2024年12月31日火曜日

2024年を振り返る

  24日にオーストラリアのメルボルンに行き、今日帰国しました。午後7時に自宅に着いたため、荷ほどきもせずに夫とスーパーマーケット3件を回り、毎年大晦日・元旦に食べるカニ、イクラ、ボタンエビ、うま煮の材料や果物などを買いました。母にお土産を届け、夫と日本酒「久保田万寿」で乾杯し、家族で年越しそばを食べ、午後10時半にパソコンを立ち上げブログを書き始めました。

 12月は調子が悪く、19日以降ブログを書くことが出来ませんでした。でも、24日から娘の大学があるメルボルンで家族と過ごし、リフレッシュすることができました。

 このブログでは毎年、年末にはその年に挑戦したことを書いていましたが、今年は現状維持が精いっぱいの年でしたので、今年を振り返る記事を書きたいと思います。

 まず、多くの時間を費やしている大学院・博士課程。研究の進捗が一進一退で、人間関係にも非常に神経を使い、精神的にギリギリの状態でした。

 それでも、プライベートではいくつも楽しいことがありました。息子が通った公立小学校の絵本の読み聞かせサークルの仲間と新たに地域での読み聞かせの会を始めました。また、がんサバイバーのママさんたちとがんを患うママさんたちの集いの場を来春地元に作ろうと準備を始めました。この2つはこれからの私の人生にとってとても大切な活動になると期待しています。

 霊場・恐山に行き、父と息子の供養をしてきました。また、イタコさんに、父の霊を降ろしてもらいました(父ではありませんでしたが)。長年の思いが叶い気持ちが晴れました。娘がオーストラリアの大学に、息子が私立の中高一貫校に入学したことも嬉しかった。私自身は20年以上も服用していた、ステロイド剤を止めることができました。悪性リンパ腫も胃がんも再発をせず、無事還暦を迎えることが出来ました。

 このブログも開設10年目の節目の年でした。「アラフィフママの育児日記」を、「がんのママの育児(育自)日記」に改名し、この10年で最も投稿数が多い年となりました(133本投稿)。

 来年は博士課程4年目で博士論文を仕上げる年です。また、このブログも11年目となります。来年も、「がんのママの育児(育自)日記」をよろしくお願いします。


 

 


 

2024年12月19日木曜日

気持ちを切り替える

  昨日のブログでは、ネガティブな雰囲気を伝えてしまい、失礼しました。昨日は先輩研究者と約1時間の意見交換をし、自分の考えを伝えました。研究室中に響くのようなやり取りだったと思いますが、私自身、納得できました。

 以前お伝えしましたが、研究室内で仲良くしている研究者2人(外国人)が今月末にここを去ることになり、もう雑談をする人もいなくなります。ですので、あと1年3ヶ月、ここの研究室で黙々と頑張らなければなりません。

 この研究者の一人は私の大学で博士号を取得した人で、この過程の大変さをとても良く分かっている人です。数日前に思い切って、自分の事情を説明し、助言を求めました。

 すると、「大学内ではなく、研究所内に研究室があるので周囲は学生や教員ではなくて研究者という特殊な環境だから、難しいよね。大学には学生のサポートセンターがあるから、そこに相談してみたらどうかな?」と言います。

 そして、「大変な状況だけれども、大変なのはあなただけではない。おそらく、大学の博士課程の半分の学生はあなたのように指導を受けられない中、暗中模索しながら、研究を進めている」とも。

 そして、「でも、気分転換は必要。ここの研究室は閉鎖的だから、大学のキャンパスに行ったらどう? あそこの空気は違う。図書館でパソコンを広げて作業して、学食で食事をするの。私もときどきキャンパスに行くけど、学生たちはポジティブで明るくて、自分も気持ちがポジティブになる」

 そうだな、と思いました。私も1、2年のころは講義を受けに大学に行っていましたが、3年目からは研究室に籠っています。時折、単発の講義でキャンパスに行くと、確かに気持ちが明るくなります。キャンパスに行こうと思いました。

 もう一つ、昨日は友人と飲み、少し気持ちが晴れました。新聞記者時代の友人です。「還暦のお祝いをしよう」と連絡をくれ、食事をご馳走してくれました。ワインを飲みながら、近況を報告し合いました。彼の娘さんとの暮らし、仕事、社会活動などについて聞き、私も家族のこと、恐山への一人旅、自分の研究の進捗を報告しました。

 つい、ぽろりと「博士課程に進んだこと、間違っていたかなと思う」と言うと、彼は大笑いし、「もう60歳なんだからさ、過去の決断を振り返って後悔する時間はないと思うよ」とバッサリ。「3年目も終わるんでしょう? あと1年ちょっとの間に論文出すことに集中することだよ。論文が通らなくても、単位満期取得退学*まで行くんだよ。それでいいんじゃないの?」

 「そうだね」と私も大笑い。とにかく、論文を提出する。最低でも単位満期取得退学まで頑張ると決めていましたが、その決意を忘れて、塞ぎ込んでいました。こうして、かつて同じ道を歩んだ人、仕事を通じての友人に相談することで、気持ちを切り替えることが出来ました。また、一歩一歩進んでいきたいと思います。

*単位満期取得退学ー所定の単位を全て取得したが、規定の年限までに博士論文の審査が通らない、論文を書けずに大学を退学すること

新橋のレストランで、ワインの飲み比べ

締めはソーメン

2024年12月17日火曜日

朝からアサリスープ

 最近、全く元気が出ません。でも、家族の食事を作り、洗濯・掃除もしています。研究室にも行き、何とか論文を書き進めています。食料品や日用品の買い出しをし、母の家を訪れて様子を見、家計簿をつけ、「To Do List」に記している様々な用事を締め切りが近いものから済ませています。

 来週24日からオーストラリアに行くので、その前に冷蔵庫の食材を使い切る計画をざっくりと立てていましたが、昨日、夫がお肉や果物など沢山買ってきました。家事を手伝ってくれる良い夫ですので、感謝しましたが、これをどう使い切ろう、使い切るためにはさらに料理をする必要があるーと見積もると疲れが増したような気がしました。

 夫はアサリも買ってきてくれました。「子どもたちが君の作るアサリスープが好きだから」と機嫌良く話してくれました。「ありがとう。美味しそうだね。でも、今日はもうキャベツスープを作っちゃったし、おかずはアジのムニエルとパスタだから、明日にするね」。 

 アサリは早めに食べないとダメですので今朝、朝ごはん用にスープを作りました。洗濯機を回している間に、お弁当4人分も作りました。子どもたちが大好きなオムライスと蒸しチキンにしました。夫には鶏肉の唐揚げとピクルス、ゆで卵、好物のみつばの胡麻和え、枝豆とパン。自分には余ったものを。そうしているうちに洗濯が終わりました。昨夜、洗濯機を一度回して干しましたので、今朝は1回で済みました。今朝は晴れていましたので、外に干せました。

4人分のお弁当
子どもたちが好きなアサリスープ

 「ママ、遅れそうだから、車で送って!」と息子。「ママだって忙しいんだから、歩いていきなさい」「でも、ママがお弁当作るの遅れたんじゃん」「…」。これ以上のやり取りは疲れるので、無言で車のキーをつかんで、車に乗り込みます。

 駅まで息子を送って、帰宅。顔を洗って、お化粧をして、部屋着から外出着に着替えて、重いカバンを持って、トボトボ歩いて駅へ。満員電車に揺られて、研究室に向かいます。

 私の研究室は国立がん研究センター研究棟の中にあります。まずは、守衛さんに元気良く挨拶します。守衛さんとの笑顔の挨拶で気持ちを振るい立たせます。4つのエレベーターのうちの1つに乗り、研究室に向かいます。研究室ではほとんどの人が無表情なので、そこで元気を振り絞って、「おはようございます」と笑顔であいさつします。

 2台のパソコンを立ち上げ、バッグの中から書類と自分のノートパソコンを取り出して、机に置きます。給湯室に行って、大きなポットにコーヒーを入れます。今日も頑張ろう!と自身を奮い立たせるために、スターバックスのドリップコーヒーにしています。そして、机に戻り、無言で作業をします。昼ご飯は一人で食べます。時間がもったいないので、10分ぐらいで食べ終え、机に戻ります。

 午後3時からチームスで、ミーティングです。先輩の研究者にねちねちと指摘をいくつも受けます。だいたいが「承知しました」ですが、たまに反論すると、「納得できないんですか?」と聞かれます。「納得できないんですか?ですって。納得できない、なんて言ったら、指導教員に言いつけられて、また、指導教員から『あなたのせいで研究が遅れている』と指摘を受けるだけです。あなたの納得いくようにいたします」という言葉を飲み込みます。

 この夏、「そんなことも分からないんですか?」という言葉に耐えられず、言い返したら、指導教員に私のせいで研究が遅れていると言いつけられ、指導教員からおしかりを受けました。私は研究室の中で最も立場の弱い大学院生。言い返すことは、自分の首を自分で締めることですので、もうしません。ただただ、耐えるのみ。

 ようやくミーティングが終わり、話し合った表の修正を終えて、チームスにアップロードします。「本日もありがとうございました。ご指摘の部分を修正いたしました。来週24日から娘の大学のあるオーストラリアに行きます。ご不便、申し訳ございません」という文言を添えて。私も大人です。

 荷物をカバンに入れ、研究室を出たのは5時15分。息子に塾の前に夕ご飯を食べさせるため、塾の近くのハンバーガー屋さんで待ち合わせです。火曜日は夕ご飯を作らなくて良い日。娘のご飯は夫が作ってくれます。電車に乗ると、気持ちが少しずつ上がってきました。息子が美味しそうにハンバーガーを頬張る姿を見るのが、今日の私へのご褒美です。



2024年12月14日土曜日

アサガオの種採り、今年も息子と

  昨日、息子と一緒にアサガオの種採りをしました。春の種植えと秋の種採りは、息子が小学校1年生のときに種を学校から持ち帰り、翌年2年生から一緒に始めた行事。毎年、それを続けていて、今年はどうかな?と思いましたが、機嫌良く付き合ってくれました。

 春の種植えのときも、今回の種採りのときも、声をかけると「いいよ」と言ってくれた息子。中1ですので、口数も少なくなり、自分の世界が出来てきている息子ですが、こうして母親に付き合ってくれるのが嬉しい。

 種は乾燥した薄皮に包まれていて、その薄皮を取るのが手間なのですが、今回息子が種を手の平に載せて、「ママ、こうしてふうっと息を吹きかけると皮が飛んでいくよ」と教えてくれました。「えっ、すごい。ママ、今まで気が付かなかった」。

 薄皮の被った種を手の平の上でほぐし、皮から種をはずし、ふうっと息を吹きかけるとあらら、薄皮だけが飛んでいって、手の平には黒い種がちゃんと残ります。「6年間続けてきて初めて、効率の良い種採りの方法が分かったね」と笑い合いました。

 こういう何気ない会話が、とても愛おしく感じたひとときでした。

手の平にアサガオの種を載せる息子



 

2024年12月10日火曜日

やった!60歳

  先日、60歳になりました。病気もたくさんしましたし、辛いこともありましたが、無事還暦を迎えることが出来ました。ブログを読んでくださっている皆様、これからも私と子どもたちの”成長の記録”を書いていますので、引き続きご愛読いただければ嬉しいです。

 還暦と言えば、お年寄りの仲間になった気がしますし、実際に体力は落ちてきていますし、肌もシミやらシワやらで大変なことになっています。ですが、私の場合、子どもが大学1年生と中学1年生で、子育て真っ最中ですので、気持ちぐらいは若く保ちたいと思っています。

 誕生日当日は夫が、東京ミッドタウン内のホテル、ザ・リッツ・カールトン東京のレストラン「タワーズ」に連れていってくれました。子どもたち、母も一緒です。私はこの日のために買ってあった真っ赤なドレスを着ていきました。


 45階にあるそのフレンチレストランは眺めも素晴らしく、料理もとても美味しかった。母は肉と乳製品が食べられず、私もフレンチのメニューでよくあるジビエ料理が苦手。ですが、夫が事前にレストランに伝えていてくれ、家族全員が美味しくいただけました。

   夫からは深紅のバラとカードをプレゼントしてもらいました。娘からはお花の絵とメッセージを、息子からは手書きのカードとチョコ、母からは手紙とお祝いのお金をもらいました。夫はチーズケーキも作ってくれ、家族でお祝いしてもらった幸せな一日でした。


  週末にはママ友3人をお茶に招待し、一緒にお祝いしてもらいました。ママ友は皆40代と若く、還暦を一緒に祝ってもらうのはちょっと恥ずかしいかなぁ?と迷いましたが、自分が60歳を迎えることが出来るなんてとても嬉しいし、有難いことなので、思い切りました。

 たまたま、そのママ友たちとランチをする予定でしたので、「ランチの後に我が家にお茶しに来ない?」と誘いました。ランチでおしゃべりが盛り上がった後に我が家に来た3人は、壁に貼ってある「60」のバルーンを見て、「えっ? むっちゃん60歳なの? おめでとう!!!」とそれは喜んでくれました。

 バルーンの前で女子4人で記念撮影。夫が作ってくれたチーズケーキに「60」のロウソクを立てると、皆が「ハッピーバースディ、ディア、むっちゃん♬」と歌ってくれました。素敵なママ友に囲まれ、節目の年を祝ってもらい、とっても幸せな気持ちになりました。

 実は誕生日の前日まで気持ちの落ち込みがひどく、誕生日は一人で過ごしたくて、都内のホテルを予約していました。スーツケースに荷物も詰めていたのですが、心の中で自問自答を繰り返し、誕生日の朝に「このまま家を出てホテルに泊まってしまうと、取り返しのつかないことになるかもしれない」と思いとどまりました。

 何とか自分自身を説得し、思いとどまり、家族や友人と幸せな時間を過ごすことが出来ました。60代はなるべく塞ぎ込むことなく、穏やかに暮らしたいです。

 

2024年11月30日土曜日

娘が20歳に

  娘が先日20歳になりました。私の母、そして、サプライズでカナダの大学に行っている親友のレイちゃんも来てくれ、一緒にお祝いしました。娘にとって最高の誕生日になりました。

 娘が生まれたときは、双子の弟が死産だったため、医師も看護師もそして親戚も友人もどう言葉をかけて良いか分からず、誰からもおめでとうと言われなかった娘。2,664グラムと小さく、成長もゆっくりで心配も多かった娘ですが、心の優しい、とても良い子に育ってくれました。そして、身長もすくすく伸びて183㌢になりました。

 誕生日の前日の午後7時ぐらいでしょうか。家のベルが鳴りました。インターフォンを押すと、「レイです」。「えっー、レイちゃん?」と皆びっくり。家族全員で玄関に出てみると、レイちゃんがにこにこして立っています。娘が「びっくりしたー」と言うと、「毎年誕生日に来てたじゃん」と言います。レイちゃんは娘にも知らせず、来てくれたのです。

 レイちゃんのご両親は中国にいるのですが(レイちゃんは日本人と香港人のハーフ)、冬休みに憧れだったタイに一人旅をし、その帰りに我が家に寄ってくれたよう。その後におじいちゃん・おばあちゃんの家に行く予定だそう。

 誕生日当日は、母もお祝いに来てくれて、皆で夕食を食べました。娘のリクエストはダディのチーズケーキとリゾット、ママのアップルパイとコロッケでした。それに、娘の大好物のステーキをつけました。

