2016年12月31日土曜日

2016年 私の挑戦 ③

 「2016年 私の挑戦」の中で、最も自分を誇らしく思うのは、ジョギングを始めたことです。半年前にふと思い付いて始めて以来、雨の日以外は毎日続けています。一日たった10分ですが、「継続は力なり」を実感する日々です。

 まずは、走るためのハードルを下げるために、いくつか工夫をしました。一つ目は、スウェットパンツとTシャツで寝ること。起きてすぐスニーカーを履いて玄関を出るためです。二つ目は10分以上は走らないこと。時間を伸ばしていけば、走るのが億劫になると思うからです。

 この二つをきっちり守って、こつこつ走ること半年。一日10分しか走りませんので体形の変化は全くありませんが、気が付くと体力がついていました。電車のホームから改札口までの階段をいつのまにかスタスタと上っていたのです。時には子供と一緒に駆け上がることもあります。体力がなく、家の掃除もままならなかった過去の自分が嘘のようです。

 誕生日には夫にウインドブレーカーをプレゼントしてほしいと頼みました。スポーツ用品店に一緒に行き、思い切って、ショッキングピンクを選びました。50代のおばさんがショッキングピンクのウインドブレーカーを着て走るのは、”痛い”感じに見えるかもしれませんが、本人が気持ちよく走っているのでまあ許されるでしょう。

 10分間走って最後に、全速力で50メートルほど走ります。この全速力が情けないほどに遅い。昔のように、走れない。でも、目標があるので続けています。その目標は息子が小学校に入ってから、保護者参加のリレーを走ることです。

 娘のときは、足が重くて全く走れず悔しい思いをしました。「2015年 私の挑戦」でその顛末を書きました。で、その後、息子のときに”リベンジ”しようと思い至ったのです。息子は地元の公立小に入学し、その後、3年生か4年生のときにインターに転校する予定です。そのとき私は50代後半。還暦近い私が、バトンを片手に颯爽と200mを駆け抜けるーなんて、想像するだけで楽しい。

 そのときは、体も引き締まっているはずー。あれこれ想像しながらの10分間ジョギング。来年も楽しく続けます。

2016年 私の挑戦 ② クラスママに

 「2016年 私の挑戦」で次に上げたいのは、娘のクラスの「クラスママ」を引き受けたことです。これは、日本の学校でいう「保護者幹事」。昨年末の「2015年 私の挑戦」では息子の幼稚園の保護者幹事に手を挙げたことを報告しました。その勢いに乗って、今年は娘のインターナショナルスクールで引き受けることにしたのです。

 「ムツミ、一緒にクラスママやらない?」
 隣のクラスのアメリカ人ママから声掛けされたのが8月のオリエンテーションのとき。娘の学校は8月末に年度が始まるので、その直前に学校から保護者へクラス分けの報告や学習内容の説明などがなされるのです。声を掛けられたのはそのときでした。そのママとは昨年度同じクラスで、割と親しく話をしていた仲。今年度は違うクラスになり残念に思っていたところ、一緒にクラスママをやろうと誘われたのです。やらないわけにはいきません。

 「クラスママ」の主な仕事は、学校やPTAからの連絡事項をメールすること。一学期に一度はランチ会やお茶会を企画し、学校を去る(帰国、もしくは他国に移住)ママさんたちのお別れ会を催し、クラス会費を集めて担任教師へのクリスマスプレゼントなどを買います。

 メールは下書きをし、夫にチェックしてもらってから送信。ランチ会やお茶会は隣のクラスのクラスママと相談しながら企画します。娘の学年にはヨーロッパやアジアからの英語を母国語としないママさんもたくさんいて、英語でのコミュニケーションはそれほどスムーズではありません。本当に伝わっているのかいないのか、保護者会活動に無関心なのか関心があっても出来ないのか、よく分からないままということが多い。ですので、肩の力を抜いて、「関心があれば、返信ください」「ご都合があえば、参加してください」というスタンスで声掛けしています。

 これまでに失敗は2回。1回目はクラス会費を集めたときのこと。なかなか集まらないため、メールで「お子さんから、私の娘に手渡していただけますか?」と依頼。ところが肝心の娘にその旨を伝えることを忘れたため、娘がクラス担任に「何人かからクラスファンドを渡されたんです。これはどうすれば良いのですか」と聞いてしまったのです。驚いたクラス担任から私にメールが。私は仕方なく、「それは毎年、クラスママが集めるお金です。クリスマスに担任の先生にプレゼントを買うための費用です」と素っ頓狂な説明をする結果になってしまいました。

 もう一つは、笑えない失敗でした。運動会のとき、クラス担任に「集合写真を写して」と頼まれ、私のカメラで写した写真を担任だけでなく、ついでにクラス全員に送りました。ところが、一人の生徒がそこに写っていなかったのです。写真を送る前に全員いるかどうか確認すべきでしたが、そもそも、子供の顔は全員覚えてはいません。また、集合写真を写すときに一人欠けていることなど想像もしませんでした。で、気軽に「クラス写真ですよ」と送ってしまったのです。

 いなかったのはフランス人の女子。運動会には参加していましたので、終わってからさっさと帰ってしまったのでしょう。そのフランス人のママから、すぐメールが返信されてきました。
 「写真をありがとう。残念ながら、集合写真には全員写っていませんでしたね」
 さすが、フランス人。日本人なら、おそらくこのような返信はしないでしょう。ずいぶん落ち込み、インター歴が長い日本人ママにLINEで「大失敗しちゃったの!」と愚痴ると、「フランス人はきついからねぇ。気にしないほうが良いよ」と慰めてくれました。

 失敗を重ねながら、何とか一学期が過ぎました。クラスママはPTA役員会にも出席しますので、知り合いもたくさんでき、また、学校やPTA活動のことも分かるようになりました。任期は6月末まで。あと半年、頑張ります。

 

 
 

2016年12月30日金曜日

2016年 私の挑戦 ① 

 2016年、私は昨年に続き、いくつかの新しいことに挑戦しました。体調不良が続いた40代に出来なかったことをしようと挑戦した昨年より、少しハードルを上げました。それらを振り返りたいと思います。

 一番大きな挑戦は、「開高健ノンフィクション賞」に応募したことです。血液がんや自己免疫疾患と闘いながら子供2人を産んだ10年間を振り返った手記で、応募総数139作のうち最終候補3作に残りました。

    この闘病記を書き始めたのは7年前。医師の診たても悪く、私自身も「自分はもう長くないな」と実感する中で、「娘に、何か残したい」という一心で書き始めました。

 体調が悪い期間が長く、また、46歳で息子を出産したため、家事・育児をしながら日記とメモを頼りに執筆するのは簡単ではありませんでした。ですので、ついつい先延ばしにしていました。しかし、頭の片隅にはいつも「仕上げなければ」という気持ちもあった。そこで、「締め切りが必要かもしれない」と思いつき、ノンフィクション賞に応募したのです。

 仕上げた後は、「同じような境遇の人や、その家族の方々の参考になれば」と出版を希望しました。私もたくさんの闘病記を参考にさせてもらったので、「お返しに」という気持ちがあったのです。が、「売れない」という理由で、出版は見送られました。

 第4稿まで書き直した「原稿」と、本の体裁で印刷された「ゲラ」は、段ボール箱に詰めて納戸に仕舞いました。日記やメモ、資料などもまとめて机の引き出しに入れてあります。
 
 出版社とのやり取りは、難しいこともありましたが、良い経験になりました。何より、仕上げることが出来たことが良かった。段ボール箱に詰めた原稿やゲラの表紙には、「娘へ」と手書きで書き添えました。いつか娘が成長し、この手記を読んで人生の参考にしてくれればと願っています。

 今日、年末年始に読む本を買いに大型書店に行ったとき、大賞受賞者の本が平積みになっているのを偶然見かけました。それを見て、「私の手記は出版されなくてよかったんだ」と改めて思いました。子供たちや夫、母の顔を思い浮かべました。闘病記には家族のことも多く触れているため、編集者や友人らから「家族への影響」を心配する声も上がり、私自身も「誰かの役に立ちたい」という願いと「家族への悪影響」の心配の間で揺れていたからです。

 あの手記は世に出るべきではなかった。今はその結論に納得しています。そして、あの手記のことはすっかり忘れて、日々を送っています。
 
 
 
 

2016年12月28日水曜日

雪が恋しい

 パソコンのオペレーションシステム(OS)・Windows7が、Windows10に自動更新されて半年。更新後は電源を入れるたびに、画面に写真が映し出されるようになりました。風景写真が多く、定期的に更新されますが、どれもこれも好きではありませんでした。

 なぜ好きではないのか? 美しい風景なのに、自然ではない。色のコントラストが極端だったり、風景そのものが異様だったり、作り込み過ぎている感じがするのです。デジタルカメラで撮影した写真は修整することが容易なため、加工し過ぎてしまい、不自然な出来になってしまうのかもしれません。少なくとも私は、勝手に送られてくる写真の多くについて、そういう感想を持っています。

 そのような中、2週間ほど前に好みの風景が画面に現れました。森に密生した針葉樹に雪が降り積もっている写真です。「この写真、好きだなあ」と思いました。他の写真に比べて躍動感もダイナミックさも感じられませんでしたが、その”しんとした”感じが実に良かった。

   「何だ、私は単に雪国の風景が好きなんだ」
    はっとさせられました。熱帯の森林も、西欧の美しい街並みも、荒波の中に切り立つ岸壁も、霧の中に浮かぶ灯台も、私の胸を打たない。やはり、生まれ育った土地を彷彿させる風景が好きなのだ、と気付きました。
 
   故郷から遠く離れた土地に居を構えた。「冬は雪がないほうが、ずっと楽」と長らく思っていたのに、気付いたら、雪が無性に恋しい。冬場に故郷に帰れない期間が長かったため、「故郷イコール雪」という気持ちになっているのかも知れません。

   先日、約10年ぶりに、12月の札幌に帰省しました。東京に帰る日、札幌から新千歳空港に向かうバスの窓から見えた風景に、胸を打たれました。思わず、バッグからスマートフォンを取り出し、カシャカシャと写真を写しました。

 「この景色を、今度はいつ見られるのだろう」
 そう考えると、少し切ない気持ちになりました。

2016年12月25日日曜日

雪の札幌へ

  20日から3日間の予定で札幌に帰省し、雪の影響でその後2日間も足止めとなり、昨日東京に戻りました。24日朝に新千歳空港に出直したとき、空港内は毛布をかぶって寝る人や空席待ちをしている人が溢れており、改めて雪国の交通事情のもろさを実感しました。長い列に並んでカウンターで搭乗券を発行してもらい、セキュリティを通り、飛行機に乗り込み、1時間遅れで離陸したときは心から安堵しました。
 私は札幌生まれ札幌育ちにもかかわらず、寒さで発症する持病を抱えてしまったため、長い間冬期は帰省出来ませんでした。が、今年の1月、一人暮らしの母が体調を崩したため、様子を見るために恐る恐る1泊2日で帰省。私の体調に変化がなかったため自信をつけ、今回、母の顔を見に子供たちを連れて、帰省しました。

 年に1、2度しか雪が降らない東京で生まれ育った子供たちは、夏と同じぐらいに帰省を喜びました。滞在中は連日外に出て、雪投げや雪だるまづくりを満喫。実家の横の駐車場に出来ている雪山で、何度も何度も飽きずにそり滑りをしました。子供たちの歓声を聞いたご近所の人も外に出てきて、「雪でこんなに楽しそうに遊ぶ子供たちを見るのは久しぶり。札幌の子供は雪遊びなんかしないから」と目を細めてくれたほどの、はしゃぎぶりでした。
 
一方、私は忘れていた札幌の雪かきの大変さを再認識しました。帰京予定の22日午後に降り始めた雪は止まず、予約していた便が欠航となったため、空港から”出戻って”からは雪かきに追われました。翌23日はニュースで「50年ぶりの大雪」と報じられるほどの雪で、当然、午後の便のほとんどが欠航に。この日は数時間おきに、雪かきをしました。しんしんと降り積もる雪を、もくもくとかく。1回の雪かきは3、40分かかります。母がよく、「さんざん降っても止まぬ雪を窓から見ると、涙が出てくる」と言いますが、体のあちこちが痛んでいる年配者にとっては、辛い作業に違いありません。雪をかきながら、「大雪の今日、普段出来ない親孝行が少しでも出来て良かった」と心から思いました。私の便の欠航は、天国の父の采配かもしれない、と。

 私は札幌を離れて15年になりますが、その間に、実家の周辺の除雪事情も変わりました。以前はほとんど除雪車が通りませんでしたが、今は頻繁に除雪車が通っています。住民が空き地に雪を積み上げていましたが、空き地がなくなってきたため、除雪を業者に依頼するようになったからです。母も数年前からご近所数件と一緒に除雪業者と契約をし、定期的に除雪してもらっています。母が契約している業者はひと冬に10回来てくれ、契約料は3万6千円。日程は事前に決められており、雪が降っても降らなくても、その決められた日に除雪車が来ることになっているようです。

 今回はタイミングが良く、大雪が降った23日に来るはずでした。が、夕方その業者から「あまりに雪が多くて、行けません。2日後に行きます」と連絡が。私は、「除雪業者が大雪を理由に予定変更しちゃだめだよ」と心の中でぶつぶつつぶやきながら、来ることを期待して積めるだけ積み、私の背丈ほどになった門前の雪山の上に刺した、目印の旗を抜いたのでした。
夜、結局その上に雪を積み上げることは出来ず、スコップで雪をかいてはとことこ歩いて横の駐車場に積み上がっている雪山の上に捨てるという、気の遠くなるような作業を黙々と続けました。でも、気分はなぜかさわやかでした。東京にはない静けさと、澄んだ空気の中で作業していることが、気持ち良く感じられたからです。

 ご近所の人も入れ替わり立ち替わりで、雪かきに出てきます。
 「除雪屋さん、今日来られないんだよね。まあ、こんなに雪が多かったら仕方ないよねえ。あさって来てくれるっていうから助かるわぁ」
 北海道人らしい、おおらかなコメントを聞いて、私は「心の中で愚痴った私、人間、小さいよ」と反省したのでした。

 24日朝、雪に覆われた新千歳空港を飛び立ちました。飛行機の窓から見える雪景色はやはり、きれいでした。
1時間半後、路面の乾いた羽田空港に降り立たったときは、何とも味気ない、つまらない気分になりました。やっぱり、私は雪国育ちの人間なんだなあと実感した旅でした。
 

2016年12月14日水曜日

捨てられない! ②

 クリスマスを前に、夫の両親から大きな段ボール箱2箱分のクリスマスプレゼントが届きました。アメリカ人のプレゼントの流儀は、厳選した良い物を1つ、というのではなく、大小取り交ぜいくつも、というもの。ですので、その段ボール箱の中には個別に袋詰めされたプレゼントがたくさん詰まっているのです。開ければ、物が多い我が家がさらに物で溢れるため、クリスマスの日まで玄関に置いたままです。

 義父母から送られる段ボール箱には毎回、プレゼントと一緒に、夫が子供のころに使っていたものが入っています。娘が小さいころは、クマさんのぬいぐるみ、マグカップ、絵本などを送ってくれました。「おさるのジョージ」などの絵本をめくると、義母の字で夫の名前が書かれてあり、今や老眼鏡なしで本が読めない夫にも、こんな本を親に読んでもらった時代があったのだと、ほほえましく思います。

 息子が生まれてからはミニカーや恐竜のおもちゃなどが送られてきました。前回送られてきたのは、「バットマン」や「スパイダーマン」などが載った雑誌。夫によると、「ダッドが教会のバザーでよく古本を買ってきてくれたんだ。これらもダッドが安く仕入れてくれたもの」といい、物にまつわるエピソードもあり、聞いている私までわくわくします。義父母は、息子4人を育てながら、よく、ここまできちんと取っておいたものだと感心します。
義母が「私は、物を取っておくほうなの」という通り、きっと、屋根裏部屋には、それぞれの息子が使ったものがたくさん保管されているのでしょう。義母はその屋根裏部屋に一度も行ったことがないらしく、物の上げ下ろしはずっと義父の仕事だったというのもほほえましいエピソードです。

 親子は似るもので、捨てられない私のために夫が用意してくれたのも屋根裏部屋。ホームセンターで板を購入し、日曜大工で作ってくれました。長い間病気が途切れず塞ぎ込み物をため込む私に、「捨てたら?」と言う代わりに、「居住空間に物があると邪魔だから、とりあえず、屋根裏部屋に入れておいたら?」と提案することにしたのです。

 夫が屋根裏部屋を作ってくれてから、私は、せっせとそこに娘のおもちゃや衣類を運び入れました。娘の描いた絵や工作品、小学校の教科書やノートもすべて、捨てずにそこに入れています。あまりに増え過ぎたので、さすがの私も反省し、時折、箱の中身を見て「今なら、捨てられる」というものを選び出し、少しずつ処分しています。たとえば、テストやプリントなど。

 さて、このように捨てられない私の気持ちを理解する夫も、時に耐え兼ねて、強硬手段に出ます。私は自分の物は本や衣類などどんどん捨てられるのですが、子供のものが捨てられないため、子供部屋がたいへんなことになってしまうのです。そのあまりの惨状に夫が時に”キレて”しまい、大きなゴミ袋にどんどんとガラクタを放り込み、家の外に出してしまうのです。それを後でこっそり開いては、「これを捨てることはないでしょう?」とブツブツ心の中でつぶやきながら夫に気付かれないように、元に戻すのは私。

 先日は、遊びに来ていた母が強硬手段に出ました。娘のぬいぐるみを無断で捨ててしまったのです。キッチンの物がいくつかなくなっていることに気付き、母を問い質しているうちに、ふと、気になって娘の部屋に行ってみて分かったのです。娘のベッドからキティちゃんのクッションとクジラのぬいぐるみが消えていることが。慌てて外に出してあるごみ袋を開いてみると、娘の誕生祝いにいただいたそのクジラのぬいぐるみが小ぶりなビニール袋の中に詰め込まれていました。他のゴミとは一緒にせず、少なくとも個別包装?されていたことがまだ、救いでした。

 母が娘にプレゼントしたキティちゃんのクッションは”時すでに遅し”で、その前のごみ収集日に私に気付かれることなく捨てられてしまったのでした。

 クジラのぬいぐるみを救い出した私は、「お母さん、一応、ここは人の家なんだから。人の家の物を勝手に捨てちゃだめだよ」と苦言を呈しました。母は平然とした顔で、「それ、ずいぶん古いよ。中はダニでいっぱいかもしれないよ。私は孫の健康が心配で・・・」。私は黙って、それを手洗いし、ベランダに干したのでした。

  干しながら、まじまじとこのクジラを見ると、何とも味のあるかわいい顔をしています。このかわいいぬいぐるみ、しかも、孫が生まれてからずっと一緒だったものを捨てられるとは・・・。やはり、私の母は只者ではないと改めて思ったのでした。

 子供たちが使い、袖を通したものは捨てられない私と、物は物として愛着を持たずに処分できる夫と母。世の中の流れは、夫と母のほうなんだろうなと分かりつつ、やはり捨てられない私なのです。


 

 

 

 

2016年12月3日土曜日

捨てられない!

