2021年12月31日金曜日

2021年 私の挑戦 博士課程に出願

  31日午後5時半、修士論文の初稿を指導教官に提出しました! 数日前までは今年中の提出は絶望的だと思っていましたが、ギリギリの追い込みで提出できました。昨日から準備していた「うま煮」も合間に作り、これもギリギリのタイミングで夕食に間に合いました。

 今日も息子がずいぶん助けてくれました。キッチンの掃除も、フロアの水拭きとオイル塗りも、昨日から水に浸していた「豆きんとん」用の豆の皮むきも、全部手伝ってくれ、本当に助かった。夫もレンジ周りの掃除など率先してやってくれました。マイヤー家の男子は働き者なのです(娘はずっと部屋にこもっていました)。

「豆きんとん」用の豆の皮をむく息子

 さて、2015年にこのブログを初めてから、毎年大晦日にその年に挑戦したことを書いています。論文を提出し、夕食も終わり、「豆きんとん」も作り終えましたので、いまパソコンに向かって今年1年を振り返っています。毎年大晦日の夕食後が一番落ち着く時間なのです。

 病気から回復途上の2015年は社会復帰に向け、こわごわと一歩を踏み出したことを書いています。その後も、小さな挑戦を続け、一昨年当たりから大きなことにも挑戦するようになっています。

 今年の挑戦は、これまでのように社会復帰や趣味のため一歩を踏み出すというよりも、自分のこれからの人生の方向性を決めるような挑戦でした。自分の年齢や今後の生き方も含め、様々なことを考えて悩みましたが、「もし、駄目だったら落ち込むかもしれない。でも、挑戦してみよう!」と心を決めました。

 現在、私は都内の私立大学の大学院で学んでいます。先ほど提出した論文が通れば、来春修了予定です。論文に取り組む中、「研究を深めたい」という思いが強くなり、今夏、ある国立大学の博士課程の説明会に臨みました。

 オンライン会議システム「ズーム」で開かれた博士課程の説明会。各専攻の教授や準助教授らがそれぞれの専攻について説明します。そのうちの一つが、私の現在の研究テーマに近いと考え、早速、準教授に連絡をしてみました。

 博士課程の場合は、出願前に指導教官を選んでからでなければ、出願できません。まずは、指導教官を決めて、自分が持っている研究テーマを説明し、了解してもらえれば出願できます。現在の大学院の博士課程には、私の希望する専攻がなく、思い切って他を探すことにしたのです。

 説明会で「この指導教官なら」と狙いを定めた教官に連絡を取り、会いに行きました。厳しそうな人でしたが、私の研究テーマに理解を示してくれました。

 その後、米国の大学に成績証明書を、現在の大学院には成績証明書と修了見込み証明書を依頼。英語能力測定試験「TOEFL」を数回受け、志望動機と研究テーマを記したエッセイを書き、書類を揃えて出願。11月、「ズーム」で開かれた口述試験を受けました。

 口述試験はガタガタでした。表情の険しい教授陣による厳しい質問が続き、開き直って笑顔でベラベラしゃべりまくってしまいました。挙句に「答えは短く」と不機嫌な表情で返され、「あぁ、これが国立大の厳しさかぁ」と妙に納得。リラックスした雰囲気のなか英語で行われ、笑いもあった私立の大学院の口述試験とは違い、国立大の日本語での試験はとにかく厳しかった。

 「やっぱりダメだった。でも、挑戦して良かった」とサバサバした気分でいたところ、合格発表の日、大学のホームページ上に自分の受験番号を発見。夫、娘、息子に確認してもらい私の番号に間違いないことを確認し、数日後、郵送で届いた合格通知書を見て、ようやく合格の実感がわいたのでした。

 ということで、来春から、私は博士課程に進みます。希望して出願し合格をいただいたのに、今回論文書きにかなり苦労したので、ずっしりと気が重い。自信がまるでない。ですが、この年齢の私にチャンスをくれたことに素直に感謝したい。与えられた機会を大切にし、来年も毎日を大切に生きていこうと思っています。

 

今年も無事年越しそばを家族で食べることが出来ました。もちろん日本酒は「久保田」

2021年12月29日水曜日

息子の独り言

「受験になると、普通の呼吸がため息になっちゃう」

 朝食を食べているときに、息子がこうつぶやきました。24日に2学期が終了し、すぐ25日の朝から塾の冬期講習が始まりました。毎日3時間の塾での勉強に加えてその復習、昨日は算数の個別指導塾に行き、今日は国語の個別指導塾です。

 本来なら集団塾だけにしたいのですが、そこに任せていると頭の良い子はどんどん進みますが、出来の悪い子は理解しないまま遅れていき「お客さん」になってしまいます。 息子はすでに「お客さん」状態。これを打破するには丁寧に教えてくれる個別指導塾でフォローをしてもらわないと、とても受験など無理なのです。

 それでも、小4の息子はまだ素直ですのでブーブー文句を言いながら、勉強してくれます。私も、修士論文の執筆が遅れ、お尻に火がついています。ですので、私がパソコンに向かってキーボードを打ったり、唸ったり、「どこに行っちゃったの!」と叫びながら大量に積まれた資料をガサゴソしている横に座り、「お互い、大変だよね」と言いながら勉強してくれるのがありがたい。

カオス状態の私の机の横に座り、漢字練習をする息子

 クリスマスやお正月など、おざなりにできないイベントが続きますので、本当に忙しい。クリスマスには子どもたちの好物の料理やケーキを作ってあげたいし、お正月に母が楽しみにしている日本酒や和菓子も買いに行きたい。美味しいものは皆が買いますので、品切れする前に買いに行かなければなりません。すでに、いつも行く百貨店で目当ての日本酒が品切れており、昨日、別の店に買いにいったばかりです。

 娘のコートが小さくなったので、買いに行かなければ…。息子の習い事の日程の調整をしなければ…。来年早々に2人のヴァイオリンの発表会があるので、練習をさせなければ…。「うま煮」や「きんとん」の材料も買いに行かなければ…。

 さらに、娘がお友達とうまくいかず、落ち込むという”事件”がありましたので、フォローも必要でした。「二人で美味しいケーキを食べに行こう!」と気分転換に一緒に出掛けたり、涙をこぼす娘の話をじっくりと聞いたり。昨日、アドバイスしたことがうまくいき、今日お友達と待ち合わせをして昨日買ってあげた新しいコートを着て娘が嬉しそうに家を出て行ったときは、本当に安堵しました。

 クリスマス明けまでに出す予定だった論文の初稿がまだ、出来ていません。このブログを読んでくださる皆さんも、きっと目が回るような忙しさではないでしょうか? 有難いのは、これらの用事をこなせるだけ私の体調が良く、健康になったということ。感謝しながら、パソコンに向かいます。


 

 

2021年12月27日月曜日

シルクハットとステッキ

  今年も、小4の息子と高2の娘のところにサンタさんが来ました。いつもは別々に寝る2人もクリスマスイブは娘の部屋で一緒に寝ます。サンタさんが部屋に入って来やすいように、梯子を窓の横にセッティング。もちろん、窓の鍵は開けておきます。お腹が空いているだろうサンタさんのために、アップルパイとお水も準備しました。そして、25日の朝、子どもたちが目覚めたときには今年もちゃんとプレゼントが届いていたのです。

 アートが好きな娘にはイラストブック。娘は「これが欲しかったの」と嬉しそう。目や鼻などの体のパーツや動物、草木などについて細部にわたる描き方のコツを教えてくれる本です。アートのクラスで、人物の目などを何度も描き直している娘にとっては、ドンピシャリのプレゼントでした。

 息子には、シルクハットとステッキでした。息子は「サンタさんにこれを頼んだんだ」と大はしゃぎ。早速、帽子を被り、ステッキをつきながら家の中を歩き回りました。

 今年のクリスマスはとてもスムーズでした。イブは夕方に教会に行き、料理担当の私がチキンとマカロニチーズグラタン、アップルパイを作りました。

クリスマスイブの食卓

 25日の早朝は夫の両親とオンラインの「ズーム」でお話しました。義父母が送ってくれたプレゼントを開け、その様子をリアルタイムで義父母が見られるのは、とても良かった。

 義父母と1時間ほど話をした後、息子は塾の冬休み講習へ。午前8時45分から11時45分まで3時間です。塾が終わった後、私の母と娘と待ち合わせして、サーティワンアイスクリームへ。私の母にアイスクリームケーキを買ってもらい、帰ってきました。

母が買ってくれたサーティワンのアイスクリーム

 25日は夫も料理を作ってくれました。アジとトマトのお料理と、クラブケーキ(カニのコロッケのようなもの)です。私が作ったのは、サーモンのローズマリー風味と、ポテトのお料理、ステーキです。母は肉とチーズなど乳製品が苦手で、かつ、歯が悪いので硬いものも食べられません。ですので、母も食べられる料理を準備するために、2日に渡ってクリスマスの食事を作りました。子どもたちはご馳走を続けて食べられて、大満足です。

25日の食卓。子どもたちにはステーキ、母にはお魚の料理

 シルクハットを被りながら、塾へ行く準備をする息子を見ると少し可哀想になりましたが、帰宅後はクリスマスプレゼントのDVDを見られるので、良しとすることにしました。今年は心配事もなくクリスマスを祝うことができ、本当に良かったです。 

サンタさんにもらったシルクハットを被りDVDを観る息子


2021年12月23日木曜日

やっぱり札幌ラーメン

  高2の娘が通うインターナショナルスクールは、息子が通う地元公立小学校より1週間早く学校が終わります。国際バカロレア(IB)という各国共通の大学入学資格を得るためのプログラムで勉強し、課題に追われる日々を送っている娘にとって、一番の楽しみは「札幌ラーメン」を食べに行くことでした。

 何度かこのブログでも書いた、隣駅の商店街にあるラーメン店。ここの味噌ラーメンは本場の札幌ラーメンそのもので、本当に美味しいのです。いつ行っても店の前には人が並んでいるほど。

 息子の学校の振り替え休日の日に、息子と私がこのラーメンを食べに行ったことが不公平に思えたらしく、娘は「ママと2人でラーメンを食べに行きたい!」と言います。で、夫と息子、私と娘の2グループに分かれて、ランチを食べに行きました。ちなみに、男子グループが行ったのはハンバーガー店(アメリカ人の夫にとっての故郷の味)です。

 満を持してラーメン店に行った娘が注文したのは、もちろん「厚切りチャーシュー入り札幌ラーメンの大盛り」。私は大盛りは食べられませんが、厚切りチャーシュー入りを2度食べたことがあります。その2度の挑戦で「私には無理」と分かりました。で、今回は普通のラーメンにしました。

 娘によると「厚切りチャーシューが食べられるかどうかは、若いか年取っているかという判断基準なんだよ」とのこと。「たとえ、お爺さんでも厚切りチャーシュー入りラーメンが食べられるということは、若いということなの」。なるほど。何となく分かるような気がします。

 先日、息子と一緒に行ったとき、息子もこの厚切りチャーシュー入り札幌ラーメンの大盛りを注文しました。小4の息子が食べ切れるかどうか疑問でしたが、息子はスープの最後の一滴まで飲み干し、完食。

 蕎麦を粋にすする江戸っ子ならぬ、味噌ラーメンを豪快にすする”道産子”の血が彼に流れていることを、私は実感したのでした。生粋の道産子の私としては、その息子の姿を誇らしくさえ思いました。

 さて、娘です。最近、体重の増加が止まらない娘はさすがにスープを飲み干すのは控えましたが、チャーシューも麺も全て食べました。「あぁ、美味しかった」と満足気な娘の顔を見て、私も幸せな気持ちになった1日でした。

