2019年12月29日日曜日

2019年 私の挑戦①本を出版する

 今年はおそらく、人生の中で最も忙しい年だったのではないかと思います。あまりに忙しかったため、1年を振り返って「どうしてあれもこれも手を出したのだろう」と反省もしましたが、あらゆる機会が一気に押し寄せて来たとしか言いようがないのです。55歳という年齢と体調がこれまでになく良かったことから、「懸案となっていたことを今終わらせなければ」「やりたかったことを今始めなければ」という焦りにも似た気持ちがあったように思います。毎年、年末に書いていた「今年の挑戦」。2019年は3つのことをつづってみたいと思います。

 まず、一番の挑戦は本「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」(まりん書房)を出版したことです。病と闘いながら、死産を受け止めていく私自身の記録で、私にとって初めての本です。病気に次ぐ病気で医師の診立ても良くなく、自分も「私は長く生きないな」と実感する中、一人娘のために書き残そうと10年以上もノートや手帳につづってきた記録をまとめました。

 詳細な治療記録を記し、心の葛藤や医師・家族とのやり取りまで正直に書きました。また、死産した子にまつわる大切にしている写真も載せました。信頼する友人の編集者に編集を頼み、校閲も専門会社に依頼しました。文章だけでなく、構成も表紙も写真・写真説明も見出しも、この字をひらがなにするか漢字にするかーという細かなことまで考え抜き、一切妥協せず作りました。


 本は娘に読んでもらいたい一心で作りましたが、「がんを患った人や家族の方々の役に立てたら」と願い、書店などに流通させることにしました。図書館に本を卸す会社の担当の方が気に入ってくれ、330冊もの注文を頂き、全国各地の図書館に置いてもらえることになりました。また、私の出身地である札幌の書店や地元の書店にも置いてもらいました。地元の書店は今でも、レジ横の目立つ場所に置いてくれています。


 また、少しずつですが、病院の移動図書館やがん関連団体、教会などにも寄付をしています。私の本を読んでいただくことで、同じような経験をされている方々の気持ちが少しでも軽くなれば、と願っています。

 本の中に、ハガキを挟みました。読者の方々に感想をいただけたらと思い、地元の郵便局と契約をして、料金受取人払いのハガキを作りました。届いたのは、1カ月に2、3枚でしょうか。私の本の出版を知って読んでくれた元同僚や友人から心温まるメッセージのほか、一般の読者からも届きました。遠く鹿児島県からも届いて、どこかで知ってくれたんだな、と嬉しく思いました。

 そのうちの一つをご紹介したいと思います。ご本人には、ウェブサイトの感想欄に匿名で掲載させていただく承諾を得ています。

「私は今年5月に骨膜種という脳腫瘍が見つかり、手術を行いましたが、回復が芳しくない状況にあります。そのような時だからか、そして同様に小さくて可愛い子供がいるからか、昨日書店でこの本を手に取りました。内容は予想を遥かに超えるもので、なんと多くの試練が著者に降りかかったのか、そして、それを真正面から受け止めて、考え抜いて、立ち向かわれる姿が目に浮かび、驚き、涙しました。私がとても心に残ったのは198ページから続く日記で、私も、目の前にいる子供に忙しなく対処する現実が、病院に対する自分の無力さや不安を、紛らわせてくれたと気づきました。この本を読んで、私にも少し、病気に立ち向かう気持ちが生まれた気がします。ありがとうございました」


 このハガキが届いたのは10月初旬。書いてくれたのは39歳の男性です。体調は少し上向いているのでしょうか。ご家族と穏やかな日々を送られていることを願うとともに、娘のために書いた本がこのような形で、どなたかの励みになっていることをとても嬉しく思います。

2019年12月28日土曜日

娘と夫、帰国

娘と夫が、クリスマスイブに帰国しました。娘に「何食べたい?」と聞くと、「お味噌汁と納豆巻き」と言います。「おかずは?」と聞くと、「いらない」。たとえ、洋食が大好きな娘でも、アメリカで1週間過ごすとシンプルな和食が恋しくなるのですね。

留守番組の私は、息子と2人の1週間は穏やかで楽しかったのですが、息子は「おねぇねぇ」が大好きですのでつまらかなかったよう。車で移動するとき「この車の中、おねぇねぇのおならの匂いがする」と騒いだときは、「そんなに、おねぇねぇが恋しいんだね」と大笑いしてしまいました。

さて、無事帰国した娘。たくさんの土産話を持ち帰ってくれました。娘の従妹たち(3人姉妹)と楽しく過ごしたこと、特に真ん中の従妹とはとても気が合ったこと、グランパの80歳の誕生日パーティでは娘がバイオリンを、従妹がチェロを弾き、2人でクリスマスソングを何曲もデュエットで弾いたこと、一番上の従妹とネイルサロンに行ったこと、などなど。

夫の話は、義母が杖を突いて歩いていたことや義父の誕生日パーティに来てくれた昔からの知り合いも認知症が進んでいたり、病気を患っていたりなど過ぎた年月の長さを感じさせる話が多かったように思います。夫の一番下の弟は俳優のトム・クルーズにそっくりで素敵だったのですが、お腹周りがずいぶん太くなっていたこと、夫のすぐ下の弟の嫁さんはとても可愛らしい人ですが、同様に”大きくなっていた”ことも、年月を感じさせる話でした。でも、相変わらず、皆、明るく幸せそうだったようです。やはり、そこがアメリカなんだよな、と思います。

「アメリカの家は夢のようだった」と娘。義父母の家は大きく、綺麗です。娘の従妹3人が住む、夫の弟夫婦の家もとても大きくて素敵らしく、狭い我が家に帰宅した娘は少し残念そう。「ダディが、うちのほうが叔父さんの家より高いんだぞ!と言っていたの。仕方ないよね。東京は狭いし、人が多いから…」とため息をつく娘。そんな娘の話を聞きながら、私は「少し物を捨てて、すっきりすれば、素敵な家だと思ってくれるかも」とこれまで何度も挫折した(というか、取り組んでいない)”断捨離”を再び決意したのでした。

さて、シンプルな夕ご飯のおかずに、母からおすそ分けしてもらったシシャモを付けることにしました。シシャモの名産地、むかわ町に住む母の姉から母に送られてきたものです。


娘がシシャモをつまんで眺めながら、懐かしそうに話します。
「ばあち(私の母のこと)が、シシャモは頭から食べると頭が良くなって、足から食べると足が速くなるって教えてくれたの。私、頭も良くなりたいし、足も速くなりたかったから、真剣にどっちから食べようか迷ったよなぁ」
「今日はどっちから食べる?」
「うーん、悩むなぁ。やっぱり、頭からかな?」と言いながら、頭からシシャモをがぶり。

娘が帰ってきてくれて、何よりも嬉しいのはこのような面白い会話ができることです。私は、ほんわかとした幸せを感じながら、久しぶりの娘との会話を楽しんだのでした。

2019年12月19日木曜日

夫と娘、シカゴへ

一昨日の12月17日、娘と夫が義父の80歳の誕生日を祝うため、シカゴに旅立ちました。留守番の私は成田エクスプレスの乗車駅まで2人を車で送り、「気を付けてね。楽しんできて」とそれぞれをギュッとハグして送り出しました。こちらに向かって何度も手を振る2人を見ながら、4年前のことを思い出しました。息子と夫を義父母の結婚50年を祝うパーティが開かれるフロリダに送りだしたときのことです。このときのことは、「息子の自立」と題して、このブログ「アラフィフィママの育児日記」に書いています。

https://ar50-mom.blogspot.com/2015/11/blog-post_28.html

ブログは、これを書いた4日前に始めたばかりでした。がんや自己免疫疾患などで体調の悪い日々が10年近く続いた後にようやく、外に向かって歩き出したその一歩がブログ開設だったのです。

家事もままならない日々が多く、厭世的な気分に陥ることも少なくなかった当時。治療による外見の変化や体調不良もあり、人とつながることや外で活動することが億劫で不安だったのですが、ブログをきっかけに一歩一歩前に進んできたように思います。

そのときのブログを読み返すと、私の家族も変わったなぁと感慨深い。小さかった娘は身長179㌢と、見上げるような背の高さに。息子は小学生になり、水泳やかけっこが得意な男の子に育っています。ここだけの話ですが、クマのぬいぐるみと寝ることだけは変わりませんが…。札幌の母は、我が家から自転車で数分の賃貸マンションに引っ越してきました。夫は今年40代最後の年となり、老眼鏡が手放せなくなり、「定年後は…」などと老後の話もするようになりました。

その中で一番変わったのは私かもしれません。がん発病前のパワフルな私に戻ることはありませんが、新しいことに挑戦することが好きな、元気な私に戻ったような気がします。以前、明るく活発だった男性が重い障害を負ってしまい、いっときは落ち込んだものの紆余曲折を経て、前向きさと明るさを取り戻したという本を読んだことがあります。タイトルも内容も忘れましたが、一つだけ覚えているのが、明るさを取り戻した彼が語った言葉です。「元の自分に戻るのが、一番簡単だったんだ」。

私もその男性の言葉に同感です。失ったものが大きければ大きいほど元の自分に戻るのは容易ではなく、取り戻せない場合もあるけれど、心のあり様は戻れる。いや、戻ったほうが落ち着くとでもいいましょうか。

さて、あれこれと挑戦し忙しくしている私ですが、こんな私を見ている娘が言いました。
「私はママみたいに頑張るのは嫌。頑張らない生き方がしたい。ママぐらいの年齢になったら、のんびりしていたい」

自分が自分らしくいることと、その自分らしい自分を人はどう見ているのかは、また別の話なんですね。

2019年11月26日火曜日

新たな気持ちで月曜日

先週金曜日、不機嫌なまま登校した娘が昨日の朝、笑顔で家を出ました。「お弁当持った?」「夕方から雨だから傘を持ってね」などの声掛けにも、普段通りに「持ったよ~」と応じてくれました。道路まで出て見送り、娘も夫も曲がり角でこちらを振り返り手を振ってくれました。いつも通りの朝でした。

少し前までしてくれた、ピョンピョン跳ねて、両手を大きく振っての「いってきま~す」はしてくれないけど、娘の笑顔で私の1週間は穏やかに始まりました。

さて、昨日は少し緊張した一日でした。組織の枠にとらわれず活動する若手ジャーナリストを支援する「小河正義ジャーナリスト基金」から活動助成金をいただくことが決まり、その授与式に行ってきたのです。

同基金は、元日本経済新聞編集委員で、ウェブサイト「Tokyo Express」を主宰していた故小河正義さんの功績をたたえ2017年に設立されました。今回が第1回目の授与。

元がん患者で50代の私に助成金をいただけるということは、私の今後に期待してくれたということ。とてもありがたく、身の引き締まる思いでした。


 

2019年11月22日金曜日

振り向かなかった娘

朝登校する娘が、見送る私を振り返り大きく手を振ってくれるとき、いつまでもこの幸せが続きますようにと願ってきました。今日は、恐れていたことが起こりました。娘が初めて、こちらを振り返ってくれなかったのです。

起こしても起きず、ギリギリの時間にベッドから出た娘は不機嫌でした。慌てて支度をするので、「携帯忘れた」「お弁当忘れた」と玄関と家の中を行き来する娘に付き合いながら、玄関前でいつものように「いってらっしゃい」とハグをしました。毎朝、一緒に家を出る夫は業を煮やして先に行っています。

外に出たときに、娘に「ご機嫌が…斜めだね」と体を斜めに折り曲げて、冗談を言ってみましたが、娘はクスリともしれくれません。踵を返して速足で歩く娘の後ろ姿には娘の今の気持ちが表れていました。右の角を曲がるときに見えた横顔はこわばっていました。いつもは角の家で姿が隠れてしまう前にこちらを向いて、ピョンピョン飛び跳ねて大きく手を振ってくれるのに、娘は下を向いたまま、私の視界から消えてしまいました。

そんな娘の姿を見送って自宅に戻るときに、医師の田中茂樹さんが書いた記事のことを思い出しました。4人の子どもの父親で臨床心理士でもある田中さんは、記事の中で「子どもとずっと一緒にいたい」と願う親に、ある心理学者の論文を紹介していました。その論文のタイトルは「母親は、子どもに去られるためにそこにいなければならない」

田中さんいわく、「『そこにいる』というのは、子どもの選択を見守り、必要なときにはいつでも安全な場所に戻れるということを保障する態度です」

私はその言葉を心の中で反芻しながら自分に言い聞かせました。今できることは、母親の私を必要としなくなってきている娘を温かく見守ることなのだ、と。


娘が小2のときに描いた自画像
そんなことを考えながら、まだベッドに寝ている息子を起こしに行きました。そのときに、ダイニングテーブルの上に無造作に置いてあった絵が目に飛び込んできました。娘が昨夜集中して描いていた、骸骨の絵です。最近、娘は骸骨のグッズに凝っていますので、昨夜は特に気に留めていませんでした。が、改めて見ると、黒と灰色で描かれた絵には、娘のこころの在り様が映し出されているような気がしました。

中3(インターでは9年生)の娘が描いた骸骨
それを見ながら思い出したのは、娘が小さいころに読んだ、ファッションエディターのエッセーでした。その著者には娘がいました。そのエッセーの中で著者は、娘が小さいころ可愛らしい服を着せたけど、もっと着せれば良かったと後悔していました。ティーンエイジャーとなった今はドクロの絵が付いた服しか着ないし、不機嫌だと。

彼女の言葉が心に響いた私は、娘が小さいころはそれは可愛らしい服をたくさん着せました。そして、今、その著者の娘さんのように、うちの娘も黒い服を好みます。好きなのはドクロに関するもの。そして、時折不機嫌です。ああ、あんなに愛想が良くて、笑顔が素敵だった娘も、こんな風に変わってしまった。でも、それは娘の成長の印だろうし、それを受け入れるのも母親の役割なのだと自身に言い聞かせます。

こみ上げる寂しさと折り合いがつかずにいると、ある知り合いの言葉を思い出しました。私がお会いした当時、幼稚園児の息子と高校生の娘を育てていたその女性は、子離れが寂しいという私にこう言いました。

「大丈夫よ。女の子は帰ってくるから」

その女性いわく、女の子は反抗期でいったんは母親を離れるけど、心が落ち着くと帰ってきて、また以前ような親しい関係に戻れると。

世の中の母娘は良好な関係ばかりではないことは十分承知しているけど、今は子育ての先輩の言葉を信じて、娘がまた何事もなかったように明朝こちらを振り返って笑顔で手を振ってくれることを願いたいと思います。いや、振り返ってくれなくても、それはそれで良しと大きく構えていられる母親でいるよう、努めなければ。

2019年11月20日水曜日

じいじのおやき

いつもあると思っていたものがなくなっているー。それを知ったときは寂しく、ときに動揺するものです。昨日は、心が沈み込んでしまいました。

息子がサッカー教室の体験をしたいというので、電車を乗り継いで連れて行ったその帰り。「じいじのおやき食べたい?」と息子に聞くと、息子は元気良く「食べた~い!」と答えます。で、7年前に他界した父がよく買ってきてくれた駅ビル内のおやき屋さんに寄ることにしました。

いつものように下りエスカレータに乗り、地下へ。エスカレータ近くのシュークリーム屋さんとクレープ屋さんを通り過ぎると、向こう側の角にあるはずでした。おやき屋さん「御座候」が。ところが、店頭に並んでいたのは丸いおやきではなく、たい焼きでした。私は動揺しました。

父は、62歳のときに脳梗塞を患い右半身が不自由でした。右手は使えず、杖を突いて歩いていました。私が病気で長期入院したときや体調が悪く日常生活がうまく送れないときは、母と一緒に札幌から東京の我が家に来て助けてくれました。

札幌では病院へ行きリハビリを続けていた父は、東京では病院に行けませんのでよく散歩に出掛けていました。歩く機能が衰えないように、努力をしていたのだと思います。普段は近所を散歩していましたが、時折電車に乗って少し遠出をしました。そのときに買ってきてくれたのが、おやきでした。私たちは父が買ってきてくれたおやきを喜んでほおばりました。

父が他界した後、その駅を通るたびにおやき屋さんに寄り、父を偲びました。父の足取りをたどるように駅ビルの入り口を入り、そのすぐ目の前にある下りエスカレータに乗りました。父はどんな気持ちだったのだろう?といつも考えました。体調の悪い私を見て、「役に立ちたくても立てない」ことを残念に思っていたのではないだろうか、と考えました。

東京に来てくれたときは、母が家事と娘の世話を全部引き受けてくれ、父の出番はありませんでした。また、右手が不自由だったので、赤ちゃんだった娘を抱いてあやすこともしませんでした。

