2024年6月27日木曜日

がんのママ友と

  今日は週1回の平日のお休みの日。久しぶりにがんのママ友2人とお昼ご飯を食べました。一人のママさんは胃全摘という大変な手術の後、少しずつ体調を回復され、なんと現在妊娠10ヶ月。あと少しで赤ちゃんが生まれるのです。

 そのママさんは30代で胃がんを発病し、現在は40歳。娘さんが一人おり、「娘のために長生きしたい」と常々言っていましたが、赤ちゃんがおなかに宿ったのです。神様はいるのですね。

 もう一人のママさんは乳がんを患い、お子さんを小児がんで亡くされています。でも、こうして、がんのママたちとも積極的に交流しています。笑顔が素敵なママさんです。

 いろいろあるけれど、元気に生きよう!が合言葉。美味しいランチの後は、妊娠中のママさんのお腹に触らせてもらい、幸せを分けてもらいました。生まれてくる赤ちゃんに会いに行くのが楽しみです。

 

がんのママ友と食べたランチ

君は自信がないんだね

  昨日、2年ぶりにかつての記者仲間と食事をしました。彼は大手新聞社の編集長をしています。若き日の私をよく知っている人です。

 最初の話題は子育ての話。彼には2人の娘さんがおり、一人は大学院生、もう一人は大学生です。一筋縄ではいかなかった子育てについて、笑いを交えながら話してくれました。

 何かが引き金となり、引きこもってしまう子ども。私の周りでも、同様の悩みを持つ・持っていたママ友は少なくありません。どの親も一生懸命子育てをしていますが、解決策を見つけるのはとても難しい。私の場合、今のところそのような悩みはありませんが、日本の中でのハーフの子の子育てという別の難しさがあります。彼の話を聞きながら、どこの家庭でも、子育ては本当に紆余曲折があるなぁと思いました。

 さて、話題は移り、私の大学院生活についての話になりました。私の話にじっくりと耳を傾けた彼は、私にこう言いました。

「君は、自分に自信がないんだね。だから、学位を取りに行くんだと思う。君は取材して記事を書く人であって、研究者ではないと思うよ。君が書くべきなのは、一般の人々に届ける文章であって、専門家の中で評価を受けるための論文ではないと思う」

「うん、自信なんて持ったことがない。いつも、自信がないの」

「そうだと思ったよ。昔から君はそうだった。もっと、自信を持てばいいのに。自分に」

「そうだよね。私、間違った方向に行っているかなぁ。もう還暦なのに、笑っちゃうよね」

「間違っているかどうかということではないよ。君には、そこに行く理由があるはずだから。でも、書き続けたほうがいい。そのほうが君に合っているよ。研究よりはずっと」

 大学院で、私はいつも疎外感を抱きながら研究に取り組んでいます。そんな中、昔の私を知る彼の叱咤激励は、心に響きました。先日、札幌で参加した元の会社の同期会で感じた、居心地の良さと同じ気持ちです。仲間として受け入れられている、尊重されているという安心感なのだと思います。会社を離れて20年も経つのに、久しぶりに会っても、こういう気持ちになれるなんて、有難い。

 私も、私と一緒にいることで友だちの心が穏やかになったり、気持ちが晴れたり、受け入れられていると感じてくれる、そんな人間になりたいなと思った日でした。

 

 

 

 

2024年6月21日金曜日

雲になりたい

 娘と二階のデッキでご飯を食べていたとき、空がとても綺麗だったので、二人で空を見上げました。娘がつぶやきました。

「私、死んだら雲になりたい。

 ゆっくり、のんびりと動いていて、形にとらわれなくて、誰の手にも届かなくて。

 世界を旅できるし、綺麗な街並みや人の動きを上から眺められて楽しいし。

 私の魂は、雲のあるところにいるべきだと思うの」

 娘が小さいころ、寝かし付けるときに、よく雲の上に行くお話をしました。私が車になって、娘の小さな体を抱いて、「ぶーん、ぶーん」と空に向かって運転するのです。雲の上につくと、ふわふわな地面の上に小さなおうちがあります。表札は「アンディ」。娘の双子の弟です。

「 覚えている?」

「もちろん、覚えているよ。真っ赤な車だったよね」と娘。

 娘はすくすくと育ち、海外の大学で学ぶほどに成長しました。娘の双子の弟は、今も小さな骨壺の中に入って、私のベッドの横にいます。魂は、娘が思い描くように、雲の上をのんびりとしながら、私たちを見守ってくれているのでしょうか。

2024年6月20日木曜日

娘の優しさ

  カナダの大学で学ぶ、娘の親友レイちゃんが2泊3日で我が家に遊びに来ました。レイちゃんと会うことを何よりも楽しみにしていた娘。高校時代と変わらず、おしゃべりに花を咲かせる二人を見て、私も胸を撫でおろしました。

 実は娘は、レイちゃんと連絡が取れず心配な時を過ごしていました。ラインが既読にならないーと娘から相談を受けたのは、5月。1カ月以上も既読にならないというのです。娘は既読にならないラインのチャットのスペースに、連日、文章を書き続けていました。

「ラインを見ない理由があるんだよ。しつこいと思われるから、書くのを少しやめてみたらどう?」

 私は、レイちゃんがカナダの友人たちと親しくなって、娘のことを忘れがちになっているのではと心配しました。

「でも、既読にならないのはおかしい。何かあったんじゃないか、と思うの。それに、私は返事ちょうだいとか、何で読んでくれないの、とかは書いていないよ。日々こんなことがあったんだよという報告なの」

「分かるけど、ラインが沢山溜まるって、レイちゃんには負担かもよ」

「ママ、レイのママに連絡してくれる?」

 私は、娘が傷つくのではと心配しました。親として出来ることは、しつこくラインにメッセージを書くことでさらに嫌われるという状況を避けさせるということだけでした。そして、大学生の親が友人関係に口出しするのは、あまり良くないとは分かっていましたが、安否確認ならしても良いと考え、レイちゃんのママにラインをしました。娘がレイちゃんと連絡が取れないので、何かあったのではと心配している、と。