厚切りチャーシュー入り大盛り札幌ラーメンを前に、手でハートマークを作る娘


2021年12月22日水曜日

続く訃報に…

  歌手で俳優の神田沙也加さんの訃報に、気持ちが落ち込んでいます。18日は札幌で大雪が降りました。札幌出身の私は、灰色の空からしんしんと降る雪を眺めるときの気持ちが分かりますので、窓から外を眺めたときの沙也加さんの心の在り様に思いを馳せてしまいます。

 報道によりますと、事件性は否定され、沙也加さんの死は転落によるものだということです。唯一の救いは、慕っていたというお父さんの神田正輝さんと当日の朝電話で話していたこと。沙也加さんが荼毘に付された21日は、神田さんの誕生日だそうです。大好きなお父さんにいつまでも自分のことを愛していてほしいーと沙也加さんは願っていたんだろうな。辛いことがたくさんあった中、せめてその願いは通じたんだねーと考えてしまいます。

 子どもをこのような形で突然に失ってしまった神田さんと松田聖子さんの悲しみはいかばかりかと胸が痛みます。我が子を失う以上の悲しみはないと思います。なぜという気持ちと、あのときああすればという後悔の気持ちが交じり合い、心が張り裂けそうな状態だと思います。

 東京から札幌は遠い。私の父が亡くなった夜のことも思い出しました。最終便に間に合わず、まんじりともせずに朝を迎えて翌朝羽田空港発の第一便で新千歳空港に向かったあの日。すぐ駆け付けたくても駆け付けられないー。松田さんも神田さんもきっとそういう気持ちだったのだろうーと想像します。

 沙也加さん、どうぞ、天国ではのんびりと穏やかにお過ごしください。あなたのお父さんとお母さんはいつまでもずっとあなたを想っていますよ。

 昨日21日は、イル・ディーヴォのカルロス・マリンさん(53歳)の訃報が伝えられました。イル・ディーヴォは私が最も好きなグループです。コンサートには母を連れて、そして、私のメンターで大学時代からの友人のIさんとも一緒に行きました。

 情熱的な深い歌声と人懐っこい笑顔がとても素敵な人でした。世界中の多くのファンを魅了したカルロスさん。今度は娘を連れてコンサートに行こうと計画していました。カルロスさんの歌声をもう聴けないことが残念でなりません。

 カルロスさん、たくさんの人があなたの歌を愛していました。どうぞ、安らかにお眠りください。

 

 

2021年12月13日月曜日

「二月の勝者」は現実そのもの

 土曜日午後10時に日本テレビで放映されているドラマ「二月の勝者」ー。東京の中学受験塾に通う子供たちと、塾講師、そして家族を巡るこのドラマは、東京の塾激戦区に通う子供たちの実情をよく表しています。

 ママ友のほとんどが見ていて、先日久しぶりに開かれたランチ会でも話題になりました。昨春息子が中学受験を終えたママは「6年生の親にとってはリアル過ぎて、見ると辛くなるかもね」とコメントしていましたので、かなり現実に即した内容なのでしょう。

 私の小4の息子も中学受験に向けて塾に通っていますので、私は原作の漫画を読んでいました。既刊14巻は全て購入したほど、関心があります。

 原作を読んでいますのでテレビドラマにはさほど興味を持っていなかったのですが、ママ友たちに勧められ、先々週見始めました。テレビドラマですので、多少の誇張はありますが、現実は本当にあの通りと感心しました。すっかり”ハマって”います。

 先々週は、塾の入り口に貼られたクラス替えの結果を見て、子どもたちが喜んだり、落胆したりするシーンで始まりました。息子の塾でも紙こそ貼られていませんが、クラスは毎月行われるテスト結果により、成績順に割り当てられます。その結果で親子共々一喜一憂するのは同じです。

 息子の塾のホームぺージで、テスト結果の詳細とクラス分けの基準点について見られるようになっています。ですので、自分の子どもは何点足りなくてクラスが下がった、もしくは、ギリギリの点数でかろうじて同じクラスにとどまったなど即座に分かります。

 テストの解答の一つ一つには、ご丁寧にも正答率がついています。ですので、たとえば92%の子どもが正解だった問題でミスしたけれども、8%の子どもしか答えられなかった問題で〇をもらった。単純ミスをいくつか無くせば、上のクラスに上がれる…などと分析出来てしまうのです。

 これが親の精神衛生上良いかどうか分かりませんが、しっかりとした親はこういうのを分析して、子どもの得意なところや弱点を知り、効果的な勉強をさせているかもしれません。

 前回のテストで、息子は苦手な国語社会のクラスを1つ下げてしまいました。意味のなさない、ひらがなが並ぶ息子のテスト解答用紙を見て、ため息が出るばかり。正答率を見て分析どころではありません。「これを読む先生もすごい」なんて感心してしまうぐらいの状態です。

 3カ月前には得意な算数理科のクラスを2つも下げてしまい、そこからなかなか上がりません。時折、息子は「問題がよく分からないんだ」と言っており、国語の習得が遅いという問題が全てに波及しているような気がしました。娘もちょうど小学校4年生あたりで、国語に遅れを取り、それが今でも響いています。ここで手を打たなければ大変なことになるかもしれないーと考えました。

 中学受験を昨春成功裏に終わらせた男子を育てるママ友2人にラインで聞いてみました。すると1人のママは、「男子は国語駄目なのよ。ましてや塾の問題は、”御三家”狙う子に合わせているから、難しいのよねえ。うちは集団塾に加えて個別指導塾に通わせていたわよ」とのこと。もう1人も「うちは偏差値30台まで落ちたから、5年生から個別指導塾にも通わせた。6年生になってからは過去問だけやってもらったわ」ー。偏差値30台の子が身近にいたというだけで、気持ちが落ち着きました。そして、賢いママは早々に次の手を打っているのです。ここは見倣わなければ…。

 右往左往していた私ですが、ママ友に勧められた国語専門塾に連絡を取り、先日、息子に体験をさせました。入会する予定です。息子には週2回行っていた水泳教室を当面の間週1回で我慢するよう伝えました。

 息子は「偏差値30台まで来たから、今度は20台を目指すね」などと初めはふざけていました。が、私に「そっちの方向、やめてほしいんだけど」と呆れられ、「分かったよ。今はプールより、国語の塾に行ったほうが良いと僕も思うし」と少し残念そうな表情で納得しました。自分でも、授業で分からないことが増えているのが、嫌なのでしょう。中学受験は本当に大変です。息子は、いいえ、私はこの受験を乗り切れるのでしょうか。

 さて、息子の通う公立小学校ではたくさんの子どもが中学受験をします。ですので、息子の仲の良いお友達は全員、塾に通っています。皆4年生のうちは塾に加えてサッカーや水泳、楽器などの習い事も続けていますので、遊ぶ時間もほとんどなくなっています。が、一昨日、息子が「〇〇君に、漫画買いに行こうって誘われた!」と喜び勇んで帰ってきました。

 本当はその日に塾の小テストがあったので復習させる予定だったのですが、友達との遊びは優先順位1番。塾の道具を急いでリュックに詰めさせ、待ち合わせ場所の駅前に車で送りました。息子の勘違いで、行っても誰もいなかったーということがあると可哀想ですので、そのお友達のママに電話をしてみました。すると、その子もママにうちの息子と漫画を買いに行くと報告しているようです。安堵するとともに、習い事までの隙間時間に一緒に出来ることを見つけるなんて、賢い子だなと感心しました。

 駅前の広場で男子2人が走り回っていました。その友達を見ると私まで嬉しくなりました。「いってらっしゃい!塾に遅れないようにね」。友達の方に向かって走る息子のリュックが、上下に弾んでいました。

 

2021年12月1日水曜日

「空気読めない?」

  小4の息子が通う地元の公立小学校では、3年生の3学期から多くの子どもが中学校受験に向け塾通いを始めます。息子も、息子のお友達も、近所の同級生も皆どこかの塾に通っていて、塾に行っていない子はほとんどいません。ですので、放課後にお友達と遊ぶことがほとんどなくなってしまいました。

 先日、久しぶりに学校が早く終わる日がありました。夜6時15分から始まる水泳教室まで時間がありましたので、前日息子に「誰かお友達を誘って、公園にでも行っておいで!」と勧めました。息子は「うん!同じクラスの子に声かけてみる」と嬉しそうでした。

 翌日の放課後、息子にお菓子を持たせて送り出しました。息子は張り切って自転車に乗って出かけました。ところがしばらくして、息子が落ち込んだ様子で帰ってきてしまったのです。

「どうしたの? お友達いなかったの?」

「いや、いたよ」

「皆ゲームを持ってきていて最初は皆がゲームをやっているのを見ていただけ。『せっかく公園に来たから、遊ぼうよ』って誘って、『どろけい』をすることになったんだ」

 「どろけい」は、子供たちの間で人気の、泥棒と警察の2グループに分かれて遊ぶ鬼ごっこです。

「楽しそうじゃない」

「うん、最初は楽しかったんだ。でも、しばらくして、誰も探しに来ないから、様子見に行ったら、皆ゲームに戻っていて『とっくの前に終わっている』と言われた。だから、帰ってきたんだ」と残念そうな顔で言います。

 息子は外遊びが大好きですが、どうもお友達は皆ゲームとかが好きなようで、一緒に遊んでくれないようなのです。

 その話を夜、娘にしてみました。娘は「私もそういうことよくあったなぁ。私たち、空気読めないのかなぁ」と苦笑いします。

 私も遠い昔のことを思い出しました。小学生のときです。お友達にグラウンドで遊ぼうと誘われて、喜んで行ったら、誰もいなかった。グラウンドの端にあった鉄棒にぶら下がってグラウンドを眺めました。結局、待っても、待っても誰も来ませんでした。今でも、折々に悲しい気持ちで眺めた広いグラウンドを思い出します。

 息子も将来、待っても待っても友達が探しに来ない広い公園のことを思い出すのかなぁと考えると、ちょっぴり切なくなりました。

 娘の言葉に呼応し、「ママも同じだよ。友達に誘われてグラウンドに行ったけど、誰もいなかった。寂しいよね、そういうときって」と言うと、娘が「じゃあ、3人とも空気読めないのかなぁ?」「そうだね」と3人で大笑いしました。

 少ししてから、息子がまた寂しそうな表情に戻り寝室に行ってしまいました。様子を見に行くと、息子はベッドにもぐりこんでいます。布団をひっくり返して、ぎゅっとハグしました。息子はまだ、抱き締められるくらい小さくて(181㌢の娘をハグするときは背伸びし、娘も前かがみになります)、愛おしさで胸がいっぱいになりました。

 息子にとっては少し寂しい日でしたが、娘と3人でそれを笑って受け止め、穏やかに一日を終えることができました。たぶん、これで息子は大丈夫だと思うようにしています。

2021年11月19日金曜日

「父」を見掛ける

  小4の息子は週2回水泳教室に通っています。教室は車で20分ぐらいのところにあり、近くには百貨店やモールがあります。息子が泳いでいる間、私は買い物をしたり、書店に行ったり、カフェでお茶を飲んだり、などして時間を過ごします。

 先日、百貨店内を歩いていると、向こう側から亡父とそっくりな人が歩いてきました。細身の体に野球帽をかぶり、銀縁のメガネをかけています。片手は、脳梗塞の後遺症で右手が不自由だった父が歩いていたときと同じように握りしめられ、片足を引きずるように歩いていました。あまりにも似ていて、その男性が側を通り過ぎたとき、「お父さん!」と声を掛けそうになりました。