 夫のプレゼントは十字架の形をしたエメラルドのネックレス。息子からは娘が大好きな猫の絵のついたマグカップ、母からは「好きなものを買うように」と1万円、レイちゃんからはTシャツと中国で流行しているというアニメキャラクターのフィギュア。

 私からは、私が若いころ使っていた時計でした。娘には、16歳の誕生日から毎年、私が使っていたバッグやジュエリーを引き継いでいます。今回引き継いだ時計やこれまであげたバッグやジュエリーはいずれも、今の私には似合わないのだけれど、ブランド物だったり思い出があったりしてなかなか手離せなかったもの。年季が入ったものなので、メンテナンス費が高かったりもしますが、娘がいると引き継げるので、嬉しいです。

 皆に囲まれ、プレゼントを開けるときに大笑いしたのは、夫からのプレゼントを開けるときです。私が携帯電話で、レイちゃんがビデオカメラで撮影していました。娘が小さな箱に書いてある文字を読み上げます。

「わぁ、あなたと私の”たからいし”箱だって…」

 思わず吹き出してしまった私が直します。「違うよ。宝石(ほうせき)箱だよ」。娘がびっくりした表情で「ええっ、知らなかった」。レイちゃんも私のほうを見て、真顔で言います。「私も知りませんでした」。息子がお腹を抱えて笑い、「おねぇねぇ、ウケル~」と言いましたが、本当に知っていたかどうかは、疑問です。

 まぁ、インターナショナルスクール卒なので、こういうこともあるでしょう。にぎやかな誕生日パーティでした。娘が何よりも喜んだのは、レイちゃんが来てくれたこと。レイちゃん、本当にありがとう。 

 娘の誕生日に合わせて、息子の骨壺のカバーも新しくしました。骨壺は今も私のベッドの横に置いてあります。カバーを作り直そうと思っているうちに、20年も経ってしまい、ミッフィの模様は色褪せてきていました。前に作ったときの生地をとってありましたので、それを使って縫いました。

 縫っているときに、「かあさんは夜なべをして、手袋編んでくれた」という童謡を思い出しました。こういう縫い物は、家事終え用事を済ませてからでなければ、取り掛かれません。今も昔も同じだなぁと思いました。そして、本当に20年はあっという間だったなぁとしみじみとした気持ちになりました。

 ディナーテーブルに新調したカバーに入れた息子の遺骨を置いてあると、母が「あらっ、アンディ君」と言って、抱いてくれました。記念写真も娘が息子を抱いて、写しました。天国の息子も、娘が無事20歳を迎えたことを喜んでいたと思います。

左は夫が作ったチーズケーキ、右は私が作ったアップルケーキ

誕生日パーティのデコレーション


 

2024年11月21日木曜日

誤診

  先月中旬から発熱や背中の痛みなどで体調が優れず、まずは泌尿器科を受診。数日後に行った内科クリニックでマイコプラズマ肺炎の診断を受け、薬を飲んでいましたが、咳が止まらず、耳鼻咽喉科へ。そこで副鼻腔炎と咽頭炎の診断を受けて処方された薬を飲みましたが、ずっと咳が止まらず、呼吸器内科へ。そこで何と、「喘息」の診断。

 吸入のプレドニン(ステロイド剤)を生涯使い続けなければならないという説明を医師から受けました。プレドニンは錠剤をもう20年以上も服用し、先月末にようやく”卒業”できたのに、また、プレドニンです。それも一生。

 医師の説明の後、看護師さんから説明を聞きながら、私、その若い看護師さんに訴えました。「もう、プレドニンは嫌なんです」と。「20年以上飲んでいるんです。で、やっと、やっと先月末にやめられたのに、またプレドニン。もう嫌なんです」

 錠剤を服用していたときは、自分の顔とは思えないほどに醜くむくみ、減らしては病気が再発し、また増やすを繰り返しました。で、ようやく病気が落ち着き量を徐々に減らし、微量の服用で日常生活を送れていました。顔のむくみも取れました。数年間にわたり、主治医にやめたいと申し出ていましたが、検査結果が良くなかったり、昨年は胃がんにも罹患し、薬はやめないほうが良いとの診断でした。全てが落ち着いた今、やっと卒業してよいという言葉をいただいた矢先、別の病気でまた「プレドニン」です。

 「こんな簡単な検査で、生涯プレドニンという、患者にとってはとても重い診断を下すなんて絶対におかしい」と思い、看護師さんに「プレドニンは使いません。抗生物質と咳止めを先生に処方してもらってください」と頼み、いくつかの薬を処方してもらいました。

 そして、翌日に別の呼吸器内科へ。そこではレントゲン撮影とCT検査の両方をし、院長先生が聴診器でじっくり肺の音を聞き、診断は「副鼻腔炎」。「喘息でないのですか?」と質問すると、「喘息ではありません。症状が全然違います」とキッパリ。副鼻腔炎を鎮める薬を処方してもらい、薬局へ行きました。 

 お薬手帳を見て、前日に呼吸器内科で別の薬が処方されていたのを見た薬剤師さんが質問してきました。薬局長さんでしたので、何か変だな?と思ったのかもしれません。

「昨日も呼吸器内科にいらっしゃって、お薬を処方してもらっていますが…どうされましたか?」

「昨日、〇〇クリニックで、喘息の診断だったんです。で、ステロイド剤を一生使い続けると言われて…。納得がいかず、今日の呼吸器内科に行ったんです。そうしたら、副鼻腔炎という診断だったんです」

 薬局長さんが声をひそめて、言います。

「あぁ、そうですか。実は、あそこのクリニックに行くとすぐに喘息の診断になるという話なんですよ」

「そうなんですね。私も変だなと思ったんです。レントゲンと、肺活量を調べる検査だけで、喘息の診断。それも、生涯プレドニンを使い続けるなんて、あまりにも安易で。でも、咳が止まらないので、プレドニンの代わりに咳止めの薬を先生にお願いしたんです」

「あぁ、この咳止めのお薬、実はあまり効かないんですよ」

「そうなんですね」

「ええ、処方は1錠になっていますが、2錠は飲まないと…」

「効かない量の咳止めの薬を処方して、患者は咳が止まらないからやっぱり諦めてステロイド剤にというふうになると考えたのかと勘ぐってしまいますよね。簡単に喘息と診断され、別のクリニックでは全く違う病名の診断だと…」

 という会話を薬局長さんと10分ほどして、副鼻腔炎を抑える薬と咳止めをもらい、帰宅しました。それから10日ほど経ちましたが、咳はだいぶ落ち着きました。夜中に長く咳き込むことがなくなり、寝られるようになりました。

 いやはや…。長年、病気と闘っていると、勘が働くのかもしれません。すぐに、セカンドオピニオンを聞きに行って良かったです。あれから、そのクリニックの評判をネットで検索すると、あまり評判が良くなく、「喘息と診断され、別の病院に行ったら違う診断だった」などという私と似たクレームもありました。やっぱり…。

 でも、その呼吸器内科はとっても混んでいました。私のように喘息と診断され、素直に信じて、ずっと通っている人もいるかもしれません。そういう方々には、「何か、違うなぁ」と思ったら、医師の言うことを鵜呑みにせず、ぜひ別のクリニックに行ってほしいと願います。

 


2024年11月17日日曜日

娘に癒される日々

  娘がオーストラリアから帰国して2週間。家族4人で食事をし、娘と息子がじゃれ合う様子を眺め、娘とおしゃべりをするー。娘がいる日常はやっぱりいいなぁと思う日々です。

 娘は朝、起きてくると機嫌良く「ふっ、ふぅ~♬」とまるで鳥がさえずるような綺麗な声を出します。こちらの気持ちがほんわかと温かくなるようなその声を昨日、改めて「綺麗な声だね」と褒めました。

 すると、娘は歌うように「前世は鳥だったの」と答えました。なるほど、と思いました。娘は続けます。「私、空を眺めるのが好きでしょう?」。確かに。娘はよく空の話をします。「ママ、今日は空がとってもきれいなの」とオーストラリアからフェイスタイムで青い空を見せてくれることがあります。また、お弁当を詰めて一人で公園を散歩し、空を眺めながら食べることもよくあるようです。

 高校生のときも、お昼の時間は一人で校舎の外に出て、空を眺めながらお弁当を食べたとよく聞かせてくれました。そんな話を聞くと「お友達とうまくいっていないのかな?」などと心配をしましたが、「空を見ながら、ママが作ってくれた美味しいお弁当を食べるのが、とっても幸せな時間なの」と答えてくれました。

 そんな娘は、とても素敵な言葉を家族にかけてくれます。先日は「ママが私のママで良かった」としみじみとした表情で言ってくれました。娘は毎日、「ママ、大大大好きだよ」と言ってくれ、私はそれを糧に日々の生活を送りますが、この言葉も大切にしていきたい。

 一昨日の夜は夫への気持ちをとても素敵な言葉で表現してくれました。二人で午前2時ごろまで寝ながらおしゃべりをしていたとき。たまたま、夫の話になると、娘は「私は何百回生まれ変わっても、ダディの娘に生まれたい」と言いました。世の中に、これほど素敵な言葉を娘に言ってもらえる父親はいないだろうーと思いました。もちろん、それは夫の娘への愛情の深さを娘が分かってるからです。

 この言葉はしばらく私の中にとどめておき、一番良いタイミングで夫に伝えたいと思います。きっと娘が結婚するときかな、と想像しています。

2024年11月16日土曜日

読み聞かせの会

  昨日、今年発足した読み聞かせの会の打ち上げ会がありました。メンバーは子どもたちが通った地元小学校で、絵本の読み聞かせサークルに入っていたママさん5人。卒業後も「卒業生ユニット」としてサークル活動を継続しています。その仲間の3人が新たに地元密着の読み聞かせの会を春に発足。私ともう一人のママにも「入らない?」と声を掛けてくれたのです。

 メンバーは皆50代。子どもが2、3人いて、下の子が中高生だったり、大学生だったりと手がかからなくなっています。でも、絵本の読み聞かせが大好きで、自分の子どもたちが通った小学校以外でも、活動の場を広げようと今回の会の発足となったのです。

 最初のメンバー3人で、すでに2回大人対象と子ども対象で読み聞かせをしており、好評だったよう。私も来年2月に地元の児童館でする予定で、今からワクワクしています。

 この会を始めたママさんがこれからの活動の目標と夢を語ってくれました。目をキラキラさせながら語ってくれた話に、素敵だなぁと心から共感しました。私に声を掛けてくれた経緯について、「むっちゃんは、一本釣りなの」と笑って話してくれて、私を活動に誘おうと思ってくれるなんて、と胸がいっぱいになりました。

 打ち上げ会が開かれたのは、地元のレストランでした。食べ物のメニューは野菜サラダ、白身魚のカルパッチョ、フムスとバケット、ハムの盛り合わせ、ピクルス、フィッシュ&チップス、ポークロースト、パスタ。そして飲み放題付きで5千5百円。女子会で飲み放題は珍しいなぁと思ったのですが、ワイン、ビール、サワーなどそれぞれ好きなものを頼み、ソフトドリンクもオーダー出来たので、とても良かった。


 2時間おしゃべりして盛り上がった後、2人が帰って、残り3人が店の外で30分も立ち話をしました。実はこの3人はがんサバイバー。がんを経験したからこそ、残りの人生で自分のしたい事をしよう!と積極的に活動するのかもしれません。こんな素敵な会に声を掛けてもらって、有難いなぁと幸せを感じた夜でした。

 

 

2024年11月15日金曜日

エンディングノートについて

  天国に召されたママ友Pちゃんにさよなら出来たのは、深い悲しみの中、子どもの幼稚園時代のママたちにつながる人に「妻に最期のお別れを」と連絡をくれたご主人のお陰でした。

 改めて、自分に何かあったときの連絡先などを家族に伝えておく大切さを実感しました。というのも、月曜日に開かれたがんのママたちの集いで、まさにその話題が出て、家族に何も伝えずに亡くなっていくママさんの話になったからでした。

 幾人ものがんのママを見送ってきた主宰者のFさんによると、「エンディングノート」を準備しているのに、中に何も書いていない人が少なくないということでした。

 エンディングノートとは自分自身の万が一のときに備えて、自分自身に関する様々な情報を書いておくノートです。書き留める内容は、医療や介護の希望、パソコンや携帯電話のパスワード、通帳やキャッシュカードの置き場、訃報の連絡をしてほしい人、葬儀に呼んでほしい人など、などです。

 ノートを準備しているのに何も書いていないー。このことに、集いの参加者は深く共感しました。がんのママは3,4,50代とまだまだ若い。自分の周囲には病気を患う人は少なく、また、自分も若いことから自分には奇跡が起こると信じている。いや、信じなければ、子供のことを心配しながらの厳しい治療は乗り越えられません。だから、エンディングノートを書くという作業が、自分の死を受け入れるということ=諦めること=につながると考えるのです。

 医師に余命宣告されても、ホスピスに行っても、たとえコンマ1%でも、自分には奇跡が起こると信じていたい。子どもが小さければ尚更です。エンディングノートを書くことは、そう信じることとは真逆の行為なのです。

 かくいう私は30代でがんを罹患したときは子どももいなく、自分のことだけ考えれば良かったですし、心配事がなければ案外割り切れるものですので、必要事項を英語と日本語の両方で記したノートを夫に残しました。

 が、その後、子どもが2人出来、病気が続いて忙しくなり、かつ自分の万が一のときの家族の心配事が多過ぎて、そのノートの更新は出来ていません。

 一昨日に旅立ったPちゃんはご主人に、幼稚園ママにつながる人の連絡先を残したのでしょうか? 自身の葬儀のことについてご主人と話し合ったのでしょうか? 一つ言えることは、私たちはPちゃんの清らかで美しい顔を見て、話しかけ、思い出話をし、ご主人に亡くなるまでのPちゃんの様子を伺うことで、信じられなかったPちゃんの死を受け入れることが出来たのです。そして、Pちゃんにさようならとありがとうを言えた。

 そうさせてくれたPちゃんと、ご主人にとても感謝をしています。そして、改めて、自分もエンディングノートを作り始めなければ、と思ったのでした。

2024年11月14日木曜日

ママ友にさよなら

  今日、息子の幼稚園時代のお友だちのママPちゃんにさよならをしてきました。48歳のPちゃんは2年半のがん闘病の末、中一と高一の娘を残し、昨日天国に旅立ちました。棺に横たわったPちゃんは生きていたころと変わらぬ美しさでした。

 Pちゃんはいつもニコニコしていて、Pちゃんと言えば、笑顔しか思い出せないほど周囲を和ませてくれる人でした。お料理が上手で、お宅に幼稚園の子どもたちやママさんを招いて、美味しい手料理を振る舞ってくれました。

 背が高く、スラリとした体形で、それは美しい人でした。白い服が好きで、その白い服がとても良く似合っていました。

 ご主人から昨日、Pちゃんが親しくしていたママ友の一人に連絡がありました。お葬式の前に「最後のお別れをお伝えいただける方がいらっしゃいましたら、ご自由に自宅に来ていただければと考えております」という、とても優しい文面でした。

 今日は6人のママ友がPちゃんにさよならを言いに行きました。昨日、ラインが回ってきたときは、とにかく、皆驚くばかりでした。誰もPちゃんの闘病のことを知りませんでしたので、突然の訃報にただただ、「信じられない…」という言葉しかありませんでした。

 中学生と高校生の娘を残し、この世を去らなければならなかったPちゃんの無念を思うと、いたたまれませんでした。今日、Pちゃんにさよならを言いにいった6人のうち、私を含め2人ががんと闘っていますので、他人事ではありませんでした。ご主人と子どもたち、そしてご両親の悲しみはいかばかりかと、自分の家族に重ね合わせて思いを巡らし、胸がいっぱいになりました。

