2016年4月12日火曜日

父の命日に思う

 父が亡くなって3年になります。命日に合わせて、子供たちを連れて札幌に帰省しました。札幌はまだ厚手のコートが必要なほど寒く、子供たちが雪だるまを作れるほどの雪が残っていました。春の兆しはあちらこちらに見かけるけれども、気分が塞ぐ冬がでんと居座るこんな時期に父は亡くなったんだな、と切ない気持ちになりました。

 父の遺骨を納めるお寺に行くときに、NTTドコモの代理店を通り過ぎました。父が亡くなった後、母と一緒に携帯電話の解約の手続きに行ったことを思い出しました。年金事務所を訪れて父の年金を母の年金に切り替え、区役所を訪れて父の障害者手帳を返納する・・・。父がこの世に存在したことを示すものを1つ1つ消していく作業は、とても悲しい、辛いものでした。

 そのとき代理店では、解約の手続きとともに、父の数か月分の通話記録を頼みました。ポツン、ポツンと発信履歴がある、そのささやかな記録の中に、2件、数カ月間の間に複数回かけている電話番号がありました。私はその2件の番号に電話をしました。

 電話に出た2人はいずれも、高齢の男性でした。私は自分と自分の父の名前を名乗り、父が亡くなったことを告げました。
 そのうち1人は父や母からよく名前を聞いた、父の”脳梗塞仲間”でした。初めはカラオケに行ったり、外食をしたりしていたようです。しかし、5、6人いた仲間が1人亡くなり、また1人亡くなり・・・と減っていき、父ももうその仲間と外出することがなくなりました。
 私は電話口に出た男性に、生前父と親しくしていただいた礼を述べ、電話を切りました。

 もう1人には、何度話しても、理解してもらえませんでした。私は、私が何者であるかということと、電話をしている理由を説明することをあきらめ、礼を言って、電話を切りました。

 その通話記録は、私にとって救いとなりました。晩年、父がその安否を気遣う友人がいたことをただただ、嬉しく思い、通話記録を抱き締め、泣きました。

 几帳面な父は、見事なまでの”老い支度”をしていました。日記や手帳などさまざまなものを処分していました。今、札幌で一人暮らしをする母と2人で、病弱で超高齢出産をした1人娘に迷惑をかけまいと、自立した生活をし、身辺整理を着々と進めていました。

 そのような中、父は私に1冊のファイルを残していました。私の闘病記録を、ワープロで打ちプリントアウトしたものです。父は脳梗塞で右手が使えなくなったため、ワープロを使って文章を書くことが多かったのです。そこには38歳で血液がんを患った娘を気遣う気持ちが、控え目な表現で書かれていました。

 私はそのファイルと、父が使っていたメガネケース、財布、ベルト、帽子、私がプレゼントして父がよく着ていたセーターを持ち帰りました。そして私の家に置いてあった靴と新品の下着と、父が糊付けして修理した娘の絵本と一緒に小さな箱2つに詰めました。
 父のベルトは中肉中背の私のウエストにピッタリと合いました。父はこんなに痩せていたのだなと、使った跡がある穴がどんどん内側になっていく父のベルトを触りながら、改めて思いました。
 
 父は帽子が好きな人でした。持ち帰った帽子は今でも、父の匂いがします。

 

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