 早速、レイちゃんのママから返信が来ました。

「ごめんなさい。レイはちょっと精神的に落ち込んでいて、人と連絡を取っていないの。これから、連絡してみるね」

 そうしたら、翌日にレイちゃんから娘に連絡があったのです。娘によると、レイちゃんは友人関係のトラブルに巻き込まれ、憔悴しきっていたとのこと。誰とも連絡を取りたくなく、籠っていたというのです。娘はレイちゃんの話を聞き、私にこう言いました。

「レイが一番大変なときに、側にいられなくて申し訳なかったと思う。レイの側にいたら、話を聞いたり、慰めたりできたのに」

 レイちゃんが1カ月以上も娘とのラインを見なかったことを残念に思うことも文句を言うこともなく、ただただ、レイちゃんのことを心配した娘。私は娘の優しさに胸を打たれました。親バカかもしれませんが、レイちゃんは娘のような愛情の深い、優しい子とお友達で幸せだなぁと思いました。もちろん、レイちゃんもとても良い子ですので、レイちゃんというお友達がいて娘は幸せだといつも思っていて、私も夫もレイちゃんを大事にしていますが、同じぐらい、レイちゃんは娘という友達がいて幸せだと思うのです。

 夫ともいつも、私たちは娘のような良い子の親になれて幸せだねーと言い合っています。娘はとても愛情の深い、優しい子です。将来、娘のこの愛情の深さを愛おしく思って大事にしてくれる人に出会えますようにと願わずにはいられません。

レイちゃんがいると食卓も賑やかになります


2024年6月15日土曜日

娘とご飯

 娘が帰国して、家の中が明るくなりました。やっぱり娘がいる暮らしはいいなぁと思います。一番楽しみなのは一緒にご飯を食べること。今週の平日は1日だけ在宅で作業をして、娘と一緒に朝と昼ご飯を階の小さなデッキで、食べました。おしゃべりが弾みました。

 

朝が気持ち良い、2階のデッキ

昼は娘のリクエストでお蕎麦


2024年6月9日日曜日

娘が帰ってきた

  昨夜、娘がオーストラリアから帰ってきました。9時過ぎに娘がゲートから出てきて、夫、息子、そして私の順にギュッとハグ。息子はそれは嬉しそうで、ニコニコ顔の娘にしがみつきます。「背高くなったねぇ」(確かに娘がいない間に、息子の身長は伸びました)と言いつつ、「でも、まだおんぶ出来るよ」と身長165㌢の息子をおんぶします。

 身長193㌢の夫と並んで歩く娘の後姿を改めて見ました。あまり夫と差はなく、もしかしたら、183㌢からさらに伸びているかもしれません。オーストラリアで伸び伸びと過ごしているからでしょうか。いずれにせよ、元気で戻ってくれてひと安心。

 帰国してまず、娘が食べたがったのは「うどん」でした。自宅に戻り、うどんを準備しました。ダディが作った「つくね」を添えて、遅めの夕食です。「うどん、食べたかったんだぁ。あぁ、美味しい!」と娘。娘がいると家の中はぐんと華やぎます。そして、夕食の後は20分ほどヴァイオリンを弾いてくれました。

 夜は娘のリクエストで、ダブルベッドに娘と息子、私の3人で寝ました。3人で最後に一緒に寝たのは、娘がオーストラリアに旅立つ前の、半年前です。娘は背が高いので、ハグするときは私に覆いかぶさるようになるのですが、ベッドでは、いつも私の枕より下のほうに自分の枕を置きます。そこに頭を載せると、そのときだけ、娘は私より小さくなります。私を少し見上げる娘の顔や髪をなでながら、19歳といえども、まだ子どもなんだなぁ。娘もいつまでも小さな子どもでいたいんだなぁと思いました。

 娘の絵の才能と将来を考え、私と夫が勧めて、娘は海外の大学に行っています。でも、娘はいつも家族を恋しがります。「ママとハグしたーい!」と何度言われたでしょうか。そのたびに切なくなるのですが、娘はこれから長い人生があります。やはり、しっかりとした教育を受けることで、娘の人生の見通しが明るくなると私たちは考えているのです。

 娘は冬休み(オーストラリアは季節が反対)が終わる7月末までこちらにいます。この1カ月半の娘との時間を大切にしたいです。

 

我が家の紫陽花が満開




 

2024年6月8日土曜日

かけはぎ

 先日、洋服ダンスの中に仕舞っていた父の形見のセーターに1センチほどの穴を見つけました。父が着ていたものを持ち帰りましたので、クリーニングには出さずにいました。ですので、食べ物のシミなどから、虫に食べられたのかもしれません。

 大切な思い出なので、「かけはぎ」をしてもらうことにしました。近所のお直しの店に持っていくと、お見積りは約8千円。私は以前、ジャケットをかけはぎに出したことがあり、値段に見合う仕上がりに感動したので、今回も迷わず出すことにしました。

 一昨日、取りに行きました。どこに穴が開いていたのか分からないほど、綺麗に仕上がっていました。職人さんの仕事は本当に素晴らしいと改めて感動しました。


  虫に食べられないように、ジッパーのついたプラスチック製の袋に防虫剤を入れて仕舞いました。来年の春は父の13回忌です。これまで仕舞っていましたが、この冬から着ようかなと思っています。

 

