天国からお姉ちゃんを見守っていてね」と声をかけられるようになっています。

 娘が無事に生まれてきてくれたこと、良い子に育ってくれたことに、心から感謝。

2022年11月27日日曜日

ポップコーン&コットンキャンディ

  昨日のブログで、物事には両面があり、悪い出来事も後に良い事をもたらすこともあると書きました。今日は大学院の指導教員のアカデミック・ハラスメントに悩む中で、目を他に向けたことで得た良い出来事をもう一つお伝えします。

 半年以上も指導教員の対応に悩み続け、「このままでは鬱病になるか、体から壊れていくかもしれない」と危機感を覚えていました。こうした場合、普通は家庭での日々の暮らしやお友達との関係を見つめ直おすことと思います。

 我が家は普通のご家庭のように、それなりに毎日何かが起こりますが、基本的には家族が仲良く、子どもたちと私との関係も良好です。娘と息子の子育てを通じて知り合った”ママ友”たちにも仲良くしてもらっていますし、古くからの友人とも連絡を取っており、毎日幸せを感じながら、生活しています。

 私が指導教官との関係で悩んだ最も大きな点は、「あなたはこんなことも出来ない」「役に立たない」と言われ続け、研究の内容も方向性も、がんサバイバーとしての視点も全て否定され、時に嘲笑さえされたことでした。社会の一部である彼女に、私という人間を全面的に否定されたため、私は自分が無価値な人間だと思うようになっていました。夫からは「家族が君を必要としている」と慰められてはいましたが、私に必要だったのは、社会との関わりの中で「自分は受け入れられている。役に立っている」と感じることでした。

 今回、改めて目を向けてみたのが学校のPTA活動でした。子どもたちが小さかったころは積極的に参加していましたが、大学院に入ってからは、あまり手伝いが出来ていませんでした。ですので、今回娘の通うインターナショナルスクールのクリスマスイベントがありましたので、この手伝いに手を挙げてみました。

 まずは、お母さんたちの任意の集まり、月に一度の「コーヒー・モーニング」に参加。そこでクリスマスイベントで出店する各ブースの責任者を募っていることを知りました。娘の学校では春とクリスマスの時期に、大規模なバザーを開きます。日本、中国、アメリカ、韓国など各国のお母さんたちが中心となって、その国の料理を作って販売し、収益を学校や施設などに寄付するのです。

 販売するのは食べ物と各家庭から集めた不用品などで、子どもたち向けの遊びコーナーもあります。フードセクションでは、ジャパニーズブースは焼きそばや焼き鳥、チャイニーズブースではシュウマイや餃子などを販売。アメリカンブースはハンバーガー、ジャーマンブースではソーセージとプレッツェルとビール、コリアンブースではチジミを販売します。ワインやクレープを売るブースもあります。すべてお母さんたちが協力して、材料の仕入れから調理、販売まで行います。お父さんたちも手伝います。そこで私が手を挙げたのはポップコーンとコットンキャンディ(綿あめ)ブースでした。

 事前にPTAが保管している綿あめの機械で試作をし、一個を作るのに必要な時間とザラメの量を確認。青や赤、白いザラメ、箸などをアマゾンで購入。同じ学年のお母さんたちにボランティアを募りました。6,7年前に一緒にコットンキャンディブースを担当したお母さんが飾り付けを引き受けてくれました。また、他の学年のお父さんで綿あめの機械を持っているという人にPTAを通じて連絡を取り、機械を借りることにしました。コットンキャンディづくりの”プロ”であるそのお父さん・シゲさんとは価格や一回に使う量なども相談しました。

 11月18日のイベントの前日には、飾り付け担当のお母さんがブースを置くカフェテリアに行き準備をしてくれました。




  当日は夫も子どもたちも手伝いです。夫はポップコーンを作り、子どもたちは綿あめを作りました。シゲさんは「Cotton Candy」のイラストが付いたTシャツを作ってきてくれ、終日綿あめを作ってくれました。同じ学年のお母さんたちも手伝ってくれ、全てが順調でした。1個200円で販売したポップコーンと綿あめは長い行列が出来るほどの人気でした。

 後日、各ブースの売り上げが発表されました。フードセクションの中で一番販売額が多かったのはコリアンブースの27万円、次いでチャイニーズブースの22万円。この2つのブースは毎年、売り上げを競っているのです。私が担当したポップコーン&コットンキャンディブースは11のフードブースの中で7番目の9万3千円。経費を差し引いた利益は何とアメリカ、ドイツ、日本、ラテン、インドを抜いて、3番目の7万7千円でした!

 12月中旬、学校が冬休みに入ってから、皆で打ち上げをすることになりました。そのときにはコロナがどうなっているかは分かりませんが、学校も終わっていることですし、大丈夫と考えて企画しました。帰国する人を除いて、ボランティアの人は全員参加することになりました。楽しみです。

 このように、悪い出来事も気持ちを切り替えることで、良い出来事に出合うきっかけになります。最近は、あの指導教員に感謝の気持ちすら芽生えてきました。傷んだ心も徐々に回復しつつあります。

2022年11月25日金曜日

家庭科ボランティア

  昨日は暗い話を書いてしまいましたが、今日は一転、明るい話をお伝えします。物事は往々にして悪い面もあれば、良い面もあります。この春からの大学院の指導教員の対応で随分悩みましたが、良い点を挙げるとすると、自分の身の周りの幸せに気が付いたことでした。

 指導教員が良ければ、私は研究に没頭していたと思います。が、指導教員の対応が入学当初からハラスメントに近いものでしたので、そこでのストレスを少しでも軽くするために、自分の身の周りに目を向けてみました。そうすると、幸せは身近にたくさんあることに気が付いたのです。

 今日は小5の息子の学校で家庭科教室のボランティアをしてきました。ミシン縫いです。上糸と下糸を取り付け、直線縫い、返し縫いをする生徒たちの手助けをするのです。上糸のかけ方が間違っていたり、下糸が思うように上に出てこなかったり、途中で糸が絡まってしまって縫えなくなったり…。皆一生懸命で、本当に可愛い。

 我が息子は、あっという間に縫い終わりました。「結構、出来るじゃない」と感心しました。意外だったのは、運動神経が抜群に良い男子たちがリズミカルに縫っていたこと。運動神経の良さは、一つ一つの行程をテキパキとこなすことにつながるのだな、と気付きました。

 最も感動したのが、1年生のころから学校に来るのに苦労していた男子です。毎日のように泣いていて、お母さんは必死になって、学校に連れてきていました。大泣きしているその子を、なだめたり、叱ったりしながら、とにかく学校の玄関まで連れてきていた。そんなお母さんをいつも、「偉いなぁ」と思いながら、見ていました。

 その子が今日、それは上手にミシンを使って、丁寧に縫っていたのです。その様子を近くで見ながら、私もとても嬉しくなりました。お母さん、本当に頑張ったなぁ、とお母さんの姿を思い浮かべました。授業が終わったあと、先生に「M君、上手でしたね」と言うと、先生も「M君、家庭科がとても得意なんです」と嬉しそうでした。

 心が癒された1日でした。指導教員のハラスメントがなければ、こういう貴重な体験は出来なかったと思います。そう考えると、人生において一見悪く見える出来事は、実は良いことをもたらすこともあるのですね。

 

 

2022年11月24日木曜日

研究室に行くのをやめた

  11月2日から研究室に行っていません。指導教員に「役に立たない」という言葉を投げかけられ、年甲斐もなくトイレで泣きながら、もういいなと思ったからです。入学当初から否定され続け、私なりに頑張ってきましたが、これ以上は無理だと思いました。また、様々なことを正常に判断できる気力を失わないうちに、撤退すべきだと判断しました。

 以来、自宅や大学の図書館を拠点に、研究を続けています。大学院の講義は続け、他の教室のゼミにも参加しています。博士課程の学生は指導教員の指導の下、研究をすることになっています。ですので、私のような状態になった場合、休学・退学を選ばなければならないと考えます。指導教員のいる研究室にはもう行かないと決めましたが、今はあえて今後どうするかの決断をしないでいます。このような状態で正しい決断が出来るとは思えないからです。

 今私が置かれれている状況をどう判断すべきなのか。私の長い人生の中でこれはどういう意味があるのか。私はこの難しい課題にどういう答えを出せるのか? 

 友人たちに相談しました。私の闘病歴を知っている友人たちは皆、「このことで体調を崩してしまっては、元も子もなくなる」「あなたが役に立てる場はそこではない」と言ってくれました。「今が我慢のしどころ。この苦しみを乗り越えた先に…」という人は一人もいませんでした。皆、人生の尊さを身を持って知り、残りの人生のために今を犠牲にすべきではないと考える年代です。

 本にも解決策を求めました。解決には至らないけれども、今のところ一番しっくりいっている考えが、精神科医であり作家でもある帚木蓬生氏が自身の人生の軸となっているという「ネガティブ・ケイパビリティ」です。帚木氏によると、これは「答えの出ない事態に耐える力」という意味だそうです。私の言葉で説明してもきちんと説明できるか不安ですので、本からそのまま引用します。

「(患者さんの)身の上相談には、解決法を見つけようにも見つからない、手のつけどころのない悩みが多く含まれています。主治医の私としては、この宙ぶらりんの状態をそのまま保持し、間に合わせの解決で帳尻を合わせず、じっと耐え続けていくしかありません。耐えるとき、これこそがネガティブ・ケイパビリティだと、自分に言い聞かせます。すると耐える力が増すのです。ネガティブ・ケイパビリティを知っていなければ、私はとっくの昔に患者さんから逃げ出していたでしょう。どうにもならない問題なので、もう来てもらっても無駄ですと言って、追っ払っていたかもしれません」

 研究室に行くのをやめる前に、私なりに出来るだけのことはしました。まず、他の大学の博士課程の学生や博士号を持つ知り合いに相談しました。出身の大学院(博士課程とは別の大学院です)の教授にも相談しました。さらに、大学に設置されているハラスメント相談所に相談をしました。

 ハラスメント相談所を通じ、各教室を束ねる専攻長にも会いました。専攻長は親身になって話を聞いてくれ、「指導教員の変更は通常学術的な理由で行うのですが、今回はいろいろ事情があるようですので、変更を認めます。引き受け先の指導教員が見つかり、現在の指導教員と双方のサインがある書類が提出されれば、通します」と言ってくれました。