 Pちゃんは笑顔しか思い出せないほど、穏やかな優しい人でした。だから、早くに天国に召されてしまったのかもしれないー。無理矢理そう解釈するしかないほど、Pちゃんの死は理不尽でした。

 Pちゃん、治療辛かったよね。でも、最後まで頑張ったね。天国は痛みも苦しみもないところだと聞いています。ゆっくり休んでくださいね。子どもたちのことは心配だよね。でも、Pちゃんの子どもだから大丈夫。笑顔の素敵な、優しい女性に育っていくと思います。本当にお疲れ様でした。

 

2024年11月13日水曜日

若い女性研究員の活躍

  大学院生の私は週3,4回研究室に通っています。朝、1時間かけて息子のお弁当を作り(私の楽しみの一つ)、息子に朝ごはんを食べさせて見送った後キッチンの片づけをし、洗濯物を外に干し、支度をして家を出ます。満員電車に体を押し込み、携帯電話でニュースを読みながら、研究室に向かいます。研究室は国立がん研究センターの研究所内にあります。

 現在博士課程の3年目で、先月データの解析が終わり、現在は論文執筆中です。私の指導教員は大変忙しい人なので、30分1時間の時間を取ってもらえるのは年に数回。あとは会議の後に捕まえて、こちら側からの報告を立ち話でします。

 こういう状況ですので、誰かに指導をしてもらうことはありません。ですので、質問や相談は研究所内の研究者たちにします。皆、親切に教えてくれます。でも、普通の会社のように気軽におしゃべりをすることはほとんどありません。私は研究所に雇われている研究員ではないので、立場が違いますので、おしゃべりの中に入れないのです。

 そのような中、「おはよう、調子はどう?」といつも声をかけてくれる人がいます。私の机の後ろの部屋で仕事をしている外国人の女性Sさんです。Sさんと「おはよう」の挨拶を交わし、何気ない話題でちょっとした雑談をする。それだけで、私の気持ちを夕方まで持たせることができます。そのSさんが来年1月でこの研究所を退職し、インドネシアの研究所に転職することになったと昨日知りました。

 研究という分野では、転職はおそらく普通の企業よりも頻繁で、皆そうやってキャリアを積んでいきます。この研究所内で研究員としてのキャリアを積むには博士号はもちろんのこと、その上に医療資格を持たなければなりません。かなり上の地位まで行くには医師の資格が必要だそうです。Sさんは東大で博士号を取得して研究員としてキャリアを積んでいますが、医療資格を持っていませんので、いろいろと考えたのかもしれません。

 Sさんは結婚をしていて、2人のお子さんがいます。ご主人は仕事を辞めて、Sさんについて行き、子育てに専念するそうです。頼もしい女性です。Sさんは皆にフレンドリーで親切なので、皆にとってもSさんがいなくなってしまうのは寂しいと思います。私の場合、Sさんとの会話が救いでしたので、昨日はショックで思わず涙が出たほどでした。

 Sさんの他にも、Mさんという若い女性研究員が昨日、フランスの研究所に出張に出かけました。来年の2月まであちらに滞在するそうです。Mさんも東大で博士号を取得したバイリンガルの女性。とても優秀な人で、細やかな気遣いもできる人です。Mさんは私のデータ解析にいろいろアドバイスをくれた人なので、Mさんがいなくなってしまうことも心細い。
 
 こうして親切にしてくれた人がいなくなってしまうのは、とても寂しいのですが、若い女性たちが海外で活躍するのを見るのは本当に頼もしい。私は年齢ばかり上で何もできないけれど、陰ながら彼女たちを応援したいと思います。

2024年11月12日火曜日

がんのママと集う

  昨日は、今年最後の「がんママカフェ」に行ってきました。このカフェは子育て中のがんのママが月に一度、集う場。昨日は7人が参加し、様々な思いを共有しました。

 子育て真っ最中にがんと診断されることは、がん治療そのものよりも、子どもをどうするかーが一番の心配ごとです。

 協力的なご主人がいる場合やご実家を頼れるなら良いのですが、シングルマザーだったり、協力的ではないご主人の場合は、ママの負担はさらに重くなります。自分が入院中の子どものご飯はどうすればいいの? 塾や習い事のお迎えは? 出費が多い中自分の治療費の負担が家計を圧迫している、どうしよう? その上に自分の治療の決断をしなければなりません。

 昨日は妊娠中にがんに罹患し余命宣告され、病院を変えて、生き残った40代のママさんが参加していました。必死の思いで産んだ子は今小学生だそうです。「生きていることに感謝する日々」と語っていました。

 また、子供が小さいため、最初は伝えることが出来なかったという40代のママさんは、「伝えたら、予想に反して子供はちゃんと受け止めてくれた」と嬉しそうに語っていました。

 また、保険会社に勤めていたというママさんは、自分ががん保険に入っていなかったため、若い女性たちに保険の重要性を伝えたいと語っていました。確かに、分子標的薬など高額な薬を使い続ける場合は、保険からお金が下りると助かります。私の場合は普通の保険ですが、患っていたのが血液がんと自己免疫疾患で入院期間が長いために、1日5千円支給という普通の保険でもとても助かりました。

 昨日、来る予定でしたが、キャンセルになったママさんがいました。ホスピスにいます。昨日は体調が戻らず、参加できませんでした。そのママさんには何度もこの会で会い、いろいろとおしゃべりしました。だから、お会いするのを楽しみにしていたので、残念でした。

 心配なのは息子さんのご飯なのだそうです。ご主人は非協力的でかつ料理もできないので連日お弁当を買ってくるにも関わらず、「こども食堂」などからの支援も受け付けないらしい。ママさんはホスピスで、どれほどお子さんのことを心配しているかと思うと、涙が出てきます。

 集いの後、主宰者のママさんとランチをしました。このママさんは私ととても境遇が似ていて、30代でがんを罹患し、子供を死産しています。私の天国の息子が今月20歳、このママさんの天国の娘さんは来年20歳です。

 私が恐山に息子の供養に行った話をしたところ、早速、ご主人と「来年、恐山に行こう」と計画していると話してくれました。

 このママさんは慈愛に満ちた人で、がんのママさんを助け、赤ちゃんを死産で亡くした方々の支援もしています。私より若いですが、心から尊敬し、私も見習おうといつも思っています。

 元気だったママさんが体調を崩したり、再発を告げられたり、は本当に辛いです。でも、私たちは今は病気が落ち着いているのだから、家族を最優先にして、一日一日を大切に生きようねーと語り合ったのでした。

2024年11月11日月曜日

現地到着は最低30分前に

  昨日、娘が通っていたインターナショナルスクールのママさんコーラスのカラオケパーティがありました。卒業しても、「むつみちゃん、カラオケパーティ来ない?」と誘ってくれるのが、本当に嬉しい。

 参加したのは、日本、イギリス、チェコ、インド、中国、シンガポールなど各国からのママ。コーラスママは皆、当然ですが歌が上手で、ステージが大好き。それぞれ母国語の曲を歌ったり、英語の曲を歌うだけでなく、イギリス人ママがいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌ったり、若いママが石川さゆりの「津軽海峡冬景色」をこぶしを振り上げながら熱唱したり、すごいパワフル。

 ピンクレディーの曲は2人の日本人ママが持参した衣装と振り付きです。皆で、歌って、踊って、で盛り上がりました。私はカラオケがあまり得意ではないので、取り合えず1曲は歌い、あとは皆の歌を一緒に歌って、楽しみました。4時間はあっという間でした。誘ってくれたコーラスママたちに感謝!

 さて、ここからが今日2つ目の話題です。昨日、パーティが開かれたカラオケ店は横浜の元町・中華街にあり、スタートは16時でした。で、実は私が現地に着いたのは15時15分。店の真ん前まで行き、店の名前と携帯電話のメールの中に書いてある店の名前を照合してから一旦店を離れ、中華街をぶらぶらして、5分前にまた店に戻りました。

 というのも、先週の金曜日、五反田駅近くで開かれた会合の会場にたどり着けないという、とんでもない出来事があったからでした。楽しみにしていた「ほっかいどうの会」でした。北海道生まれ・育ちの人か北海道にゆかりがある人が参加する会で、主宰者の友人から「久しぶりに『ほっかいどうの会』を開くので、参加しませんか? 鈴木宗男さんが来るんだよ」と誘われて、早々に参加表明をしていたのです。

 「一人一品、北海道の食べ物か飲み物を持ってくること!」という参加要件にも、ちゃんと「余市ワイン」を事前購入して準備し、当日は研究室の冷蔵庫で冷やして、持っていったのにも関わらず、です。

 会場は五反田駅から徒歩4分の場所でした。私が駅に着いたのは開始時間の15分前の18時45分。そこからグーグルマップを使って歩きましたが、どうしてもたどり着けません。30分ぐらい行ったり来たりし、地図を見たり、ビルの横に貼ってある住所を確認しましたが、たどり着けません。

 五反田駅周辺はこれまでほとんど行ったことがないため土地勘が全くなく、あの街はとにかく広い。友人は主宰者ですので、連絡をすることも出来ません。で、「諦めない」性格だった私も、いろいろあって最近は「人生は諦めも必要」という境地に達してきていましたので、19時半、「これは縁がなかったのかも」と受け止めて帰宅したのでした。

 そこから学んだのは、初めての場所に行くときは、最寄り駅ではなく、現地に少なくとも30分前に到着して場所を確認してから、他の場所で時間をつぶすぐらいの余裕を持つこと、です。昨日は、それを試してみて、気持ちに余裕を持って参加することが出来たのでした。

 これからは、「現地到着は最低30分前に」をモットーに生きることにします。

 

 

 

2024年11月10日日曜日

娘と居酒屋へ

  この1週間、家族全員が体調を崩していました。息子の高熱と咳に始まり、娘も同様に高熱と咳、次に体調を崩した私も38度の熱と咳で外出が出来ませんでした。一番症状が重かった娘はインフルエンザもコロナも陰性だったため、風邪だろうということで、薬を飲んで何とか乗り切りました。最後にうつったのが夫でしたが、比較的症状が軽く済みました。

 私は3週間前にマイコプラズマ肺炎を患いましたが、家族にはうつりませんでしたので、今回のはいったい何だったのでしょう? 

  体調が回復したため、昨日、娘と買い物に行きました。行ったのはユニクロ。娘は身長183㌢で、かつオーストラリアに行って少しぽっちゃりして帰国しましたので、合う服があるか心配でしたが、さすがユニクロ。娘に合うサイズがありました。ダウンコートとセーター、ヒートテックのインナーを買いました。

 娘が小さいころはZARAやGAPなどで娘の服を買うのが本当に楽しかったのですが、どんどん大きくなってしまい、まず、靴が買えなくなりました。そして、服もなかなか合うものがなくなり、残念な思いをしていたので、本当にユニクロ、有難いです。ヒートテックのスパッツも買ってあげたかったのですが、普通は足首ぐらいの長さが、娘はひざ下ぐらいになるので、買えませんでした。大きい人は、本当に大変です。

 夕ご飯の時間でしたので、娘に「何が食べたい?」と聞くと、「豚串が食べたい!」と言います。私も豚串が大好き。「今日は豚串を食べよう!」と盛り上がったのですが、ネットで調べても、串焼きのお店は大体が鶏肉。以前、娘と二人で行って豚串がとても美味しかった居酒屋に行ってみると、何と餃子の店に変わっていて、がっくり。

 こうなると、もう、妥協できないんですね。もう、豚串が食べたくて食べたくて、仕方ない。あちこち歩き回ってやっと見つけたのが小さな炭火焼きの居酒屋でした。外に置いてあるメニューに豚串がありました。「やったぁ、豚串あった!」と勇んで暖簾をくぐりました。

 人気の店らしく、空いていたのはカウンターのみ。でも、いい感じのカウンターです。まずは、豚串、鶏串、カマンベールチーズ、シシトウなどを注文。娘は今月20歳なので、もう飲んでもいいよ!ということで、ジンジャーエールで割ったハイボール、私はサッポロ生ビール。

 娘は家では夫と私が飲むワインや日本酒の味見をしたことはありましたが、グラス1杯という量は飲んだことがありません。が、18歳以上が飲酒が認められているオーストラリアではお友達と飲んだことがあるようです。「私、ママに似て顔が真っ赤になるんだよ」とのこと。

 娘と居酒屋で美味しい炭火焼きの串焼きを食べながら、飲んで、おしゃべりできるなんて、幸せでした。夫からは、息子にタコスを作って、美味しく食べたという写真付きメッセージが届きました。夫も私も、父息子、母娘のゆっくりした時間を楽しんだのでした。



 

2024年11月4日月曜日

恐山へ ⑧ 続・番外編

  無事、東京の家に戻り、夫と息子との日常に戻ると、恐山での2日間がどれほど日常とかけ離れたものであったか、実感します。

 私が恐山に行ったのは10月23、24日の平日でしたので、夫に24日の朝の息子のお弁当作りを頼んでいきました。おかずの下準備をして冷蔵庫には入れてありましたが、夫が苦笑いをして答えました。

「君が作ってくれていた蒸し鶏と冷凍の枝豆をお弁当箱に入れたよ。紅鮭をほぐしてくれていたのをおにぎりの具にした。でも、おにぎりはうまく出来なかった。難しかったよ」

 夫が息子に作ったおにぎり…。その話を聞いて、父のおにぎりを思い出しました。父のおにぎりを思い出したのは久しぶりでした。

 父は私が小さいころ、何度かおにぎりを作ってくれたことがありました。父のおにぎりは丸くて、ソフトボールのように大きかった。その丸い、ソフトボールのようなおにぎりが私は好きだった。懐かしくて、懐かしくて、涙が出ました。

 恐山への旅で、父の懐かしい思い出が一つ増えました。そして、息子にも「ダディが作ってくれたおにぎり」という思い出が出来たと思います。

 楽しい、心地良い旅ではなかったけれど、納得できた、良い旅だったと思っています。

2024年11月3日日曜日

恐山へ ⑦ 番外編

  霊場・恐山で一泊した翌朝、私は10時10分恐山発のバスに乗り、下北駅へ向かいました。そこからJR大湊線、青い森鉄道に乗り換え、八戸へ。そこからタクシーで、死者の魂を降ろすと言われるイタコさんの家に向かいました。

 指定された午後2時数分前に到着しました。ベルを鳴らすと、玄関ドアから年配の女性が出てきて、「すみません、前の方が長引いているので、少し外でお待ちいただけますか?」と言います。その方と雑談をしながら、10分ほど待ちました。

 間もなく、中年の女性が玄関ドアを開け、外に出てきました。そして、私たちに会釈をして足早に去っていきました。

 家に入ると、イタコさんがいました。私より少し若い女性です。お部屋に入りました。申し込み書に、私の名前、降ろしてほしい人(亡父)の名前と命日、死因を書きました。

 「では、始めます」という言葉で、イタコさんは独特の節回しで経文を読んでいきます。しばらくしてから、イタコさんが語り始めました。

 イタコさんは10分ほど語ったでしょうか? 語りが終わったとき、父に聞きたかったことを聞きました。聞きたいことはいくつもありましたが、一つだけ、どうしても聞いておきたかったことだけ、聞きました。

 答えを聞いて、私はこれは父ではないーと思いました。父がこのようなことを言うはずがないと。でも、父の魂を降ろしてくれたイタコさんに心から「ありがとうございました」とお礼を言いました。お代5千円を支払い、タクシーを呼んでもらって、家を出ました。イタコさんの家の中での滞在時間は20分でした。

 私をイタコさんの家に送ってくださったタクシーの運転手さんが迎えに来てくれました。「もう終わったのですか?」と聞きます。「はい」とだけ、短く答えて、駅まで送ってもらいました。

 イタコさんが降ろしてくれた魂が父かどうか、イタコさんが本当にあの世にいる死者の魂を降ろすことができるのかーはこの世の人間は誰も証明できません。ですので、大切なのは、依頼した本人が納得したかどうかではないだろうか?と思いました。

 父が亡くなってしばらくしてから、イタコさんに父の魂を降ろしてもらいたいと願ってきました。イタコさんのことは本を読んだり、雑誌で記事を読んだりしていましたが、青森県までは遠く、子供が小さかったことから、実現への一歩は踏み出せませんでした。でも、来春父の13回忌を迎えること、今月娘が20歳になる節目で一緒に生まれるはずたった息子の死産から20年経つことから、霊場恐山への供養の旅を計画し、長い間考えてきたイタコさんにお会いすることにしました。

 イタコさんにお会いしてから、一週間以上経ちます。そうすると、もしかしたら、あれは父だったかもしれない。父もあの世に行ってずいぶん経つから、穏やかな仏様になって、生前の父とは違うことを言うかもしれないーとも思い始めました。

 でも、たぶん、あれが父でも父でなくても、どちらでもいい。大切なのは私がイタコさんに会って、父の魂を降ろしてもらって、父と”会話をした”ことで納得できたことなのでしょう。いや、あれは、父だったと信じ、私がこれからの自分の残りの人生を生き切ることが大切なのではないかーそんなことを思う日々です。

2024年11月2日土曜日

グッドバイ、プレドニン

  昨日、恐山から帰ってきたら運気が少しずつ上がってきたという話をしました。もう一つ、私にとってのビッグニュースがありました。なんと、18年間服用し続けた薬を10月30日、やめることが決まったのです!