2024年6月6日木曜日

娘@メルボルンからの報告 ママに似てきた

「ママ、今朝、私、何作ったと思う?」。

 娘から弾んだ声でフェイスタイムの連絡がありました。朝早く起きて、料理をしたというのです。

「ほら、卵10個余っているから、どうしよう?と話していたでしょ。で、今朝、早起きしたから、この卵使って、何か作ろうかなと考えて……」

「そうだよね、ゆで卵は好きじゃないし、カツ丼の上にかけるのも、カツを揚げるという手間がいるしって話していたよね」

「それでね、ママがよく作ってくれたキッシュを作ろうと思い付いたの。冷蔵庫の中に残っていた、リコッタチーズとベーコンとジャガイモを全部入れたの。そしてね、なんと、トルティーヤが2枚余っていることを思い出して、下に敷いたの。オーブンで焼いたら、めちゃくちゃ美味しそうなの」

 娘は今週の土曜日に冬休み(オーストラリアは日本と季節が逆なので今は冬)で帰国するので、冷蔵庫の中の食材を食べ切るようにしていたのです。

 見せてくれたキッシュは本当に美味しそうでした。



「私、ママに似てきたよ。冷蔵庫の残り物を使って、ご馳走作るの」

「あらっ、褒めてもらって嬉しい」

 娘はキッシュを一切れ切り分け、皿に盛り付けました。カフェオレと一緒にお洒落な朝ごはんです。ひと口食べると「ママ、めっちゃ美味しいよ!」とニコニコ顔です。こうして、一人暮らしでも料理をして、きちんと食事をする娘。本当に良く育ってくれたなぁと嬉しく思っています。



2024年5月29日水曜日

息子の中学弁当 19~26日目

  まとめて報告します。息子の中学弁当19日~26日目(5月17日~28日)。

◆主食 

パスタ3回、焼きそば1回、鶏そぼろご飯1回、巻き寿司1回、おにぎり1回、ご飯1回。意識していませんでしたが、意外にもバラエティーに富んでいました。巻き寿司はカニを入れて、大好評。

◆主菜

鶏肉(竜田揚げ、から揚げ、蒸しチキン、照り焼き、レンコンはさみ揚げ)

豚肉(焼売、ローストポーク)

ローストポークは夫が前日作ってくれた料理。

◆副菜

じゃがいも料理3回、豆腐のさつま揚げ2回、卵焼き1回、コーン炒め、チーズ巻き1回

卵焼きが意外にも1回だけ。チーズ巻きが好評でした。

◆野菜

枝豆6回、ブロッコリー5回、ビーンズディップとキュウリ2回、ホウレンソウのバター炒め1回。食べられる野菜が少ないので、レパートリーが少ない。トマト嫌いなのが残念。

以上、老舗の豆腐屋さんのさつま揚げ以外は全部手作り、冷凍食品は枝豆のみ。

息子の中学弁当19日目(5月17日)。鶏そぼろご飯、豆腐のさつま揚げ
20日目(5月20日)。バジルパスタと焼売、コーン炒め。お腹が空くというのでおやつつき。右は私の。

21日目(5月21日)タラコパスタ、鶏肉の竜田揚げ、卵焼き。左は夫、右は私の

22日目(5月22日)。鮭おにぎり、蒸しチキン、チーズ巻き、豆腐のさつま揚げ。左は夫、右は私の

23日目(5月23日)。バジルパスタ、鶏の唐揚げ、ポテト

24日目(5月24日)。カニ巻き寿司、ローストポーク、マッシュポテト。夫と私の分も


25日目(5月27日)。チキンの照り焼き、ポテト

26日目(5月28日)。焼きそば、レンコンのはさみ揚げ。左は夫の分

2024年5月28日火曜日

同期会②

  5月は同期入社の元同僚たちと会う機会に恵まれました。まず5月中旬に会ったのは、新聞社時代の女性同期。そして2人目は新聞社の前に務めていた会社の女性同期。そして昨日報告した同期会参加の男性9人です。

 新聞社時代の女性同期も私と同様、20年以上前に退職しましたが、退職後も連絡を取り合っています。今月中旬、「仕事がひと段落しました」というラインが来て、「お茶しよう!」ということになり、お互いの家の中間地点で会いました。彼女は私の家の最寄り駅から電車で4駅という比較的近くに住んでいて、時折、ご飯を食べたりお茶を飲んだりします。

「お久しぶり!」

「最後に会ったのいつでしたっけ?」

「浅草のほうのお蕎麦屋さんに行ったとき?」

「あれ、もう2年ぐらい前じゃなかったです? 月日が経つのはあっという間ですね」

「本当だね、でも、久しぶりに会えて良かった」

 お店選びがとても上手な彼女が選んでくれたのは、隠れ家のような、台湾茶カフェ。優雅な雰囲気のお店で、素敵な茶器で、お作法も教えていただきながら、美味しくいただきました。お茶とケーキだけで2時間超。それでも話し足りなく、「今度はランチしよう」と言いながら、別れました。

 帰宅後、スマートフォンで彼女とのラインを確認したら、なんと昨年10月に会っていたことが判明。たった半年前です。半年前に会ったことを2人とも忘れるって、やっぱりあるのですねぇ。

 札幌で会ったのは、新聞社の前の会社の同期です。一緒に行ったアメリカ西海岸での話で盛り上がりました。

「サンディエゴでローラースケート滑ったよね」

「うんうん、あのときに食べたフィッシュサンドウイッチが顔ぐらい大きくて」

「そうそう」

「ロサンゼルスのディズニーランドにも行ったよね」

「えっ、それユニバーサルスタジオだったよ」

「そうだっけ? スペースマウンテン乗ったの覚えていない?」

「えっ?全く覚えていない」

「ほらっ、私たちの前に並んでいた男性2人が目の覚めるような美男子でさ。スペースマウンテンの暗がりに入ったらいきなりキスし始めて、あまりに美し過ぎる男性は女性では満足しないんだね、なんて妙に納得したじゃない」