 指導教員にも、直接対峙しました。これまでの経緯のいくつかを説明し、「私に辞めてほしいと思っていますか?」と聞きました。彼女は「辞めようが辞めまいが、あなたの決断だ」と即答しました。力関係から見て圧倒的に弱い人間がやっとの思いで聞いた質問に対し、そう聞いた理由を問うことはしませんでした。観念し、「指導教員の変更を希望します」と伝えました。彼女は無表情で「分かりました」と答えました。

 私の研究の方向性に近い他の教室の教授に面談を申し込み、指導教員を引き受けてほしいーと願い出ました。ただ、悪口となるのは嫌でしたので、今の指導教員との関係性については触れませんでした。その教授からは「あなたは医学のバックグラウンドがないし、年なので、4年間かけても学位が取れない可能性が高い」と言われ、断られました。「面と向かってこういうことは言えないものなんだよ」と言っていましたので、正直な理由なのでしょう。

 専攻長には、希望していた教授には指導教員を引き受けてもらえなかった旨、メールで連絡しました。現在の指導教員にも口頭で伝えました。

 打てる手はすべて打ちました。逃げずに真っすぐ課題に挑んだつもりです。が、どれもこれもうまく行かない。暗中模索の中、先に一筋の光も見えない。そんな中、精神的にもギリギリの状態で下したのが研究室に行かないという決断でした。休学という手がありましたが、理由として付けなければならない書類の「経済的理由」「病気」「育児」「介護」「留学」いずれにも当てはまりませんでした。

 この一連の対応・決断をする過程でずいぶん考えました。これまでの職業経験、人間関係の経験、読書から得た知恵など、全てを動員して、考え抜きました。そして、考え抜いて決めた解決に向けての行動を一つ一つ慎重に行いましたが、すべてうまくいかない。今は、すべてがうまく行かないことに、人生の意味があるのではと受け止めています。

 私に実力があれば、このような結果にはならなかったと思っています。でも、言い訳をさせてもらえれば、まだまだ指導が必要だからこそ、授業料を支払い、学校に指導教員に教えを請いに行っているのです。いや、こういう言い訳を言うこと自体が私の未熟さを表しています。つまるところ、私に力がなかった ーその一言に尽きるのでしょう。

2022年11月20日日曜日

「ママが死んでいく夢を見た」

  金曜日の夜、息子と一緒に新幹線で軽井沢に来ました。娘が「秋休み」中のため、2日前から来ていた夫と娘が軽井沢駅に迎えに来てくれました。山荘へ向かう車中、娘から「昨日はずっと課題の絵を描いていたんだよ」などと、この2日間の出来事を聞きました。

 夜は私と娘が一緒に寝室のベッドで、夫と息子は畳の部屋に布団を敷いて寝ました。そして、昨日の朝、コーヒーを飲みながら寝室のライティングデスクで書き物をしていると、娘ががばっと起きました。「ママが死んでいく夢を見た」と言います。目からは涙が流れています。夢の中で泣いていたのでしょう。

 「あぁ、夢で良かった」とほっとした様子の娘。娘によると、私が死んでいく夢は次のような夢だったようです。

 家族4人で街を散歩していたら、私が美術館に行きたいという。「じゃあ、行こう!」ということになり、長い階段を上った所にある美術館に行く。美術館は天井が高くて、美しい建物だった。そこには館内の説明をしてくれる女性一人だけしかいない。絵画の説明をしてくれていたその女性が、急に、「2週間後にあなたのお母さんのお葬式がここで行われます」と言う。そう言われたとき、それまでそこにいた息子がいなくなり、娘と私と夫の3人になっている。2週間後に私が死ぬと言われて、娘は混乱する。私に、「ママ、死んでしまうの?」と聞くと、私はにこにこして「皆、いつかは死ぬんだよ」と娘を慰める。娘は私が死んでいくことが悲しくて、泣き続けるー

 娘はさめざめと泣いているところで、目が覚めたと言います。

 先日、夫のお葬式に出ている夢を見たときと同様、私は、携帯電話で「母親が死んでいく夢」と検索してみました。夢診断を読むと、「それはお母さんに大きな転換があるという意味」と書いてあります。

 それを娘に伝えると、「ママ、50代なんだから、これ以上の転換はいらないよね。これまで人生、何回も大転換してきたし」と言います。「そうだよね」と二人で大笑い。娘にとっては切ない夢でしたが、何となく、いいことが起きそうな予感。

2022年11月16日水曜日

最後の運動会

  先日、インターナショナルスクールに通う娘の運動会がありました。娘は、バドミントンに出場。コロナ禍の数年間は親の観戦は認められませんでしたが、高校最後の運動会となる今回は、観ることができました。

 感染防止のためイベントがことごとく中止となり、保護者会もズームになってから、すっかり無沙汰となっていた学校。今回、久しぶりに学校に行き、子どもたちの成長ぶりに仰天しました。男子はぐんと背が伸び、大人びてきました。女子はお化粧もばっちりで、大学生のよう。あっという間に子どもは成長するのですね。

 吹奏楽部の生徒たちがサンバのリズムを奏でながら体育館やグラウンドを巡って”選手”たちを応援し、お母さんたちがポップコーンやケーキ、飲み物を販売。それらを頬張りながら観戦するのが、インターの面白いところです。

 体育館に行くと、娘はキョウ君とダブルスを組んでました。182㌢という高身長を生かして、娘は高く跳ね上がる羽を上からバシっ、バシっと打ち点を決めていきます。娘が追い付かないところは、縦横無尽に動くキョウ君が拾ってくれます。すごい運動神経です。この日来ていなかったママにラインで早速動画を送りました。ママから早速「今日、親も行って良かったの? 行けば良かった! 涙」との返信が。

 そうか、「観戦禁止」のメールが学校から来ていなかったので、観に行って良いと判断して来ました。他学年の親は見かけましたが、12年生の親は1人しか見かけませんでした。12年生になれば親は来ないのねと思っていましたが、観戦できないと思ってしまった親もいたのですね。

 さて、バドミントンの後は、ドッジボールです。これも男女混合ですが男子が前面に出ていきます。アイルランド人パパと日本人ママのハーフのカイ君、ウエーブのかかった髪が素敵だわっ。高身長のケイ君、いつ見ても清潔感たっぷりの好青年。ロシア人ママと日本人パパのハーフ・カミル君、相変わらずのイケメン! アメリカ人パパと韓国人ママのハーフ・オリバー君、ちょっとはにかんだ笑顔が可愛い! ヨシト君、背は高くなったのにお顔が小学生のときのまま、癒されるわぁ。男子たちの成長ぶりを見ると、胸がキュンとしてしまいます。

 思い出されるのは、娘が地元小学校からインターに転校した年の運動会。今回のブログを書くに当たり、読み返してみました。http://ar50-mom.blogspot.com/2015/12/blog-post_38.html インターの”緩さ”に戸惑っている自分が、面白い。それにあのときは私も200㍍を”走った”のです。今は絶対に出来ませ~ん。

 こうして、娘の最後の運動会は終わりました。心が和む1日でした。

2022年11月6日日曜日

母娘 トイレで泣く

 「ママ~。やってもやっても追いつかないの」ー。先週、学校帰りの娘からこんな電話が連日かかってきました。毎回、泣きながらの訴え。インターナショナルスクール12年生(日本の高校3年生)の娘は現在、学校の課題や大学への出願書類の準備に追われているのです。

 「どんなに頑張って課題を出しても、出来て当たり前で褒められることもない。逆に出来なかったら、叱られる。もう、辛くて辛くて」と娘。

 娘は、国際バカロレアという世界共通の大学入学資格を得るためのプログラムで学んでいます。各教科の課題はそれは大変で、娘は連日深夜まで取り組んでいます。それに加えて今は、大学出願の書類を準備しており、てんやわんやの忙しさ。ストレスで娘の顔にはニキビが噴き出ています。

 私が出来るのは毎朝、お弁当を心を込めて作ることと、娘が話したいときはどんなときでも聞いてあげること、そして毎日ハグをすることだけです。

 先週水曜日の電話は、「5000字書くはずのエッセイを1000字しか書けず、先生にがっちり怒られたの」というもの。叱られた後、トイレに駆け込んで泣いたといいます。ちょうど、私もその日、指導教員にひどい言葉を投げかけられ、耐え切れずにトイレで泣いたので、娘の気持ちが良く分かりました。

「それは辛かったね。でも、頑張ったじゃない」

「今の段階ではみんな1000字ぐらいしか書いていないのに、なんで私だけ叱られるの?先生にも理由があったんだと思うけど、辛くて職員室から真っすぐトイレに行って泣いたんだよ」

「頑張っていたから、叱られるのは辛いよね。実はママも今日指導教員にひどい言葉を言われて、トイレで泣いたんだよ」

「ええっ、ママも。ねぇねぇ、ママ何て言われたの?」

「会議に参加しようと皆が座るテーブルの後ろのほうに遠慮して座ったんだけど、『役に立たないから、参加しなくてもいい』って言われたの。人格を否定する言葉で、耐え切れなくて、トイレに行って泣いたの」

「えぇ、ママ、可哀想。ねぇ、ママ何時ごろ泣いたの?」

「11時半ぐらいかな」

「私は10時半ごろ。同じ時間だったら、面白かったね」

「あははっ、そうだね」

同じ日の午前中という偶然に、二人で大笑いしました。

 翌日の11月3日は、娘の学校の運動会でした。高校最後の運動会、娘はバトミントンに出場すると言います。

「明日のお弁当何がいい?」

「そうだね、試合に勝つように、カツ丼がいい」

「了解! 美味しいカツ丼作るからね」

「うん!」

 初めは暗い声で話していた娘も、カツ丼の話ですっかり明るくなりました。2022年11月2日は、母娘それぞれがトイレで泣き、お互いに慰め合った日となったのでした。


 


2022年10月31日月曜日

2022 ハロウイーン

  今年のハロウイーンも子どもたちはパンプキンカービングをしました。大きなパンプキンは高3の娘のデザイン、小さなパンプキンは小5の息子のデザインです。私が作ったのは、これも毎年恒例のパンプキンパイ。




2022年10月30日日曜日

英検1級落ちた

  今日、英検1級の筆記試験の結果が届きました。息子も私も見事落ちました。2550点満点で、息子は1855点、私は1914点。合格基準点は2028点ですので、まだまだです。ただ、2人とも「一次試験合格まであと一歩です」というコメントがついていましたので、まずまずとしましょう。

