2025年1月31日金曜日

「フードロスにご協力を」

  私の家から車で5分ほどのところに、品の良いスーパーがあります。欧米からの輸入食品や雑貨、日本の厳選された食材が置いてあり、価格は少し高め。でも、ここで販売している魚や肉は新鮮で美味しいので、時折ここに買い物に行きます。

 一昨年ぐらいからでしょうか。そこのお肉売り場で夕方「フードロスにご協力を」というPOPが掲げられるようになりました。そこでは、値下げシールが貼ってあるお肉が置いてあります。その日や翌日に賞味期限を迎える豚や鶏の挽肉、牛ステーキ、骨付きラム肉など。時々、良いのがあれば購入します。

スーパーのお肉売り場に掲げてあるPOP

 それにしても、良い表現だなぁと思います。言い方ひとつで、買う人の気持ちは変わるもの。値段が下がっているから買うというより、フードロスに協力していると思うほうがずっと気分が良い。

 先日、別のスーパーで”協力”しました。ししゃもを買いました。この店ではそんな上品な言葉は使いません。ただただ、20%オフとか30%オフとかのシールが生鮮食品に貼ってあるだけ。ここも価格が比較的高い店なのですが、駅の横にあり便利なので、いつもお客さんがいっぱい。最近は物価がじわりと上がってきたからでしょうか。夕方店員さんがセールの値札を付けると、あっという間になくなっていきます。

 で、その北海道産のししゃも。普段の値段は5尾で2500円ですが、その日は翌日の賞味期限でなんと半額になっていましたので、購入しました。一人一尾ですので、夕ご飯のメニューに添えるぐらいでしたが、子供たちは大喜び。

美味しかったししゃも

 娘は「今日は、どうしようかなぁ、頭から食べようかなぁ、尻尾から食べようかなぁ」としばし考えます。

「ししゃもは頭から食べると頭が良くなる、尻尾から食べると足が速くなるってばあち(私の母)に教えてもらってから、いつも食べるときにどっちから食べるか迷ったなぁ。私、頭も良くなかったし、足も遅かったから、小さいころは究極の選択だった」と苦笑い。

 夫はタツおばさんの話です。ししゃもの産地の北海道むかわ町に住んでいたタツおばさんは私が病気を患っているとき、よく、ししゃもを送ってくれました。ししゃもの中に、紙に何気なく包んだ5千円札が入っていて、おばさんの優しさにじんときたものです。

 「タツおばさん、優しい人だったよなぁ。あのときは、美味しいししゃもをたくさん食べられて、幸せだった」と夫。タツおばさんはもう大分前に亡くなりましたが、ししゃもを食べるたびに私と夫はタツおばさんの話をして、しみじみとした気持ちになります。

 先日の母の誕生日会で、その半額のししゃもの話をしました。すると、母が「あんた、前、あそこで売ってるししゃも買ってきてくれたでしょう。とっても美味しくて、あれからあの店に行ったときに値段を見てみるけど、高くてとても買えない」と苦笑い。

「分かるよ。高過ぎるよね。あっという間に食べ終わるし。今回、私も半額だったから買えたもの。そうそう、食べながらタツおばさんの思い出話になったよ」と私。「タツ義姉さんは本当にいい人だった。私にもあんたにもよくしてくれた…」と母。

 母は、懐かしそうに目を細めました。むかわ町出身の母は「私が小さいころ、一度だけ、ししゃもが大量に川に上がってきたことがあったの。町の人々が皆でバケツを持って川に取りにいった。すごい量が採れてね、おなかいっぱいししゃもを食べた」と昔話をしてくれました。

「川にししゃもが上がってくるの?」と驚く娘。

「そうだよ。本当にあのときはすごかった。後にも先にもあのときだけだったけどね。昔はむかわ町の海でたくさんししゃもが採れたのに、もう全然採れないみたい。今は釧路から買って売っているようだよ」

「そうなんだ、釧路から?」と私。

「そうみたい。ほら、トコねっちゃん(母の姉)の家はししゃもを売っていたでしょ。芸能人も買いに来たほどだったんだよ。あのときはトコねっちゃんの家は家族総出で店をしていたんだよ」

 普段高くて手が出ないししゃもを安く買えたことで、家族でししゃもにまつわる懐かしい思い出が出来ました。フードロスに協力すると、良いこと尽くめです。

2025年1月30日木曜日

着物を仕舞う

  いやはや、ひと仕事でした。娘の振り袖と、私の着物を仕舞う作業。

 先週の土曜日(25日)、写真撮影が終わり帰宅後まずは、私と娘の着物を専用のハンガーにかけ、カーテンレールにかけて一晩おきました。翌日は窓を開けて、風を通しました。長襦袢はかける場所がないので、洗濯物をかけるラックにかけて、風を通しました。

娘の振り袖。長くて、裾が床についてしまいます

 肌着や足袋は洗って干して、アイロンがけです。帯揚げや帯締め、バッグなどの小物もきちんと箱につめます。そして、着物用の防虫剤を買ってきて、入れました。

 今回、長襦袢と着物とではたたみ方が違うことを知りました。着物を包む「たとう紙」にはたたみ方が書いてありましたが、よくわからない。で、YouTubeで調べて見ると分かりました。YouTube、侮れない。

 息子に「YouTubeってすごいね。着物のたたみ方も教えてくれるんだよ」と言うと、息子から「YouTubeで調べれば、大抵のことはわかるよ」という返事が返ってきました。 

 これまで着物をたたむとき、母が用意してくれた着物を広げるための布の上でたたんでいたのですが、娘の着物は長いので布の長さが足りず、ベッドカバーを代用しました。カーテンレールにかけるときも、私の着物の裾は床から10㌢以上は上なのに、娘の着物は床についてしまいましたので、このベッドカバーを敷きました。

 母が、狭い我が家でも入る小ぶりな和箪笥を買ってくれましたが、娘の七五三の着物、私の振り袖と訪問着でいっぱいです。娘の振り袖を仕舞う場所がないので、今回、箪笥を買い足しました。母はこういうところがきちんとした人で、私が娘の成人式にいろいろ揃えて初めて、母もたいへんだったのだろうなぁと有り難く思いました。

 実は、写真撮影の翌日の日曜日は母を温泉に連れていく予定だったのですが、母から電話があり、「着物を仕舞うのは一日がかかりだから、またの機会にしたほうがいい」と延期に。母の言っていることは正しくて、朝から取りかかって、終わったのは夕方。特に着物をたたむときは次回着るときにシワにならないよう、何度も丁寧にたたみ直すなど気を遣いました。着物の手入れはなかなかに骨の折れる仕事だなぁと実感。

 今回、羽織・袴を着て、すっかり気を良くした夫は、息子の成人式のときにまた家族で着物で写真を撮るために、「自分用に羽織・袴を買う」と張り切っています。今回のレンタルの着物は一番大きいサイズで身長185㌢までで、夫は193㌢なので袴や袖の長さが足りなかったのです。

 最初は私が夫に着物を着ることを勧めたのですが、今回2着分の着物を仕舞ってみて、レンタルのほうがずっと楽だなぁと思いました。だって、レンタルだったら着付けもしてくれますし、後は着物を返すだけなんです。仕舞うときのこの作業も、定期的な虫干しも、いらないんです。夫には、「着物を買ってもいいけど、仕舞うのは自分でやってね」と言ってしまった私なのでした。

 そうしているうちに、娘の七五三のときの着物の虫干しをしばらくしていないことに気が付きました。ずっと、気にかかっていたのでこの際、することに。

娘の七五三のときの着物。こんなに小さかったのですね

 そのとき、息子が2階に上がって来ました。「これ、おねぇねぇの七五三のときの着物だよ」と見せました。

「へぇ、可愛いね。僕のは?」

「ごめん、君の五歳はレンタルの着物だった」

「ぐさっ」と大げさに胸に手を置き、私に倒れ込む息子。

「成人式のとき、羽織・袴買ってあげるからね」と私(レンタルでいいかなぁとは思いましたが、一応)。

 息子の成人式の準備も楽しいだろうなと思いを巡らせましたが、肝心なことを忘れていました。息子が成人のときは、私は立派な高齢者の仲間入りをしています。記念撮影のときに、おばあちゃんに見られないよう、今からいろいろ気を付けなければ。