 その男性は、30代ぐらいの男女に見守られて歩いていました。お子さんたちか、お子さんとその配偶者の方だと思われました。私はもう一度、その男性の顔を確かめたくて、方向転換して戻り何気ない振りをして歩き、その男性の顔を見ました。前から見ても横から見ても後ろから見ても、まるで父でした。

 思わず声を掛けそうになりましたが、躊躇しました。その男性が一人で歩いていたら、ためらわずに声を掛けていたと思います。でも、心配そうな表情で気遣いながら、男性の横をゆっくりと一緒に歩く男女の存在が私を思いとどまらせました。私は「お父さんであるはずがない」と自分に言い聞かせ、進行方向に向かって歩きました。

 それでもやはりその男性のことが気にかかり、「声を掛けてみよう」と決心し、振り返って急ぎ足でフロアを探しました。が、もうどこにもその3人組はいませんでした。声を掛けなかったことが悔やまれました。

 でも、最近気持ちが塞ぐことが多い私を心配して、父は私を見守っていることを伝えに来てくれたのだーと思い直しました。それほどに、その男性は風貌から歩き方まで、父にそっくりでした。

 その話を帰宅後、娘にしました。すると娘ははっとした表情をして、私にこう言いました。

「今のママの話を聞いて、私が小さいころから時折起こっていた不思議な出来事の意味が分かったような気がする」

「不思議なことって何?」

「私はね、小さいころからたぶん1年に1、2度だと思うけど、男の子にぶつかられるの。その子は私と同い年ぐらいで、いつも後ろから私にぶつかってくるの。自転車に乗っていたり、走っていたりするんだけど、ちょっと体が触れて、『すみません!』って通り過ぎるの」

「顔は見たことがあるの?」

「ううん、一度もない。でも、似たようなことが年に1、2度起こるから、不思議だなって思っていたの」

「そうかぁ…。アンディかもね」

「うん、絶対アンディだと思う」

「アンディが様子を見に来てくれたんだね」

「うん。そうだと思う」

 娘の目に涙が浮かんでいました。アンディは娘の双子の弟の名前です。

 私と娘の不思議な体験の解釈は、「あの世にいる人は時折この世に降りてきて、気にかけている人の側に寄り添ってくれるのだ」ということでした。思い込みかもしれませんが、その思い込みは、当人にとっては生きる上での励みになります。

 私はあの男性は父だった、と思っています。あれから、父が応援してくれているから、頑張ろうと思えるようになりました。 

2021年11月16日火曜日

今年最後の軽井沢

  晩秋の軽井沢はやはり綺麗でした。紅葉が見事で、心が洗われました。

 娘が幼稚園の年少さんで、私がまだ病気との闘いの真っ只中にいたときに購入した軽井沢の家。ここで過ごした娘と夫と3人での穏やかな時間、後に生まれた息子も加わった賑やかな時間は私にとってかけがえのない思い出です。

 最近は週末に子どもたちの用事が入ることが多く、前ほど頻繁に行けなくなってしまいました。先月は私と娘が札幌に行った週末、夫が息子を連れて行っただけ。先日、珍しく土曜日丸一日誰の予定も入っていなかったので、ようやく行くことができました。

 出発は金曜日の夜8時過ぎ。衣類はそれぞれが自分のバッグに詰めて玄関に置いてあります。それらと、冷蔵庫の中の食材を保冷バッグに詰めて車に積み、最寄り駅で塾帰りの息子をピックアップ。そのまま「環七」と呼ばれる東京都道318号環状七号線に乗り入れます。

 後ろの座席に座る子どもたちとおしゃべりしながら約1時間車を走らせ、長野・新潟方面に向かう高速道路「関越自動車道」入口の少し前にあるコンビニエンスストアに寄り、おやつと飲み物を買うのが慣例。ここで、運転を夫と交代します。

 高速道路では、大体夫が「キレまくって」運転していますので、夫のピリピリした雰囲気に影響を受けないようにします。もっぱら、子どもたちとおしゃべりしたり、しりとりをしたり。そうこうするうちに子どもたちが寝てしまいます。

 高速道路を降り別荘地の入り口に入ったのが10時半。いつものように2時間半で着きました。別荘地を入って斜面を上がり何件もの家を通り過ぎてくねくねと曲がる道路を上がっていくと我が家のある通りに入ります。まずは、合田さんの家です。彼は5,6年前にこの家を購入し、週末に訪れては日曜大工でこつこつとリフォームをしています。今週末は来ていないようです。

 さらに2件を通り過ぎるとお隣の加藤さんのお宅です。今年は加藤さんをお見掛けしませんでした。私の両親よりも年上ですので、もしかしたら、体調が良くないのかもしれません。前方に週末をこちらで過ごす佐藤さんの車が見えます。がらんとした通りに停めた車を見るだけで、人の気配を感じる気がして、ほっとしました。

 さて、我が家に着きました。ドアを開けて、荷物を入れて、子どもたちをベッドに寝かせます。運転を終えて気持ちが落ち着いた夫と、持参したワインをグラスに入れて乾杯。夫は赤ワイン、私はスパークリングワインです。

 さっそく夫は薪を取りにいきます。とにかく軽井沢は寒い。電気ストーブを2台つけても、なかなか暖まりません。薪ストーブに火を起こし、薪をくべて、毛布にくるまってストーブの中で揺れる火を見ながら部屋が暖まるのを待ちます。こんな風に軽井沢の家の金曜日は終わります。

 土曜日の起床はゆっくり。大型スーパーに買い物に行って、バーベキュー用の食材と軽井沢に来たら必ず食べるシュークリームを買います。スーパーの外のベンチに座りそのシュークリームをほおばり、セルフィ―で写真をパチリ。

 帰宅後は夫と息子がバーベキューの火をおこし、私が食材の準備。娘はテーブルで勉強です。今日のメニューは夫と子供たちがステーキ、私はホッケです。ホッケはバーベキューで焼くのが一番美味しいのです。デッキは10月に夫と息子がペンキを塗って使えませんので、玄関の外で焼いて、家の中で食べました。 

働き者の息子

 土曜日の午後はそれぞれがのんびりしました。落ち葉をかき集めて、そこに倒れ込む遊びを高2の娘が今年もしてくれて(落ち葉を集めるのは息子の役目)、嬉しかった。最近ぐんと言動が大人びてきた娘の、子どもらしい一面を垣間見ることができて、ほっとしました。

落ち葉のクッションに倒れ込む子どもたち

  息子はぬいぐるみの「ベア」と一緒にハンモックの中でくつろぎました。私も少しだけ、一緒に寝かせてもらいました。とても幸せな気持ちになりました。そして、夕方からは皆で家の中の掃除や片付けをしました。

ハンモックの中でくつろぐ息子とぬいぐるみ
 
 名残惜しかったのですが、日曜日は娘の用事がありましたので午前6時に出ました。
「バイバイ!軽井沢ハウス!また、来年来るからね!」 皆で家に手を振りました。来春をを楽しみに待ちましょう。 

2021年11月9日火曜日

娘の体を支えたもの

  脇の下にこれを入れて体を支え、歩く女子がこの日本にいるなんてと多くの方が驚かれるのではないでしょうか。そう、身長181㌢の我が娘が使っていた松葉づえです。先月、バレーボールのクラブ活動中に足首のじん帯を痛め、約1カ月間使っていました。 

娘が使っていた松葉づえ
 このたび、これを学校の保健室に返すことになり、”記念に”写真を撮りました。私の身長は158㌢ですが、ちょうど私の耳の横に松葉づえの「脇当て」があります。娘によると、これが最長だそうで、それでも娘は前かがみで歩いていました。

 開き直っている娘は、グランマがプレゼントしてくれた8㌢ヒールを履いて、世間を堂々と歩いています。身長193㌢の夫とほとんど変わらない背丈です。

 とにかく、大きいです。娘は高2ですので、もうそろそろ止まってくれたらと願っていますが、よく寝ますので、まだ少しずつ伸びているような…。将来のボーイフレンドが娘より背が高い確率は、かなり低いような気がします。

2021年11月4日木曜日

マイヤー家のハロウィーン 2021

  今年もマイヤー家はハロウィーンを楽しみました。家族で、毎年恒例のパンプキン彫り。息子は、最寄りの町内会で企画してくれたハロウィーン・パレードに張り切って参加しました。

 パンプキンは毎年、軽井沢の農協直販の店で仕入れます。今年は私と娘が札幌に帰省した週末に、夫と息子が軽井沢に行き買ってきてくれました。店で販売していたのは1個だけだったようで、夫は「家族分は確保できなかった」と残念がっていましたが、息子と娘が楽しむには十分な大きさです。

うまくいったよ、パンプキン彫り

 私はパンプキンパイを焼きました。いつもは大きいサイズで焼いて切り分けますが、今年は小さなサイズに挑戦。「カボチャがホコホコしていて美味しい」と喜んでくれました。

子どもたちが大好きなパンプキンパイ

 息子は忍者のコスチュームで、パレードに参加しました。キャンディをたくさんもらって帰ってきました。新型コロナウイルスの感染防止策を徹底しながら、町内会が子どもたちが楽しめるイベントを企画・実施してくれたことに感謝。

パロウィーン・パレードに出掛ける息子

2021年10月27日水曜日

2年ぶりに札幌の実家へ

  新型コロナウイルスが国内に広がる半年前の2019年夏に母を東京に呼び寄せてから、2年数カ月ぶりに札幌の実家の様子を見に行きました。小4の息子を除き、高2の娘、夫、母、私の家族4人が2回目のワクチン接種を終え、かつ、緊急事態宣言も解除され、新規感染者数も減少した10月16、17日に1泊2日の日程を組みました。

 83歳の母は元気なものの、目、歯、肩、膝などあちこちが故障して病院通いをしていますので、今回は連れていけませんでした。でも、2年以上空き家だった家の中に1人で入るのはやはり怖いので、娘に同行してもらいました。

 家の中に虫の死骸がたくさんあったらどうしよう? まさかの不審者が入っていたらどうしよう?ととにかく不安でした。さらに、電気も水道も止めてありますので、作業が出来る時間もそれほど長くありません。それでも、母に頼まれたもの(父の遺影、大判タオルと写真立て)を持ち帰り、父の遺品を探し、家の中を掃除し、家の外の雑草を取るだけでも意味がある帰省です。事前に我が家の最寄りの郵便局で大型の段ボールを5枚購入し、大きなスーツケースも準備しました。

 16日午前9時羽田空港発の便で新千歳空港へ。母が札幌にいたころ、遊びに行くたびに新千歳空港のフードコートを利用したことを覚えていた娘が、「お昼ご飯はフードコートで食べたい」と言います。で、札幌に行く前にそこで昼食を取ることにしました。

 フードコートではジンギスカンやうどん、韓国料理、インドカレー、ハンバーガー、味噌ラーメンなど美味しい食べ物をたくさん販売しています。私と娘は迷った末「やっぱり、北海道に帰ったらこれを食べずには東京に戻れないよね」と味噌ラーメンを注文しました。

 美味しい味噌ラーメンを食べ終え、身も心も温まった後はバス乗り場へ。新千歳空港は人も少なく、がらんとしていて寂しい気持ちがしました。「北海道経済は大丈夫かしら?」と少し不安にもなりました。

新千歳空港のフードコートで食べた味噌ラーメン

 バスに乗って札幌へ。タクシーに乗り継いで実家に行きました。2年数カ月ぶりの実家は門の前にびっしりと雑草が生え、玄関の前に設置してある雪よけのためのガラスドア「玄関フード」が全開でした。空き家という雰囲気を醸し出していました。綺麗好きの母が住んでいたときとは全く違う印象でした。門の中には吹き溜まりが出来ており、玄関前の階段には土埃が積もっていました。