「覚えていないなぁ。でもさ、ユニバーサルスタジオの映画セットの街並みを見て歩いたよ。ユニバーサルスタジオだと思うよ」

「うーん、私、それ覚えていない」

 という具合に、長い年月の中で、記憶はデフォルメされたのか、失われたのか分かりませんが、でも、懐かしさだけは一杯で、こんな風に噛み合わない会話も楽しい。

 そして、男子4人女子2人の札幌支店の同期6人で、トマムにテニスをしに行ったことを思い出しました。当時はテニスにスキーにと同僚たちと楽しく遊んだものです。バブルの時代でした。

 女子2人は男子の車に分かれて乗りました。

「私はOさんの車に乗ったんだけど、エアコンついていなくて、メチャクチャ暑かった」

「私はYさんの車だった。Kさんの車が前に走っていて、Kさんすごいスピード出していて、Yさんが嬉しそうに追いかけていたのを思い出すよ」

「Kさん、コロナであっけなく死んじゃって…」

 当時、札幌支店には5,60人の社員がいたと思います。そのとき20代だった人たちのうち3人は亡くなっています。2人はがんで、1人はコロナで。

「何か、亡くなる人の割合高いよね」

「…うん」

 彼女も私も今は元気ですが、2人ともがんの治療をしています。女性の先輩2人はがんで亡くなりましたが、私たちは生きています。

「せっかく健康になったんだから、体を大切にして、しっかり生きようね」と、亡くなった同期と2人の先輩を悼み、しんみりとしながら、お互いの幸運に感謝したのでした。そして、「今度は東京で会おう!」と元気に別れたのでした。

 

 


 

 

2024年5月27日月曜日

同期会

  先週末、札幌に帰省したのは同期会に参加するためでした。同期の一人が定年退職で関連会社に行くことが決まったため、その送別会でした。

 私は既卒者を多く採用した1992年秋入社で、記者の年齢幅は広く、5年ほど前からぽつぽつと定年退職者が同期から出るようになってきていました。今回は私より3歳年上の記者でした。

 とても優秀な社会部記者でした。取材は深く、そして、文章がとにかくうまい。歯切れのよい短文で、胸の奥深く染み入る文章を書く記者でした。「一番、印象に残った取材は何ですか?」と聞いてみました。たぶん、あの記事だろうなと予想をしていました。その通り、彼は、ある元死刑囚の散骨に立ち会ったときの取材の話をしてくれました。

 元死刑囚の故郷・網走の海での、元妻による散骨。漁船に乗った記者は、彼と同僚記者だけだったそうです。彼だから取材が出来たのだと思います。それほどまで、元妻に信頼を得ていたのだと思います。

 私は彼と厚生労働記者クラブで席を並べ、医療・社会保障・労働問題の取材・執筆をしていました。私が退社の相談をしたのも彼です。「制度を組み合わせれば、通常より長く休めるはずだ」と引き留めてもらいましたが、がん治療後の39歳での初めての妊娠で、しかも双子だったことから私の決意も固く、退社に至りました。

 その後、一人を死産しましたので、「あのとき会社にとどまっていたら、念のための早めの入院をし、息子を救えたかもしれない」とどれだけ後悔したか分かりません。彼はそんな思い出のある同期なのです。

 彼への私からの送る言葉は「書き続けてください」でした。きっと彼なら、書き続けるだろうと信じています。

 

2024年5月26日日曜日

札幌へ

  新聞社時代の同期会に参加するため、札幌に来ました。同期会の前に札幌の街をぶらぶら歩きました。

 まずは大通り公園周辺を散歩。ここは夏にビアガーデンが設置され、冬は雪まつりの雪像が並ぶ場所です。仲間とビールを飲んだり、市民雪像づくりをしたことなどを懐かしく思い出しました。また、夏のビアガーデンや雪まつりには子どもたちも連れてきましたので、子供たちが小さかったころを思い出し、キュンと胸が切なくなりました。

大通り公園

北海道新聞社ビル

 
時計台

 そして古巣の新聞社へ。この会社では良い先輩や同僚に恵まれました。私はこの会社に育ててもらったと言っても過言ではありません。本社が移転するというので、見納めになるかもしれないと思い、写真をパチリ。会社をバッグに自撮り写真もパチリ。

 ついでに、本社ビルの斜め前にある時計台にも行きました。ここの近くの喫茶店でコーヒーを飲んだなぁとか、隣のビルの地下にあるラーメン店は美味しかったよなぁ、など当時の思い出が蘇りました。

 北海道庁周辺は札幌駅同様、私が東京に来た後にずいぶん変わりました。札幌の街はずいぶんスタイリッシュになりました。

 私の母はむかわ町という田舎の町出身。今は天国にいる伯母と「札幌にお嫁に行きたいね」と願っていたそうです。そして母の願いは叶い、八十歳過ぎに娘のいる東京に引っ越すまで、ずっと札幌に暮らしていました。母はこの街が大好きでした。私も札幌出身ということが大の自慢です。


大通り公園。奥は札幌タワー

2024年5月20日月曜日

アサガオを植える 2024年も

  GWの後半を過ごした軽井沢の家を、6日月曜日の朝に出ました。前日から掃除・洗濯などを済ませ、東京で洗濯する寝具類をバッグに詰め込み、「軽井沢ハウス、楽しかったよ!またね!」と出発。碓井軽井沢インターチェンジから高速道路に乗り、途中、パーキングエリアに止まり、モールで販売している新鮮な野菜を購入しました。30分の寄り道時間を入れても、2時間半。渋滞に巻き込まれず、スムーズな帰路でした。

 帰宅後は昼ご飯にお蕎麦を食べ、息子と一緒にアサガオの種をまきました。息子が小学校1年生のときに学校で育て、家に持ち帰った種を翌年花壇にまき、秋に種を採りました。それから毎年、春に前年秋に採った種をまき、夏は花を楽しみ、秋はツルでリースを作り、秋にまた種を採るサイクルを毎年繰り返しています。これも私と息子の大切な時間。