 Readingのスコアは息子が私を上回っていました。Listeningは同点、Writingは私が少し上でした。それにしても、息子の英語力はなかなかなです。知らない間に力を付けていたのですね。

 最近は塾の勉強に身が入らず、悪い点を取っても「どうでもよい」という態度です。本当は日本の私立中高一貫校で沢山の友人を作り、部活動も楽しんでほしいと願っていましたが、難しいかもしれません。夏休みが3ヶ月近くあるインターナショナルスクールは運動好きな息子には合わないと思っていたのですが、ハーフですので、インターのほうがいいのかなと迷います。

 小学校5年生の子どもに、国・算・理・社・英語の5教科の勉強を日々させるのは、無理があるよなぁと考える日々です。

 

2022年10月26日水曜日

赤カブ

  マイヤー家では数カ月前から、毎週土曜日に焼肉を食べに行きます。健康上の理由で私が牛肉を食べなかった時期が長く、子どもたちを一度も焼肉屋さんに連れて行っていなかったのですが、娘にせがまれ初めて連れて行ってから我が家恒例の外食になりました。

 毎週のことですので、外食費もカロリーも過多になるため、1回につき5千円までと決めました。それぞれが飲み物を1つと、お肉と野菜、ご飯をバランスよく注文します。そして腹八分目ぐらいで食べ終えます。

 店を出て、斜め向かいにあるスーパーに寄るのも恒例。ここはいつも購入する駅近のスーパーより割安なので、普段は買えない食材も買えます。

 先日見つけたのは、赤かぶです。新鮮な赤かぶがなんと150円。夫が目を輝かせて、「これ、赤かぶだよね。珍しいね。3つぐらい買う? お母さんに明日、作り方教えてもらおうかな」と言います。こういう素直なところが夫の良いところだよなぁと思います。

 母が札幌の実家で長年作り、お正月用に我が家に送ってくれていた赤かぶの甘酢漬け。肩の痛みがひどくなり「もう、作れない」宣言をしたのは、5、6年前でしょうか。あれから、母が東京に引っ越しし、もう赤かぶのこともすっかり忘れていました。が、時折夫が「お母さんの赤かぶ食べたいなぁ」とつぶやいていました。

 今年秋になって、スーパーで赤いダイコンを見るたびに「あれ、赤かぶ?」と聞いてきましたので、よほど食べたかったのでしょう。

 さて、3つ買った赤かぶ。母が我が家に来て、作り方を教えてくれました。息子も手伝ってくれました。どうせ漬けるなら、ともう3個買い足しました。

 「想像していたより、塩を使うんだね」と夫。母が、「重石がもう少し重かったらいいのにねぇ」と言います。母が使っていた重石は、夫が札幌の実家に行ったときに持ち帰り、軽井沢の家に置いてありますので、それを今度取りに行くことにしました。

 赤かぶを漬け終わった後は5人でランチ。夫がつくねを作ってくれ、私がしゃぶしゃぶ担当。野菜と豚肉をゆでた残りのスープを使った雑炊も作りました。夫がこだわった「赤かぶ」が思いがけず、楽しい一日をつくってくれました。

2022年10月23日日曜日

母を招いて

  私は昔から「未来志向」の人間で、将来充実した人生を送るために今頑張るーときに今を我慢をする傾向にあります。子どもを持ってからは「今が一番幸せ」と意識して子どもとの時間を楽しむようにしていますが、意識をしないと「今」を犠牲にしてしまうことがあります。

 若いころはそういう頑張りも時に必要でしょうが、今、そんなことをしていたら人生が終わってしまいます。で、「今を楽しむこと」を意識しています。

 先週木曜日はとても充実した日を送れました。まず、朝は息子の学校で絵本の読み聞かせをしました。私は小学校のママさんサークルに入っており、毎月1回、子どもたちに読み聞かせをしています。

 この日は私の希望で息子のクラスでした。読んだのは車いすの宇宙物理学者の前向きな生き方を描いた絵本「スティーブン・ホーキング」(ほるぶ出版)と「おじいちゃんとパン」(パイインターナショナル)。おじいちゃんとパンは、マシュマロやラムレーズン、あんなど美味しそうなトッピングをしたパンを一緒に食べるおじいちゃんと孫の心温まるお話です。

絵本の読み聞かせで選んだ本

 同じ5年生で、自分の息子のクラスで読み聞かせをしたママさんがいました。が、「読む前に息子がトイレに隠れちゃったの!」と苦笑していました。きっと照れもあるのですね。我が息子は照れることも、逃げ出すこともなく、黙って私の読み聞かせを聞いていました。

 その後息子を連れて、耳鼻咽喉科へ。前夜からのどが痛いと言い、朝食を食べなかったのです。で、読み聞かせを終えた後に連れていくことにしました。

 薬を処方してもらい、コンビニエンスストアのイートインでおにぎり(急に食欲がわいたらしい)を食べさせ、薬を飲ませて再び学校へ連れていきました。その後、私は研究室へ。

 夜は母を招いて、夕食。夫は名古屋に出張、息子は塾でした。娘はこの日、夫の出張に合わせて名古屋に行って大学を見学し、日帰りで帰ってきたのです。

 夕食は昨日作ったチャーシュー入りのラーメン、サーモンのローズマリー風味とカボチャの煮つけ。母が「今年初物だよ!」と言い、シャインマスカットをお土産に持ってきてくれました。

母を招いた夕食はサーモンとラーメン、カボチャの煮もの

 夕食を準備している間、母は嬉しそうに娘の大学見学の話を聞いていました。チャーシューも思いのほか美味しくできていて、二人から褒められました。ラーメンは2食分を3人で分けましたし、カボチャの煮ものも母が来る直前に作ったもの。完璧でなくても、こうして楽しく食事が出来ることが幸せなんだーと思えました。

 博士号取得という分不相応な目標のため、日々を犠牲にしてはならないー。改めてそう思う日々なのです。

 

 

2022年10月18日火曜日

父の名刺入れ

  時折、札幌の実家のことを考えます。母と一緒に不動産会社に売却の手続きをしに行ったのは8月末。その後すぐ取り壊すということでしたので、もう、実家があった場所は更地になっているでしょう。実家がなくなってしまうのは、こんなに寂しいものなんだと初めて気付きました。

 雛人形や、子どもたちが小さいころに遊んだおもちゃ、結婚したときに母が夫のために買ってくれた布団、飾り物、父のアルバム…出来るだけこちらに持ってきましたが、もちろん全てを持ち帰るわけにもいかず、かなりのものを残してきました。

 その中にあったのが、小さな鍋でした。母がそれでよく鍋焼きうどんを作ってくれた思い出があります。でも、我が家のキッチンにはスペースがなく、持ち帰ることが出来ませんでした。一旦はそうして決めたはずなのに、その鍋のことを最近、頻繁に思い出します。持ってくればよかったなと後悔しています。私は思い出の物への思いが強過ぎて、こうして自分自身を持て余すことがあります。

 実家には父のものがほとんど残っていませんでしたが、幸運なことに父の机の引き出しに未使用の名刺入れを発見し、それは持ち帰ることが出来ました。紺色の皮製で、裏側に「創立10周年記念 開萌会」と名入れが施されています。おそらく、建設会社に勤務していた父が北海道の留萌市に単身赴任し仕事をしていたときの、業者さんたちの集まりか何かの記念品ではないかと想像しています。

 今、それをバッグの中に入れて持ち歩いています。母は近くに住んで元気にしていますし、こうして父の物をいつも持ち歩いていることで、心が落ち着きます。そんな風にして、実家がなくなった寂しさに折り合いをつけています。

2022年10月15日土曜日

秋の軽井沢

  3ヶ月ぶりに軽井沢に来ています。年々土日に子どもたちの用事が増えていることに加え、今年の夏休みは息子の塾や娘のサマースクールがあり家族旅行もしたため、なかかな軽井沢に来ることが出来ませんでした。

 金曜日の夜、息子の英会話学校が終わった後軽く夕食を取って午後8時半に東京を出発。11時ごろ付きました。久しぶりの家はやはり湿気がこもっていて、カビ臭くかったですが、窓を開けて空気を入れ替え、除湿機をつけて、落ち着きました。

 今日は大型スーパー「ツルヤ」で食料品を買い、ランチは子どもたちが焼き肉、私たちはお寿司とサンマでした。



 子どもたちはそれぞれに勉強が大変ですが、やはり、軽井沢に来るとリラックスするよう。息子はハンモックに揺られて、のんびり読書。



2022年10月13日木曜日

息子と一緒に英検受験

  日曜日、息子と一緒に英検1級を受験しました。これまでは子どもたちが受験するときは毎回受験会場や時間が違い、夫と私と分担して連れて行きましたが、今回は私と息子の受験会場も時間も一緒でしたので、ラッキーでした。


  子どもたちが英検を受験し始めたのは去年。インターナショナルスクールに通う娘が高2、息子が小4でした。力試しにまずは娘が準1級、息子が4級を受けました。

 娘は英語が母語ですので、大学中学レベルと言われる準1級は楽に合格できたようです。続いて受けた1級も合格。ただし、「1級は語彙が難しかった」とのことでした。

 息子が最初に受験した4級は中学校中級レベルだそうですが、なんと「満点合格」。「人生で様々な試験を受けるけど、満点なんてめったにない」と家族で喜びました。次に受けて合格した3級も簡単なようでしたので、2級を飛ばして準1級を受けたところ合格。

 事前に勉強はしていなかったので、息子は日本の小学校に通っていますがなかなかの英語力があるということが分かったのでした。おそらく、日常的に父親と姉と英語で話しているので、自然と英語力が身に着いているのでしょう。小学校1年生のときから週1回継続して通う英語学校も助けになっているのかもしれません。

 子どもが何か習い事をするときに、親も一緒にすると楽しいと聞いたことがあります。で、私も昨年、準1級を受けてみました。英検はこれまで受験したことがありませんでしたので少し緊張しましたが、会場には中年の方がたくさんいて、ほっとしました。合格証が届いたときも、子どもと一緒に喜びました。

 さて、先日の1級です。試験会場には息子ぐらいの年齢の子どもがたくさんいました。子どもたちには皆親御さんが付き添っていました。私は自分自身が受験しましたので、付き添うことができず、自分の教室へ。