 プレドニンというステロイド剤で、「自己免疫性溶血性貧血」という病気に罹患した2006年から服用し続けていました。その後、2010年に「特発性血小板減少性紫斑病」という病気にも用い、この2つの病気を抑えるためにずっと飲み続けていたのです。

 これまで何度もやめることを検討したのですが、赤血球に対する自己抗体の有無を調べるテストでいつも陽性が出てしまい、断念。でも、昨年秋に行った検査でようやく陰性の結果が出ました。が、12月に胃がんに罹患。まずは胃がんの治療を優先するため、プレドニンの服用は続けるという診断でした。ですので、一年間様子を見ていたのです。

 薬の量は微量でしたので副作用もなく、前の主治医は「微量を服用することで病気が落ち着いたままなら、リスクを取るより、飲み続けるほうを勧める」との判断。今の主治医は「やめても良い。病院に来る頻度も少なくなり、精神的な負担も減る」との判断。いずれの判断も恐らく正しいのでしょうが、私はやめることを選びました。

 21年間、ずっと国立がん研究センター中央病院に通い続けていました。3ヶ月以上間隔が開いたことはありません。あの病院に行けば、救ってもらえるという信頼感と、「ここは私の居場所」という安心感さえ持っていました。

 でも、もう一度、病院に行かない、薬を飲まない暮らしをしたいなと思いました。もちろん、半年か1年に一度は検査で訪れるとは思いますが、薬を飲まず、通院も半年に一度になれば、きっと「自分は本当に健康なんだ」と思えるようになると思います。

 グッドバイ、プレドニン。今まで長い間、私を救ってくれてありがとう。でも、もう、あなたを卒業するね。



2024年11月1日金曜日

2024 Halloween 娘が帰ってきた

  昨日、娘がオーストラリアから帰ってきました。長い夏休みをこちらで過ごします。昨日はハロウイーンでしたので、パンプキンカービングも一緒に出来ました。やっぱり、娘がいると家に笑いが広がり、いいなとつくづく思いました。

 息子が夕方、学校から帰宅すると、2人は玄関でがっしりとハグ。息子はそれは嬉しそうでした。普段はあまり話さない息子も、娘がいるとおしゃべりになります。息子は身長が168㌢と、183㌢の娘よりまだ小さいので、娘は息子が小さかったころのように息子をおんぶしたり、抱っこしたりして、大騒ぎ。私はきょうだいがいないので、きょうだいっていいなぁと羨ましくなるぐらいでした。

 今年のパンプキンは私が築地の花屋さんで見つけ、重かったですが、抱えて持ち帰りました。毎年軽井沢の農協で購入するのですが、今年は不作ということで売っていず、また、東京のスーパーですと高いので、夫と「今年はパンプキンカービングできないね」と話していたところでした。

 実は恐山から帰宅した後は、私の運気が少しずつ上がってきているようで、幸運にも子どもたち用に形の良いパンプキンを2つ買うことが出来ました。

 とても、幸せな、楽しいハロウイーンでした。

子どもたちのために、パンプキンを2つ準備。パンプキンパイも作りました

玄関でハグする娘と息子

娘のリクエストで夕ご飯は餃子

パンプキンにまずは絵を描く2人

息子のパンプキン

娘のパンプキン

今年のコスチュームはハリー・ポッターのマント

ロウソクを入れて…

息子の今年の道具はコブラ

2024年10月31日木曜日

恐山へ ⑥

 「6時半から朝のお勤めがあります。地蔵堂にお集まりください」

 午前6時過ぎ、恐山菩提寺の宿坊の館内アナウンスがありました。前夜、ガタガタという音がひどくて、布団を別の場所に移し、電気を付けたままで眠りについたのですが、少し眠れました。このアナウンスの少し前に目が覚めていました。

 顔を洗い、歯を磨いて、服に着替え、お化粧をして、お堂へ。すでに宿泊客のほとんどが集まって、椅子に座っていました。私が行ったのは最後のほうでしたので、もう椅子はなく、お坊さんが「椅子がない方は前へいらしてください」と案内してくれました。菩提寺院代(住職代理)の南直哉さんがお立ちになっているすぐ前に正座しました。

 私は、ダイニングテーブルとソファで育った世代ですので、正座をすることもほとんどありません。足が痺れることを想像し、「もう少し早く来れば椅子に座れたのに」とふと思いましたが、すぐに気持ちが変わりました。南さんの後ろ、私の場所からよく見えるところに、長い「塔婆」が4枚立てかけられており、そのうち2枚に私の父と息子の名前が書かれていました。

 南さんと他3人のお坊さんのお経を、父と息子の名前が書かれた塔婆を見つめながら、厳粛な気持ちで聞きました。父と息子が極楽浄土(キリスト教の天国)で幸せに過ごしていますよう、祈りました。すべてが導かれている、と感じた時間でした。

 本来ですと、塔婆を納める場所に一緒に行くようになっていましたが、南さんから「風が強いため、本日は私たちが納めて参ります。向こう側は石などが飛んできて危ないですので、8時ごろまでには行かないように」とのご指示がありました。そして、皆静かにお堂を後にしました。

 お堂の廊下から、宿坊が見えました。私の泊まった部屋の窓の前にだけ、台の上に乗ったエアコンの室外機がありました。前夜のあのガタガタはこれが原因だったんだな、と分かりました。ですので、あの音に震え上がっていたのは私だけで、他の宿泊客は静かに寝られたのだと分かりました。大きな部屋の片隅の布団置き場に布団を移し、襖を閉めて、電気を付けたまま寝た自分が何とも滑稽で、思わず苦笑しました。

 午前7時半に朝食です。お坊さんと一緒に「五観の偈(ごかんのげ)」を唱え、「いただきます」を唱和しました。朝食も美味しく、そして、前日は全く働かなかった胃もちゃんと食べ物を消化してくれているようで、また、治った後もずっと続いていたマイコプラズマ肺炎による咳もほとんどなくなり、体も通常に戻ったようでした。

 食事を終え、8時過ぎに外に出ることにしました。チェックアウトは10時ですので、すでに支度をして宿坊を出る宿泊客もいました。が、私は10時10分発のバスで下北駅に行く予定でしたので、ギリギリまでここにいることにしていました。

 宿坊を出て、本堂の近くに行くと、お守りなどを売っている小さな小屋がありました。そこで家族全員にお守りと父の仏壇に供えるお札を買い、色鮮やかな風車も買いました。そして、「水子供養地蔵尊」がある場所に向かって歩きました。

 水子供養地蔵の周りにはたくさんの風車がくるくると回っていました。たくさんのお母さんがここに来て、手を合わせたのだろうなと思いました。前日の強風で吹き飛ばされてしまったのでしょうか。お地蔵さんがよく見えるところにある風車を刺す穴が一つ空いていました。そこに買ってきたばかりの風車を刺しました。そして、その前の池に前日社務所でいただいたお札を浮かべました。

水子供養地蔵の周りを囲む風車。真ん中が息子のための風車

   「アンディ、無事産んであげられなくて、ごめんね。おねぇねぇは来月20歳になるよ。時が経つのは早いね」

 そう、息子に話しかけました。風車は勢いよく、くるくると回っていました。

 

 

2024年10月30日水曜日

恐山へ ⑤

  午後7時から、薄暗いお堂で行われた恐山菩提寺院代(住職代理)・南直哉さんの法話は、心に深く染み入るお話でした。死者の霊が集まると言われる恐山になぜ、人は来るのか? 南さんは、亡くなった方のご供養をしに来た方々が、実はご自身が幼少期から深い傷を抱えている場合も少なくないと言います。

 小さいころ、母親が頻繁に外泊する中、幼いきょうだいの世話をし、酔いつぶれる母をも介抱した女性が、母にかけられた言葉のむごさに傷つき、それを抱え続けた人生を送った話。

 それでも、南さんはこの年配の女性が救われるのは「お母さんを許す自分を許す」ことだと言います。南さんのご著書には、等身大の大きな人形を亡くなった一人息子として慈しんだ母親、目の前で子供を事故で失い絶望の中で生きる両親、親に愛されようと一生懸命親に尽くして結局は自分の納得のいく人生を歩めなかった人…。恐山にご供養に訪れるそのような方々の例がいくつも出てきます。

 私は南さんのご著書を読みながら、私のような者がこう言うのはおこがましいとは思いますが、この方々の深い悲しみに心から共感しました。私自身、一人で恐山を訪れたのは、一人であの霊場に行かざるを得ない事情があったからです。そうでなければ、物見遊山で決して行くべきではないーと言われるあの場所に一人で行くはずがありません。

 南さんは1958年生まれで、大学卒業後に2年間社会人生活を送られた後に出家された方です。ご自身のご家族にはお寺の方はいらっしゃらないそうです。出家された理由について、「恐山 死者のいる場所」(新潮新書)の中で、「私は小さい頃から、『生きる』ということより、『死とは何か』というテーマが、問題の中心にあった」とあり、「世俗にとどまったままではその問題をいかんともしがたく、とうとう出家してしまった」と説明されています。

 「私は人の役に立ちたいという『尊い志』があって僧侶になったわけではない」(心がラクになる生き方、アスコム)とキッパリ言い切っていらっしゃいますが、人生で様々な経験をした後で出家するのではない、人生これからという20代で出家されるのです。世俗を離れた世界で、長い間の厳しい修行と深い思索を通して生まれたお考えは、読む者の胸を打ちます。

 私自身、自身の問題に対しての答えを得るために、様々な本を読み、専門家のカウンセリングも受けましたが、答えは出ていません。でも、心の拠り所となる本は何冊かあり、南さんのご著書もその中の一冊です。今回、暗いお堂の中で、南さんを囲む宿泊客の一番後ろでお話を聞くだけでしたが、お目にかかれて光栄でした。

 ただ、明るいお人柄なのでしょうか。落語のような語り口でお話しになり、文章から立ち上がってくる印象とは少し違っていたので驚きました。でも、そのことについてもご著書で「私はおそらく僧侶らしくない。実際に多くの人からそう言われてきた。君には信仰が無いんだねと真っ向から言われたことさえある。僧侶というより、哲学者だとも」(超越と実存、新潮社)と書いていらっしゃいます。実際に法話を聞いて、やはり、南さんのお考えを理解するには、ご著書を読むほうがずっと良いような気がしました。

 そうこうするうちに法話の時間が終わりました。南さんが最後に宿泊客に念を押しました。「今日は大変風が強いですので、浜のほうにはいらっしゃらないでください。何かあっても我々は責任を取れませんので」と。間髪を入れず、「まぁ、これまで夜行った方はいらっしゃいませんが」とお笑いになりました。

 私は、その言葉に深くうなずきました。昼間でさえ、あの場所に一人で行くのは勇気が要ります。たとえ、死のうと決意をしても、夜あそこに行くのは恐ろし過ぎて、死ぬのは諦めようと思うような気がします。「もう、生きるのはいいかな」と思った私でも、あそこは死ぬ場所には選びません。死ぬなら、僅かでもいい、遠くでもいい、人の気配があるところで死にたい。

 法話が終わり、薄暗い長い廊下を通って、宿坊に戻りました。そして浴衣に着替え、温泉に向かいました。そこには、夕食のときに、私の左に座っていた女性も入っていました。その女性はいったい、どのような理由でここに来ているのでしょうか?

 体が温まり、清潔なお布団に入って寝ましたが、風が強過ぎて、ガタガタという音が止まず、すぐ起きてしまいました。また、うとうとしても、音で目が覚めます。あまりに音がひどいため、午前2時過ぎに、部屋の中の布団置き場(人数が多いときはここも寝室になるのでしょう)に布団を移動し、襖を閉めて寝ました。恐山の宿坊の広い畳の部屋に一人。そして、強風でガタガタという音がなり続ける夜。あーあ、早く夜が明けないかしら? 私は、電気を付けたまま布団に横になったのでした。

 

2024年10月27日日曜日

恐山へ ④

  温泉に入って体も温まった午後5時50分ころ、「お食事の時間です。皆さん、お集りください」という館内アナウンスが入りました。朝から何も食べていないため、「やっと、ご飯が食べられる」と有難い思いでお食事処に行きました。

 とても広い部屋にテーブルが長く3列に並び、テーブルの上に赤いお膳が整然と並んでいました。全員の椅子が入口の方に向いていましたので、皆が前を向いて、会話をせず、食事に集中するようです。

 前回のブログでご説明したスリッパと同様の、何といいますか、食事をする場の温かみなどは一切排除された、初めてその光景を見る者を圧倒するような雰囲気です。各部屋から集まってきた宿泊客は皆、静かに席に着きました。

 その日は宿泊客が少なかったようで、真ん中の列と後ろの列2列にお膳が準備されていました。それぞれのお膳の前には名前が書かれた札が立てられています。真ん中の列が2人客で、6組。かなり高齢の母と娘の1組を除いて、中高年のご夫婦(だと思う)でした。私は後ろの列で全員一人客、7人でした。

 夫婦や親子でここに来る理由は何となく分かります。旅行で来る人、大切な家族の供養に来る人、それぞれ理由があって相談してここに来たのでしょう。でも、一人でここに来る人は供養が目的ではない場合、かなりの強者かあるいは酔狂な人に違いありません。

 後ろの席に座っていたのは、一番左が中年の男性、その右におそらく40代ぐらいの女性、私、その右に若い男性、その右に中高年の男性が3人座っていました。右の若者は一人旅が好きな男性という感じで理解できたのですが、平日にここに一人でいらした中高年男性はどのような理由だったのでしょうか? 

