昨日(1月4日)は、オーストラリア旅行中に止めてあった新聞(朝日新聞)を読みました。昨年12月24日から31日までです。いくつか気になった記事があり、切り抜きました。そのうちの一つが、「2024年亡くなった方々」でした。
全面を使った特集は1月から12月まで区切られており、その月に亡くなった方の名前と日付けが記されていました。一番上の段には篠山紀信さん、赤松良子さん、小澤征爾さん、谷川俊太郎さん、中山美穂さんら各界の著名人の在りし日のカラー写真が貼られていました。
1月からざっと、その人の名前を探しました。ありませんでした。えっ?と思い、もう一度探しました。ありませんでした。そこで、スクラップブックを取りに行き、切り取って貼ってあった訃報記事を探しました。ありました。2024年9月22日、1段組みの記事でした。朝、新聞を開いてこの記事が目に飛び込んできて、かなり動揺したことをはっきり覚えています。記事の下には、走り書きのような字で私の思いをつづっていました。もう一度、特集記事の9月の欄を探しました。ありませんでした。
私が探していたのは、文芸評論家で慶応大名誉教授の福田和也さんの名前です。保守派の論客としても知られていた人でした。死因は急性呼吸器不全で、63歳でした。
福田さんの著書を初めて読んだのは、日本の作家を100点満点で点数を付け評価した「作家の値うち」(飛鳥新社、2000年)でした。この本に衝撃を受け、三島賞を受賞した「日本の家郷」(新潮社、1993年)を読み、その洗練された文章と語彙の豊富さに圧倒されました。その後、むさぼるように彼の著書を読み、関連の雑誌などにも目を通して、ずっと注目をしていました。病気をしてからは目の前の治療に精一杯で、福田さんの動向をフォローできなくなりましたが、彼が書いた著書は今でも大切に本棚の並べてあります。
訃報記事を読んだ後しばらくの間、インターネットで追悼記事を探しました。あまりにも少なく、愕然としました。福田さんは、文芸評論家の故・江藤淳に見い出され、江藤さんが自裁した後、何本もの追悼記事を書いていました。それを読んでいた私は、福田さんが江藤さんの死を惜しみ書いたような記事を、なぜ、関連の方々が書かないのだろう?と悲しく思いました。悲しく思っても、私には一ファンとしても、福田さんの追悼記事を書く力はありませんでした。
いくつか探せた、編集者と福田さんの教え子による追悼記事で、福田さんの死までの道のりが少し分かりました。晩年は、病気の後遺症により、かつての飛ぶ鳥を落とすような勢いは失せ、書く力もかなり弱っていた様子がそこには書かれていました。
昨日は久しぶりに本棚から、福田さんの本を1冊取り出し、再読しました。「江藤淳という人」(新潮社)です。印象に残り、今も覚えている文章を探しました。最初の著書を7年がかりで書き上げて出版したものの、あまり反応がなく、落胆し将来への展望もなかったときに、江藤さんが雑誌の編集長に福田さんを推薦してくれたときのことを綴っていました。
「銀座の和光の前の公衆電話ボックスだった。何と云ってやることもなく多少投げやりになっていた当時の私は、日本橋の骨董店を覗いた後に昼から一人で酒を呑んでいた。鈴木氏の言葉を聞いた途端に、恥ずかしい話だが私は落涙してしまった。今でもその瞬間を思い返すと、平静ではいられない。物書きと云われるほどの人間は何かしらの形で、世間から認められたという瞬間を持っていると思うのだが、私にとってそれがこの時だった。江藤淳に認められた、と思った。私の文字と詩と愚行に浸った生が何ほどか救われたように思われた」
多くの人々が行き交う歩道に立つ公衆電話ボックスで受話器を持ち、思わず涙をこぼす若き日の福田さんの姿がありありと目に浮かぶような文章でした。私自身、書くことを仕事にしていたので、福田さんの気持ちに深く共感したのでした。
本を再読した後、改めて、インターネットで福田さんについて調べました。文学・思想を扱う月刊誌「ユリイカ」が昨年末、福田さんを特集するムック本を「2025年1月臨時増刊号」として発売していました。「新潮 2024年12月号」でも、3人の作家が追悼記事を書いていました。いずれの雑誌も昨日、ネットを通じて購入しました。
私も福田さんの一ファンとして、改めて心から哀悼の意を表したいと思います。スクラップブックの訃報記事の下に書いた文章を、恥ずかしながら、ここに掲載します。動揺していたため、良い文章とは言えませんが、福田さんの死を心から惜しむ気持ちは書かれていると思います。
「あまりのショックに言葉が出ない。私がまだ若い頃、どれほど彼の本を読んだことだろう。江藤淳が妻を追って自死したとき、福田和也はたくさんの追悼文を残した。福田氏はまだ、職も定まらない頃、江藤淳の口添えで執筆の機会を得るのだ。公衆電話でようやく仕事を得たことを知った福田氏は落涙する。この文章を読みながら、私はこの福田氏の文章を記憶しようとしたのだ。私が北海道新聞の記者をしていた夏、表参道で福田氏とすれ違った。私は”ファンです”と声を掛けようと思ったが、勇気を出せずに通り過ぎた。それが今でも後悔となり心に残る。日本の文壇は、とてつもない貴重な人を失った。福田氏の冥福を祈る。あなたは、素晴らしい文芸評論家だった」
「作家の値うち」に挟まっていた、雑誌の切り抜き(AERA 2000年9月18日) |
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