母と私がスーパーに行くときに、娘を見ていてくれるよう父に頼んだことがあります。買い物を終えてマンションに着いたとき、火が付いたように泣く娘の泣き声が聞こえました。慌てて自宅に入ると、父は娘を心配そうに見ながら、使える左手で一生懸命にからんからんとガラガラを鳴らしていました。それは父が残したおもしろいエピソードとして家族で話すときはいつも大笑いになりますが、私はきっと父は娘を抱いてあやしたかったのだろうな、でも、抱いて娘を床に落としてしまうことを心配したのだろうな、と考えています。

父は自分の体が不自由になってしまったことを嘆いたことは一度もありませんでしたが、辛かっただろうな、と。体調が良くない私に迷惑を掛けないよう、ひっそりとあの世に旅立ってしまったな、と。

そんな父の思い出が詰まった、おやき屋さんがなくなってしまいました。代わりに買ったたい焼きを、息子と二人で駅ビルのベンチ座って食べました。


「おいしいね、ママ。でも、じいじのおやきのほうがおいしいよね」
父は息子が1歳のときに亡くなりましたので、息子には父の思い出はありませんが、そこを通るたびに買ってあげていた”じいじのおやき”の味は、覚えているのでしょう。
「そうだね。じいじのおやきのほうが皮が薄くて、あんが一杯入っていておいしかったよね」
私はそう答えて、たい焼きをほおばりました。

食べ終わってから、お土産に娘と母にもたい焼きを買いました。この夏、札幌から東京に引っ越ししてきた母に、このことを伝えなければならないなと思いました。ほかほかのたい焼きが入った袋を息子に持たせて、駅ビルを出ました。

ドアを出るとき、もう、この駅ビルに寄ることはないだろうなと思いました。エスカレータを降りて、左に進むとあった父のおやき屋さんの思い出が薄れてしまわないように、心にとどめておきたいと思ったからです。

2019年11月18日月曜日

大学院のプレゼンテーションで失敗

大学院のクラスで、プレゼンテーションがありました。パソコンとスライドの接続がうまくいかず、慌ててしまい、しどろもどろになってしまいました。

テーマは「赤肉・加工肉とがん」。「公衆衛生栄養学」のクラスで、テーマは自由に選べましたので、私自身ががん闘病の4、5年間赤肉と加工肉を絶っていた経験から、これに決めました。


赤肉(牛、豚、羊など哺乳類の肉)や加工肉の摂取とがんの発症には「関連性がある」とする論文が多数出されています。それらを踏まえ、WHOの専門組織が「赤肉と加工肉には発がん性がある」と宣言し、摂取量を控えるように勧告もしています。が、最近、米国の学会が赤肉・加工肉とがんを関連付けた研究論文を精査して、「証拠は不確かだ」と結論を出した新たな論文を発表したのです。さらに、導き出したその結論から「これまで通り、赤肉や加工肉を食べて良い」と勧告までしていました。プレゼンテーションは、これを中心にした内容です。

プレゼンテーションの時間は10分。パワーポイントで15枚のスライドを準備し、発表はスライドとスライドの下に準備した「メモ」を見ながら行うことにしました。メモは自分のパソコンでは見えますが、スライドを見ている人には見えません。

学生が次々と発表する中、私の順番が回ってきました。自分のパソコンを持って教室の前に行ったのですが、パソコンとコードがつながらない。数人が手伝ってくれて、ようやく接続。が、教室前方のスクリーンにスライドがうまく映らない。そして、ようやくスライドが映ってプレゼンテーションを始めたのに、私のパソコンの画面にいつものように「メモ」が出てこない。どうしよう…。

で、記憶をたどりながらのプレゼンテーションに。ちなみに、発表は英語です。”有事”に臨機応変に対応できるほどの英語力はありませんが、もう皆の前に立っているのですから、やらざるを得ません。なんとか、終わりに近づいてきたころ、「時間が過ぎましたよ」という先生からのベルが「チリン」となりました。早口で発表を終え、次に受講生から質問を受けます。質問は3つありましたが、そのうち2つがわからず、「I am sorry. I don't know」と情けない答えになってしまいました。その5分の長いこと、長いこと。

終えてから、失敗の原因を分析しました。まず、授業の前にパソコンの接続方法などを確認すべきだったというのが1点。2点目はパソコンに頼りすぎてしまったということ。パワーポイントのメモという機能を使い、それらを見ながら発表するはずだったのに、そのメモが出なかったので慌ててしまいました。前学期のプレゼンテーションでは、事前に原稿を作って10回ほど練習したので、出来ました。そのときは日本語での発表でしたので、うまくいったのかもしれませんが。

数日間、「基本的なことでつまずいてしまって恥ずかしい、ずいぶん練習したのに」と落ち込みました。が、いろいろ考えても仕方ありません。「これも経験」と割り切ることにしました。アラフィフママの挑戦は、続きます。でも、50代の挑戦は、疲れるー。これが本音です。


2019年11月13日水曜日

息子の小学校で絵本読み聞かせ

昨日、初めて小学生の前で絵本の読み聞かせをしました。場所は、息子のいる教室でした。

息子の通う地元の公立小学校では、お母さんたちがサークルをつくって1カ月に2度、朝会の後に絵本の読み聞かせをしています。息子の入学と同時に入会したかったのですが、時間がなく、先延ばしにしていました。「でも、時間は作らなきゃ」と意を決して先月、入会。メンバーのお母さんたちは気さくな方ばかりで、難しいルールもなく、すんなりと溶け込めました。先月は1、2年生の読み聞かせを見学。今月からローテーションに入れてもらうことにしました。

初めての読み聞かせの日の昨日は、いつものように息子と一緒に登校しました。息子は教室へ、私は図書室へ。メンバーの方々と打ち合わせの後、それぞれが担当する教室へ向かいます。2年生は3組あるので、私を含め3人が静かに教室の前で”出番”を待ちます。

息子の教室の前に立つと、私の顔を知っている子供たちが次々と出てきて、「今日、読み聞かせしてくれるの?」と話かけてくれます。息子もちょっと照れながら、ドアから顔を出して、私に手を振ってくれます。教室には、朝のすがすがしい空気が漂っていました。

ガタガタと音を立てて、子どもたちが机を教室の後ろに移動させます。そして空いた場所に皆で体育座り。「よろしくお願いします」と担任の先生に呼ばれて教室に入ると、日直さんが立ち上がりました。そして日直さんの合図で、皆が「おはようございます」と大きな声であいさつしてくれます。私も大きな声で「おはようございます」。

さっそく、黒板前の椅子に座り、絵本を見せます。
「きょうは、『ふゆじたくのおみせ』という本を読みます」
絵本を開いて、「皆、見えるかな?」と左右の子どもたちに確認。「見えるよ~」と言ってくれたので、読み始めました。

私が昨日選んだのは、中3の娘が幼稚園生のときに購入した絵本です。秋になると本棚から取り出し、娘や息子に読み聞かせていました。

物語は、クマさんとヤマネくんに冬支度前に開く森のお店から落ち葉に書かれたお便りが届くところから始まります。さっそくお店に行ってみると、アナグマくんやモグラくんなど他のお友だちも来ています。皆がそれぞれ、自分のほしいものを選んでいるときに、クマさんはヤマネくんに、ヤマネくんはクマさんにプレゼントしたいものを心の中で選びます。

クマさんがヤマネくんに選んだものの値段はどんぐり50個。ヤマネくんがクマさんに選んだのはどんぐり500個です。お互いに「プレゼントしよう」と決めたことは内緒にして、どんぐりを集めるために森に戻ります。最初は順調に拾えますが、クマさんが49個、ヤマネくんが499個集めた後はなかなか見つかりません。そして、一緒に探し回っているときに、木の上に1個のどんぐりを見つけます。クマさんとヤマネくんはどちらも「ぼくが先に見つけた」と言い張りますが・・・。


娘と息子に何度も読み聞かせたお話。そして、この日に備えて息子の前でも、何度も練習しました。教室で読んでいる間、時折子どもたちに目を配ると、皆真剣に絵本を見てくれていました。息子は絵本ではなく、私をじっと見ていて、私と目が合った瞬間「OK!」というように、親指を立ててくれました。読み終わった後、立ち上がった日直さんの合図で、皆が大きな声で「ありがとうございました」とお礼を言ってくれました。教室を出るとき、子どもたちの「おもしろかったね」と言ってくれる声が聞こえました。先生の「素敵なお話でしたね」という声も。

朝日が射し込む教室での、10分弱の心あたたまる時間でした。仕事や勉強で慌ただしい日々を送っているけど、やっぱり、子どもたちと過ごす時間が一番楽しい。こんな時間をもっと増やそうー。そう思った朝でした。

2019年10月27日日曜日

涙腺が緩んだ日

その日、私の涙腺は緩かった。10月9日木曜日のことです。

朝は、いつものように息子を学校まで歩いて送りました。1年生の後半、息子は1人で登校していましたが、2年生になってから「親と行きたいと言ってくれるうちは、登校に付き合おう」と決めました。通学路の真ん中に立ち、息子が見えなくなるまで登校を見守るぐらいなら、一緒に行こうと思ったのです。もちろん、息子が「今日は一人で行く」と言ったり、玄関を出たときに息子のお友達に出くわしたら、私は引っ込みます。いつでも「スタンバイ」状態、とでもいいましょうか。

普段は校門の前で「いってらっしゃい」と送るのですが、その日は学校の図書館でPTA活動がありましたので、一緒に学校の中に入りました。教室に向かう息子を送り、図書館に入った途端、窓の向こう側に見えるグラウンドでリレーの練習をする児童たちの姿が目に飛び込んできました。10月末に開かれる運動会でリレーを走る児童たちは、他の児童より早めに学校に行き、練習することになっているのです。

その子どもたちの様子を見て、胸が痛みました。目頭に涙が浮かんできました。ああ、息子に申し訳ないことをしてしまったと。息子は足が速いにもかかわらず、リレーの選手に選ばれなかったのです。理由は、親の私の判断ミスでした。

幼児のころから足が速かった息子は、昨年の運動会では徒競走で1位、リレーの選手にも選ばれ、皆の声援を受けて、疾走しました。だから、2年生になった今年も私は息子のリレーを何よりも楽しみにしていたのです。

ところが、です。選手を選ぶ日に息子は靴底が厚くて硬い「コンバース」というスニーカーを履いていってしまったのです。たまたま、前日は雨で運動靴が濡れてしまったため、私が「こっちの靴を履いて行ったら?」と勧めてしまった。その日、リレー選手を選ぶことは親には知らされていませんでした。帰宅後、息子は「今日はリレー選手を決めたの。僕、速く走れなかった。靴がいつもと違って走りににくかった」と残念そうに話したのです。

後日、選手名の発表があり、選ばれなかったことを知った息子は肩を落として帰宅しました。でも、それを聞いた私がもっと落ち込んでしまった。「ママがあの日、コンバースを履いたらって言ってしまったからだね。ごめんね・・・」と。涙腺が緩い私は、涙まで浮かべてしまった。

そのときの息子の反応は普段より大人びていました。
「大丈夫だよ。ママ。補欠に選ばれたから、もしかしたら誰かが風邪を引いて休むかもしれないし。そうしたら、僕が走るから。来年は絶対選ばれるように頑張るから!」と、私を慰めてくれたのです。

その会話を聞いていた娘が言います。
「そんなこと、絶対に起こらないよ。リレー選手に選ばれるって、とっても嬉しいことだし、親にとっても楽しみなの。だから、親は子どもが風邪を引かないように、ケガをしないように気を付けるから、絶対休まないよ。残念だねぇ」

きょうだいのいない私は、このようなきょうだい間の発言の率直さに、「そこまで言わなくても」と思うのですが、息子は娘のコメントなど気にもしません。その後、息子はリレーの話は一切しませんでした。そして、「補欠選手の練習日」には、きっちりと練習に行きました。そんな息子を見て、申し訳なく思っていたところにその日、目の前でリレー選手たちの練習を見てしまったのです。

PTA活動に来ていたお母さんたちに気付かれないように、私はそっと涙をふきました。心の中は後悔の気持ちで一杯でした。ああ、息子に申し訳ないことをしてしまった。前日、濡れた運動靴に新聞紙を丸めて入れてさえいれば。せめて、濡れたままでもそのまま履かせていれば、、、。日々、忙しくて子どもたちの世話を十分にしてあげられない私は、すっかり落ち込みました。

その気持ちを引きずったまま、その日の午後は母を歯科医院に連れていきました。入れ歯を支えている歯が前日から痛いというので、私が通っている医院に連れて行ったのです。

母が診察台に横たわると、歯科医が聞きます。
「今日はどうされました?」
「この歯が痛いんです」
「いつからですか?」
「昨日からです。夕ご飯に鶏肉の料理を食べたんです。鶏肉をかんだ途端、痛くなって。その後も、じくじくと痛むんです」
「そうですか。鶏肉を食べたときに、痛くなったんですね」
歯科医は優しく、母の言葉を繰り返します。

診察台に横たわる母の頭髪は、頭皮から2センチほど真っ白で、その先は赤茶けた色をしていました。引っ越しで忙しくて、染める暇がなかったのです。母は、おばあちゃんでした。まぎれもなく、おばあちゃんでした。そして、歯科医も歯科衛生士さんも、お年寄りをいたわるように、母に接していました。

ああ、私が病気をしている間に、死産した子や他界した父を思って立ち直れない間に、子育てに忙しくしている間に、社会復帰を目指していろいろ挑戦している間に、母はこんなに年を取ってしまったんだ、と改めて気付かされたのです。母の歯科医の説明はそれからも続きましたが、歯科医は母の話をちゃんと聞いてくれました。その様子を後ろから眺めていると、涙が止まらなくなりました。

大切な家族にもっと目をかけ、手をかけてあげよう。そう心に決めた日でした。

2019年10月8日火曜日

けむしちゃん

「ママ~ママ~」。玄関から、息子の声が聞こえます。「●●がいるよ~」と叫んでいるのですが、良く聞こえません。「何がいるの?」と玄関に行くと、息子が私の顔を見て興奮気味にこう言います。「ママ、毛虫がいるんだよ!」
 

ちょうど、子どもたちをヴァイオリンのレッスンに連れて行くところでした。息子の声に娘も反応します。「毛虫いるの?」

娘と一緒に玄関から外に出てみると、息子が今年育てたアサガオのツルの上に毛虫がちょこんと乗っていました。私は虫が好きなほうではありませんが、その毛虫のたたずまいが何とも可愛い。娘はさっとその毛虫を取って、手に這わせます。



「Hello, Cuty(こんにちは、かわいい子)」
そう、毛虫に話し掛けた後、愛おしそうに眺めてしばらく指に毛虫をはわせ、iPhone で写真をパチリ。そんな姿を見て、私の心は癒されます。この秋から高校生になり(日本では中3です)すっかり生意気になってしまった娘ですが、虫好きなところは変わらないなぁと。日々成長する子どもたちですが、時折その言動の中に「前と変わらないところ」「子どもらしさ」が見えると、気持ちが和らぎます。

毛虫を発見した当の息子は、実はあまり虫が好きではありません。でも、虫好きではないというところを娘に見せたくないようです。娘に「ほらっ、手に這わせてごらん。可愛いよ」と言われ、こわごわ指に這わせます。「おねぇねぇ」が大好きな息子ですので、娘に「僕も虫が好きなんだよ」とアピールをしたいのでしょうか?