 試験前にQRコードを携帯電話で読み込み、新型コロナに関する健康チェックを行うということが分かり、3階にある自分の教室と1階の息子の教室を行ったり来たりしました。試験の前に解答用紙に必要事項を書く場面があり、親が書いてあげられるようでしたが、試験開始時刻が迫っていましたのでしてあげられませんでした。

 面接の二次試験の受験地を選ぶところがあり、息子はどこを選んだのだろう?と心配になり「私が受験しなければ、手伝ってあげられたのになぁ」とちょっと後悔しました。でも、息子はおそらく、こういうことも慌てることなく、”適当”にこなしたでしょう。

 実際の試験は、娘から「1級は準1級と全然違うよ」と聞いていた通り、難しかった。最初の語彙力を試す問題は、25問中、1問も分かりませんでした。見たことがない単語だらけでした。選択式だったことが救いで、4択のうちどれかを選んでいますので、正解はいくつかあるでしょう。それでも、合格を目指すためにはかなりの勉強が必要だということが分かりました。

 息子も「難しかった。単語のほうは勘でこれかな?と思うものがあったけど、エッセーは無理。半分しか書けなかった。リスニングは出来たよ」とのこと。そうか、息子には勘が働くんだーという新たな発見。

 息子が英検を受けるのは、再来年に控えた中学校受験で、ある学校を受験するためです。中学校受験では、受験科目を「英語・国語・算数」の3教科とする「帰国子女枠」を持つ学校があるのですが、ほとんどが「海外に住んでいた経験があること」が条件。息子は米国国籍を持ち、英語も話せますが、日本生まれの日本育ちですので、この枠は使えません。

 帰国子女枠で受験する子どもたちは早々に「英・国・算」だけに集中し、「理科」「社会」の勉強をしない決断をします。また、帰国子女枠を使わない決断をした帰国子女は英語を捨てて、「国・算・理・社」の4教科に集中します。首都圏のトップクラスの私立中学校はこの帰国子女枠をそもそも設けていないところが多いためです。

 息子は帰国子女枠を使えませんので、他の日本人と一緒に4教科を受験。さらに、ハーフということもあり、英語を捨てることも出来ません。塾の先生からは「5教科は無理です。虻蜂取らずになります」と注意はされていますが、英語を捨てるなどという難しい決断は出来るものではありません。

 ですので、今のところ「英語枠」として「海外に居住していたか、英検準1級レベルの英語力を持つこと」という条件を持つ1校を狙いつつ(来年の12月受験)、再来年2月に4教科でいくつかの学校を受験するという方向です。どれも駄目だったら、地元の公立校です。

 娘はアートと音楽の才能がありましたのでその方面の教育に強いインターナショナルスクールに入れましたが、スポーツが得意な息子には日本の中高校で思う存分部活動をしてほしいーと願い中学校受験に向け勉強をさせています。

 これに加えて英語も勉強させるという負担を強いていますが、息子はブーブーと文句を言いつつも、どれも辞めたいと言わないので、続けさせています。英検1級が合格できれば、中学校受験の合格も可能性があると思いたい。英検1級の筆記試験の結果は11月に出ます。 

2022年10月9日日曜日

てるてる坊主

  昨日、地元の公立小学校に通う息子の運動会がありました。新型コロナ感染防止のため各学年分かれて行い、徒競走と表現のみでしたが、とても楽しかった。

 表現のダンスを毎日家で練習していた息子。前日の金曜日はてるてる坊主を作りました。娘も一緒に作ってくれました。

 願いが叶って昨日は晴れてくれました。徒競走を走る順番は今回、息子は初めて最後から2番目でした。これまで毎年学年で一番早い5人が走る一番最後だったのですが、今回は一つ前の順番になってしまいました。でも、80㍍を5人中一番で駆け抜けてくれました。

 息子が小学校1、2年生のときはお弁当を持って、娘も母も参観でき家族全員で楽しめました。でも、今回は家族2人のみ。娘は「見たかったのに~!」と残念がっていましたし、夫も「前は良かったよなぁ。僕が朝早く起きて場所取りをして、君とお母さんがお弁当を作って…」とかつての運動会を懐かしがっていました。

 もうあのような賑やかな日は戻らないかもと思いつつ、来年の小学校最後の運動会を期待したいと思います。

 

アニー・エルノーさんノーベル文学賞受賞

  2022年のノーベル文学賞が、フランスの作家アニー・エルノーさんに授与されることが決まりました。自伝的小説が多くのファンに愛され、そして文学界でも評価されてきた作家です。報道によると、今回の授賞理由は「個人的な記憶のルーツや疎外感、集団的抑圧を明らかにする勇気と鋭さ」だそうです。


 私は新聞記者時代、エルノーさんを取材したことがあります。物置からスクラップブックを取り出し久しぶりにめくって、当時のことを思い出しました。


 インタビューしたのは、2004年5月。早川書房から「嫉妬」の翻訳が出版されたときでした。エルノーさんは知的で美しく、そして、とてもチャーミングな方でした。インタビューでエルノーさんは自らの体験をつづることについて、こう語っています。

「書くことによって、自分に起こったことは何なのかを理解したいのです。書くことにより浮かび上がってくる固有の体験を一般的なものにしていきたい。私がつづったテクストは、一つの証言であると考えています」

 今回のエルノーさんのノーベル文学賞受賞で、エルノーさんが自身の文章について「テキスト」という表現を使っていたことを思い出しました。「嫉妬」という作品では、別れた恋人に新しく付き合っている女性がいると知り、妄執に取りつかれていく様子を描いています。胸がえぐれるような自身の体験をテキストに落とし込んでいったエルノーさんの作家としての力量に改めて敬意を表したいと思いました。

 私はふと自分の研究テーマについて考えました。私の研究テーマは自分のがん闘病体験から気付いた疑問が端緒になっています。自分の体験による気付きを研究テーマにすることは、客観性という観点で、私のような医学のバックグラウンドがない人間には難しいと指摘を受けています。

 エルノーさんは雲の上の人ですが、自分の体験を文学作品に昇華させたエルノーさんを見習い、エルノーさんを目標に、私も頑張らなければと思いました。

2022年10月5日水曜日

前歯が欠けた!

  朝、起きてバスルームに行き、鏡を見て仰天。なんと、上の前歯が欠けていました。前夜、マウスピースをするのをうっかり忘れていたのです。

 数年前から夜間、マウスピースを付けて寝ています。奥歯の詰め物がすぐ欠けたりするため、歯医者さんに「夜間、歯ぎしりをするのでしょう」と言われて作ったのです。

 それから夜間はつけるようにしてますが、忘れることもしばしば。1年ほど前には忘れた翌朝に下の前歯が欠けてしまい反省したのですが、今回またこんなことに。

 欠けたといっても大きく欠けたわけではなく、数ミリなので、まあ、笑ったときに自分が気にするぐらいで、他人は言わなければ気付かないと思います(と思いたい)。

 あーあ、歯欠けオバサンになってしまったと嘆きたい気分。皆さんも歯を大事になさってくださいね。

2022年10月4日火曜日

夫のリクエスト

 「豚汁作ってくれないかな? 冷蔵庫の中にゴボウが入っていたから、久しぶりに食べたいなと思って」

  昨日の朝、夫からリクエストがありました。

「いいよ~。人参とジャガイモ、タマネギ、豚肉もあるし、この前買った有機大根の残りもちょうど使おうと思っていたところ。いいアイディアだね。リクエストありがとう。帰りにレンコンを買ってくるね」

 私はその後研究室へ。在宅勤務の夫から夕方ショートメールがありました。

「レンコンもトニックウオーター(ジントニック用)も買ったから、帰り買い物に行く必要ないよ」

 帰宅後さっそく、豚汁を作りました。子どもたちには餃子と焼きそばです。娘は豚汁を食べないし、夫は焼きそばを食べないなど好みがありますが、家族のために料理するときが一番幸せを感じます。

 平日の夕方は、娘の塾と弓道教室、息子の塾、かけっこ教室、ヴァイオリン、水泳など習い事がたくさんありますので、なかなか夕食がそろいません。昨日は息子のかけっこ教室がお休みだったため、久しぶりに平日4人一緒にゆっくり夕食をとって、満足。




2022年10月3日月曜日

体操着

  今週末の運動会に向け、小5の息子の体操着を買いました。前回買ったのは昨年の運動会の直前。そのときはサイズ140㌢でしたが、今回はサイズ160㌢。1年でこんなに大きくなってびっくりしました。


 ピッタリサイズを買おうと150㌢を見せてもらいましたが、お店の人に「それは小さいです」と言われてしまい、しぶしぶ160㌢を購入。娘のときもそうでしたが、子どもがぐんぐん大きくなるのは複雑な気持ちがするのです。

 週末に中学校の文化祭に一緒に行った、息子の親友R君は声変わりをして、声がぐんと低くなっています。息子はまだ子どもの声のままですが、時間の問題でしょう。

 おぎゃあおぎゃあと泣いていた息子。よちよち歩きの息子。自転車の後ろのシートに乗って「ママ、ジェットコースターみたいだね」と喜んでいた息子。黄色い帽子を被って元気良く登校した小学校1年の息子。音楽会で太鼓を弾いた息子。運動会でリレーを走った息子…。

 このままでいてほしいー。息子が赤ちゃんのころから、いつもそう思ってきました。でも、私の背を越す日も近い。子どもの成長は嬉しい反面、ちょっと寂しいのです。

 


2022年10月2日日曜日

文化祭

 再来年の2月に中学受験をする息子の学校選びのため、昨日は都内の学校の文化祭に行ってきました。 幼稚園時代からの仲良しのR君とママと一緒でした。

 学校説明会や文化祭・運動会などの公開行事は、学校を知る良い機会。 ですが、首都圏内の学校の行事参加を巡るママ・パパたちの”競争”は大変厳しく、申込開始時間にサイトにアクセスしても、すぐ満席となってしまうのが実情。 なかなかチャンスが巡ってこないのですが、今回は、R君ママに連絡をもらって、申込に成功しました。

 我が家の最寄り駅から電車を乗り継いで30分ほどで行かれるこの学校は、英語を強化したい子ども対象のインターナショナルコースもある共学校。 R君のママによると、同時期にあった説明会の申し込みは、申込開始日の開始時刻午前10時の1分前からサイトにアクセスし、10時になった瞬間から手続きをしたそうですが、すぐ満席となってしまい敗退したそう。 私はすっかり申込時間を失念し、夕方にアクセスしましたが、もちろん、一席も残っていませんでした。 