 「片づけは、『捨てない』ほうがうまくいく」
 朝、娘を学校に送り出した後、コーヒーをすすりながら朝刊を読んでいたところ、こんな本の広告が目に飛び込んできました。なんて、胸に響くタイトルでしょうか。この日は夫が一週間の出張から帰ってくる日。整理整頓好きの夫が帰宅するまで、散らかった家を片付けなければならず、うんざりとしていたところでした。

  昨今、世の中には「物を捨てて、すっきり暮らしましょう」というメッセージが溢れています。物を捨てることが出来ない私にとっては、いくら「物への執着を断ち切れば、幸せになる」と言われても、捨てられない。だから、このようなタイトルに引かれてしまうのですね。出版社も分かっているのでしょう。世の中の「捨てましょう」という風潮に賛同しない人が少なからずいることが。

 しかし、タイトルの横の文章を読んでいくと、いまひとつ、ピンとこない。パソコンを立ち上げて、アマゾンで注文する気になれない。私はそこから目をそらし、新聞を読み終え、その後3時間かけて散らかった家を片付けたのでした。

 私の「捨てられない病」は結構、重症です。無類の片付け好きな母に育てられたことの、反動かもしれまません。

 母の潔さは天下一品です。まず、一人っ子の私が独り立ちした後、私の部屋の壁を取り払い、広々とした部屋を作りました。私の使っていたベッド、机を処分し、私が必死に勉強した大学時代のテキストブックも本棚ごと、捨てました。私が小さいころ読んで、子供が生まれたら読み聞かせようと思っていた絵本もすべて、処分。置かせてもらっていたゴルフセット一式もなくなっていました。

 「お母さん、一応、私のものなんだから、ひと言聞いてよ」と言うのですが、「ごめんね。でも、もう、捨ててしまったからしょうがないじゃない」と、反省の色なし。で、「自立した後、親の家に私物を置いておく自分が悪いのだ」と自身に言い聞かせ、今は先手を打って、捨てられては困るものを実家に戻るたびに持ち帰ったり、母にくぎを刺したりします。
 「お母さん、お願いだから、アルバムは捨てないでね。お母さんやお父さんが若いころの写真が貼ってあるあのアルバム」

 昨年は、「雨漏りしてねえ。あんたのクローゼット(もちろん、私のものは処分され、母の服が入っています)も水浸しになったんだよ。で、業者さんに来てもらって、直してもらった」という話を電話で聞いたときは、真っ青になりました。作り付けのクローゼットの引き出しの下に、昔イギリスのロックバンドに憧れたときに買いためた雑誌を、隠していたのです。しばらくしてから帰省し、引き出しを引っ張り出し、その下に雨がしみ込んでくたっとなった雑誌を確認したときは、思わず、胸をなでおろしました。こうやって、”生き延びた”雑誌は、母に気付かれないように、少しずつ、帰省するたびにスーツケースに入れて持ち帰っています。たまたま、どこに転居しようと持ち歩いていて、手元に残っている唯一の児童書「若草物語」とともに、自宅に大切にしまってあります。

 今、片付けられない親についてなげく中年の娘たちの話がよく出てきますが、うちは逆。片付け過ぎる親についてなげく、娘という構図です。いつも家がきちんとしているママ友達に「どうして片付けが好きなの?」と聞いてみると、ほとんどが、「親の家が物で溢れていて、それを見て育ったからかな」と答えます。やはり、「反動」なのですね。

 あるママ友達のエピソードは、考えさせられるものでした。
 「母にね。私の小さなころの思い出の品々を渡されたの。でも、私まるで覚えていないし。結局、全部捨ててしまったわ。せめて、取捨選択して、母の思い入れのあるものだけ残してほしかった」
 娘や息子が書きなぐった紙の切れ端さえ、いとおしくて捨てられない私には、そのママ友達のお母様の気持ちは良く分かります。うらやましいほどの話ですが、思い出の物はやはり、ある程度の量までに絞っておくべきなのでしょう。

 さて、潔い母ですが、捨てずに取っておいて、私にくれたものがいくつかあります。私が娘を産んだ後、送られてきました。

 一つは、私が赤ちゃんのころ、母が私をお風呂に入れるときに使っていた温度計です。木製で船の形をしており、水色に塗ってあります。手に取るとすっぽりと馴染み触り心地も良く、「あの母にも捨てられなかったほど、思い出深いものだったのだ」と感慨深い。大切に、娘が赤ちゃんのときの思い出の物を詰めた箱に一緒に入れてあります。

 もう一つは母子手帳とへその緒。母と父の名前と住所などが、几帳面な母の字で書かれています。特に養育の記録はありませんが、予防接種の判がいくつも押されています。最後のページには、鉛筆のいたずら書きがあります。おそらく、私が書いたのでしょう。

 娘が小学校に入学したときは、私が赤いランドセルを背負った写真が送られてきました。街の写真館で写したものです。写っているのは私一人。父と母も一緒に写してほしかったなあ、と思いますが、当時はそのようなことも考えなかったのでしょう。もしくは、費用のこともあったのかもしれません。

 娘と息子が赤ちゃんのころの思い出の品々はそれぞれ、ピンクと水色の箱につめて、整理してあります。が、子供たちは成長していますので、思い出の品々は増えるばかり。「工作品は写真に撮って、現物は処分すること」などという、「片付け本」のアドバイスはまだ実行に移せていません。だって、空き箱で作った動物や、段ボール箱で作った家など、いとおし過ぎて捨てられるわけはないではありませんか。

               

 


 

 
 

 

 

2016年12月1日木曜日

日本人ママの心配

  娘の通うインターナショナルスクールで、保護者向けに日本語の授業説明会がありました。公立校からインターに転校し、語彙力が落ちてきている娘の日本語教育をどうしたものかと考えていた私は、真剣に説明に聞き入りました。

 会場になった教室は、あっという間に熱心な保護者たちで埋め尽くされました。第二外国語として日本語の授業を取っている子供の親も参加しているため、日本人教師からの説明はすべて英語です。

 教師はまず、「以前は週3時間だった授業が2時間に削られ、絶対的に時間が足りず、課題を終わらせることが難しい」と説明。それを補うための宿題はしっかりとやらせてほしいと親に協力を求めていました。

 日本人ママから、次々と手が挙がります。
 「日本の学校に行っている子供たちとのギャップはどんどん大きくなり、そのギャップは埋まらない」
 焦りがにじんだ意見です。振り返って、そのママを見て仰天しました。言葉を交わしたときは、ネイティブの日本語でした。が、英語も完璧なのです。話を聞いていくと、自分がインターに通っていたころと比較をしています。当時に比べて、日本語授業への物足りなさを感じているらしいのです。

 教師からは、「通常の授業のすべてを日本語で行い、かつ、週7時間ほどの国語の授業を行う日本の学校で学ぶ子供と、週2時間の日本語の授業だけのインターの子供では、習得のスピードに差があるのは仕方ないでしょう。やはり、ご家庭でどれだけ勉強するかにかかっていると思います」との説明。

 「やっぱり、そうだよな。家庭だよな」と私は思わず、うなずきます。なぜなら、英語での授業についていき、かつ、たくさんの宿題をこなしていく娘に、さらに漢字や文章読解など「国語」の勉強をさせることは、簡単ではないからです。私は、おそらく娘の到達点は英語はネイティブ並みにできるが日本語は「読み書きに難あり」だろうな、とあきらめつつあるのです。

 しかし、そう腹をくくれるのも、娘がハーフだからです。日本語が多少できなくても進路の選択肢は少なくはならないだろうと、楽観視できるからです。一方、生粋の日本人の子供を持つ親の悩みは深い。

 次に出た意見も日本人ママから。
 「年齢に適した本を推薦してほしい。以前は授業で課題図書を読んでいたのに、それがなくなり残念に思っています」
 その意見に対しても、教師は「圧倒的に時間が不足する中で、教科書に沿った授業をするのが精一杯で、たいへん申し訳なく思っています」と説明。さらに、子供たちの意欲に踏み込んだ説明もなされました。
 主要教科の勉強が難しくなり、子供たちが宿題に追われるようになっていく中で、子供たち自身が日本語の勉強を軽視し、日本語の本も読まなくなる傾向があるというのです。

 その説明についても、私は「やっぱり、そういう傾向はあるんだ」と納得。娘には子供向けの「世界文学全集」を少しずつ買い与えるなど読書に興味を持ってもらうように努力はしていました。娘も、「ママ、次はこれを買って!」というほど読んでいたのに、今では日本語の本をほとんど読まなくなりました。その代わり、寝る前は英語の本を読むようになりました。また、日本語の宿題やテスト勉強も前ほどには熱心にはやらなくなりました。

 教師の話を聞きながら、少し前に娘を厳しく叱責したことを思い出しました。翌日漢字のテストがあるのに、前日の夜10時まで勉強せず、また、テストのことを私には言わなかったのです。地理や英語、算数のテストがあるときは夫に横についてもらい、必死にやっているのに、です。

 そのとき、私は娘にこう言いました。
 「あなた、日本語をばかにしているの?」
 「他の科目は必至に勉強するのに、漢字のテストはどうして勉強しないの? 勉強しないと結果がどうなるかはこれまでの経験で分かっているでしょう?」
 私はこう娘にたたみかけました。

 娘は驚いた表情で、「バカになんてしていない。忘れていたの。ごめんなさい。ママ。横について一緒に勉強して」

 私はきっぱりと断りました。ここで許せば、また、同じことの繰り返しになると思ったからです。娘はその後、泣きながら夜遅くまで漢字の練習をしていました。

 娘の通う学校には、外国人の子供たちだけではなく、日本人の子供も在籍しています。中には日本に生まれ育ちながら親の方針により通っている子もいますが、多くは親の海外赴任で英語圏の学校で学び、帰国後インターに編入した子供たちです。その子供たちの親の心配は「日本語」と「進路」。生粋の日本人でありながら、日本語の習得が遅れがちな子供の将来を心配し、今、どのような手を打つべきか、迷いながらの日々のようです。

 アメリカなど先進国に赴任すれば、当地に進出している日本の塾の担当者らに「いかに日本の受験を取り巻く環境は厳しいか」とあおられる。後進国に赴任すれば、補習校も情報もない中で、日本から取り寄せた教材を頼りに、子供に勉強させる。日本に帰国すれば、とりあえずインターに入れたものの、子供の進路はどうすれば良いのか、溢れんばかりの情報の中で迷う。

 娘は今中学1年生ですが、日本の学校に行っていれば小学6年生です。娘の同級生には密かに、日本の私立中学の受験を目指し、塾に通っている子供も幾人かいるようです。学校での「英語での勉強」に加えて、塾で「日本語での勉強」をする子供たちの負担を考えると、少しかわいそうにもなりますが、親も子供の将来を考え熟慮の上での決断なのでしょう。

 子供の将来についてママたちと話をしていたとき、理系の大学に進みたいと希望している、娘の同級生のママが言いました。
「インター卒の子供たちが行ける日本の大学は増えているけど、文系がほとんどなの。娘が、将来理系の大学に進むなら、留学しかない。だから、ここで軌道修正して、日本の学校の中で学ばせて、日本でも外国でも、娘が納得する進路を進めるようにしてあげたい」

 ママたちの心配は尽きないのです。

 

 
 

 

2016年11月11日金曜日

残念。アメリカ大統領選

 アメリカ大統領選で、大方の予想に反して、共和党候補のドナルド・トランプ氏が選ばれました。初の女性大統領が生まれることを期待していた私としては、とても残念な結果でした。アメリカ人の夫も私も事前の報道から民主党候補のヒラリー・クリントン氏が勝つと思っていましたので、夫婦でこの結果を驚きを持って受け止めました。


 この日は朝からワクワクしました。まずは午前7時のNHKニュースをしっかりと見るために、家事に集中。子供たちのお弁当作り、洗濯物干し、キッチンの後片付けを猛スピードで終わらせ、娘を学校に送り出し、日課の5分間ジョギングも終えて、入れたてのコーヒーを片手にテレビの前のソファに座りました。

 NHKによると、過去の大統領選ではオハイオ州とフロリダ州を制した候補が勝ってきたので、トランプ氏がこの2州を取れば、勝つ可能性も出てくるとのこと。「なるほど、オハイオ州ね」と夫の叔母が住むこの州の名前を頭にインプット。事前調査ではクリントン氏優勢だが、「クリントン氏支持と答えながら、実際の投票ではトランプ氏に投じる人も少なくない」という面白い解説もあり、「そうか、表立ってはトランプ氏支持と言えないが、投票用紙にはそう書く人もいるんだ」と日本時間の午前8時に始まる開票速報を待ち遠しく思いました。

 午前9時に息子を幼稚園に送り、その足で幼稚園ママたちで活動するハンドベルサークルへ。1時間半の練習の後のお茶の時間でも、ママたちの話題はアメリカ大統領選です。アメリカ国籍の夫を持つママが言います。
 「夫が、投票しに行こうかなって言っていたのよ。こんなこと初めて。よほど関心があったのね」
 「それって、どこで投票できるの? アメリカ大使館?」
 「昨日のニュースで、トランプが最後の雄叫びを上げていた。暴言を吐いて選挙を戦おうとする人が候補になっちゃうなんて、アメリカもよほど人材不足なのね」
 私も朝仕入れた「オハイオ州とフロリダ州」の話をします。

 このように今回のアメリカ大統領選は、地球の反対側にいる日本人ママたちがお茶の席で話題にするほど、注目のニュースだったのです。

 この日幼稚園は午前中で終わるため、息子を迎えに行って帰宅。珍しく自宅で仕事をしていた夫が、パソコンで現地のニュースを見ながら、興奮気味に語ります。
 「トランプが優勢なんだ」
 「ほんとう?」

 ほどなく、注目のオハイオ州をトランプ氏が制したことが判明。ママ友達からも「トランプ氏がオハイオ勝利した~。どうなるんだろうね」とメールが。それからは、画面のアメリカの地図がトランプ氏の赤に染められていき(クリントン氏は青)、多くの人が驚くような流れになっていくのです。

 私は、ヒラリー・クリントン氏をずっと「後に続く女性たちのために、道を切り開いてくれる力強い女性リーダー」として注目してきました。自分の置かれた環境の中で最大限の努力をし、チャンスを生かし、やりがいのある仕事も家庭生活も手に入れた女性。野心やしたたかさなどで、ずいぶん嫌われていましたが、私は「あそこに至るまで、どれほどの努力と忍耐とタフさが必要だったか」とヒラリー(と呼ばせてもらいます)が最終目標を達成し、アメリカンドリームを体現する日を待ち望んでいました。が、それがもう一歩というところで叶わず、とても残念に思いました。

 9日、敗北を認めた支持者前での演説で、ヒラリーは「私たちはいまだに最も高く硬いガラスの天井をくだくことが出来なかったが、私たちが思うより早く誰かが達成するだろう」と後進に女性大統領の夢を託しました。彼女の闘いはたいへんなものでしたが、この後に続く女性たちに道を切り開いてくれたことは、とても大きな意味があったと思います。

 トランプ氏が勝利宣言をした後、私は、本棚の奥にあるヒラリーの自伝「リビング・ヒストリー」を取り出して、ページをめくってみました。奥付を見ると2003年12月31日初版発行とあります。700㌻超の本は、いくつもページが折り込んであり、1か所だけ赤い付箋がついていました。イエール大学のロースクールを修了して弁護士資格を取得したヒラリーが、アーカンソー州にいる恋人のビル・クリントン氏を追っていく場面です。

 「一緒になるなら、どちらかが、譲らなければならない」
とヒラリーは、自分に言い聞かせます。アーカンソー州まで車で送ってくれた友人に道中何度も「本当にこれでいいの?」と聞かれながらも、首都ワシントンでの自分の将来を捨て、自分が愛する男性の元に行くのです。

 「人間として成長しようとするなら、今こそ、エレノア・ルーズベルトの言葉ではないが、”いちばん恐れていることをすべき”なのだ」

 ヒラリーは、尊敬するルーズベルト大統領夫人(アメリカ国連代表・婦人運動家)の言葉を引いて、自身を奮い立たせています。私はこの部分に、傍線を引いています。通読した分厚い本の中で、傍線を引いたのは唯一この部分だけ。私はこのとき、遠い国アメリカの、私とは全く接点のない、二十歳近く年上のヒラリーのこの言葉に背中を押されたのだと思います。

 この本が発行された1カ月前の2003年11月は、私が厳しい抗がん剤治療を終えた月です。新聞記者の仕事に遅れを取るのを恐れて、働きながら治療をしていました。髪の毛がすべて抜け、肌も茶色に変わり、体調も悪い中で、懸命に仕事をしました。その後、体調は徐々に回復し、翌2004年春に妊娠。「仕事と家庭の両立」を目指し、それを記事に書いてもきた自分が、がん治療後の39歳での初めて妊娠という立場になり、逡巡したのです。やりがいのある仕事を続けるべきかどうかーと。そのようなときに、私はこの本を熟読しました。前を突き進む女性の先輩からのアドバイスが欲しかったのだと思います。

 そして、「人間として成長しようとするなら、今こそ、いちばん恐れていること=仕事を辞めること=をすべきなのだ」と、勝手に解釈したのです。まずは無事赤ちゃんを産み育てることを優先しようと。大きな決断を迫られた若き日のヒラリーと、自分を重ね合わせるのはあまりにもおこがましいですが、そうやって私は前を進む女性たちにたくさんの生きるヒントをもらってきたのです。

 その後、私は退職。出産後には体調が悪化していき、いくつもの病気と闘うことになります。そのような中、やはり、ヒラリーの活躍・奮闘は私の励ましとなりました。

 2010年5月、ノートにまた、ヒラリーの記述が出てきます。再々発したがんを抗がん剤と放射線で抑え、ヘモグロビンを自己免疫が叩き壊す自己免疫疾患を薬で抑え、抗がん剤の副作用で悪化した不整脈の手術を終えた後、さらに血小板を自己免疫がたたく新たな自己免疫疾患を発病し、「国立がん研究センター中央病院」=東京都中央区築地=に入院していたときです。病気の連鎖の中でもがき続け、気力を失いかけていました。

 来日したヒラリー・クリントン米国務長官と岡田克也外相の共同記者会見をがん研究センターのベッドに寝ながらNHKニュースで見た後、こうノートにつづっています。
 「弁護士として活躍し、結婚し、子供を産み、国の最重要ポストについている女性。比べる方がおこがましいが、同時代を生きる女性として何という差だろうー」

 ここでは「大統領の妻」という表記がないところが振り返って読んでもおもしろいのですが、このときも私は、大統領選の民主党指名の候補としてはバラク・オバマ氏に負けたが、気持ちを切り替え、再び国務長官として力強く進み続けるヒラリーに「病気ぐらいに負けちゃ駄目よ」というメッセージをもらったのだと思います。

 今回の敗北は本当に残念ですが、ヒラリーのことですから、また、どこかで活躍するに違いありません。69歳のヒラリーの挑戦は、私たちに感動をくれました。ヒラリー、お疲れ様です。私はまた、あなたに励まされました。

 

 
  
 

 

 

2016年10月31日月曜日

ハッピー ハロウイーン!