 ざわざわとした気持ちで玄関のドアを開けて仰天しました。チラシが玄関中に散らかっていました。積もっていたという表現のほうが正しいかもしれません。でも、家の中に入ってみると綺麗で、心配していた虫も不審者もいませんでした。やはり、冬は気温が氷点下になる日々も多く、春・秋も寒い日が続く札幌では虫の心配はいらないのですね。カビ臭くもありませんでした。

 娘に玄関のチラシ拾いをしてもらい、私は持ってきた軍手をはめて、外の雑草取りです。黙々と作業し、玄関のチラシは30㍑のゴミ袋2袋分、雑草は3袋分ありました。庭も草がぼうぼうと生えていましたが、冬になれば雪が積もるので、今回は目をつぶりました。壁にかけてあった飾り物や額入りの写真、箪笥の上に飾ってあった写真立てをタオルで巻き、段ボール箱とスーツケースに詰めました。

 黙々と数時間作業をしましたが、だんだん暗くなってきて家の中もよく見えなくなりました。「もうそろそろ終わりだね」と娘に声をかけ、段ボール箱を近くのコンビニエンスストアに持ち込み宅配便で東京の自宅宛てに送りました。手土産を持ってご近所2件にご挨拶をしました。

 ご近所の方々は母が東京で元気で暮らしていることを喜んでくれました。そして、「お母さん、この家どうするの?」と聞いてきました。いずれも、知り合いの不動産屋さんから、母に会ったときは「売る予定だったら、連絡くださいと伝えて」と頼まれたと言います。それを聞いたとき、なぜか、ふと寂しい気持ちになりました。

2年数カ月ぶりの実家。予想に反して綺麗なままで安堵しました

 家には、父のものはほとんど残っていませんでした。父が亡くなったときも、父のことを思い出せるものを探しましたが、父が生前ことごとく処分していました。父のお葬式の後持ち帰ったのは、父が私の病気のことについて書いた日誌1冊(私に遺そうと父が判断したものだと思います)、父のメガネ入れ、帽子など父が身に付けていたものです。その後、父が着ていた服やコートや物はほとんど母が処分しましたので、「母が家を処分する前に、父のものをできるだけ持ち帰ろう」というのも今回の帰省の大きな目的の一つでした。

 ほとんど残っていませんでしたが、娘が父の77歳の誕生日にプレゼントした工作と、机の中に入っていた印鑑2つ、父と母が使っていたマグカップを持ち帰ることが出来ました。チラシの中にあった父宛てのハガキも2枚持ち帰りました。近所のメガネ屋さんからのものです。「HAPPY BIRTHDAY」と「メガネの具合はいかがですか?2013年にメガネをお作りいただき、ありがとうございます」というメッセージが書かれていました。父の購入記録があるお店からです。

父の77歳の誕生日に娘がプレゼントした工作

父宛てのハガキ

 娘にチラシの片付けを頼む前に、父宛ての封書やハガキがないかと探し、このハガキを見つけたときは、目頭が熱くなりました。父がこの世に生きていたという痕跡を見つけるのは、嬉しいものです。

 東京に帰った後、母に父の遺影と写真立て、タオルを持っていきました。お土産の北海道銘菓「わかさいも」も持っていきました。母はとても喜び、さっそく父の遺影を仏壇の上に、子どもたちがが小さかったころの写真を部屋のあちこちに飾りました。

 私の家では、私の机に置いてある父の写真の横に娘の工作と、父宛てのハガキを飾りました。そして翌朝午前4時ごろに目覚めたときに、父が使っていたマグカップにコーヒーを入れて父にお供えしました。午前6時ごろに再び眠くなりベッドに戻りうとうとしていたら、何と父の夢を見ました。父は息子を抱いていました。私が父に軽口をたたくと、父が大笑いしました。

 これまでもずっと父の大好きだったコーヒーを朝お供えしていたのに、夢に出てきてくれたことはありませんでした。父は私が実家の様子を見に行ったことを喜んでくれたんだー。父は私の側にいる。父は私を見守ってくれている。そう感じました。

 

2021年10月24日日曜日

結婚20周年を祝う

  先日、結婚20周年を夫と祝いました。夫から真っ赤なバラ17本と白いバラ3本の花束をもらいました。「子ども3人に恵まれ、幸せな20年間だった。ありがとう」とメッセージが添えられていました。白いバラの意味は子ども3人。この世に2人、あの世に1人です。夫の優しさが胸にしみました。

 この日は平日でしたので子どもたちは学校。ですので久しぶりに2人で外食しました。記念日にいつも行く横浜・みなとみらいのイタリアンレストランがちょうどお休みだったため、一度行ってみたかった六本木ヒルズのフレンチレストラン「ラトリエ ドウ  ジョエル・ロブション」へ。評判に違わず、どのお料理も本当に美味しかった。 

前菜はアジの料理。とにかく芸術的

夫がオーダーした前菜のホタテ

主菜は豚肉にしました

ブドウのデザート

 アメリカの大学で出会い、遠距離で付き合っていた夫とハワイで結婚式を挙げ、その2ヶ月後に夫が東京に来る形で生活を始めました。結婚後まもなく私は体調を崩し、結婚1年半後には血液がんを宣告されました。治療後に双子を妊娠し、1人を死産。がんの再発、再々発、2つの自己免疫疾患の治療、心臓の手術、耳下腺腫瘍の手術、両手の手術…。その他、抗がん剤治療副作用による皮膚病などマイナーな疾患を含めて、夫にとってもジェットコースターに乗ったような結婚生活だったと思います。

 結婚してすぐ健康を害してしまい、夫に申し訳ないという気持ちが一杯でした。本来ならバリバリと働きたくさん稼ぐはずだった私が働けなくなり、異国の地で暮らして間もない夫も不安だったと思います。大家族に育ち子どもを望んでいた夫に「子どもだけはつくってあげたい」と願いました。双子の1人を死産した後は闘病生活が長引きました。それでもあきらめず、10年前に息子を授かったときは、妻として母としての責任を果たすことが出来たと安堵しました。その後は体調も徐々に回復し、今は穏やかな日々を過ごしています。

 食事の後、久しぶりに銀座へ行きました。夫が記念に指輪を買ってくれました。指輪を選んだ時間の楽しかったこと。結婚20周年という特別な日をとても大切に考え、私を喜ばせようと素敵なプレゼントをしてくれた夫。改めて、”いいヤツだなぁ”と思いました。

銀座にあるカルティエの店。ここで指輪を買ってくれました

 さて、帰宅後、留守番をしていた子どもたちがバラの花束を見てこう夫に聞きました。「何で白い花3本なの?お花屋さんで、赤いバラが足りなかったの?」

「違うよ、子ども3人という意味だよ」「そうなんだぁ」と納得の子どもたち。家族で大笑いとなりました。「結婚20年おめでとう!」と子どもたちに祝ってもらいながら、「今度は30周年だね、それまでお互いに健康でいようね」と夫と誓い合ったのでした。

2021年10月21日木曜日

お弁当にキャビア?

  息子の通う公立小学校で先日、「お弁当の日」がありました。いつもは給食なのですが、年に数回お弁当を持っていく日があるのです。この日は子どもたち自身もお弁当作りにかかわるのが狙いで、4年生の息子はおかずとご飯を詰めることになっていました。

 娘は毎日お弁当を持っていきますが、息子は給食のため、この日をとても楽しみにしていました。事前にリクエストを聞くと「トリの唐揚げ!」と間髪を入れずに答えが返ってきました。それぞれの家庭でトリの唐揚げの味付けは違うと思いますが、我が家はざく切りしたもも肉を醤油、酒、みりん、砂糖、そしてすったショウガを混ぜたタレに一晩漬けて、片栗粉をまぶして揚げます。ママ友達に聞いてみると砂糖を入れずにさっぱりとした味付けで仕上げる人、スパイスを使う人もいて、トリの唐揚げ一つとっても家庭により違うことが分かります。

「お弁当箱はどうする?」と聞くと、息子は幼稚園のときに持って行った「オラフ」(ディズニー映画に登場するキャラクター)のお弁当箱ではなく、娘が使っていた大きめの「ツムツム」(ディズニーストアで販売されているぬいぐるみ)柄の赤いのを選びました。

 当日。おかずを詰める”係”の息子は、まずは唐揚げをギュウギュウ詰めにしました。卵焼きを一切れ端っこに入れ、冷凍庫に入っている茹で枝豆を入れます。ご飯は息子のリクエストで玄米ではなく白米を焚いてありました。ごま塩もふりかけもかけないシンプルなご飯がいいそうです。息子は喜んでそれを持って行きました。

息子が詰めたお弁当

 さて、帰宅後息子に感想を聞いてみると「唐揚げ、メッチャ美味しかったよ」と言ってくれました。「ママ、今日はすごいお弁当を持ってきた子がいたんだよ」と言います。時々、息子から話が出るとてもお金持ちのクラスメートのお弁当だそうです。「えっ、どんなお弁当?」と興味津々で聞いてみると…。

「おかずにキャビアとエビプライとサーモンが入っていたの。すごい豪華だから、『お母さんが作ったの?』と聞いたら、『いや、うちのシェフ』だって。すごいね、パーソナルシェフがいるんだよ」と息子。さらに続けます。

「黒い粒々のおかず、見たことがなかったから『それ、何?』って聞いたの。キャビアだって教えてもらったけど、初めて見た」と息子。

 そうでしょう、そうでしょう。ママだって、キャビアなんてここ何年も食べていません。

 それにしても、息子の友達が言うシェフの話が本当だとすると、すごい話です。もしかしたら、その子の誇張かもしれませんが、おかずの内容からお母さんの手作りではなさそうです。シェフが作ったお弁当が美味しいのかどうか、そしてクラスメートがお母さんお父さんの作ったお弁当をほおばる中その子が嬉しいのかどうか、と考えました。

 私は両親がとても不仲な家の一人っ子で育ちましたので、小学校のときの「私の家族」という課題作文では嘘の文章を書きました。書けることが何もなく、嘘を書かざるを得なかったのです。息子の話を聞いて、遠い記憶の彼方の出来事をふと思い出しました。

 このような家庭の事情が垣間見える学校のイベントについては、子どもの気持ちへの配慮も必要になり先生も対応が難しいだろうな、嘘をつかなければならない子どもいるかもしれないなーと考えさせられた日でした。

2021年10月20日水曜日

ヘチマの花咲いたよ

  朝、新聞を取りに玄関の外に出たとき、黄色の鮮やかな花が目に飛び込んできました。なんと、春、息子がアサガオの種と一緒に植えたヘチマの花が咲いたのです。我が家の小さな花壇を夏中彩ってくれたアサガオの花が終わり、寂しいなと思っていたところでした。 


 種を植えてから半年以上経っています。それも気温が下がってきた10月。隣に植えているアサガオのツルが枯れてきましたので、息子に「夏中楽しませてもらったから、もうツルを取ろうか。ツルでまたリースを作ろうね」と話していました。横のヘチマも葉っぱは立派だけど、一緒に取ってしまおうと思っていた矢先のこと。

 早速、家に戻り夫と息子を呼んできました。夫はいたく感動し、「ハイビスカスみたいだね」。なるほど、そう言われればハイビスカスに似ています。息子も「ヘチマの花ってこんなに綺麗なんだね」とまじまじと見つめていました。 


 最近沈みがちだった心が、少し晴れました。花は気持ちを和ませてくれると改めて思ったのでした。


2021年10月9日土曜日

娘に伝えた”人生において大切なこと”