 参加枠が3000人(! )ある文化祭の申し込みも、手帳に書いていたのにすっかり忘れていました。 が、R君ママからラインに「申し込み出来たよ!」と連絡が入り、慌ててアクセスして申し込むことが出来たのです。 

  行事の参加は午前と午後に分かれていて、私たちは午後の部。 夫も「学校内を見てみたい」と言い、一緒に向かいました。 プリントアウトしてきた「受付表」を提示し、体温を測り手指消毒をして校内に入ると、賑やかに装飾されていました。 各教室では生徒たちがとても生き生きと活動していました。 生徒たちは素朴な感じで、とても好印象でした。

 子どもたちが行ったのは、「お化け屋敷」「脱出ゲーム」「カジノ」など小学生も楽しめる催し。 「脱出ゲーム」では、3つのゲーム全て勝った子は何と「合格祈願鉛筆」がもらえました。 これは一本一本生徒たちが書いたそうで、「何と素敵な心遣い」と感動しました。



ゲームで勝ってもらった合格祈願鉛筆

 R君ママとは自分たちが高校生だったころの文化祭の話で盛り上がりました。 R君ママは私より17歳下。 文化祭では男子が女子の服装を、女子が男子の服装をしてカフェを開いたことを楽しそうに話してくれました。

 札幌の高校に通っていた私の文化祭の思い出は、各クラスで作り出来を競い合った行燈です。 手作りの大きな行燈を皆で持ち上げ、練り歩いたことをとても懐かしく思い出しました。 友達が実家に泊まって、衣装を縫ったこともありました。 文化祭は今も昔も、楽しいものなのです。 

 夫は「混み過ぎているから、先に帰るよ」と早々と退散しましたので、制限時間の2時間半を十分楽しんだ後、4人で学校の最寄りのカフェでランチをしました。 R君ママと「一緒にこの学校に来て、保護者会の後にこうしておしゃれなカフェでランチもいいね」と盛り上がりました。

 有難いことに、私はこうして素敵なママ友たちと親しくしてもらっています。 透き通るような肌の持ち主のR君ママに、愛用の化粧品のことを教えてもらいました。 以前、教えてもらったときはすっかり名前を忘れてしまいましたので、今回はしっかりメモしました。

2022年10月1日土曜日

金曜日の楽しみ

  毎週金曜日に大学院のゼミがあります。私の発表は2週間に1度。持ち時間の1時間のうち30分は発表、そして残りの30分は、博士号を持つ研究者たちに様々な指摘を受けます。とても勉強になりますが、皆さんの意見をひと言でいうと「あなたは駄目」ですから、気持ちはかなりダウンします。

 昨日は私の発表の日ではなく、研究者らが学会で発表するプレゼンテーションの予演会でした。3人が発表し、私の指導教員も立派な発表をしました。

 彼女のテーマは、がん患者への情報提供について、いかに医療者が患者や家族に分かりやすく伝えるかーという内容でした。医療のバックグラウンドのある研究者らが、患者はどう受け止めるかーということについて意見を言います。指導教員は参加者の一人一人を名指しして、意見を聞きます。そして、最後まで私を無視しました。

 私はがん患者として長い闘病経験があります。彼女はそれを知っています。ひと言「あなたはどう思う?」と聞いてくれたらな、と思います。が、「あなたの意見など聞くに値しない」ということなのでしょう。私に能力がないと彼女が判断しているということがあるでしょう。一方で、「患者がのこのこ、医療・研究の現場に来るな」というメッセージかな、とも思います。

 こういう”無視”や理不尽な対応が半年続いていますので、もう限界だなと思います。でも、ここで辞めると困難なことから逃げるようで、将来困難を乗り越えなかったこと・闘わなかったことを後悔し、自己嫌悪に陥るだろうとも考えます。

 私はこういうやっかいな自分の性格を良く知っています。夫もそこのところを十分承知していますので、「決断するのは君だ。僕は責任を持てない」と言います。で、まだ、決断をし切れないでいます。将来、苦しみから逃げたと自己嫌悪に陥るであろう自分を納得させられないのです。今の私の苦しみは研究の苦しみではないことが、さらに残念でもあります。

 このように昨日も辛かったですが、実は金曜日は私にとってとても楽しみな日でもあります。息子を英語教室に迎えに行く日なのです。だから、ネガティブな気持ちを研究室に置いていくよう気持ちを切り替えます。研究室を出るときにこらえていた涙が出てきそうになりましたが、息子の笑顔を思い浮かべました。

 40分ほど電車に揺られ、息子の教室の駅に着きました。息子には朝、「ママいつものところで待っているからね」と伝えてあります。息子の教室の斜め迎えにカフェがあり、そこでグラスワインを飲みながら、息子を待つのが楽しみなのです。

 昨夜はなんと私が大好きなスパークリングワインがメニューに加わっていました。「ラッキー」と思いながら頼んでみると、店員さんが200mlのミニボトルを氷入りのワインクーラーに入れて持ってきてくれました。息子の大好物の「オニオンリング」も注文しました。スパークリングワインとオニオンリング合わせて950円です。価格もとても嬉しいのです。


 幸せな気分になり、息子を待ちました。ほどなく息子が「よっ!」と言い、店に入ってきました。息子をぎゅっと抱き締めました。私の幸せはここにあるとしみじみと感じました。そして、しばし、辛い出来事を忘れることが出来ました。



2022年9月30日金曜日

21回目の結婚記念日

  昨日は21回目の結婚記念日でした。夫と隣駅で待ち合わせをし、私の行きつけの和食屋さんに行きました。

 実はこの店、札幌の友人やママ友たちと会うときによく来るのですが、夫を連れて来るのは初めて。子どもたちがいると外食は焼肉やイタリアン、ラーメンなどになりますので、和食屋さんにはなかなか来られないのです。「君がよく、この店の話をするので来てみたかったんだ」と夫。

 野菜のわっぱ蒸しやサンマの塩焼き、カニとイクラの土鍋ご飯、豚串など、お料理がとても美味しく、キリリと冷えた日本酒も進みます。


 話題は夫のアメリカ出張の話でした。まずはサンフランシスコの親友の家に泊まらせてもらったときの話です。

「ジャックは今ほとんど在宅で働いているらしい。自宅の書斎も広くて快適そうだった。羨ましかったよ。東京の家であんなに大きな書斎を持つことは出来ないよなぁ」と夫。

 ジャックには娘さんが2人いて、両方ともに大学を卒業し独立しています。持ち家を貸し出して、借家で再婚した奥さんと2人で暮らしています。その家に私もお邪魔したことがあるのですが、高台にある、それは美しい家なのです。

 夫いわく、「今は円安だからさらに高く感じるけど、家賃は日本円で45万円ぐらいらしい。2人はほとんど外食で、車もそれぞれ持っているから、稼いだお金はほぼ生活費に消えていくみたいだ」。アメリカは今、インフレが進み物価も高く、家賃も値上がりしているそうです。

 ジャックは私と同じく、がんと自己免疫疾患を患ってきました。「ジャックのいいところは、どんな境遇になっても楽観的で明るいところなんだ」と夫。その話を聞きながら、ジャックの笑顔を思い出しました。私もいろいろあるけど、ジャックを見習って、もっと笑顔でいなきゃと思いました。

 サンフランシスコではもう一人の友人ショーナとご主人とも食事をしたようです。「君が博士課程で悩んでいるという話をしたら、ショーナが自分の経験を話してくれた。実は僕はショーナが博士課程まで進んでいたのは知らなかったんだ」と言います。

 「ショーナの指導教員も女性で、その人は精神的に病んでいたらしいんだ。ひどい扱いを受けて、専攻長や学長まで訴えたけど助けてもらえず、結局辞めざるを得なかったらしい。今ならハラスメント相談所みたいなところはあるけど、当時はなかったというしね。ショーナは退学後、良い仕事にも就いたし、ご主人とも出会って幸せになったから良かったんだけど、博士課程では指導教員が難しい人だと大変みたいだよ」

 ショーナが行っていたのは名門スタンフォード大学。博士課程を断念するのは大きな決断だったと思いますが、そうせざるを得ないほど悩みは大きかったのでしょう。私自身、まさに今自分の進退を熟考しているときですので、ショーナの話は身につまされました。

 夫は友人たちと過ごした後、ロサンゼルスに数日間滞在し、いくつかの会議に出席してクライアントにも会い、両親が住むシカゴへ。

 義父は元気でしたが、義母は左ひざの痛みがひどく、歩行が困難になっていると言います。

 「母が大きな歩行器をついて歩くのを見るのは複雑な思いがしたよ。本当は手術をしたくないと言っていたけど、耐えられないほどの痛みらしい」

 私の母も週4回肩や足のリハビリをしに病院に通っていますので、年を取るというのは本当に大変なんだと思います。自分たちの近い将来を見ているような気持ちになりました。

 夫は4人兄弟で、夫は日本、兄はミネソタ州、すぐ下の弟はミシガン州と義父母とは離れて暮らしています。唯一何かあったら頼りになるのが一番下の弟です。私は新型コロナが流行する直前に母を自宅の近くの賃貸マンションに呼びましたので母の心配はないのですが、義父母のサポートが出来ないので申し訳ないという気持ちでいます。

 それでも義父母はとても仲が良く、元気に暮らしています。来年、ハワイかカリフォルニアで会おうと話をしてきたようです。

 夫のアメリカ話で盛り上がった昨夜。しばし、大学院のことは忘れることが出来ました。

2022年9月25日日曜日

母と銀座へ

 札幌の自宅を売却したことで、複雑な思いを抱えている母に元気を出してもらうため、先週はイベントを2つ企画しました。
 
 まず、19日の敬老の日はおしゃれな雰囲気のイタリアンレストランに連れて行きました。母はイタリアンが大好き。生ハムのサラダとシーフードのパスタ、そしてデザートを楽しみました。


 水曜日はクラシックコンサートへ。会場に向かう前に早めの夕食を準備しました。おかずは北海道産のホッケとシシャモ、大根と厚揚げの煮もの、そしてオクラとトマトの和え物。母はシシャモで有名なむかわ町出身。シシャモの味には一家言ありますが、「美味しい!」と喜んでくれました。また「ホッケを食べるのも久しぶりだよ」と嬉しそうでした。