2025年1月29日水曜日

バケットリスト

  皆さん、バケットリストという言葉をご存じですか? 生きているうちにやりたいことのリストです。私のバケットリストの一番は家族のアルバム作り、そして、次がオーストリアに行きグスタフ・クリムトの絵を見ることです。

 アルバム作りは娘と息子が小さいころは出来ていたのですが、全く追いついていません。研究室への往復時間が一日2時間ですので、電車の座席に座れたときに少しずつ取り組んでいるのですが、ついついKindleで本を読んでしまい、なかなか進みません。オーストリア旅行は、これを達成すると私の命が短くなるような気がして、もう少し年を取ってからの楽しみに取っておいています。

 この2つはまだですが、25日の土曜日、バケットリストの一つが叶いました。家族で着物を着て写真を写すことです。娘の成人式の後撮りでした。成人式の日も写真館で撮影したのですが、娘の着付けの時間が午前4時45分ととても早かったため、振り袖の娘をスーツ姿の夫、制服の息子、ワンピースの私が囲む写真になりました。で、後撮りで着物を着て撮影することにしたのです。

 夫と息子の着物はレンタル屋さんで借りました。着物には”格”があるそうで、今回の主役は娘で、正礼装の振り袖を着る娘とのバランスが大事なのだそうです。

 夫は娘の父親ですので、男性の着物の中で一番格が高い黒紋付きの羽織・袴。息子は姉と父親を立てる形で、格下の袴なしの着物に。私は準礼装の訪問着。私の着物は母から譲り受けたものです。

 朝、夫と息子がレンタル屋さんに行っている間、私は地元の美容室の美容師さんに自宅に来てもらい、髪を結って着付けをしてもらいました。夫と息子が帰宅して、皆でフォトスタジオへ。娘の髪のセットと着付けに約1時間半かかり、ようやく撮影となりました。

 夫は最初渋々だったのですが、今回着てみて、結構自分は似合うじゃないか!と思ったらしい。7年後の息子の成人式に合わせて、「羽織・袴を買おうかな?」と言っています。着物を着た息子はなぜか「ぼんぼん」という雰囲気が出ていて、笑えました。

 とりあえず、家族で着物姿で写真を写すという念願が叶って、嬉しかった。

振り袖を着た娘と歩く私

 その日は夕ご飯を作る時間もなかったので、娘の帰国中のバケットリストの「焼き肉屋さん」へ。私と娘2人も、リストの一つが叶って、るんるんな土曜日でした。

帰国中の娘のバケットリストの1つ、焼き肉屋さん

 

2025年1月28日火曜日

今週の一冊 「おもちゃのいいわけ」

  書店で素敵な本を見つけました。彫刻家の故・舟越桂さんが子供たちに作った木のおもちゃの本です。お家や木馬、自動車などの写真に、それらを作ったときのエピソードが添えられています。

 木彫を作っていると出る「木っ端」や、家にある古い材料を使って作ったおもちゃたち。どれもこれも、舟越さんの子供たちへの愛が感じられ、これらを作っていたとき、舟越さんは楽しかったのだろうなぁと私の顔までもほころんでしまいます。

 世界に一つしかない、こんな素敵なおもちゃを作ってもらった子供たちは、幸せですね。

 「木とブリキのクラシックカー」に添えられた文章が、とても印象深かったのでここに引用します。

「いつの日か子供たちが結婚したら、あの木の自動車も彼らと共に私の所から去るのだろうか。置いていかれるのもさびしいが、持っていかれるのも何か切ない気持ちがする。子供のためにと思って作ったことは作ったのだが、自分の手でものを作るということは、その作られたものの中に思いが込められていく。そして人間の思いというものは複雑で、あげたものがその人と共にいなくなることも、そしてその人に置いていかれるということも、どこか自分の心のやり場が見つかりにくい気がする」

 舟越さんが表現する、さびしさも、切なさも、分かるような気がします。



 

2025年1月27日月曜日

がんのママたちとランチ

  先週の金曜日(24日)に、がんのママ2人とランチをしました。今春、がんを患うママたちの集いの場を開くための打ち合わせ会です。それぞれが、マイコプラズマ肺炎やインフルエンザなど感染症を患ったり、年末年始で忙しかったりと日程が合わず、3カ月ぶりでした。

 まずは近況報告をして、それぞれの体調についての話に。ママさんたちは、腫瘍マーカーが上がったこと、手術の後遺症が厳しく日常生活にも影響が出ていることなど、心配ごとを共有してくれました。がんを患う仲間は、部位は違えども互いの体調の話を遠慮なくでき、かつ、自分事として聞けるところが良いところです。

 それぞれに家族・仕事・社会活動があり、体調管理はとても重要です。無理せずに、家事・育児、仕事や社会活動とバランスの取りながら、日々を過ごしたい。でも、それがなかなか難しいこともある…。

 そんな話をしながら、ママさんの一人がとても難しい問題提起をしてくれました。問題があまりに切実なため、自分ならどうすると気軽には言えないほどの問題で、でも、自分たちもいずれは直面するかもしれないことです。

 ママさんの知り合いの男性が、がんで亡くなりました。40代で奥さんと子ども二人がいます。その男性は一人っ子で、お母さんがいますが、お父さんは早くにがんで亡くなっています。

 男性のお母さんにとって、その男性は残された最後の家族です。ですので、亡くなるまで病院に毎日訪れ、献身的に息子の看病をしていたそうです。でもその男性の奥さんは「家族4人の時間がほしい」とずっと嘆いていたそうです。ですが、家族4人になることはめったになく、いつも男性のお母さんがいたそうです。

 その男性のお母さんの立場になってみると、夫ががんで亡くなり、40代の一人息子がたった一人の残された家族。当然、毎日、息子の側に行くでしょう。私もその立場だったら、そうします。息子はお嫁さんと孫たちの4人だけで過ごしたいかもしれないーと重々承知しながらも、自分にとってたった一人の息子の看病を一日でも欠かしたら、後々後悔するだろうと思うでしょうし、そんなこと考える間もなく、ただただ息子の側にいたいと足が病院に向くでしょう。

 でも、奥さんの立場だったら、私も夫と子どもたちだけの時間がほしいーと切実に思うに違いありません。義母のいないところで、私と夫と子どもたちだけで話をしたい。夫の手をさすりながら、思い出話をしたり、聞きにくいことではあるけれど、夫に言い残したことはないか、子どもたちへ伝えたいことはないか、聞きたい。でも、やはり、義母には「私たちだけの時間がほしいんです」とは決して言えません。仕方ないと自分を納得させるでしょう。

 自分がその男性の立場だったらどうでしょうか? やはり、私は母を受け入れるでしょう。親より先にこの世を去らなければならない。そして、父はすでに他界し、自分にはきょうだいもいない。「お母さん、ごめんね、先に行くことになって」と申し訳ない気持ちのまま、自分の家族の気持ちは重々承知しながら、母親を病室に受け入れるでしょう。

 先日、がんの夫を見送ったママ友が、夫が旅出つ前の数カ月間を毎日家族で過ごせたことがとても良かったと語ってくれました。ママ友のご主人のご両親はご存命ですが、東京からは交通の便の良くない場所に住んでいたため、ご主人が亡くなるまで、家族だけの時間を持てたそうです。遠方に住んでいた娘さんを「お父さんと過ごせるのは今しかないから」と呼び寄せて良かった、と語っていました。まだまだ若いご主人を亡くすことはとても不幸ですが、残された時間の過ごし方という視点で考えると、とても幸せなケースなのだと改めて思いました。

 子育て中の人ががんになること。そして早くしてあの世に旅立つことには、様々な課題があります。皆、それに一生懸命対峙しているー。深く考えさせられる話でした。

 

2025年1月26日日曜日

夫が55歳に

  夫の誕生日は母の誕生日の翌日です。母の誕生日を我が家で祝った翌日、壁のデコレーションを替えて、夫の55歳の誕生日を祝いました。私と子どもたちは、家族のために一生懸命働いてくれる夫・父親に、感謝の気持ちを込めて料理を作りました。

