2022年11月24日木曜日

研究室に行くのをやめた

  11月2日から研究室に行っていません。指導教員に「役に立たない」という言葉を投げかけられ、年甲斐もなくトイレで泣きながら、もういいなと思ったからです。入学当初から否定され続け、私なりに頑張ってきましたが、これ以上は無理だと思いました。また、様々なことを正常に判断できる気力を失わないうちに、撤退すべきだと判断しました。

 以来、自宅や大学の図書館を拠点に、研究を続けています。大学院の講義は続け、他の教室のゼミにも参加しています。博士課程の学生は指導教員の指導の下、研究をすることになっています。ですので、私のような状態になった場合、休学・退学を選ばなければならないと考えます。指導教員のいる研究室にはもう行かないと決めましたが、今はあえて今後どうするかの決断をしないでいます。このような状態で正しい決断が出来るとは思えないからです。

 今私が置かれれている状況をどう判断すべきなのか。私の長い人生の中でこれはどういう意味があるのか。私はこの難しい課題にどういう答えを出せるのか? 

 友人たちに相談しました。私の闘病歴を知っている友人たちは皆、「このことで体調を崩してしまっては、元も子もなくなる」「あなたが役に立てる場はそこではない」と言ってくれました。「今が我慢のしどころ。この苦しみを乗り越えた先に…」という人は一人もいませんでした。皆、人生の尊さを身を持って知り、残りの人生のために今を犠牲にすべきではないと考える年代です。

 本にも解決策を求めました。解決には至らないけれども、今のところ一番しっくりいっている考えが、精神科医であり作家でもある帚木蓬生氏が自身の人生の軸となっているという「ネガティブ・ケイパビリティ」です。帚木氏によると、これは「答えの出ない事態に耐える力」という意味だそうです。私の言葉で説明してもきちんと説明できるか不安ですので、本からそのまま引用します。

「(患者さんの)身の上相談には、解決法を見つけようにも見つからない、手のつけどころのない悩みが多く含まれています。主治医の私としては、この宙ぶらりんの状態をそのまま保持し、間に合わせの解決で帳尻を合わせず、じっと耐え続けていくしかありません。耐えるとき、これこそがネガティブ・ケイパビリティだと、自分に言い聞かせます。すると耐える力が増すのです。ネガティブ・ケイパビリティを知っていなければ、私はとっくの昔に患者さんから逃げ出していたでしょう。どうにもならない問題なので、もう来てもらっても無駄ですと言って、追っ払っていたかもしれません」

 研究室に行くのをやめる前に、私なりに出来るだけのことはしました。まず、他の大学の博士課程の学生や博士号を持つ知り合いに相談しました。出身の大学院(博士課程とは別の大学院です)の教授にも相談しました。さらに、大学に設置されているハラスメント相談所に相談をしました。

 ハラスメント相談所を通じ、各教室を束ねる専攻長にも会いました。専攻長は親身になって話を聞いてくれ、「指導教員の変更は通常学術的な理由で行うのですが、今回はいろいろ事情があるようですので、変更を認めます。引き受け先の指導教員が見つかり、現在の指導教員と双方のサインがある書類が提出されれば、通します」と言ってくれました。

 指導教員にも、直接対峙しました。これまでの経緯のいくつかを説明し、「私に辞めてほしいと思っていますか?」と聞きました。彼女は「辞めようが辞めまいが、あなたの決断だ」と即答しました。力関係から見て圧倒的に弱い人間がやっとの思いで聞いた質問に対し、そう聞いた理由を問うことはしませんでした。観念し、「指導教員の変更を希望します」と伝えました。彼女は無表情で「分かりました」と答えました。

 私の研究の方向性に近い他の教室の教授に面談を申し込み、指導教員を引き受けてほしいーと願い出ました。ただ、悪口となるのは嫌でしたので、今の指導教員との関係性については触れませんでした。その教授からは「あなたは医学のバックグラウンドがないし、年なので、4年間かけても学位が取れない可能性が高い」と言われ、断られました。「面と向かってこういうことは言えないものなんだよ」と言っていましたので、正直な理由なのでしょう。

 専攻長には、希望していた教授には指導教員を引き受けてもらえなかった旨、メールで連絡しました。現在の指導教員にも口頭で伝えました。

 打てる手はすべて打ちました。逃げずに真っすぐ課題に挑んだつもりです。が、どれもこれもうまく行かない。暗中模索の中、先に一筋の光も見えない。そんな中、精神的にもギリギリの状態で下したのが研究室に行かないという決断でした。休学という手がありましたが、理由として付けなければならない書類の「経済的理由」「病気」「育児」「介護」「留学」いずれにも当てはまりませんでした。

 この一連の対応・決断をする過程でずいぶん考えました。これまでの職業経験、人間関係の経験、読書から得た知恵など、全てを動員して、考え抜きました。そして、考え抜いて決めた解決に向けての行動を一つ一つ慎重に行いましたが、すべてうまくいかない。今は、すべてがうまく行かないことに、人生の意味があるのではと受け止めています。

 私に実力があれば、このような結果にはならなかったと思っています。でも、言い訳をさせてもらえれば、まだまだ指導が必要だからこそ、授業料を支払い、学校に指導教員に教えを請いに行っているのです。いや、こういう言い訳を言うこと自体が私の未熟さを表しています。つまるところ、私に力がなかった ーその一言に尽きるのでしょう。

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