2022年8月30日火曜日

実家にさよならとありがとう

  イギリスから15日に帰国し、あっという間の2週間でした。娘は見学したイギリスの大学を1校出願することに決め、息子は塾通いを再開。息子は旅行中に勉強していたものの追いつかず、27日のテストでは、散々の出来でした。そして、私は大学に設置されている相談所に指導教員について相談。あまり助けにならず、自分で解決することに決めました。そんな慌ただしい2週間でした。

 そして、30日の今日、母を連れて日帰りで札幌に行きました。実家を不動産会社に売却するためでした。本当なら前日から札幌入りし、母とのんびり札幌の街を歩いたり、美味しいお寿司を食べたり、実家の見納めを出来れば良いのですが、私には今回、その時間がありませんでした。で、日帰りを強行しました。

 母は近所に住んでいますので、午前5時半分の羽田空港行きのバスに乗車。羽田空港でおにぎりを食べて、7時半の飛行機で新千歳空港へ。そこからJRと地下鉄、タクシーを乗り継いで実家へ。まだまだ住める家でしたので、母はどなたかに住んでほしかったのですが叶わず、実家は解体するという条件で、今回売却できたのでした。ですので、今回が実家の本当の見納めです。

 これまでの3回の実家の整理で、東京に持ってこられなかったもの、整理し切れなかったもので、持ち帰りたいものをスーツケースに詰めました。母は父が残した4冊のアルバムをそのまま置いていく(つまり、解体するときに一緒に処分される)つもりだったようでしたが、私には出来ませんでしたので、すべて持ち帰ることにしました。

 前回、時間をかけてこのアルバムを見て、父が良く写っているものは持ち帰っていました。でも、家が解体されるときにアルバムがぐちゃぐちゃにされるのを想像すると、やはり、置いていけなかった。このアルバムの写真に写っている父は、会社の慰安旅行や同窓会に参加したときの父なので、父以外誰一人知りません。でも、やはり、処分するときは私が丁寧に、処分したいと思ったのでした。

 売却する不動産会社の支店は実家に比較的近い場所にありましたので、一旦は荷物を実家に置いたままで、タクシーで向かいました。約束の時間は正午で、仲介してくれた実家の近くの不動産会社のKさんもそこにいました。母はたくさんの書類にサインをして、押印をし、代金は即座に母の口座に振り込まれました。

 鍵を不動産会社に渡して、すべてが終わりました。午後1時半でした。不動産会社はすぐにも解体作業に入る予定だったようですが、私たちはもう一度実家に戻る予定でしたので、作業を明日以降に延期してもらいました。そして、Kさんの車に乗せてもらい、再び実家に戻りました。

 Kさんは母と同年代で、事務所とご自宅は実家のすぐ近くにあり、母と亡父とKさんは40年以上の長い付き合いでした。母は実家を処分するときはKさんにお任せすると言っており、今回Kさんも母の意向を聞いて、家を買ってくれる人を探してくれていましたが、うまくいかず、結局、大手の不動産会社に売却することになったのでした。

 Kさんはずいぶんやせて、歩行もやっとという感じでした。車中、Kさんの奥さんがすい臓がんで余命宣告をされたという話をされていて、きっとKさんもそろそろ引退するのではと思いました。Kさんは近所の人たちが他界されたり、転居したりするのずっと見届けてきており、母に「おねえちゃん(私)のところに行けて良かったね」と何度も言っていました。

 母と私は、もう一度実家に戻り、各部屋に「ありがとう」と声をかけました。母は「ありがとうね。長い間、楽しませてもらったよ」と元気に話しかけていました。サバサバしていて、母らしいな、と思いました。

両親が過ごした実家

 母が「ここは私のお城」と言っていた家。父母が約50年前に土地を購入して建て、自分たちの住みやすいようにリフォームを重ねた家。「お友達何人にも褒められたんだよ」という母の自慢のキッチンも、父と一緒にバーベキューをして楽しんだ庭の一角も、子どもたちが隠れん坊をして遊んだ2階の部屋も、父の書斎も、母が丹精した庭も、母が嫁入り道具に持ってきた箪笥も布団も、「お父さんとあちこち見て歩いて、見つけたんだよ」と言っていたお気に入りの”旭川家具”の食器棚も、全部、なくなります。

 でも、実家がなくなるーという現実を前にしみじみと思うのは、大切なのは家そのものではなく、そこで過ごした思い出だということ。

 もう10年以上前のことでしょうか。母とKさんの事務所の近くに住んでいたご夫婦が、息子さんと一緒に住むということで引っ越しをされました。そのご夫婦の家はまもなく解体され、母とKさんが解体されるときに見守っていました。でも、ご夫婦はそこにはいませんでした。母は「最後にお家を見に来てあげればよかったのにね」と言っていましたが、今、母が同じ立場になり、実家が解体される場面には立ち合いたくなどないと思います。

 綺麗な状態のまま「さよなら」をして、その思い出をずっと持ち続けたほうがずっといい。

 さて、実家にさよならをし、私たちは6月に亡くなった母の姉の家に行きました。仏壇にお参りをさせてもらうためです。いま、お墓を建てている最中ということで、叔母の遺骨はまだ仏壇の中にありました。叔母の家に来るのも、もうこれが最後となるでしょう。

 Kさんにご挨拶したときもそうでしたが、「もう、これが最後かもしれない」。口には出さずとも、そう思いながら「お元気でね」とさよならをする。そんな別れがずいぶん続いています。

 すべてを終え、午後3時半、新千歳空港に着きました。午後5時半の出発時刻まで2時間ありましたので、母とゆっくりと「北海道料理」のお店で、遅めのランチを食べました。東京では食べられない「うに・いくら丼」をいただきました。「これで全部、終わった。良かった」とほっとした表情の母。母は、ずいぶん前に購入したお墓の土地(亡くなった父の遺骨は、お寺の納骨堂におさめました)も処分してきており、札幌で手続きが必要になるものはこれで何もなくなりました。

新千歳空港で食べた、うに・いくら丼

 自宅に着いたのは午後8時半。娘は宿題に取り組み、息子は塾に行っていました。夫はソファに寝そべり、本を読んでいました。日常に戻り、ほっとしました。父の遺影に手を合わせ、今日のことを報告しました。

「お父さんが一生懸命働いて建てて、亡くなるまで過ごしていた家がなくなってしまうの。残念だけど、家を売ったお金で、お母さんはゆとりのある老後を過ごせるよ。お父さん、頑張ったよね」

持ち帰った父のアルバム


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