アサガオの種をまく息子
この日のランチは蕎麦。カボチャとサツマイモの天ぷらも添えて

 我が家の小さな花壇が、毎年夏はアサガオの花で華やぎます。その年によって、ピンク色だけのときもあれば、青いアサガオが咲くこともあります。今年はどちらかな?と楽しみにしています。

2024年5月19日日曜日

虫干し

  私は家のリフォームが大好き。東京の家は13年前、築10年の中古住宅を購入し、部屋の間取りや水回りも含め全面リフォームして住み始めました。その後、駐車場と花壇、庭とデッキ、屋根裏部屋を改造した息子の部屋と収納室作りとあちこちリフォームし、昨年はキッチンと玄関、窓、二階のデッキ、外壁、塀と大型リフォームをしました。東京の家はこれで大体仕上がったと思います。

 で、今度は軽井沢の家のリフォームです。この平屋は東京の家を購入する3年前、築20年の物件を購入しました。東京の家は賃貸で、軽井沢に週末用の家という「2拠点生活」を始めました。私の体調が悪く、空気の綺麗な所で過ごしたら良くなるかもしれないという願いからでした。

 前の持ち主がとても綺麗に住んでいらしたので、そのまま住むことが出来ました。が、水回りが古くなってきたので2年前に洗面台のある場所とトイレをリフォーム。この夏から屋根裏部屋を全面リフォームする予定です。

 娘や息子の友達が遊びに来てくれることもありますので、彼らが泊まるところがあれば良いな、将来孫が出来たら遊べる「ファンタジールーム」があれば良いな、と思いました。そして、収納エリアを広く取り、詰め込んできたものをすっきりと収められれば良いなと思ったのです。

 で、リフォーム計画を立てるにあたり、どんな間取りで出来るのかを決めるため、これまで屋根裏に置いていたとてつもない量の物を昨年11月に下の部屋に下ろしてきました。その量のすごいこと、すごいこと。8畳の部屋がほぼ、埋まりました。

 このブログで何度も書いていますが、私は筋金入りの捨てられない人間。特に子どもたちのおもちゃや服などはほとんど捨てずにとってあります。それをこのGWに少し取り出してみてみました。残念なことに、何枚かにはシミが浮き出ていました。全ての服は洗ってきちんとプラスチック製のケースに入れたり、紙製の箱に入れていましたが、この紙製の箱の中に入れていた服が駄目だったようです。

 染み抜きをして洗い直しましたが、取れないものは泣く泣く手離すことに。特に息子の赤ちゃんのときの肌着は思い出もひとしおですので、捨てるときはもちろん抱き締めて、ありがとうと感謝の言葉をかけ、綺麗な袋(ミキハウスやファミリアなど子供服ブランドの紙袋)に入れて、さらに町指定のゴミ袋に入れて、捨てました。私は捨てられない人間ですので、捨てるときはこのような”儀式”を必ずします。

洗い直して干した娘の服。身長183㌢の娘もこんな可愛い服を着ていました
息子が赤ちゃんのときの肌着

 娘が着たドレスは一点一点洗う「デラックスクリーニング」に出していますので、保存状態も良好。それを今回、虫干ししました。もし、娘か息子が結婚して孫が出来て、着てくれたらなぁと想像するだけでワクワクしました。もし、それが実現しなくても、子どもたちが小さなころに来た洋服や遊んだおもちゃを触ったり眺めたりしていると、私自身がとても幸せな気分になるので、それだけで取っておく価値はあると思っています。

娘のドレスは虫干し

 娘や息子の工作や絵も全部取ってあります。今回、息子のランドセルもここに加わりました。

 世の中では捨てることが随分推奨されていて、「過去を手離して、今の自分を生きましょう」などというアドバイスに多くの方が賛同しているようですが、私にとっては過去の物に触れながら、当時を懐かしく思い出したりするのはとても幸せな時間。だから、捨てません。屋根裏部屋が出来たら、また、これらをきちんと収納する予定。 

 私がこの世を去って、子どもたちが要らないと判断すれば、一気に処分してもらってもいいと思います。そのための貯金は残しておきます。子どもたちには「ママはこんなものまで取っておいたんだ」と笑うかもしれませんが。

 先日、朝日新聞にタレントの松本明子さんが実家の維持に25年間で1885万円かけた話が載っていました(5月12日朝刊)。大変な思いをしながら維持・そして最終的には手離されたことが書いてありましたが、ご自身の子ども時代のピアノの譜面や習字も全部親が残していたという話では、愛情を込めてこのように書いていました。「『本当に自分は大事にしてもらっていた』と思えた。親とまた再会できたような気がして。家族の思い出の品と巡り合えて、大事な時間だった」と。松本さんには親の思いが伝わったのだな、と受け止めました。

 逆に私の母は私の物のほとんどを捨てた人。私の物に限らず、家の中の不要な物はほとんど処分していました。ですので、松本さんとは真逆で、実家を手離すのは本当に楽でした。でも、私は自分自身が子どもたちの物を捨てられず、捨てるときには身を引きちぎられる思いをしながら捨てるので、母が私の物を捨てたときのことを想像し、胸を痛めてきました。

 母は私が着た服、私が使ったおもちゃ、私が読んだ本を「物」として処分したのだろうな。私の使っていたベッドや本棚を捨て、私の部屋を解体して広々とした部屋を作ったときは、きっと清々しい思いをしたのだろうな。母は私がつたない字で自分の名前を記したノートも、何の感情も持たずに捨てたのだろうな、と。

 でも、母は今も私を頼らず、迷惑をかけず、自立をして、しっかり生きています。お父様に「実家を頼む」と言われて、維持し続けた松本さんのような負担は私には全くありません。ですので、どちらが良いとも言えず、言うべきでもなく、子どもが自分のやり方で物や自分の気持ちと折り合いを付けながら、取り組むべきものなのでしょう。