 ハロウイーンは、子供たちが最も楽しみにしている行事です。娘が小さいころは、デコレーション用のかぼちゃや飾りを手に入れるのも大変だったのですが、最近はどこもかしこもハロウイーングッズがあふれ、子供や大人にも大人気の行事になりました。今年も娘と息子は張り切って仮装し、駅前の商店街へ。お店の前で「トリック オア トリート」と言い、キャンディを次々と”ゲット”しました。駅前は、仮装した子供たちであふれ、親も子供も楽しいひとときを過ごしました。

 
  まずは、駅前に繰り出して、キャンディをもらいました。娘が扮したのは「狼男」。息子は「スパイダーマン」です。
今年、我が家で購入した一番大きなかぼちゃ。40㌔です。
左が娘、中央が夫、右が息子。一番大きいかぼちゃは娘が彫りました。私が彫ったのは大きなかぼちゃの左、息子のは右です。
パンプキンパイも焼きました。子供たちの大好物です。

2016年10月30日日曜日

親子ドッジボール

 娘の通うインターナショナルスクールで授業参観があり、体育の授業で親子ドッジボールに参加しました。

 授業参観が行われたのは、日本語、算数、体育、宗教(娘の学校はカトリックです)の4教科。日本語、算数、宗教は日本の公立校と同様、教室の後ろで見るだけでした。少し違ったのが、体育の授業。子供たちのバスケットボールの授業が終わった後、先生が「お母さん、お父さん、子供たちと一緒にドッヂボールをしませんか?」と呼び掛けたのです。

 体育館の2階のベンチに座って、子供たちのバスケットボールを観ていた親たちは互いに顔を見合わせました。「どうします?」「私、運動神経鈍いのよ・・・」という声が聞こえます。が、46歳の夫も51歳の私も立ち上がりました。こんな経験は二度とないかもしれないのです。参加しない手はありません。ためらうお母さんたちにも、「行きましょうよ」と声掛けし、コート内に。

 親子ドッジボールは、楽しかった。普段、スポーツをしている姿など見たこともない夫の活躍も、予想外の楽しい発見でした。誰も信じてくれませんが、私はバスケットボールやハンドボールは得意中の得意。が、コート内を軽やかに動き回った・・・とはならずに、あっという間に子供にボールを当てられ、コートの外に。夫は、コートの中心に立ち、少ない動きで、次から次へと子供たちにボールを当てていきます。私はコート外でようやくボールを拾って子供にぶつけ、コート内に。が、また、子供たちに狙われて、ボールを当てられます。こうやって、ちょろちょろと動くものの、出たり入ったりを繰り返す始末。夫は泰然と、なんと十人近くの子供に当ててしまったのです。

 楽しい時間も終わり、先生が親たちに言いました。「お父さん、お母さん、ありがとうございます。子供たちにとってとても楽しい時間となりました」

 「あっという間に子供に当てられたわ」
 「ドッジボールなんて、何十年ぶりかしら?」
 親たちの表情もみな、一様にさわやかでした。

 さて、体育の時間が終わりクラスに戻るとき、娘が私にこっそりとつぶやきました。
「男子たちがね、君のお父さん、怖いなぁって言うんだよ」
 娘は苦笑いしています。
 その言葉を聞き、40年以上前の、私の小学生時代を思い出しました。あのときもあったのです。授業参観での親子ドッジボールが。

 そのときの情景が鮮やかに蘇りました。運動神経抜群の私の母が、コート内をすばしっこく動き回り、子供たちに次々とボールを当てます。他のお母さんはおろおろとしているのに、私の母は生き生きとして、コート内を走り回っています。
 授業が終わり、担任の先生に、「君のお母さんは運動神経が良いね。たぶん、学生時代に何かスポーツをしていたんだね」と言われ、なぜか恥ずかしく、鮮明な記憶として私の脳裏に刻まれました。
 母と母のきょうだいは皆足が速く、「鈴木(母の旧姓)のサラブレット」と近所でも有名だったらしく、さらに、母は中学・高校とバレーボールのクラブに入っていました。ですので、授業参観で親子ドッジボールに参加することは、母にとって久しぶりの楽しい時間だったに違いありません。

 ドッジボールで親子の交流を深めるー。これが世代を超えて、国籍を超えて、行われている。このような素敵な発見が出来たことは、とても嬉しいことでした。

 後日、夫にこのときの活躍についてほめると、夫はまじめな顔をして答えました。
 「鍵は、コートの中心にいることなんだ。僕は195㎝と体が大きいから、的にするには最適だ。でも、ボールを投げるのは子供だからね。それほど遠くに的確にボールは投げられない。コートの中心にいれば、コートの外にいる自分の視野に入らない子供たちがたとえ僕を狙っても、なかなか届かないんだよ。自分の視野に入る子供たちは、狙えばすぐ当てられるしね」

 なるほど。さすが、アメリカ人。ドッジボールのやり方までも合理的で、戦略的です。私のように、ただただボールから逃げているだけでは、すぐ、当てられてしまうのだなあ、と妙に納得。
 「次の親子ドッジボールは、戦略的に行こう」
 息子が小学生になったときに、”リベンジ”の機会が訪れますように、と願ったのでした。

 

 

2016年10月19日水曜日

中村芝翫襲名披露公演へ

  私の秘かな趣味は、歌舞伎観劇です。今月は中村橋之助の八代目中村芝翫襲名披露公演に行きました。同じく歌舞伎好きな札幌の母も連れていきました。今回は橋之助が亡父の名跡を継いだだけでなく、息子三人もそれぞれ、四代目中村橋之助、三代目中村福之助、四代目歌之助を襲名するおめでたい公演。私と母は、豪華な役者たちの至芸を堪能しました。

 今回は初日にチケットを取りました。襲名をする役者が観客に挨拶をする「口上」がある、夜の部にしました。親子4人の襲名披露公演なのでチケットはすぐ売れてしまうだろうと予想し、発売日の発売開始時間・午前10時には、パソコンを立ち上げ、電話も用意し、両方でアクセス。しかし、1階の1等席はすべて売り切れ。2階の1等席もほとんど売れています。「たぶん、ご贔屓の方々にチケットがまわるのだな」と思いつつ、気を取り直して注文し、2階席ではありますが、良い席を取ることが出来ました。

 さて、当日。母とおしゃれをして日比谷線に乗り、歌舞伎座のある東銀座駅へ。改札口を出て上りエスカレーターに乗り地上へ。入り口前にはすでにたくさんの人がいました。昼の部の観客がまだ出てきていないので、夜の部の観客が入り口前で待っているのです。髪を結い上げ、着物を着た美しい芸妓さんも入場を待っていました。
夜の部はまず、尾上松緑が主役を演じる「外郎売」で幕開け。松緑が早口言葉で台詞を言い立てるのを感心しながら聞き入り、中村七之助の美しさに見とれます。「最近、七之助が艶やかになってきたよね」と隣の席の母とする”役者談義”も楽しみの一つ。
 
                

 そして、見どころの襲名披露「口上」。袴姿の19人の役者がずらりと舞台に並びます。真ん中が新芝翫で、観客席から見て左側に息子3人が並んでいます。まずは、新芝翫の右横の坂田藤十郎が挨拶。やはり、この人がいると舞台が締まります。母とも開幕前に藤十郎の魅力について語り合ったばかり。結構なお年なのに、妖艶で、色気たっぷりなのです。
 藤十郎の後は玉三郎・・・と右側の役者らが次々と述べます。そして、右端の尾上菊五郎。「ちょろちょろせずに・・・」と、新芝翫に釘を刺します。観客席からは笑いが漏れます。公演直前、タイミングを見計らったように、京都の芸妓さんと熱い関係にあると週刊誌に書かれてしまったことを言っているのです。私と母も「口上で触れないわけにはいかないよね」と予想していました。観客を笑わせて、深刻さを打ち消してしまう菊五郎はさすが、と妙に感心しました。 
 そして、最後に新芝翫。「先祖の名を汚さぬよう、なお一層芸道に精進する心得でございます」と述べ、息子3人も「三人兄弟力を合わせてなお一層芸道に精進いたします」(新橋之助)などと立派に挨拶。観客たちは大きな拍手で4人の襲名を祝ったのでした。私と母も、2階席から大きな拍手を贈りました。

 三幕目は、「熊谷陣屋」。源平合戦での物語です。新芝翫が源氏の武将・熊谷直実を演じます。敵の若武者・平敦盛の首を討ち取ったとするが、実は、敦盛の身代わりとして我が子の首を討った直実。我が子の首を妻と一緒に抱く場面は、涙を誘いました。

 最後は玉三郎の「藤娘」です。うっとりとするほどかわいらしく、初々しい玉三郎。1階の両側の桟敷席に並んだ芸妓さんたちを双眼鏡でちらちらと見ながら、「この中に新芝翫のお相手がいるのかしら?」などと興味津々だった私も、玉三郎の舞を見た後は、「きっと、芸妓さんたちは、玉三郎を参考にするために来たんだわ」と思い直しました。女性がお手本にしたいと切望するほど、玉三郎は、美しかった。

 私が歌舞伎役者の中で最も好きなのは、この舞台に出ているはずだった新芝翫の兄、中村福助です。報道によると福助は2013年に脳内出血で入院、その後は公の場に出てきていません。口上では、福助の息子の児太郎が、父親がリハビリに励んでいることを観客に伝えていました。福助はどんなにこの舞台に出て弟の芝翫襲名を祝いたかっただろう、そして、自身の、女形の大名跡・中村歌右衛門の7代目の襲名が発表されて間もなくの発病で、どれだけ悔しかっただろうと思いました。

 「早く福助に舞台に戻ってきてほしいね」
 そう話しながら、私と母は歌舞伎座を出ました。もちろん、ちゃっかりと、出口に立つ着物姿の新芝翫の妻・三田寛子の横を通ってその表情を窺い、帰りの電車での話題にしたことは、言うまでもありません。歌舞伎は舞台も、舞台の外の話題も、ファンにとっては楽しみなのです。

2016年10月16日日曜日

緑の診察券

  9月28日は、4カ月ぶりの診察日でした。幼稚園への息子の送迎、子供2人のお弁当作り、炊事・掃除・洗濯、娘の学校でのPTA活動・・・という日常から離れて、私は久しぶりに「がん患者」に戻りました。

 病院に着き、再診受付の機械に診察カードを入れます。2003年初夏に初めて受診したときに作ってもらったもので、緑色の線がついています。患者らのカードの多くが黒い色だと気付いたのは、もう何年も前のこと。それから、患者たちが4台並ぶ再診受付機にカードを差し込むとき、クリアフォルダにカードを入れて持ち歩くときに注意してみるようになりました。ほとんどが黒でした。

「私のように長く生きている人はあまりいないのだな」
私よりずっと年上の患者たちの、黒い線のカードを見ながら、少しだけ感慨に浸ります。そして、「せっかくここまで生きたのだから、緑の線のカードを持った最後の人になろう」などと、つい、いつものように前向きな目標を立ててしまう自分を心の中で笑います。
              
1階で再診受付を終え、保険証の確認窓口を経て、2階の血液・尿検査室へ。採血・採尿の受付作業は以前職員が行っていましたが、いまは2台の機械が行います。このように、私が通い続けた13年間に病院内は少しずつ変わりました。病院名は「国立がんセンター中央病院」から「国立がん研究センター中央病院」に変わり独立法人化。院内も機械化が進んだり、患者の相談窓口が増えたり、売店などの店舗が変わったりしました。

 採血・採尿が終わると、診察時間までの間、私は1階のカフェに行きます。ここは以前、売店があった場所。そこで大好きなチーズケーキとコーヒーをオーダーします。このカフェが出来る前は自動販売機で売るコーヒーしかなくて、入院中は夫に頼んで「スターバックス」 のコーヒーを買ってきてもらいました。カフェのテーブル席がある場所は以前、救急患者の入り口になっていたところ。私もその入り口から、救急隊員に声掛けされながら、担架に乗せられて運び込まれました。そんなことも毎回このカフェでコーヒーを飲むたびに、懐かしく思い出します。

 カフェでひと息ついた後、2階の待合室へ。自分の診察室近くの椅子に座ります。待合室では頭髪が抜けてしまった頭を隠すため、かつらや帽子をかぶった人をたくさん見かけます。後ろの席では、患者が知り合いの患者に帽子を脱いで頭を見せています。
 「あら、きれいに生えて良かったわね」
 「そうなのよ」
 あっけらかんとした会話を聞きながら、かつらを被って仕事をしていた昔を思い出します。

 その外来には呼吸器、乳腺、内分泌、整形外科、血液内科の診察室があり、ひっきりなしにマイクを通して医師の患者を呼ぶ声が聞こえます。「医師の声が、若い」と気付いたのも最近。「いつのまに、外来の医師らより年上になってしまったんだな」と思います。

 「村上さん、34番にお入りください」
 13年間、聞き続けた主治医の穏やかな声が聞こえます。
 「こんにちは」。診察室に入ると、主治医はいつもの笑顔で迎えてくれました。
 「前回の胃カメラとCT検査では特に異常は見当たりませんでした」
 来年の検査まで、また、1年寿命が延びました。

 私は短い診察時間、いつも小さな話題を主治医に振ります。
 この日は診察カードの話をしました。

 「先生、私、ここに通って13年になるんです」
 「そうですか。ずいぶん経ちましたね」
 「私のように、緑色の線が付いたカードを持っている人、少ないんです」
 「そうですか。緑色のカードですか。それは良いことです」
 主治医はにこにこと笑って、薬の処方箋をプリントアウトし、4カ月後に診察予約を入れました。診察日の間隔はここ数年、少しずつ、長くなっています。

 会計を済ませて病院を出ました。活気付いていた、築地市場の場外市場はほとんど閉店していました。移転問題で揺れる築地市場。がん研究センターの斜め前にあった、私の好物のさつま揚げの店も閉店していました。「今日は好きなだけ、さつま揚げを食べるぞ」と1000円のパックを買って帰ったことを思い出しました。少し、寂しい気持ちになりました。

 「いろいろ移り変わるけど、私は生きてここに通っているから、まあ、いいか」
 気持ちを切り替え、角を曲がり、私はいつもの薬局に向かいました。

 
 

2016年9月19日月曜日

母娘の成長?

 中学生になった娘がとても嬉しそうな表情で帰宅しました。「セクレタリー(書記)になったの!」と興奮気味に話します。その日はクラスの委員決めの日。勇気を出して立候補したら、クラスメート全員が承認の拍手をしてくれたようなのです。

 娘によると、主な仕事は4つ。
 ①朝一番早く教室に入り、電気とエアコンを付ける。
 ②黒板に、日付とその日の時間割を書く。
 ③クラスメートのバッジをチェックし、忘れた人にはシールをあげて記名してもらう。
 ④先生が忘れたことを、思い出してもらう。

 ④の「先生が忘れたことを、思い出してもらう」には仰天しました。思わず、「それ、出来るの?」と聞いてしまいました。なぜなら、娘は忘れ物が多く、少し前の出来事さえ、きれいさっぱりと忘れる人間だからです。
 地元の小学校に通っていたとき、私が忘れ物を届けたことは数知れず。鍵盤ハーモニカ、書道セット、絵の具セット・・・。いつも私が忘れ物を届けるために、守衛さんに顔を覚えられて、「お疲れさまです!」と明るく声掛けしてもらったぐらいです。その娘が、先生が忘れたことを指摘する役割を担うとは。インターナショナルスクールの太っ腹な教育方針に、心から感謝しました。

 書記に選ばれた翌日から、娘は変わりました。6時半と決めた家を出る時間は絶対に守ります。クラスメートの多くは学校の近くに住んでいますが、娘の通学時間は片道1時間。その娘が一番早く教室に入らなければならないのは、かわいそうな気がしましたが、娘は眠い目をこすっても誰よりも早く教室に入って電気とエアコンを付けることに誇りを持っています。
 ある日、先生が出欠を取ることを忘れたときは、娘は「先生、出欠の確認をお願いします!」と言えたようです。その話を聞かされた日は、ほめる子育てが苦手な私も、「よく、気付いたわね」と自然にほめることが出来ました。

 娘に、書記に立候補した理由について聞いてみました。
 「人の役に立ちたかったの」
 娘は、そうシンプルに答えました。私がいつも娘に言っていた言葉でした。それを、自分の心から出た言葉として言ってくれた娘を、愛おしく思いました。娘は知らないうちに、成長していたのです。

 私は38歳で血液がんを発病後、難病である自己免疫疾患を2つ発病しました。不整脈を患い手術。血液がんは2度再発し、治療中に敗血症ショックで死ぬ目に合いました。いつも何かを治療し、薬の副作用に苦しみ、遠方に住む両親に助けを乞い、家事・育児を手伝ってもらっていました。まったく役立たずの期間が長く、口癖のように「人の役に立ちたい」と娘に言い続けていました。だから、健康を取り戻して昨年度、息子の通う幼稚園の保護者幹事役に手を挙げて、一年間務めることが出来たことは私にとって、何よりも自信になりました。

 娘と話をしながら、4歳年上の先輩の言葉を思い出しました。その先輩は全国企業の地方支社で、秘書の仕事をしています。新人で地方に配属される男性社員を一から育て、その社員が社内で出世をして、彼女より上の肩書で戻ってくる。そして、その人たちに仕える。そのような仕事人生です。男女雇用機会均等法世代の女性にとっては、ある意味、許しがたい職場かもしれません。が、先輩は数年前、私と会ったときにこう言い切りました。

