2022年9月3日土曜日

課題に対峙するということ

  昨日は大学院でゼミがあり、博士論文の研究計画の進捗を発表しました。今回で、私は少しは成長したかもしれません。指導教員に公の場で対峙しようと試みたからです。

 4月に入学して、「研究室の引っ越し」が理由で5月初旬まで研究室に入れてもらえず、5月は無視か不機嫌な表情で応対され、6月にようやくスタートしたゼミの初回にはメッタ刺し。入学したばかりなのに「規定年限(4年)では修了できないかもしれない」「マイナスからのスタート」と脅され、持っていた博士論文のテーマも否定。「別のテーマを」と言われ、必死に文献レビューを重ねて、持って行った2つのテーマも否定。

 にっちもさっちもいかず、好意で参加させてもらっている別の教室の准教授と講師に、重要だけど私の抱えている問題とは違うことを試しに相談。すると、「他の教員に相談するのはトラブルの元。まずは指導教員に相談してください」と言われ、「指導教員が指導してくれない場合はどうするの?」という言葉を飲み込みました。

 次に、その上の教授に思い切って指導教員の変更を申し出ました。ギリギリまで考え、現在の指導教員の悪口は控えました。とても良い先生でしたが、「若くないのに、こんなことで相談に来るなんて、今まで苦労したことないのでは? とりあえず1年は頑張って」と言われました。ここでも言葉を飲み込みました。

 その後、考えに考えて、大学の相談所に連絡を取り、ズームで面談をしました。が、解決の糸口となることは提示してもらえませんでした。相談員の「指導教員の変更は、カジュアルに出来るものではありません」という言葉にがっかりしました。そこに相談するに至るまで、どれほどのステップを踏み、熟考したでしょうか。相談所に意を決して相談した人間に「カジュアル」という軽い表現を使う、相談員の資質に疑問を持ちました。「簡単ではありません」「容易ではありません」「手続きが複雑です」「困難が予想されます」など、いくらでも適切な言葉があるでしょうに。

 でも、と私はここで考えました。なぜ、解決の糸口が見つからないのか。そうです。私が助けを求めた人は皆経験はあれど(おそらく、皆40代ぐらい)私より年下か、指導教員と別の教室の教授はおそらく同年代。そうなんです。私は本来なら、相談を受ける立場の人間なのですよ。「指導教員が無視する!指導してくれない!人格を否定する!」と文句を言うこと自体、滑稽なんです。まず、ここで私は自分を笑い飛ばしました。

 この間、私を良く知る友人たちに相談しました。皆、私の体調悪化を心配してくれました。この問題が長引くと心が病み、それが体調悪化の原因になると。それは一番避けるべきだと。そうだな、と思いました。

 インターネットで検索をしました。「指導教員と合わないなんて、ザラにいる。研究者として優秀であれば、そんなことは問題にならないはず」「博士過程なら指導教員の指導なしに研究が進められるくらいでないと」という意見が大半。でも、優秀でない研究者はどうしたらよいのでしょう? 私は授業料を払って、「足らざるところを教えてください」と教えを乞うている人間なのです。授業料を払って、かつ自立して研究できている優秀な博士課程の研究生とは違う。力不足の人間はどうしたらよいのでしょう。

 悩みました。寝られませんでした。で、開き直って、昨日のゼミでは私が入学当初に持っていった研究計画を自分なりに納得いく形でパワーポイントを使って発表してみました。スライドの一枚には「これまでのフィードバック」として、私が指導教員に提示したテーマと指導教員のコメント(私への人格否定ではなく、テーマの否定)を書き込みました。もちろん、指導教員には敬意を払った書き方で、です。

 そして、指導教員から「あなたは、このテーマの当事者だから、客観的な見方が出来ない。がんを外したテーマを」と言われてきたことについて、皆に、真正面から「当事者が闘病の過程で気付いたことを研究テーマにすることについてご意見をください」と聞いたのです。

 発表自体は私の研究計画でしたので、私のささやかな指導教員への”抵抗”など、ゼミのメンバーは見向きもしませんでした。そして、メンバーからは、フィードバックをたくさんもらえました。もちろん、私の研究計画は足りないところだらけです。でも、自分が当初やりたいと思っていたテーマと、自分がこの半年指導教員について悩み続けたことの一部を自分なりに相手に敬意を払った形で公にすることが出来て、すっきりとまではいかないまでも、自分自身に納得しました。

 指導教員が私の世話をするように頼んでいる研究者からはゼミの後に、こう言われました。

「あなたは修士のときに●●もしていないし、●●もしていないから、先生も心配しているの(心配?本当に?)。●●さんは医療者としてのバックグラウンドがあってさえも、博士を取るのはむずかしかったの。私は修士のときに●●もしたし、●●もしたけど、本当に大変だった。ましてや、、、」。

 そうですか。重ねてのご指摘、ありがとうございました。指導教員とあなたからのこの半年間のコメントで、いかに私が駄目か、十分過ぎるほど認識しています。

 ゼミで学生は私だけで、指導教員を含む参加者の6人はすべて博士号を持っています。救いは、指導教員と私の指導係の2人以外の4人からのコメントでした。厳しいフィードバックの後、「とはいえ、私も常日頃、これは難しいと感じています。今もうんうんうなりながら、考えています」「このテーマは4年の博士課程で終わらせるのは難しいと思う。僕も今でも研究計画を通すのに苦労している。4年で終らせられるテーマにしたらどうだろう」など。上から目線の「あなたは駄目」ではなく、「この点は難しいよね」という共感は、嬉しいし、救われます。

 ゼミでの指導教員の言葉は嘲笑を含んでいましたが、いつもよりトゲがありませんでした。私からのメッセージは伝わったのでしょうか。それとも、”あぁ、面倒”と思ったのでしょうか。それとも、”この人、駄目ね”と呆れたのでしょうか。それは分かりませんが、とりあえず、私のストレスのレベルは少し下がりました。

 悩んでいたこの間、何冊もの本を読みました。その中の一冊で、何度も読み返した本があります。それには、こう書いてありました。

「我々が何かの人間関係の問題に直面したときには、相手に相当の非があると思えても、やはり自分にも何がしかの非がある。自分の欠点や未熟さが原因の一端となっていることも、少なくない」

 この本によると、困難は「成長の課題」であり、ここから逃げても、「卒業しない試験」は、逃げても、必ず追いかけてくるそうです。

 だから、課題に私なりに考え抜いた方法で、対峙しようと思いました。昨夜は久しぶりにぐっすりと寝られました。そして、今朝、近所の神社に行き、神様に報告してきました。その後、たぶんこれまで毎朝上の空で読んでいた新聞の内容がすっと頭に入ってきました。

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