 「ねぇ、ママ。私11年生になるでしょ。ママから教訓っていうのかな、私に”生きる上での心構え”みたいな言葉がほしいの」

 インターナショナルスクール11年生(日本の高2)の新学期が秋から始まるにあたり、娘から突然こんなことを頼まれました。思いがけないことで、驚きました。私自身、先人たちの言葉をいくつか心に留めていますし、子どもたちにも日常的に躾の一環として伝えていることはあります。が、あえていくつかを選ぼうと考えると、どれもこれも大事な気がして、即答できませんでした。

 で、数日間考えてみました。

  まず、娘に伝えたい”人生において大切なこと”は、やはり、自分の経験に基づくものでなければならないと考えました。本を読んで感動した言葉とか、人から聞いて”なるほど”と思ったことではない。自分の経験に基づくことです。

 たとえば、大リーグで活躍し続けたイチロー選手は多くの名言を残しています。そのうちの一つ「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただ一つの道だ」は私が大好きな言葉です。イチロー選手が日々たゆまぬ努力をしてきて、それを私たちは知っている。そしてその努力に伴う結果を残してきたからこそ、人々が納得するのです。

 私は何を娘に伝えようか…。やはり、努力をすることはとても大切なことだと思います。努力をし続けることで、私自身、小さいながらもいくつもの目標を達成してきました。取り立てて才能もない私は、努力することでしか、前に進めなかったように思います。特に病気の後の社会復帰にはかなりの頑張りが必要でした。

 努力することと同じくらいに大切なこともあります。私自身の反省から、やはり常に注意深くあることだと思います。もっと注意を払っていたら、失わなかったかもしれないといつも考える大切なものがあります。死産した、娘の双子の弟です。もっともっと体調に注意を払い、もっと早めに入院させてもらえれば、生きて生まれてきてくれたかもしれない。そして、健康についてもそう思います。もっともっと注意をしていれば、病気にならず、9年もの間、闘病生活を送らなくてもよかったかもしれない…。

 あとは、娘に対しての願いです。娘には自分自身を信じて生きていってほしい。自分自身を信じるということは、人生において様々な決断のとき、苦境に陥ったときなど、生きていく上でとても大切なことだと思います。これらのことを 色紙に書いて娘に贈りました。

「真っすぐに努力すること。そうすれば、必ず道は開ける。

 注意深くあること。そうすれば、大切なものは失わない。それでも失ったら、運命。

 自分を信じること。ママは天地がひっくり返っても、娘のことを信じている」

 娘はその色紙を、机の上に置いてくれました。もし、私がまた体調が悪くなっても、私に何かあっても、娘に伝えたいことは伝えたので大丈夫です。娘のために書いた、拙著「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」も渡してあります。

 皆さんは、お子さんに、姪っ子さん甥っ子さんに、部下に、若い人たちにどのような言葉を残したいですか?

2021年9月26日日曜日

スワンボート

  秋分の日の23日、息子と一緒にゆったりとした時間を過ごしました。この日は娘の学校があり、夫も仕事に出ていましたので、久しぶりに息子と二人だけの休日。「ピクニックに行きたい」という息子のリクエストに応えて、お弁当を作り、自転車で「洗足池公園」に行きました。

 洗足池公園は東京都大田区にあり、四季を通じて楽しめる場所。池ではボートに乗ることができ、池の周りをぐるりと囲む公園でのんびりとお散歩をしたり、お弁当を食べることもできます。

 さっそく「スワンボート」に乗りました。このスワンボートは娘が幼稚園のころ、初めて乗りました。娘と何度か、息子とも何度か乗りました。のんびりとボートをこぎながら、景色を眺めたり、おしゃべりしたりして、とても幸せな気持ちになるのです。

 この日はお天気が良く、時折吹く風も爽やかでした。息子との幸せな時間がこれからも続きますようにと願った一日でした。



2021年9月19日日曜日

がんになって気付いたこと

 「がんになる前となった後で、どうご自身が変わりましたか?」というような質問をときどき受けることがあります。おそらく、「がんになって人生のすばらしさに気付きました」「がんになって家族のありがたさを身に染みて感じました」というような答えを期待されているなと分かります。

 が、私はそうは答えません。人生のすばらしさや家族のありがたさは病気になったから気付くのではなくて、年齢を重ねたり、日々の暮らしの何気ない出来事をきっかけにはっと気付くものだと思うからです。

 それよりも、私ががんを患い、別の疾患を含めて病気と闘いながら気付いたのは、健康だったときの自分でなくなってしまったとき、健康を前提として作り上げてきた自分自身が崩れてしまう。その再構築がとても難しいということでした。

 私は家庭の事情により、比較的小さなころから女性の経済的自立の重要性に気付いていました。長じてから、参考にしたのが「Having it all(すべてを手に入れる=仕事と家庭の両立の意味)」というアメリカの著名な雑誌の女性編集長によって書かれた本です。その本を擦り切れるほど読み、学費と生活費を貯めて日本を飛び出し、アメリカの大学に編入学しました。アルバイトをしながら学びましたが、資金が足りず、親に頭を下げて残りの学費を工面してもらい、卒業しました。

 大学卒業後は帰国し、英語教師をしながら職探しをしました。そして、中途採用で地方紙の記者として採用されてから、私の人生はようやくスタートしました。男性記者の中に混じって働き、辞令1枚で転勤を命ぜられ、それを誇りに感じながら、仕事をしていました。辛いこともたくさんありましたが、やりがいのある仕事をし、十分な収入を得ている自分に満足していました。遠距離で付き合い、サンフランシスコで働いていた夫に、「全部そろっているから、身一つで来て!」と説得し日本に呼び寄せました。

 が、間もなくがんを患い、仕事を手離すことになりました。その後、病気との闘いは長引き、社会復帰のめどが立たず、私はもっとも恐れていた男性に食べさせてもらう女性になってしまったのです。病気が重なり、体調は悪くなるばかりというとき、友人に「結婚したのがアメリカ人で良かったわね。日本人だったら、とっくの昔に離婚されていたわよ」と言われました。その言葉で、健康を害するということは、自己決定権がある自立した立場から、離婚されても仕方ないと世間に見なされる立場になってしまうことなのだと理解しました。自分自身が完全に崩れ落ちた瞬間でした。

 社会復帰は長らく出来ませんでした。働きたいという気持ちがあっても、気合いやガッツがあっても、体が動かない。少し無理をすると、あっという間に体調が悪化してしまう。そうすれば、結果的に家族に迷惑をかけることになる。こうして、私が幼いころから目指していた経済的自立は、健康な体というベースがあってこそ、ということに健康を失ってから気付いたのです。

 全ての病気を克服し、社会に出られるようになったのが40代後半。いくつかの出会いがあり、ウェブメディアに記事を書かせてもらえるようになりました。長らくブランクがありましたので、無報酬です。1本の記事に何十時間もかけました。納得いくまで取材し、調べ、記事にしていく。自分の記事の発表の場があるーというのは、シンプルに嬉しかった。そこで経験を積ませてもらい、少しずつですが、原稿や仕事の依頼を頂けるようになりました。

 それでも、元の自分には戻れません。今でも、パワフルに仕事をしながら、育児をしている女性を見ると、「私もああなるはずだった」と悲しい気持ちになります。社会復帰するということは、自分自身の社会での位置を再認識するということです。それは病気前の自分の位置とは全く違うと思い知らされることです。それでも社会に自分の居場所を作る場合は、闘病中とは別の意味での精神的なタフさが必要になります。落ち込んだときは、病気を克服した自分、少しずつでも前進している自分に納得するよう自身に言い聞かせます。

 日々、生きていられること、家族が元気に暮らしていることに感謝している。一方で、病気前の自分にさよならをして、病気後の自分を自分として生きることがなかなか出来ない。でも、病気後の自分で、私の人生を再スタートさせなければならない。そのための努力はしている。それでも、時折、気持ちが塞いでしまう自分がいる。そんなことを繰り返す日々です。 

2021年9月4日土曜日

息子も遂にオンライン授業

  娘の通うインターでの授業が30日からオンラインに切り替わりました。2ヶ月半の長い夏休みが終わり、ようやく新学期とほっとしたのも束の間。生徒に新型コロナウイルスの新規感染者が出たため、校内での感染拡大を防ぐというのが理由ですが、昨年からの度重なるオンライン授業で親子共々疲れています。

 結局、狭い我が家は職場であり、学校であり、食堂であるという状況にまた戻りました。夫も私も娘もオンライン会議システム「ズーム」を使っての仕事や授業がありますので、声を出してもお互いに影響が出ない部屋を調整し合わなければなりません。それが結構なストレスとなります。

 我が家は一軒家で、1階にキッチンとダイニング、トイレ・お風呂場、娘の部屋と寝室があり、2階にリビングと息子の部屋があるという構造。ズームが出来るのは、①1階のダイニングテーブル②寝室のライティングデスク③娘の部屋の机④2階のリビングのテーブルーの4カ所。そのうち、1階のダイニングと2階のリビングは吹き抜けになっていますので、音を遮断したいときは使えません。

 娘の部屋はドアがありますので、娘は本来ならそこで勉強するはず。ところが、「居心地良すぎて、すぐ寝てしまう」という理由で、ダイニングや寝室、リビングに勉強道具とパソコンを持ち込んで授業を受けています。

 私と夫は娘の都合に合わせて、あちこち移動しています。「なんかなぁ」と思いつつ、娘はほっておくとずっと寝ていますので、授業中も寝る可能性が十分あります。ですので、とにかく勉強に集中できる環境を娘に優先して与えています。

 朝、昼、晩と食事を作るのも大変になってきていますので、最近は昼は近くのファストフード店も利用するようになりました。「インターは安易にオンラインに切り替えるから困る」と思いきや、子どもを私立の小学校や中高に通わせているママ友数人に聞いてみると、皆オンライン授業だそうです。「パパも在宅だから、私の居場所がないの」と皆、嘆いていました。

 さて、1日から学校が始まった小4の息子。「オンラインの環境が整っていない公立は本当にありがたい。感染対策を万全にしてもらった上で、給食まで出してくれる」と有難がっていると、遂に4日土曜日、ひとり1台貸与されているパソコンを使って試験的にオンライン授業が行われることになりました。

 3時間授業で、内容は夏休みの自由研究の発表。学校に提出した自由研究を写真に撮り、スライドを作って発表するという小4には高度な内容です。息子の隣に座って見ていると、問題なくスライドを共有できている子もいれば、「画面の共有できません!」と戸惑っている子もいます。スライドが共有できても音声をオンに出来ない子も。私もズームを使い始めたときはこうでした。分かるなあ。

 先生がその都度やり方を説明したり、「学級通信の裏側に手順が書いてあります。もう一度読んでみてください」と根気強く子どもたちに話しかけています。先生も大変だなぁ、頑張って!と応援したくなります。

 子供たちはひとり1分の時間を割り当てられ、発表します。ランチョンマットを縫った子、シャボン玉液を作った子、電車について調べた子、アイスクリームを作った子…。皆ユニークです。発表を見ていると、「きっと、お母さんが裁縫得意なんだろうな」「お父さん、鉄っちゃん(鉄道を趣味とする人たちの愛称)なのかも」と親の趣味や得意分野が想像できてしまうところも面白い。

 我が家もそう。「自由研究何しようかなぁ?」とつぶやく息子のため、理科の参考書をめくってアイディアを探していたときに、石の種類の解説が目に飛び込んできました。それを見て、ひらめきました。「我が家にすでにあるものを使わない手はない」と。我が家には石がたくさん転がっています。家に収まらないので、外にも置いてあります。