55歳のバルーン

 毎年、誕生日の1、2週間前に、「誕生日に何食べたい?」と夫のリクエストを聞きます。定番は「アップルパイ」。夫はこれをリクエストから外すことはありません。もう15年くらいは作っているでしょうか。家族から「お店で売っているパイよりずっと美味しい」と評判のこのアップルパイは、夫のチーズケーキ(絶品です)と息子が作る料理と一緒に、将来「マイヤーズ・カフェ」を開くとき(笑)のメニューの一つです。

夫のリクエストのアップルパイ

 夫からの料理のリクエストはその年により、違います。今年はミートパイでした。これも試行錯誤を繰り返した料理です。以前は大きく作って豪華な見栄えにして、それを切り分ける形にしていました。が、中まで焼けていなかった失敗もあり、一時は家族の評判を落としました。その後、一人用のグラタン皿を購入し、一人一人に作る形に工夫して復活しました。このミートパイと、家族全員が好きなコロッケとアサリスープにしました。

夫のリクエストのミートパイ

 娘が作ったのは、レモンパイ。とても美味しくて、先日たまたま訪れたカフェで美味しそうに見えて食べてみたレモンパイが娘のに比べて味がかなり劣っていたので、これもマイヤーズ・カフェのメニューの一つになるね!と話しています。娘は「この前作ったとき、クラストが硬かったから、今回別のやり方を試してみる」と言い、張り切って材料を買いに行って試し、見事成功。

娘が作ったレモンパイ

 息子が作ったのは、クラブケーキ(米国東海岸発祥のカニの料理)。このレシピは夫から伝授されたもので、これまで何回か夫と一緒に作っていて、だんだん上手になってきていました。今回は一人で作り、とても美味しく出来ました。

 子どもたちから夫へのプレゼントはロサンゼルス・エンジェルスの赤い帽子。以前、ロサンゼルスに行ったとき、大谷翔平君を観に行き、記念に買いました。いつもかぶっていたのですが、昨年末のメルボルン旅行で失くして、残念がっていたので、子どもたちがネットで調べてお小遣いから半分ずつ出して買ったようです。

 私からは本と家族写真が入った皮のフレーム。本は日本酒、禅、そして、私が大好きな平野啓一郎の小説です。翻訳本がありましたので、ラッキーでした。母からは赤ワイン2本のプレゼントでした。

夫にプレゼントした本。日本酒の本は英語と日本語が併記してある優れもの

 「55歳は、54歳までと違う。年を取った感じがする」と夫。確かに、子どもたちとアスレチックに行き、張り切ってジャンプしてダイナミックにこけて、1カ月以上痛みが続いています。まぁ、少し先を行く私からのアドバイスは、記憶の中の自分の運動能力と、今の運動能力がかなり乖離していることを認識し、無茶はしないことですね。

 何はともあれ、楽しい55歳になりますように。いつもありがとうね。

2025年1月25日土曜日

きょうだいの掟

  先週土曜日(18日)にコストコ(米国発の会員制倉庫型店)に行き、マンゴージュースを買ってきました。米国で売っている1ガロン(3.78㍑)の大きな容器に入ったジュースです。

 普段はジュースは買わないのですが、コストコに行ったときだけ、子供たちは好きなジュースを買うことが出来ます。先日はいつも買うレモネードがなかったため、マンゴージュースにしたようです。

 で、そのマンゴージュース。とても美味しいらしく、息子ががぶ飲みしていました。「そんなに飲んだら、おねぇねぇに文句言われるかも」と心配していたら、案の定、冷蔵庫を開けた娘が「何でこんなに減っているの? 私、まだ一杯しか飲んでいないのに!」と絶叫しました。

「だって、美味しいんだもん」と息子。「残りは私のだからね」と娘。娘は弟をとても可愛がっていますが、食べ物の配分については、厳しいのです。

 こういうのを見て、微笑ましいなと思うのが私。きょうだいがいる人は、これが日常なのでしょうが、私にとっては食べ物を巡るきょうだいの争いが小さいころから羨ましかった。

 たとえば、小学校のときに同じクラスだったS君の、お姉ちゃんとグラスを並べて、ジュースの量を同じにするという話。高校時代のYちゃんは兄弟がいて、お母さんが作るハンバーグの大きさを皆で比べて誰がどれを取るかせめぎ合うという話。このような話を今でもしっかりと覚えていますので、私はそれらの話を聞いたときによほど羨ましく思ったのでしょう。

 そして、我が子どもたちの食べ物を巡る争いも、このブログに書くぐらいに楽しいのです。コストコで買った「甘辛ヤンニョムチキン」。これもコストコに行った時にだけ買える出来合いの食べ物で、買ったその日の夕ご飯に子供たちだけ食べます。

 ご飯の上に載ったチキンの数を息子に聞いてみると、「僕が4つ。おねぇねぇは5つだよ」。食べ物を前にすると、弟である息子は自分の立場をわきまえ、自ら少ない方を取ります。これを当たり前のように、自然にできる息子はいいなぁと思います。マンゴージュースはあまりに美味しく、また、容器に入っている量も多かったので、気にせずに飲んでいたら姉にとがめられてしまったのですね。

 夜、冷蔵庫を開けると、容器にきちんと飲んだ日付けと時間が書かれていました。娘から息子への「記録しているからね、飲んだら分かるんだよ!」というメッセージです。息子に「もう、マンゴージュース飲めないの?」と聞くと、「うん」と言います。「あら、残念ね」と言うと、「いや、僕いっぱい飲んだから」と気にする様子もありません。

日付と時間が書かれたマンゴージュース

 きょうだいって、本当に面白い。

2025年1月24日金曜日

母が87歳に

  先日、母の87歳の誕生日をお祝いしました。夕ご飯は夫が得意のジャンバラヤ(米国ルイジアナ州生まれのケイジャン料理)を作り、私がカキフライとブロッコリースープ、ナスのお料理を作りました。

 ケーキは、近所のケーキ屋さんで3日前に注文。いつもは母が大好きはイチゴのケーキにしますが、今年はハートがたくさん付いたラブリーなフルーツケーキに。

母の87歳を祝うケーキ

 娘からのプレゼントは10㌢角のキャンバスに描いた桔梗の絵。かつての札幌の家の庭にあった花です。息子からも、絵のプレゼントでした。二人はそれぞれカードも添えていて、母はそれを読むと、涙をこぼしながら喜んでいました。

 私からは、シュウウエムラのクレンジングオイルとロクシタンのボディクリーム。いずれも母の愛用品で、最近は物をプレゼントすると「もう年だから、物より、日ごろ使っているものがいい」と言うので、消耗品にしました。夫からのプレゼントは来週末に行く日帰り温泉です。

 87歳の今も自立し、買い物も料理も病院通いも自分でする母。2019年夏、81歳で札幌から我が家の近くに引っ越してきてから、家族で鍋を囲んだり、近くの公園でお弁当を食べたり、私とランチに出かけたり、母の家でお正月を祝ったりと、娘の近くでの暮らしを楽しんでくれているようです。

 加齢によりあちこち痛いようですが、その痛みは何とかやり過ごしながら、このままずっと元気でいてほしいと願っています。

 

2025年1月23日木曜日

ママ友の旅立ち

 娘が幼稚園のころ仲の良かったお友達のママMちゃんが今日、京都に向け旅立ちます。昨日、最寄り駅近くのカフェで、二人だけの壮行会を開きました。

 Mちゃんは、ご主人を4年前に亡くしています。ご主人は我が家にも遊びに来てくれたことがあり、口数は少ないですが、誠実な、とても良い方でした。がんを患い、再発・転移をし、それでも頑張りましたが、55歳でこの世を旅立ちました。

 Mちゃんには2人の娘さんがいて、下の娘さんが娘と同級生。ご主人が亡くなった当時は高校生で大学受験を控えていました。Mちゃんは娘さん2人と何カ月も泊りがけで、ご主人の側にいて、最期を看取ったそうです。上の娘さんは大学院修了後、関西のほうで職を得、下の妹さんも関西の大学に通っています。

