2019年11月20日水曜日

じいじのおやき

いつもあると思っていたものがなくなっているー。それを知ったときは寂しく、ときに動揺するものです。昨日は、心が沈み込んでしまいました。

息子がサッカー教室の体験をしたいというので、電車を乗り継いで連れて行ったその帰り。「じいじのおやき食べたい?」と息子に聞くと、息子は元気良く「食べた~い!」と答えます。で、7年前に他界した父がよく買ってきてくれた駅ビル内のおやき屋さんに寄ることにしました。

いつものように下りエスカレータに乗り、地下へ。エスカレータ近くのシュークリーム屋さんとクレープ屋さんを通り過ぎると、向こう側の角にあるはずでした。おやき屋さん「御座候」が。ところが、店頭に並んでいたのは丸いおやきではなく、たい焼きでした。私は動揺しました。

父は、62歳のときに脳梗塞を患い右半身が不自由でした。右手は使えず、杖を突いて歩いていました。私が病気で長期入院したときや体調が悪く日常生活がうまく送れないときは、母と一緒に札幌から東京の我が家に来て助けてくれました。

札幌では病院へ行きリハビリを続けていた父は、東京では病院に行けませんのでよく散歩に出掛けていました。歩く機能が衰えないように、努力をしていたのだと思います。普段は近所を散歩していましたが、時折電車に乗って少し遠出をしました。そのときに買ってきてくれたのが、おやきでした。私たちは父が買ってきてくれたおやきを喜んでほおばりました。

父が他界した後、その駅を通るたびにおやき屋さんに寄り、父を偲びました。父の足取りをたどるように駅ビルの入り口を入り、そのすぐ目の前にある下りエスカレータに乗りました。父はどんな気持ちだったのだろう?といつも考えました。体調の悪い私を見て、「役に立ちたくても立てない」ことを残念に思っていたのではないだろうか、と考えました。

東京に来てくれたときは、母が家事と娘の世話を全部引き受けてくれ、父の出番はありませんでした。また、右手が不自由だったので、赤ちゃんだった娘を抱いてあやすこともしませんでした。

母と私がスーパーに行くときに、娘を見ていてくれるよう父に頼んだことがあります。買い物を終えてマンションに着いたとき、火が付いたように泣く娘の泣き声が聞こえました。慌てて自宅に入ると、父は娘を心配そうに見ながら、使える左手で一生懸命にからんからんとガラガラを鳴らしていました。それは父が残したおもしろいエピソードとして家族で話すときはいつも大笑いになりますが、私はきっと父は娘を抱いてあやしたかったのだろうな、でも、抱いて娘を床に落としてしまうことを心配したのだろうな、と考えています。

父は自分の体が不自由になってしまったことを嘆いたことは一度もありませんでしたが、辛かっただろうな、と。体調が良くない私に迷惑を掛けないよう、ひっそりとあの世に旅立ってしまったな、と。

そんな父の思い出が詰まった、おやき屋さんがなくなってしまいました。代わりに買ったたい焼きを、息子と二人で駅ビルのベンチ座って食べました。


「おいしいね、ママ。でも、じいじのおやきのほうがおいしいよね」
父は息子が1歳のときに亡くなりましたので、息子には父の思い出はありませんが、そこを通るたびに買ってあげていた”じいじのおやき”の味は、覚えているのでしょう。
「そうだね。じいじのおやきのほうが皮が薄くて、あんが一杯入っていておいしかったよね」
私はそう答えて、たい焼きをほおばりました。

食べ終わってから、お土産に娘と母にもたい焼きを買いました。この夏、札幌から東京に引っ越ししてきた母に、このことを伝えなければならないなと思いました。ほかほかのたい焼きが入った袋を息子に持たせて、駅ビルを出ました。

ドアを出るとき、もう、この駅ビルに寄ることはないだろうなと思いました。エスカレータを降りて、左に進むとあった父のおやき屋さんの思い出が薄れてしまわないように、心にとどめておきたいと思ったからです。

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