 「私はね、重宝がられる人間でいたいの」、と。
 その言葉を聞いて、私は目頭が熱くなりました。こんな素晴らしい心構えはあるだろうかと。そして、私も先輩のような謙虚な心を持ちたいと願いました。

 娘が書記に立候補したことに刺激を受け、私も、娘のクラスのクラスペアレント(保護者幹事)に手を挙げました。担任の先生とのやり取りや保護者への連絡メールは英語のため、錆びかけた頭を使わなければなりません。気力が入りますが、一年間、また少しでも人の役に立てることを嬉しく思います。

 娘の成長を見守るだけでなく、アラフィフママ自身も成長しなければならないのです。

 
 
 

 

2016年8月26日金曜日

娘が中学生に

 2カ月半の長い夏休みを終え、娘の学校が始まりました。娘は今月から中学生になりました。生まれたときは身長48センチ体重2664gと小さな赤ちゃんだったのに、今や身長160センチの私と同じ背丈になり、足のサイズは私より1センチも大きくなりました。あっという間に子供は成長しているのです。

 寝坊助の娘が一念発起し、中学校初日から朝5時半に目覚まし時計をセットしました。中学生になるとこれまでより30分早く、6時半に家を出なければならないからです。目覚まし時計を置いたのは枕元ではなく、2段ベッドから離れたクローゼットの上です。

 「ジリジリジリ・・・」と音が鳴りました。
 「大丈夫かなあ? 起きられるかなあ?」とキッチンで耳をそばだてていると、どどどっと二段ベッドを降りる音がしました。そして、ベルの音が消えました。 
 「おはよう!」と言いながら、眠そうな顔をして娘が起きてきました。娘の成長を嬉しく思いました。

 「ママ、髪をしばってくれる?」
 そんなリクエストに応えて、髪をしばってあげようとしたところ・・・。身長が同じなので、髪をうまく結べません。仕方なく、息子が歯磨きのとき使う足台に乗って、娘の髪をしばってあげることになりました。台の上から娘を見下ろしながら、「ああ、髪を結んであげられないほど、大きくなってしまったんだなぁ」と、毎日ポニーテールを結んであげた幼稚園のころを懐かしく思い出し、少し切ない気持ちになりました。

 「いってらっしゃい。今日から中学生、頑張ってね!」と声をかけながら、玄関を出た後いつもの角を曲がるまで手を振って送りました。娘はいつものようにダディと手をつなぎ、曲がり角でこちらを振り向き、ピョンピョン飛び上がって、「いってきまぁす!!!」と両手を振ってくれました。

 家に戻り、ほっと一息つきながらコーヒーを飲んでいると電話が鳴りました。娘からです。

 「ママ、電車のパス忘れたのぉ。お願い!駅まで持ってきて!」

 「もう、どうして、前の日に持ち物をチェックしないの!」と文句を言いながら、「仕方ないわね。今、車で持っていってあげる」と言い、娘の部屋を探します。
 パスはちゃんと、机の上にありました。

 「ほんとに、忘れっぽいんだから」とブツブツ言いつつ、何となく、気持ちがほっとしています。子供の成長はうれしいけれども、もう少し長く手のかかる子供でいてほしい。そんな矛盾した気持ちがあるのかもしれません。

 

 
 

2016年8月18日木曜日

たまには、休憩

  インターナショナルスクールに通う娘の夏休みが始まって、2ヶ月。近所の幼稚園に通う息子の夏休みも始まり、アラフィフママは疲れがたまってきました。
  
 51歳で、連日プールや公園などで遊ぶのは、さすがに疲れます。が、家にいるときょうだい喧嘩が絶えないため、頑張って外出します。
 加えて、勉強嫌いな娘に勉強をさせるのは、かなりの忍耐力を要し、疲れが増します。すぐに集中力が途切れる娘にハッパをかけながら、4歳の息子と折り紙を折ったり、ひらがなを教えたりするのも、気力が入ります。
  
  たまには友人とお酒でも飲みながら、思いっきり”大人の会話”をしたいー。 いや、友人は皆それぞれに忙しい。ならば、せめて少しの時間でも良いので、1人で過ごしたいと思ってしまうのは、贅沢でしょうか?

 「お願い。今晩は早めに帰宅して、子供たちの世話をしてほしい」と、遂に夫に電話。帰宅した夫に子供たちを預け、外出。向かった先は最寄り駅にある、カフェ。

  カフェは恋人や友人と語らう人々で、にぎわっていました。私が座ったのはテラス席。 1人で飲むスパークリングワイン、美味しかったです。


2016年8月2日火曜日

ママのおっぱい

 4歳の息子が珍しく私の膝に乗り、おっぱいを触ってきました。息子は1歳半で卒乳してから、ぱったりと興味を失っていましたので、「たまに、恋しくなることもあるのかな?」と思ったところ・・・。

 「ねぇ、ママ。なんでママのおっぱい下がっているの?」
 私の心に広がりつつあった甘い感情を打ち消すような言葉が発せられたのです。
 おっぱいが下がっているー。息子の語彙にはなかった言葉です。私は問い詰めました。
 
 「えっ?誰がそんなこと言ったの?」
 「●●君」。息子は幼稚園で仲良しの男の子の名前を挙げました。
 「そうなんだ。●●君、そんなこと言っていたんだ」
 「そう。ママのおっぱい下がっているねって。僕は、違うよって答えたんだけれど・・・」
 幼稚園の年中組で、そんな会話がなされているとは驚きです。

 私の胸について、正直なコメントをした男の子のお母さんは、私より17歳年下です。輝くばかりの肌と、引き締まった身体と、美しい顔立ちと、そして知性も兼ね添えた女性です。そのほれぼれするような女性を母親に持てば、私なんかは、”くたびれたママ”に見えて当然でしょう。感じたことを正直に言葉に出すのがその年頃の子供のかわいさ。私は妙に納得したのでした。

 黙って私と息子の会話を聞いていた11歳の娘に話を振ってみました。
 「ママのおっぱい下がっているかな?」
 「ううん」
 「お腹が出ているって言われるなら分かるんだけど、ママのおっぱい、言われる程下がっていないよね」と少しムキになる私に、娘が容赦ない言葉を投げかけます。

 「お腹をおっぱいだと思ったんじゃない?」
 「それはないでしょう」と笑いながら、私は出っ張った胃を見下ろし、「そうかもしれない・・・」と思ったのでした。

 娘は続けます。
 「私は他のママと比べないよ。だって、比べたら、ママがかわいそうだもの」
 その言葉に、私は思わず大人げない反応をします。
 「ママだって、2、30年前はきれいだね、って言ってくれた人もいたんだよ」
 遠い昔の話を持ち出して自分をフォローしたものの、「そうか、ママ、同情されてしまうんだ」とつい、弱気なコメントが出てしまいます。
 
 「違うよ。そっちのかわいそうじゃないよ。つまりさ、ママは若く見えるでしょ。だから、友達のママと同い年ぐらいに見えるの。でも、実際の年を言い合ったら、友達のママのほうがずっと若いわけ。そうすると、『うちのママ、そんなに年とって見えるの?』って友達が悲しむでしょう。そしたら、その話をママにすると、ママが私の友達に”年だ”と思われて傷づくでしょう? それが、かわいそうってこと」

 長い説明でしたが、娘の”思考の深さ”に感心しました。
 娘が続けました。
 「ママ、若くなんか見えなくていい。格好良いママでいてほしい」

 若く見えるより高度な要求に、「頑張ろう」と気を引き締めたのでした。

 

 

2016年8月1日月曜日

失敗に学ぶ

 4歳の息子と11歳の娘は、いくつか正反対の性質があります。そのうちの1つは、息子は失敗に学び、娘は失敗に学ばないことです。2人をよくよく観察すると、いずれも、それぞれの成長につながっていることが分かってきました。

 息子は何か失敗をした後は必ず反省し、次に失敗を繰り返さない方法を自分で考えます。たとえば、幼稚園にスニーカーではなくサンダルで登園したとき。これは、そのことに気が付かなかった母親である私のミスなのですが、息子は翌朝、玄関でつぶやきました。
 「サンダルが玄関にあるから間違えちゃうんだね。靴箱にしまおう」
 そしてサンダルをきちんと靴箱にしまい、玄関に残ったスニーカーを履きました。

 手拭きタオルを幼稚園から借りてきたとき。これも、持ち物チェックをしてあげなかった私のミスもあると思ったのですが、一応、息子に注意しました。
 「今日はタオル忘れないでね」
 「きのう、タオルはちゃんとバッグに入れたんだ。でも、濡れちゃったから、先生に借りたの。今日はタオル2つ入れるね」

 おやつにたこ焼きを6つも食べてしまい、夜、夕食の後に吐いてしまったとき。これも、夕食のときに「おなか一杯で食べられない」と訴える息子に、「つけられた食べ物は、残さず食べなさい」と無理やり食べさせてしまった私のせいです。
 息子は翌朝、ごはんを食べているときにつぶやきました。
 「おなか一杯食べるから、吐いちゃうんだね。もう、おなか一杯食べるのやめよう」

 娘は全く、失敗に学ばない子でした。先生や親に注意されたことを忘れ、同じ失敗を繰り返すため、「先生やママやダディが注意したことを、きちんと覚えていなさい!」と叱ったことは数知れず。が、あるとき、それが娘のおおらかな性格の良さにつながっていると気が付いたのです。

 学校に鍵盤ハーモニカを忘れたときのこと。帰宅後に娘に聞きました。
「ハーモニカ、また、忘れたでしょう。どうして、忘れちゃうの?」
 夜支度をする、玄関に持ち物を置いておくなど、私が対策を考えても、一向に忘れ物が減らないため、私もどうしたものかと頭を悩ませていたのです。娘はニコニコして答えました。
 
 「ママ、大丈夫だよ。先生がね、紙のハーモニカ貸してくれたから」
 娘がクラスメートと一緒に、ニコニコしながら音の鳴らない紙の鍵盤を押している姿が目に浮かびました。娘は失敗をしても、先生や親に叱られても、気にせず(すぐ忘れ)、明るく元気に一日を過ごせる子供だったのです。

 人は人前で失敗をしたり、叱られたりすると恥ずかしいと感じて、次に失敗しないように、叱られないようにしようと思うものです。「恥ずかしい」と感じることは、子供の成長の一過程です。が、「恥ずかしい」と感じたり、「叱られるのが嫌だ」と感じないということは、人にどう思われるか気にしないということです。

 娘は、自由闊達な性格で、それが創作活動に現れます。娘は、のびのびとした、独創性に溢れた絵を描きます。普通では思いつかないような工作品を作ります。私は娘の絵を何枚も額装し自宅の壁のあちこちにかけ、工作品も置物として飾っています。失敗に学ばなくて困ると、一時は頭を悩ませた娘は、こんな楽しみを親にくれるのです。

 昨日、取り入れた洗濯物をたたむ手伝いを息子と娘に頼んたときに、息子が私に質問してきました。息子は小さな手で、小さな服を、ぎこちなくたたんでいました。娘はさっさと自分の分を終えて、自分の部屋に戻ってしまいました。

「ねえ、ママ。どうして僕の服、こんなにたくさんあるの?」
「いっぱい、お外で遊んで、汚れるからよ」
もちろん、これは良い意味です。すると、息子が納得したようにまた、つぶやきました。

「ふーん、そうなんだ。じゃあ、これからは遊ぶのをやめよう」

私はあわてて、言いました。
「大丈夫よ。ママがちゃんと洗ってあげるから。たくさん遊びなさい」

 娘には失敗に学ぶように躾け、息子には失敗に学び過ぎないように躾ける。子育ては奥深いです。

 

2016年7月31日日曜日

「ニュースの真相」上映会へ

 米テレビ局のスクープ報道とその顛末を描いた「ニュースの真相」の特別上映会に行ってきました。映画上映後は、ジャーナリストらによるトークセッションが行われ、久しぶりに刺激を受けてきました。

 映画は、ジョージ・W・ブッシュ米元大統領の在任中に報道された軍歴詐称疑惑に関するスクープが、メディア全体を揺るがし、最終的には取材記者の解雇や番組の名物アンカーマンの解任まで至った経緯を描いたものです。

 見に行こうと思い立ったのは、上映日の朝でした。トークセッションに出演予定の映画監督・森達也さんが、開高健ノンフィクション賞の選考委員で、最終候補作に残った私の作品を評価してくれたため、どのような方か知りたいと思ったためです。

 朝、夫に早めに帰宅してくれるよう頼み、子供たちの好物の夕食を準備。夫の帰宅後、自転車で最寄り駅へ。電車に乗って向かった会場は渋谷の映画館。夜の渋谷は、若者たちでごった返し、熱気があふれていました。たくさんの若者とすれ違いながら歩いていると、この1カ月間、自分の心を覆っていた、うつうつとした気分が少しずつ晴れていきました。渋谷の雑踏は、いつも、「私の抱えているものなど、小さなものだ」と思わせてくれます。

 スマホの地図とにらめっこしながら、やっと映画館に着いたときは、すでに8時。映画も後半に入っていました。が、30分ほどは見られ、トークセッションにも間に合いました

 トークセッションに参加していたのは、森達也さんの他、TBS「報道特集」キャスターの金平茂紀さん、フリーのジャーナリストで元毎日新聞記者の佐々木俊尚さん、ジャーナリストで元NHKアナウンサーの堀潤さん。
 
 彼らは独自の視点で映画を解説。日本のメディア界でも組織を守ろうとする上層部からの取材記者への圧力はあるとし、具体例を挙げながら話してくれました。取材現場でのエピソードも披露され、私は、新聞記者をしていた過去の自分を懐かしく振り返りながら、家事・育児にどっぷりと浸かっているたために、すっかり忘れてしまっていた感覚を少し取り戻した気分になりました。

 森達也さんは朴訥とした人で、肩に力の入らない、でも反骨精神がにじみ出るような方でした。とても、魅力的な印象の人でした。

 トークセッションが終わったのは10時近くでした。こうやって、気軽に外出するほど健康になったこと、そして、子供の世話をしてくれる夫がいることに感謝しながら、帰路につきました。帰りは自転車を止めてあった駅前にある居酒屋で、持ち帰りの「若鳥の唐揚げ」を買い、帰宅後ワインをチビチビ飲みながら、パクパク食べ、楽しかったひと時を振り返りました。

 やはり、たまには、外に出なくては、と感じた一日でした。

2016年7月27日水曜日

落ち込んでいました

 気持ちの落ち込みが続き、ブログを更新できませんでした。
ようやく、今朝、気持ちを切り替えることが出来、ブログを開きました。

 集英社の開高健ノンフィクション賞に応募し、最終候補3作に残りました。受賞には至りませんでした。受賞作は概要を読んだだけでも、すばらしい作品で、作者は私と同年代の女性。心からその方の受賞と、健闘を称えたいと思います。

 私が落ち込んでいたのは、受賞が出来なかったからではありません。
 今回は139作の応募があり、最終選考に残ったのは私を含め3人。最終的には受賞作と私の作品に絞られました。が、最終候補作に残るまでの編集者らの”下読み”の段階での批評、そして、最終候補作に残った段階での選考委員の私の作品への批評の厳しさに、落ち込んでいたのです。

 私の作品は闘病記です。ですので、書いているのは自分の生き方。病気への立ち向かい方。病気を抱えた中での人生への取り組み方です。客観性に欠けていることなど、視点や書き方の欠点は多く指摘され、それらについては真摯に受け止めました。が、堪えたのは、私自身や私の生き方への批判でした。

 作品と自分自身が一体化している場合、これほど、否定的な批評が堪えるのか、と実感しました。もし、何かを取材して作品にし、それを批判された場合は、反省したり、もしくは「私にとっては、これは全力で書いたものだ」と考え、「次を頑張ろう」と思えるのだろうと想像します。以前、新聞記者をしていたときに、記事への批判があったときがそうでした。批判は多くの場合、自分の成長につながります。

 が、自分自身を書いた作品を否定された場合は、「これを良い経験にしよう」と前向きに立ち上がるのは容易ではない。でも、このような結果を導いた原因は私です。たとえ、「私の体験がどなたかのお役に立てば」という思いであっても、自分の闘病記を書き、それを世に問わなければ、こんなことにはならなかった。自業自得です。

 昨日、障害者施設で19人が殺されるという凄惨な事件がありました。その事件を、テレビのニュース番組や新聞で追いながら、命を絶たれてしまった方々の無念、ご家族の怒りと悲しみはいかばかりかと胸が痛みました。

 刃物を突き立てられた被害者の方々の恐怖と苦痛。それを思うと、自分の生き方への批判に、心を刃物で切り刻まれたような痛みを感じていた自分が、恥ずかしくなりました。

 亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈りします。

 

 



 


 

 
 

 

2016年7月3日日曜日

梅の季節

 梅の季節です。スーパーの陳列棚に青梅や南高梅が並び始めると、気持ちがワクワクします。梅酒、梅シロップ、梅酢・・・。この時期に仕込むと、年間を通して楽しめる梅は家族が大好きな食材です。
 

 梅酒は炭酸水で割って、夕食時にいただくのが何よりも楽しみです。1㎏の青梅に600~800gの砂糖、1・8ℓのホワイトリカーを瓶に入れておくと約3カ月で出来ます。一瓶は、翌年の梅の季節になるずっと前になくなってしまいます。

 梅シロップは子供たちの大好物です。青梅を一旦凍らせてから同量の砂糖と一緒に瓶に入れるだけで出来ます。昨年の娘の誕生日会で、アメリカ人や中国人のお友達に炭酸水で割って「梅ジュース」として振る舞ったところ、大好評でした。気を良くした私は、今年もたくさん買い込み、洗ってヘタを取る下処理を終えてからジップロックの袋に小分けし、冷凍庫に保存しました。

 南高梅と砂糖、米酢で作る梅酢は夫の大好物。オリーブオイルと黒コショウと合わせてサラダドレッシングに。餃子のたれとして、醤油とラー油に少し加えると、とても美味しくいただけます。その他、様々なお料理に隠し味として使います。

 簡単に出来るこれらの保存食に比べ、梅干しは手間がかかり、ちょっとした加減で出来に大きな差が出ます。3年前、ちょうど梅の時期に訪れた母に教えてもらい漬けたのですが、乾燥気味であまり美味しくなく、娘と夫に不評でした。母からは毎年、しっとりとした美味しい梅干しが送られてくるので、それが先になくなり、私のはずっと冷蔵庫の棚に置かれたまま。仕方なく、刻んで生野菜やゆでた野菜にからめたりして、何とか使い切りました。それ以来すっかりやる気をなくしましたが、母からは毎年美味しい梅干しが送られてくるので、「自分で作らなくてもいいわ」と思っていたのです。

 ところが、です。今年、母から「もう、今年から梅干しは漬けないわ」といきなり宣告されたのです。肩が痛く、重石を持つことが出来なくなったのが理由です。「母の梅干しがもう食べられなくなる」ー。こんなに寂しいことはありません。 母には「これからは、睦美が漬けてね」とあっさり言われましたが、本当に動揺しました。
 
 それでなくても昨年末には、「もう、今年から送らないからね」と黒豆や紅白ナマス、ボタンエビの塩ゆでなどのおせち料理が、これも突然の宣告でなくなったばかり。 母から渡された「レシピノート」にはそれらの料理の作り方が書かれていましたが、見慣れた母の字を見て、「もう、母のおせち料理が食べられないんだ」と、ずいぶん落ち込みました。

 先日夫が、冷蔵庫から梅干しのケースを取り出してふたを開け、一粒取って、ご飯の上に乗せながら、ぽつんとつぶやきました。
 「来年から、オカアサンの梅が食べられないんだね。寂しいな。今度は僕が作ろうかな」-。
 
 「おふくろの味」は意外にも、料理好きの娘婿に引き継がれるかもしれません。
 



 

 

2016年6月21日火曜日

大足は誰のせい?