 さて、軽井沢の屋根裏に押し込んでいた物です。子どもたちの物だけでなく、私のものも出てきました。新聞記者時代に書いた記事のスクラップブックや熱中していた歌舞伎の筋書です。スクラップブックを開くと取材した当時を思い出しましたし、筋書をペラペラとめくると、5代目中村勘九郎(18代目中村勘三郎)の演技など舞台のメモ書きもあったりして、これらもやっぱり捨てられない。ですので、虫干し。

 自民党と民主党が政権交代したときの全国紙も出てきたりして、当時の私にとっては重大ニュースだったのだなぁと苦笑しました。これはさすがに捨てようと思いましたが、まぁ、今まで取っておいたのだから、私の捨てられない物の中に取り合えずは入れておこうと紙袋に入れ直しました。子どもたちがこれを見たら、「ママ、こんなものまで取っておくの?この写真の人は誰? 何で同じニュースが書いてある新聞が5紙も? 意味不明」とゴミ袋に直行ですね。

自分が書いた記事のスクラップブックやよく通った歌舞伎の筋書も虫干し
自民党と民主党の政権交代のときの新聞。朝日、日経、読売、毎日、産経新聞


2024年5月18日土曜日

子供らしさ取り戻す

   一昨日は、遂に先輩研究者に言い返した話を書きましたが、GWの話に戻りたいと思います。中学受験を経て、子どもらしさも、自信もなくしてしまった息子は軽井沢の家で少し、息子らしさを取り戻してくれました。

 GWの前半は夫と二人でバスケットボールをしたり、家の周りにある木で、斧づくりをしたそうです。私も加わったGW後半は、その斧を銀色に塗り仕上げました。

息子が夫と一緒に作った斧

 子どもの日は軽井沢町にある「タリアセン」というレジャー施設に行きました。毎年、娘も一緒にお祝いしていましたので、娘がいなくて残念でしたが、息子は一人っ子になった気分で楽しんだようです。3人でボートを漕いだり、森の中を走るサイクルモノレールに乗ったり、ゴーカートを運転したり。

 私たちが大好きな地元のケーキ屋さんのケーキも、息子は喜んで食べてくれました。息子が子どもらしくいられる時間をもっと作ろうと思った一日でした。

 

軽井沢「タリアセン」のボート



子どもの日のケーキ

2024年5月16日木曜日

遂に爆発

  昨日、もう耐え切れず、一緒に研究する先輩研究員に言い返しました。人を馬鹿にするにもほどあるーと。私のほうがずっと年上だし、かつ、研究者としてはまだまだだし、あちらは博士号を持ち、大きな研究を引っ張る研究員だし、と腰を低く、謙虚に対応していましたが、もういいやと思ったのです。

 彼女、私に何を言ったと思います? こちらはズームミーティングに備えて資料を作り、かなり準備をしていたのです。ただ、欠けている点があり注意を受けたのです。その時の言葉。

「こんなことも分からないんですか?」ですよ。彼女は40代。15歳以上も年上の人間に、こんなこと言えます? 年上じゃなくても、普通は言えないでしょう。私、この言葉でもう、いいやと思いました。で、大声で言い返しました。

「こんなことも分からないんですか? だから、あんたはバカなんだ、そう言いたいんですか?●●さん、あなたが言いたいことはそういうことですか?」と。そして、繰り返しました。もう一度、大声で。

「こんなことも分からないんですか? だから、あんたはバカなんだ、そう言いたいんですか?」と。

 彼女は「違います」とは言いましたが、もう、言い合いです。あちらも負けていません。何たって頭いいですから。私のいる研究所の研究員は博士号がベースライン。そんな中ですので、バカにされるのですよ。私のようなオバサン(おばあちゃんに近い)院生は。

 でも、還暦女子だって、食らい付いているんです。エクセルもパワポも、すらすら使えます。統計ソフトも使います。医療統計のプログラミングだって、悪戦苦闘しながらやりますよ。データの分析もしています。英語の文献も毎日、毎日読んでます。それでも、言われるんですよ、ずっと年下の研究員に。「そんなことも分からないんですか?」と。

 もう、「てやんでぇ」ですよ。で、娘に電話をして報告しました。娘には「さすが、ママ!」と褒めてもらいました。でも、「てやんでぇって何?」と聞き返されました。だから、標準語で言い直しましたよ。「もう、やってられないわ、っていう意味よ」と。こういう愚痴、誰かに言いたいでしょ。一応、結婚しているから、夫に言いたいでしょ? 

 でも、夫は外国人なんですよ。これらを全部、心から発する日本語ではなく第二外国語で説明するんですよ。全く、ニュアンスが伝わらないんです。仲良くしてもらっている友人いますし、皆、優しいから連絡すれば、愚痴聞いてくれます。でも、皆、それぞれに大変なんです。皆、日々を精一杯生きているんです。こんな情けない愚痴なんて、言えないんです。

 で、ブログに書いています。皆さん、すみません。こんな愚痴を読ませてしまいまして。でも、お付き合いありがとうございます。

 こういう風にやらかしてしまいましたから、もう、ここにいられないかもしれません。でも、もう、いいなと腹をくくりました。昨年末、2つめのがんの治療をして、また、生き残ったんです。だから、人生を大切にしなければ、ですよね。娘にも昨日、言われました。「せっかく、がん克服したのに、また、ストレスで再発ということになるかもしれないでしょ。それは、なしだよ、ママ」と。だから、もう、いいんです。

 軽井沢でのGWや先週末の友人とのお茶や母の日のイベントなど、書きたいことが沢山あるのに、今日は愚痴のブログでした。皆さん、お付き合い、ありがとうございます!!毎日の楽しみの、息子のお弁当作り。その写真、沢山添付します。

 