 今回、Mちゃんはご主人との思い出があるマンションを手放し、娘さんたちの近くに行く決断をしました。下の妹さんと一緒に暮らすそうです。

 昨日、Mちゃんはご主人を亡くされた後のことをいろいろ話してくれました。Mちゃん、頑張ったなぁ、と感心しました。そして、ご主人を愛していたんだなぁとしみじみとした気持ちになりました。

 「主人のものには一切手をつけられなかったの、辛くて」とMちゃん。でも、今回、マンションを手放すにあたり、ご主人の物と向き合ったそうです。全部を取っておくわけにもいかず、取捨選択をしたそうですが、その判断をするのは心身ともに大変だっただろうな、と想像しました。

 Mちゃんとワインを傾けながら、これまでのことを沢山お話ししました。「東京を離れるのに誰にも連絡していなかったの。なんか寂しいなぁと思って睦美さんに連絡したの。会えてよかった」と言ってくれました。私のことを思い出してくれて、連絡をくれて、本当に嬉しかった。

 京都は近いですが、私の故郷・札幌と同じで、行きたいと思っても何か特別な用事がなければなかなか行けません。Mちゃんが旅立つ前日に、会えたことをとても嬉しく思っています。

 Mちゃん、子どもたちの元に行けて良かったね。京都は素敵なまちだから、子どもたちと楽しく幸せに暮らせるね。また、どこかで会える日を楽しみにしています。

2025年1月22日水曜日

8万ビュー超えた!

  コツコツと続けているこのブログ「がんのママの育児(育自)日記」。2025年1月19日に8万ビューを超えました。皆さま、日々お忙しい中読んでくださり、本当にありがとうございます。

 私がこのブログを始めたのは2015年。娘が通うインターナショナルスクールに文筆家のママさんがいて、その人のブログを読んで、「私も書いてみようかな」と思ったのがきっかけです。

 当時は体調もまだ、不安定でした。でも、社会復帰をしたくて、それに向けての一歩として、ブログを書こうと思い立ったのです。2015年11月28日でした。よろしければ、この最初のブログを読んでいただければ、私が恐る恐る、社会復帰への一歩を歩み始めたことが分かっていただけるのではと思います。

https://ar50-mom.blogspot.com/2015/11/blog-post.html

 最初の年は12本。2年目以降は少しずつアップ数を増やし、昨年は10年間で一番多い133本アップしました。

 この10年間で書いたのは計732本。平均して5日に1本書いています。今年は思うところあり、毎日書いていますので、このまま書き続けられればと願っています。

 超高齢出産で子供たちを生みましたので、まだまだ子育ての真っ最中です。これからも子育て中に感じたこと、社会との関わりや病気とのお付き合いの中で考えたことを書いていきますので、皆様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2025年1月21日火曜日

メルボルン滞在記 番外編 残った食材の行方

  海外でキッチン付きのホテルを借りると、滞在中に過不足なく食材を確保するため、ある程度の計画性が必要です。私はこういうことが好きで、最終日には何も残さず、でも、最後まで「残り物を食べている」と感じないよう工夫することを得意としています。

 今回のメルボルン6泊7日の旅に持参したのは、電子レンジで温めるパック入りご飯、パスタ、カレールー、味噌、醤油、海苔、ふりかけ、塩、コショウです。肉、野菜、果物、パンなどをスーパーで買いました。

 朝食はおにぎりや、スーパーで買ったパンやフルーツを食べ、ランチは外食したりサンドウィッチのお弁当を持って行ったりしました。夕食は、私が作ったのはカレーライス、子どもたちと夫が作ったのはトルティーヤ、そしてオーブンに入れるだけのピザを買って焼いた日もありました。

 最終日の夜に残ったのは常温保管のものはパック入りご飯、カレールー、パスタ、塩、コショウ、海苔、ふりかけ、クラッカー。冷蔵庫に入っていたものは味噌、醤油、現地で購入したバターとドレッシング、チーズ、そして豆腐でした。

 パック入りご飯とカレールー、パスタ、塩、コショウは娘の寮に持っていきました。海苔とふりかけ、味噌、醤油はジッパーに入れてスーツケースに。バターはジッパーに入れておきチェックアウト時間まで冷蔵庫で冷やし機内に持ち込むバッグに入れることに。チーズも機内でおやつとして食べられるよう一口サイズに切り、クラッカーと一緒に容器に入れ、チェックアウト時間まで冷蔵庫に。

 捨てたのはドレッシングと豆腐でした。ドレッシングは前日までサラダにかけて使っていたのですが、瓶入りでオイルも入っているため何かの拍子に割れて後始末が大変になる可能性があること、半分ぐらい使っていたこと、そして値段も安かったので、捨てるという合理的な判断が出来ました。

 そして、豆腐です。豆腐はとてもポピュラーな食材ですので、普通のスーパーに置いています。それを買い、半分をお味噌汁の具にしたのですが、いつも自宅で食べている味噌の味でごまかせないほど美味しくなかった。残った半分は醤油をかけて食べることが出来ず、もう一度お味噌汁の具にすることもできず、最終日まで残りました。

 私たちは普段お豆腐やおからなどは地元の老舗の豆腐屋さんで買っており、その味に慣れているせいもあるかもしれませんが、いやぁ、まずかった。これを日本発祥の「TOFU」と思ってもらっちゃ困る!と思ったぐらいです。

 先日、たまたま、いつもの豆腐を食べているときに、子どもたちとその豆腐の話になりました。

「あれ、考えたんだけど、つるんとした食感を出すために、ゼラチンを使っていると思う」と娘。

「なるほど、確かにあの食感。ゼラチンか寒天が入っているかもね」と私。

「色が少しピンク色だったから、普通豆腐を作るときに使わないものが入っている可能性がある」と分析する息子。

 私たちが買った豆腐がたまたま美味しくなかったのでしょうか、それとも、オーストラリアで作られている豆腐は概ねあのような味なのでしょうか。私たちはいつもの豆腐を美味しくいただきながら、「オーストラリアの人たちに、この美味しい日本の豆腐をご馳走したいね」という話で、まとまったのでした。

2025年1月20日月曜日

きょうだいがいて良かった

  日曜日の朝、起きてきた息子に「朝ご飯どうする? うどん? そうめん? そういえば、昨日コストコで買ったコーンフレークもあるよ」と聞きました。

 息子は「自分で作るよ」と冷蔵庫を開け、「あっ、ママ、鏡餅食べなきゃね」と言い玄関に行って持ってきました。お餅を包丁で切り始めた息子がぼそっと言いました。

「ママ、きょうだいがいて良かった」

「あらっ、いつそう思ったの?」

「昨日、ドラッグストアにおねぇねぇと買い物に行ったじゃん。おねぇねぇが一円玉落としたから、僕がそれを取ろうとしてバランスを崩して、ころんじゃったんだ。で、二人で大笑いしたんだ。すごく楽しくて…。そんな小さなことで笑える、きょうだいっていいなって思った」

「そうだよね。親とも笑うけど、些細な、何気ないことで大笑いするってあんまりないよね。そういう何気ないことで大笑いするのは、きょうだいだからだと思うよ」

「ママ、一人っ子じゃん。そういう笑いあった?」

「ないよ。だから、小さいころ、きょうだいがいたらどんなに良いだろうって思っていた」

「ママ、ありがとう」

「いえいえ、どういたしまして。こちらこそ、生まれてきてくれてありがとう」

 娘は常々、きょうだいがいて良かったと言っています。私は娘の双子の弟を死産し、何年も娘のきょうだいを無事産んであげられなかったことを悔いていました。そして、私がきょうだいがいればどれほど良かったかと思いながら育ったこと、そして大病を患い自分は長くはないと思っていたことから、何としても娘にきょうだいを作ることが体の弱い私にとっての使命だと考えました。

 私の友人でも一人っ子、異性のきょうだいがいる人、同性のきょうだいがいる人、きょうだいが一人いる人二人いる人と様々です。一人っ子で良かったと感じる人もいればそうでない人もいる。きょうだいがいて良かったと言う人もいればきょうだいなんていないほうが良かったと言う人もいます。きょうだいに関しての考え方も様々です。

