午後7時から、薄暗いお堂で行われた恐山菩提寺院代(住職代理)・南直哉さんの法話は、心に深く染み入るお話でした。死者の霊が集まると言われる恐山になぜ、人は来るのか? 南さんは、亡くなった方のご供養をしに来た方々が、実はご自身が幼少期から深い傷を抱えている場合も少なくないと言います。
小さいころ、母親が頻繁に外泊する中、幼いきょうだいの世話をし、酔いつぶれる母をも介抱した女性が、母にかけられた言葉のむごさに傷つき、それを抱え続けた人生を送った話。
それでも、南さんはこの年配の女性が救われるのは「お母さんを許す自分を許す」ことだと言います。南さんのご著書には、等身大の大きな人形を亡くなった一人息子として慈しんだ母親、目の前で子供を事故で失い絶望の中で生きる両親、親に愛されようと一生懸命親に尽くして結局は自分の納得のいく人生を歩めなかった人…。恐山にご供養に訪れるそのような方々の例がいくつも出てきます。
私は南さんのご著書を読みながら、私のような者がこう言うのはおこがましいとは思いますが、この方々の深い悲しみに心から共感しました。私自身、一人で恐山を訪れたのは、一人であの霊場に行かざるを得ない事情があったからです。そうでなければ、物見遊山で決して行くべきではないーと言われるあの場所に一人で行くはずがありません。
南さんは1958年生まれで、大学卒業後に2年間社会人生活を送られた後に出家された方です。ご自身のご家族にはお寺の方はいらっしゃらないそうです。出家された理由について、「恐山 死者のいる場所」(新潮新書)の中で、「私は小さい頃から、『生きる』ということより、『死とは何か』というテーマが、問題の中心にあった」とあり、「世俗にとどまったままではその問題をいかんともしがたく、とうとう出家してしまった」と説明されています。
「私は人の役に立ちたいという『尊い志』があって僧侶になったわけではない」(心がラクになる生き方、アスコム)とキッパリ言い切っていらっしゃいますが、人生で様々な経験をした後で出家するのではない、人生これからという20代で出家されるのです。世俗を離れた世界で、長い間の厳しい修行と深い思索を通して生まれたお考えは、読む者の胸を打ちます。
私自身、自身の問題に対しての答えを得るために、様々な本を読み、専門家のカウンセリングも受けましたが、答えは出ていません。でも、心の拠り所となる本は何冊かあり、南さんのご著書もその中の一冊です。今回、暗いお堂の中で、南さんを囲む宿泊客の一番後ろでお話を聞くだけでしたが、お目にかかれて光栄でした。
ただ、明るいお人柄なのでしょうか。落語のような語り口でお話しになり、文章から立ち上がってくる印象とは少し違っていたので驚きました。でも、そのことについてもご著書で「私はおそらく僧侶らしくない。実際に多くの人からそう言われてきた。君には信仰が無いんだねと真っ向から言われたことさえある。僧侶というより、哲学者だとも」(超越と実存、新潮社)と書いていらっしゃいます。実際に法話を聞いて、やはり、南さんのお考えを理解するには、ご著書を読むほうがずっと良いような気がしました。
そうこうするうちに法話の時間が終わりました。南さんが最後に宿泊客に念を押しました。「今日は大変風が強いですので、浜のほうにはいらっしゃらないでください。何かあっても我々は責任を取れませんので」と。間髪を入れず、「まぁ、これまで夜行った方はいらっしゃいませんが」とお笑いになりました。
私は、その言葉に深くうなずきました。昼間でさえ、あの場所に一人で行くのは勇気が要ります。たとえ、死のうと決意をしても、夜あそこに行くのは恐ろし過ぎて、死ぬのは諦めようと思うような気がします。「もう、生きるのはいいかな」と思った私でも、あそこは死ぬ場所には選びません。死ぬなら、僅かでもいい、遠くでもいい、人の気配があるところで死にたい。
法話が終わり、薄暗い長い廊下を通って、宿坊に戻りました。そして浴衣に着替え、温泉に向かいました。そこには、夕食のときに、私の左に座っていた女性も入っていました。その女性はいったい、どのような理由でここに来ているのでしょうか?
体が温まり、清潔なお布団に入って寝ましたが、風が強過ぎて、ガタガタという音が止まず、すぐ起きてしまいました。また、うとうとしても、音で目が覚めます。あまりに音がひどいため、午前2時過ぎに、部屋の中の布団置き場(人数が多いときはここも寝室になるのでしょう)に布団を移動し、襖を閉めて寝ました。恐山の宿坊の広い畳の部屋に一人。そして、強風でガタガタという音がなり続ける夜。あーあ、早く夜が明けないかしら? 私は、電気を付けたまま布団に横になったのでした。
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