さて、そろそろ出掛ける時間です。息子がアサガオのツルに毛虫を戻しました。毛虫は明日もここにいるでしょうか。慌ただしく時間が過ぎていく中での、ほんの数分の幸せなひととき。こんな時間が、とても愛おしいのです。


2019年9月29日日曜日

母の引っ越し ④81歳、東京へ

首の痛みを訴える母の元に駆け付けた私は、今回のドタバタ(参照:母の引っ越し①②③)について割り切れない感情を抱きましたが、81歳の母の引っ越しにじっくりと付き合うことにしました。

札幌に着いた翌々日の8月13日は盆の入り。まずは、母と二人で父の納骨堂に向かいました。地下鉄・円山公園駅にほど近いお寺の納骨堂には、母は父の他界後3回忌法要が終わるまで毎月、月命日にお参りに行っていました。その後も命日とお彼岸、そしてお盆は私と子どもたちと一緒にお参りしました。母は父の成仏を心底願っていたのです。今回、母は両手を合わせながら、父にこう報告しました。

「お父さん、東京に引っ越すからね。睦美がおいでって言ってくれたから、行くことにしたんだよ。マンションもとっても良くって、家に似ているの。家具もね、ソファとダイニングテーブルとかいつも使っていたのを持っていくことにしたんだよ」

私も天国の父に、母の首を治してくれるよう、母の引っ越しが無事終わるよう頼みました。そして、父の側にいるであろう私のもう一人の息子を見守ってくれるようにとも。

「来年のお盆まで来られないから」といつもより長くお参りをした後、私たちは円山公園駅から地下鉄に乗り、大通公園のビアガーデンに行きました。爽やかな風を感じながら、2人でのんびりとビールを飲みました。

翌日は、庭の掃除です。母が植えたミニトマトは鈴なりでしたが、赤く実ったトマトだけ取り、残った青い実は株ごと取り除き、処分しました。その他の花々も1つ1つ母に「これはどうする?」と確認しながら、手入れをしたり、抜いたりしました。そして、庭の置物も丁寧に洗って車庫へ。そのうち、いくつかは我が家の小さな花壇用にもらいました。

 

15、16日は東京に持っていくものを決めました。引っ越し屋さんにはすでに”大物”の冷蔵庫とソファ、ダイニングテーブル、食器棚、飾り棚を持っていくことは伝えています。その他は、夏冬用の衣類やバッグ、食器類、日用品、そして私が強く希望したアルバム全部です。

私のものはことごとく勝手に処分してきた母には「本とアルバムだけは捨てないでね」と言い続けてきましたが、前回の札幌帰省で本が全部処分されていたことが判明。でも、アルバムは生き延びてくれて、今回、やっと実家から出すことが出来ました。東京の我が家は狭くて、かさばる昔のアルバムを置くスペースがないので、母が引っ越す2LDKのマンションの収納場所に納めることにしたのです。

アルバムのページを開きながら、母に当時の話を聞きました。「役場に勤めていたころ」の母は綺麗で、おしゃれでした。今は寝たきりの叔母の、結納のときの晴れ着姿はそれは美しかった。天国に行ってしまった叔父叔母が、楽しそうに笑っていました。ベビー服を着た私を抱いた母が、愛おしそうに私を見つめていました。ハンサムで若かった父の膝の上に、私がちょこんと座っていました。そうやって、母と一緒に昔の写真を一枚一枚見ながら、時間がゆったりと流れていきました。

おそらく、母は私の子どもたちがいる騒がしい状態でではなく、私と2人だけで、静かに引っ越し作業をしたかったのではないか、とふと考えました。

引っ越し作業をしながら改めて私のものを確認しました。残っていたのはいかにも”昭和”の時代を感じさせるファイルだけでした。その中に入っていたのは、小学校の成績表と徒競走1等の賞状と、書き初めの作品、私が父にあげたカード、そしてなぜか1972年の札幌オリンピックのシール。そうか、さすがの母も、私の成績表と賞状と最初で最後の地元開催のオリンピックのシールは捨てられなかったんだなぁと妙に感慨深かった。



17日午前、引っ越し屋さんが来て荷物を積んでいきました。家具の3分の1がなくなった実家はすっきりとしていました。母は「今度はここが別荘になるんだね。別荘に帰ってくるのが楽しみだ」と前向きでした。午後は介護施設に入居している叔母のお見舞いに行きました。母は寝たきりの叔母に、涙を流しながら別れを告げ、そして叔母が大好きだった演歌を歌ってあげました。

18日早朝、私と母はタクシーに乗り込みました。お向かいのご夫婦2組が下りてきてくれて、目に涙を浮かべて、母を見送ってくれました。私と母はそのタクシーで新千歳空港行きのバスターミナルまで向かい、バスに乗り込みました。バスの中で、母がこんな話をしてくれました。

「とこねっちゃん(96歳になる母の一番上の姉)に、睦美のところに行くんだって電話したの。そしたらね、とこねっちゃんが『良かった、良かった。これで、私の心配事が一つ減る』って喜んでくれたの。そうかぁ、私のこと心配してくれていたんだってそのとき気付いたの」

96歳の姉が81歳の妹を心配するー。きょうだいがいない私は、叔母の愛情に深い感動を覚えました。96歳になっても、やっぱり姉は妹弟の行く末を案じるんですね。私の母は10人きょうだいの一番下ですので、こうして姉兄たちに大切にされてきたのでしょう。

首が痛くて、飛行機に乗れるかどうかを心配してきた母でしたが、1時間半の飛行中は痛みを感じることもなく、無事羽田空港に着くことができました。空港内をゆっくりと歩きながら、母は言いました。

「飛行機に乗って、東京に来れるかどうか心配だったけど、本当に良かった。これからはあんたの側だから、安心だ」

空港の外には夫が車で迎えに来てくれていました。子どもたちも一緒です。帰宅後さっそく母を連れてマンションへ。母は使い勝手の良さそうな2LDKの部屋をとても気に入ってくれました。夜は皆で一緒にご飯を食べ、母は娘の部屋で一晩を過ごしました。翌日19日朝は引っ越しの荷物が届きました。私と夫からのプレゼントのベッドや、事前に購入していた洗濯機も。一日かけて荷ほどきをし、衣類やバッグはクローゼットに、靴と帽子類は靴箱に、食器は備え付けの棚に、そしてアルバムはクローゼットの天袋に納めました。近所のスーパーで食料品を買い冷蔵庫に。こうして、母の東京での生活が無事スタートしました。

母にとって、81歳での引っ越しには大きな不安もあったと思います。でも、母も私も私の家族も、これが一番良い選択だったと思っています。そして、この決断を叔父叔母もとても喜んでくれました。北海道むかわ町で生まれ、札幌で家庭を持ち一軒家を構えた母の「終の棲家」は、母が予想もしなかった東京の賃貸マンションでした。自ら道を切り開くタイプでは決してない母の人生は、意外にも波瀾万丈で面白いのではないか。そんな風に考える今日このごろです。

2019年9月20日金曜日

息子とデート

息子の8歳の誕生日の前日。私は朝から準備で慌ただしくしていました。息子はまだ夏休み中ですが、娘はすでに学校が始まっており、夫も会社です。

午前中に息子と一緒に家の中を飾り付け。夕食の準備も終えて、誕生日用の風船を買いに近所のスーパーに車で向かい、買い物を済ませて帰る途中に息子に私の携帯電話で夫に電話をさせました。帰宅時間を聞くためです。

車の後部座席に座って、電話で夫と話す息子の声に耳を澄ませると、夫は会社の飲み会で遅くなるようです。そういえば、数日前にそんなことを言ってましたが、すっかり忘れていました。自宅に着いて間もなく、娘からラインが。

「まま」
「今日、ともだちと夕ご飯食べます」

なんと、夫も娘も夕食を一緒に食べないことが夕方に分かったのです。それなら、作る意味がありません。なんか、つまんないなぁと思っているうちに思い付いたのが「息子とデート」です。

息子に聞いてみました。
「ねぇ、今晩、ママとデートしよう」
「えっ? ああ、いいけど」

夫も娘も外食です。私たちも外食をすることにしました。

「どこかに、食べに行こう!」
「ママ、デートって大人がするもんでしょ。僕、子どもだからできないよ」
「いいじゃない、ママとのデート。うふっ」
私の心は弾んでいます。でも、息子は浮かない表情です。

「でもさ、デートって結婚する人と一緒にご飯を食べにいくことでしょ?」
「まぁ、そうだけど。いいのよ、ママとご飯を食べに行くことを”デート”って言っても」

息子は乗り気ではないようですが、私は上機嫌。着ていたTシャツとジーンズを、ブラウスとパンツに着替えて、息子と一緒に家を出ました。向かったのは隣駅のパスタ屋さんです。

「ここ、ママと前に来たよね。同じところに座る?」
「今日は窓際の席が空いているよ。あそこに座ろう」

2人で並んで、駅前の風景が見える席に座りました。電車や行き交う人々が見えて、とっても素敵です。


息子はピザとジンジャーエールを、私はパスタとビールを注文しました。2人でおしゃべりして、笑って、とても楽しい時間を過ごしました。思いがけない、素敵なプレゼントをもらったような、ほんわかと幸せな気持ちになりました。

息子とのデート。なんて、楽しいんでしょう。また近いうちに、そして息子が大人になってからも・・・。
 
 
 

2019年9月9日月曜日

母の引っ越し ③

 「首が痛い!!!」と電話越しに訴える母の元に駆け付けるため、取る物もとりあえず飛行機に乗った私が実家の玄関に着いたのは8月12日午前0時半、東京の家を出て5時半後でした。慌てていましたので鍵を忘れました。玄関のベルを鳴らすと、「はーい」という母の声。電話で聞いたときより、ずっと元気です。母が玄関のドアを開けました。

「ただいま。ごめんね、遅くなって」
「無事着いて良かった。駅から時間がかかっていたから、心配していたよ」
「首の調子はどう?」
「あんたと話していたときより、大分良くなった」

  パジャマ姿の母は首を押さえながら、ゆっくりとですが、歩いていました。母の姿を見てひと安心です。夕方、電話で母と話していたときのあのざわざわとした気持ち。父のときのことを思い出し、もし翌朝、母が電話に出なかったからと想像したときの不安…。それらが、母の姿を見てすべて解消されました。

 母も私が来たことで安心したらしく、少し話をした後、「もう、遅いから寝よう」と父の仏壇がある和室に行きました。私も一緒に母の布団が敷いてあるその和室に行き、父の遺影を見て心の中で父に話し掛け、仏壇に手を合わせました。そして、2階に行き布団を敷いて眠りについたのでした。

 さて、翌朝、1階に下りてみると母がキッチンに立っていました。その姿を見て、私は思わず言いました。
「お母さん、朝ごはん作れるほど元気なの?」
「薬を飲まなきゃいけないから、何か食べなきゃいけないんだよ。食べないで薬を飲むと胃をやられるからね」
「・・・」

 ここで、私は顔には出しませんでしたが、心の中で不機嫌になりました。本当に体調が悪ければ、薬を飲むことなんて忘れます。覚えていたとしても、「胃がやられるからご飯を食べてから飲もう」なんて、考える余裕はないはず。朝ごはんを作れるほど大丈夫な母があと1日待ってくれれば、私は今日の夕方の便で子供たちと一緒に来るはずだったのです。でも、もう死にそう!というような母の訴えを聞いて、駆け付けたのです。3人分の新千歳空港行きの飛行機のチケットはキャンセル。当然、帰りの子どもたちの分のチケットもキャンセルです。夫は1週間、会社を休んで子どもたちの世話をしなければなりません。

 母の状態はかなり悪いと判断し、夏休みに読むべき本も持ってきませんでした。パソコンも置いてきました。昨年、北海道で大きな地震があったときに実家に駆け付けたとき、パソコンを持っていった私を母は「あんな大きな地震でも一人で頑張った母親を見舞うときに、パソコンを持ってくるなんて!!!」と体を震わせて、涙をぼろぼろ流して怒りましたので、今回は母の機嫌を損ねないように、持ってきませんでした。

 遠方に住む母親を支えるためにかなり無理をして出来ることはしているのに、どうして・・・?という気持ちがわいてきましたが、母は81歳。多難な人生を気丈な性格で乗り切ってきて、周囲に「気配りの人」と慕われていた母は80歳を越えた今、自らコントロールできない痛みに襲われ、すべてをさらけ出せる唯一の人間、一人娘の私にわがままを言いたかったのでしょう。わがままを言って聞き入れてくれるか、試したかったのかもしれません。それとも、その1日が待てないほど痛かったのでしょうか?

 母は、私が30代後半から40代前半にかけて、抗がん剤治療や放射線治療、心臓の手術で入院したとき、自己免疫疾患発病での緊急入院時はいつでも、体の不自由な父を連れて、東京に駆け付けてくれました(詳しくは闘病記「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」に。図書館でも借りられます)。だから、今が私が母にお返しをする番なのでしょう。母が何をおいても私のために駆け付けてくれたように、私も何をおいても母を支えなければ。

 私は、引っ越しの荷物を出し、母と一緒に実家を出る18日朝まで、一世一代の「母の引っ越し」に付き合うことにしました。

2019年9月2日月曜日

母の引っ越し ②

 「首が痛い!一人ぼっちで辛い!」と電話口で弱々しく泣く母のところに駆け付けるため、取る物も取り敢えずタクシーに飛び乗った私は、午後7時30分に羽田空港に着きました。息子を水泳教室に送った直後に母に電話をし、電話口の母の様子から、「今日札幌に向かったほうが良い」と決断してから、約1時間半後でした。子どもたちを連れて帰省する予定だった前日の8月11日のことです。

 JALの国内線カウンターに向かい掲示板を見ると、新千歳空港行きの飛行機はちょうど私が着いた時間に出たばかり。次の便は午後8時半発です。幸運なことに空席がありました。お盆直前の週末で、空席がないのではとタクシーの中で心配していましたので、とりあえず、安堵しました。

 カウンターの女性スタッフに札幌に住む母親の調子が悪くて駆け付けることを説明すると、その女性は前方の座席を指定してくれました。12日夕方の便で子どもたちと一緒に札幌に行く予定で、その分の航空券を購入していましたので、自分の分をまず、キャンセル。中3と小2の子どもたちだけで飛行機に乗せ札幌に向かわせるかどうかは私だけでは決められませんので、夫に電話をしました。夫はちょうど、プールから出てきた息子を迎えて駐車場に向かうところでした。

「とりあえず、8時半の飛行機のチケットは取れたの」
「それは、良かった」
「明日はどうしたら良い? 子どもたちだけで飛行機に乗ってもらったら、私が新千歳空港に迎えに行くから」

娘は中3で、息子は小2です。夫に羽田空港まで送ってもらえば、2人でも飛行機に乗れるでしょう。航空会社には、子どもだけでの搭乗をサポートするシステムがあります。また、自分たちだけで飛行機に乗るという”冒険”に、はしゃぐ2人の様子が目に浮かびます。が、夫はこう切り出しました。

「うーん、やっぱり子どもたちだけでというのは、不安だな」
「大丈夫だと思うけど・・・」
「それに、今回はお母さんの体調も悪いし、子どもたちがいると逆に君は大変じゃないだろうか? お母さんの世話はしなければならないし、子どもたちはずっと家にいると飽きてしまうから、どこかに連れて行かなければならないだろう? 」
「確かに。公園やプール、温泉・・・いつも連れて行っているところに行きたい!と子どもたちはせがむかもしれない」
「今回は残念だけど、キャンセルしたほうが良いと思う。今週はお盆で会社の人も休んでいる人が多いし、僕も仕事の予定はそれほど入っていないから、休みを取れるよ。仕事は家でもできるし、会議は家から電話で参加すれば良いしね」
「うん、わかった。ありがとう。でも、子どもたち、札幌に行くのを楽しみにしていたから、残念がるだろうなあ」
「こういう事態だから、仕方ないよ」

 残念でしたが、子どもたちの飛行機もキャンセルすることにしました。チケットが取れたので、母にも電話をしました。

「お母さん、8時半の飛行機が取れたの。安心して」
「ありがとう」
「首はどう?」
「さっきより少し良くなった」
「それは良かった。家に着くのは夜12時を過ぎると思うから、寝ていてね」
「わかったよ。ありがとう、待っているよ」

 今回の東京引っ越しで、母はお盆休みに札幌に帰省する私と子どもたちが東京に帰る18日に一緒に東京に来て、1週間ほど滞在して入居予定の賃貸マンションを見てから一旦帰札し、私が再び9月に札幌に行って、ご近所などに一緒にご挨拶をして引っ越しの荷造りを手伝い、私と2人で実家から旅立ちたいという希望を持っていました。

 私は母の希望を叶えようと、母の往復航空券も購入していました。が、今回、私が札幌に行く予定の前日に母の元に駆け付けなければならなかったこと、母もその1日が待てなかったことで、東京に帰る私と一緒に飛行機に乗るだけで精一杯かもしれない、東京ー札幌往復は無理だろう、と予想しました。

 で、ご近所や近くの親戚へのご挨拶はおそらく、今回の滞在中になるだろうと予想し、いつもの手土産より奮発して「銀座千疋屋」のフルーツゼリーを購入しました。町内会の方々にもご挨拶をするかもしれませんので、予備のお土産として「ひよ子」もいくつか買いました。それらを持って保安検査場を通り、搭乗口へ。飛行機は予定時間より10分ほど遅れて、無事離陸したのでした。

 新千歳空港に着くと、いつも利用している札幌行きバスは最終便が出た後で、札幌行きのJR「快速エアポート」も最終便がもう少しで出発するというタイミングでした。私はここでも胸をなでおろし、JRに乗り込みました。母にも無事着いたことを連絡しました。母の声は、先ほど羽田空港で電話をしたときより元気です。このときです。私の心に?マークが灯ったのは。

 お母さん、さっきの死にそうな声はどうしちゃったの?