息子のお弁当14日目(5月9日)。鶏肉の竜田揚げ、きんぴらごぼう、かぼちゃの煮物
。左は夫、右は私のお弁当

息子のお弁当15日(5月10日)。ハンバーグ、フライドポテト、かぼちゃの煮物、ビーンズディップとキュウリ


息子の中学弁当16日目(5月13日)。焼きそば、蒸し鶏、チーズ巻き。左は夫のお弁当

息子の中学弁当17日目(5月14日)。ポークカツ、ホウレンソウのバター炒め、フライドポテト。左は夫、右は私のお弁当

息子の中学弁当18日目(5月15日)。豚肉の生姜焼き、チーズ巻き、きんぴらごぼう。左は私のお弁当

2024年5月13日月曜日

娘@メルボルンからの報告 作り置き料理

  GWの後半、軽井沢でのんびりと過ごしていると、娘から「今日も来週分の作り置き、頑張ったよ!」とフェイスタイムで連絡がありました。

 ジャガイモが沢山あったので、マッシュドポテトとポテトグラタン、そして豚肉の料理、リコッタチーズを使った総菜を作ったそう。ポテトグラタンはジャガイモを薄くスライスして、間にリコッタチーズとパルメジャンチーズを挟んで、オーブンで焼いたそうです。出来上がりも良く、とても美味しそうです。

娘が送ってくれた作り置き料理の写真
  
2種類のチーズをスライスしたジャガイモに挟んで焼いたグラタンだそう。ママも食べたい
 
 週末はキッチンで何時間もかけて、料理をするそう。娘は親元を離れても、ちゃんと暮らしているようです。

2024年5月12日日曜日

軽井沢へ

  GW後半の3日は息子は友人の学校祭へ、私と夫は美術展に行き、午後息子が帰宅してから軽井沢の別荘に向かいました。

 GW前半は夫と息子が2人で行きました。私は東京に残ってデータの解析を進めたものの、休み明けのミーティングで別の解析手法をすることに決まり、私の休みが無駄に終わったため、思い切って後半の休みは研究から離れることに決めたのです。

 高速道路の走行も順調で、約2時間半で家に着きました。別荘地もあちこちの家の前に車が止まっています。皆さん、GW前半からこちらに来ているのでしょうか? それとも私たちより一足早く、前夜から来ているのでしょうか?

 家に入り、雨戸を開け、空気の入れ替えをし、クーラーに入れて持ってきた食料品を冷蔵庫に入れます。まずは、夫は赤ワイン、私は白ワインをグラスに注いで乾杯。

 息子が早速、バーベキューのための炭を起こします。食料品の買い出しは翌日、大型スーパー「ツルヤ」に行くので、この夜は東京の家から持ってきた食材でその日の晩御飯を作ります。メニューはステーキと北海道産のホッケ、焼きそば、ホウレンソウのソテーです。ステーキとホッケはGW前半に夫と息子がツルヤで購入し、東京に持ち帰り冷凍していた食材です。

 半年ぶりの軽井沢はやっぱり気持ち良かった。デッキでの夕ご飯も美味しかったです。

バーベキュー用の炭を起こす息子

食事の前に祈りを捧げるクリスチャンの夫と息子。私は「いただきます!」と普通に


2024年5月11日土曜日

夫とランチ

  遡って、GWの後半のことをお伝えします。5月3日は息子が小学校時代のお友達と学校祭に行ったため、私は夫と二人で国立新美術館で開かれている「国展」(国画会主催)に行ってきました。

 息子が行ったのは、東京の私立男子中学校御三家の一つ「麻布中学校」の学校祭。一緒に行ったのは私立女子中学校御三家の一つ「桜蔭中学校」に行っている女子。中学校受験で苦戦した我が息子がなぜ、麻布中学校の学校祭に行ったかというと、ここに通う男子が、桜蔭中学校に通う女子を誘い、その女子が一人で行く勇気がないからと、息子を誘ったということ。

 「そうか、息子は付き添いだったのね」とちょっと息子を可哀想に思いましたが、二人ともこの春、同じ地元小学校を卒業した仲間です。学校祭の後は、コンビニエンスストアでジュースとお菓子を買って、公園に行って楽しく過ごしたようです。まずは、すっぽかされなくて良かった、と胸をなで下ろしたのでした。

 息子と一緒に家を出た私と夫は、六本木の国立新美術館へ。GW中に札幌からこちらにいらっしゃっていた元上司のYさんと奥様のMさんに、国展にご招待いただいていたのです。奥様は画家でいらして、今回も出展されているので楽しみにしていました。

 Mさんの作品は情熱的で力強い抽象画で、その大作に見入っていると、たおやかで控え目なMさんの内に秘めた絵を描くことへの熱い思いが伝わってきました。我が娘もアート専攻で日々キャンバスに向かっていますので、いつかこのような大きな展覧会に挑戦できればいいなぁと思いました。

 展覧会の後は、東京ミッドタウンへ。ビストロでランチを食べました。「若いときを思い出すよね」と夫。もう20数年も前のことです。「ぼくが日本に来たのは31歳。君が体調を崩したのはその1年ぐらい後だから、若いカップルとしてレストランに行ったり、お洒落なバーに行ったりと楽しめる期間は本当に短かったよね。君はその後ずっと病気だったから」。

 そうだよな、夫は33歳のときからずっとがんと闘う妻を支え続けてくれたんだと改めて、ありがたいなぁと思いました。

 夫は最近、「早く仕事を辞めたい。お互いに元気で歩き回れるうちにあちこち旅行しよう」と言います。昨年12月の2つ目のがんの罹患は、夫にとってかなりショックだったようで、元気なうちに…という思いが強くなっているようです。

夫と行った東京ミッドタウンのビストロ



 

2024年5月8日水曜日

復活

 昨日はいい年をしてトイレで泣いてしまった話を書きましたが、今日は復活しました。普段通りに5時半ごろに起き、息子のお弁当を作り、庭に水やりをし、ごみを捨て、息子の朝食を作り、洗濯物を干し、7時過ぎに息子と一緒に家を出ました。ルーティンをこなしていると、気持ちも何とか前向きになりました。
 