 私の場合、神様への祈りが叶い、息子を産むことが出来たのは46歳のとき。息子は元気に育ち、成人しましたがまだ子どものような娘と、とても仲良くしています。頑張って、息子を産んで良かったとつくづく思う日々です。

 さて、昨日きょうだいでドラッグストアに行ったのは、息子のシャンプーを買うためでした。「シャンプーあるじゃない? 何で、あれ使わないの?」と息子に聞くと、「僕は何でもいいんだ。でも、おねぇねぇがそれが嫌だって言うんだよ」と言います。

 私は夫と息子にオーガニックのシャンプーを買い、私は美容室で買ったシャンプー(エイジング対策用)を使っています。夫はそのシャンプーをとても気に入っているのですが、娘はその匂いが嫌いだというのです。

「でも、関係ないでしょう? 自分が使うんじゃないんだから」。 私は娘には、娘が好きだという香りの良いシャンプーを別に買っています。

 娘は言います。「私は、弟をハグするときに、あのシャンプーの匂いを嗅いでしまうのが嫌なの」と言います。娘はいつも息子をハグして可愛がっていますので、自分の好きな匂いを嗅ぎたいということなんでしょう。相変わらず発言がユニークで、オーガニックのシャンプーの香りも私は良いと思うので娘の言うことが良く分かりませんが、二人で仲良くシャンプーを買いに行くということなので、お金を渡しました。

 徒歩10分ぐらいで行ける店ですが、ずいぶん時間がかかりましたので、じゃれ合いながら、笑いころげながら、歩いていたのでしょう。それで、昨日朝の息子のいう「きょうだいがいて、良かった」という発言につながったようです。 

 何はともあれ、きょうだいが仲良く、いつも大笑いしているのを見るのは良いものです。

2025年1月19日日曜日

室蘭からの便り

  私が20代のころ住んでいた室蘭のイタリアンレストランの共同オーナーの二人から、手作りのお味噌とブランデーケーキが届きました。

室蘭のイタリアンレストランから届いたお味噌とケーキ

  お二人は室蘭でイタリアンレストランを営んで30年以上になります。私がお二人を知ったのは、新聞社の新人時代。「美味しいイタリアンの店がある」と先輩に聞き、行ってみました。とても美味しく、お二人も気さくな方で、元々は宅配のピザ屋さんをしていてレストランに変えて頑張っていらっしゃるお二人の生き方も素敵で、よくランチを食べに行っておしゃべりもさせていただいてました。

 お料理もデザートも本当に美味しく、お二人に教えてもらった米ナスをバルサミコ酢で炒めたレシピは、今も我が家に人を招いたときの定番メニューです。

 私が札幌に転勤になってからは、札幌のイタリアンレストランに一緒に行くなど交流を続けさせていただきました。私が東京に転勤になって間もなく病気をしたときも、たくさんのお料理を箱に詰めて送ってくださいました。

 お味噌とブランデーケーキを頂くようになったのは数年前でしょうか。このお味噌で作ったお味噌汁の美味しいこと。このお味噌をいただくと、料理好きの息子が出汁を取り、お味噌汁を作ります。昨日は残ったお味噌汁にご飯を入れて”玉子おじや”を作ったら、もう、頬っぺたが落ちそうなほど美味しい。市販のお味噌では絶対出ない味なのです。

 ドライフルーツとクルミが入ったブランデーケーキも、じっくりと時間をかけて丁寧に作られています。一客ずつ揃えたお気に入りのエンズレイのカップ&ソーサ―で、紅茶と一緒に家族で味わいました。

香りが良く、しっとりとして美味しいブランデーケーキ

 

お気に入りのエンズレイのカップ&ソーサ―でいただきました

 私はこのように一つのことをコツコツと続けている人を心から尊敬します。店を30年以上も続けるのは、本当に大変だったことと思います。特に新型コロナウイルスが蔓延していたときは大変だったそうです。そのような中、美味しいお料理を追求し続け、昨年には再びイタリアに行き、お店で仕入れているワインの生産者を訪ねたり、新しいワイナリーを開拓したりし、研鑽を積んでいらっしゃいます。

 お礼の電話をすると、ちょうど、お料理教室の最中でした。こうして、地元の方々に愛されてお店を続けられているお二人。今年はぜひ、会いに行き、美味しいお料理をいただきながら、お二人のお話を伺いたいです。 

 

2025年1月18日土曜日

メルボルン滞在記 ⑦サブウェイと船上レストラン

 メルボルン滞在6日目(12月30日)はタイトなスケジュールでした。滞在が6日間と短いため、最終日に前日までに出来なかったけど、今回の旅行では絶対したいことを家族でリストアップして詰め込みました。そのため、前日から綿密なスケジュールを立て、この日はそのスケジュールに沿って、行動しました。

 まず、午前中は娘が行きたかったカンガルーとコアラのいる動物園「バララット・ワイルドパーク」へ。最終日ですので冷蔵庫にある食材を使い切る工夫をする(私の得意分野)のは私のミッション。ランチ用に残ったパンとハム、チーズでサンドウイッチを作り、ブロッコリーなど残りの野菜も詰めました。開園と同時に入園しましたので、午前中で十分楽しめました。ベンチでランチを食べ、早めに動物園を出ました。

 午後2時ごろ、ダウンタウンに到着。ここで、子どもたちと私たち夫婦は別行動です。息子は、一番行きたかった「サブウェイ」に娘と一緒に行きました。息子はサブウェイのサンドウィッチの大フアンで、中学生になってからはレギュラー(約15㌢)ではなく、フットロング(約30㌢)を毎回、食べています。

 旅行先でサブウエイを探して食べるのが息子の楽しみで、これまで家族で行ったハワイやイギリス・アイルランドでも店を見つけて、食べました。今回も店をすでにダウンタウンで見つけていますので、行かないわけには行きません。二人は親と別行動を取れることに気を良くして、店に向かったのでした。

サブウェイのサンドウイッチを食べる息子

 私と夫はジュエリーショップへ。夫が還暦のお祝いにピアスを買ってくれることになっていて、夫の中では今回の旅で完了しなければならないミッションだったようです。日本でもあちこち見たのですが、私が欲しかったホワイトゴールドのピアスの種類があまりなく、流行なのか、ピンクやイエローゴールドのピアスに変わってきていました。ならば、わざわざ日本で買わずとも、メルボルンのジュエリーショップに行って買うのも思い出になるという結論になりました。夫は前日にネットでお店をいろいろ調べてくれていました。

 私がホワイトゴールドにこだわったのは、私が毎日身に付けている、息子の遺骨が入っているペンダントがこの素材だからです。そして、残念なことにこのペンダントに合わせてほぼ毎日、身に付けていたホワイトゴールドのピアスを昨年なくしてしまったのです。これは結婚当初、夫の実家のあるシカゴ郊外の小さなジュエリーショップで買ったものでした。で、夫にお祝いに何が欲しい?と聞かれ、即答したのが、ピアスだったのです。

 夫が前日調べてくれていた店に行くと、人懐っこい若い女性が対応してくれ、いろいろ勧めてくれました。いくつか付けてみて、一番気に入ったものを買ってもらいました。ほぼ即決で、他の店を見たほうがいいかな?とも思いましたが、時間もなく、また、直感を大事にしようとも思い、決めました。実は結婚10周年のお祝いに、私が夫に時計を買ってあげたのがハワイでした。旅行の思い出と普段身に付けるものが一緒になっていると、折々にその旅を思い出せるのが良いのです。

 店を出た後、ダウンタウンを歩いているとカフェが並ぶ通りを見つけました。その中の一つのカフェのテーブルに座り、ワインを注文。隣のテーブルのアボガドサンドウィッチがとても美味しそうだったので、これも注文しました。

美味しかったアボガドサンドウイッチ

 子どもたちに連絡すると、サブウェイのサンドウィッチを食べた後、ホテルに戻って寝ていたようです。午後5時には、メルボルンの中心街を流れるヤラ川に浮かぶ船上レストランに予約をしていましたので、そこで待ち合わせをすることにしました。

 これは私の「メルボルンでしたいことリスト」に入っていたことです。旅行前から考えていたことではなくて、メルボルンに来てから、川の上に浮かぶレストランで人々が楽しそうに食事をしているのを見て、リストに入れました。