 左の女性も、ここに一人で来るには私のように然るべく理由があるはずです。だって、おひとり様の旅なら、日本中たくさん素敵な場所がありますし、あちこち行ったのでたまには違った場所にというほどその女性はお年ではありませんでした。あえて、恐山に、それもお寺の宿坊に泊まるのは何らかの理由があるかもしれないーと想像しました。いや、「日本3大霊場を巡る一人旅」を自ら計画し、ブログに記事をアップしている明るい”大人女子”の可能性もあります。

 そんなことを考えていると、お坊さんが前にお立ちになりました。お食事の前に、「五観の偈(ごかんのげ)」を唱えましょうというご指示でした。宿泊客が全員前を向いているのは、お坊さんがいらっしゃるからなんですね。皆が、お膳の横に置いてある紙を開いて、それを見ながら、お坊さんと一緒に唱えます。

 一には功の多少を計り、彼の来所を量る。

 二には己の徳行の、全欠を忖って供に応ず。

 三には心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす。

 四には将に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。

 五には成道のためのゆえに、いま此の食を受く。

(1・このお米は大変な苦労を重ねて出来たもので、食膳に上がるまでに沢山の人の手を経て今いただけることに感謝する。2・私は今この食事をいただけるほど日夜精進努力しているかどうか反省する。3・お腹がへると過ちを犯しがちなもの。そうかといって美味しいから沢山食べたり、嫌いだから少しでやめたりはしない。4・食事をすることは薬をいただくのと同様で、やせ細ったり命が絶えたりしないためにいただくのである。5・自分自身の本分を全うし、よりよき人間として素晴らしく生き続けるために今この食事をいただきます。)

 そして最後に、「いただきます」を唱和します。ようやく、食事が許されました。

 食事は精進料理で、野菜の天ぷら、煮物、ゴマ豆腐、酢の物などとても美味しかったです。あまりの空腹で、胃がキリキリと痛んでいたため、ゆっくり十分噛んでいただきました。 

 ゆっくりと食べていたので、お坊さんが再びいらしたときはまだ食べ終えていませんでした。が、皆と一緒に「食後の偈」を唱え、「ごちそうさまでした」と唱和しました。

 午後6時30分過ぎに食べ終えました。お腹も一杯でしたが、「五観の偈」を唱えた後でしたので、残すのもはばかられ、何とか全部食べ終えました。まさに、食べる修業でした。私が食べ終わる前に、片付けの方々が来てお膳を下げていましたので、やはり遅かったのでしょう。

 部屋に戻りました。胃が全く働いていないことを、食べている途中から感じていました。でも、午後7時からお堂で菩提寺院代の南直哉さんの法話が行われます。ご著書を何冊も読み、感銘を受けていましたので、お目にかかる機会を逃すわけにはいきません。でも、胃の調子が悪くなってきました。

 私は若いころから胃が悪く、20代で胃潰瘍で血を吐き入院治療。30代で血液がん・悪性リンパ腫を患い、それも胃から始まるがんでした。40代で2回再発した悪性リンパ腫も胃から。そして50代で胃がんを罹患し、手術をしました。長く自分の胃とつきあっていますので、たぶん消化しないだろうな、と分かっていました。大きなストレスがかかると、まずは胃からダメになっていくのです。

 まもなく、吐き気をもよおしました。そして、トイレに行き、何回かに分けて、夕ご飯を全部吐きました。

 6時間かけ、列車やバスを乗り継いで緊張しながらここにたどり着いたこと。朝、準備していた昼食や果物を夫に捨てられてしまい夕食まで何も胃に食べ物を入れられなかったことがずいぶん堪えたこと。恐山のお寺の宿坊は全くの非日常の世界だったこと。そして死者の霊が集まると言われる場所に一人でいるという不安。で、私の体で一番弱い胃がシャットダウンしてしまったのだと思います。

 でも、吐いてしまうと胃の調子は間もなく良くなり、気持ちもすっきり。歯を磨き、水を少し飲み、身支度を整えて、南さんの本と手帳・ペンを持って、お堂に向かいました。長い長い薄暗い木の廊下を足早に歩いていくと、薄暗いお堂で南さんが高座に座り、その周りを宿泊客が車座になっているのが見えました。午後7時に間に合いました。私はその輪の一番後ろに座りました。

 風が強く、静かで薄暗いお堂にガタガタという音が響きました。本当に、どこまでも”恐山”です。

2024年10月26日土曜日

恐山へ ③

  午後3時半過ぎに菩提寺の総門を入ると、静謐な風景が目の前に広がりました。左は湖の浜へ続くであろう殺伐とした道、正面にお寺の山門、そして右に社務所があります。恐山の開山期間は10月末までのためか、人もまばらです。

恐山菩提寺の山門

 入山料を支払った場所のおじさんに聞くと、「恐山」はこの菩提寺の門の中の一体を言うらしい。いただいたパンフレットを見ても、歩くと3,40分はかかりそうです。暗くなってきましたので、リュックを背負ったまま湖の方に向かおうと思ったのですが、チェックインは4時までと事前に言われていましたので、まず宿坊に行くことにしました。

 向かって右側の社務所を通り過ぎると奥に宿坊がありました。玄関ドアには「宿泊客のみ」という張り紙が日本語と英語の両方で書かれています。ドアを開けて入ると、金色の文字で「恐山宿坊」と書かれた黒いスリッパが目の前にずらりと2列に整然と並んでいます。あぁ、何といいますか、「恐山」という文字は一つでも十分インパクトはありますので、それが黒地に金色で、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊…とずらりと並んでいると、すごい迫力なんですよ。

 でも、そのド迫力のスリッパによって、この霊場に来るまでにピークを迎えていた不安な気持ちも逆に落ち着きを取り戻しました。開き直ったとでもいいましょうか。「分かってますって。私、恐山に来ているんですよね」。そう心の中でつぶやきながら、そのスリッパを履き、靴を靴箱に入れて、フロントに行ったのでした。

 そこには年配の女性がいました。その女性は淡々と説明します。「今日はお一人で泊まっていただけます」(相部屋と聞いていたので、ほっとしました)、お部屋は”法泉”です」

「はい」

「ここはお寺の宿坊ですので、皆さんにはスケジュールに従っていただきます。夕食は午後6時、向こうのお食事処で宿泊のお客さん全員で食べます。夕食時間の少し前に館内アナウンスがあります。温泉は午後10時まで翌朝は午前5時からご利用できます。館内の温泉はお食事処の向こう側、外の温泉は4カ所あります。外のほうは午後5時まで一般のお客さんもいらっしゃいます」

「はい」

「朝の”お勤め"は午前6時半です。最初はあちらの地蔵殿で、その後本堂に移動して行われます。朝食は7時半、夕食と同じ場所で、皆さんご一緒です」

「はい」

「お食事の後、午後7時から地蔵殿で法話があります。あちらの本を書かれた方です」

 その女性はフロントに置いてある、この菩提寺院代(住職代理)・南直哉さんの本を指さしました。私は南さんの本を何冊も読んでおり、感銘を受けていました。本の中で、宿坊で宿泊客と話をするというくだりがあり、もしかしたら、南さんにお会いできるかもしれないと期待していたのです。

 宿泊代を現金で支払い、部屋に行きました。広くて綺麗な和室でした。前週から咳き込むことが続いており、相部屋ですと、一緒に泊まった方にご迷惑をおかけするかもしれないと心配していましたので、一人で泊まれて良かった。私はリュックを部屋に置いて、宿坊を出ました。

 恐山を歩くのには順路があるようでしたが、ずいぶん暗くなってきましたので、とにかく行けるところを巡ろうと、パンフレットの中にある宇曽利山湖の「極楽浜」から行くことにしました。薄暗い中、一人で浜を歩くのはやはり不安でしたが、歩いているうちにそんな不安もなくなりました。そこは本当に静かで穏やかな場所でした。あいにく雨が降っていましたので湖水はグレーでしたが、天気が良いと鮮やかなブルーに見えるそうです。

穏やかで美しい「極楽浜」

 恐山は「あの世に最も近い場所」と言われています。ですので、湖に向かって父に話しかけました。

「お父さん、来たよ~」

 極楽浜でしばし湖を眺めた後、「地獄谷」のほうに向かいました。歩いていくと、硫黄臭が漂い始めました。火山岩により地面は凸凹し、あちこちからガスが噴出し、草花も全くなく、荒涼とした風景が広がっています。まさに「地獄」を想像させます。「賽の河原」ではあちこちに小石が詰まれており、小石と小石の間に刺さっている色鮮やかな風車が、一種異様な雰囲気を醸し出しています。

異様な雰囲気を醸し出す、小石の間に刺さる風車

 その辺りで、幾人かの参拝客(宿泊客?)が歩いているのが見えました。ほっとしました。かなり暗くなってきましたので、急いで宿坊に戻ることにしました。

 宿坊に戻る前に社務所に寄りました。翌朝のご祈祷のときに、息子と父の供養をしていただくためです。申込書2枚に父の名前と息子の名前を書き、お代を納めました。お坊さんがこう説明してくれました。

「こちらのお札はご自宅にお持ち帰りになり、仏壇に納めてください」

「あの…、父の仏壇はあるんですが、息子は仏壇ないんです。まだ、遺骨は手元にあるので」

「その場合は、そのご遺骨の横に置いてください」

「分かりました」

 それと、もう一枚薄いお札を渡されました。

「これは、水子のご供養のためのお札です。明日朝、水子供養地蔵の水辺に浮かべてください」

「はい。分かりました」

 宿坊に戻ってから、タオルを持って、外の温泉に入りに行きました。一般の参拝客がいなくなる5時を過ぎていましたので、木の小屋の中に入っていったのは私一人。風が強かったので時折、ガタガタっという音がしましたが、「地獄」と「極楽」に一人で行った後ですので、もう怖くもなんともありませんでした。

 

木の小屋の中の温泉

2024年10月24日木曜日

恐山へ ②

  東京から下北半島にある霊場・恐山に向かう道のりは長かった。東京から新幹線で八戸に向かい、八戸から「青い森鉄道」で「野辺地」駅へ。そこで陸奥湾沿いを走るJR大湊線に乗り換え本州最北端の駅「下北」へ向かいました。

 大湊線の終着駅は「大湊」なのですが、その一つ前の下北より僅かに南に位置しているため、下北が本州最北端の駅なのだそうです。その大湊線は一両のワンマンカーでした。窓から海が見えてくると、この海は北海道へつながっているんだと感慨深く、東京からずいぶん遠くに来たという気持ちになります。

 地図では下北半島に向こうに「函館」の文字が見えます。札幌から南の函館に向かうときは暖かくてお洒落なまちに行くワクワク感があるのに、東京から北の下北に向かうときは賑やかな都会から逃れるような寒々とした感覚になる。自分のいる場所から南へ向かうのと北へ向かうのでは、これほど感覚が違うのだと改めて思います。東京から下北へ行くのは、札幌から北海道の最北端「稚内」に向かうような感覚でしょうか。

 そんなことを考えているうちに窓の外に海が見えてきました。昨日は天候が曇り/雨だったことから海はグレー色で、朝から何も食べていないことからお腹もキリキリと痛み、気持ちは更に沈んでいきました。

 一両の車両に乗っていたのは7,8人でしょうか。前方に立つのは白いセーターを着た若い女性で小さなハンドバック一つと軽装です。ドアの近くに立っているのは紺色の帽子を深々と被った30代ぐらいの男性。私の斜め前の座席の窓側にはスーツを着た中年男性が座り、横にリュックを置いています。通路を挟んで横の席にはブランド物のハンドバッグと小さなボストンバッグを横に置いた中年女性。その斜め向かいには黒いスーツを着た中年男性。私の前には40代ぐらいの女性が座っており、カバーのかかった分厚い本を横に置いています。忙しなく携帯電話を見ることもせず、ただ、じっと窓の外を眺めています。ボッボーと汽笛がなりました。

 乗客は皆、一人でした。それぞれが本州最北端の駅に向かう列車に乗って、目的地へと向かっています。平日のこの時間に皆、どこに行くのだろう、と想像が膨らみます。かくいう私は、父と息子の供養を目的に、死者の霊が集まると言われている霊場・恐山に向かっています。

 そうこうするうちに下北駅に着きました。列車の乗り換えもここで終わりで、無事下北駅にたどり着いたことにまず、安堵しました。乗り換え時間が短かったことから食べ物を買うことも出来ず、お腹が極度に空いていました。駅舎を出ると大きな道路を挟んで向こう側にローソンが見えました。時間がないため、そこで空腹を満たす食べ物を買うことは出来ませんが、見慣れた店があるだけで、気持ちがほっとしました。実は、下北に着くまで、不安で不安で仕方なかったのです。

 駅の前にバス停があり、そこに「恐山」行きのバスが泊まっていました。目的地行きのバスがちゃんとそこにあるのは安心材料のはずなのに、この「恐山」という文字は本当に気持ちをざわつかせる字で、緊張感はさらに増します。

 大湊線から一緒に降りてきた紺色の帽子の男性、スーツを着た中年男性が、このバスに乗り込みました。運転手さんがバスの外で乗客が来るのを待っていて、私にも話しかけてくれました。「今日は一日雨なんですよ。晴れていたら、〇〇山が見えるんですが」と申し訳なさそうに…。

 バスに乗ったのは私を入れて全部で6人。バスが発車し、まちの中を縫うように走ると、車窓からから見えたのは、北海道でもよく見かける風景です。立派な家と古い家が混在していて、古い食堂や少しさびれた写真館、美容室、なぜか建物は立派な銀行、ずっとそこにあるような洋服屋さん、古い看板がかかった酒屋さん…が道路沿いにぽつんぽつんと建っている、見慣れた風景です。途中視界が広がり、広場が見えてきました。「野菜とりたて市」の看板がかかっていて、「あぁ、ほっとするなぁ」と思います。

 「むつ郵便局」でスーツ姿の男性が降りました。そうか、大湊線に乗っていた男性は郵便局に用事があったんだ(違うかもしれませんが)とぼんやりと考えます。その後、観光バスのように女性の音声による案内が流れてきて、恐山の由来などを説明してくれます。恐山は日本三大零場の一つで、天台宗の僧侶が開いたとされているそうです。昔はそこに向かうのは大変険しい道を行かなければならなかったらしい。

 「賽の河原」では、幼くして亡くなった子どもが「お母さん」「お父さん」と呼びながら、愛おしい父母を探します。でも、お父さんもお母さんもそこにはいません。そして、子どもたちは昼間、河原で小石を積んでいく。でも、夕方になると地獄から鬼が出てきて、子どもがせっかく積んだ小石を崩してしまう。何とも切ない話です。アナウンスは、子どもたちの供養のために、賽の河原では小石を出来るだけ多く、出来るだけ高く積んでください、と呼び掛けます。

 そうこうしているうちに恐山に着きました。左手に海、右手に大きな駐車場とその向こうに菩提寺の門。駐車場には十数台の車が止まっていました。人がひしめき合う東京駅から満席の新幹線で八戸へ。そこから、どんどん人が少なくなる電車に2度乗り換え、小雨が降る中、たった6人(途中で1人下車)が乗る、死者の魂が集まると言われる恐山行きのバスに乗って、終点に着いたときに目の前に見えた何台もの乗用車と人。

 ああ、ここにいるのは私だけではないという安堵感で、高まっていた緊張感が一気にやわらぎました。バスを降りるとき、運転手さんがニコニコと話しかけてきました。「今日はここに泊まるの?」「はい、今日はここでゆっくりします」。バスを降りて、湖を眺め、てくてく歩いて、あの世とこの世の間の「三途の川」にかかる橋を見てきました。橋を見終えて、恐山の駐車場のほうに戻ります。菩提寺の総門の横で入山料を払います。そこのおじさんが聞きます。