 母は言います。
「何時ごろに着きそう?」
「零時を過ぎると思うよ。もう遅いから寝ていてね」
「待っているよ」

 札幌駅から電車に乗り継ぎました。実家最寄り駅に着いてからも母に電話をしました。午前零時を過ぎていました。タクシーもいませんでしたので、スーツケースを引っ張り、重たい千疋屋のゼリーと「ひよ子」が入った袋を肩から下げて、とぼとぼ実家へ向かって歩きました。そうすると、母から電話が。

「あんた、遅いから心配で」
「タクシーが拾えないの。歩いて帰るからね」

 東京は猛暑ですが、札幌の夜は涼しい。Tシャツだけで歩いていると肌寒い。私は歩道でスーツケースを広げて、カーディガンを取り出して、着込みました。そうするとまた、母から電話が。

「どうしたの?」
「寒いから、カーディガンを着たの。スーツケースの中に入っていたから時間がかかって。もう少しで着くから」
「最近、ほら、夜中に襲われて殺されるようなニュースがあるでしょ。心配で・・・」
「大丈夫だよ。もう少しだから」

 母の”ひん死”の訴えを聞いて、何もかも投げ出し、取るものも取りあえず、東京から駆け付けた私。でも、当の母は、何度も電話を出来るほどの状態です。これはいったいどういうこと?

 私はこれまでいくつも大病を患い、何度も救急車のお世話になりましたので、それがどういう状態か身に浸みています。そんなときは周囲を気遣う余裕はありません。自分の体すら動かせない。あれよあれよという間に体調が悪化し、意識も混濁してくるのです。救急車で病院に運び込まれても、何とか自力で病院にたどり着いても、そのまま入院で、数日間はベッドから起き上がれない状態でした。

 母は、翌日私と子どもたちが札幌に行くことを十分承知で、その前日に「首が痛い。一人ぼっちで辛い!」と訴え、消え入りそうな声で、その辛さを私に訴えたのです。「じゃあ、今、札幌に行くからね」という私に対して、「大丈夫だよ。明日来るのを待っているから」とは言わなかった。だから、救急車を呼ぼうかという状態だったはず。電話口から聞こえたのは、今にも死にそうな声だった。

 母はいったいどんな状態なの? 私はとりあえず、実家への道を急ぎました。 

2019年8月28日水曜日

母の引っ越し ①

 毎日電話で安否確認をしていた札幌の母が、「首が痛い」と言い出したのは6月でした。それまでは連日「膝が痛い」と嘆いていましたが、「膝の痛みなんて比べ物にならないほど痛い」というのです。
 
 長年通う最寄りの整形外科のクリニックでMRIを撮ってもらっても、「加齢」による頸椎の変形という診断で痛み止めの薬をもらうだけ。その薬は効かず、知り合いに勧められ鍼灸院に行き施術してもらいましたが、症状は悪化。

 母は長年、周囲に対して「事なかれ主義」を貫いてきました。が、耐えられない痛みだったのでしょう。何十年もお世話になってきたクリニックの先生に勇気を振り絞って、「セカンドオピニオンをもらいに大学病院に行きたい」と訴えました。が、先生には逆に「セカンドオピニオンを取りに行くなら、もうこちらでは診ません」と嫌な顔をされたらしく、万事休す。一連の話を聞いてきた私は、ついに7月初旬、これまで何年間も言い続けてきたことを改めて母に言ったのです。

「お母さん、東京においで」と。

 母は、これまで「私はこの家が好きなの。札幌がいい」と頑なでした。40年以上住んだ家には当然愛着がありますし、ご近所も良い方ばかりです。80代、90代のきょうだいも、札幌とむかわ町に4人います。さらに、私が30代後半から大病を患ってきたため、「子育て真っ最中のひとり娘に迷惑は掛けられない」という思いもあったと思います。が、今回ばかりは、もろもろの事情も「仕方ない」と思うほどの痛みだったのでしょう。電話口の母は弱々しい声で言いました。
 
「うん、分かった。東京に行く。東京に行けば、あんたに一緒に病院に行ってもらえる。入院や手術をしても、あんたが側にいてくれたら、安心だ」

 母は81歳にして、娘の住む東京に引っ越すことを決断したのです。
 
 それから、母の住居探しが始まりました。我が家は狭く母を迎え入れるスペースはありませんので、近所で賃貸マンションを探すことにしました。折しも、私が大学院の期末試験とレポートの準備に追われていた時期。「タイミング悪すぎ!せめてレポート提出後だったら良かったのに・・・」と泣きそうになりながら、勉強と仕事と育児の合間を縫って、物件を探しました。

 理想は我が家から徒歩10分以内で、電車の駅の近く。ボケないように、閑静なところより、にぎやかなところ。一軒家に住んでいた母がみじめな気持ちにならないような広さで、綺麗な住まい。

 夏休み中の娘と息子を連れて近所を散策して、良い物件に目星を付けて、帰宅後にネット検索をしてみましたが、どれも「現在、募集はしていません」。 一方、母は連日電話で「首が痛い!食べられない!やせた!」とか細い声で訴えます。

 ようやく見付けたのは、近所の分譲マンションの空き物件。オーナーがおそらく海外赴任なのでしょう。3年間の期限付きで賃貸に出しているものでした。予算オーバーで、3年後に再び引っ越しするのが面倒かもしれませんが、背に腹は代えられません。私が望んだ条件の全てを満たしていたので、さっそく内見を申し込みました。

 手続きしてくれたのは、我が家から数ブロックしか離れていないところにある自宅兼事務所の不動産屋さん。ネット上の写真を見ると、私と同世代に見える女性で、まずは電話でご挨拶。「ラインのほうが連絡のやり取りが便利」と、近所の道端で待ち合わせて、スマートフォンを取り出しラインアドレスの交換をしたのでした。

 しかし、さっそく翌日内見というときに、不動産屋さんからラインが。
「すみません!あの物件、一足先に契約が入ってしまったんです!」

 残念!振り出しに戻りました。が、残念がる時間もありません。母の首の状態が悪くなれば、引っ越しも出来なくなります。そうした場合、私が札幌に行って母の介護をすることになりますが、下の子どもはまだ小2。家を長く開けることは出来ません。ですので、母が動けるうちに東京への引っ越しを敢行しなければ。

 不動産屋さんが早速ほかの賃貸マンション数件を見繕って間取りのコピーをくれました。そのうちの1つに早速、内見を申し込みました。我が家からも徒歩10分以内にあり、徒歩圏内にスーパー5件、ドラッグストア、銀行、郵便局、区役所の出張所、そして電車の駅と商店街もあるところが気に入りました。

 母の条件は「日当たりが良くて、2LDK、膝が痛いから坂のないところ」。その物件は、マンションの4階で窓が南東向きの2LDK。日当たりも良さそうです。駅までは坂もありません。自転車でさっと外観と玄関を見に行きましたが、なかなか立派です。これなら、母もみじめな気持ちにならないでしょう。

 翌日、午前中に私と不動産屋さんとで内見したところ、日当たりも良く、部屋の中はとても綺麗でした。夜、夫と子どもたちを連れて再度内見して、全員が気に入りました。母には事前に間取りのコピーを郵送で送っておき、スマホで撮影した部屋の中の写真十数枚を母の携帯電話に送りました。母も気に入ってくれたようでしたので、早速、契約の申込をしました。

 契約は夫に頼みました。借主が夫で、住むのが私と母の2人ということにしました。81歳の女性の一人暮らしでは、契約が難しいらしく、世帯主が私で母と同居という設定です。不動産屋さんの提案で、「近所に住んで、いつもお母さまの様子を見に行くのですから、同居と一緒です!」という力強いお言葉をいただきました。その不動産屋さんは、「私の両親も80代です。お気持ちはとても分かります」と言ってくれたのです。

 賃貸マンションの契約は、簡単ではありませんでした。夫の源泉徴収票、日本在留許可証や運転免許証のコピーを提出。私が連帯保証人になり、実印を押して、印鑑証明書を提出。さらに家賃を保証する保険会社にも十数万支払いました。この間、私は大学院の期末試験とレポートに取り掛かっており、目が回るような忙しさでした。

 8月6日最後のレポートを提出し、翌日の7日不動産屋さんと一緒に契約書に必要事項を記入しました。次は引っ越しの準備です。

 私と子ども2人は、12日月曜日に札幌に帰省する予定でした。
「お母さん、18日に東京に帰るときに一緒に来ない? 札幌滞在中にみんなで引っ越しの準備をして17日に荷物を出したらどう?」
「私は、9月がいい。孫がきたときにバタバタと東京に引っ越すのは嫌だ。9月にあんたと一緒にご近所に挨拶して、きちんと旅立ちたいの」
 長年住んだ札幌を離れるのが辛いのでしょう。涙声です。

 ここは、母の気が済むようにしようと、とりあえず、18日に母の飛行機のチケットも買って、一緒に東京に来てもらい、マンションを見てもらって、1週間ほど東京に滞在して札幌に戻るというスケジュールを立てました。9月はまた大学院が始まりますので忙しくなりますが、母の納得のいくようにしようと決めました。札幌の家は母の体調が良くなったときにいつでも戻れるように、そのままにしておくことにしました。

 ところがです。一連のスケジュールを立てて、航空券も全て購入し、翌日に子どもと一緒に札幌に行くという11日、母の首の状態が悪くなってきました。朝から電話を何度かしていましたが、「痛い!痛い!」と連発します。この日は夜6時15分から息子のプール教室がありましたので、6時過ぎに息子をプールの前で降ろして、駐車場に車を停めて母に再び電話をしました。すると、母が泣きながら言います。

「首が痛いの!」
「お母さん、救急車を呼んで」
「救急車を呼ぶのは嫌だ」
「お母さん、でも、これ以上具合が悪くなったら大変だし」
「首が痛い! 痛い! これまでお父さんやあんたやみんなが具合が悪いときにあんなに尽くしてきたのに、私が具合が悪いときに一人ぽっちで辛い!!!」

 体全身で、絞り出すような声で叫びます。でも、頑として救急車を呼ぶのは嫌だと言います。間に合わなかった父のときのことが頭に浮かびます。あの時は最終便に乗れず、一睡もせずに翌朝を待って、朝一の便で札幌に向かったのです。

 私は意を決して、言いました。
「分かった。これから、札幌に行くから。待ってて!」

 夫に電話をし、事情を説明して、7時15分に息子を迎えに行ってもらうように頼みました。プール教室から家までは車で約20分。私は6時15分に駐車場を出て自宅に戻り、夫が入れ替わりに車で息子を迎えにプールへ。帰宅後、私は急いでスーツケースに思い付くものを詰め込んで、タクシーに飛び乗り羽田空港に向かったのでした。

 タクシーの中でJALに電話をしましたが、何回かけてもつながりません。ネットでもつながりません。タイミング悪く、お盆直前の週末です。もしかしたら、空席がないかもしれません。仕方ないので、普段使わないANAのホームページを見て航空券を買おうとしましたが、慌てているせいか、なかなか航空券の購入手続きができません。電話もつながりません。そうこうしているうちに羽田空港に着きました。午後7時半でした。

「満席だったらどうしよう・・・」
不安にかられながら、私は小走りでJALのカウンターに向かいました。 

2019年8月11日日曜日

大学院、今年度の前期終了!

 大学院の今年度の前期が8月5日に終了しました。30年ぶりの学生生活は戸惑うことばかりでしたが、何とか無事すべての課題を終えることができ、ほっとしています。


 私が今回、履修したのは5課目。一番苦労したのは、やはり、英語です。基本的に講義は英語で行われるのですが、医学専門用語が大変でした。病名、体の部位名、診療科名など耳慣れない語彙ばかりで、これらを理解しないと、講義そのものが理解できないのです。分からない単語を読み飛ばして全体像を把握するなどという手法は通用しませんので、辞書を使います。昔重宝した小ぶりな携帯用辞書は、字が小さ過ぎて読めない。電子辞書は、①開ける②電源を入れる③アルファベットを打ち込むーという手間が面倒。結局、スマートフォンで使える「英辞郎」というウェブ上の辞書に落ち着きました。

 次に苦労したのは、あの「パワーポイント」です。自慢ではありませんが、私は一度もパワーポイントを使ったことがありません。が、「医療倫理」のクラスで、各自テーマを選んでプレゼンテーションをするーという課題があり、発表時に使うスライドを作りました。グラフを作ったり、表を作ったり、参考にした論文から図表などを取り込んで張り付けたりなど、難しいことばかり。プレゼンテーションも事前に7回練習したのですが、時間内に終わらせようと早口になり、いまひとつの出来でした。他の人を見ていると、パソコンを見ながらゆったりと発表しており、”慣れ”は大切なんだと実感しました。

 このような苦労もありましたが、面白かったのは2本の期末レポートの執筆です。まず、自宅では海外の論文を読むのには手間と費用がかかりますが、大学に行けば、簡単にしかも無料で閲覧できます。基本的に分からないことを調べる、疑問点を掘り下げるということは好きですので、この調べるときの自由さがありがたかった。

 レポートの準備をしているとき、先生とのやりとりで、気付きもありました。「医療政策」という課目で提出したレポートです。テーマは自由。英語で2000語(A4で5、6枚)という条件です。先生からの指示は「自分の経験を盛り込むこと」。私が所属するのは公衆衛生学研究科で、学んでいるのは医師・看護師ら医療関係者がほとんどですので、彼らには十分経験があるでしょう。でも、私は医療を取材する側です。どうやって自分の経験を盛り込むの? 患者としての体験を書いてもレポートにはならないし、、、と恐る恐る先生に質問してみると、、、。

「そうです。あなた自身の経験を盛り込んでください」
「つまり、私は、、、という書き方でもいいのですか? 期末レポートに?」
「いいんです。自分の経験を盛り込んでくださいと指示する理由は、コピペを防ぐためなんです」
「コピペ?」
「いまは、なんでもネットで調べられる時代です。検索してコピぺしてレポートを仕上げるのは簡単なんです」
「なるほど、、、」

 「コピーアンドペースト」など、思い付きもしませんでしたが、言われてみればネット検索が容易になった今そういうこともあるのだと納得。自分の体験を盛り込んだレポートは、素人っぽい書き方のような気がしましたが、自分の患者体験の中から浮かび上がった医療政策上の問題点について、調べて提言するという内容にしました。

 今学期履修した5課目の中で、一番やりがいがあったのはプレゼンテーションで苦労した「医療倫理」の期末レポートです。期末レポートは、プレゼンテーションで選んだテーマを掘り下げ、海外での最新の研究やプレゼンテーション後のクラスでの議論を盛り込んで書くというもの。私が選んだテーマは、日本で議論が始まったばかりの「子宮移植」。海外の論文は目を見張るような内容ばかりで、勉強になりました。この期末レポートについては、先生からのフィードバックで「クラス、最高点です」というコメントをいただき、とても嬉しかった。

 「何で今ごろ大学院?」というよく質問を受けます。卒業後、職業に活かすことを考えると54歳での入学は遅いですが、人生という長いスパンで考えると遅過ぎることはないと信じたい。来学期は9月2日から始まります。とても、楽しみです。 

2019年7月25日木曜日

アサガオ咲いたよ

  我が家の玄関前にある小さな花壇に植えたアサガオが、大輪の花を咲かせています。小2の息子と一緒に育てました。家を出入りするたびに、薄紫色の花を見て、心が癒されています。


 昨年夏、息子が学校でアサガオを育てました。途中、間引きした枝を牛乳パックで作った容器に入れて教室内で育て、家に持ち帰ってきてくれました。その苗を花壇に植え替え、横に棒を立てると、ツルを巻き、見事な花を毎日咲かせてくれました。秋になって茶色くなった種を何粒もとり、小さなケースに入れて取っておきました。それを今春、息子と一緒に花壇に植えたのです。



 息子が人差し指で土に3つ穴をあけ、その中に種を入れて、軽く土をかぶせました。
「どうぞ、芽が出ますように」
と2人でお祈りをし、毎日、水を上げました。

 1週間ほどして、小さな葉っぱが土の上に顔を出しました。息子と大喜びしました。昨年使って取ってあった棒を周りに差しました。アサガオのツルは次第に伸びてきて、隣の花に巻き付いたりしましたが、それを息子と2人で丁寧にほどき、棒に巻き付けました。その後は、順調に巻き付いてくれました。

 気を良くした私たちは、その隣にも種を3つ植えました。でも、芽が出てこなかったので、もう一度、3つ植えてみました。すると、2つの芽が土の上に顔を出しました。


 花が咲いたのは、7月1日。2人で大喜びしました。その後はほぼ毎日、美しい花を咲かせてくれています。

 今日は4輪の花が咲いていました。息子が花の横についているつぼみのようなものを指さして、
「ママ、これが種になるんだよ」と教えてくれました。
 
 アサガオの花を堪能した後、秋になって息子と一緒に種を取るのも楽しみです。毎年、こうして息子との
共同作業を続けられたら、と願っています。

2019年7月24日水曜日

娘の中学校卒業パーティ

 娘の中学校(8年生)の卒業式を控え、1学年下の7年生主催のパーティがありました。娘が着ていく服に選んだのは、私の友人からお下がりでもらった赤いドレス。細いストラップがついて、ウエストをギュッと絞った素敵なドレスです。


