2019年9月9日月曜日

母の引っ越し ③

 「首が痛い!!!」と電話越しに訴える母の元に駆け付けるため、取る物もとりあえず飛行機に乗った私が実家の玄関に着いたのは8月12日午前0時半、東京の家を出て5時半後でした。慌てていましたので鍵を忘れました。玄関のベルを鳴らすと、「はーい」という母の声。電話で聞いたときより、ずっと元気です。母が玄関のドアを開けました。

「ただいま。ごめんね、遅くなって」
「無事着いて良かった。駅から時間がかかっていたから、心配していたよ」
「首の調子はどう?」
「あんたと話していたときより、大分良くなった」

  パジャマ姿の母は首を押さえながら、ゆっくりとですが、歩いていました。母の姿を見てひと安心です。夕方、電話で母と話していたときのあのざわざわとした気持ち。父のときのことを思い出し、もし翌朝、母が電話に出なかったからと想像したときの不安…。それらが、母の姿を見てすべて解消されました。

 母も私が来たことで安心したらしく、少し話をした後、「もう、遅いから寝よう」と父の仏壇がある和室に行きました。私も一緒に母の布団が敷いてあるその和室に行き、父の遺影を見て心の中で父に話し掛け、仏壇に手を合わせました。そして、2階に行き布団を敷いて眠りについたのでした。

 さて、翌朝、1階に下りてみると母がキッチンに立っていました。その姿を見て、私は思わず言いました。
「お母さん、朝ごはん作れるほど元気なの?」
「薬を飲まなきゃいけないから、何か食べなきゃいけないんだよ。食べないで薬を飲むと胃をやられるからね」
「・・・」

 ここで、私は顔には出しませんでしたが、心の中で不機嫌になりました。本当に体調が悪ければ、薬を飲むことなんて忘れます。覚えていたとしても、「胃がやられるからご飯を食べてから飲もう」なんて、考える余裕はないはず。朝ごはんを作れるほど大丈夫な母があと1日待ってくれれば、私は今日の夕方の便で子供たちと一緒に来るはずだったのです。でも、もう死にそう!というような母の訴えを聞いて、駆け付けたのです。3人分の新千歳空港行きの飛行機のチケットはキャンセル。当然、帰りの子どもたちの分のチケットもキャンセルです。夫は1週間、会社を休んで子どもたちの世話をしなければなりません。

 母の状態はかなり悪いと判断し、夏休みに読むべき本も持ってきませんでした。パソコンも置いてきました。昨年、北海道で大きな地震があったときに実家に駆け付けたとき、パソコンを持っていった私を母は「あんな大きな地震でも一人で頑張った母親を見舞うときに、パソコンを持ってくるなんて!!!」と体を震わせて、涙をぼろぼろ流して怒りましたので、今回は母の機嫌を損ねないように、持ってきませんでした。

 遠方に住む母親を支えるためにかなり無理をして出来ることはしているのに、どうして・・・?という気持ちがわいてきましたが、母は81歳。多難な人生を気丈な性格で乗り切ってきて、周囲に「気配りの人」と慕われていた母は80歳を越えた今、自らコントロールできない痛みに襲われ、すべてをさらけ出せる唯一の人間、一人娘の私にわがままを言いたかったのでしょう。わがままを言って聞き入れてくれるか、試したかったのかもしれません。それとも、その1日が待てないほど痛かったのでしょうか?

 母は、私が30代後半から40代前半にかけて、抗がん剤治療や放射線治療、心臓の手術で入院したとき、自己免疫疾患発病での緊急入院時はいつでも、体の不自由な父を連れて、東京に駆け付けてくれました(詳しくは闘病記「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」に。図書館でも借りられます)。だから、今が私が母にお返しをする番なのでしょう。母が何をおいても私のために駆け付けてくれたように、私も何をおいても母を支えなければ。

 私は、引っ越しの荷物を出し、母と一緒に実家を出る18日朝まで、一世一代の「母の引っ越し」に付き合うことにしました。

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