「入山料は700円だよ。わざわざ一人でここに来たの?」

「はい、東京から着ました」

「それは、遠くから。わしらは死んだらここに来られるから、わざわざ行かないよ。お祭りのときは行くけどね」

 この地方の人は死んだら恐山に行くと信じているそうです。死は特別なものではなく、今の延長にある。死んでいく場所も、普段暮らしている土地の近く。なんか、こういうのっていいなぁと思いながら、門をくぐりました。

2024年10月23日水曜日

恐山へ

   いま、東北新幹線の中です。八戸で降り、在来線に2回乗り換え、下北へ。下北からバスに乗り、恐山に行きます。恐山に着くのは午後3時過ぎになります。宿泊予定のお寺・菩提寺の宿坊に真っすぐ行く予定なのですが、バス停からどれくらいなのか、全く想像もつかず、不安です。

 今朝はちょっとしたアクシデントがあり、気持ちが落ち込んでいます。昨日は息子の運動会で、張り切って3人分のお弁当を作り、観戦。楽しい一日だったのですが、帰宅後、今日の準備をしているうちに、ざわざわとした気持ちになり、今に至ります。

 この気持ちに拍車をかけたのが今朝の出来事です。朝早く起き、洗濯機を2回回して外に干し、息子の朝食を作り、自分のランチ用にサンドウイッチを作りリンゴを切ってジップロックに入れ、みかんも2つ準備しました。今日は乗り換えが何回もあり、それぞれが5分~10ぐらいしか乗り換え時間がないためです。

 それを紙袋に入れてリュックサックの隣に置いておいたら、何と、夫がゴミとして捨ててしまったのです。玄関に置いてあったのは新聞紙と雑紙の入った3袋。それと一緒に間違って捨ててしまいました。

 こういうのって、落ち込むんですよね。朝、雑紙をより分けて、袋にきちんと詰め直して玄関に置いたのは、私。このままゴミ捨て場に持っていけば良かったのですが、最後の最後に、夫に任せたのが悪かった。

 紙類のリサイクルは、箱類はつぶし、中に食べ物が入っていたりした場合はキレイに洗って干し、封筒の宛名部分だけ切り取って燃えるゴミとして捨てその他を雑紙を入れているごみ箱へ。それをごみ捨ての当日にまた、紙袋に詰め直して、朝玄関に持っていく。玄関からゴミ捨て場に持っていくのは一番簡単な部分でした。何で自分で仕事を完了しなかったのだろう?と後悔しました。

 マイコプラズマ肺炎にかかりましたが熱は下がって、外出をしても良いほどに回復しました。が、咳が止まらなくなることが頻繁に起きます。昨夜もベッドに横になったら咳が止まらず、気道が徐々に狭くなってきて、息も絶え絶えになりました。で、恐山で一人で息絶え絶えになるかもしれないと不安が増したのです。

 一昨日、すごくせき込み、気道がふさがりそうになったときは夫が近くにいました。夫は心配そうに近寄ってきて、椅子まで持ってきて私の側に座りましたが、床に座り込み、咳込んでいる私を見下ろすだけ。かける言葉は「カームダウン(落ち着くんだ!)」。「落ち着け? 咳が止まらなくて、細い気道でようやく息をしているのに? そういう人間がどうやったら落ち着くの? 落ち着くのは息が切れたときだよ!」と思いましたが、咳は止まらず、言葉も出ません。

 やっとのことで、「ウ、ウ、ウォーター」と伝えました。うなずいた夫が冷蔵庫に行き、持ってきたのは1リットルのペットボトル。そのキャップを開けて、私に渡します。

 もう、私は座り込んでいますので、力もなく、それを飲むこともできません。そのときに悟りました。「近くに人がいても、死ぬときは死ぬんだな」と。

 こういうことは本当に些細なことですが、体調が良くないときは、気力がうんと萎えるんですよね。別に夫を頼っているわけでもなく、当然、自分のことは自分でしているんですが、「お弁当は紙袋に入っているけど間違って捨てないでね、でも、紙類が入った袋よりずっと重いから気付くとは思うけど」とか、「咳込んでいる人には背中をさするとか、水をコップに入れて渡すんだよ」とかいちいち伝えなければならない。

 夫は私が病院で瀕死の状態のときに、「シカゴのママとダッドにこちらに来てもらう。ママとダッドも君に最後のサヨナラを言いたいと思う」と泣きながら、言ってのけた人。そのとき、私は酸素マスクをしていましたが、「だ、だ、大丈夫だと思う。まだ、死なないから。ママとダッドを呼ぶ前に、せ、せ、先生に私の状態を、聞いてみたら? た、た、たぶん、本人を前に先生も言いにくいとお、お、思うから、病室の外で聞いてね」と夫がすべきことを逐一伝えなければなりませんでした。こういう局面、結婚22年で数知れず。

 頑張って生きているつもりなんですが、死者の魂が集まると言われる地に行くときに(まぁ、自分で計画したことですが)作っておいたお弁当を捨てられるとか、咳込んで死にそうなときに1リットル入りのペットボトルを渡されるとか、というようなこと残念なことが続くと、ふと、あぁ、もういいかなって思ってしまいます。

 八戸に無事着き、乗り換え時間9分というギリギリの中で、「青い森鉄道」に乗り換えました。可愛らしい駅員の女性に「PASMO使えますか?」と聞くと、「使えないんですよ」ととっても申し訳ない表情で言われてしまいました。前で券売機で切符を買っているシニアの男女、そして男性は「お金を入れたのに、切符が出てこない」とか「買い方が分からない」と言っています。分かりますよ、難しいですよね。私もここ不慣れなので、お手伝いしたくても、教えて差し上げられません、、、。

 切符を買って、やっと「青い森鉄道」に乗りました。気持ちが少し上がるような、明るい青の電車でした。なんか、こういう素朴な感じ、いいなぁ。それに乗ったのは発車2分前。間に合いました。

 次は「野辺地」というところで大湊線に乗り換え、「下北」に行きます。乗り換え時間5分。下北では、下北交通というバスに乗り、恐山へ向かいます。

 夫に「お腹、空いて死にそう。何で、私の弁当捨てるの?」とメッセージを出しました。少なくとも、最果ての地に向かう妻は、生きているというメッセージです。本当にもう!お腹すき過ぎて、死者の魂に引っ張られるじゃないの!

 

 

2024年10月20日日曜日

おたまじゃくしの絵

  軽井沢の家の屋根裏をリフォームするにあたり、そこに押し込んであった子どもたちの衣類や工作・絵などをあれこれ見直しました。子どもたちと過ごす時間と同じくらいに幸せなひとときで、「これ着ていたとき、可愛かったなぁ」とか「そうそう、こんな面白い物作ったよね」とか当時を思い出し、胸がキュンとしっぱなしでした。

 娘は小さなころから絵が得意でしたので、娘の絵は木箱に入れたり、段ボールに挟んだりして、仕舞ってありました。その中で、とりわけ懐かしかったのは、娘が年長さんのときに描いたオタマジャクシの絵。この絵の一部を私が刺繍をしたのです。

 それを今回、東京に持ち帰り、いつも子どもたちの絵を額装してもらう近所の額装屋さんに持っていきました。とってもいい感じに仕上がってきました。

 1階のリビング・ダイニングに飾りました。娘が幼稚園のころ描いた絵は、動物も人も虫もみんなニコニコして、とっても可愛い。心が和みます。

娘が幼稚園・年長のときに描いた絵。右は私の刺繍


2024年10月19日土曜日

マイコプラズマ肺炎に

  今週月曜日から体調が悪く、ブログが書けませんでした。診断がついたのは昨日。マイコプラズマ肺炎でした。処方してもらった抗生剤と咳止め+市販の咳止め薬で何とか回復しつつあります。

 月曜日の夜38度超の熱が出て、火曜日には血尿(だと思います。赤に近い色の尿)が出て仰天。火曜日は日中熱は下がりましたが、夜にまた38度超の熱。咳が出始めました。水曜日は翌日会議での発表が控えていたので、自宅で発表用のスライド作りをしたため病院に行けず。この日も夜に38度の熱。木曜日の会議にはウェブ参加し、会議が終わってすぐに、まずは重大な疾患だと大変なので泌尿器科クリニックへ。

 血液検査をしてもらいましたが結果が出来るのが1週間後ということで、抗生剤と漢方薬を処方され、薬局へ。咳をしていました(もちろんマスクは着用しています)ので外で待ってくださいということで待つこと30分。名前を呼ばれて行って入ると、「すみません、在庫がありません」。

 寒さを感じながら外で待っていましたので、体がすっかり冷えてしまい、気力もなくなり、自宅に戻りました。ベッドに寝ていると、夫が「薬もらってきた?」と聞きます。

「在庫ないということだから、戻ってきたの」

「別の薬局に行かないの?」

「もう、体力ないんだよね」

「車で連れていってあげるよ」と言ってくれましたので、有難くお願いして、ぎりぎり午後7時より数分前でしたので、午後7時閉店の薬局を携帯電話で見つけてそこへ。そこでも「在庫なし」。もう諦めよう、という気持ちになりながら、車に戻りました。夫が、携帯電話で午後7時半まで開いている薬局を調べてくれていました。そこは地下鉄の駅の近くでしたので車で行けないため、車は車道に停めて、私が助手席で待って、夫が行ってくれることになりました。

 しばらく経って帰ってきた夫が「もう、閉まっていた」といいます。熱も出てきているのが分かりましたし、咳もひどく、「もう、諦めて帰る」と言うと、夫が「もう1件行ってみよう」と言い、携帯電話でまだ開いている薬局を見つけてくれ、そこへ。ここも夫が行ってくれました。私は助手席でぐったりです。

 すると夫が戻ってきて、「あったよ!」と薬を渡してくれました。薬剤師さんもとても親切だったようです。

 抗生剤と漢方薬でしたが、あまり効かず、その夜も38度の熱。とにかく咳がひどく、寝られません。あまり睡眠も取れないまま昨日の朝、内科のクリニックに電話をしました。 

 症状を説明すると12時からの「発熱外来」に来るようにと言われ、12時にクリニックへ。「新型コロナ」「インフルエンザ」いずれも陰性で、その後は検査をせずとも説明した症状で「マイコプラズマ肺炎」の診断でした。

 処方された薬は最初に行った薬局で在庫があり、ほっ。帰宅してさっそく飲みました。ただ、咳の薬が効かず、咳が止まらなくとても苦しいため、市販の薬を足して飲んでしまいました。それでようやく少しは呼吸が楽になりました。その後も処方された薬と市販の薬を一度に両方飲んでいます。1日2日数日間、少しぐらい薬の量が多い心配より、咳をし続ける苦しさよりはいいだろう、と開き直りました。昨夜、熱が出始めて5日目でようやく平熱に戻りました。

 金曜日は楽しみにしていた絵本の読み聞かせ、夜はバレエのレッスン、今日の土曜日は昼はお料理教室、夜はママ友と夕ご飯を食べる約束していたのですが、いずれも泣く泣くキャンセルしました。今の私の人生の楽しみ4つもキャンセルする結果になってしまい、メンタルもぐんと落ち込みました。

 さらに今日、食べるのを楽しみにしていたのですが、全く食欲がなく手を付けていなかった大好きな「ふらの雪どけチーズケーキ」をようやく食べられるようになったので、冷凍庫から取り出すと、あれっ、軽い。開けてみると、中身がない! 息子が全部食べてしまい、空箱を冷凍庫に入れてあったのです。

 「これって、ひどくない?」

 さすがの私も怒りました。息子が肩をすくめて「ごめんなさい。美味しいので全部食べてしまいました」。「ママさ、ずっと5日間具合が悪くて、ようやくスイーツが食べたいなと思うぐらいに回復したんだよ。これって、ひどいと思う」。私は中1の息子に真剣に文句を言いました。

 夫が「えっ、全部中身を食べて、空箱をまた冷凍庫に戻すの? それは残酷だなぁ」と吹き出しそうな顔で言います。「どこで買ったの?車乗せていくよ」。駅近くのスーパーまで連れていってもらい、車の中で待ってもらって、私はスーパーへ。「北海道フェア」はまだ続いていて、愛する「ふらの雪どけチーズケーキ」はまだ在庫がありました。それを一つつかみ、レジへ。ドライアイスをもらって冷やしたまま自宅に戻りました。

 そしてひと切れ切って、ようやく食べることが出来たのでした。もちろん、ケーキの箱の上には赤のマジックで「Do Not Eat!」と大きく書きました。8等分できるこのケーキは毎回息子とシェアしていますが、罰として、今回はこのケーキは息子とシェアしないことにしました。

 以前、母親の面白いエピソードを写真付きで紹介した本を読んだことがあり、思わず笑ってしまった写真のことをふと思い出しました。それは冷蔵庫の中の食べ物に貼られたポストイットの写真でした。そこに書かれていたのは、「食べるな! 食べたら殺す!」という文字。そのときはきっとお腹空いた息子がいつも食べてしまうからなんだろうなぁ、、、と共感しつつも、そのメモから伝わる怒りと真剣さに、思わず笑ってしまったのです。

 でも、自分事になると、同じようなことをしている自分がいました。別に息子から笑いを取るためにやっていません。「これは食べるな!」とこちらも鬼のような顔をして伝えているのです。食べ物の恨みは昔から恐ろしいのです。

 


2024年10月14日月曜日

軽井沢の家のソファ

  私は筋金入りの家具好きです。最初にちゃんとした家具を買ったのは結婚前で、三越札幌店で購入した、三越オリジナルブランドの「Brugge」(ブルージュ)のチェストでした。引き出しにチューリップが彫られたナラ材の美しいチェストで、それからボーナスが出るたびに買い足していきました。

 札幌の1LDKの賃貸マンションではこのチェスト2棹と楕円形のダイニングテーブルと椅子4脚を揃えました。

 東京に転勤となり、結婚して2LDKの賃貸マンションに移ってからは、カップボードとベッド、ライティングディスク、本棚と飾り棚を加えました。

 そして、現在の一軒家に移ってからは、カップボードをもう一つ、飾り棚をもう一つ、本棚を1つ加え、そして長さ220㌢のダイニングテーブルをオーダーし、来客用に椅子4脚を買い足しました。

 こうして、30年近くかけて一つ一つゆっくりと揃えていきました。軽井沢の家の家具は丸ごと全部、ブルージュです。三越家具はこの「Brugge」と「Country House」の2つのブランドを持っていたのですが、残念なことに「Brugge 」をやめてしまいました。ですので、なかなか買い足すことも出来ません。というか、家はもう家具でいっぱいなのです。

 それを残念に思っていましたが、たまたま、2人掛けのソファを見つけました。三越家具を製作する工場併設のショールームでした。軽井沢の家の暖炉を囲む場所は2つの一人掛けの椅子を置いてあり、家族で暖まりたいときは、ダイニングテーブルの椅子を持ってきていたのです。そこにもう一つ椅子を加えようと長い間、どこかで同じ椅子を見つけることを願っていたのです。このソファを見て、迷わず買いました。

 実は、三越家具はあちこちの家具屋さんに置いてありますので、運が良ければ、見つけることができます。現在東京の家にある、本棚とカップボード、飾り棚はスペインのお皿を売っている店で現品販売されていたのを買いました。そのスペインの皿の店の上にはイタリアンレストランがあり、家族で食事をした後にそのお皿の店に立ち寄り、この3つの家具を見つけました。迷わず、3つ”大人買い”。店主とブルージュの家具の美しさについて盛り上がり、そしてブルージュがなくなってしまったことを惜しみました。