 ”最強”なのは、我が家に石に詳しい人がいること。そう、大学・大学院と地質学を専攻した夫です。修士論文が米国ワイオミング州だか、コロラド州だかの石の研究という、強者です。石のコレクションが趣味の夫は、息子をよく近くの川に連れて行き、石を拾ってきます。家の中や外に転がっているのは、その石なのです。灯台もと暗しとはまさにこのこと。「あの邪魔だった石を捨てなくて良かった」と私は自分を褒めたい気持ちにさえなりました。

 息子は石の”研究”に没頭しました。分からなくなれば、夫が一目でその石の種類を言い当てますので、息子も心強かったようです。私も買い替えたばかりのiPhoneのカメラの新機能を使い、石の表面を拡大した写真を撮影しプリントして手伝いました。それらを一枚の用紙にまとめたものを、息子はスライドにしてズームで発表しました。発表後、クラスメートから「石にも種類があるんだ」「僕も探してみようと思いました」などメッセージが続々届きました。発表が無事終わって、私もほっとしました。

オンライン授業を受ける息子

 子供たちの発表を見ていて仰天したのは「東京大学」について調べた女子の発表でした。「私は東大に行きたいので、調べることにしました」とそのテーマを選んだ理由を説明。「ドラゴン桜」というテレビドラマに興味を持ったことも話していました。そして、東大に行った著名人の写真や、東大の入試問題も紹介し、「もし興味があれば、この問題を解いてください」とクラスメートに呼びかけていました。

 テレビドラマを見ない私は「ドラゴン桜」がどんなドラマかも知りません。さっそくグーグルで調べてみると、低迷する高校が舞台で、東大を目指す生徒たちと指導する教員の物語だそうです(理解が合っていれば)。生徒たちからは続々と「ぼくもドラゴン桜見ていました」「東大受験頑張れ!」というメッセージが。「僕も東大行きたいので、その問題解いてみます」というものもありました。

 いやはや、驚きました。東大ってこんなに身近なのですね。東大を夏休みの自由研究に選んだということは、もしかしたら、この発表した女子のご両親は東大卒なのかもしれません。我が家では「東大」という言葉が出ることもないですし、息子も私も「ドラゴン桜」というテレビドラマがあることも知りませんでしたので、絶対に思いつかないテーマで、逆に新鮮でした。

 息子の初めてのオンライン授業。親の私が楽しませてもらいました。


2021年8月29日日曜日

あれ、これ・・・

  子どもたちとの会話で「あれ、取って」「あれ、しなさい」と固有名詞を「あれ」で代用するようになったのはいつ頃だったでしょうか?

 とにかく、とっさにそのもの・ことの名前が出てこない。これはボケの前兆かも…と考え、奮起して思い出してから言おうとすると、タイミングを逸してしまうので、やはり「あれ」になってしまいます。

 子どもたちからは再三、「ママ、あれって何? ちゃんと言ってよ」と文句を言われていますが、こればかりはどうしようもありません。「人は年を取ると、物の名前が咄嗟に出てこなくなるのよ。あなたたちのママは年を取っているから、諦めてね」と開き直っています。

 昨日の朝もそうでした。学校のプール授業に行くため玄関を出た息子に「自転車にあれかけておいてね」。息子はつぶやきました。

「ああ、カバーね。オッケー。僕、人生9年間生きてきて、ママの『あれ』が大体わかるようになってきた」

さすが、我が息子。私は息子を46歳で産みましたから、息子は生まれたときから、母親の「あれ」「これ」を聞かされて育っています。人間はすごい。環境に順応するんですね。

その夜、息子にいつものように「塾の宿題してね」というと、息子がまたつぶやきました。

「ママ、『勉強』とか『宿題』とかは『あれ』にならないんだね。あーあ、その言葉忘れてくれればいいのに」

そう、その言葉は絶対「あれ」にはなりません。

息子が今年も植えたアサガオ。青色も咲きました

アサガオの花の命は1日。でも、毎日咲いてくれるので朝が楽しみ
ピンク色との共演はさらに綺麗です

これは夫が撮った画像。家族皆で息子のアサガオを楽しんでいます

 

2021年8月28日土曜日

娘がインター11年生に

  娘の通うインターナショナルスクールで8月23日、新年度がスタートしました。娘は11年生になりました。11年生と12年生の2年間で国際バカロレア(IB)というプログラムに入って勉強します。

 IBとは国際バカロレア機構(本部ジュネーブ)が提供する教育プログラムのことです。IBのプログラムに入るためには10年生(日本の高1)の段階で、英語、数学、理科、芸術、外国語(日本人には日本語)、社会科学(歴史学・経済学・心理学・哲学など)の6分野すべてにおいて先生からの推薦が必要となります。このうち1分野でも推薦がもらえないと、IBプログラムに入ることが出来ません。

 娘は物理・生物・化学の3科目がある理科の分野で成績が上がらず、推薦がもらえませんでした。が、推薦をもらえなかった生徒への最後の挽回のチャンスである「学年末テストでAを取ること」を達成し、新学期が始まる1週間ほど前に学校から「A+の成績を取ったのでIBプログラムに入ることを許可する」と連絡をもらえました。

 この学年末のテストは学校が提供するテストではなく、IBプログラムを実施する機関によるテストのため答案用紙は英国に送られ採点されるので、結果が出るのに2カ月以上かかりました。娘が夏休み中寝てばかりいたのも、もしかしたら「IBプログラムに入れなかったらどうしよう?」と不安に思っていたのかもしれません。

 親子ともどもじりじりとした気持ちで待って、結果が良かったため安堵しました。娘は予想以上に頑張りました。野球にたとえると、まさに9回裏ツーアウトでの一発逆転ホームランでした。

 夏休みはずっと寝たりアニメを見てすっかり夜型の娘でしたが、学校から連絡をもらってから自ら朝方にシフトし、新学期に備え始めました。「IBに入れたときに備えて、理科の勉強もしなさいって言ったでしょ?」という私に、「夏休みを寝て過ごしたこと、全く後悔していない」とキッパリ。「私は寝ることが何よりも好きなの。夏休みにたっぷり寝られて幸せだった。親に食事を作ってもらって、ずっと寝ていられるなんて、もう一生出来ないと思うから」。

 さて、娘がプログラムに入ったため、改めて内容を見てみました。かなり大変です。日本で言うところの文武両道を目指し、かつ、社会で役に立つ人間を育てる”全人教育”のようなプログラムというところでしょうか。

 初日は学校からIBプログラムについての説明を受けた娘。帰宅後、「勉強以外にも課外活動、運動、ボランティア活動もしなければならないのから、大変」と困惑気味に語っていました。それぞれ規定の時間数があるらしく、「家庭教師の経験とヴァイオリン、それと、来年夏に行くイギリスのサマースクールでは時間数を満たせないの。ボランティアをどうするのかも考えなければ」とうなっていました。  

 娘は成長がゆっくりとしていて、小さなころからいろいろと心配が多かった子でした。アートや音楽は得意でしたが、普通の勉強の調子がなかなか上がらなかった。自分に自信が持てず、友人関係も不安定でした。でも、IBプログラムに入れたことで少し自信をつけ、将来の目標を定め、それに向けて努力を始めました。成長しつつある娘を見て、これまでの娘は”さなぎ”だったのだなぁとしみじみ思います。

 「あの子は僕らがずっと一緒に暮らして、面倒を見なければならないかもしれないね」と夫と話していたのはつい数年前のこと。もしかしたら、蝶になって飛び立つ時期はそう遠くないかもしれないーと娘の成長ぶりを見ながら思う今日この頃です。

朝、電車の駅で手を振る娘


2021年8月23日月曜日

9年前の自分にかけた言葉

  私の長年の課題は写真整理。「時間がない」「優先順位の高いものが他にある」などずっと自分自身に言い訳をして先延ばしにしてきましたが、そうも言っていられなくなり、数週間前にようやく着手しました。きっかけはもうすぐやってくる息子の10歳の誕生日。その日に「2分の1成人式」として、10年分の写真をまとめたアルバムをプレゼントしようと思いついたのです。

 法律が変わり2022年4月から成人年齢は18歳となりますので、正式には2分の1成人式にはなりません。が、娘が小学校4年生のときは学校のプロジェクトとして自分のこれまでを振り返る冊子づくりが行われていましたので、そのアイディアを真似しました。

 娘が小さなころはデジタルカメラで撮影した画像をプリントし、幼稚園ごろまでは一応はアルバムも作っていました。一方、息子のは全く手を付けていませんでしたので、買ってあったアルバム(200枚収納)に10年間分の写真を入れることにしたのです。手順は次の通り。

1)気まぐれにプリントしていた写真、幼稚園・小学校の行事のときに購入した写真、習い事などで撮影してもらった写真、家族での記念写真をまずはアルバムに入れる。

2)パソコン内に「誕生~1歳の誕生日」「1歳」「2歳」…「10歳」というファイルを作る。

3)外付けhddドライバーに保存してあった画像の中で良いものをそのファイルにコピーする。

4)そのファイルをDVDにコピーし、DPE店に持って行きまるごとオーダーする。

 1)2)を終え、ドライバーに保存してあったまだ小さかった娘や赤ちゃんだった息子の画像を懐かしがりながら見ていると、突然、私の自撮りの画像が出てきました。仰天しました。

 画像は頭髪に出来た大きな”ハゲ”を写したものでした。息子が1歳の誕生日を迎える直前にアメリカ・シカゴの夫の実家に行き、夫の大家族に会ったときに、大きなストレスがかかって帰国後髪が抜け始めたのです。それを写したのですね。

 10枚ほど、大きな円形脱毛をあらゆる角度から写した画像が続きました。手鏡を持っている自分の自撮りもしています。その手鏡に写った私自身は険しい表情をしていました。続いて、とても暗い表情をした私のアップの画像が1枚。次に少し微笑んでいる画像が2枚と続きます。そして一連の”脱毛記録写真”は、にっこりと笑った画像で締めくくられていました。

 私は38歳のときに一度、脱毛を経験しています。抗がん剤の副作用です。1回目の抗がん剤投与の2週間後に全部抜けました。この写真を写したときは、すべての病気が収まっていて微量の薬しか服用していませんでしたので、原因がないはずなのに髪がどんどん抜けていき不安がいっぱいだったと思います。

 結局、この後も脱毛は止まらず髪は全部抜けましたが、その写真の私はまだそれを知りません。笑っているのは、きっと”大丈夫だよ”と自分自身に言い聞かせていたのでしょう。

 不安を抱えながらも笑っている9年前の私を、まじまじと見つめました。がんを患ってから、再発、再々発、2つの自己免疫疾患の発病など、途切れない病気との闘いが終わりようやく体調と心の安定を得たと安堵していたら、再び頭髪がどんどん抜けていく恐怖と闘わなければならないのです。しばしその写真に見入り、私は写真の私に声をかけました。

「頑張ったね」

 9年前の私は、にっこり笑ってうなずいていました。

2021年8月16日月曜日

娘が奢ってくれた!