 本当ならドレスを着たいところでした。が、息子とお揃いのディズニーのTシャツを着ることが私のリストの上位にランク付けされており、これはこの日に実行したので、私はミッキーマウスとミニーマウスが大きくプリントされた真っ赤なTシャツを着て、レストランに行ったのでした。

ヤラ川に浮かぶレストラン

 女性たちの多くはドレスアップしており、ドレスアップしていなくても、お洒落なカジュアルウエアを着ていました。そんな中、ディズニーTシャツを着ているのはちょっと恥ずかしかったですが、まぁ、息子とお揃いのTシャツを着られて、一緒に写真も写せましたので、良しとしました。息子はぐんぐん大きくなっていますので、このTシャツを着られるのもこれが最後ですので、良かったと思っています。

 子供たちがレストランでオーダーしたのが、ピザとニョッキ。私たちはカフェですでにサンドウイッチを食べてしまいましたので、軽めに魚介類のフリッターにしました。あっという間に食べ終わりましたので、滞在1時間ほどで店を出ました。

子供たちがオーダーしたピザとニョッキ

 ドレスを着られなかったことを残念がっていた私のために娘が、「ママ、一旦ホテルに戻ってドレスに着替えて、散歩しようよ。メルボルンは日が長いから、まだまだ明るいよ。したいことは全部しなきゃ」と提案してくれました。で、ホテルに戻り、着替えて、またダウンタウンへ。

ヤラ川に浮かぶ船上レストランを反対側から眺めたショット

 のんびりとあちこち散歩し、写真もたくさん写して、心置きなくホテルに戻りました。楽しいことが沢山詰まったメルボルン最終日でした。 

ヤラ川の端の上には「MERRY CHRISTMAS」のサインがかかっていました。クリスマスが終わっても外さないところが、おおらかなオーストラリアらしい

2025年1月17日金曜日

同級生の芝居を観る

  昨日、高校時代の同級生が出演するお芝居を観に行きました。下北沢の劇場で1月10日から19日まで上演されており、昨日は夕ご飯の支度を夫に頼むことが出来たので、観ることが出来ました。

 S君は高校生のときに同じクラスだった人。彼は札幌の大学時代に演劇に関わり、役者を目指して東京に出てきたそうです。夢が叶い、役者になったことは大分前に聞いていたのですが、高校時代の同級生とは、親しい女子の友達以外にはつながりがなく、風の便りにその動向を聞いていたぐらいでした。初めて彼のお芝居を友人と一緒に観に行ったのは、10年以上も前です。

 昨年、関東に住む高校野の同級生のライングループが出来、今回の案内がアップされました。前回観に行ったときは、純粋にS君の活躍ぶりを観たかった。今回は、自分の好きなこと、やりたいことに真っすぐに生きてきたS君が年齢を重ねた今どういう芝居をしているのか、観たかった。

 下北沢は本当に久しぶりでした。30代のころ、よく、この下北沢に来て小さな劇団の芝居を観ていました。20代に室蘭にいたころも、地元の小劇団の芝居を観に行っていました。観劇から遠ざかったのは、病気をしてからです。

 小さな劇場の良さは、役者さんと観客がとても近いこと。昨日も劇場の入り口に入った途端、その狭さに一瞬驚きつつ、ホールに入るとステージの目の前にパイプ椅子が所狭しと並んでいて、「ああ、こんな感じだった」と懐かしさが込み上げました。

 若い役者さんや演出家らの芝居に対するほとばしる情熱を、ひしひしと感じられる世界。S君はこの世界でずっと頑張ってきたんだな。還暦を迎えた今も生き残っているんだな、いや、彼独特の存在感を出しているんだな、と思いながら、開演を待ちました。

下北沢の「駅前劇場」で上演された「逆さま日記」のパンフレット。後ろはステージ

 作品は、探偵業を引退したシャーロック・ホームズが村で起こった殺人事件と不審死を関係者ら一人一人との対話を通じ、小さな手掛かりを手繰り寄せ、解決していく物語。最後にどんでん返しもあり、観客を飽きさせない素晴らしい舞台でした。

 役者さんは皆とても上手で、観客の心をわしづかみにするようなパワーがありました。我が友人S君も退役軍人役で、とても良い味を出していました。いぶし銀の存在感を放っていました。

 私たちのような年代が、それぞれの居場所でどういう役割を担ったらよいか、S君は芝居を通じて教えてくれました。主役でなくても、舞台の中心にいなくても、なくてはならない存在として、そこにいる。彼が長い年月をかけて積み上げてきた経験が、彼の人生の舞台である、その文字通りの舞台でしっかりと表現されている。教え子をかばう退役軍人の心の深さと優しさが、S君と重なりました。

 いいなぁ、と思いました。

 お芝居の後、狭い通路に役者さんが出てきて、観客と談笑していました。S君の姿をあちこち探し、ようやく、目立たない後ろのほうで、マスク姿でじっと立っているS君を見つけました。

 「S君!」と声を掛けると、一瞬驚いたような顔をして、「むっちゃん、来てくれたの? 」と言い、笑顔に変わりました。

「うん」

「一人で?」

「そう。今日、当日券買えるかなと心配だったけど、買えてよかった。S君、頑張っているね。すごく上手だった」

「そう? ありがとう」

「あの、ハリー役の女性上手ね」

「うん、これからの演劇界を引っ張っていく人だよ」

「演出家も若いのね」

「うん、劇団を立ち上げて5年ぐらいかな。力のある人だよ。ところで、むっちゃん、4月の札幌の同窓会行くの」

「うん、行く予定。S君は?」

「僕は行かないけど、皆によろしくね」

「うん」

 若手の活躍を見守り、支えるS君は素敵だなと思いました。最後にそれぞれの携帯電話で自撮りをして、さよならをしました。

 階段を下りる途中に、出演者の一人がぽつんと立っていました。ファンや友人が来てくれる人はいいでしょうが、そうでない人はきっとこの時間が苦痛だろうなぁと想像しました。S君も、芝居の後は、こういう時間を何十回も何百回も過ごしたのかもしれない。仕事のオファーがないときは、孤独感や焦燥感も抱いたことだろうな、と想像しました。でも、一方で仲間と作品を作り上げる醍醐味も、自分の芝居が評価される喜びも味わってきたでしょう。だから、今のS君がいる。

 S君の芝居をまた観に行こう。地に足をしっかりと着けて頑張っているS君の芝居を観て、励ましをもらおうーそう思って帰路に着いたのでした。


2025年1月16日木曜日

メルボルン滞在記 ⑥コアラ・カンガルーに会いに

  メルボルン6日目(12月30日)は電車で約2時間のところにある、「バララット・ワイルドパーク」に行きました。娘が「お友達と一緒に行って楽しかったから、家族で行きたかった」とイチ押しする動物園です。

 午前9時の開園と同時に入るため、朝、6時半にホテルを出発。トラムという電車に乗り、バスに乗り換えて行きました。

 メルボルンで公共交通機関に乗る場合はMikiというICカードを使います。現金を受け付けないので、これがないと身動きできません。中心街は無料で電車に乗れるのでMikiカードはいりませんが、少し遠出をする場合は、専用の機械に乗降車時にタッチする仕組みになっているので購入する必要があります。

 カードにチャージしたお金が無駄にならないよう、乗る前に必要な金額を大まかに計算してチャージをしたのですが、動物園の最寄りのバス停で降りるときにお金が足りないということが分かりました。バスではチャージが出来ないことに、そのとき気付きました。

 夫と娘が運転手さんに事情を説明し、運転手さんも私たちが旅行者だと分かってくれて、「今回はいいよ」と言ってくれました。ラッキーでした。

 動物園の入り口で、入園料を支払い、カンガルーにあげる餌も買いました。カンガルーは筋肉隆々で時に人間も攻撃することもあると聞いていて、かつ、ユーチューブで雄のカンガルーが人間の住む家の窓ガラスをドンドンと叩く動画を見たことがあり、「ええっ? 餌をあげるの?」と少し怖かった。でも、動物園では子どもと雌しか放し飼いにしないらしく、ほっ。