 そして、先日、ショールームで見つけたソファ。昨日、軽井沢の家にそのソファが届きました。まるで、以前からそこにあるようにぴったりと収まりました。これまで使っていた一人掛けの椅子は、寝室に移しました。娘が帰ってきたら、これをまた居間に移し、4人で暖炉を囲んでおしゃべりするのが楽しみです。

 

居間の暖炉を囲む場所に新しく買った2人掛けのソファ

 

これまで置いてあった一人掛けの椅子

一人掛けの椅子は寝室に移しました。左は同じくブルージュのチェスト


2024年10月5日土曜日

天ぷら蕎麦

  秋分の日の週末、1カ月ぶりに軽井沢で過ごしました。息子の私立中学校は土曜日に授業があり、軽井沢へは片道で3時間前後かかるため、大型連休や夏休み以外は月曜日が休みの週末しか行けません。でも、その分、軽井沢での時間をこれまで以上に大切にするようになりました。

 5、6年前でしょうか。夫が、別荘地の近くに温泉を見つけました。この温泉は、自然の中にゆったりと建てられた豪華なホテルの中にあります。日帰りでも入れ、隣にはレストランが併設されています。娘がいるときは私と娘が女湯に、夫と息子が男湯に分かれて入り、1時間後に入り口前で待ち合わせて、そのままレストランに入り食事をしていました。

 このレストランは以前はイタリアンでしたが、数年前からお蕎麦屋さんに変わっています。イタリアンのときは空いていたのに、このお蕎麦屋さんに変わってからはいつも満席に近いほど混んでいます。私と夫がいつも注文するのは天ぷらと黒蕎麦のセット。息子と娘は「カマンベールチーズの天ぷら」と黒蕎麦を注文します。

 メニューの中には鶏の唐揚げなどもありますが、横のテーブルを見渡しても、皆さん天ぷらを注文していますので、この店の看板メニューなのでしょう。

 私たちはかつてのイタリアンも食べましたが、お蕎麦のほうがずっと美味しい。なぜそう感じるのか考えると、イタリアンはレストランで食べずとも自分たちでそこそこ美味しく作れ、天ぷらは自分では絶対にあのようにサクサクには作れないからだと思います。レストランで食事をするという非日常的な特別感を、あの天ぷら蕎麦で味わえるのです。

 娘がいるときは温泉に入り、その後天ぷら蕎麦を食べるのが楽しみでした。でも、今は娘がいませんので温泉に入るとしたら私は一人。夫と息子はおしゃべりしながらお湯につかりますので、「私一人で温泉に入ってもちょっと寂しいし、1時間も一人では入っていられないかも」と言うと夫が「寂しい気持ちは、分かる。温泉は娘が帰ってきたときに行こう」と言ってくれました。で、今回は温泉はなしで、お蕎麦だけを食べに行きました。

 夫が「僕が運転するから、君は飲んだら?」と言ってくれたので、私は日本酒、夫はノンアルコールビールを飲みながら、サクサクの天ぷらとお蕎麦をずずっといただきました。贅沢な時間でした。 


2024年10月4日金曜日

「おおきな木」

  私は月に一度、地元の公立小学校で絵本の読み聞かせをしています。息子が2年生のときに始め、この春息子が卒業した後も、卒業生ママグループの一員として続けています。

 学校に向かう通学路で、ランドセルを背負って歩く小さな子どもたちを見たり、学校の廊下や教室でお友達と楽しそうにおしゃべりをする子どもたちを見たりすると、我が子がここに通学しているときに学校の行事を手伝ったり、読み聞かせをしたり、なんて幸せな時間だったんだろうと思い返し、胸がキュンとします。

 私は子どもが大好きで、今度生まれ変わったら、保育園や幼稚園、小学校の先生をしたいと願っています。今回の人生では無理なので、せめて、子どもたちに関われるよう、絵本の読み聞かせを続けています。私にとってその時間は、自分の子どもと過ごす時間と同様、とっても幸せな時間なのです。

 9月の読み聞かせは4年生担当でした。ちょっと切ないですが、心にしんと沁みる本「おおきな木」(ジェル・シルバスタイン作、村上春樹訳)を読みました。この本の原題は「The giving tree」(与える木)。りんごの木が、愛する少年にりんごを、枝を、与え続けます。でも、少年はりんごの木の優しさを当たり前のように受け取り、その深い愛情に感謝をしたり、悲しみに心を寄せたりすることはありません。

 私は母親ですので、りんごの木の気持ちがとてもよく分かりますし、私も愛する子どもたちのためには同じようにするだろうと思います。が、一方で、私にも若いころ、少年のような身勝手さはなかったか?とも考えます。

 この本を読むのは今回で2回目。いずれも、最後のほうで、目頭が熱くなりました。読み聞かせる人が涙を流してはいけませんので、ぐっと堪えますが、そんな本なのです。

 前回読んだとき、ボランティアママさんが集合する図書室で、あるママさんが「おおきな木、読んだんですね。私、たぶんできない。読んでいる間に泣いちゃうから」と話しかけてきました。

「確かに。私も泣きそうになりました」と私。でも、これは私の読み聞かせの本のリストに入れることにしています。これからも時折、読んでいきたい。誰かの心に残ってくれたら嬉しいな、と思っています。

地元の小学校で読み聞かせをした「おおきな木」


 

2024年10月3日木曜日

真っ赤な服、親友とお揃いで

  10月5日に都内で開かれる高校(札幌)の同期会に向け、親友Nちゃんとお揃いの真っ赤な服を買いました。還暦記念にお揃いで買って着て行こう!と盛り上がり、張り切ってデパートへ。赤い服を探すのは難しいかも?と想像していましたが、なんと、30分で決まりました。

 まず行ったのはカジュアルな服を売っている「Tomorrowland」というブランド。今年は赤い服が流行なのか、ジャケットやブラウスなど赤を基調にした服があれこれありました。「まぁ、こんな感じね」とひと通り見て、同じフロアの次の店「アニエスべー」へ。

 店に入るや否や目に飛び込んできたのが、このブランドの定番の綿のジャケット。色は深みのある赤。「昔、これよく着た。懐かしい!」とNちゃん。定員さんは「そうなんですね。これは、40年ずっとスタイルが変わらない定番の服なんです」と胸を張ります。

 「この赤、可愛いね。試着しよう!」 ついでに見たワイドパンツも素敵だったので、一緒に試着することに。身長が私より10センチ以上高いモデルみたいなNちゃんはサイズM,私はサイズS(なぜか、この店の服は大きめでした)と違うサイズなので在庫もあり、二人で向かい合わせの試着室で着てみました。

 試着室から出てきて、お互いに「似合うよ!」と褒め合いました(これ大切です)。2人ともどこも直しがなく、「まるで私たちのために作られた服みたい」と盛り上がりました。店内のあちこちで店員さんに写真を写してもらい、二人とも大満足。運よく、店には私たち以外お客さんもいなく、存分に試着を楽しめました。服を購入した後は、デパート内のパスタ屋さんへ。ワインを飲み、パスタやピザをつまみながら、おしゃべりに花を咲かせたのでした。

 関東に住む同期生で今回参加するのは私たちを入れて26人。宮城、新潟、群馬、茨城など遠方からも参加します。私たち、お揃いの服で行ったら、皆びっくりするかなぁ?

高校の同期会に向け、お揃いの服を買ったNちゃん(左)と私


2024年10月2日水曜日

娘@メルボルンからの報告 気球

  私の母が娘と連絡が取れないと泣いて訴えてきた”事件” https://ar50-mom.blogspot.com/2024/09/blog-post_12.htmlから、娘とあまり連絡が取れなくなりました。先週は1週間ほど電話がつながらず、ずいぶん心配しました。ようやく週末に電話がつながりました。娘によると、「お天気が悪くて、誰とも話したくなくて、ずっと寮にこもっていた」といいます。

 メルボルンは時差が1時間なので、少し前までは、ダイニングテーブルに携帯電話を垂直に置いて、娘とフェイスタイムでつなげ、一緒(娘は大学の寮で)によく夕ご飯を食べました。そのほかにも、私と夫がそれぞれ娘に電話をし、おしゃべりを楽しんでいました。娘が一緒に暮らしていたときからそうでしたが、娘との会話が家族にとって癒しなのです。

 ですので、娘と連絡が取れなくなると、家族でパニックになります。それぞれが一日何回も電話をし、大変な量の着信になるので、メッセージに切り替えます。が、「心配だから、電話ください」というメッセージの応酬になってしまい、娘ももう読むのも嫌になったよう。こういうときに「我関せず」を貫くのは息子です。私と夫が大騒ぎしていると、息子がしらっ~とした表情で娘に電話をします。すると、娘も、弟からの電話には出るんです。で、安否確認ができる。やっぱり、きょうだいですね。

 ようやく電話につながった娘に聞いてみると、ずっと悩んでいたそう。で、悩んでいる間は人と話をしたくなかったと言います。

「それって、私ってなぜ生きているんだろう?とかいう哲学的な問題? それとも、学校の課題が多いとか絵が描けないとか現実的な問題? それとも、お友達とか恋とかそういう人間関係の問題?」

「うーん、大学卒業後に仕事が見つかるか? アートで食べていけるのか? という現実的な問題」

「そう。大学1年生なのに、もうそういうことで悩むの?」

「うん、この前、学校のフィールドワークで、アート専攻の卒業生たちのお話を聞く機会があったの。で、共通していたのが、職がないとか、生活するだけのお金が稼げないとか、そういう問題だったの。華々しく成功している人はいなかった」

「あぁ、そう」

 娘は夫の知り合いで、娘と同じ大学で同じアート専攻だった女性のお宅に時折伺ってご飯をご馳走になっています。とても有難いのですが、そこでも、思うようにならなかった人生の話になるらしく(同世代の私としては、そういう問題はご自身で解決してもらい、若者には希望を持ってもらうような話をしてほしい)、娘はアートを追求していく希望や夢が少しずつ薄れ、大学を卒業して仕事があるのだろうか?という現実的な悩みになってきているようなのです。

「あなたには才能があるから、今のまま絵を描くことに打ち込んでほしい。でも、アートの他に何か気になること、やってみたいことある?」

「うん、私、子ども好きだから先生になってみたいなぁと思う」

「そう。それなら、欧米の大学ではダブルメジャー(大学で2つの異なる専攻分野を主専攻として学ぶこと)が一般的だから、そちらを狙ってみたらどう? いくつか追加の単位を取って、教育実習を履修したら、1年ぐらいの延長で2つの専門分野で卒業できるかもしれないよ。でも、ダブルメジャーはそれなりに負担も大きいかもしれないから、まずはアート専攻の中に、将来アートを子どもたちに教える教職員への道がないかどうか調べてみて。若いころは全く別の仕事をしていたけど、年を取ってから学校の先生の仕事をしたくなって、学生時代に資格を取っておいたので出来たという話はよく聞くよ」

「あっ、そうか。そういう道もあるんだね」

「うん。卒業して、一念発起してまた大学に入り直すとかはかなりエネルギーがいるの。だから、学生時代に少し頑張って、将来に備えておくのもいいと思うよ」

「ありがとう。ママに相談して良かった。調べてみる」

 娘によると、今日は久しぶりの晴れで気持ちが少し上がってきて、家族に電話をする気持ちになったといいます。また、前日に、お友達数人とご飯を食べに行ったという楽しいイベントも心の在り様にプラスに働いたみたいです。

「今日はようやくお天気になったから、ママに電話をしようと思ったの。天気が悪いと気持ちも暗くなってしまって、誰にも会いたくないし、とにかく、部屋にこもっていたかった。今日はね、青い空に綺麗な気球が浮かんでいたの。それを見ていたら、気持ちが少しは晴れたの」といいます。

 夫と息子にも電話を回しました。娘は「ねぇ、楽しい話して!」といい、私たちの話を聞きたがりました。親が心配し過ぎるのは良くないとは分かっていつつ、日本にいたら駆け付けるのになぁと思ったり、いや、今が娘の成長のときだから見守ろうと思い直したり。親の私の心も揺れます。せめて、晴れてくれれば、と祈る日々です。


娘が送ってくれた画像。メルボルンの空に浮かんだ気球が綺麗

2024年10月1日火曜日

カラフルなゴミ箱

  遅ればせながら、この春から我が区の資源回収にプラスチックごみが加わりました。軽井沢ではずいぶん前から分別回収されていたのに、我が区ではペットボトルや瓶・缶、紙類は回収されていましたが、プラスチックの袋や発泡スチロールなどは燃えるゴミとして処理されていたのです。

 分別し始めると、燃えるごみのほとんどがプラスチックごみだということが分かりました。日々の暮らしで、野菜が入っている袋や肉・魚のトレー、お菓子の袋、洗剤のボトルなど多くがプラスチック製。ベーコンやお菓子が入っている袋などは中をスポンジで洗うなどして手間はかかりますが、これが資源となると思うとやりがいがあるというもの。

 分別するごみの数が増えましたので、これを機会に外に置いておくお洒落なゴミ箱を買いました。以前から欲しいなぁと思っていたのです。週末に家族で欧米の雑貨を売っている店に行き、まずは赤色を購入。送料が2千円ほどと高かったので、夫が持ち帰りました。猫の額ほどに狭い庭ですが、なかなか良い感じに収まりました。すっかり気に入って、緑と黄色を追加購入しました。

 カラフルなゴミ箱が来てから、分別がさらに楽しくなりました。日々の家事は楽しみながらやるのが一番。それと、やっぱり明るい色は気持ちが明るくなるものだなぁと実感したのでした。

 


 

 

 

 

2024年9月30日月曜日

休みの日には

  週末の文化祭の振替で、翌週の火曜日(月曜日は敬老の日で祝日でした)は息子の学校はありませんでした。こういう日は夫と私のいずれかが家にいることにしています。息子を家に一人にしておくと、終日パソコンでゲームをしていますので、どちらかが家にいてメリハリのある過ごし方をさせるように心掛けているのです。

 もちろん、息子は中1ですので、終日見張っているわけではなく、「勉強しなさい」というわけでもないのですが、「もうそろそろ、ゲームはやめなさい」「スーパーに一緒に買い物に行こう」「宿題はやったの?」「昼ご飯を一緒に作る?」などの声がけをするようにしています。 

 夫婦間で予定を調整し、その日は私が家にいることにしました。午前中早めの時間は息子と私の両方がダイニングテーブルでパソコンを広げて、それぞれやるべきことをしました。ひと区切りついたところで、息子に「ママ、キャラメル・ウォルナットタルトの作り方教えてくれる?」と言われたので、教えることに。これは私が家族のためによく作るお菓子で、子どもたちが大好きなのです。たまたま、材料も買ってありました。

 キャラメルはバターと砂糖を中火で溶かし、生クリームを加えて作ります。ポイントは加える生クリームの量をほんの少しずつにして、しっかりかき混ぜること。そうすれば、キャラメルが固まらずに、とろりとした状態でざく切りしたウォルナットを入れたクッキーの型に流し込むことが出来るのです。

 息子は私に言われた通りに、少しずつ生クリームを加え、ひたすら混ぜていきます。こういう根気のいることを出来るということは、やっぱり料理好きなのですね。

タルトにキャラメルを流し込む息子

 

焼き上がったタルト

 タルトをオーブンに入れた後、息子に「お昼ご飯は何食べたい?」と聞いてみました。「ケンタッキーかインドカレーのテイクアウトはどう?」と提案すると、息子はしばし考えて、「僕が作るよ」。