 コンサートは銀座三越の隣にある「王子ホール」で開かれました。母と銀座に来たのは久しぶりです。母は「あんたが入院していたとき、よく銀座に来たよ」と懐かしそうでした。国立がん研究センター中央病院は築地駅にあります。築地は銀座駅から近いため、私のお見舞いに来る前に銀座三越に寄って、食欲のない私に果物を買ってきてくれたりしたのです。

 また、一緒にお見舞いに来た夫と帰りにお寿司を食べて帰ったこともあると懐かしそうに話してくれました。銀座は母にとって、闘病中の私を見舞った思い出とセットになった場所のようです。コンサートの帰りに、少し街中を歩きました。そして、メインの通りに面したカフェでお茶をしました。素敵な夜でした。



 札幌の家を手離すことを決めたのは母です。「賃貸に出したら?」と勧めてみましたが、「札幌は雪が多いから、除雪をしてもらう業者を雇っていても、もしかしたら入ってくれていないかもしれないと気が気でないの。年月が経つほど処分しずらくなるし。私の友達も皆、一軒家を処分してマンションや施設に移っている」とキッパリ。
 
 強がっていても、長年住んだ家を手離すのは、残念なことに違いありません。ですので、こうして娘家族と一緒に過ごす時間を持てることで人生の晩年に思い切って東京に来て良かったと思ってほしいーそう願っています。

2022年9月21日水曜日

学校だから

  今朝もいつものように、登校する息子を見送りました。小さな背中からはみ出るほど大きかったランドセルが、すっかり小さくなっています。去年まではこちらを振り返ってくれましたが、今は、もう振り返ってくれません。それでも、毎日見送っていると、本当にたまにですが、こちらを振り返って手を振ってくれます。その一瞬を楽しみに毎日、息子の背中が小さくなるまで見送ります。

 今朝は珍しく、出掛けに玄関に仰向けに寝そべってしまいました。

「学校行きたくない」とつぶやく息子。

「どうして?」

「学校だから」

 ……。いやぁ、感動しました。我が息子ながら、何と粋な答えだろうと。学校に行きたくない理由を、これほまでに簡潔に明瞭に言える息子の表現力に感心しました。ブログに書こう!と頭のメモ帳に記しました。

 塾では、毎回、とてつもない低い点を取ってくる息子。長文読解の宿題は毎回、12点中0点です。何を書いているか、親の私にもさっぱり分かりません。ましてや、他人である国語の先生に分かるはずがない。それも、中学受験を勝ち抜こうとしている優秀な子たちを教えている先生です。

 先日は、「他の人が字を読めるように丁寧に書きましょう」とまで書かれてきました。息子は、次頑張ろう!などという殊勝な態度で宿題に向かうことなどありません。でも、ひょうひょうとした態度で、めげずに(気にもせずに)淡々と宿題をやり、0点を取ってきます。国語力は伸びませんが、こういう息子もある意味すごいのでは、と思ってしまいます。

 さて、息子の一言に戻ります。たとえば、大人たちが会社に行きたくない理由は人により様々でしょう。嫌いな上司がいる、取り組んでいるプロジェクトが難航している、など。でも、一言でいうと「会社だから」。オジサンが家に帰りたくないのは、口うるさい奥さんが待っているなど様々な理由があるでしょうが、端的に言うと「家だから」。

 それでも、多くの人はそこに向かう。大げさな言い方かもしれませんが、それが生きるということなのでしょう。息子も「あーあ」とため息をつきながら立ち上がり、玄関ドアを開けました。私は一瞬どうしたものかと考え、とりあえず思いっきり息子を抱き締めました。

 「大好きだよ。君が生まれてきてくれたことが、ママにとって人生で一番嬉しいことだった」と力一杯抱き締めました。しばらく、私に抱き締められるがままになっていた息子が言いました。

 「ママ、ありがとう…。ママ、ママ、僕もう行かなきゃならないから」

 そういって、息子は私から離れ、学校に向け駆け出しました。後ろ姿を見送りました。今日も振り返ってはもらえませんでした。明日は振り返ってくれるかな? 明日に期待をしましょう。

 

2022年9月19日月曜日

夫がいない週末は

  一昨日の17日、夫が出張のため米国に向かいました。まずはサンフランシスコの友人たちに会い、その後空路ロサンゼルスへ。仕事が終わった後はまた飛行機に乗りシカゴの両親に会いに行く予定です。コロナ禍帰国が叶わなかったので、両親に会うのは4年ぶりです。

 先日、夫の葬儀に参列するという縁起の悪い夢を見ましたので、サンフランシスコに到着するまで心配でした。ですので、無事着いたという連絡があり、ほっとしました。何事もなく帰国してくれることを願うばかりです。

 留守を預かる私は、娘と息子に口うるさく”宿題はしたの?”などと言っても、聞いてもらえなくなっていますので大変ですが、10日間ほどの3人暮らしを楽しむつもりです。

 まずは土曜日の夜は毎週恒例となっている焼き肉店へ。そして昨日はサンリオピューロランドに行ってきました。高校時代からの親友Nちゃんが招待券を送ってくれたのです。Nちゃんは娘が小さいころから招待券を送ってくれていました。娘も大きくなったこと、そしてNちゃんに姪っ子さんが出来たのでここ数年遠慮していたのですが、娘が”また、キティちゃんランド行きたい!”とNちゃんに頼んで、送ってもらったのです。

 ピューロランドでは乗り物に乗ったり、ショーを見たり、楽しませてもらいました。毎回必ず食べる名物のラーメンも食べて、満足。息子が小さな子たちに交じって、トランポリンでピョンピョン飛んでいたのには笑えました。


  
相性を測るコーナー。娘と息子は100%。ちなみに私と息子は10%(涙)でした

Nちゃんにラインで子どもたちの写真を送りました。息子が”むっちゃんのお父さん似だね!”と返信が返ってきました。私自身、そう思ったことがないのですが、とても嬉しかった。そうかぁ、父に似ているんだ、と息子をまじまじと見ると、愛おしさが増しました。心が温まり、昨夜はよく寝られました。

2022年9月17日土曜日

ようやく整った心

 イギリスから帰国し、実家の売却や指導教官との対峙など、心が疲弊する出来事が続いていました。その間、眠れなかったり、奇妙な夢を見たり、気持ちがなかなか回復しませんでした。昨日の朝、4人分のお弁当作りを楽しむことが出来、ようやく心が整った気持ちがしました。

 作ったのは、鶏そぼろご飯。子どもたちの大好物です。娘と夫、私のお昼ご飯、給食がある息子には朝食にしました。毎朝、娘にはお弁当を作っていましたし、夕食も作っています。でも、心ここにあらずという感じでした。昨日は久しぶりに楽しめました。私にとって、料理を楽しめるようになるのが、気持ちが回復してきているというサインなのです。

4人分のお弁当

 週末は子どもたちの用事で、気持ちを紛らわすことが出来ました。先週末の土曜日はイギリスの大学の合同説明会、日曜日は息子が受験を希望する私立中学校の説明会でした。また、昨日の金曜日は私がいいなと思う私立中学校の説明会。

 息子がなぜその中学校を希望するかというと、駅前に「ミスタードーナツ」があるからだそう。息子を連れていった先日の説明会でも、帰りにそこのドーナツを食べました。女子の場合、制服が可愛いなども大きなモチベーションになるようですが、男子は幼くて可愛いです。

 娘は出願する大学を決めている真っ最中で、帰宅後はその話で持ち切りです。カナダの大学1校、イギリスの大学3校、日本の大学3、4校に出願する予定です。私も娘が海外に行ってしまうことを覚悟しなければなりません。心の中では、日本の大学に行ってほしいなと願いつつ、でも、どこに決めようと娘の決断をサポートするつもりです。

2022年9月10日土曜日

  夫が死んだ夢を見た。夢の中の”現実”に対処仕切れない自分に戸惑っているところで目が覚めた。すぐ、携帯電話を探した。手元に見つからないので、携帯電話の充電コードを置いてある所に行った。そこにはなかった。で、昨夜、娘の弓道教室に送迎したときに持って行ったバッグの中だと思い付き、リビングに向かった。

 リビングの床に置いてあったバッグの中を探した。大きなバッグの中にはプリントアウトした沢山の文献と参考資料を入れたファイルが詰まったままだった。昨日は夕方、大学院から帰宅し、バッグを持ち換えずに、そのまま娘を車に乗せて弓道場に向かったのだった。娘が練習する2時間、見学場でパソコンを開いて、研究計画書の続きを書いていた。そして練習が終わった娘と一緒に自宅に戻った。疲れていて、いつも浴びるシャワーも億劫で、パジャマに着替えて寝た。

 だから、バッグはリビングに置いたままだった。資料をより分けて、ようやく、携帯電話を見つけた。

 グーグルで「夫が死んだ夢」と検索した。いくつものサイトを読んだが、夫が死んだ夢は吉夢だということだった。概ね、夫に良い転機が訪れるか、自分自身が抱えている問題などが好転する兆しなどだーという解釈だった。特に、私が見た夫が病気で死んだという夢はすべて、良い夢だそうだ。安堵した。

 夢は葬儀の場面だった。私の場所からは遺影が見えないため、少し体をずらして見ると、笑っている夫が写っていた。「?」。 私は”現実”が理解できていない。当惑したまま、「私、レット・イット・ビー(ビートルズの名曲)を歌うわ」と言い、歌い出す。夫が大好きな曲だ。でも、私はこの曲の歌詞はぼんやりとしか覚えていず、サビの部分しか歌えない。もごもごと歌っていると、参列者の男性が引き取ってくれ、歌ってくれた。私はほっとして、隣の人にどうして夫は死んだのか聞く。

 「昨夜、8時ごろ急にお腹が痛くなって、救急車で病院に運ばれて、そのまま亡くなったそうです」

 私の心は一気に後悔の気持ちで一杯になった。大学院だの、指導教員だの、研究計画だのに振り回されているうちに、大切なものを失ってしまったー。私を支え続けてくれた夫を失ってしまったー。夫が救急車で運ばれるときに、付きそうことも出来なかった。息を引き取るときに一緒にいてあげることも出来なかった。私は取り返しのつかないことをしてしまったー。

 そうした思いで一杯になったときに、ハッと目が覚めた。携帯電話で夢についてのネット検索を終えた後、Tシャツとジーンズに着替えて、家を出た。神社まで歩いた。そして、いつものように、神様に昨日までの出来事を報告して、帰宅した。