 子供のカンガルーはとても人懐こくて、手の平から餌を食べてくれます。私も夫も息子も、カンガルーの実物を見たのは初めてで、その可愛らしさに感動。赤ちゃんカンガルーはお母さんカンガルーのポケットに顔を入れて、おっぱいを飲んでいます。時々、お母さんと同じぐらいに大きいカンガルーもお母さんのポケットに顔を入れていて、「大きくても、まだ、子供なんだね」とほのぼのとした気持ちになりました。

カンガルーに餌をあげ、喜ぶ私

 コアラはのんびりと木に寄り掛かっていて、見ているだけで癒されました。飼育員さんがリヤカーに山盛りのユーカリの葉を入れて持ってきて、そこにカンガルーが群がってムシャムシャと食べていました。「コアラが食べるのは?」と娘が聞くと、「コアラは新鮮なユーカリしか食べないの。コアラが食べなくなった葉をカンガルーが食べてくれるの」と教えてくれました。なるほど。

癒されるコアラ



ユーカリの葉に群がるカンガルー

 翌日は朝7時の飛行機で帰国しますので、この日が観光の最終日。冷蔵庫にあるものを使い切るため、ランチ用にハムとチーズのサンドウイッチを作りフルーツも持ってきました。ベンチに座って、サンドウイッチを頬張った後は、私はお土産屋さんを覗きに、夫と子供はもう一度動物たちを見に行きました。

 帰りのバスでもMikiカードにチャージが出来なかったのですが、ここでも運転手さんが「まぁ、いいよ」と通してくれました。おおらかなオーストラリア人っていいなぁとさらにオーストラリアが好きになったのでした。 

2025年1月15日水曜日

戻った 幸せなひととき

  息子は中一で、英語で授業を教える中高一貫校に通っています。1学年は約130人で、4クラスに分かれ、3クラスが日本語で教えるクラス、1クラスが英語で教えるクラスになっています。

 息子は日本語は得意ではありませんが、かと言って、英語がすごく得意なわけではありません。で、再び、英語の塾に通うことになりました。小学校のころに通っていた塾です。

 息子が通っていたころは、そこの近くのハンバーガー屋さんで夕ご飯を食べさせていました。そこでの息子との時間が楽しく、中学校に入学して、なくなってしまって残念に思っていたところ、また、再開しました。

 息子がいつもオーダーするのは、プレインなハンバーガー。私がオーダーするのはスパークリングワインとオニオンリング。オニオンリングは息子の大好物です。スパークリングワインを飲みながら、息子と語り合う幸せな時間が戻ってきて嬉しい。

 塾通いが続けばいいということではないけれど、息子との幸せな時間がしばらく続きますようにと願っています。

息子の英語の塾の近くにあるハンバーガー屋さん。ここでスパークリングワインを飲みながら、息子とおしゃべりするのが楽しみ


2025年1月14日火曜日

大きいね

  昨日成人式に参列した娘は、身長がとても高く、それが娘のコンプレックスになっています。私も、私の友人たちも「背が高くて、格好いい」と褒めているのですが、本人は「背が高くて目立つのが嫌」といつも否定的です。

 去年、背が高いことがコンプレックスになっている理由を踏み込んで聞いてみて、なるほどと納得しました。娘いわく、「これまで生きてきて、日本で初対面の人に『背高いね』『大きいね』と言われなかったことがないの。いつも、いつも、そう言われる。その人にとっては私と会うのが初めてだから、そう言うんだけど、私にとっては、何十回、何百回でしょう。言われなくても、自分が背が高いことは十分わかっていますって思う。道を歩いても、電車に乗っていても、必ず『デカッ』という目で見る人がいる。じろじろというのではなく、驚いたという目で」

 そんな娘がオーストラリアに留学し、伸び伸びと暮らしています。娘は「誰も私を見ないし、初対面の人に一度も背が高いねと言われたことがない。村人A(たくさんいる人の中の一人という意味)になれるのがいい」とオーストラリアの暮らしやすさを表現します。今回、私も行って、娘が目立たない理由がよく分かりました。

 あちらでは背がすごく高い人もいますし、すごく太っている人もいる。目鼻立ちも肌の色も、白人、黒人、アジア人、ヒスパニック、中東の人など、皆かなり違う。体のあちこちに入れ墨が入っている人もたくさんいる。洋服だって人それぞれで、清楚な服を着た人は稀で、皆カジュアルで、私から見てカジュアル過ぎる服、露出度が高すぎる服を着ている人もたくさんいて、少しぐらいの個性では全く目立たない。長い髪の背の高い、普通のカジュアルな服を着た娘は、全く目立たないのです。娘のいう「村人A」の意味が良く分かりました。

 それに、おそらく、「背が高いですね」と初対面の人にいうことは、「太っていますね」「肌の色が黒いですね」「入れ墨入れてますね」ということと同義なのでは、他民族と暮らしていくためにそういう発言は控えるべきという認識がオーストラリア人の中にあるのでは、と想像しました。

 娘に背が高いことを嫌がる深い理由を聞いてから、娘と歩いているときに、娘の言うことを私も意識するようになりました。確かに、日本では娘を見て、「えっ」という表情をする人がたくさんいます。娘の言うようにそれは気分の良いものではなく、「あぁ、娘はこれまでずっとこういう思いをしてきたのだ」と可哀想な気持ちになります。

 最近もこんなことがありました。道端で、娘が幼稚園の時に一緒だった女の子のお母さんとすれ違いました。そのお母さんが娘と会うのは本当に久しぶり。で、第一声が「大きいね」でした。しばらく、私と世間話をした後、もう一度娘を見て「大きいね」。2回目の念押しの言葉で、娘の表情が引きつってはいないかと心配し、娘を見ると、娘はニコニコしていました。

 そのお母さんの娘さんは小柄で可愛らしい女の子。だから、つい比較して言ってしまったのでしょう。でも、大柄な娘を持つ私としては、「大きいね」じゃなくて、せめて「大きくなったね」と言ってほしかった。「背が高くて、素敵だね」「すっかり、いいお姉さんになって」など、久しぶりに会った子にかける言葉は、いくらでも別の表現があります。私も久しぶりに昔知っていた女の子や男の子に会ったときは、「素敵だね」「格好良いね」など褒めるようにしていますので、そのお母さんの言葉をとても残念に思いました。

 後から娘にそのお母さんのコメントについて聞いてみました。娘は「『大きいね』って、ポジティブな言葉じゃないよね。『大きくなったね』は分かるんだ。小さなころと比較して、大きくなったねというポジティブな意味だから。でも、『大きいね』はネガティブな印象だよね。まぁ、いつものことだけど」と諦め顔で言います。

 昨日の成人式では、さらに、無作法なコメントを言われたそうです。会場で、娘が小学校4年生の終わりまでいた地元公立小学校で一緒だった女の子にばったり会ったとき。その子は同じ小学校の女の子3人と一緒だったそう。

 で、その3人のうち、娘を覚えていなかった子が娘に「女の人?」と聞いたそうです。つまり、娘を見て振袖を着た男性?と疑問に思い、その疑問を直接、娘に聞いたということです。娘は背が高いですが、決して男性には見えません。あまりにひどい、と思いました。成人なんだから、もう大人なんだから、言っていいことと悪いことをどうしてわきまえないのだろう、と腹立たしく思いました。

 性別は今、最もセンシティブな話題です。生まれてきた身体とは違う性別の心を持った人たちの苦しみを最近、メディアなどを通じて、ようやく私たちは知ることが出来ています。アンケートの調査票にも、性別の欄には「男性」「女性」に加えて、「答えたくない」も入っています。なのに、どうしてこういうコメントを、その人に直接言うのでしょう? 自分の心にわいた疑問を自分の心の中に仕舞っておけないのなら、せめて、せめて、娘がその場を去った後に、お友達に「あの子、女性?」と聞くぐらいの常識は持っていてほしかった。成人式という、お祝いの場では尚更です。

 娘は、「実はそう言われたのは初めてじゃないの」と言いました。そうか、娘が背が高いことを嫌がる理由は、私を含め娘を知る人間が「背が高くて素敵じゃない」という単純な表現で慰めるよりも、もっと深いのだと知りました。