  人生に悪戦苦闘している私を見て育った娘のモットーは”楽に生きる”ー。6月初旬に始まった夏休みを、もっぱら部屋にこもってアニメを見たり、昼寝をしたりして過ごしています。

 2ヶ月半もある夏休みです。母親の私としては、もう少し若者らしく活動的な生活を送ってほしい。たとえばスポーツに打ち込むとか、得意の絵を描くとか、友達と海に行くとかー。本を読んだっていい。

 ですが、娘曰く「原宿や渋谷に行って危ないことをするわけでもないし、親に隠れて友達とパーティをしてお酒を飲むわけでもない。ただ、部屋にこもって大好きな昼寝をしてアニメを見ているだけ。親にとって最も心配いらない子どもだと思うけど?」まぁ、そう言われてみればそうですが…。

 そんな部屋にこもりがちな娘も1つだけ、社会とつながる活動をしています。人生で初めてのアルバイトです。”楽に生きる”がモットーの人間には、不思議なことに、それに見合った仕事が降ってくるものなのですね。娘が見つけたのは、オンライン会議システム「ズーム」を使った家庭教師です。教えているのは英語と算数。それも、同じ学校に通う小4の男の子にです。

 我が息子も小4ですので、娘にとって扱いは慣れたもの。英語は母語ですし、教える算数は簡単な計算のみ。慣れない仕事を覚えるという苦労もなく、職場の人との関係に悩むこともなく、ただ、朝起きてパソコンを開いて、”ハーイ! ハウ アー ユー?”とにっこり微笑んで、簡単な算数を教えて時給1500円。近所のパン屋さんやスターバックスの時給よりも高いアルバイト代をもらうのです。

 16歳にして、お金を稼ぐことは意外に簡単と実感することは良いことなのかーと親として複雑な思いもしますが、まぁ、親の目が届くところで家庭教師をするのですから、良しとするべきでしょう。

 さて、先日久しぶりに娘と一緒に買い物に出掛けました。息子の水泳教室は車で20分ほどの二子玉川という街にありますので、息子が泳いでいる間は私は百貨店で買い物をしたり書店で本を選んだりして過ごします。時折、娘を誘うのですが、あまり買い物に興味のない娘は一緒に行ってくれません。が、先日は気が向いたのか、誘うと「行く!」と明るい声で応えてくれました。

 息子をプールまで送った後二人でユニクロやGAPをのぞいていると、娘が突然「アルバイト代が入ったから、今日はママにパフェをご馳走してあげる」と言ってくれました。思いがけないことでびっくりしましたが、素直に嬉しかった。

 「この前二子玉川に来たとき、そこのパフェ食べたいなと思っていたの」と娘。そこは特大フルーツパフェが人気の店だと言います。行ってみると、桃やイチゴのパフェは2000円以上もします。「ママの好きなものをオーダーして!」と言いますが、さすがに2000円もするパフェは気が引けましたので、リーズナブルな価格のバナナチョコレートパフェをオーダーしました。それでも980円します。量が多いので二人でシェアすることにし、マンゴー味の紅茶を一緒にオーダーしました。

娘がご馳走してくれたバナナチョコレードパフェ

 「この生クリームとバナナの組み合わせ抜群!」「チョコアイス、うまい!」と言い合いながら、娘と食べるパフェは本当に美味しかった。ティーンエイジャーの娘にはいろいろ注文がありますが、このような幸せな時間をプレゼントしてくれたことに感謝。 


2021年8月9日月曜日

今年も我が家でプール

  新型コロナウイルスの新規感染者が増え続けていますので、子どもたちを夏休み恒例の屋外プールに連れていくことが出来ません。さらに、東京は猛暑日続き。そんな中でも少しは楽しいことを、と家庭用プールを出しっぱなしにして、家族で楽しんでいます。

 我が家の小さなデッキにちょうどフィットするこのプール。水遊びが大好きな息子は一日数回入ります。塾から帰宅後、まずはザブン。宿題をして”休み時間”に在宅勤務の夫とザブン。夕ご飯の後には私と一緒にザブン。

水の中に潜る夫と息子

 「ママ、一緒に入ろう」ー。毎日、そう誘ってくれますので、「誘われるうちが花」と私は嬉々として、水着に着替えます。数年前から着ている”大人用(体の線が出ない)”水着だけでなく、先日、ふと思い付いて10年以上前に着ていた水着も納戸から取り出してきました。ビーチではもう恥ずかしくて着られない水着も、塀に囲まれたデッキに出した家庭用プールでなら、大丈夫。

 自室にこもりがちな高2の娘は誘ってもなかなか入ってくれなくなりましたが、気が向いたときはちょっとだけ入ります。息子はやっぱり、おねぇねぇと入るのが一番楽しいよう。 

息子に何度も誘われ、やっとプールに入った娘

 外に出なくたって家で十分楽しめる家庭用プール、お勧めです。

2021年8月5日木曜日

東京オリンピックを観ながら

  連日、東京オリンピックのテレビ観戦を楽しんでいます。アスリートたちの頑張りには、毎日感動をもらっています。

 これまでの競技の中で最も感動したのはソフトボールの決勝戦です。日米が対決したこの試合、日本チームの鉄壁の守備が本当に素晴らしかった。特に7回の最終回は見ごたえがありました。米国チームの打者が放った三遊間の強烈なライナーをまずは三塁手がグラブではじいて、それを遊撃手が捕球し、アウトに。本来ならヒットになるはずの打球を打ち取った見事な連携プレーに、私はうなりました。そして、最後は高く上がったフライを捕手がグラブに収め、スリーアウトを奪い金メダルをもぎ取りました。

 こんな守備を、オリンピックの試合で出来るなんてこれまでどれほどの練習を積み重ねてきたのでしょう。このように感じるのは、私が高校生時代ソフトボール部に所属していて、これらのプレーの難しさが多少なりとも分かるからです。

 ソフトボール部時代。春・夏・秋はグラウンドで日が暮れるまで白球を追いかけ、雪が降る(私は札幌出身)冬は校舎内で基礎トレーニングに励みました。今でも鮮明に覚えているのは夕暮れのグラウンドです。日が暮れボールが見えなくなるまで練習しました。グラウンドの向こう側では野球部の部員らもボールを追っています。

 冬場の校舎内のトレーニングは本当にきつかった。こめかみに流れる汗の感覚は今でも忘れません。

 連日帰りが遅いので何か悪いことをしているのでは、と怪しんだ母がこっそり学校に偵察に行ったというエピソードをずいぶん後になって聞きました。どこかで遊び回っていると疑っていた娘は、グラウンドで白球を追いかけていたので安心したーという笑い話です。それくらい、没頭していました。部活動の帰り、バス停の自動販売機で買って飲んだ冷たいコーラの美味しかったこと。

 今回、オリンピックのソフトボールの試合を見ながら、遠い昔の懐かしい思い出に浸ることも出来ました。 

 水泳教室に通う小4の息子とは、一緒に競泳を楽しみました。息子は夏休みも中学受験に向けて塾通いをする日々ですが、水泳は週2日続けています。この夏休みは春休みと同様、通常のクラスに加えて短期集中コースにも通いました。息子は、日本と米国の2重国籍(22歳までにどちらかを選択します)ですので、両国の選手を応援しています。「背負泳ぎでオリンピックに出たい」という息子に、「まずは中学校受験で中高一貫校に合格して、それから思う存分泳ぎなさい」と叱咤激励しました。

 今回は大橋悠依選手が400㍍個人メドレーと200㍍個人メドレーで金メダルを取りました。日本の国旗が一番高い所に上がるのを見るのはやはり、誇らしい。こんなことはこのブログでしか言えませんが、日本の国旗が米国の国旗より上というのが嬉しい。思わず、携帯でテレビ画面の写真を撮ってしまいました。

女子競泳400㍍、200㍍個人メドレーで2冠を達成した大橋選手

テレビに映った国旗。日本が米国を両側に従えているのを見るのは嬉しい

 メダルを取れなかった選手の悔し涙や、やり切ったというすがすがしい表情にも、ぐっとこみ上げるものがありました。どの競技を観ても、この舞台に立つまでどれほどの辛い練習を乗り越えてきたのだろうと胸がいっぱいになりました。そして、出場が叶わなかった多くのアスリートたちはどんな思いで東京五輪を観ているのだろうと思いをはせました。

 コロナ禍でのオリンピック開催には様々な意見があったことは承知していますが、アスリートたちの5年間の頑張りに報いることが出来たことは良かったと思えます。また、気持ちが塞ぐことが多い中、テレビ観戦を通じてたくさんの人が感動をもらえたことも良かったのではないでしょうか。

2021年7月24日土曜日

軽井沢の夏 2021

  昨日、東京の自宅に戻りました。先週末から子どもたちのスケジュールに合わせ、東京と軽井沢を2往復しました。忙しくも楽しい10日間でした。

 16日金曜日の夜は、午後8時に塾が終わる息子を駅まで迎えに行きました。スーツケースをゴロゴロ引っ張り、冷やしてあったスパークリングワインのハールボトルとプラスチック製のワイングラス、冷蔵庫の中の残り物を使い切って作ったお弁当を手に下げて、東京駅へ。

 私は息子と新幹線で軽井沢に行くのが大好きです。息子も、駅のホームのキオスクで新幹線のプラモデルを買ってもらえるのを、楽しみにしています。座席に座って荷物を整え落ち着いた後はスパークリングワインをグラスに注ぎます。慌ただしい日々を送っていますが、この時間は息子と私だけの時間。ゆったりとした気分で、息子とおしゃべりし、本を斜め読みします。息子はお弁当を食べた後プラモデルと持参のフィギュアで一人遊び。

 我が家は娘がインターナショナルスクールに通い、息子が地元の公立小学校に通うので、夏休みのスケジュールが違います。娘は6月11日に夏休みが始まり、8月23日に新学期がスタート。息子は7月21日に夏休みが始まり、9月1日に2学期がスタートします。以前はスケジュールが合うときに一緒に軽井沢に行っていましたが、ここ数年は娘と夫が軽井沢に行き、私と息子が東京に残ることも増えました。今年は息子の塾も始まり夏休み中は16日間の集中講座が入っていますので、スケジュール調整がさらに難しくなりました。が、工夫をすれば何とかなります。

 16日夜11時近くに軽井沢に着くと、夫と娘、娘の親友レイちゃんが駅に迎えに来てくれていました。「ママ、会いたかったよ~」と娘がハグしてくれました。料理好きな夫がきっと美味しい食事を作ってくれたのでしょう。娘の顔がさらに丸くなった気がしましたが、元気で楽しそうな表情を見てほっとしました。1週間前から娘たちと一緒に過ごしているレイちゃんもリラックスして楽しそうで、良かった、良かった。

 週末をのんびり過ごした後18日の日曜日午後に一旦、午後6時15分から始まる息子の水泳教室に合わせて帰京しました。20日火曜日に息子の学校の終業式があり、夜は娘と息子が塾へ。子供たちが塾に行っている間、夫と2人で準備をして荷物を車に詰めて、子どもたちを駅に迎えに行き、そのまま軽井沢へ。

 子どもたちのスケジュールに合わせて、東京ー軽井沢を行ったり来たりするのは忙しいですが、軽井沢で過ごした日々を、きっと子供たちは楽しい思い出として記憶してくれるだろうと思っています。

 軽井沢の家は、東京の家を買う前、娘が幼稚園のとき購入した家です。娘の双子の弟を死産し、その気持ちを癒すために買い求め、娘との大切な時間を紡いできました。息子が生まれ、家族の時間は賑やかなものになりました。今は、娘の友人も遊びに来てくれます。「東京の家は手放しても、軽井沢の家は子どもたちに残そう」と夫と私は決めています。

 築20年で購入し10年以上は経っているので、水回りも古くなってきましたので昨年は洗面台のある部屋とトイレをリフォームしました。将来は子どもたちの家族も訪れてくれるだろうと夢見ながら、小さなリフォームを重ねていくのも楽しみなのです。

息子が家の近くで見つけたクワガタ

バーベキューをするため、炭をおこす息子。夫の”仕事”を引き継いでいます

梅雨が明けたので、デッキで食事


2021年7月12日月曜日

息子と二人の週末

 先週末から、娘と親友のレイちゃん、そして夫が軽井沢の家に行っています。息子は月末まで学校がありますので、私が東京に残りました。夫と娘たちは早速、デッキでバーベキューをしたり、山登りをしたり、楽しんでいるよう。小4の息子は週末、塾の勉強に追われ、私もずっと付き合いました。可哀想でしたが、仕方ありません。

 携帯電話に付いているビデオ通話アプリ「フェイスタイム」で娘や夫と話すと、我が家は夫・娘、そして私・息子と気質がきっぱりと分かれていることを実感します。ひと言で言うと、週末を避暑地でのんびりと過ごす夫・娘はアメリカ人、暑い東京で課題に立ち向かう私・息子は日本人です。気質はひとくくりには出来ませんが、皆さん、何となくイメージをつかんでくれますでしょうか?