   インターナショナルスクールに通う娘が卒業式(6月に開催)に履く、黒い革靴を買いに行きました。半年前に購入し、数回しか履いていない、サイズ24・5センチが小さくなってしまったためです。

 新しい靴を買いに行く前に、一応は玄関でその靴を娘にもう一度履かせてみました。
「卒業式は2時間ぐらいでしょ。我慢できないの?」
「出来ない。痛過ぎ」
「これ、数回しか履いてないから、もったいないよ」
「でも、これじゃあ、歩けないよ」

 24・5センチの靴を履く私が、試しに履いてみます。ピッタリです。
「これ、小さいの?」
「うん。でも、私のせいじゃない。ダディのDNAを引き継いだからだよ」。娘はムッとした表情で答えます。

 そうです。11歳にして25センチの足は、やはり、サイズ30センチを履く父親のせいでしょう。日本の女性の中では足が大きいほうの私は、幸運なことに責任を免れ、ほっと胸をなでおろしました。

 家族4人で、デパートに行きました。まず、子供靴売り場に向かい、今の靴と同じメーカーの25センチを履いてみました。
「ぴったりだよ」と娘はうれしそうです。店内を行ったり来たりしながら、「ぜんぜん、きつくないよ」と言います。
「ぴったり」という娘の言葉に反応した私は、店員さんに聞きました。
「25・5センチはないんですか?」
「すみません。25センチまでなんです」

 落ち着かない息子の相手をしていた夫が、イライラした口調で私に言います。「また、すぐ小さくなるんだから、大きいのを買ったら?」
 「でも、これ以上大きいサイズがないのよ」と私。
娘がここでもムッとした表情で、夫に言い返します。
「足が大きいのは私のせいじゃないからね」
店員さんがそのやり取りを聞き、困った表情を浮かべています。

 すぐ小さくなる靴を買うのももったいないので、次に婦人靴売り場へ行きました。普通の売り場は24・5センチまでしか置いていないため、「大きいサイズ」のコーナーへ。そこは品数も少なく、ほとんどがヒールが高く、小学生の子供が履くようなかわいらしい形などありませんでした。結局、あと半年もすればまた小さくなるであろう、25センチの子供靴を買いました。

 

 買ったのは、つま先が丸く、足の甲をベルトで支える形です。小さな女の子がよく、お出かけ用に履いている靴です。娘はこの形の靴を幼稚園の入園式で初めて履きました。「入園祝いに」と私の両親が、子供服ブランド「MIKI HOUSE」で買ってくれました。サイズは18センチだったと記憶しています。それから、毎年、同じ靴を買い足しました。22センチになると、「MIKI HOUSE」の靴は、それ以上大きいサイズがないために、”卒業”。それから、同じ形の靴を探して、買い続けました。それらはすべて、きれいに磨いて靴箱に入れ、屋根裏部屋に仕舞ってあります。

 さて、卒業式。娘は新しい革靴を履いて、式に出席しました。壇上で、担任の先生から名前を呼ばれて、嬉しそうに卒業証書を受け取りました。そして、クラスメートたちと歌を歌い、満面に笑みを浮かべて、客席の私たちに手を振りました。

 小さいころから、ドレスを着るときは必ず娘が履いた、ベルトがついた”少女靴”。小学校の締めくくりの式に、この靴を履いて娘が出席できたことを嬉しく思うとともに、「もう少しで、この形の靴も卒業なんだな」と娘の成長をちょっぴりさみしく感じたのでした。

 
 



2016年6月13日月曜日

ザリガニ捕り

 今、息子と娘の間の”ブーム”は「ザリガニ捕り」です。息子は幼稚園から帰ると、「ザリガニ捕りの網」と虫かごを持ち、自宅から自転車で数分のところにある公園に出かけます。娘も学校帰りに合流します。

                   

 その公園には小さな池や小川があちこちにあり、ザリガニがたくさん棲んでいます。午後の早い時間には幼稚園児が、遅い時間には小学生が続々と集まります。息子は夢中になるあまりに、池に落っこちてびしょ濡れになったり、割りばしに紐と餌を付けただけの簡易な”釣り竿”でつり上げてはつかみ損ねたりしながら、コツをつかんでいったようです。

 ある日息子はいつも子供たちが集まる池ではなく、公園内に流れる小川のよどんだところを、狙いました。聞くと、おねぇねぇが「そこにいるよ」とこっそり教えてくれたようです。息子は真剣に網ですくいとります。何度かすくった後、
「ママ、ザリガニ捕れた!」と歓声を上げ、私に見せてくれました。
「どれ、見せて?」
網の中にすくった泥の中をよくよく見れば、確かにザリガニのようなものが見えます。でも、動きません。

「死んでいるよ」と私。
「違うんだ。死んだふりしているんだ」と息子。
「そうかなあ・・・?」
「触ってみる?」。

 息子は網の中に手を入れ、親指と人差し指でザリガニをつかんで、私に見せてます。確かに、指でつまむと、ザリガニは足をゴソゴソと動かします。
「ザリガニが死んだふりするなんて、誰が教えてくれたの?」
「おねぇねぇ」
”自然派”の娘は、小さいころから虫やカエルなどが大好き。それらの生態を、ちゃんと弟に伝授しているようです。

 そうこうしているうちに、学校帰りの娘から「ママ、今、駅に着いたよ」と電話がありました。この日も、「先に公園に行っているよ」と朝、伝えてありました。ほどなく、娘が到着。
「ママ、私の網は?」
「もちろん、持ってきたよ」と私はピンクの網を渡しました。

 娘と息子は、また、張り切って、小川のよどみに網を入れます。
               

 この日の収穫は2匹。虫かごに入れた2匹の上から、小川の水をたっぷり注ぎ、娘と息子は満足そうです。そして、帰宅後は玄関前にすでに並んだ3つの虫かごの横にこれを並べます。もちろん、子供のことですから、これらの世話のことはすっかり忘れます。で、結局は私が世話をすることになります。

 カブトムシ、ザリガニ、おたまじゃくし・・・。アラフィフィママは実のところ、これらがあまり得意ではありません。でも、「苦手なの」などと言ってられません。
 「大人になってから、これらともう一度触れ合うことが出来るのは、子供を持つ醍醐味だわ」
 土と淀んだ水と、ガサゴソ動く”中身”が入った虫かごを見ながら、そう自身に言い聞かせるのでした。
               

 

 




2016年5月20日金曜日

羽田空港で

 羽田空港に母を見送りに行きました。2週間の東京滞在を終え、母は新千歳空港行きの飛行機に乗り、札幌に帰りました。

 保安検査場を通った母がこちらを振り向き、手を振ってくれました。搭乗ゲートに向かう母を見えなくなるまで見送りました。空港で母に手を振るときはいつも、「これが母を見る最後になるのではないか」という不安に襲われます。遠方に住む高齢の親に会う人は多かれ少なかれ、別れ際に似たような思いを抱くのではないでしょうか。

 私は長い間、同じような思いを母にさせてきました。
 私は38歳で発病した血液がんに始まり、自己免疫疾患や心臓病など別の病気をいくつか併発し、血液がんも2度再発しました。その治療や手術のとき、また体調が悪化したときは、母はいつも父を引き連れ、私の家族を世話しに東京に来てくれました。

 私の治療や体調がひと段落して、羽田空港に向かう日。私の自宅の最寄駅や、羽田空港行きのバス停で私に手を振りながら、母は「睦美を見るのは、これで最後かもしれない」と何度も思ったといいます。私に手を振った母はいつも、「体を大切にするんだよ」と笑っていました。が、その話をするときの母の顔はいつもゆがみ、目からはとめどなく涙が流れます。

 それほど、私の体調は悪かった。そして、私は当時、札幌からわざわざ手伝いに来てくれた両親を羽田空港まで送る体力すらなかったのです。

 そんな両親の思いなどそっちのけで、私は「自分が死ぬ前に、何としても娘にきょうだいを作りたい」と四十六歳で息子を出産しました。そして、不思議なことに、病気の連鎖はそこで途切れ、下降線をたどっていた体調は出産後、憑き物が落ちたように回復していきました。

 すると、それに反比例するように、両親は弱くなっていきました。父は3年前に亡くなり、母は体のあちこちが病んできました。まるで、「自分たちの役割は終わった」といわんばかりに。

 掃除・洗濯、食事の支度、スーパーへの食料品の買い出しや娘の幼稚園へのお迎えまでこなした母は今、痛む膝をかばいながらゆっくりゆっくり歩きます。それでも、母はあちこち傷んだ体を押して、私や子供たちに会いに東京に遊びに来てくれます。

 そんな母と話をしながら、「やはり、死ぬ順番は何としても守らなければならない」と気を引き締めます。
 78歳の母に、「あのときが、娘を見た最後だった」と残りの人生を泣いて暮らさせてはいけない。

 それが、私の出来る唯一の親孝行だと思いつつ、その親孝行をするために、自分の体をいたわりながら生きたいと思います。

 

 

2016年5月3日火曜日

IL DEVO コンサート

 夢のようなひとときでした。男性4人組ヴォーカル・グループ、「IL DEVO(イル・ディーヴォ)」のコンサートに行ってきました。日本武道館で開かれたそのコンサートには、母を連れていきました。母娘は美しい男性たちの、美しい歌声に酔いしれました。

 「母の日のプレゼントに」と札幌でひとり暮らしをする母と一緒に行こうとチケットを購入したのは、もう数カ月も前。母に伝えると、とても喜び、この日を楽しみにしてくれていました。

 「IL DIVO」のことを知ったのは、4、5年前になるでしょうか。 新聞の夕刊に彼らの特集が出ていたのを読み、興味を抱いたのです。グループは2003年結成、2004年イギリスでデビューしました。出身国がスペイン、フランス、スイス、アメリカとそれぞれ違い、かつ、グループ結成前に各自がすでに音楽活動をしていたことに興味を持ちました。また、スーツを着て歌うという正統派の雰囲気や、魅力的なルックスにも惹かれました。

 早速、CDとDVDを購入。オペラ歌手のような圧倒的な声量と広い音域で、ポピュラー音楽を歌い上げる彼らの音楽に、感動しました。その感動を分かち合いたいと、母と義母、友人たちにCDをプレゼントしました。ですので、今回は念願のコンサートだったのです。

 生で見る彼らは、写真で見るよりもずっと素敵でした。彼らの声は、CDで聴くよりずっと迫力があり、美しかった。一曲一曲を全力で歌っていることが観客にも十分伝わり、それが、観客を引きつけました。観客を喜ばせることに徹したパフォーマンスが、観客の心をつかみました。
 
 4人は「MY WAY」など、多くの人の耳に馴染む曲をしっとりと歌い、ラテン音楽はキレの良い踊りを披露しながら、魅惑的に歌いました。会場は私が若いと感じられるほど、年配の女性が多かった。多くの人が、「IL DIVO」と書かれたペンライトを振りながら、一曲一曲にうっとりと聞き惚れていました。彼らが日本の童謡「ふるさと」を歌ったときは、母も私も、周りの観客も皆一緒に口ずさみ、会場が一体になりました。

 観客の”静かな”熱狂は衰えることなく、コンサートは休憩時間を挟んで3時間近くになっていました。そして、彼らが「最後に」と歌ったのが、おそらく多くの人が待ち望んでいたであろう「TIME TO SAY GOODBYE」でした。この歌が終わったとき、78歳の母がよろよろと客席から立ち上がり、「ブラボー」とステージに向かって、何度も叫びました。私は、その母の姿を見て、目頭が熱くなったのでした。

 さて、コンサートが終わり、興奮が冷めやらないまま、私たちは帰路につきました。自宅に戻り、椅子に座って、プログラムを読みながらコンサートを振り返っていたとき。母が顔を保湿クリームでピカピカにさせながら、私のところに現れました。

 「見て、肌がつやつやなの」
 私の方に顔を寄せてきます。いきなりの登場で、私は一瞬どう反応して良いか分からず、気の利いたコメントができませんでした。母は続けました。
「やっぱり、酔いしれると、ホルモンが出るんだねぇ。何て言ったっけ、こういうときに出るホルモン。そうだ、セレトニンだよ。セレトニン。ほらっ、さわってみて。つやつやだから・・・。こんなこと初めてだよ。あんな素敵な歌を聴いて、セレトニンが出たんだねぇ」

 IL DIVOと母に、圧倒された夕べでした。

 

2016年4月23日土曜日

きのこヘア

 「ママ、今日はかっこいい髪にしてください」。息子が自分の髪をさわりながら、私に言いました。
娘と夫を送り出した平日の朝、ギーコーギーコーとヴァイオリンの練習をしていたときのことです。

 「ここをこうやって、ここをこうやって・・・」と息子は自分の前髪を立てたり、横髪を立てたり、自分がしてほしい髪型を見せます。そして、続けました。「きのこみたいじゃなくて・・・」。

 私は思わず、吹き出しました。娘がいつも、息子の髪を「きのこみたいだよ」とからかうのを、実は気にしていたのですね。先日は、娘が私の目を盗んで「きのこヘアなおしてあげる!」と息子の右側の髪をバッサリと切ったばかり。それも、単純にまっすぐハサミを入れたため、後から気付いた私が調整するのに、すいぶん労力を要しました。が、仕方なく少し刈り込んだ髪は意外にも息子に似合い、いかにも「男の子」という雰囲気になったのです。

 私は息子に聞きました。
「だれか、お友達でなりたい髪の子いる?」
「うん、●●●君みたいな髪がいい」
時折、ムースで髪を立たせてくる格好良い男の子です。
「そうなんだね。●●●君みたいになりたいんだ。あの髪はね。固めるゼリーみたいなものが必要なの。今度買ってきてあげる。そうしたら、ああいう風に格好良く出来るから」
「うん」
 息子はうれしそうに、また、ヴァイオリンを弾き始めました。

 「きのこヘア」。これは今も昔も、男の子の髪型をからかう適当な表現のようです。私は、高校時代の同級生のことを思い出しました。

 当時、ちょうどお菓子の「きのこの山」が発売されて間もなくだったと思います(考えてみれば、ロングセラーなのですね)。私は友達と一緒に、ある男子を「きのこ」と名付けました。彼の髪がきのこのような形をしていたからです。もちろん、彼には内緒です。そして、「きのこの山」をポリポリと食べながら、彼の話で盛り上がりました。箸が転んでもおかしい年頃。よく、「きのこ」だけであれだけ笑えたものだと、今振り返って、当時の自分がうらやましくなるくらいです。

 彼は少しウェーブのかかった髪をふんわりとさせた、それこそ「マッシュルームカット」にしていました。彼はピアノを習っていました。マイペースな男子だったと記憶しています。ピアノを弾くという当時の男の子としては珍しい習い事をしていた彼に、その髪型はピッタリと合っていました。

 息子も「きのこヘア」で、楽器を習っています。今はピアノを習っている男の子は珍しくありませんが、まだ、ヴァイオリンを習っている男の子はそんなに多くありません。普通、女の子がする習い事を息子にさせる親は、そもそも、「男の子っぽい髪」にこだわりがないのかもしれません。その男子の母親もきっと、息子の「きのこヘア」を愛おしく見ていたのかもしれません。今の私が、息子の「きのこヘア」をたまらなく愛おしく感じるように。

 その男子には数年前、東京で開かれた同窓会で会いました。普通の髪型になっていて、彼だとは全く気が付きませんでした。
 でも、私にとっては、今の彼の髪型は、彼のイメージに全く合わなかった。普通のおじさんになってしまった彼を見ながら、普通のおばさんの私は、「きのこヘアのままが良かったのに」と少し残念に思ったのでした。

 まだ長めの息子の髪も、早晩、本人の希望で普通の男の子のような短い髪型になるのでしょう。「きのこヘアのままがいいのに・・・」。息子の髪をなでながら、残念に思う今日このごろです。

 

 

 

2016年4月12日火曜日

父の命日に思う

 父が亡くなって3年になります。命日に合わせて、子供たちを連れて札幌に帰省しました。札幌はまだ厚手のコートが必要なほど寒く、子供たちが雪だるまを作れるほどの雪が残っていました。春の兆しはあちらこちらに見かけるけれども、気分が塞ぐ冬がでんと居座るこんな時期に父は亡くなったんだな、と切ない気持ちになりました。

 父の遺骨を納めるお寺に行くときに、NTTドコモの代理店を通り過ぎました。父が亡くなった後、母と一緒に携帯電話の解約の手続きに行ったことを思い出しました。年金事務所を訪れて父の年金を母の年金に切り替え、区役所を訪れて父の障害者手帳を返納する・・・。父がこの世に存在したことを示すものを1つ1つ消していく作業は、とても悲しい、辛いものでした。

 そのとき代理店では、解約の手続きとともに、父の数か月分の通話記録を頼みました。ポツン、ポツンと発信履歴がある、そのささやかな記録の中に、2件、数カ月間の間に複数回かけている電話番号がありました。私はその2件の番号に電話をしました。

 電話に出た2人はいずれも、高齢の男性でした。私は自分と自分の父の名前を名乗り、父が亡くなったことを告げました。
 そのうち1人は父や母からよく名前を聞いた、父の”脳梗塞仲間”でした。初めはカラオケに行ったり、外食をしたりしていたようです。しかし、5、6人いた仲間が1人亡くなり、また1人亡くなり・・・と減っていき、父ももうその仲間と外出することがなくなりました。
 私は電話口に出た男性に、生前父と親しくしていただいた礼を述べ、電話を切りました。

