羽田空港に母を見送りに行きました。2週間の東京滞在を終え、母は新千歳空港行きの飛行機に乗り、札幌に帰りました。
保安検査場を通った母がこちらを振り向き、手を振ってくれました。搭乗ゲートに向かう母を見えなくなるまで見送りました。空港で母に手を振るときはいつも、「これが母を見る最後になるのではないか」という不安に襲われます。遠方に住む高齢の親に会う人は多かれ少なかれ、別れ際に似たような思いを抱くのではないでしょうか。
私は長い間、同じような思いを母にさせてきました。
私は38歳で発病した血液がんに始まり、自己免疫疾患や心臓病など別の病気をいくつか併発し、血液がんも2度再発しました。その治療や手術のとき、また体調が悪化したときは、母はいつも父を引き連れ、私の家族を世話しに東京に来てくれました。
私の治療や体調がひと段落して、羽田空港に向かう日。私の自宅の最寄駅や、羽田空港行きのバス停で私に手を振りながら、母は「睦美を見るのは、これで最後かもしれない」と何度も思ったといいます。私に手を振った母はいつも、「体を大切にするんだよ」と笑っていました。が、その話をするときの母の顔はいつもゆがみ、目からはとめどなく涙が流れます。
それほど、私の体調は悪かった。そして、私は当時、札幌からわざわざ手伝いに来てくれた両親を羽田空港まで送る体力すらなかったのです。
そんな両親の思いなどそっちのけで、私は「自分が死ぬ前に、何としても娘にきょうだいを作りたい」と四十六歳で息子を出産しました。そして、不思議なことに、病気の連鎖はそこで途切れ、下降線をたどっていた体調は出産後、憑き物が落ちたように回復していきました。
すると、それに反比例するように、両親は弱くなっていきました。父は3年前に亡くなり、母は体のあちこちが病んできました。まるで、「自分たちの役割は終わった」といわんばかりに。
掃除・洗濯、食事の支度、スーパーへの食料品の買い出しや娘の幼稚園へのお迎えまでこなした母は今、痛む膝をかばいながらゆっくりゆっくり歩きます。それでも、母はあちこち傷んだ体を押して、私や子供たちに会いに東京に遊びに来てくれます。
そんな母と話をしながら、「やはり、死ぬ順番は何としても守らなければならない」と気を引き締めます。
78歳の母に、「あのときが、娘を見た最後だった」と残りの人生を泣いて暮らさせてはいけない。
それが、私の出来る唯一の親孝行だと思いつつ、その親孝行をするために、自分の体をいたわりながら生きたいと思います。
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