 ケンタッキーのフライドチキンやチキンフィレサンド、インドカレーのテイクアウトより、自分で作るほうを選ぶなんて、やっぱり息子は料理好きなんだなぁと改めて思いました。

 使いかけのニラやシイタケ、タマネギ、ベーコンがありましたし、炊飯器にはご飯も十分あったので、「オムライス」を提案しました。息子は「いいね!」と言い、早速、材料を切り始めました。

 みじん切りしたタマネギをサラダオイルを敷いたフライパンで炒め、その他の野菜やベーコンを切っていきます。それらをタマネギに加えてさらに炒め、ご飯を入れて混ぜ合わせてケチャップを入れます。塩コショウで味を調えて、お皿に。その流れがとてもスムーズで、見ていて気持ちがいい。

ケチャップご飯を炒める息子

 「ママ、薄い卵焼き作るの面倒だから、このままでいい?」と息子。

「もちろん! ケチャップご飯はそれだけでも美味しいから」と私。こうして、息子の作ったランチを美味しくいただいたのでした。


2024年9月29日日曜日

文化祭

  中1の息子の学校で「文化祭」が開かれました。最近、めっきり口数が少なくなってきた息子ですが、学校では友人たちと仲良くしている姿が見られ、ほっとしました。

 息子の学校は同じ学年に日本語で学ぶクラスと英語で学ぶクラスが併存する、ユニークな学校です。息子の学年は、日本語のクラスが3つ、英語のクラスが1つ。日本語のクラスは毎年クラス替えがあり、息子のクラスは高校3年生まで6年間一緒です。

 2022年に完成したという新校舎は都心にある12階建てのビルで、1階から6階までが息子の学校が、7階から10階までがインターナショナルスクール、11階が息子の学校とインターが共用する体育館、12階が屋上のフィールド(サッカーなどが出来る)です。

 娘の通っていた横浜・元町のインターにはグラウンドがなく、校舎の屋上と体育館で運動をすることになっていました。ですので、息子にはグラウンドで伸び伸び走り回らせたいーと願って中学受験をさせたのですが、唯一合格をいただいたのが都心にあるビルの中に入った学校という、何とも皮肉な結果に。でも、息子は毎朝自分で起きて、時間通り(7時ごろ)に家を出て、バスケ部での活動も楽しそうなので、こちらに合格をいただけて良かったと今は思っています。

 さて、文化祭です。子どもたちはそれは生き生きとしていて、紅茶と焼き菓子が食べられる「アリスの不思議な国」、タイムマシンに乗って未来に行きAIからの質問に答えを出していく「タイム・トラベラー」、迷路を舞台にした脱出ゲーム「インディアナ・ジョーンズ」、など様々なユニークなテーマがありました。もちろん、文化祭と言えば昔からある「お化け屋敷」も。体育館では吹奏楽部や軽音楽部の演奏も行われました。

 炒飯と餃子が食べられる中華料理店や、ワッフルとコーラが楽しめるアメリカの店、自分でカスタマイズできるシューアイスの店など、食べ物も充実していました。子どもたちはお揃いのTシャツを着たり、女子は浴衣を着たり、と楽しそう。皆の顔が生き生きとしていて、元気いっぱいで、私と夫も安心したのでした。

 娘が通っていたインターとの違いは、販売している食べ物の価格です。国からの助成がないインターでは親が支払う授業料で全てが賄われます。ですので、教材や運動用具、楽器などはバザーの収益で賄われます。そのため、バザーなどで提供される食べ物が、割高。でも、息子の学校は普通の私立学校ですので、ワッフルセット(ドリンク付き)が300円、炒飯が350円、焼きそばが250円、フランクフルトが100円と子どもたちがお小遣いで楽しめる価格。そこがいいな、とも思いました。

 何より、息子がお友達と食べ物を一緒に食べたり、笑ったりしているのを見られたのが良かった。息子が歩いていると横に何人かの男子が来て、息子の肩に腕を回して楽しそうにおしゃべりしている様子を後ろから眺めながら、「この学校にご縁をいただけて、良かった」と心から思ったのでした。

1980年代のアメリカを再現した店。ワッフルとコーラが美味しかった
学校が中華料理店に?テーブルも本格的です

こういうの、今風ですね。生徒の自主性を尊重した学校もなかなか良いです


2024年9月28日土曜日

アサガオやっと咲く

  相変わらず慌ただしい日々を送っています。毎日、ブログで報告したいことがあるのですが、朝起きて息子のお弁当を作り、朝食を食べさせ、身支度をして家を出て電車に乗って研究室に行き(週4日)、帰宅して夕ご飯を作って、洗濯物を取り込み、夕ご飯を食べて、片付けて、洗濯をして、パソコンでゲーム三昧の息子にお風呂に入って歯を磨くよう口うるさく言い、パソコンとスマホを取り上げ、化粧を落としてお風呂に入ったら、もう寝たくなってしまいます。

 そうしているうちに、あらら、あっという間に前回のブログから1週間も経ってしまいました。順不同になりますが、今日から頑張って報告します!

 まずは、最近、とっても嬉しかったことから。毎年たくさん咲いていたアサガオが今年はさっぱり咲かず、残念に思っていたのですが、ようやくこの1週間ほど毎日小さな花を咲かせてくれています。

 アサガオは息子が小学校1年生のときに学校で育て、秋に持ち帰ってきた種を翌年から毎年植えています。春に息子と一緒に玄関前の花壇に植え、夏に花を楽しみ、秋にはまた種を採り、茎を乾燥させてリースを作ります。口数が少なくなっている息子もアサガオの種を植えることは一緒にしてくれます。

 例年、花壇に2本の支柱を立て、1本の支柱につき3、4つの種を植えていたのですが、今年はもっと沢山の花を見たいと10個ぐらい植えたのです。そうしたら、なんと、葉がぼうぼうに茂って、夏は花がほとんど咲きませんでした。6年間植えていますが、こんなことは始めてでした。

 で、思い切って、葉や茎をかなり間引きし、様子を見てました。が、まったく咲かず。もう今年は諦めようと思っていたら、なんと、青い小さな花が咲き始めたのです。例年よりかなり小ぶりですが、可愛らしい。

「今年は沢山、植えちゃったからだね。来年はまたいつものように少しだけにしよう」と息子。やっぱり、欲張っちゃダメなんですね。 



 

2024年9月22日日曜日

熱海温泉へ

  敬老の日、86歳の母を熱海の日帰り温泉に連れていきました。母は「いつもテレビで見ていて、行きたいなぁと思っていた。嬉しい!」と思いのほか喜んでくれ、ランチを含めて半日の滞在でしたが、夫や中1の息子も楽しんだ良い日となりました。

 母は新型コロナウイルスの感染者が国内で初めて確認された半年前の2019年夏に東京に引っ越してきました。当時81歳だった母にとって、住み慣れた土地を離れるのは大きな決断だったと思います。

 東京での暮らしに少し慣れたころにウイルスの感染が拡大し、不要不急の外出が制限されました。私は、母をこちらに呼んで正解だったと胸を撫でおろしました。息子も小学生でしたし、私の病気の一つがウイルスにより再燃する恐れがあり飛行機による移動での感染が心配だったことから、札幌への帰省は難しかったからです。

 コロナ禍が収まりつつあった2022年8月、母が東京に引っ越して3年後に札幌の家を手放しました。この間の3年間、母もいろいろと考えたと思います。が、私と一緒に日帰りで札幌に戻り、家の売却手続きをしたときはもう、札幌や自分の家への未練は一切ありませんでした。とにかく、自分がまだ元気なうちに、片付けられるものは自分の手で片付けることが出来て良かったという安堵感に満ちていました。

 その1年半後の今年3月末、再び日帰りで一緒に札幌に行きました。父の遺骨を納めていた納骨堂をお寺に返し、遺骨を東京に持ってくるためです。すべての手続きを終え、母の気がかりだったことはすべて片付け、骨壺を大きなバッグに入れて母が大好きだった「かに本家」というかに専門店で食事をしたときは、母は晴れ晴れとした表情をしていました。

 そんな母の持ち物は2DKの賃貸マンションにすっきりと収まり、母は娘家族の家から徒歩5分のその住まいを“終の棲家”として、快適に暮らしています。体のあちこちに不具合がありますが、「年だから仕方ない」と割り切っているようです。

 さて、熱海の温泉です。海と一対化したような露天風呂につかりながら、母は思い出話をたくさん聞かせてくれました。ほとんどが、お姉さん6人とあちこちを旅行した思い出です。母たちは道内だけでなく、九州や沖縄、ハワイにも足を延ばしています。熱海にも来たそうです。

 母と伯母たちは1カ月に一度、それぞれの家に集まる「姉妹会」を開いていました。7人分の料理を準備するのは大変だったと思いますが、母にとっても伯母たちにとっても月に一度集まり、それぞれが腕によりをかけて作ったお料理を食べながら夕方までおしゃべりをするのは何よりの楽しみだったと思います。その姉妹会のときに旅行代として一人5千円を積み立てたそうです。お金の管理はしっかり者のフミコ伯母の担当。旅行の計画は一番若い母の担当だったそうです。

 「皆、すごいお金持ちでも、貧しくもなくて、同じぐらいの暮らしぶりだった。当時のひと月5千円の積み立ては結構な額だったけど、皆がそれを出来て、お金が貯まったら旅行に行けて幸せだった」と母。

 ツアーに参加し、他のツアー客も一緒の夕食会で7人が揃って挨拶したときは皆に驚かれたといいます。一番上のトシコ伯母が「私が一番上です」とあいさつ。そして順番に一言ずつ挨拶し、姉妹であちこちを旅行していると話をすると、皆から大きな拍手が起こったそう。そんな話を嬉しそうに母は語ります。

 赤ちゃんのころ養女に出されたもう一人の姉が何度か参加し「私も皆と一緒に育てられたかった」と大泣きしたこと、姉たちが少しずつ記憶力が落ちてきて「指輪がない!」と大騒ぎになって敷いたばかりの布団を皆でひっくり返して探したこと、一番上の姉からだんだん歩くことが難しくなっていったこと…。そんな切ない話にもなり、「皆、死んでしまって…。思い出話をする人もいなくなってしまった」と母は涙ぐみます。「まぁ、私が一番下だからね。仕方ないんだけど」とも。

 母の話を聞きながら、人の晩年は、人生で何を成しえたか、何を所有したかではなく、どれだけ楽しかった思い出を持てたかが大切になるのだなぁと思いました。母には、今回の熱海の日帰り温泉も楽しかった思い出として折々に振り返ってほしい。改めて、母が元気なうちに、こうした思い出をこれからも作っていきたいと思ったのでした。

温泉の休憩所から見える風景




2024年9月18日水曜日

諦めないこと

  先週の土曜日、新聞記者時代にお世話になったFさんに何年かぶりに会いました。Fさんは元西日本新聞記者で、現在は福岡で地元女性議員を増やすための活動をしています。今回、女性議員が多い東京都内の区議会を視察しにいらして、私に会う時間を作ってくださいました。

 Fさんとの出会いは20年以上も前に遡ります。Fさんと私は同じ記者クラブに詰めており、国会、政党、政治家や官僚への取材を一緒にし、取材手法や記事の書き方など、たくさん学ばせてもらいました。私ががんの治療で2ヶ月近く休んだときも、親身になって助けてくださいました。私が新聞社を退職した後も、親しくさせていただいています。

 コロナ禍の数年間は電話やズームでお話ししていましたが、今回、ようやくお会いできてとても嬉しかった。

 Fさんと話をしていると、現在の自分の無意識の行動が、実は新聞記者時代に培ったものだと気付かされます。仕事上で、その分野の専門家から「それは無理です。お金を払って専門家に頼んだほうが良い」と言われ奮起して、本を読んだり、無料相談を活用したりしてやり切った話をしたところ、Fさんが大笑い。

「その人、禁句を言ってしまったんだね。『あなたには無理』なんて」

「あははっ、確かに。私、無理とかダメとか言われると俄然やる気が出てしまう」

「それって、やっぱり記者やっていたからでしょう。私も、若い人が取材を断られたってしょげていたら、何言っているの!そこがスタートでしょうと発破をかけるもの」

「そうですよね。断られたところから取材が始まる」

  Fさんの指摘で、実は自分では自分自身のことを分かっているようで分かっていなかったことに気付きました。私は諦めが悪く、可能性がゼロでない限り何か方法はあるはずと思うタイプ。でも、単に諦めが悪いのではなく、「あなたには無理」「それは不可能」と人に突き放されたことで、逆に体の奥底からマグマのようなエネルギーが出てきて、そのエネルギーで猪突猛進することが多かった。普段はネガティブに考えがちだし、塞いでいることも多いのですが…。

 抗がん剤治療前に凍結した受精卵をがん克服後の7年後に子宮に戻して46歳で出産に至ったときもそうでした。45歳のときに不妊治療のクリニックの受付の女性から「こちらのクリニックでは治療は45歳までです。たとえご自身の受精卵でももう治療はできません。他のクリニックを探してください」と肩たたきにあいました。そこで奮起し、私の病歴から治療をしぶっていた院長先生に頼み込んで、子宮に戻してもらった。で、生まれたのが今中1の息子です。私が諦めのよい性格だったら、息子はこの世にいなかった。

 自著も、大手出版社のノンフィクション賞の最終候補に残り出版の予定で話は進んでいたのですが、突如担当編集者から「売れないという声が社内から上がったため、今回は断念させていただきます」と言われ奮起。自分で出版社を作って会社として登記し、編集も校閲も組版もデザインも印刷もすべて外注に出して、出版にこぎ着けたのでした。現在は2冊目出版に向け取材中です。

 軽井沢の家も、不動産屋さんの担当者に高飛車に「軽井沢で家を買うなら、3千万円はご準備いただかないと」と言われ奮起し、あちこち不動産屋さんを回り、「我々の仕事はお客様のご予算内で良い物件を見つけることです」という真っ当な不動産屋さんに出会い、ずっと安い価格で購入出来たのでした。

 現在通う博士課程も「あなたは医学のバックグラウンドがないし、年だから無理」と最初に目指した講座の教授に言われましたが、別の講座に出願。合格をいただきましたが、その指導教員からアカデミックハラスメントにあい一時は退学も検討。が、針の穴のような僅かな可能性を見つけ、何とか切り抜け、現在は別の教授の下、研究を進めています。大学としての責任からか私を引き受けざるを得なかった現在の教授も含めてアカデミアの世界ではずいぶん疎まれていますが、なんとか3年目まで来て、来年度博士論文提出の目途が立ちそうです。博士号を私に授与するかしないかは大学側が決めることで私の力の及ばないところ。ですので、目指せ!博論提出!です。 

 Fさんも女性議員を増やして女性の声を政治に反映させようと頑張っていらっしゃる。それも、地方から変えていこうという果敢な取り組み。地方は旧態依然とした体制も残り、高い壁が立ちはだかっていると思いますが、しなやかに、そして精力的に活動していらっしゃる。現在の女性の社会進出は、かつての諦めなかった女性たちやFさんのような力のある女性が切り開いてくれた道の上にあるのです。

 諦めずに、自分が出来ることをコツコツとやるー。自分の限界は人が決めるのではなく、自分が決めるー。定年退職後もより良い社会実現のため活動を継続されているFさんを目標に、私も微力ながら社会の役に立つよう頑張るぞ!と思ったのでした。

 

Fさんと行ったフランス料理店のメインディッシュ。白身魚のパイ包み