 もう1人には、何度話しても、理解してもらえませんでした。私は、私が何者であるかということと、電話をしている理由を説明することをあきらめ、礼を言って、電話を切りました。

 その通話記録は、私にとって救いとなりました。晩年、父がその安否を気遣う友人がいたことをただただ、嬉しく思い、通話記録を抱き締め、泣きました。

 几帳面な父は、見事なまでの”老い支度”をしていました。日記や手帳などさまざまなものを処分していました。今、札幌で一人暮らしをする母と2人で、病弱で超高齢出産をした1人娘に迷惑をかけまいと、自立した生活をし、身辺整理を着々と進めていました。

 そのような中、父は私に1冊のファイルを残していました。私の闘病記録を、ワープロで打ちプリントアウトしたものです。父は脳梗塞で右手が使えなくなったため、ワープロを使って文章を書くことが多かったのです。そこには38歳で血液がんを患った娘を気遣う気持ちが、控え目な表現で書かれていました。

 私はそのファイルと、父が使っていたメガネケース、財布、ベルト、帽子、私がプレゼントして父がよく着ていたセーターを持ち帰りました。そして私の家に置いてあった靴と新品の下着と、父が糊付けして修理した娘の絵本と一緒に小さな箱2つに詰めました。
 父のベルトは中肉中背の私のウエストにピッタリと合いました。父はこんなに痩せていたのだなと、使った跡がある穴がどんどん内側になっていく父のベルトを触りながら、改めて思いました。
 
 父は帽子が好きな人でした。持ち帰った帽子は今でも、父の匂いがします。

 

2016年4月3日日曜日

Japanese Culture Day ②

   娘の通うインターナショナルスクールで開かれた「Japanese Culture Day」で、ヒヤリとする"事件"がありました。息子のことをすっかり忘れて、別の場所に移動してしまったのです。最近、物忘れが多くなったとはいえ、息子の存在を忘れてはいけない、と気を引き締めました。

   息子はいま、最も目が離せない4歳。ですので、娘の学校でイベントがあるときは幼稚園の保育時間内に行くか、夫が行くかのいずれかで調整するようにしています。が、この日は、幼稚園が春休みに入った日で、かつ、私が「デコ巻き」作りの”講師役”になっていましたので、どうしても息子を連れていかなければなりませんでした。

 「デコ巻き」作りの時間は、他のママに教室の外で見守ってもらい、無事乗り切りました。親が持ち寄った料理を子供たちが食べる「ポットラックランチ」では、息子も機嫌よくお相伴にあずかりました。子供たちが一巡した後は、私も他のママたちと一緒に、美味しい料理に舌鼓を打ちました。私が早起きして作ったコロッケも早々に”売り切れ”、また、「デコ巻き」作りも無事終了し、私は安堵感に満たされました。

   さて、ランチの後は、講堂での「和太鼓」鑑賞です。子供たちが講堂に向かった後の教室内を、他のママたちと談笑しながら後片付け。すっかりきれいになりました。
 「和太鼓、間に合うわよ。急ぎましょう!」。他のママ2人と急いで教室を出て、別の棟にある講堂まで走りました。講堂の重いドアを開けると、演奏が始まっていました。ステージでは法被を着てねじり鉢巻きをした若者が威勢よくバチを振り上げ、太鼓をリズミカルにたたいています。

 「席、空いているわよ」と前方の席まで腰をかがめて走り寄り、3人並んで座りました。
 「やっぱり、和太鼓は迫力あるわねぇ」と、ステージの若者の力強いバチさばきに見入り、講堂中に響き渡るダイナミックな音に聞き惚れること15分。
 「あれっ?」と感じた違和感。「息子が、いない?」

 私は我に返りました。慌てました。記憶をたどると教室を出たときから、息子を忘れていたようです。隣のママに耳打ちしました。
 「息子を忘れちゃったわ」
 隣のママは今にも吹き出しそうな顔をして、その横のママに耳打ちします。一人っ子を育てる二つ隣のママの顔は引きつっています。「えっ? どこに?」
 「探しに行くわ」と私。隣に座るママが笑いをかみ殺しています。そして、私に耳打ちしました。
「忙しいと、やっちゃうのよねぇ。私はデパートに息子を忘れたわ」。その人は男子3人を育てるママ。太っ腹な反応で、私の心に広がりつつある罪悪感を和らげてくれました。

 さて、慌てて講堂を出て隣の棟まで走り出すと、その棟の入り口から不安そうな表情をした息子が、事務の女性に手を引かれて出てきました。私は息子に駆け寄り、抱き締めました。私は焦った表情をしていたと思います。その女性はにっこりと笑って私に言いました。
 「良かったわね。講堂で和太鼓やっているわよ。見に行ったら?」

 軽口をたたくのが好きな私も、さすがに「今、見ていました」とは言えませんでした。

 息子の手をしっかりとつないで講堂に向かいながら、息子に謝りました。もちろん、理由は説明せずにシンプルに・・・。
「ごめんね」
「いいよ。でも、ママ、ちゃんと僕のこと見ていたほうが良いよ」。泣くこともせず、親を責めることもせず、4歳にしてはとても落ち着いた反応でした。

 「どうして、あの女の人のところに行ったの?」
 「ママがいないから探していたら、掃除をしているおじさんが『ママがいないの?』って話しかけてくれたの。そして、あの先生のところに連れていってくれたの」
 「そう。で、あの先生には何か話したの?」
 「うん。 『My name is・・・ . My sister's teacher is Mr.・・・』って言った」

 親が抜けていると、子供は必然的にしっかりとするようです。自分の名前と、姉の担任の先生の名前という、手掛かりになる情報をきちんと伝えていました。

 さて、「Japanese Culture Day」のプログラムが全部終了し、私は娘と息子と一緒に帰路につきました。浴衣を着た娘に、教室を出る前に脱ぐように指示しましたが言うことを聞かないため、コートの下から浴衣が見える不思議な恰好で、電車に乗り込みました。

 私はくたくたに疲れていました。朝から働きっぱなしです。息子を忘れるというとんでもない”失態”をやらかして、反省もしていました。
 
 しかし、横に座る娘と息子がふざけ始めましたので、私は「電車の中では静かにしなさい!」と横を見て、叱りました。すると、なんと、娘がコートを脱いで、浴衣姿になっているではありませんか?
 「何で、コート脱ぐの? 恥ずかしいじゃない。だから、浴衣は脱ぎなさいって言ったでしょ?」
 「いいじゃん。別に」
 私は、その言葉にどっと疲れが増して、ただただ、自宅のある駅に着くのを待ちました。

 すると、私にとどめを差すような言葉が、私たちの向かいに立つ中年の女性から発せられたのです。
 「お嬢さん、浴衣の合わせが反対ですよ」

 「だから、何なの? 娘の浴衣の合わせなんて、どうでもいいのよぉ!」と私は心の中で叫びましたが、恐縮した表情で「娘はインターナショナルスクールに通っているもので・・・」と、分けの分からぬ言い訳をして、そのまま黙り込みました。そして、駅に着くと、子供たちを急かして、電車を降りました。

 何とも、ドタバタの「Japanese Culture Day」でした。

              

                   娘の教室で行われた、ポットラックランチ。
                   バイキング形式で、親が持ち寄った料理を食べました。
 
 

 

2016年3月28日月曜日

Japanese Culture Day(日本文化の日)①

   小5の娘が通うインターナショナルスクールで、「Japanese Culture Day」がありました。日本人ママが結集し、企画、準備、実行する毎年恒例の一大イベントです。私は、太巻き寿司をアレンジした「デコ巻き」の作り方を子供たちに教えるという、”大役”を仰せつかり、久しぶりに緊張した時間を過ごしました。

  娘が昨春、地元の公立小から転校したため、娘にとっても私にとっても、「Japanese Culture Day」は初めてです。学年ごとにプログラムを決めるということで、イベントのコーディネーターを務める2人のママから、私を含めて8人の小5のママにメールが来たのは、約1ヶ月前。「ネタは尽きています。思い浮かぶネタはほとんどやってきました。つきましては、新しい日本人ママも増えたので、集まってアイディアを出し合いましょう」。いきなりのプレッシャーで、気が引き締まりました。

   私は、幹事役を務める息子の幼稚園の「母の会」総会が重なり打ち合わせに参加出来ず、まず、出遅れました。恐らく、皆で知恵を絞ったのでしょう。その1回の打ち合わせでイベントの概要が決まったと数日後にメールがありました。
  メールによると、 各40分のプログラムを4コマ実施する計画。そのうち1つが、私の得意な太巻きの作り方を子供たちに実演し、子供たちにも1人1本作ってもらおうというものです。とにかく、何かの役に立たねば、と「太巻き作りを、私に手伝わせてください!」と返信しました。

   普通の太巻きでは芸がないということで、ママの1人が、「デコ巻き」のレシピをネットで探してくれました。切り口がカエルの顔の太巻きです。6人のママで「デコ巻き」チームを結成。リーダー役のママが「LINEでグループ作るね。やり取りが楽だから」と、LINEのグループを作ってくれました。LINEの会話が始まったその日に、「私が買ったのはこれ」と材料の1つの「チーズかまぼこ」の画像が続々と添付されます。早速、試作品の画像を添付するママもいて、そのスピード感に、アラフィフママはついていくので精一杯。

   1歩出遅れたアラフィフママは、さらに、焦ります。試作品のための材料調達が難航したのです。「カエル」の目に使うチーズかまぼこが、最寄りのスーパーで売ってなかったのです。チーズかまぼこなど、51年生きてきて買ったこともないし、食べたこともない(と思う)。その風貌は、かろうじて画像で見て分かったものの、「かまぼこコーナー」にあるのか、「チーズコーナー」にあるのかも分からない。焦ってチームのママに電話をすると、「私は、珍味コーナーで見つけたわ」という回答を得て、さらに混乱。「なんで、チーズかまぼこなんて、レシピに使うのよぉ」とムッとしながら、別のスーパーへ。店内を探し回り、ソーセージの棚の魚肉ソーセージの横に並んだ、1袋4本入りを5袋発見。ほっと胸をなで下ろし、それらを全部、むんずとつかんで、レジに向かったのでした。

 そして、自宅に戻り、LINEに添付されたレシピを見ながら、「カエル」を作製。スマホで写真を撮り、その画像をLINEに添付し、「遅ればせながら・・・」とメッセージも付け、ようやく皆に追いついたのでした。

 そうこうするうちに、「Japanese Culture Day」のランチはポットラック(持ち寄り)なので、持参するものをスプレッドシートに記入して下さいとのメール。このメールは英語でクラスの親全員に送信されました。読んでいくと、「日本人の親はなるべく日本の料理でお願いします」との軽い"しばり"も。メールに添付されたスプレッドシートを開くと、すでに4人の日本人ママが記入していました。ポットラックは、2クラス約30人の子供たちプラス先生と親の分で、多からず少なからずの量という判断の難しい量です。

    ここで遅れてはメニューが限られてしまうので、得意のポテトコロッケにしようと即断。言うまでもなく、スプレッドシートに記入するのも、何やら難しい名前のアプリをインストールしてからの作業となり、ひと手間かかりました。ちなみに、他の日本人ママが持参したのは、豚汁、出汁巻き卵、焼き鳥、唐揚げ、枝豆、ソバ、さつま揚げです。

   さて、「デコ巻き」チームは、打ち合わせの機会を1度だけ設けました。リーダー役のママに、「子供たちの前で説明する役やって!」と頼まれ、断わる理由も探せず、一応快諾。しかし、前日は緊張のあまり胃がキリキリと痛み、胃痛薬「ガスター10」を買いに、近所のドラッグストアまで自転車を走らせました。厚手の紙に、ステップ1、ステップ2、と英語で箇条書きし、夫に添削してもらい、子供たちを前に何度も練習しました。

    当日は、子供が手早く「デコ巻き」を作れるよう、ママたちが手分けして材料をあらかじめ量ったり、切ったりしてサランラップでくるんで持参。子供たちを4グループに分け、机の上に材料を並べました。私は、「ママ、頑張って!」と浴衣を着た娘に応援されながら、黒板の前に立って、身振り手振りを交えて説明。横で、もう1人のママが実演してくれ、助かりました。子供たちは各グループに付いたママたちに助けられながら、サランラップの上にノリを載せ、ご飯を広げ、「チーズかまぼこ」とキュウリを重ねて、ぐるぐる巻きます。「ご飯、広がらないよ!」「ノリがくっつかないよ!」という声や、「出来た!」という歓声も上がります。最後は巻き簀でしっかり固めて、ナイフでカット。

 皆、上手な「カエル」の顔が出来ました。私も役割を終え、ほっとひと安心しました。

 
              
 娘が作った「カエル」。「キュウリもかまぼこも食べられない!」ため、私が全部いただきました。
 

 

 

2016年3月19日土曜日

チョコのお返しは・・・

 バレンタインデーにいただいたチョコのお返しに、息子がクッキーを作りました。作ったのは「スノーボール」というクッキー。私が大好きなお菓子で、レシピを探して試作を重ね、ようやく納得できる味になったものです。息子の担当は材料をコネコネして、その出来たタネを2センチほどのボールに丸める作業です。

 手の大きい私が丸めるより、小さな息子が丸めたほうが、とてもかわいらしく、上手に仕上がりました。低めの温度で焼き上げ、粉砂糖をまぶして出来上がりです。

 息子がチョコをもらったのは、同じ幼稚園に通う4人の女の子です。そのうち3人は、ハート型のブラウニーやクッキーなど、お母さんと一緒に作ったもの。で、お返しに、手作りのクッキーをプレゼントすることにしたのです。

 水玉やクマの模様がついた袋に、8個ずつ入れました。もちろん、手作りチョコをくれたママとおねぇねぇにも3つずつ。そして、「僕も食べたい!」と、自分の分もちゃんとラッピングしました。

 娘のお下がりのアンパンマンエプロンをした息子とのクッキーづくりは、楽しい時間でした。娘が幼稚園生のころ、1㎏の小麦粉と500gの砂糖と卵を数個、私が目を離した隙に勝手にボウルに入れてぐちゃぐちゃに混ぜてしまったことを、懐かしく思い出しました。

 

2016年3月15日火曜日

私のランチ

 夫が子供たちを連れて、日曜礼拝に行きました。ランチは3人で食べてくると言います。ゆったりと過ごせる日曜日のランチタイム。子供と夫と一緒のときは食べられないものを、自分のために作ることにしました。

 夫がアメリカ人で、子供がまだ小さいと、食卓に並ぶのは洋食が多くなります。洋食といっても、オムライスやカツカレーなど、私が大好きな洋食ではなく、イタリアンやアメリカンやメキシカンなど。そういうものを常に作ったり、食べたりしていると、無性に和食が食べたくなります。それでなくても、あっさりとした和食が恋しくなる年代。でも、家族の食事を作り、かつ、自分の分だけ和食を作ると、手間も時間もかかります。ですので、いつもはあきらめて、どうしても食べたいときは近所のデリで買うことにしています。

 家族の前では言わないようにしていますが、私が食べたいのはソーセージではなく、「さつま揚げ」です。ピクルスではなく「ワカメとキュウリの酢の物」です。ポトフではなく「おでん」です。プライドポテトではなく、夫と子供たちが大嫌いなマヨネーズで和えた昔ながらの「ポテトサラダ」です。白身魚のソテーではなく、「タラの西京焼き」です。ピザじゃなくて、「お好み焼き」です。ラザニアではなく、「押し寿司」です。シンプルなペペロンチーノではなく、「かけそば」です。煮込んだラタトゥユではなく「筑前煮」です。私が食べたいのは、私が食べたいのは・・・。

 夫と子供たちを送り出した後、冷蔵庫の中を見て、いくつかの野菜を使って自分の食べたいものを自分のために、作りました。いずれも本当にシンプルな料理です。ホウレンソウのおひたし、ダイコンと厚揚げの含め煮、ナスとピーマン焼き(七味唐辛子とお醤油をかけて)、母が送ってくれた煮豆とタラコ。タラコは玄米でいただきました。美味しかったです。やはり、私は日本人。和食は心が落ち着きます。

 ほどなく、夫と子供たちが帰宅しました。アメリカのファミリーレストランのチェーン店「Big Boy」で、ハンバーガーを食べてきたと楽しそうにおしえてくれました。 「ランチはママも合流するわ」と言わなくて良かったです。

 

2016年3月13日日曜日

雨の日には・・・

 東京はこの1週間、雨が降ったり止んだりと落ち着かない天気が続いています。雨の日で一番困るのは、「ママチャリ」で息子を幼稚園に送れないこと。でも、実際に傘をさしてのんびり歩いて幼稚園に向かうと、普段、自転車で通り過ぎてしまうものにも目を向けることが出来、息子との会話を楽しめることに気が付きました。

 先日の雨の日は、傘を持って家を出た瞬間に息子がこう言いました。
「ママ、知ってる? 雨は神様のおしっこなんだよ」
「えっ? 本当? 誰が教えてくれたの?」
「自分で考えたの」
 
 ユニークな表現でしたので、てっきり娘が教えたものだとばかり思いましたが、違ったようです。「神様のおしっこねぇ・・・」と改めて、神様がおしっこをしている様子を想像しましたが、なんとなく、無防備で、威厳が損なわれる感じもして、ちょっと違うような気がしました。まあ、4歳の子供の考えることですから、笑って聞き流すことにしました。

 手をつないで道を歩いていると、おもしろいものを発見しました。第一発見者は息子。駐車場の前を通り過ぎようとしたときです。
 「ママ、見て! 時計だよ」。横を見ると、大型の車のバンパーの上に時計が置いてあったのです。紳士用のスポーツウオッチです。
 足早に歩く大人なら、決して気が付かないでしょう。それにしても、どうして、車のバンパーの上に時計を置き忘れるのでしょう? 不思議な人もいるものです。
 時計はすっかり雨に濡れていました。スポーツウォッチなので、おそらく防水加工が施されていると思いますが、それにしても、です。
 「きっと、気が付いて取りに来ると思うから、そのままにしてあげようね」と私。忘れた人は、こんなところに置いたことを思い出すでしょうか?