 パソコンを開いて、このブログを書き始めた。間もなく、2階で寝ていた夫が階段を下りてきた。階段の板がミシッ、ミシッと音を立てた。

「おはよう」

「おはよう。食洗器、また、壊れたわよ」

「これ、開けるときに気を付けなきゃ駄目だよ」

「そもそも、あなたが気を付けないで開けたから、壊れたんじゃない(夫は物の扱いが乱暴で、よく物が壊れる)」

「…」

 いつもの夫婦の会話だ。

 夫が冷蔵庫を開けて、卵を取り出し、パカッと割って、ボールに入れる。シャカシャカと卵をかき混ぜる音が聞こえる。カチカチっとコンロの火をつける音と、ジュッーとスクランブルエッグを焼く音が聞こえる。夫の立てる何気ない音が、妙に心地良く聞こえた。

「スクランブルエッグ?」

「そう。君も食べる?」

「うん、少しもらうわ」

 いつものようにダイニングテーブルに座り、2人で、もくもくとスクランブルエッグとソーセージを食べた。あっという間に食べ終わり、夫はテーブルを離れ、朝の支度を始めた。私は、再びパソコンに向かった。昨日までの日常が今日も続いたことに心底安堵しながら、キーボードを打った。

2022年9月3日土曜日

課題に対峙するということ

  昨日は大学院でゼミがあり、博士論文の研究計画の進捗を発表しました。今回で、私は少しは成長したかもしれません。指導教員に公の場で対峙しようと試みたからです。

 4月に入学して、「研究室の引っ越し」が理由で5月初旬まで研究室に入れてもらえず、5月は無視か不機嫌な表情で応対され、6月にようやくスタートしたゼミの初回にはメッタ刺し。入学したばかりなのに「規定年限(4年)では修了できないかもしれない」「マイナスからのスタート」と脅され、持っていた博士論文のテーマも否定。「別のテーマを」と言われ、必死に文献レビューを重ねて、持って行った2つのテーマも否定。

 にっちもさっちもいかず、好意で参加させてもらっている別の教室の准教授と講師に、重要だけど私の抱えている問題とは違うことを試しに相談。すると、「他の教員に相談するのはトラブルの元。まずは指導教員に相談してください」と言われ、「指導教員が指導してくれない場合はどうするの?」という言葉を飲み込みました。

 次に、その上の教授に思い切って指導教員の変更を申し出ました。ギリギリまで考え、現在の指導教員の悪口は控えました。とても良い先生でしたが、「若くないのに、こんなことで相談に来るなんて、今まで苦労したことないのでは? とりあえず1年は頑張って」と言われました。ここでも言葉を飲み込みました。

 その後、考えに考えて、大学の相談所に連絡を取り、ズームで面談をしました。が、解決の糸口となることは提示してもらえませんでした。相談員の「指導教員の変更は、カジュアルに出来るものではありません」という言葉にがっかりしました。そこに相談するに至るまで、どれほどのステップを踏み、熟考したでしょうか。相談所に意を決して相談した人間に「カジュアル」という軽い表現を使う、相談員の資質に疑問を持ちました。「簡単ではありません」「容易ではありません」「手続きが複雑です」「困難が予想されます」など、いくらでも適切な言葉があるでしょうに。

 でも、と私はここで考えました。なぜ、解決の糸口が見つからないのか。そうです。私が助けを求めた人は皆経験はあれど(おそらく、皆40代ぐらい)私より年下か、指導教員と別の教室の教授はおそらく同年代。そうなんです。私は本来なら、相談を受ける立場の人間なのですよ。「指導教員が無視する!指導してくれない!人格を否定する!」と文句を言うこと自体、滑稽なんです。まず、ここで私は自分を笑い飛ばしました。

 この間、私を良く知る友人たちに相談しました。皆、私の体調悪化を心配してくれました。この問題が長引くと心が病み、それが体調悪化の原因になると。それは一番避けるべきだと。そうだな、と思いました。

 インターネットで検索をしました。「指導教員と合わないなんて、ザラにいる。研究者として優秀であれば、そんなことは問題にならないはず」「博士過程なら指導教員の指導なしに研究が進められるくらいでないと」という意見が大半。でも、優秀でない研究者はどうしたらよいのでしょう? 私は授業料を払って、「足らざるところを教えてください」と教えを乞うている人間なのです。授業料を払って、かつ自立して研究できている優秀な博士課程の研究生とは違う。力不足の人間はどうしたらよいのでしょう。

 悩みました。寝られませんでした。で、開き直って、昨日のゼミでは私が入学当初に持っていった研究計画を自分なりに納得いく形でパワーポイントを使って発表してみました。スライドの一枚には「これまでのフィードバック」として、私が指導教員に提示したテーマと指導教員のコメント(私への人格否定ではなく、テーマの否定)を書き込みました。もちろん、指導教員には敬意を払った書き方で、です。

 そして、指導教員から「あなたは、このテーマの当事者だから、客観的な見方が出来ない。がんを外したテーマを」と言われてきたことについて、皆に、真正面から「当事者が闘病の過程で気付いたことを研究テーマにすることについてご意見をください」と聞いたのです。

 発表自体は私の研究計画でしたので、私のささやかな指導教員への”抵抗”など、ゼミのメンバーは見向きもしませんでした。そして、メンバーからは、フィードバックをたくさんもらえました。もちろん、私の研究計画は足りないところだらけです。でも、自分が当初やりたいと思っていたテーマと、自分がこの半年指導教員について悩み続けたことの一部を自分なりに相手に敬意を払った形で公にすることが出来て、すっきりとまではいかないまでも、自分自身に納得しました。

 指導教員が私の世話をするように頼んでいる研究者からはゼミの後に、こう言われました。

「あなたは修士のときに●●もしていないし、●●もしていないから、先生も心配しているの(心配?本当に?)。●●さんは医療者としてのバックグラウンドがあってさえも、博士を取るのはむずかしかったの。私は修士のときに●●もしたし、●●もしたけど、本当に大変だった。ましてや、、、」。

 そうですか。重ねてのご指摘、ありがとうございました。指導教員とあなたからのこの半年間のコメントで、いかに私が駄目か、十分過ぎるほど認識しています。

 ゼミで学生は私だけで、指導教員を含む参加者の6人はすべて博士号を持っています。救いは、指導教員と私の指導係の2人以外の4人からのコメントでした。厳しいフィードバックの後、「とはいえ、私も常日頃、これは難しいと感じています。今もうんうんうなりながら、考えています」「このテーマは4年の博士課程で終わらせるのは難しいと思う。僕も今でも研究計画を通すのに苦労している。4年で終らせられるテーマにしたらどうだろう」など。上から目線の「あなたは駄目」ではなく、「この点は難しいよね」という共感は、嬉しいし、救われます。

 ゼミでの指導教員の言葉は嘲笑を含んでいましたが、いつもよりトゲがありませんでした。私からのメッセージは伝わったのでしょうか。それとも、”あぁ、面倒”と思ったのでしょうか。それとも、”この人、駄目ね”と呆れたのでしょうか。それは分かりませんが、とりあえず、私のストレスのレベルは少し下がりました。

 悩んでいたこの間、何冊もの本を読みました。その中の一冊で、何度も読み返した本があります。それには、こう書いてありました。

「我々が何かの人間関係の問題に直面したときには、相手に相当の非があると思えても、やはり自分にも何がしかの非がある。自分の欠点や未熟さが原因の一端となっていることも、少なくない」

 この本によると、困難は「成長の課題」であり、ここから逃げても、「卒業しない試験」は、逃げても、必ず追いかけてくるそうです。

 だから、課題に私なりに考え抜いた方法で、対峙しようと思いました。昨夜は久しぶりにぐっすりと寝られました。そして、今朝、近所の神社に行き、神様に報告してきました。その後、たぶんこれまで毎朝上の空で読んでいた新聞の内容がすっと頭に入ってきました。

2022年8月30日火曜日

実家にさよならとありがとう

  イギリスから15日に帰国し、あっという間の2週間でした。娘は見学したイギリスの大学を1校出願することに決め、息子は塾通いを再開。息子は旅行中に勉強していたものの追いつかず、27日のテストでは、散々の出来でした。そして、私は大学に設置されている相談所に指導教員について相談。あまり助けにならず、自分で解決することに決めました。そんな慌ただしい2週間でした。

 そして、30日の今日、母を連れて日帰りで札幌に行きました。実家を不動産会社に売却するためでした。本当なら前日から札幌入りし、母とのんびり札幌の街を歩いたり、美味しいお寿司を食べたり、実家の見納めを出来れば良いのですが、私には今回、その時間がありませんでした。で、日帰りを強行しました。

 母は近所に住んでいますので、午前5時半分の羽田空港行きのバスに乗車。羽田空港でおにぎりを食べて、7時半の飛行機で新千歳空港へ。そこからJRと地下鉄、タクシーを乗り継いで実家へ。まだまだ住める家でしたので、母はどなたかに住んでほしかったのですが叶わず、実家は解体するという条件で、今回売却できたのでした。ですので、今回が実家の本当の見納めです。

 これまでの3回の実家の整理で、東京に持ってこられなかったもの、整理し切れなかったもので、持ち帰りたいものをスーツケースに詰めました。母は父が残した4冊のアルバムをそのまま置いていく(つまり、解体するときに一緒に処分される)つもりだったようでしたが、私には出来ませんでしたので、すべて持ち帰ることにしました。

 前回、時間をかけてこのアルバムを見て、父が良く写っているものは持ち帰っていました。でも、家が解体されるときにアルバムがぐちゃぐちゃにされるのを想像すると、やはり、置いていけなかった。このアルバムの写真に写っている父は、会社の慰安旅行や同窓会に参加したときの父なので、父以外誰一人知りません。でも、やはり、処分するときは私が丁寧に、処分したいと思ったのでした。

 売却する不動産会社の支店は実家に比較的近い場所にありましたので、一旦は荷物を実家に置いたままで、タクシーで向かいました。約束の時間は正午で、仲介してくれた実家の近くの不動産会社のKさんもそこにいました。母はたくさんの書類にサインをして、押印をし、代金は即座に母の口座に振り込まれました。

 鍵を不動産会社に渡して、すべてが終わりました。午後1時半でした。不動産会社はすぐにも解体作業に入る予定だったようですが、私たちはもう一度実家に戻る予定でしたので、作業を明日以降に延期してもらいました。そして、Kさんの車に乗せてもらい、再び実家に戻りました。