 昨年、娘が7年生のときに主催した卒業生のためのパーティでは、娘は私が若いときに着た花柄の白いドレスを着ていきました。車で迎えに行ったとき、フランス人の男子からダンスを誘われたことをとても嬉しそうに報告してきたときは、私もそのドレスを着て夫とフランスを旅行したなぁとそのドレスがつむぐ”物語”のようなものを感じたものです。

 娘は去年も今年も、新しいドレスを欲しがらず、私や私の友人が処分し切れず何十年も持っていた”思い出の服”を、喜んで着てくれました。こんな素直さが、娘の一番良いところだと私は常々感じています。そして、私と友人のドレスも、こうして世代を超えて着てもらえて、喜んでいるに違いないなどと思いを巡らせています。成熟した女性のドレス姿も素敵ですが、少女から女性に成長しつつある女の子のドレス姿もまた、初々しさという違った魅力があるのです。

 さて、娘が通うのはインターナショナルスクールですので、厳格な日本の中学校とは趣が違い、卒業パーティとなると、女子はドレス、男子はスーツを着て、ダンスを踊るというのがコンセプト。男子・女子がカップルになり参加することもあります。ですので、パーティの数カ月前から、誰が誰を誘ったとか、断ったとか、申し出を受けたとか、ドレスは何を着ていくのか、などの話題で娘と友達らは盛り上がっていました。もちろん、その話を聞いた母親たちも、ランチ会で情報交換。あるとき、ママ友達から、「今年のドレス赤が多いよね。うちも、結局赤にしたわ。かぶってゴメン!」などというラインがきたことも。

 ガッツのある娘の友達が、ある男子を誘って断られたときは連日夜、その友達から娘に電話がかかってきて悩み相談。娘も真剣に慰めていました。また、ある冴えない男子が、クラスで一番人気の女子を誘ってOKをもらったことも、女子の格好の話題に。

 娘とそんな話題で盛り上がるときは、「ねぇ、誰かから誘われないの?」とワクワクしながら聞いてみましたが、娘には誰からも誘いがなく、娘はそれを気にする風でもなく、逆に誰かを誘うわけでもなく、、、という状況。結局、カップルは2組で、他の男子・女子らは、お友達同士でダンスを楽しむ、ということになったようです。

 ダンスパーティの当日。終了時間少し前に会場に迎えに行った私は、ママ友達と一緒にこっそり会場に入ってみました。会場内は真っ暗でところどころに照明が灯っています。音楽に合わせて子どもたちが楽しそうに踊っていて、笑い声が響き渡り、その様子をテーブルに座る先生らが温かく見守っています。

 パーティが終わり、会場内が明るくなると、娘が私を見付けて満面の笑顔で手を振ってくれました。身長176㌢で、友達より(男子より)頭一つ分大きな、赤いドレスを着た娘を見ながら、「手の平に載るほどに小さかった娘が、こんなに大きくなったんだなぁ」と目頭が熱くなりました。
 
 娘の友達は皆、ドレスに合わせて素敵なサンダルを履いているのに、娘の足は大き過ぎて日本では買えないため、通学用の黒い革靴を履いていきました。「こんなことなら、ネット通販でアメリカからサンダルを取り寄せれば良かった」と胸がチクリと痛みました。でも、娘はそんなことを気にする風もなく、友達と楽しそうにおしゃべりしています。

 去年の白いドレスを着た娘の姿同様、赤いドレスを着た娘の姿をしっかりと目に焼き付けました。娘が成長したら、きっとこの姿を思い出すのだろうな、と思っています。
 

 

2019年7月18日木曜日

久しぶりに夫とデート

 アメリカの独立記念日の7月4日、久しぶりに夫とデートをしました。誘ったのは私。何気ない日常の会話がきっかけでした。

 品切れしていた日用品を買いに、駅近くのドラッグストアに車で買いに行ったとき。時計を見ると、午後6時過ぎ。もしかしたら、夫は帰宅途中かもしれないと、電話をかけました。電話に出た夫は、案の定電車の中。それも、駅にほど近い駅を通り過ぎたばかりだと言います。

「あら、丁度良かった。私、車で駅近くまで来ているの。迎えに行こうか?」
「それは、助かるよ」
「じゃあ、駅の前で待っているね」

駅から出てきた夫は上機嫌で、「ありがとう」とにこにこしています。私はふと、思い付いたことを提案してみました。外はまだ、日が暮れる前です。

「ねえ、久しぶりに食事に行く?」
「いいねえ。今日は独立記念日なんだ。美味しいビールを飲みたいよ」
「そうだった? じゃあ、久しぶりに2人で出かけようか?」
「そうしよう」

家に帰って、早速、準備していた夕食を作り始めます。この日の夕食のおかずは、トラウトサーモンのローズマリー風味。サーモンが嫌いな息子にはつくねを準備していました。さっそく、夫と2人で子どもたちに夕食を作り、お盆に載せて、ダイニングテーブルへ。

子どもたちに伝えるときに、いつもと違う言い方をしてみました。
「ダディとデートしてくるね」
「オッケー。ねえ、じゃあさ、ベビーシッター代500円」と中3の娘。
「小2の弟のベビーシッター代はないでしょう。しかも、家にいるだけなんだから」
「でもさ、火事になったら連れ出さなければならないでしょ」
「じゃあ、火事になって連れ出してくれたら300円あげる」

そんな会話を娘としていたとき、息子が夫に聞きます。
「Are you going out on a date with MOM?(ママとデートするの?)」
「Yes」
「Finally(ようやく...)」と息子。

ようやくってどういう言う意味でしょう? やっと、親が出掛けてくれるということ? やっと仲良くしてくれるってこと?

まあ、どちらでも良いとして、子どもたちは2人とも上機嫌。きっと、夜、親が出掛けて自分たちだけという、いつもとは違う”イベント”にワクワクしているに違いありません。

 さて、子どもたちを置いて、出掛けた私たち。どのレストランにしようかあれこれ迷い、結局は美味しいビールが飲めるメキシカンレストランに行くことにしました。夫が「とりあえず・・・」と注文したのはコクがあるビール「IPA」、私は軽やかな味わいの「コロナビール」。


料理は、「今日は独立記念日だから、これを食べなきゃ」と夫が言う「スペアリブ」を。


夫の会社の話、私の学校の話と会話は弾みました。それぞれに2本目のビールを注文しながら、なんかこういう日も良いなと思ったのでした。
 

2019年6月30日日曜日

父の日の出来事

 今年の「父の日」は例年とは違った一日でした。毎年、子どもたちが事前に準備していた手作りのプレゼントをあげる、この日。今年は夫にとって、少し寂しい日となったのです。

 例年通り、2週間ほど前から、子どもたちに「16日は父の日だからね。プレゼントを準備しておいてね」と伝えておきました。しかし、小2の息子が「そうなんだね、父の日がもうすぐ来るんだね。何作ろうかなあ!」と表情を輝かせる一方、中3の娘の反応は冷めていました。

「毎年、ダディに手作りのものをプレゼントしているけど、ダディはプレゼントをもらったときは喜ぶけど、その後はどこかにやってしまうし。ママはあちこちに飾ってくれるけど、、、」

 確かに、夫はプレゼントをもらったときは、とても喜びますが、それをあえて、飾ったりはしません。数年前に娘にもらった詩は寝室の壁に飾っていますが、それも、私が近所の額装屋さんに持っていて額に入れてもらったもの。子どもたちからのプレゼントはどこかに仕舞っているとは思いますが、どこにあるのかは知りませんし、どう感じているのかも分かりません。

 逆に私は、子どもたちが学校で作ってきた作品は家の中のあちこちに置き、プレゼントしてくれた絵は何枚も額装し、玄関や寝室、キッチンなどに飾っています。子どもの描いた絵や作ったものほど、可愛らしく、愛おしいものはないと思っているからです。正直に言いますと、子どもたちが着た服、作ったもの、走り書きした紙切れまで愛おしく、これらを処分できずにため込んでいます。これがきっと将来子供たちに「うっとおしい」と思われる原因になるかもしれないと、心を鬼にして処分しなければ、と思っているくらいです。

 おそらく、”物”に対する思いは、どちらが良いと言えるものでもないのでしょう。

 そういえば、昨年、義父母のクリスマスプレゼントをどうしようか迷っていたときに娘が私にこう言いました。

 「ママ、そんなに悩まなくていいよ。グランマなんかさ、『有り難う!とっても素敵!』って言ったあとは、すぐ気持ちは次のプレゼントに行くんだから。そんなに気を遣わなくても良いんだよ。グランマやグランパはたくさんプレゼントもらうんだから」

 義父母には息子が4人、孫8人います。父の日、母の日、誕生日、クリスマスには毎回、たくさんのプレゼントをもらうため、必然的にそれぞれからのプレゼントに対する思いや感謝の気持ちはそれほど濃いものではありません。それを何となく、娘は勘付いているに違いありません。

 逆に、私の母にとっては私は1人娘で、孫も私が産んだ2人しかいません。ですので、私や子どもたちからの電話や手作りのプレゼントを何よりも喜びます。実家で娘が新聞のチラシの裏に描いた絵やメッセージさえ、額に入れて、部屋のあちこちに飾っています。

 これは国民性の違いでしょうか? それとも、たまたま夫や夫の家族があっさりしていて、私や母の思いが強すぎるのでしょうか?

 さて、父の日です。結局、息子はダディのために一生懸命粘土で作って色を塗ったハンマー(夫と息子の間には、ハンマーについての共通の話題があるらしいのです)と手作りのカードをプレゼント。


 娘は何度促そうとも、何も夫に作りませんでした。家族が大好きで、家族と過ごすことが何よりも好きだった娘にも、家族を遠ざけたり、反抗したりする思春期がやってきたのでしょうか。

 父の日の当日。私は何とか夫の気持ちを盛り上げようと、お弁当と夫の好きなアップルパイを作って、ワインとチーズを準備して、近くの公園にピクニックに誘いました。

 子どもたちがお弁当を食べ終えて、公園内の林の中で遊び始めたとき、夫が子どもたちを眺めながら寂しそうにつぶやきました。

「娘が父の日のことを知っていて、あえてプレゼントをくれないというのは寂しいな。逆に、忙しいから忘れていた、というほうがよほど良かった・・・」

 そうだよな、と私は夫に共感しました。「プレゼントをあげない」より「父の日のことを忘れていた」ほうがずっと良い。

 娘が夫に素敵な詩をプレゼントしたのは数年前のこと。多感な14歳。こうして、子どもたちは少しずつ、親離れしていくものなんですね。夫の気持ちが痛いほど分かった、1日でした。


2019年6月18日火曜日

解剖に立ち会う

 先日、病院で解剖に立ち会いました。講義の一環として行われました。私は文学部出身で、解剖とはもちろん無縁でしたので、今回が初めての体験です。

 「病理学」について学んでいた講義の途中、担当の先生の電話が鳴りました。先生はしばし相手と話した後、電話を切り私たちに言いました。

 「病気で亡くなられた方の解剖をこれからすることになりました。今日の講義はここまでにします。残ったところは来週に。ところで、皆さん、解剖を見ますか?」
 
 講義を受けていたは5人。そのうち2人は医師です。基礎的な医学知識を学ぶその講義は受ける必要はない方々なのですが、2人とも「復習のため」と受けているのです。そのうちの1人の男性医師が、「次の講義の予定は?」と他の受講者に聞き、全員がその日の講義はそれだけか、もしくは数時間後ということを確認。「どうですか、皆さん、見ますか?」の声に、皆がうなずいて決まりました。

 私はその医師の問いに間髪を容れず、「見ます」と答えました。このような機会はこれからやってこないかもしれません。講義を担当する先生は皆の意向を確認した後、「これから準備に1時間ほどかかります。病院のロビーで待ち合わせしましょう」と言い、講義室を後にしました。

 さて、病院のロビーで待ち合わせし、解剖室へ行きました。そこは霊安室の近くにありました。私たちは丈長のエプロンを着用し、帽子をかぶり、マスクと手袋をして解剖室に入りました。

 ご遺体が台の上に載せられ、顔には白い布がかけられていました。その方の死因となった病気が私の病気と似た病気だったこと、身長体重が私とほぼ同じだったこと、そして名前が母の旧姓だったこと、で何か”縁”のようなものを感じました。

 この方は昨日までは生きていたのだ、ととても胸が痛みました。急に体調を崩し、このような形で亡くなってしまうことなど、想像だにしなかったのだろうと思いをはせました。

 ご家族はいらっしゃるのでしょうか? 子どもがいるとしたら、おそらく私より若い年齢でしょう。静かに横たわるその方を見ながら、霊安室に横たわっていた亡父の穏やかな顔や、私がいる病室ではなく、霊安室に行ってしまった、死産した可愛いらしい息子の顔を思い出しました。

 まず、全員でその方に手をあわせました。執刀医の先生がメスを入れ、臓器を取り出します。その方の死因となった病気以外に原因がないか、詳細に調べます。先生は私たちに臓器や血管の形状や仕組みなど様々なことを教えてくれます。

 解剖は2時間に及びました。先生は「具合が悪くなったら、我慢しないで外に出てください」と冒頭仰っていましたが、だれも外に出ませんでした。そして、5人とも2時間立ちっぱなしで、解剖に立ち会いました。解剖が終わった後、ふと下を見ると、私が履いていた白いサンダルには小さな赤い血がついていました。

 毎日、いろんなことに悩み、追われる日々。でも、その方の体の中を見せてもらった後、「世の中のお役に立てる人間になれるよう、頑張らなければ」という思いがふつふつと心にわいてきました。そして、その方に学ばせてもらったことは、いつか、必ず、どこかでお返しをしようと心に誓ったのでした。



 

 

2019年6月11日火曜日

大学院の中間試験に挑む

 昨日の未明、大学院の中間試験が終わりました。正確に言うと、6月10日午前0時10分、答案用紙を先生に送信しました。締め切り時間は午前0時30分。あと20分ほど時間に余裕がありましたが、もう頭が働きませんでした。何せ、前夜の午後7時から取り組んでいたのです。

 大学院はオリエンテーションのときから驚きの連続で、54歳で挑戦してしまった自分の無謀さを今さらながら後悔する日々。30年以上前に行った大学での学び方とは違い、講義の準備、課題の提出、他の研究生らとのディスカッションの方法など、様々なことがインターネットを使って行われるので、そういった環境に慣れるのがまずひと苦労。
 
 かつ、一番問題なのは、勉強しても頭に入らないことです。私の所属するのは「公衆衛生学研究科」。医療問題を取材・執筆するという仕事上、多少知識があった医療政策や医療倫理などの分野はまだ大丈夫ですが、初めて学ぶ「疫学」は本当に頭に入りません。

 テキストを開いて読んでも、問題を解こうとしても、脳が「もう、これ以上入りませんよ。メモリーもありませんし・・・」と勝手にシャットダウンしてしまい、挙句の果てに眠たくなるという事態に。「人間の脳はすごい。未知のことに遭遇すると、混乱しないように働きを止めてしまって防御するんだ」と逆に感心してしまうぐらい、頭に入らない。

 で、昨夜の「疫学」の中間試験です。まず、試験を学校で受けないということが驚きです。自宅でも学校でも、インターネットにアクセスできればどこでも良し。そして、テキストでもノートでも、何でも見てよいのです。設定時間も働いている人に合わせて、一番参加者が多いであろう日曜の夜が選ばれたようです。
 
 午後6時45分に先生から受講者に「今、問題・答案用紙をアップロードしました。締め切りは10日午前0時半」という一斉メール。それを受けて、受講者らが大学のサイトに入って、答案用紙をダウンロードするのです。当初は午後11時の締め切り時間でしたが、少し伸ばしたのですね。

 私も緊張しながら、サイトにアクセスし、その講座のページに入って、「中間試験」のバーをクリック。でも、目的の問題・答案用紙に1回でたどり着けません。でも、この1、2カ月で学んだこと、「慌てず、とりあえず、あちこちクリックしてみること」と自身に言い聞かせて、ようやくダウンロードできたのでした。

 先生あての受講者のメールの欄(全員で共有)をチラリと見てみると、案の定、「いま、7時5分ですが、問題・解答用紙が見当たりません!」というメールが。発信者名を見ると、入学式のときに挨拶し合った、同年代の女性です。その方は素晴らしいキャリアの持ち主で、私など足元にも及ばないのですが、「やっぱりなぁ」と共感しました。中高年はインターネット環境で想定外のことに遭遇すると、慌ててしまうのです。若い人のように、軽やかにあちこちクリックしてみるということが出来ないのです。