 また、2人で話をしながら歩いていると、息子が、テープの貼られた空地を指さして、言いました。
「ママ、ここにまだ、お家が建たないんだね。きっと、お家を作る人が、休んでばっかりなんだね」
 言われてみれば、ここは古い家が取り壊されて更地になったところ。子供はこういう変化に目ざとく、そして忘れないのだな、と感心。「休んでばっかり」という表現に思わず、くすりと笑います。

 さらにてくてく歩くと、今度は石材屋さんの前を通り過ぎました。入り口が、珍しく開いていました。見てみると、間口が狭いのに、ずいぶん奥までブロック石が積まれていました。息子が言います。
「ここは、石ばっかり屋さんだね」。最近、「ばっかり」という言葉を覚えた息子。石材屋さんのことを、石ばっかり屋さんとは、楽しい表現です。

  息子と傘をさして歩いていると、母と歩いた田舎の風景を思い出しました。父の仕事の関係で、札幌を離れて、田舎町に住んでいたときのことです。浮かんでくるのは、霧が立ち込めた風景。当たりは建物も人もなく、林に向かって細い砂利道が続いています。その砂利道を母と歩いていたら、雨が降ってきました。母は、道端にうっそうと生えている、葉が丸くて大きいフキの茎を折って、私にくれました。私はその茎を持ち、葉を傘にして、歩きました。私が、息子と同じくらいの年齢だったと思います。珍しくて楽しい出来事だったので、記憶してるのでしょう。今、思い返しても、母に守られていた、愛されていたと思える、幸せな思い出です。

 大らかな北海道の風景とは違い、家が立て込んでいて、新旧の小さな商店が立ち並ぶ、私たちの住宅街から駅に向かう風景。ターコイズブルーの自転車でビューンと走り去った記憶だけでなく、雨の日は一緒にのんびりと歩いたことを、息子が記憶してくれれば良いなと、と雨の日を待ち遠しく思う今日このごろです。
 

2016年3月10日木曜日

Mom's Deli(ママのデリ)

 最近の我が家のブームは、「Mom’s Deli(ママのデリ」です。カウンターに料理を並べ、家族に選んでもらうのです。ルールは、野菜を1種類入れること、そして、オーダーする数を自分で決めること。子供たちが、喜んで食べてくれます。

 昨夜のメニューは、カキフライ、スズキのソテー、フライドポテト、ルッコラのサラダ・バルサミコ酢風味、ガーリックチーズのカナッペ、キュウリ、ミニトマト、ブドウです。ブドウは季節外れですが、先日息子にリクエストされたので、オーストラリア産を購入し、この日のメニューに加えました。

 「今日は僕が最初!」と息子が張り切って、踏み台の上に立って、カウンターの前に並びます。
 大皿を持った私が、「今日は何種類になさいますか?」と聞きます。
料理を品定めし、「5種類でお願いします」と息子。息子が選んだのは、スズキのソテー1つ、フライドポテト4つ、カナッペ2つ、キュウリとブドウです。「やった!ブドウだ!」と喜んでくれました。「フライドポテトは4つ。僕4歳だから」と、個数にも一応、意味があったようです。

 次に娘。
 「何種類になさいますか?」
 「4.5種類でお願いします」と、いつもの娘特有のユニークな表現です。
 「4.5種類ってどういう意味?」と聞くと、「キュウリとトマトが同じ皿によそってあるでしょう。私はキュウリはいらないから、4.5種類ってこと」。「ああ、そういうことね」と一旦は納得したものの、「普通は5種類って言うよなあ」と、独特の言い回しをする娘を不思議に思います。

 娘が選んだのは、スズキのソテー2つ、「フライドポテトたくさん」、カナッペ3つ、ミニトマトとブドウです。娘はキュウリが大嫌いで息子は大好き、息子はトマトが大嫌いで娘は大好き。きょうだいでも、やはり好き嫌いは違います。

 さて、選ばれなかった料理は、大人たちが食べます。「カキフライ、こんなに美味しいのにねえ」と夫と私。ルッコラのサラダは、もう十数年も前にイタリアンレストランで食べておいしかったものを自宅で作ってみて、改良を重ね、今は我が家の定番メニューの1つです。子供たちには食べてもらえませんが・・・。

 たまに、和食のデリをしますが、子供たちには不人気です。でも、先日、きんぴらごぼうを出したら、意外にも息子がオーダーし、「美味しいね」と食べてくれました。気長に食卓に出し続けるのが、子供に食べてもらう秘訣でしょうか。

            

2016年3月8日火曜日

ママの秘密

  日曜日、夫が子供たちを連れて外出したので、久しぶりに美容室に行ってきました。いつも行っている青山の美容室のスタイリストが原宿店に移ったというので、原宿まで足を伸ばしました。髪をカットしてもらい軽やかな気分で、周辺を散策。そして、以前夫と行ったことがあるレストランで昼食を取りました。

 髪が整っていると、何となく自分に自信が持てます。「おひとり様ですか?」という店員の質問にも、気後れすることなく、堂々と「はい」と答えることが出来ました。店内に入るとほぼ満員。おそらく、客の3分の1は外国人でしょう。外国人の好む店では、その雰囲気に合わせたものを注文しようと、チキンバーガーとコーラをオーダーしました。缶ごと渡されたコーラを氷の入ったグラスに注ぎ、ぐびぐびと飲みます。ボリュームのあるバーガーをぱくぱくと食べます。そして、本を読みながら、ゆったりとした時間を過ごしました。

 でも、ひとりの時間はそこまでです。夫と子供たちが帰宅する前に自宅に帰らなければと、お会計を済ませて、足早に駅まで歩きました。天気予報が当たって、空は曇天。今にも雨が降りそうです。電車で自宅の最寄り駅まで行き、駐輪場に止めてあった「ママチャリ」に乗って、自宅を目指しました。
 
 帰宅を急いだのは、外に干した洗濯物が気になったからではありません。自宅には、家族に秘密の楽しみが待っているからです。夫と子供たちが帰るまで、少なくとも30分はあるでしょう。その30分で、その秘密の楽しみを満喫できると考えると、自転車をこぐ足の動きもリズミカルになります。

 さて、帰宅して、コートをかけて、私がまっすく向かったのは、冷凍庫です。冷凍肉など食材をより分けると、目指すものがありました。「ニューヨークチーズケーキ」が入った箱です。それも、1ホール。数日前、スーパーの「冷凍食品30%OFF」クーポンを使って、”ゲット”したのものです。アイスクリームを探す子供たちに見つからないように、食材を幾重にも重ねて隠しているのです。

 直径20センチはあるチーズケーキは、1ホールを12個に切ってあります。それを、毎日おやつにいただきます。買った翌日はあまりに嬉しくて、午前と午後、1日2回いただきました。チーズケーキを皿によそって、コーヒーを入れている間に、少しだけケーキが溶けます。少し固めのチーズケーキをフォークで差して一口分をすくい、口に入れるあの瞬間・・・。甘い物好きの私にとって、至福のひとときです。

  チーズケーキを1ホールを独り占めできるー。こんな幸せはあるでしょうか?これは、私だけの秘密。子供たちにはもちろん、話しません。昨日はあまりの嬉しさに、つい、口を滑らせ、娘に「チーズケーキ食べる?」と聞いてしまいましたが、慌てて、ごまかしました。

 明日も、明後日も、チーズケーキは冷凍庫にあります。やっぱり、この幸せは子供たちと共有すべきかしら?と思いつつ、まだ、子供たちに言えないでいます。

                     

 
 

2016年3月7日月曜日

ひな人形を仕舞う

 昨日、やっと雛人形を仕舞いました。翌日の4日に片付けるはずが、2日も延びてしまいました。時間がなかったわけではありません。親王飾りと、玄関のミニチュア人形しかないのに、何となく面倒で、つい先延ばしにしてしまったのです。

 母からは4日に、「これから片付けます!」と7段飾りの写メールが届きました。7段飾りなど、飾っても仕舞っても、気の遠くなる時間がかかります。それでも、母は毎年、欠かさず飾ります。「お雛様は1年に1度出してもらうのを、楽しみにしているの。だから、必ず、毎年出すの」と言います。本当に我が母親ながら、頭が下がります。

 私もその言いつけを守り、毎年必ず飾っています。が、飾るのは、早くて1週間前。仕舞うのは数日後です。 周りのママ友達に聞いても似たようなもので、中には、「今年は出さなかったわ」という強者も。昔から、「いつまでも片付けないと、娘の婚期が遅れる」と言いますが、出さなかったママ友達は娘3人。嫁に行っても行かなくても、早く行っても遅れて行っても、どちらでもよいと腹が据わっているのでしょう。私の場合、母は毎年4日に必ず仕舞っていましたが、私が結婚したのは36歳。あの言い伝えは迷信だと、自ら証明しましたので、私も一種、開き直っています。

 そのようなことを言いつつも、やはり、桃の節句は心が華やぎます。今年は桃の花を活けました。キッチンがパッと明るくなりました。子供たちが嫌いなので、ちらし寿司は作りませんでしたが、「私も一応、女の子だし」と、自分一人分だけ買いました。母からは娘に、「サーティワンアイスクリーム」のギフト券が届きましたので、家族で雛人形がついたアイスクリームを美味しくいただきました。

 「お雛様、また、来年ね」-。母が毎年、そう言葉を掛けながら雛人形を仕舞っていたことを思い出し、昨日は、私も「お雛様、また、来年ね」と声をかけながら、仕舞いました。やはり、母の言いつけや習慣の一部は、子供の心の中に刻まれているということでしょう。

              
 
      玄関に飾った、ミニチュアのひな人形

2016年3月3日木曜日

片付けの極意

 朝、洗濯機が置いてある家事室に行くと、洗濯物を入れるピンクの大型バスケットの中に山のように服が入っていました。洗濯機は毎日2、3回回します。昨日もバスケットを空にしたばかり。「またーっ」とうんざりとした気持ちで、洗濯物を見ると、娘の物が多い。通りで一気に洗濯物が増えたはずです。

 グレーのセーターを引っ張り上げ、良く見ると、一回着ただけのセーターです。私は「ホントにもう・・・」と心の中でつぶやき、セーターをたたんで、カウンターの上に置きます。そして、ピンクのセーターを引っ張り上げ、点検します。全く、汚れていません。私はまた、それもきれいにたたんで、グレーのセーターの上に乗せて、娘の部屋に行きました。

 娘は帰宅後制服から着替え、パジャマに着替えるまで着た服を、翌朝簡単に洗濯機横のバスケットに入れます。「2日ぐらいは着なさい!」という言いつけは、何度言っても、守りません。ですので、全く汚れていない服をたたんで、娘の部屋に戻すのは私の役目。当然、娘はそのことを知りません。

 さて、3段のカラーボックスが並ぶ収納エリアのドアを開けて、まるで洗濯したばかりの服を入れるようにセーターを戻すと、ジーンズとスパッツが入れてあるカラーボックスの一番上の段のジーンズだけが、きれいにたたんでしまわれています。

 「片付けたの?」と娘に聞くと、
 「うん。1日1段って決めて片付けることにしたの」と娘は答えます。

 「うーん、明日も続けばいいけど・・・」と心の中で思いながらも、私は「それって、片付けの本でアドバイスされている方法だよ。今日はこの部屋を片付けよう!と意気込むからうんざりして出来ない。一日引き出し1つとか小さい目標のほうが長く続くらしいよ。すごいね。そのことを気付いたんだね」と大げさに娘をほめます。
 娘はわざわざ私のところまで来て、「1日1段片づけたら、1週間でだいたい片付くでしょ」と得意げに語ります。

 ほめる子育て。これは最近の子育ての主流です。その効果のほどは分かりませんが、おそらく、良い面もあるのでしょう。しかし、あまりほめられないで育った私の世代では、これがなかなか難しい。意識しないと、叱ってばかりで終わってしまうのです。で、気が付いたときに、”意識して”ほめるようにしています。このときも、「これはほめるチャンスかも」と一応トライしてみました。

 さて、翌日の夜。宿題をやったかどうかのチェックをしに娘の部屋に行ってみると、昨日の片づけは三日坊主ならぬ、一日坊主だったらしく、見慣れた光景が目に飛び込んできました。

 勉強道具が入ったリュックサックが乱雑に床に置かれ、コートも床に脱ぎっぱなし。前日の工作の紙類が床に散らばり、机の上にも物が無秩序に積み上げられていました。私はうんざりしながら、娘に言います。おそらく、子供を持つ、多くの家庭で繰り広げられている母子の会話でしょう。

 「どうして、学校から帰ってきたら、コートをかけないの? 工作が終わったら、紙屑はゴミ箱に捨てなさい!何で、お菓子の袋がここに散らかっているの? 食べ終わったら、ゴミ箱に捨てなさい!あらっ、これはバスタオルでしょ? どうして、使い終わったバスタオルはバスルームのタオルかけにかけないの?」

 私の小言は、右の耳から入り、頭の中にいっときも止まらず、左の耳から抜けていく娘は私に言います。
 「ママ、私はこういう状態が、とっても心が落ち着くの。だから、このままでいいの」

 散らかった状態が落ち着く・・・。私は、返す言葉がありませんでした。きちんと育てようと努力はしましたが、散らかった状態で心落ち着く娘を育ててしまったのは、私の責任です。

 一瞬、「片付けられない症候群」という言葉が頭をよぎりましたが、私は小言をたたみかける代わりに、「濡れたバスタオルを、布団の上に置いたままにするのはやめなさい」と力なく言い、布団の上の濡れたバスタオルを取り上げ、娘の部屋のドアを静かに閉めたのでした。

 そして、娘が小学校低学年のころにした、会話を思い出しました。
 「どうして、先生やママやダディに言われたことを、頭の中に留めておかないの!」
 「だって、頭、つまっちゃうんだもん」

 その風通しの良い頭で、あの独創的なアイディアが生まれるのでしょう。でも、それとこれとは・・・。娘を育てる母としては、悩ましいところです。

 



 
 

2016年2月27日土曜日

雪だるま、作ったよ

 朝、娘と夫を送り出した後、4歳の息子がクマのぬいぐるみ「ベア」を抱いて、起きてきました。顔を洗って、着替えをした後、「今朝は、何食べたい?」と聞くと、「うーん、どうしようなかなぁ」としばし考え、「パンケーキ!」と元気良く答えました。そういえば、最近作っていませんでした。久しぶりに私も食べたくなり、一緒に作りました。

 息子は料理が大好き。特に、クッキーやピザなど、粉を使う料理が大好きです。アンパンマンのエプロンをして、踏み台の上に乗り、張り切って作ります。私は材料を測る係で、息子は材料をボウルに入れ、泡立て器でぐるぐる回す係。

 タネが出来上がると、フライパンにいろいろな形を作りました。我が家は、パンケーキを食べるお皿が決まっています。絵のついたお皿です。オレンジ色の「ミッフィ」、黄色の「自転車」、緑の「木」、水色の「ボート」、グレーの「雪だるま」と5枚あり、食べるときに、好きな絵の皿を選びます。

 息子が「雪だるま、作ったよ。ママにあげる」と焼いてくれたパンケーキが、雪だるまの絵にそっくりでした。食べるのがもったいなくて、でも、食べないのももったいなくて、しばし悩みました。結局、温かいうちにパクリといただきました。

                

2016年2月26日金曜日

神様への願い 

 「ママ、今日は願い事が叶ったんだよ」ー。夕食のチキンカツをほおばりながら、インターに通う5年生の娘が興奮気味に報告しました。「あら、良かったわね。何の願い?」と聞くと、「昨日ね、寝る前に神様にお願いしたことなの」と嬉しそうに話し始めました。

 「今日、宿題のエッセイの提出日だったの。もし、提出しなかったら、今学期のこの授業の評価は0点ですって言われていたから、昨日の夜、書き終わろうと思っていたのに、眠くなってしまって。で、神様にお願いしたの。神様、お願いします。私をお守りください。明日の20分休みに仕上げられますように」って。

 やはり、私の血を引く娘です。 大事な宿題をやらずに眠るとは・・・。私は遠い昔を思い出しながら、娘の話に耳を傾けます。

 「でね、休み時間に集中して書いたの。ティッシュを水道の水で少し濡らして、耳栓にして。だって、みんなうるさいんだもの」

 耳栓をして、休み時間に宿題をするー。こんな個性的なこと、小心者の私には決して出来なかった芸当です。

 「クラスメートのみんなは、どんなことして休み時間を過ごしていたの?」
 身振り手振りで説明する娘の話を聞くと、クラスメートも個性派の集まりでした。

 「チキン、チキン、ケンタッキーチキン♪」と「チキンの歌」を歌っているアメリカ人男子。スターウォーズの主題歌を歌っているフランス人ハーフの男子。円周率の暗記をしている日本人女子。ブタのマネをして飛んでいる?アメリカ人女子・・・。私は大笑いしました。なんて皆、ユニークなのでしょう。

 耳栓の効果はあったようで、娘は二十分間でエッセイを仕上げて、先生に提出したそうです。

 「でね、ママ、先生に100点もらったんだよ。すごくない? 0点だったのが、100点だよ!」と娘は興奮しています。

 「で、テーマは何なの?」

 「テレビゲームは子供に良くない、だよ」と娘。意外に真っ当なテーマで、驚きました。

2016年2月23日火曜日

娘からのプレゼント

 幼稚園が終わった後、息子を連れて近くのモールに行きました。子供用品の店が並ぶフロアに小さな子供たちが遊べるコーナーもあるので、寒い日に子供と過ごすのにぴったりな場所です。電車の駅に隣接しているので、電車通学の娘も帰りに寄って(厳格な女子校では考えられないことでしょうが、インターは規則が緩いのです)一緒に帰ることが出来るので、便利なのです。

 息子をひとしきり遊ばせ、その合間にパソコンでブログを書き、一緒にアイスクリームとたこ焼きを食べ終わったころ、娘が到着しました。そのフロアに来るまで、3回電話をよこしました。
1回目: 「ママ、駅に着いたよ。今、行くからね」
2回目: 「ママ、すごい人なの。みんな、モールに行くみたい」
3回目: 「ママ、4階だよね。見えないよぉ」

 ”まめ”なのは、父親譲りです。ようやく、私の姿を探し当てた娘は、満面に笑みを浮かべて、走ってきます。そして、「はい、プレゼント。学校の校庭に咲いている桜なの。枝を折ったんじゃないよ。落ちていたのを拾ってきたの」と桜の花を持ってきてくれました。早咲きの桜でしょうか?

 娘は幼稚園のころから、道端に落ちている花や花びらを拾って、私にくれる子でした。小学校に入り、1人で登下校するようになってからも、「はい、プレゼント」と道端に落ちていた花を持って帰ってくれました。桜の季節は、ピンクの花びらを手の平いっぱいに入れて、帰ってきました。

 「人のおうちの花は取っちゃダメよ。落ちているのは、拾っていいからね」と幼稚園のころ言い聞かせたことを、今も守り、私に手渡すときに「拾ってきたんだよ」と付け加えるのも、変わりません。
 11歳の娘が、こういう子供らしさや愛らしさをまだまだ持っていることを、嬉しく思います。

                
娘がくれた桜の花。花びらが割れているので、桜だと思いますが・・・。
 

2016年2月21日日曜日

ママ、何で?