 庭で四ツ葉のクローバーを見つけました。「いいことがあるかも」と気持ちが少し持ち上がりました。研究室ではデータの解析も進み、格闘していた統計手法も理解でき、研究者らとの打ち合わせもつつがなく終わり、息子と言ってもよい年齢の若い研究者から親切なメールをもらい、いつも私に不機嫌な表情で接する女性研究者から不機嫌ではない表情で応対してもらい、なんとか一日を終えることが出来ました。
 
 自宅に戻ったのは午後7時過ぎ。夕ご飯を作り、夫と息子と3人で食べました。その後は、洗い物と明日のお弁当の下準備です。明日は夫のお弁当も作ります。お肉を漬け込み、煮物を作り、野菜をゆで…。台所で料理をしているときが無心でいられて、一番幸せだなぁとしみじみ思ったのでした。 
 
庭で見つけた四葉のクローバー

息子のお弁当13日目(5月8日)。鮭おにぎりと唐揚げ、きんぴらごぼう

2024年5月7日火曜日

泣けた

  今日、研究所でとても辛いことがあり、トイレで泣きました。堪えきれず泣いたのは、1年半ぶりでしょうか。博士課程に入り、辛くて泣いたのは2度目です。博士課程は苦しいーという話はよく聞きますが、本当です。

 でも、さっき、娘とフェイスタイムをして元気な顔も見られたので、心が回復しました。自分で自分を励ますため、コンビニエンスストアに行き、アイスクリームを買って食べながら帰ってきました。甘い物を食べると気分があがります。

 終わりよければすべてよし。明朝も元気に起きて息子のお弁当を作るため、全部頭から追い出して寝ます。 

息子の弁当9日目(4月30日)、ミートボールパスタと鶏の唐揚げ。夫と私の分も。

息子のお弁当10日目(5月1日)、ガッツリ生姜焼き肉。左は夫の分

息子のお弁当11日目(5月2日)。ポークカツ


息子のお弁当12日目(5月7日)。ポークソテーと鮭ご飯

2024年5月6日月曜日

日本酒を飲みながら、先輩と語り合う

  私が心からお慕いする新聞社時代の元上司のYさんと1日、美味しい日本酒を飲みながら、語り合いました。

 Yさんは奥様の絵画展が東京で開かれるのに合わせて、こちらにいらっしゃいました。昨年に引き続いて我が家の近くにあるお店にお連れしました。

 Yさんと初めて東京でお会いしたのはもうかれこれ10年ぐらい前だと思います。最初は、最寄り駅近くにあった鉄板焼きの店に行きました。もう閉店してしまいましたが、父母が東京に来たときに良く行った、亡父が好んだ店でした。Yさんとはお互い同じ病気を患った縁で、再びお会いすることができ、そのときも闘病生活のこと、家庭のこと、会社のこと、時事問題など語り合いました。

 新聞記者時代、同僚との飲み会での話題は多岐にわたりました。政治、経済、文化、医療、そして多分に漏れず会社内部の噂話。闘病期間が長く、そのような会話を渇望していた私にとって、Yさんとお酒を酌み交わし、美味しい食べ物をいただきながらの数時間はそれは楽しい時間でした。

 それから、ほぼ毎年、Yさんが奥様の絵画展の日程に合わせてこちらにいらっしゃるときは、お声がけいただき、お会いするようになりました。

 次にお連れしたのは隣駅近くにある和食店。丁寧に作られた料理が評判のこの店はYさんも気に入ってくれ、何度かこの店でお会いしました。

 前回と今回は、我が家に比較的近い所にある日本酒をメインにしているお店です。このお店は一昨年の12月に開店したばかりですが、地元に馴染み、近隣に住む常連客が友人や家族を連れて、マスターの仕込んだ美味しい料理や全国各地からの日本酒をいただきに行きます。

 今回も注文したのは、お猪口1杯分を5種類飲める、楽しい日本酒セット。1杯1杯、マスターが酒蔵の説明をしてくれるのですが、印象に残ったのは東京の若者が単身で地方のつぶれかかった酒蔵に行き、周囲の人に指導を受けながら一から酒づくりを学んで作ったというお酒。ラベルの後ろに「タンクにお酒を仕込み終えてから入院してしまい搾れないという事態が発生しました。このお酒です。県内の他の酒蔵の皆様のお蔭で無事搾れた感じです」と書いてあります。

「ラベルにこんなこと書いちゃうんですね。面白いですね」と驚いていると、マスターが「一人でやっているから、何でもできちゃうんですよね。前の職業はシステムエンジニアだったらしいですよ。今年は入院して万事休すというところで、県内の酒蔵の人たちが駆け付けてくれたらしいです」と説明してくれます。

 そんな話を聞きながら、Yさんと「習い性で、こういう心温まるエピソードは”書けるかも”と覚えてしまいますよね」と笑い合いました。Yさんも私も新聞記者の仕事を離れて久しいですが、やはり、こういうエピソードが大好きなのです。

 私はあまりお酒が強くないので、4杯目で終了。5杯目はYさんに飲んでもらいました。Yさんはこの後も、芋焼酎のお湯割りを飲みながら、私の研究の話、子どもたちの話などじっくりと聞いてくれました。

 いつもご馳走になっているので今回は…と思うのですが、またYさんにご馳走になってしまいました。帰りは、駅までお送りしました。名残惜しい気持ちでお別れの挨拶していると、ホームに電車が来てしまいました。ドアが閉まっても、にこにこして手を振ってくれるYさんに、私も何度も手を振りながら、また、来年もお会いできますようにと願ったのでした。

東京の若者が一人で作ったというお酒

入院したときに、県内の酒蔵の人たちに助けられたというエピソードが記されたラベル