 先生も自分よりは年上であろう方々もいるということは承知の上で、返信も相手を尊重した言い回し。「いま、アップロードしたばかりですので、入れ違いになったかもしれません。締め切りは当初より遅く設定していますので、十分時間はあります」。もう試験は開始していますので、私は問題に集中すべきなんですが、こういう周辺のエピソードを拾い上げてしまうという習い性(つまり、原稿のネタになりそうなことを記憶する)で、しばし集中が途切れてしまいました。

 さて、「これはブログに書こう」と決めた後、本腰を入れて問題に取り組み始めました。1問目から難題。「昨日までのあの復習は何だったんだ!」とあきれるほど、初めて見る問題です。前日は夫に子どもたちを預け、午後1時から夕方の5時まで、この日も午前11時から午後4時まで大学にこもって勉強していたのに、全く意味がない。

 「何でも見て良い」ということはこういうことなんですね。テキストを開き、ノートをめくっても、解き方が分からない!うんうんうなりながら考え、解答し、次に進みます。ちなみに1ページ目にさいた時間は1時間。問題は9ページありますので、時間配分をしっかりせねば、と2ページ目からはスピードを上げました。

 そして、何とか9ページまで解いて、プリントアウトして見直し、答案用紙をアップロードして提出。夜中の12時を回っていました。くたくたになって、下に行き、冷蔵庫を開けてビールを取り出し、フシュっと開けて、グイッと飲みました。時間はあと20分ありましたが、余力なし。

 遠い昔、アメリカの大学に入学した1学期目のことを思い出しました。あれは、『アメリカ政治学』の授業でした。先生の言うことが全く理解できず(英語が分からない)、すべてテープに録音し、それを聞きなおして勉強したのもかかわらず、落としてしまったあの講義。あーあ、これも落としてしまうかも、という不安が頭をもたげました。が、その不安をビールと一緒に飲み込みました。50代女性が未明に、「疫学の講義を落としてしまうかも・・・」と不安になっても仕方ありません。

 さて、翌日。その講義を受講している20代の若い女性に「どうでしたか?」と聞いてみました。彼女も私と同じように感じていたようです。
「中間試験の準備のために配られたペーパーと全く違う問題でしたよね」とその女性。
「本当に。一生懸命あのペーパーに取り組んだ時間は何だったのか?という感じでした」と私。
「必死にグーグルで検索しましたよ」とさらりと話す彼女。

 そうか。その手があったか、と膝を打つ私。若い人は「ググる」(検索する)んです。そうしても良いんです。だって、自室で問題を解いているんですから。先生だって、それを前提に問題を作っているに違いありません。私は目の前のパソコンに向かい、手元には「辞書機能」として使うアイフォンを持っていたのに、分からないことは「ぐぐる」という発想がなかった。愚直に、テキストとノートをめくって、うなっていたのです。

 時代は変わっています。私も上手についていかないと、と苦笑したのでした。
 

2019年5月28日火曜日

郵便局員さんの夢

 昨日、郵便局に口座開設の申請をしました。読者の方から書店を通さず直接注文が来る事が増えたためです。

 お電話をいただき、本をお送りするのは心躍る作業です。書店に注文される方々は本が書店に届くまでずいぶん時間がかかると聞いていましたので、こちらからお送りすれば数日でお手元に送れます。

 課題は、代金をどういただくかにありました。立て続けに銀行や書店が近くになく、かつアマゾンなどネットで本を買う習慣がない方々から注文があり、そういう方々は本を買うのも、何かの代金を支払うのも難しいのだと気付かされたのです。私はいかに、銀行や書店が比較的近くにあり、かつ「ワンクリック」で物を買う生活に慣れてしまったのかと、痛感しました。

 そうした理由で、小さな町や村にもある郵便局から振り込んでいただくのが一番良いのだろうと、さっそく昨日、書類をそろえて最寄りの郵便局に振替口座開設の申請に行ったのです。振替口座を開くと、「払込取扱票」で代金を請求でき、受け取った側もそれを使って代金を払い込むので手間がかからないようなのです。


 口座開設のための提出書類の中に、会社の登記事項証明書があります。そこには、会社の事業内容が書いてあります。登記の準備をしていたとき、法務局の担当の方から「後から変更するのは大変ですので、将来計画しているものもとりあえず全部入れたほうが良いです」と助言をいただいたため、思い付くものを全部入れました。私の会社「合同会社まりん書房」の事業は次の8つです。

1) 書籍の出版
2) 雑誌の発行
3) 電子書籍の発刊
4) Web媒体の制作・運営
5) 記事・原稿の取材・執筆
6) 古書の販売
7) ブック・カフェの運営
8) 前各号に附帯関連する一切の事業

 この登記事項証明書が、申請に行ったときに担当してくれた男性の郵便局員さんの心に響いたらしいのです。書類を見た郵便局員さんの目が輝いていました。

「ブック・カフェをされているのですか?」
「いいえ、本の出版で今のところ精一杯で、ブック・カフェまで出来るかどうか、、、。法務局の相談員の方も、登記について相談した方々も異口同音に思い付くものは全部入れたほうが良いと仰っていたので、とりあえず入れたのです」

私は苦笑しながら、言い訳じみた答えをしました。実際、本の出版は年に1冊できれば良いぐらいのペースで、5)の記事の取材・執筆以外は、取り組む余裕がありません。

が、その郵便局員さんは頬を紅潮させながら言いました。年齢はおそらく50代半ばから後半だと思います。いただいた名刺には「課長補佐」と肩書きがありました。

「私、定年後にブックカフェを開くのが夢なんです。映画カフェでもいいですし。カフェを開く準備のため、専門学校にも行きました」
「そうなんですか! 素敵な目標ですね。私はまだまだ本の出版で精いっぱいで、、、。でも、少しずつ取り組んでいきたいと思っています」
「また、いろいろ教えてください」

申請が終わり、郵便局を出ました。横に止めてあった自転車に乗って帰ろうとしたとき、裏のドアが開き、その郵便局員さんが出てきました。そして、ニコニコしながら、袋を渡してくれました。その中には、「クレラップ」と子ども向けの「ぬりえセット」が入っていました。胸にじんときました。



「どうぞ、使ってください。お子さんにも差し上げてください」
その郵便局員さんが私の携帯に問い合わせの電話をくれたときに、息子がたまたま答えたため、息子にもと気を遣ってくれたのでしょう。

郵便局員さんの笑顔は、私の心を和ませてくれました。将来、その素敵な夢が叶いますように、と心から願いました。
 
 

2019年5月27日月曜日

我が家のバターが減る理由

 我が家はバターの減り方が早い。買い置きしていても、あっという間になくなります。買うのは「雪印北海道バター」。北海道生まれの私が子どものころから慣れ親しんだそのバターを今でも使っています。

 我が家で一番バターを消費してきたのは私。昔から朝食にバタートーストを食べることが多く、中年になり和食を好むようになっても、朝はやっぱりバタートーストを食べたいのです。

 国立がん研究センター中央病院でよくお見かけした政治家・故与謝野馨さんも、著書で「食パンの厚さに近いほどバターをたっぷり塗り、その上に砂糖をまぶして二枚食べる」と書いており、それ以来与謝野さんへの親近感が一気に増しました。

 生活習慣病を気にして食べ物を制限するより、食べたいものを食べて体力をつけ、体重を落とさないほうががん患者にとって良いという考えに、私も大いに賛成しました。だから、私は50代になっても、バターをたっぶり塗ったトーストはやめません。

 さて、昨年ぐらいから、我が家のバター消費量が一気に増しました。使っているのは、小2の息子です。息子はバタークッキー作りが大得意。分量もしっかり記憶していて、レシピを見なくても作れるのです。「家にお菓子がないから、クッキー作ろう!」と、さっと自分で作ってしまうほど、手慣れています。

 昨日、お友達のお誕生日会にも持参しました。プレゼントは用意していたのですが、朝、「ゴム鉄砲」とバタークッキーを作ることを思い立ったようなのです。ユーチューブで作り方を見ながら人数分のゴム鉄砲(割りばしとゴムで出来ています)を作った後は、クッキー作りです。

 作ったのは9枚。お誕生日のお友達とお母さん、お誕生日会に招待された4人と夫、娘、私にそれぞれ1枚ずつです。

 小麦粉と砂糖、バターの分量を量り、バターを電子レンジで温めて柔らかくし、材料を混ぜてこねます。生地を少し冷蔵庫で寝かした後、手の平ぐらいの大きさに丸く平べったくし、クッキングシートを敷いた天板の上に並べます。型を使わないので、手作り感が出て、美味しそうに出来上がります。オーブンで焼くときの温度と時間も覚えているので、簡単。焼き上がって冷めた後、1枚1枚丁寧に袋に入れて、出来上がり。


 思いがけず、お相伴に預かった私。その1枚を味わいながら、「世界で一番おいしいこのクッキーをこれからもずっと食べられますように」と心の中で祈ったのでした。

2019年5月25日土曜日

国会図書館に納本

  出版社を立ち上げてから、やる事なす事新しいことだらけで、仕事が追いつきません。そんな中、ずっと先延ばしにしていたことを一昨日の5月23日、ようやく終えました。国立国会図書館への納本です。


  国や地方公共団体、それに準じる法人、出版社や学術団体らは「国立国会図書館法」に基づき、出版物を同図書館に納める義務があります。「納本制度」と言います。同図書館によりますと、納本の目的は官庁出版物については「政府活動に関する国政審議に役立てるため」、民間出版物は「国民共有の文化的資産として、広く利用に供し、永く後世に伝えるため」となっています。

 「文化的資産」「広く利用に供し」「永く後世に伝える」・・・。自分の本がこのような目的で国会図書館に置いてもらえるなんて、こんな嬉しいことはありません。

 納本は郵送でも出来るのですが、私は図書館に出向いてしたかった。そのため、少し遅くなってしまいましたが、図書館の担当者はとても丁寧に応対してくれました。手続きは所定の用紙に出版社名、住所など必要事項を記入するだけなので、あっという間に終わりました。

 「いってらっしゃい。お役に立つんだよ」
担当者に手渡すとき、心の中でそう本に語り掛けました。本が私の手元から旅立つときは、いつもそう送り出します。「いってらっしゃい。頑張るんだよ」と子どもたちを朝、学校に送り出すときと同じ様に。

2019年5月24日金曜日

You make my day 

 英語のフレーズに「You make my day」という良い表現があります。直訳すると「あなたは私の一日を作ってくれた」。意訳すると、「あなたのおかげで、私の一日が素晴らしいものになったわ」です。

 たとえば、あなたが落ち込んでいるとき、友人や彼があなたのことを褒めてくれた。もしくは、あなたの子どもや夫が、何気ない、でも素敵なプレゼントをくれることもあるでしょう。一日、仕事や家事・育児で疲れ切ったあなたは、その言葉や小さな贈り物でその日一日を幸せな気持ちで終えることが出来ました。そんなときに、相手に言う言葉です。

 「You make my day」-。私はその言葉を最近2回、遠方に住むある人に言いたい気持ちになりました。2回とも、同じ人に対してです。

 その人は、北海道利尻郡利尻富士町に住んでいます。4月27日に、北海道新聞に私のインタビュー記事が掲載されたとき、真っ先に電話をくれた人です。その人は記事を読み、拙著「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」を読みたいと思ってくれたらしく、直接電話をくれたのです。記事には私の会社の連絡先が書いてありませんでしたので、北海道新聞か書店に電話をして、連絡先を尋ねてくれたのだと推測しました。

 電話がきた土曜日の午前中、私は大学院の講義を受けている最中でした。講義が終わって電話をチェックすると、見慣れない番号からの着信履歴が5回ありました。よほど、私に連絡を取りたがってくれたのだと判断し、すぐ、折り返し電話をかけました。ちなみに、私の会社にかかる電話は、私の携帯電話に転送するようになっています。

 電話をかけると、電話口の声は、おばあちゃんでした。「道新に載っていた本を買いたいんですけど、どうやって買えますか?」というのが質問でした。「お住まいはどちらですか?」とお聞きすると、「利尻郡利尻富士町です」と言います。北海道の端に住んでいる人が、私の記事を読んでくれたんだと、感動しました。北海道新聞の力を実感しました。

 私の本は、全国津々浦々の書店に本を送る取次店を通して販売していないため、利尻郡利尻富士町の住人の方々が行く書店は注文を受け付けないかもしれないと考えました。で、「送料こちら負担で、直接本をお送りできますが、それでよろしければお送りします。お代は銀行に振り込んでいただく形になりますがよろしいですか?」と聞くと、「お願いします」と言います。私は本を丁寧に梱包し、休日でも開いている大きな郵便局に自転車で向かい、おばあちゃんに本を送りました。とても、晴れやかな気分でした。

 本を梱包するにあたり、ちょっと気にかかったのが、私の出版社は都市銀行にしか口座を開いていないことです。北洋銀行、北海道銀行や地方の信用金庫を使う方が多い道内の方は、都市銀行の口座への振り込みは面倒と考えてしまうのでは?と考えました。若い方なら、他行の銀行に振り込めることも知っていますが、お年寄りはどうかな? と考えたのです。が、それしか方法がありませんでした。

 さて、本を送ってから2週間ほどたっても、銀行に振り込みがありません。もしかしたら、届いていないのかも?と考え、電話をしてみました。おばあちゃんは開口一番「すみません!遅れまして。明日振り込みます」とのこと。「いつでも、お時間のあるときで結構です。本が着いて良かったです」と私。おばあちゃんは、「実は、私、乳がんで・・・」と言います。がんを患って、私の本を読みたいと思ってくだったのだと、胸にじんときました。そして、私は「そうですか、、、。どうぞ、お大事になさってください」と言い、電話を切りました。

 さて、それから1週間。気になって、銀行の通帳記帳をしましたが、まだ、振り込みになっていません。 「もしかしたら、私の本は役に立たなかったのかもしれない。だから、代金は払いたくないと思ったのかもしれない」と考えました。少し、落ち込みました。で、夫に伝えると、夫はこう言いました。

 「日本人はきちんとしているから、代金を振り込まないなんてことはないよ。きっと、何か事情があるんだよ。そのおばあちゃんに。たとえば、体調が悪いとか、近くに銀行がないとか」
「そうだね、でも、ちょっと落ち込む」と私。

 さて、そのことは考えないようにしようと気持ちを切り替えた数日後の5月18日、ポストに郵便が入っていました。そのおばあちゃんからでした。少し厚手の紙の封筒の中には、現金2千円と、一筆を添えたメモ紙が入っていました。演歌歌手「鳥羽一郎」の写真が薄く浮かび上がっているメモ紙でした。「遅くなってすみません。じっくりと読ませていただきました」と書かれていました。

 そのおばあちゃんの誠実さに、胸を打たれました。とともに、「私の本は役に立たなかったのだ」と思い、落ち込んでいた気持ちが一気に晴れました。そして、その日一日を気分良く過ごせました。

 私は数日後、おつり272円をお礼の手紙とともに、おばあちゃんに送りました。現金書留は520円かかりましたが、誠実なおばあちゃんには、誠実に対応しなければと思いました。

 利尻郡利尻富士町のおばあちゃん。ありがとうございました。あなたの電話、あなたの手紙に私は救われました。

 You made my day!