 Kさんは母と同年代で、事務所とご自宅は実家のすぐ近くにあり、母と亡父とKさんは40年以上の長い付き合いでした。母は実家を処分するときはKさんにお任せすると言っており、今回Kさんも母の意向を聞いて、家を買ってくれる人を探してくれていましたが、うまくいかず、結局、大手の不動産会社に売却することになったのでした。

 Kさんはずいぶんやせて、歩行もやっとという感じでした。車中、Kさんの奥さんがすい臓がんで余命宣告をされたという話をされていて、きっとKさんもそろそろ引退するのではと思いました。Kさんは近所の人たちが他界されたり、転居したりするのずっと見届けてきており、母に「おねえちゃん(私)のところに行けて良かったね」と何度も言っていました。

 母と私は、もう一度実家に戻り、各部屋に「ありがとう」と声をかけました。母は「ありがとうね。長い間、楽しませてもらったよ」と元気に話しかけていました。サバサバしていて、母らしいな、と思いました。

両親が過ごした実家

 母が「ここは私のお城」と言っていた家。父母が約50年前に土地を購入して建て、自分たちの住みやすいようにリフォームを重ねた家。「お友達何人にも褒められたんだよ」という母の自慢のキッチンも、父と一緒にバーベキューをして楽しんだ庭の一角も、子どもたちが隠れん坊をして遊んだ2階の部屋も、父の書斎も、母が丹精した庭も、母が嫁入り道具に持ってきた箪笥も布団も、「お父さんとあちこち見て歩いて、見つけたんだよ」と言っていたお気に入りの”旭川家具”の食器棚も、全部、なくなります。

 でも、実家がなくなるーという現実を前にしみじみと思うのは、大切なのは家そのものではなく、そこで過ごした思い出だということ。

 もう10年以上前のことでしょうか。母とKさんの事務所の近くに住んでいたご夫婦が、息子さんと一緒に住むということで引っ越しをされました。そのご夫婦の家はまもなく解体され、母とKさんが解体されるときに見守っていました。でも、ご夫婦はそこにはいませんでした。母は「最後にお家を見に来てあげればよかったのにね」と言っていましたが、今、母が同じ立場になり、実家が解体される場面には立ち合いたくなどないと思います。

 綺麗な状態のまま「さよなら」をして、その思い出をずっと持ち続けたほうがずっといい。

 さて、実家にさよならをし、私たちは6月に亡くなった母の姉の家に行きました。仏壇にお参りをさせてもらうためです。いま、お墓を建てている最中ということで、叔母の遺骨はまだ仏壇の中にありました。叔母の家に来るのも、もうこれが最後となるでしょう。

 Kさんにご挨拶したときもそうでしたが、「もう、これが最後かもしれない」。口には出さずとも、そう思いながら「お元気でね」とさよならをする。そんな別れがずいぶん続いています。

 すべてを終え、午後3時半、新千歳空港に着きました。午後5時半の出発時刻まで2時間ありましたので、母とゆっくりと「北海道料理」のお店で、遅めのランチを食べました。東京では食べられない「うに・いくら丼」をいただきました。「これで全部、終わった。良かった」とほっとした表情の母。母は、ずいぶん前に購入したお墓の土地(亡くなった父の遺骨は、お寺の納骨堂におさめました)も処分してきており、札幌で手続きが必要になるものはこれで何もなくなりました。

新千歳空港で食べた、うに・いくら丼

 自宅に着いたのは午後8時半。娘は宿題に取り組み、息子は塾に行っていました。夫はソファに寝そべり、本を読んでいました。日常に戻り、ほっとしました。父の遺影に手を合わせ、今日のことを報告しました。

「お父さんが一生懸命働いて建てて、亡くなるまで過ごしていた家がなくなってしまうの。残念だけど、家を売ったお金で、お母さんはゆとりのある老後を過ごせるよ。お父さん、頑張ったよね」

持ち帰った父のアルバム


2022年8月22日月曜日

ロンドンからの報告 ④

  ロンドン滞在4日目の13日は、大英博物館に行きました。夫と私が一番見たかったのは、エジプトで1799年に発見された「ロゼッタ・ストーン」です。古代エジプト語のヒエログリフを理解する手がかりとなった石版です。

大英博物館に展示されている「ロゼッタ・ストーン」

 皆さんは知らないと思いますが、ひと昔前、40年以上前ぐらいでしょうか。「ロゼッタ・ストーン」というイギリスのバンドがあったのです。当時人気のあった「ベイシティローラーズ」というバンドにいた、イアン・ミッチェルという男の子が、作ったバンドです。

 私は当時小学生だったのですが、もう、夢中になりました。彼らに。このブログを書くにあたり、グーグルで「ロゼッタ・ストーン バンド」と調べると出てきました。多分、私の年代の女性が書いたと思われる「ロゼッタ・ストーン 知っていますか?」というブログが。読むと、当時のそのバンドのビデオが出てきました。懐かしい。歌を聴きながら、一緒にハミングしました。

 私にとって、「ロゼッタ・ストーン」はエジプトで発見された石版ではなく、私が小学生のころ夢中になった、イギリスのバンドなのです。

 さて、ランチは大英博物館のカフェで食べました。私と娘は「イギリスに来たからには、食べなければ!」とアフタヌーン・ティーをオーダー。夫と息子はハンバーガーです。

 食事をいただきながら、今回の旅行で訪れた街の順位付けをして盛り上がりました。

私たちが訪れたのは、ケンブリッジ、エジンバラ、リバプール、アイルランド・ダブリン、っしてロンドンです(日帰りのオックスフォードは含めませんでした)。

 順位を聞くと、結構違って面白かった。特に10歳の息子の視点は違って、ユニークでした。

【イギリス旅行で訪れた街・ベスト5】

娘 ①ケンブリッジ②リバプール③ダブリン④エジンバラ⑤ロンドン

1位のケンブリッジについて➡「街がかわいい。建物が歴史があって綺麗。道が狭くてガヤガヤした感じが好き」

夫 ①ダブリン②ケンブリッジ③リバプール④エジンバラ⑤ロンドン

1位のダブリンについて➡「街が小さくまとまっていて、交通機関が発達していて便利。サラダがとにかく美味しかった。伝統料理も美味しい。人々がフレンドリーなところが良い」

私 ①ケンブリッジ②ダブリン③リバプール④エジンバラ⑤ロンドン

1位のケンブリッジについて➡「街がこぢんまりとして、知的な雰囲気が良かった。街並みが素敵。住んでいる人々が楽しそうで、私も幸せな気分になった」

息子 ①エジンバラ②ケンブリッジ③ロンドン④ダブリン⑤リバプール

1位のエジンバラについて➡「エジンバラ城がハリーポッターみたいで面白い。登った山の崖が、隕石が落ちて出来たみたいで格好良かった。山から地平線が見えた」

 翌朝、私たちはロンドン・ヒースロー空港から、フィンランド・ヘルシンキ空港を経て、成田空港に向かいました。

2022年8月21日日曜日

ロンドンからの報告 ③

   ロンドン3日目の12日は列車で1時間ほどのところにある、大学都市オックスフォードに行きました。オックスフォードには夫の会社の上司が住んでいるのです。ケンブリッジの街と似ていて、歴史を感じさせる建造物がいくつもあり、知的な雰囲気が漂う街でした。

 ランチは隠れ家風のとても素敵なレストランで、夫の上司がご馳走してくれました。上司は香港に20年暮らして、民主化デモが始まる直前の2019年にイギリスに戻りました。現在は会社の事務所があるオックスフォードに居を構えています。写真を見せてもらいましたが、豪華な家で、3人の子どもが巣立った現在はほとんど在宅で仕事をしているそうです。「オックスフォードは素晴らしい街だけど、少し退屈かな」と語っていました。やはり香港は仕事の面でも暮らしの面でも、エキサイティングな街だったのでしょう。

 イギリスに本社がある夫の会社の中でも、多分に漏れず、権力闘争のようなものがあるらしく、社内政治に巻き込まれぬように中立の立場を取っている夫も、情報収集はしっかりとしているよう。今回も上司からいろいろと情報を得ていました。

 「僕には家族を養うという責任があるからね。一方に肩入れして、その人が社内で力を持ったときには自分も引き立てられ、力を失ったときは一緒に落ちて職も失うーということにはなりたくないんだ。権力争いからは距離を置いて、でも、実績は挙げて、会社にとっては必要な存在であり続ける努力はする。社内で登り詰めることは出来ないけど、良い給料とそこそこやりがいのあるポジションは確保するんだ」

 何事にも慎重な夫は、こういう考えで浮沈の激しい社内で生き残っているようです。信頼する元上司と今回会って話をすることが出来、良かったに違いありません。私たちも素敵なレストランで、美味しい料理をいただきながら、楽しい時間を過ごさせてもらいました。 

ランチをご馳走になったオックスフォードのレストラン

散策の途中で見つけた、素敵なカントリーハウス

  さて、今回の旅行に、息子は10年間眠るときはいつも一緒のクマのぬいぐるみ「ベア」と、ベアの友だち「ベア・ジュニア」をバックパックに詰めていきました。

ベアとベア・ジュニア

 ベアは息子の誕生祝いに私の友人から頂いたものです。これがなければ眠らないし、いつでもどこでも(もちろん海外にも)連れていったので、万が一なくしたときに備えて、同じぬいぐるみを後に購入し、ベア・ジュニアと名付けました。 

 ですが、やはり肌触りと匂いが違うらしく、息子はベア・ジュニアには見向きもしませんでした。全く同じクマのぬいぐるみなのに、持ち主に愛されないベア・ジュニアが不憫で、買ったことを後悔したぐらいでした。ベア・ジュニアの気持ちになると、とても切なくて、ときどき私が抱き締め、ベッドを整えるときにベアの横に置きました。家族には「ママが入院したら、ベア・ジュニアを持ってきてね」と伝えてありました。

 ところが、です。息子が10歳になる少し前でしょうか、急にベア・ジュニアをベアと一緒に可愛がり始めたのです。息子の中で、気持ちの変化があったのでしょう。ベア・ジュニアは我が家に来て9年目にして、ようやく、息子に可愛がられるようになったのでした。「ベア・ジュニア、良かったね」と私もほっとしています。報われる日があるのですね。

 東京の自宅から持ってくるときはバックパックの中に押し込まれ、イギリス国内を移動するときは、息子のスーツケースの中にギュウギュウに詰めこまれても、ベアもベア・ジュニアも喜んでいるに違いありません。