 夫は自分の好きな仕事をして十分なお金を稼ぎ、毎日自分が決めた時間しか働きません。足るを知る性格で、目標や夢に向かって無駄に努力をすることはせず、時間に追われることもありません。娘も受験のストレスなく小・中・高一貫校で勉強し、恐らく、このまま”入れる大学”を選び進学し、そういう自分に満足して生きるでしょう。何せ、「のんびり、楽しく生きる」が目標で、趣味は「寝ること」。そこに焦りも不安も疑問もないところが、娘です。日本人のように、”受験戦争”に巻き込まれ、それに伴う喜怒哀楽を味わうこともありません。

 私はというと、20代30代はがむしゃらに働き(いつも時間に追われていました)、40代は病気と闘い、50代は社会復帰するために日々奮闘し、老後の準備も視野に入りつつある今も目標に向かっているという滑稽な(疲れる)人生を歩んでいます。その血を引いてしまった小4の息子は中学受験に向け、ブーブー文句を言いながらも、勉強しています。

 息子のこの週末のスケジュールは、恐らく中学受験をする他の小学生たちのそれとは大差ないものでしょう。まず、土曜午前は小学校の授業。昼ご飯は私と二人で食べ、午後は勉強、夕方は塾へ。日曜日の午前中は私が英検(滑稽事例ー50代で英検)の二次試験で留守にしましたので、息子は”鬼のいぬ間に”とばかりに、パソコンで好きな動画をエンジョイ。当然、私に言われた宿題はしませんでした。試験会場から直帰した私と一緒に昼ご飯を食べ、午後は勉強、夜は水泳教室へ。水泳教室では、クロールのタイムを縮めるのが目下の目標です。帰宅後は学校の宿題をしました。

 勉強の合間に、外で一人でボール遊びや縄跳びをするのが息子の楽しみです。タイマーを使い、私に指定された10分休みの5分は外でボール遊び、残り5分はパソコンで動画を見るーと決めて、「結構、このやり方いいかも」と言うところが、すでに日本人の言う”体育会系”の素地が出来ています。

 こういう風に書くと、息子はずいぶん頑張っているように思われるでしょうが、成績順で決まる塾での息子のクラスは下のほう。上位クラスの子はこういうことをスイスイとやっているようなのです。賢いお母さんたちは4年生で子供の習い事をぐんと減らし、塾中心の生活にさせているよう。その点、私は受験の”勝敗”に影響するかもしれないと思いつつも、息子の好きな習い事を辞めさせる決断に踏み切れていません。週2回の水泳教室やかけっこ教室、ヴァイオリンと英語も続けています。その結果、勉強時間が足りません。

 先日、この春息子さんがトップクラスの学校に合格したママ友達とランチをしました。そのママ友達は「4年生はまだまだリラックスしていて大丈夫よ~。5年、6年生は大変だから」と言っていました。息子さんはピアノや水泳など習い事を6年生まで続けていたそうで、一瞬、胸をなでおろしました。が、話をよくよく聞いてみると、その息子さんは4年生のときから塾の一番上のクラスで、受験まで一度も下のクラスに落ちたことがないそうです。出来の良い子供を持つ人のアドバイスは真に受けるべきではないと肝に銘じました。

 息子と二人の週末。「おねぇねぇ、いいなぁ」と羨ましがる息子に、せめて食事は好きなものをーと腕によりをかけて作りました。金曜の夜はポークカツ、土曜日の昼は冷やし中華、夜はカツ丼、日曜日の昼は天ざる蕎麦、夜は鶏そぼろ丼。今日の夕ご飯はリクエストに応えて、チキンカレーです。今週末、金曜日の夜8時に塾が終わった後に、新幹線で軽井沢に行き週末を過ごす予定です。息子よ、頑張れ!

勉強の合間に近所の公園へ。運動好きな息子は駆け回っていました

夕ご飯は、息子の大好物の鶏そぼろ丼


2021年7月6日火曜日

ワクチン接種ようやく

  一昨日の7月4日、1回目の新型コロナウイルスワクチンを接種しました。私は自己免疫疾患を抑えるステロイドホルモン剤を微量ではありますが服用していますので、高齢者の次に優先順位が高い「基礎疾患を有する人」の枠でした。

病院の外にある掲示板。皆、外で順番を待っていました。

 近くに住む83歳の母は先月末に接種し、注射をした腕が痛いという以外は大きな副作用はなく、安堵していました。夫は7月3日に職域接種でモデルナ社製のワクチンを、私は最寄りの病院でファイザー社製を接種。16歳の娘にも券が届いていますので、7月中には1回目を打てそうです。

 東京ではインドで最初に見つかった変異株「デルタ株」への感染が広がりつつあり心配ではありますが、1日当たりの新規感染者が2万人を超える英国では今月19日にロックダウン(都市封鎖)を全面的に解除するという報道もあります。現地では「新型コロナはインフルエンザのように共存するウイルスになる」との見方があるそうです。

 私はがんや自己免疫疾患と共に生きていますので、新型コロナウイルスとも共存できそうな気がします。とりあえず、感染対策を万全にして25日の2回目接種を待ちたいと思います。

 

2021年7月4日日曜日

この歳でTOEFL受験 疲れます

  昨日は珍しく、午後3時間ほど昼寝をしました。くたくたに疲れていました。理由は英語の試験TOEFLを受験したため。この歳で、3時間半の英語の試験です。疲れないはずはありません。相変わらず、慣れないこと・新しいことに挑戦し続ける境遇になってしまう自分自身にも、ほとほと疲れました。

 TOEFLは主に英語圏の学校に進学する場合に、受験者の英語力を測るために用いるテストです。私の場合、別の理由でTOEFLのスコアを提出する必要に迫られ、6月21日、26日、そして7月3日と3回受けました。コロナ禍、自宅でも受験できるようになったので、6月21日は自宅で受け、26日と昨日は会場で受けました。

 自宅で受験するときは、パソコンについているカメラを通じて、アメリカのテスト主催団体の試験監督者がオンラインで監視している中、試験を受けます。この手続きが大変でした。まずは、オンラインテストを受けるためのソフトをダウンロードし、自分のパソコンにカメラやマイクなどの機能がついているか確認します。これがなかなかに難しい。

 さらに、知らない人がアメリカのどこかから、私がテストを受けている様子を監視していると想像するのは気持ちが悪かった。ですが、背に腹は代えられませんでした。ボブだか、マイクだかという名前のこちらからは見えない人が、私のパソコンの小さなカメラを通して、私の部屋のチェックをします。パソコンのカーソルが勝手に動いて、ソフトを操作します。「こういうのって、若い人たちはあまりストレスなく出来るのかしら?」と思いながらの受験でした。

 そして、先々週と先週末の試験会場での受験。はっきり言って、私は浮いていました。なぜかと言うと、当然のことながら受験者は皆、私の子どものように若いんです。多くが留学を希望している若者でしょう。彼らを眺めながら、「こんなオバサンになってもTOEFL受けなければならないなんて、可哀想と思われているかなぁ?」と心の中で苦笑しつつ、30年以上も前の自分を思い出しました。

御茶ノ水駅近くのビルにあるTOEFLの試験会場

 私が米国に留学する前にTOEFLを受験したときは、試験会場は東京など大都市に限られていました。ですので、札幌在住の私は、TOEFLの試験を受けにわざわざ東京まで来ていました。当時は数カ月に1度しか受験できなかったと記憶しています。なかなかスコアが上がらず、難儀しました。

 試験の帰りには留学をサポートしてくれる代理店に寄り、電話帳のような厚さの大学一覧で、大学探しをしました。このブログを読んでくださる方の中には、「電話帳」がどのようなものか、知らない世代の方もいらっしゃるかもしれません。厚さが5,6センチはある重たい冊子です。

 大学一覧のページをめくりながら、ある程度規模の大きな州立大学で学費が安く、日本人がいなさそうな大学をリストアップしていました。様々なことが便利になっている今思い返すと、あんなことはよほどエネルギーがなければできません。とにかく、日本を飛び出したかったのですね、当時は。まぁ、若かったということです。

 当時のTOEFLは紙での試験でReading, Listening、Writingしかなかったと思います。もしかしたら、Writingもなかったかもしれません。遠い記憶をたどっての印象ですが、今のTOEFLのほうがずっと難しい。

 今はパソコンを使っての試験ですので、Speaking もあります。試験中はヘッドフォンをしていますが、他の受験者が画面に向かって話しているのが聞こえてきます。皆、しっかりとした英語を話しています。「今の若者はすごいなぁ」と感心しきり。

 さて、3時間半の試験を終えた後は、体が塩分を欲したのでしょうか。無性にラーメンが食べたくなりました。時折行く北海道ラーメン店に立ち寄り、カウンターに座って(両側がオジサンでした)味噌ラーメンをすすりました。読みかけの「ぼくは勉強ができない」(山田詠美著)のページをめくりながら、”ふるさとの味”を堪能しました。

 この後、自宅に戻ってベッドに倒れ込みました。そして夕方まで寝ました。ラーメンと午睡で、疲れが少し取れました。終わりよければ、すべて良しとしましょう。なぜ、今「ぼくは勉強ができない」を読むのかーについては次回のブログで。

自宅の最寄り駅の隣駅にあるラーメン店
味噌ラーメンはやっぱり、美味しい

 

2021年7月3日土曜日

カフェでワイン ようやく可能に

  緊急事態宣言が6月20日に沖縄県を除く9都道府県で解除され、緊張の日々から少し解放されつつあります。東京は感染者数が前週に比べて増加する状態が続いて心配ではありますが、昨日、夫と本当に久しぶりにカフェでワインを飲みました。

 このカフェは息子と娘の塾の近くにあり、以前は子どもたちを送った後やお迎えの前に時折立ち寄りワインを飲んでいました。それが宣言中はやはり行くのもはばかられ、かつ、店もアルコール類は提供していなかったので足が遠のいていました。

 昨日ようやく、行くことができました。行く前に店に電話で確認しました。「アルコール類は出していますか」と。店員さんの「はい、緊急事態宣言が解除されましたので、お飲みいただけます!」という明るい声を聞き、嬉しい気持ちになりました。

 在宅勤務の夫と息子と家を出て、息子を英語教室に送った後、立ち寄りました。オーダーしたのは、私がスパークリングワイン、夫は赤ワイン。つまみにピザとチキン。

 カフェに立ち寄り、ワインを一杯ー。こういう普通のことが気軽に出来なくなって随分経ちます。ですが、ようやく夫も私も7月上旬にワクチンの接種予約をし、普通の暮らしが戻りつつあることに安堵しています。母も元気で先日1回目のワクチン接種を終え、16歳の娘にも昨日接種券が届きました。もう少しの辛抱です。 

家飲みも良いけど、カフェで飲むワインはやはり美味しい