2019年5月21日火曜日

大雨の朝、娘の足元には・・・

「ママ、ビニール袋ない?」
大雨が降った今朝、家を出る直前に娘がそう聞いてきました。
「大きさは? 何に使うの?」
「足につけるの」
「???」

娘は「思い付いた」という表情でキッチンへ行き、スーパーの袋が入っているかごから2枚袋を取り出し、玄関へ。そして靴を履きながら、何やらがさごそ・・・。娘と一緒に通勤する夫は玄関の外で傘を差して、娘を待っています。

そして、玄関で靴を履き終わった娘の足元を見て、私は吹き出しました。
「面白い! 待って、写真撮らせて!」とスマートフォンを取りに居間に戻ります。娘はそのまま、玄関の外へ。

外から夫の悲痛な叫び声が聞こえます。
「何なんだ! 恥ずかしいからやめてくれ! それで電車に乗るのか?」

慌ててスマートフォンを取りに行った私は、何とか間に合い、家を出る娘の足元をパチリと写すことができました。


「これなら、濡れないよ」とカメラに向かって微笑む娘。こういう発想が出来て、かつ、こんな姿で登校しようとする娘はすごい!と感動しました。

2019年5月18日土曜日

「こどもの日」に改めて自分に言い聞かせたこと

 「後でね」と子どもに言わないー。なかなか出来ないことですが、私が日ごろ心がけていることです。以前聴いたアメリカのカントリーソングの歌詞が心に残っているからです。

 いつ、どのような場所で聞いたのか、はっきりとは覚えていません。娘が小学校低学年ぐらい、息子がまだ生まれていないか、生まれていても赤ちゃんだったころかもしれません。普段は聴かないラジオを、車の運転中か、自宅でたまたま聴いていたときにかかった歌でした。

 その歌を聴いてからというもの、子どもたちに「遊ぼう」と誘われたら、そのときにしていることを中断して遊ぶようになりました。「いま、手が離せないの」とのど元まで出かかっても、手をとめます。その歌詞は、それほど私の胸に深く染み込みました。メロディは全く覚えていません。歌詞だけが、心に残ったのです。

 その歌は息子から年老いた父に捧げる歌でした。内容の大筋はこのような感じです。何度も何度も思い返したので、繰り返すうちにフレーズが少し違ってしまったかもしれませんが、この歌の言わんとすることは間違っていないと思います。

 僕は小さいころ、父の肩車が大好きだった。
でも、父に「肩車をして」と頼むと、父からは「今、仕事で忙しいんだ。また、今度な」という言葉しか返ってこなかった。やがて、僕は父の肩車に乗りたいと思わなくなり、父の肩車に乗れないほど、大きくなった。

 今、老いた父が僕に言う。「たまには一緒に、ご飯を食べないか」。僕は、こう返す。「今、仕事で忙しいんだ。また、今度」 

 この歌詞が言っているのは、子育てに「今度」はないのだということ。そして、往々にして、子どもは自分が親にしてもらったように親に返すのだということ。

 だから、私は思います。息子が、「ママ、公園一緒に行こう」と誘ってくれるのも、娘が「ママ、一緒にケーキを作ろう」と誘ってくれるのも、そのときが最後かもしれないと。実際、思春期の娘は部屋にこもり、好きな音楽を聴いたり、友だちとチャットをしたりすることが多くなり、週末ピクニックや外出に誘っても、来てくれないことも増えました。

 今、私は1月に立ち上げた出版社の仕事や4月から通い始めた大学院の勉強に追われています。子どもがこんなにかわいい時期に、様々なことを始めなくても良かったのではないか、と毎日のように思います。でも、私自身の人生の時間も、特に健康で活動できる時間も限られている。だから出来るうちにこれまで人生でやり残したことをしたいという焦りにも似た気持ちもあるのです。

 だからこそ、週末や仕事と学校の合間というわずかな時間でも、子どもと過ごす時間を楽しみます。息子と近所の公園に行ったり、お料理をしたり、娘と一緒にガーデニングをしたり、など無理せず、日常生活の延長で出来ることです。

 もしかしたら、明日は息子に「公園行こう!」と誘っても、「ママ、今は大丈夫」って言われてしまうかもしれない。娘に「一緒にお料理しよう」と誘っても、「No, Thanks」と言われてしまうかもしれない。娘や息子と過ごしながら、時折、私はその歌詞を心の中で反芻します。そして、改めて、その歌詞を胸に刻むのです。

 

2019年4月28日日曜日

地元書店の店長さんとの交流

 地元の書店さんに拙著「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」を置いてもらって早1カ月半。1回目入荷の5冊は息子の幼稚園時代のママ友だちが購入してくれ、いまは2回目に入荷した5冊が並んでいます。

 そこの店長さん。最初は「取っ付きにいく人」という印象でしたが、週に1、2度足を運ぶうちに、実はとても良い人だと判かってきました。最初に入荷した本が売れたとき、店長さんは安堵の表情を浮かべこう言いました。

 「売れて良かったです。せっかく置いても、売れなかったら切ないだろうなと思っていましたので」

 なんて良い人なのでしょう。人は見かけによらない、とはよく言ったものです。

 さて、2回目に入荷した本がなかなか売れないため、店長さんは店の真ん中の目立つ場所にある特設コーナーに置いてくれました。「地元の本」コーナーです。

 私の本の横には、「長く売れているんです」(店長さん)という、地元の「お化け屋敷」の本。お化け屋敷の本の横に、がん闘病記。意表を突く、この絶妙な組み合わせ。知恵を絞って売ろうとしてくれる、その心意気が嬉しいじゃないですか。

 で、「私も頑張らねば」とPOPを持参することにしました。もう、恥ずかしがっている場合ではありません。せっかく店長さんが頑張ってくれているんです。事前に「どんなPOPの文言が良いでしょうか?」と聞いてみると、店長さんは「どうぞ、お気の召すままにお願いします。ありがたいです」とあくまでも謙虚。でも、せっかく、こんなに売る努力をしてもらっているのに、私が思い付いたPOPの文言はありきたりで、センスはゼロ。でも、事実に基づくキャッチコピーしか思い浮かばないのです。

 「●●小学校の現役お母さんの本です!」

 言い訳をさせてもらえば、生まれてこの方POPなんて、作ったことがありませんし、キャッチコピーだって思い浮かびません。こんな文言を読んでお客さんが買ってくれるかどうか未知数です。ないよりまし、という程度でしょうか。

 その書店では本の前にいくつもPOPを見かけますが、手書きなのは私の本のPOPだけ。手書きが人目を引くという”戦略”からではありません。デザインソフトを使ってPOPを作る方法を知らないだけなのです。すると、なんと数日後。「●●のお化け屋敷」の本の前にも手書きPOPが、、、。

 著者の人かなぁ? お化け屋敷の本を書く人ってどんな人だろう? と手書きPOPを見ながら、想像を膨らませました。がん闘病記とお化け屋敷の本。軍配はお化け屋敷の本に上がるだろうな、と思いながら。

 本が売れなくなって久しい昨今。書店さんも、著者も、こうして知恵を絞って本を売っています。

2019年4月16日火曜日

驚きの連続 大学院のオリエンテーション

 驚きの連続でした。情報量過多で、脳が何度もシャットダウンしかけました。4月6日に開かれた大学院のオリエンテーションです。

 事前に送られてきた資料に書かれていた開始時間は9時半。通学時間は1時間ですので、余裕があるはずなのに、私は朝からドタバタしていました。中3の娘は起きてから着替え、洗面、歯磨きを5分で終わらせますが、私は30分以上かかります。これが50代女性の辛いところです。

 化粧もしなければならないし、髪だって整えなければならないし(分け目から白髪が見えるから隠さなきゃ)、洋服だってだぶついたお腹まわりを隠せるか、清潔感があるかチェックが必要だし、、、と自分が納得でき、かつ、他人を不快にさせない身づくろいには時間がかかるのです。

 加えて持ち物も多い。コンタクトを付けた目で近くを見るときにかける老眼鏡、そして、「ドライアイ」の目の調子が悪くなったときに使う目薬。さらに、コンタクトが痛く感じられるときに外して使うコンタクト洗浄液とケース、メガネ2つ(遠く用と近く用)。それに、口紅だって持たなければならないし、筆記用具も、、、とあれこれ必要なものをそろえているうちに時間があっという間に経ってしまうのです。子育て真っ最中ですので、夜は家事と子どもの世話に追われますので、前日に準備する時間の余裕はありません。

 今日のうっかり・ドタバタ①携帯電話を忘れる

 ようやく準備が整い、ヘアアイロンでかろうじて整えた髪を振り乱しながら自転車に乗って駅へ。そして自転車を公共の自転車置き場(自転車がひしめき合っていて、入れにくい)に何とか止めて、改札口に着き、忘れずに持ってきたパスをバッグから取り出して気が付きました。携帯電話を忘れていたことを。今や、携帯電話は、メールやラインという連絡ツールとしてだけでなく、辞書、カメラ、電車乗り換えやニュースの検索機能としても多用し、日常的に頼り切っていますので、忘れるととっても不便。で、慌てて夫に電話をしました。

 土曜の朝、起きたばかりという夫がのんびりとした声で電話に出ました。私は言いました。
「携帯忘れたの。申し訳ないけど、車で駅まで持ってきてくれない?」
「もう、8時45分だよ。9時半から始まるだろう? 間に合わないと思うよ」
「うーん、今すぐ家を出てくれれば、ギリギリ間に合うと思うけど」
「初日から遅れたくないだろう?」

 夫は面倒なのに違いない、とあきらめ、そのまま学校に行くことにしました。

 電車を乗り継ぎ、学校に着きました。9時20分です。でも、入学式に見た顔ぶれが見当たりません。不思議に思いビルの守衛さんに聞くと、オリエンテーションは別館で開かれるのだと言います。慌てて、別館に走ると男性が1人だけ自動ドアの前に立っていて、首をかしげながら、ドアの側のインターフォンを操作していました。

 「この人、入学式で見たわ」と安堵しながら、「おはようございます。オリエンテーションはこのビルなんですよね」と話し掛けました。
すると、その男性は「自動ドアが開かないんですよね」と言います。インターフォンのボタンを押しても、応答がありません。待つこと数分。たまたま、出てきた人にドアを開けてもらうことが出来ました。

 今日のうっかり・ドタバタ②受け付け時間の勘違い

 そうこうするうちに、本館から教務課の女性2人が来て、玄関ホールで受け付けを始めました。そこで、判明しました。受け付けは「9時半から」だったのです。朝の私のドタバタは何だったのでしょう。9時半からだったら、携帯電話を取りに帰る時間もあったのに、と自身の勘違いを恨めしく思いました。そして、「きっと皆、ドアが開かなくて、どこかで待っているんだわ」と呑気に考えていた自分に苦笑し、そこに男性がいてくれたことを「天の助け」と思うほど、ありがたく思ったのでした。

 さて、オリエンテーションが始まる前にトイレへ。そして、鏡の前に立つとなんと、受験のときに同じくトイレで一緒になった同世代の女性がいたのです。あちらも私に気が付きました。

「一緒で嬉しいです。あのときもトイレでお話しましたよね」と私。
「そうですよね。私たち、くさい仲ということで・・・」と笑うその女性。遠い昔に聞いたような冗談が出てくることこそ、”同世代”です。なんと、頼もしいのでしょう。

受験のときも、トイレの鏡の前で、会話をしました。
「面接で何を着てくるか、迷いました。面接をしたのがもう何十年前も前ですから」と苦笑するに、彼女はこう返しました。
「本当に。少なくともジーンズを履いてこなくて良かったわ。わっはっはっ」

そんな、トンチンカンな、でもお茶目な会話をしてしまうのが、開き直った中年女性なんですね。それも、絶対50代以上。まだ、かすかに羞恥心を持ち合わせている40代女性にはできません。

さて、トイレで身づくろいを終えて、パソコン室へ。

そこでは、立派なパソコンがたくさん並び、それぞれの椅子に名前が貼られています。私の大学院には1年コース(医師ら)と通常の2年コース、働いている人が通いやすい3年コースに分かれていて、1年コースから前から順に名前が書いてあります。私の番号は3年コースの3から始まる番号で、後方の席です。

 同じ3から始まる番号に座る左の男性は、今日提出するはずの、「健康調査表」などの書類をその場で書いています。30代ぐらいでしょうか。後から聞くと、この男性は遠方から新幹線で来ている男性医師でした。働き盛りの勤務医。日々忙しくて、書類を書く時間もなかったのでしょう。そういえば、同じ順番で着席した入学式には、この医師は参列していませんでした。

さて、私の右隣は、不思議な、とらえどころのない雰囲気の男性です。頭髪に白髪が混じっていて、その風貌から私と同世代かな、と踏んでいました。

今日のうっかり・ドタバタ③ITの説明に着いて行けない

最初に行われたITの説明。与えられたログインネームとパスワードのセットが2種類あり、これをどのサイトで使うかの説明当たりで、頭が混乱してきました。でも、説明者は、次々と画面のページをめくって進んでいきます。

「えっ、どうやったら次のページに進むの?」
「えっ、どうやってログインするの?このパスワード使えない!あっ、ロックされてしまった!」
「えっ、どうしよう!わからない!!!」

私は後方に座っていましたので、前方に座った方々の画面が良く見えます。みな、説明に着いていっています。平然と、画面のページをめくっている。私は途中でついに観念し、手を挙げて、「すみませーん」と助けを求めました。
 
それからは、スタッフの女性が私の横に専属について説明してくれました。そして、間もなく、私の前の列に座る、あの同世代の女性も「すみませーん」と手を挙げました。そして、他のスタッフが彼女の横に。そうなんです。中年になると、こういうことに着いていくのが大変なのです。

が、”同世代”のはずの、私の右横に座る白髪交じりの男性は、「ふーん」「ふーん」と言いながら、どんどん画面をめくっていきます。
「この人何者?」と思っていると、その男性はぼそりとつぶやきました。
「へー、すごいじゃん」
この声のトーンの高さと、「●●じゃん」という表現で分かったのです。
「この人、意外に若い」と。

そして、もう一つピンと来ました。
「この人、IT関連企業から来た人だ」と。

入学式の研究科長の挨拶で、「我が大学院は多様性を重んじます。医師・看護師・製薬会社に勤務する人など医療分野からだけでなく、留学生、また、IT関連やジャーナリズムの分野からも来ています」と説明していたのです。

その”異色”の2人のうちの1人は私、そして、もう1人がこの人に違いありません。
だって、パソコンの画面のめくり方の速さと「すごいじゃん」という表現。私は、画面をめくることすら難儀していて、ましてや、このシステムがすごいかすごくないかなど、まったく分かりません。その男性は、何かと戸惑う私に、「そのパスワードの初期設定、●●●●ですよ」とさりげなく教えてくれました。そして、その後も質問するたびに丁寧に教えてくれました。

ようやく、1時間あまりの、IT説明会が終わりました。私は隣の男性にお礼を言いました。
「ありがとうございます。助かりました」
その男性はひょうひょうとした表情でこう答えました。
「ぜんぜん、です」
礼儀正しく、これまた、若い人が使う表現で。

 さて、次は構内の案内。こぎれいなロッカールームに行くと、1人1つずつロッカーが割り当てられていました。娘の通うインターナショナルスクールでは、小学生から1人1つロッカーを割り当てられていますが、私自身が学校でロッカーを割り当てられるのは、初めての体験。図書館には英語で書かれた専門書が書庫にずらりと並んでおり、その知的な雰囲気に久しぶりに感動しました。大学卒業以来、大学の図書館に足を踏み入れることはほとんどありませんでしたので、とても嬉しい体験でした。

 こうして、うっかり・ドタバタが続いた大学院オリエンテーションの午前中は終わったのでした。

2019年4月2日火曜日

入学式(自分の!)に参列

 今日(4月2日)は朝から、気持ちがちょっぴり沈んでいました。とっても楽しみにしていた大学院の入学式(自分の!)なのですが、気持ちが浮かない。娘の幼稚園の卒園式と小学校の入学式、その7年後の息子の小学校の入学式に着た春物のスーツをクローゼットから取り出し、お花のブローチを付けて着ても、気持ちが盛り上がりません。

 「なんかなぁ」と鏡を見ながら、私はつぶやきます。久しぶりにブラウスをスーツのスカートの中に入れて着てみました(最近は、シャツやセーターを中に入れられない)が、お腹まわりについた浮き輪のような贅肉が目立ちます。なんだか、顔もくすんでいるし、髪だって決まりません。どう頑張っても”学生”には見えないのです。

 私は高齢出産でしたので、娘の学校でも、息子の学校でも最高齢。その最高齢記録をまた更新するんだなと思うと、「ああ、また、若い人たちの中に入って、脳も体も活性化させて勉強しなければならないんだなあ」と想像すると、「本当にこれで良かったのかな?」と思ってしまったのです。

 でも、と気持ちを切り替え、ハンガーにかけてある息子が着る小さなスーツとシャツを眺めました。気持ちが少し明るくなりました。夫は有休を取って、春休み中の息子を連れて入学式に来てくれると言います。そんな風に全面的に私の人生の再挑戦をサポートしてくれる夫に感謝をしながら、スーツ姿の息子を想像し、気を取り直して、入学式のリハーサルに出るためにひと足先に家を出ました。

 1時間ほどで学校に着きました。大学敷地内の桜はちょうど満開。スーツを着た初々しい学生たちが桜と入学式の立て看板を背に、お母さんやお父さんと一緒に写真を写しています。大学院生約30人のこぢんまりとした入学式を想像していたので、驚きました。学部生も一緒の入学式だったのです。

 学部生の数と若さに圧倒されながら、会場前の桜の木の前でうろうろしていると、私と同世代と思われる女性が私と同じように、敷地内をうろうろとしている様子が目に入ってきました。私の心は弾みました。「同世代の学生がいたんだ」と。