  最近、4歳の息子が鋭い質問をするようになりました。「なるほど、そういう疑問もあるのか」とこちらが感心するような質問です。娘を育てていますので、「それどういう意味?」というストレートな質問には、それなりに答えられますが、息子の質問はちょっと答えに窮する質問。で、こちらがしどろもどろになってしまうこともあるのです。

  節分のことです。我が家は節分が大好きです。昨年、3歳のときは、訳も分からず、赤鬼と青鬼のお面をかぶって、「鬼は外!福は内!」をやりました。が、今年、そのイベントが終わった後、登園時に自転車に乗っていたときに、質問してきたのです。

 「ママ、鬼は外。福は内って何?」。オーソドックスな質問です。
 「それはね、家の中の怖い鬼、つまり、悪いことは家の外に出て行け!そして、幸福の福、つまり、ハッピーなことは、家に入ってこい!と願って、鬼は外、福は内ってするのよ」
 「じゃあ、ママ。ハッピーな鬼はどうするの?」

 「ハッピーな鬼」。答えに困りました。ハッピーな鬼が家にいたとしたら、わざわざ、豆をぶつけて、追い出さなくても良いのではないか? ハッピーな鬼が外にいたら、「どうぞ」と家に招待しても良いのではないか、と思いました。

  少し間を置いて、「そうだね。ハッピーな鬼は、家に入れても良いよね」と答えました。

  数日前には、こんな質問。それも自転車に乗っていたときです。
「ママ、朝のクモはどうして殺しちゃいけないの?」。待ってましたとばかりに私は答えます。
「昔からね。朝のクモは神様のお使いと言われているの。だから、殺さないで、外に逃がしてあげるのよ」。
娘なら、「ふーん、そうなんだ。じゃあ、もう、朝のクモは殺さないで、外に出してあげるね」でした。
息子は違いました。
 「じゃあ、ママ。夜のクモは殺していいの?」

  これも、とても想定外の質問でした。が、とても良い質問です。
私は言いました。「いい質問ね。やっぱり、夜のクモも殺さないほうが良いよね」と答えました。さすがに、「夜のクモは神様のお使いではないから、殺しても良いの」とは言えませんでした。
 不思議なもので、私は今でも朝のクモは殺せません。ティッシュでそうっとつかみ、外に逃がします。が、夜のクモはティッシュを重ねて・・・です。そう考えると、親の教えやことわざは後々の行動まで影響するので、しっかり答えなければなりません。

  次の質問は車に乗っていたときでした。窓から外を眺めていた息子が聞きました。
「ママ、どうして月は車と一緒に動くの?」
うーん。これは結構、困りました。答えは実はしどろもどろ。今でも合っているかどうかわかりません。
「今、自分がいるところと、自分から見える物の距離、つまり、遠いか近いかということなんだけど、その距離の違いで、自分が動くと一緒に動くように見えるものと、一緒に動かないように見えるものがあるの。月や山は遠くにあるでしょう。だから、自分が動いても一緒に動いているように見えるの。でも、今、窓の外に見える建物は自分からすぐ近くにあるでしょう。そういう近くの物は自分が動いても一緒に動かないように見えるの」

 自分の答えに自信がないと、多弁に、回りくどくなります。それは、ビジネスの世界も、政治の世界も、子育てでも一緒です。息子は、私のまわりくどい説明を聞き、納得したように答えました。

 「そうなんだ。自分から遠いものは、自分と一緒に動いて見えて、近いものは動かないんだね」。私のつたない説明を、端的な言葉に変えて、答えた息子に私は、感心してしまったぐらいです。

  もう一つは昨日の質問です。朝、自転車で登園するときに、目の前に腰の曲がったおばあさんが歩いていたのです。

「ママ、どうして、おばあちゃんはゆっくり歩くの?」
「それはね、人はみんな年を取ると、若いときに比べていろいろなことが出来なくなるの。たとえば、おねえねえは速く走れるでしょ。ママもおねえねえのように子供だったときは速く走れたけど、今は速く走れないの。年を取るっていうことは、子供のころ、若いころ出来ていたことが出来なくなることなの。だから、あのおばあちゃんは、若いころはスタスタ歩けたけど、年を取ってしまったから、ゆっくりなの」。

 息子は私の長い説明を聞いた後、こう言いました。
「そうなんだ。人は古くなるってことだね。 おばあちゃんは古くなって、足が痛いから、ちょぴっとずつ歩くんだね」

「うん、そうそう、古くなったの」と私。 なんとなく、息子に助けられているような気がしました。




2016年2月19日金曜日

節分

   節分の豆まきは、家族が大好きな行事です。今年も子供たちが張り切って、「鬼は外!!福は内!」と、厄払いをしました。

  前日、豆まきに使う落花生を、遠くのスーパーまで車で買いに行きました。自宅近くのスーパー2軒に行きましたが、売り切れだったためです。その話を後日、ママ友達にしたところ・・・。

 「 落花生?いいわねえ。殻の中に入っているから、床に落ちたものも食べられるわね」
 「え?落花生じゃないの?」
 「ううん、うちは大豆」

  物心が付いたときから、落花生で「鬼は外!福は内!」をしていた私は仰天しました。翌日から、息子の送迎時に一緒になるママ友達に聞いてみました。息子が通う幼稚園のママさんの多くが東京出身。10人に聞いてみたところ、全員が大豆でするというのです。本当に驚きました。大豆は小さな袋に小分けされているものをたくさん買ってきて、その小分けされた袋で、豆まきするという人もいました。

 道理で、スーパーで売っていないはずです。私はこれまで、スーパーで売っていないのは、売り切れたからだとばかり思っていました。そして、大量に陳列台に並んでいる大豆は、余っているのだと思っていたのです。売り切れる前に落花生を買おうと毎年思いつつ、前日まで買わずにいたため、売り切れてしまった。来年こそ、早めに買おうとまで、決意していたのです。

  落花生を使うのは、北海道の風習なのでしょうか? 不思議に思いインターネットで調べてみると、落花生を使うのは、北海道から始まったらしいのです。「雪の中でも拾いやすい」などの理由らしいです。なるほどと、納得しました。

  このほか、節分に食べる太巻きの食べ方も違いました。私が北海道にいたころは普通に切って食べていましたが、東京に来たときに、太巻きをその年年で違う方角のほうを向いて、一本まま食べることを知りました。「恵方巻き」と言い、大阪を中心に行われている習慣だと言います。方角はその年の幸福を司る神がいるという方で、今年は南南東でした。一本まま食べるのは、「縁を切らないように」ということらしい。私が東京に来てから十五年経っていますから、今は、北海道でも「恵方巻き」が広がっているかもしれません。

 実は私は、太巻きを作るのが昔から得意。でも、毎年作っても夫が"義理"でつまむぐらいで、子供たちは食べてくれないので、今年、初めて、太巻きを作りませんでした。

  季節の行事を楽しむ母からは、「太巻き作ったよ!」という写メールが。今年は、ちょっと寂しい節分でした。
 

2016年2月16日火曜日

Daddy's Little Girl

  「ママ、これ、額に入れてくれる?」。 娘がA4サイズの画用紙を持ってきました。「ダディの誕生日にプレゼントするの」と言います。娘が描いた絵や版画を近所の額縁屋さんで額装してもらって居間や玄関に飾っているので、ふと思い付いたのでしょう。「ダディ、気に入ってくれるかな?」と見せてくれました。

 水色の画用紙には、青色のペンで素敵な詩が書かれていました。娘は昨春インターナショナルスクールに転校したばかりですが、英語で書いた詩はなかなかの出来でした。何よりも、心がこもっていました。

 私と一緒に歩いて、ダディ
 そして、私の小さな手をつないで
 私には学ばなければならないことがたくさんあるの

 身を危険から守る術を教えて
 ベストを尽くす方法を教えて
 家で、学校で、遊び場で

 どの子どもも成長するときに優しい手が必要なの
 だから、私と一緒に歩いて、ダディ
 私の小さな手をつないで

 「かわいい詩だなあ」と思ったものの、私は同性の女親ですので、つい、「手、小さくないんだけど」などど、ツッコミを入れたくなります。が、ここは正確さよりも、娘の溢れんばかりのダディへの愛情を評価するべきでしょう。この「小さな」という表現に娘の願望が込められているのかもしれません。いつまでも、Daddy's little girl (ダディの小さな娘)でいたいという。。。

 創作が大好きな娘。画用紙に詩をつづっただけではありません。そこには工夫が凝らしてありました。自分の足形が付けてあったのです。「一緒に歩いて」という気持ちを、足形で表現したのでしょう。小さいころ、私たちが娘の足の裏に絵具を塗って、形を画用紙に取ったことを覚えているのだと思います。詩の背景にしたその足形は、白い絵具で取ったものでした。白い足形が浮かび上がるように見える水色の画用紙に、青いペンで書かれた詩。それは、一つの”アート”になっていました。

 「手、小さくないんだけど」という言葉は飲み込んだものの、足形を見て、つい声に出して言ってしまいました。「足形ってすごくいいアイディアだけど、足が大き過ぎない?」。娘は頬を膨らませて、「足が大きいのは、私のせいじゃないもん。ダディのせいだもん」と言います。「そうだよね」と私。小5にして、多くの大人の女性より大きい24・5センチの足は娘のせいではありません。間違いなく、身長195センチ、足30センチの父親譲りでしょう。

 でも、大きな足形も、夫にとっては枝葉末節。やはり、娘からこんなに愛情たっぷりの詩をプレゼントしてもらえることが、何よりも幸せなことだと思います。

 このような父娘の関係は、一日にして成らず、です。夫は娘が幼稚園の年少のときから、小5の現在まで8年以上、毎日一緒に登園・登校しています。今でも、毎朝、手をつないで学校に行きます。娘の登園・登校時間に合わせて会社の出社時間を変えました。幼稚園のときは9時半で会社で一番遅かったそうです。地元の小学校に行っていたときは9時、インターに転校してからは8時前になり、会社で一番早いそうです。夫にとって、娘と一緒に歩く朝の時間が、何よりも大切な時間です。娘にとっても、そうなのだと思います。8年以上毎朝続けた、これからも続くであろう、娘との時間なくしては、このような素敵なプレゼントという結果には、ならないでしょう。

 さて、夫の誕生日の当日。このプレゼントをもらった夫は、目に涙を浮かべていました。そして、その表情を見た娘も、目に涙を浮かべていました。「ちょっと、足、大きいけど・・・」と照れながら肩をすくめる娘の表情すら、夫にとってはいとおしいものだったと思います。

 後日、夫は、その額縁を大切そうに、寝室の壁に飾りました。これから、娘が成長し、いつか巣立ってしまうときも、この詩をながめて、一緒に歩いた日々をいとおしく思い出すに違いありません。
 

 

2016年2月13日土曜日

父の誕生日 ②

 母から写メールが届きました。父の好きな、たちの粕汁、麻婆豆腐、日本酒とケーキでお祝いしていました。
  

父の誕生日

 今日は父の81歳の誕生日です。夫が、父が大好きだったステーキを焼いてくれました。赤ワインと一緒に楽しんでくれたでしょうか。
 
 お父さん、ありがとうって言えなくてごめんなさい。
 お父さん、大好きだよって言えなくてごめんなさい。

               

2016年2月12日金曜日

薬局で考える

 息子の風邪がうつり、高熱が出た日の翌日から咳き込み、それと同時に頭痛に悩まされました。頭痛に効く薬と言えば、「ロキソニン」。これまでも、頭痛や歯痛がひどかったときにこの市販薬をドラッグストアで購入し、服用して一時的に痛みが和らぎましたので、今回もさっそく飲みました。

 薬箱の中にあった2錠を飲み切ったため、息子が幼稚園に行っている間にドラッグストアに行きました。レジの前で「ロキソニンをください」と言うと、「ロキソニンはここでは販売していません。一番近いところで、この坂を下りたところにある、S薬局でご購入できます」とのことです。

 以前、このドラッグストアで購入したことがある私の頭には、即座にクエスチョンマークが点滅しました。
 「今、この店に薬剤師がいないの?それとも、基準が変わってドラッグストアでロキソニンは売れなくなったの? 」
 理由を聞いてみたくなりましたが、そんなことよりもまず、薬を購入しなければーと、質問を飲み込んでS薬局に自転車を走らせました。

 S薬局には、息子が通う幼稚園の同じ年少組にいる男の子のお母さんが、薬剤師として働いています。三十代前半の、とてもきれいなお母さんです。薬局に入ると、後ろの調剤室から出てきて、「おはようございます」と明るくあいさつをしてくれました。

 「おはようございます。ロキソニンを買いたいのですが」
 「はい。では、この用紙にお名前と生年月日をご記入いただけますか?」
 
 「市販薬を買うのに、名前と生年月日がいるの?」と予想外の展開に驚き、一瞬「どうしようかな」と考えました。

 私の戸籍の姓は、日本の名前です。外国人と結婚する場合、姓は自分の姓をそのまま使うか、相手の姓に変えるか、いずれかを選べます。私は結婚したときは仕事をしていて、かつ、夫婦別姓を支持していたので、当然のように姓をそのままにし、夫の姓に変えませんでした。娘が生まれてからも、しばらくは戸籍名を名乗り、娘にも戸籍名(娘はアメリカ国籍もあるため、名前が2つあります)で通していました。

 ところが、夫の姓と娘や私の姓が違うと、面倒なことが多い。つまり、「娘さん、どうしてパパと名前が違うの?」「夫婦別姓なの?」などの質問にいちいち答えなければならなかったのです。子供が出来る前は夫婦別姓にこだわりがありましたが、子供が出来て仕事を辞めてからは「子供にとって良いほうで」と考えも変わりました。で、今は11歳になる娘の幼稚園入園に合わせて、私も娘も、夫の姓を名乗ることに。そうすると、物事は一気にスムーズになりました。

 今は私に関しては、子供の学校関係、子供を通じて知り会った人、家族の一員として世間に名乗る場合は夫の姓を、私の友人知人はそれまでと同様戸籍の姓にし、完全に区別しています。

 さて、ロキソニンです。薬を購入するには、本名を名乗るべきでしょう。が、購入するのは、市販薬です。保険証の提示も求められていません。私は、少し迷って、「マイヤー睦美」と書きました。その後に続く、生年月日と年齢がインパクトがあり過ぎる情報だからです。

 名前も違う、年齢も4歳の子供の母親としてはありえないような、あっと驚く年齢だと、ともすれば「この人、怪しい・・・」と余計な警戒感を与えてしまうのではないかと瞬時に判断したのです。別に悪いことはしていませんが、気が引けるとでも言うのでしょうか・・・。

 生年月日の欄には当然ですが、「昭和39年・・・(51歳)」と正直に記入しました。私の年齢を知らなかった彼女は驚いたでしょうが、職業柄、平然とした表情で現在飲んでいる薬など、用紙に書かれた質問をしてきました。が、「妊娠の可能性はありますか?」の質問は、私に直接聞かず、勝手に「いいえ」にまるを付けました。

 「51歳で妊娠をするはずがないと判断したのか、『ロキソニン』は胎児や妊婦に影響を及ぼさないので聞く必要がないということなのか、51歳の女性にそもそも聞くのが失礼だと思ったのか、どの理由で『いいえ』に勝手にまるを付けたのだろう」
 
 と、素朴な疑問がわきましたが、「ロキソニン」をドラッグストアで買えなかったときと同じように、今回も、疑問を頭の中から追い出し、とりあえず薬を購入しました。

 頭痛薬を買うだけなのに、思考?を巡らせなければならないないなんて・・・。私は「他の薬局で買えばよかった」と少し後悔をしたのでした。

 

 
 

2016年2月11日木曜日

お弁当いろいろ ②

 4日間の札幌滞在を終えて、私は高齢の親を見舞う50代の娘から、4歳と11歳の子供を育てるアラフィフママに戻りました。

 札幌で風邪を引いて高熱が出ている息子を小児科につれて行き、薬を飲ませたり、「冷えピタ」を何度も張り替えたり、おしりに解熱剤を入れたり、と忙しくしていました。夫と娘にうつると困るので、なるべく近付けないようにし、夜は息子と2人で寝ました。当然のことですが、私にも風邪がうつり、札幌から帰った翌日に熱が出てしまいました。

 その日は、熱が引かない息子と一緒に終日ベッドに寝ていました。翌朝は39度近い熱がありましたが、頑張って6時半に起床。娘のお弁当を作ろうとしたときです。珍しく、私より早く起きた娘が言いました。

 「昨日ね、ダディに、ママが具合悪いから、夜のうちに自分でお弁当作りなさいって言われたの。で、自分で作ったんだよ」
 「あら、そう、偉いわね。ありがとう」と少し驚いて、私は娘に礼をいいます。お弁当はすでにお弁当袋の中に入っていました。
 「中身、見ていい?」と聞いてみました。
 「うん!いいよ」とニコニコしながら、娘は自分で作ったお弁当を見せてくれました。

 その二段弁当を見て、私は娘がいとおしくなりました。「そうだよなあ」と思いました。自分が好きなもので、簡単に作れて、そして、きれいに見えるもの、にしたのでしょう。

 二段弁当の一段は、大好きなバジルペーストをからめたパスタがギチギチに詰まっていました。もう一段には、食欲が全くない息子のために買ってあったフルーツゼリーが入っています。冷蔵庫の一番取り出しやすいところに入れてあったものです。そのゼリーの横には、仕切りを挟んで、シャケフレークをまぶしたご飯が。ゼリーはケースに入れず、そのまま入っています。今は何となく形になっていますが、通学途中に揺れて、ゼリーの水分が仕切りの下から横にもれて、ご飯にしみるのは時間の問題でしょう。でも、せっかく初めて作ったお弁当にケチをつけるのは悪いような気がして、私は何も言えませんでした。

 私は「おいしそうだね、写真撮らせて!」と言い、娘が初めて作ったお弁当として、記念にカメラでパチリと写真を撮りました。

 さて、帰宅した娘。お弁当箱をキッチンに持って来て、こう言いました。
 「ママ、ごめんね。ご飯食べられなかったの。もったいないけど、捨てていい? ゼリーがしみて、すごい気持ち悪い味なの」
 「やっぱり」と思いながら、私は何食わぬ顔で、「あら、そう。今度から、お弁当にゼリーは入れないほうが良いかもね」と娘に言います。

 「ご飯を無駄にしたら、目がつぶれるよ」と母に口が酸っぱくなるほど、言われて育った私。が、この日は母の教えに反し、私は目をつぶって、ご飯を捨てました。心の中で、「お母さん、教えを守らず、ごめんね。でも、ゼリー味のご飯はどうしても食べられない」と言い訳しながら。