 話しかけようか迷っていたら、その女性からこちらに近付いてきました。私の気持ちに共鳴するように、にこやかな表情で話し掛けてくれました。

「公衆衛生大学院ですか?」
「そうです」
その女性の表情はぱっと輝き、こう言いました。
「私もそうなんです」
「えっ、そうなんですか! 嬉しいです」

その女性は、声を弾ませて続けます。

「もうすぐ、娘が来ます。研修医として2年働いた後、こちらに入学したんです」
「・・・・」
一瞬、言葉に詰まった私。
「あぁ、お嬢さんが大学院に行かれるのですね」
「・・・ええ」

あれっ? 会話のつじつまが合わないという表情をしたその女性に私は苦笑しながらこう言いました。
「私なんです。入学するのは」
「そうなんですか!」とその女性は驚いた表情をした後、慌てて話を続けました。切り替えは見事でした。
「お仕事をしながらなんですね」
「そうです」
「まあ、素晴らしいですね」

 なんと、私は子どもの、それも大学1年生ではなく、20代以上の大学院生の親に間違えられたのです。確かに、子どもが25歳だったとしても、親は普通50代。54歳の私は、院生の親に見えて当然。さらに、日本語の特徴である「主語を省略する」文章で話し掛けられたため、勘違いが起こったのですね。

「桜がきれいですので、写真をうつしましょうか?」とその女性。
「お願いします」
私はスマートフォンをその女性に手渡しました。
そして、学部生たちのように、桜を背に一人でにっこりと微笑みながら写真に収まったのでした。

 さて、会場に入ると、受付が始まっています。式次第と名簿をもらって、会場に入りました。次々と学生が入ってきます。座席に座ると、右隣は髪に白髪がちらほら見える男性、左横は3人欠席(仕事なんですね)、そのさらに左横には私と同世代に見える女性も、、、。なんとなく、ほっとした気持ちになりました。

 リハーサルが終わったころ、夫からメールが入りました。会場に着いたとこのこと。学生の家族は会場ではなく、別室でモニター画面で入学式を見ることになっています。

「部屋がいくつもあって、たくさん人がいるよ」と夫。
「まだ、式まで時間があるから、ホールに下りてきて」と私。

 ホールに出て待っていると、息子が階段を走って下りてきました。
「ママ、おめでとう!」とハグ。息子を抱きしめるだけで、気分は最高!になります。
続いて、夫も降りてきました。
「Congratulations!(おめでとう) I am proud of you(君を誇りに思うよ)!」
と素敵な花束をくれました。

夫がくれた花束
入学式では、厳かな気持ちで学長の式辞や研究科長の歓迎のあいさつを聞きました。そして、「また、勉強できるんだ」と、わくわくとした期待感が心に広がりました。式終了後は桜の前で、家族で写真撮影。朝の浮かない気分はすっかり消えて、晴れやかな気持ちなったのでした。

 帰宅後は、学校から帰ってきた娘と息子が「ママの入学お祝いに」とケーキとクッキーを作ってくれました。子どもたちの手作りスイーツはとっても美味しく、私はほっこりとした気持ちに包まれたのでした。

娘が作ってくれたケーキ(中央)と息子が作ってくれたクッキー(中央奥)

 

2019年4月1日月曜日

合格通知

 こんな嬉しい通知をもらったのは何十年ぶりでしょうか? 今年1月に試験を受けた大学院から、2月「合格通知」が届きました。そして、明日、その大学院の入学式に臨みます。

 専攻は「公衆衛生学」。新聞記者時代に厚生労働省を担当し、その後約10年間病気を患い、体調回復後にフリーランス記者として再び医療問題を取材・執筆する中で、「医療についてより深い知識を体系的に学びたい」と切望するようになりました。そして、見付けた分野が「公衆衛生学」でした。

 出願を決めたのは、拙著「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」をまとめている最中でした。出版準備を進める中で、会社立ち上げも検討に入った段階。

 一番の気がかりは、育児がおろそかになることでした。子育ては「いまが一番楽しいとき」という意識がいつもあり、この瞬間を子どもたちと一緒に過ごさなければ後から後悔するいう気持ちもあるため、最優先です。娘のお弁当づくりや息子の習い事の送迎、勉強のチェックもあります。

 家事では、遅れに遅れている「写真整理」もあるし、家中に溢れた物の「断捨離」だって待ったなしの状態。整理整頓好きの夫の機嫌を損なわない程度に、家の中も片付けなければなりません。食事だって、やっぱり手作りです。

 「でも」と私は考えました。再々発したがんは「寛解」状態ですが、いつ再発して体調が再び悪くなるか分かりません。やりたいことを先延ばしすると、結局体調が悪化して出来なくなるのでは、という危機感もあります。

 さらに、私が娘を出産したのは39歳、息子は46歳。「子育てがある程度落ち着いてから、自分のしたいことをしよう」なんて、世の女性たちと同じような”人生の時間配分”で物事を考えていたら、還暦を過ぎてしまいます。

 で、体調の良い状態ももう5年以上の続いていますので、本の出版も、出版社の立ち上げも、大学院出願も「えいっ」と一緒にしてしまうことにしたのです。

 卒業したアメリカの大学に「卒業証書」と「成績証明書」の発行手続きをし、新聞記者時代の上司と、今記事を投稿しているネットメディアの代表に「推薦状」を依頼し、「志望動機」も練りに練って書き上げました。出願書類の締め切り時期は、ちょうど本の校了の時期と重なり、「何で、時期をずらさなかったのだろう」とちょっぴり後悔しましたが、何とか両方とも無事終えることが出来ました。

 1月に入ると会社の登記で忙しく、同時期に大学院の筆記・面接試験がありましたので、準備はほとんど出来ずに、ぶっつけ本番で試験に臨みました。英語の医学論文を読んで、それを要約して、自分の意見も書くという筆記試験は、時間切れで何とも情けない解答だったと思います。

 面接官は私より10~15歳は若いであろう准教授。試験について聞かれたときは、開き直って、「最後に試験を受けたのは30年以上も前ですので、時間配分がうまくいきませんでした」と笑って言い訳しました。面接官2人は大笑いしてくれました。

 この大学院は日本では珍しく、英語で講義を行います。私の経験では、英語圏の人々のほうが、日本人よりずっと中高年や病気をした人の再出発に対してはおおらかです。出願の際、私のような50代でがんを患った人間が再び学ぶことについて、この大学院ではマイナス要因にはならないのではと期待しました。その期待通り、英語で行われた面接試験も、終始リラックスした雰囲気で進み、無事、合格通知もいただけたのでした。

 コースは医師らを対象とした1年、標準の2年、そして仕事をしている人の3年があります。私は仕事と育児もあるので3年コースにしました。

 久しぶりの勉強は大変だろうと覚悟しています。一方で、子育て中も若いママ友達の仲間に入れてもらいとても楽しく過ごしましたので、大学院でもたぶん自分の子どものような年齢の若い研究生たちに交じって、楽しく学べるのではと期待しています。
 

 
 

2019年3月30日土曜日

授業参観、息子が発表したのは、、、

 息子が通う地元の公立小学校で3月9日(土)、「学校公開」がありました。いわゆる、授業参観です。そこで、小学校1年生の息子たちが披露してくれたのは、「僕(私)が1年間で成長したと思うこと」でした。

 担任の先生には「学校公開の日までお父さん、お母さんには内緒ね」と言われていたらしく、息子からはそのような発表があることすら聞かされておらず、「生活科の授業がある」とだけは聞いていました。

 出席番号順に行われた発表では、「縄跳びの連続跳びが出来るようになった」「字がきれいに書けるようになった」「漢字を書けるようになった」など、1年生らしい発表が続きます。見ている親にとってはやはり、「子どもらしい発表」が一番心穏やかに参観できるようです。

 子どもたちの発表の合間にお母さん、お父さんたちの表情を見ると、「縄跳び」を披露している子どもの親の表情は楽しそうです。息子や娘ができても、できなくても、親にとっては「ああ、良かった」と安心できる発表なのではないでしょうか? 縄跳びを発表していた生徒は、クラスの4分の1はいたような気がします。

 子どもたちの発表を見ていて思い出されたのは、1年生になったばかりの1学期の発表です。そのときのテーマは、「自分にとって大切なもの」。「家族」「ぬいぐるみ」「おもちゃ」など誰もが思い付くようなものについて発表した子どもたちの中で、とても印象的だったのは、「お金」と言った女の子の発表です。「お金があれば、好きなものが買える。だから、私にとって一番大切なのはお金です」といった発表だったと記憶しています。それを見ていた母親の頬は赤く染まり、発表の最後には引きつったような表情になってしまいました。

 その子が今回、「自分が一番成長したと思うことは、一輪車が出来るようになったことです」と子どもらしい発表しました。私は思わず、そのお母さんの顔を見ました。そのお母さんの表情はとても嬉しそうで、私は自分の子どものことのように安堵したのでした。

 さて、出席番号23番の息子の番がやってきました。息子が発表したのは、なんと「計算カード」です。36枚の計算カードを1枚1枚めくりながら答えを言い、終了する時間を測るのです。挑戦したのは足し算より少し難しい、引き算でした。

 まずは、発表です。息子は黒板の前に立って言います。
「ぼくがこの1年間で出来るようになったのは、計算です。幼稚園のころは出来なかったけど、お母さんが毎日1時間ぐらい練習すると出来るよ!とアドバイスしてくれたので、頑張ったら早くできるようになりました」

 「1時間」という息子の言葉に、お母さんお父さんの視線が一気に私に集まりました。仰天した私は「そんなこと、ありませんよ」と手を顔の前で大きく振りました。担任の先生もにこにこ笑って、こちらを見ます。

 先生が息子に聞きます。
「目標の時間は?」
「1分以内です」
と息子。

そして、スクリーンに映し出されたストップウオッチのボタンが押されます。

「11ひく2は、9」
「13ひく9は、4」
「16ひく8は、8」
・・・。

 息子は必死に暗算をしていきます。クラスメートがかたずを飲んで息子を見守っています。
そして、最後の1問を終えた息子。先生のストップウオッチのボタンが押されました。
出来映えは、2分4秒。

 目標の時間には及びませんでしたが、クラスメートとお父さんお母さんたちの注目が集まる中、
息子は頑張りました。ちなみに、計算カードを発表していたのは息子だけでした。それにしても、なぜ、息子は縄跳びや一輪車ではなく、計算カードにしたのか、謎です。

 息子の後には、「服をたためるようになった」という男子の発表。「服は脱ぐと裏返しになるけど、それをもう一度表に返してたたみます。そうすると、お母さんがお洗濯をするときに楽だし、汚れも良く取れるのです。僕はお母さんの仕事を楽にしてあげたい」。
なんと、気持ちの優しい子でしょう。その子は、皆の前で、とても素早く、そしてきちんと服をたたんで見せてくれたのでした。

 さて、発表終了後、教室を出ると何人ものお母さんが私のところに寄ってきて、「1時間も勉強しているの?」と聞きます。私は「教育ママ」(懐かしい言葉ですね)だと思われたのでは?と恥ずかしくなり、また、大きく手を振って、「そんなことありませんよ」と顔を引きつらせたのでした。1時間なんて、とんでもありません。15分の勉強ですらいやいやするのですから。

  「大げさなのは父親譲り」と、私は夫の顔を思い浮かべながら、お母さんたちにあれこれと言い訳をし、私は心の中で、「あぁ、縄跳びにしてほしかった」と思ったのでした。

2019年3月24日日曜日

娘の優しさ

 夕ご飯の後、2階にある小さな”仕事場”でパソコン作業をしていると、娘が「ママ~」と言いながら階段を上がってきました。

 「これ、どうぞ」
そう言って、テーブルの上に置いてくれたのはお盆の上に載ったポップコーンと紅茶と小さなメモ。紅茶は数年前に子どもたちが母の日にくれた「Special Mum」というロゴが入ったマグカップに入っていて、ちゃんとコースターの上に載っています。


 メモには「まま、仕事がんばってね」とかわいらしいハートマークをたくさん付けてくれました。娘はこのようなさりげない優しさを示せる子なのです。
 
 息子と娘は一階のダイニングで、パソコンで映画を観ていました。ポップコーンの袋を開けたときに、「ママにも」と思ってくれたのでしょう。心がほんわかと温かくなりました。

 数日後。学校から帰宅した娘に「かりんとう買ってきたよ。おやつに食べてね」(近所のはちみつ屋さんで売っている娘の大好物)と言い、また2階に上がって作業をしていると、「ママ~」と言いながら、階段を上がってきました。

 テーブルに置いてくれたお盆の上には、かりんとうと紅茶とお花と小さなメモ。

「ママ、お花は拾ってきたんだからね。最近、暖かくなってきたから、いろんなお花が落ちているの」

我が家は住宅街にあり、玄関前の道路は地元の小中学校へ向かう通学路です。長くて真っすぐな道路の両側には住宅がひしめき合うように建っており、各家の敷地から出た木々からたくさんの花が道路に落ちるのです。

娘は地元の小学校に通っていたとき、いつも帰宅途中に道に落ちている綺麗な花を手の平いっぱいに載せて帰り、私にプレゼントしてくれました。「他の人のおうちに咲いているお花は摘んでは駄目よ」という言い付けをしっかりと守ってくれて、花びらの一部が茶色になっていて、でも、まだまだ綺麗な花を選んで持ち帰ってくれました。

中2になった今もその言い付けを守り、そして、母親に花を拾ってくれるという優しさを持ち続けてくれる娘。温かい紅茶を入れてくれる娘。私は、ほっこりとした気分に浸りながら、かりんとうをほおばり、紅茶をすすったのでした。

2019年3月18日月曜日

近所の本屋さんに並んだ!

  近所の本屋さんに注文した本を取りに行った10日、ついでに書棚を眺めていると、なんと私の本が並んでいました。それも本棚の真ん中に、表紙をこちらに向けた形で置かれていました。
 

 この本屋さんに、”営業”に行ったのは3日前の7日。私とほぼ同時期に”ひとり出版社(他に社員を雇わず、ひとりで本を作り、出版する出版社)”を立ち上げ、1冊目の本を出版した女性と前日お茶を飲み、お互いに作った本を近所の本屋さんに注文しようと話していたのです。

 そして行った、最寄り駅のビルの2階にある「くまざわ書店」。「ここは勇気を振り絞って、営業をしよう!」と心を決めて、本を並べている女性に聞きました。

「わたし、まりん書房の村上と申します。本の仕入れ担当者の方はいらっしゃいますか?」
生まれて初めての営業。緊張します。
「はい」とにこやかに答えてくれた女性が、後ろの男性に声を掛けました。

その男性は30代くらいでしょうか? ニコリともせずに、私を見ました。私はドキドキしながら、名刺とチラシを差し出し、言いました。

「まりん書房の村上と申します」
「はぁ」
その男性は私の名刺を受け取り、チラリと見て、シャツのポケットに入れました。
「この近所で、出版社を始めました。これが最初の本です。よろしければ、置いていただけませんでしょうか?」
「はぁ、検討してみます」
とだけ言い、その男性は私に名刺をくれることもなく、レジの方に行ってしまいました。

 先日、ひとり出版社の若手経営者4人と「オンライン・ミーティング」(初体験でした。こんなことができるんですね)で話していたとき。
「書店に営業に行っても、歓迎されないこと多いよね」
「店員さんは忙しいからね」
「つれない対応されると、辛いよね」
そんな話を聞いたばかりでしたので、「やっぱり」という気持ちで、私は本を注文しにレジに向かいました。

 その店にはレジは2つあり、その1つの前で男性が立っていました。列に並んで待つと、私の順番が来て、その人のレジになりました。本を注文しようとした私の顔を見上げたその男性は、「あっ、これ名刺です」とぼそっとした声で話し、カウンター越しに私に名刺をくれたのです。

 その人は、私が名刺を差し出したときに、たまたま名刺を持ち合わせていなかったのですね。私が挨拶したときは、「あっ、今、名刺持っていないので、ちょっと待ってください。持ってきますから・・・」などという対応をするでもなく、たまたま、私がカウンターに来たから、名刺を渡してくれたのでしょう。でも、なんかとても嬉しかった。名刺を見ると、店長さんでした。

 さて、3日後の7日午前10時過ぎ。その本屋さんから電話がありました。女性店員からの電話で、注文した本が届いたとのこと。店長さんからの「本を仕入れましたよ」という電話かな、と少し期待しましたが、違いました。

 午後、お店に行きました。そして、書棚を見ると、なんと河野恵子さんの本の横に私の本が。
店長さんはレジに立っていました。私は側に駆け寄り、お礼を言いました。
「ありがとうございます!こんな良い場所に置いてくださって嬉しいです」
「いえいえ」
その店長さんは少し照れたような表情で答えてくれました。

 私はほんわかとした気分で注文した本を買い、その後スマホでパチリと書棚の写真を取り、帰路に着いたのでした。