 成人式が終わり、自宅に戻りました。知っているお友達がいないため式には一人で参列した娘は、友達と来ている新成人たちを羨ましく思ったでしょうし、せっかく会った唯一の知り合いの友達に「女の人?」と疑問を投げかけられ傷ついたでしょう。でも、娘は、そんなことも忘れたように、「楽しかったぁ」と終始ご機嫌でした。また、「ママ、今日はいろいろありがとう」という言葉も言ってくれました。

 朝が早く、長い時間体を締め付けていましたので、娘は着物を脱いだらすぐにベッドにもぐり、寝ました。私は娘が寝た後、娘が成人式で言われたコメントを思い出し、傷ついた娘の気持ちを考え、しくしくと泣いてしまいました。

 たまたま側に来た息子が「ママ、どうして泣いているの?」と聞いてきました。息子に説明すると、「それはひどいね。でもさ、おねぇねぇ、きっともう忘れているよ。ぐーぐー寝てるじゃん。夜、イタリアンに行くんだよね。ピザ食べたら、もう、絶対忘れるって」と慰めてくれました。慰められなければならないのは、私ではないのですが、息子に甘えて、しばらくの間、ぐちゅぐちゅと泣かせてもらいました。

 夜、成人式のお祝いに娘と息子が大好きなイタリアンレストランに行きました。娘はいつものように終始ニコニコし、嬉しそうに、美味しそうに、お料理をほおばりました。「成人式、おめでとう!」のデザートプレートもとても喜んでくれました。

娘の成人式のお祝いに行ったイタリアンレストランのピザ

 娘のおおらかさに、救われた日でした。

2025年1月13日月曜日

成人式

  娘が今日、成人式を迎えました。大切に大切に育てた娘は、心の優しい、美しい女性に育ってくれました。娘のために作った深紅の振袖と、私が成人式のときに着たショールは、とても娘に似合いました。

 今朝は午前3時半起床。午前4時過ぎ、家族で自宅を出ました。写真館を予約していた新宿・伊勢丹には午前4時40分に到着。伊勢丹の駐車場は空いていませんので、夫が私と娘を伊勢丹の前で降ろし、最寄りの24時間営業の駐車場へ。私と娘は写真館に向かいました。

 写真館のある建物の前には、リストを持った伊勢丹の男性職員5人が待機していました。「おめでとうございます」と次々挨拶してくださり、そのうち1人がヘア・メイクをお願いした美容室に案内してくれました。

 娘の予約時間は午前4時45分。ちょうど1年前に予約の電話をかけたときはすでに一番早い午前4時のヘアと着付け(その時間の枠は8人)、午前6時の写真撮影の枠しかなく、キャンセル待ちをかけ、根気強く定期的にキャンセルの確認電話をして、ようやく、数カ月前、午前4時45分ヘア・着付け、午前6時45分写真撮影に変更できたのでした。

 美容室に着いたときはすでに10人以上の成人を迎える女性たちがいました。皆、それぞれに可愛らしく髪を結ってもらい、着付けの部屋へ。着物一式は前々日、伊勢丹に持ち込んでいました。娘によると(部屋には母親は入れませんでした)、着付けは2人がかりだったそうです。

 娘は身長183㌢と高いので、私の振袖は長さが足りず(身長がまだ170㌢ぐらいだった十三参りのときに私の振袖を着てお参りに行きました)、新たに作りました。一反では足りないので、布地を付け足してもらいました。着物の前の部分の柄も長さが足りないため(普通はふとももの上のほうまで柄がつきますが、娘は足が長いので膝上ぐらいでした)、京都の反物を染めるお店に頼み、柄を足していただきました。

 娘はオーストラリアに留学していますので、留学前に反物を選び、留学中に柄を足してもらい、一時帰国したときに柄と長さの確認をして仕立てを注文、今回の夏休み(日本の冬休み)に試着をして小物を揃えました。こうして、仕上がるまで1年ほどかかったのでした。

 その着物を着た娘は、それは可愛らしかった。写真撮影を終えて帰宅し、私の母も娘の着物姿を見に来ました。自宅にいたのは約30分ほどでしたが、母も孫の振袖姿を見られて、とても喜んでいました。そして、また車に乗って、成人式の会場へ。

 成人式は午前11時開会。我々の区の新成人は約6千人いるそうですので、会場(大規模な体育館)には数千人の新成人がいるのでしょう。娘を送ったときには、本当にたくさんの振袖姿の女性、スーツ・袴姿の男性がいました。成人式を初めて見た夫も、「すごいね!」と感動していました。


    娘は小学校4年生の終わりにインターナショナルスクールに転校しましたので、地域にお友達もいなく、一人で参加しました。皆、お友達と楽しそうに談笑していて、その中で一人ポツンとしている娘を見るのは可哀想でしたが、娘はあまり気にすることもなく、式典を楽しんだようです。

 式典が終了した後は、親も会場に入れました。会場の前に、「祝 二十歳のつどい」と書かれたボードがあり、新成人たちがメッセージを書いていました。そこに、娘が書いたメッセージがありました。

 「ママ、ダディ、育ててくれてありがとう」

 あぁ、いい子に育ってくれたなぁとしみじみとした気持ちになりました。こちらこそ、ありがとう。あなたを育てた20年は、本当に楽しかった。これからも、ずっとずっと、あなたはママとダディの大切な娘です。


  


2025年1月12日日曜日

大学の相談所へ

  私は現在、博士課程3年目です。医学系の研究科なので、修了に必要な規定年数は4年。ですので、来年度が最終学年となり、順調にいけば博士論文を提出します。

 あと2カ月で3年目も終わりますが、博士課程でのこの3年間は、辛いことが多かった。考え方を変える、視点を変える、などして「辛い」という受け止めを変えるよう努力をしてきましたが、定期的に「もう精神的に限界かもしれない」というときがあります。現在抱える問題とは別の問題が重なるときです。別の問題はそれだけを見ると対処可能に見えますが、積み重なっている頭と心の疲労にそれが加わると、頭と心がシャットダウンしそうになるのです。

 その状態は、治療などでギリギリまで持ち堪えますが、それ以上の苦痛になると「もうこれ以上は無理」と病と闘う気力が一気になくなり、「もういい」と諦めてしまう感覚に似ています。

 昨年12月もそうでした。「もう、限界かもしれない」と思うときがありました。気持ちが塞ぎ、どうにもできないときは、札幌の親友に電話をし話を聞いてもらいますが、そのときは私にとっての最後の砦である、親友に電話をすることが出来なかった。だから、スーツケースにとりあえずの荷物を詰め、ホテルを予約しました。

 今、振り返ると荷物をまとめホテルを予約するというアクションが取れていますので、本当の意味での限界ではなかったのですが、それ以上耐えるとベッドから起き上がれなかったり普段できていることが急にできなくなるかもしれないーという危機感というか恐怖心を抱いた。だから、今いる環境から離れようと考えたのです。娘は大学生、息子は中1で自分のことは自分で出来る年齢ですので、まずは子どもについての心配はないと判断しました。

 そこに至るまで、当然、本も毎日読んでいます。何らかのヒントを得るために、精神科医の本、僧侶の本、ビジネス書、小説などベッドの横に常に10冊ぐらい積み、携帯電話にはkindleのアプリを入れて、読んでいます。運動をして気分転換もしています。子どもたちと過ごし頭の中から問題を追い出します。でも、やはり、それらを終えるとまたむくむくと頭の中が抱えている問題でいっぱいになる。

 突破口が見いだせず、さらに自分を何とかなだめすかして問題をやり過ごすために用いる考え方「ネガティブ・ケイパビリティ(どうにも答えの出ない、対処しようのない問題に耐える能力・イギリスの詩人ジョン・キーツがその概念を作り、イギリス人の精神科医が臨床心理の場で広めたとされる)」で耐え抜くにも限界があるーと考えてしまうと、自分自身がシャットダウンするかもしれないーという予感がするのです。

 ”家出”を取りやめ、精神的な危機を脱し、何とか持ち堪えようという状態までに心が落ち着いたところで、ふと、人に相談することをもう一度してみようと思い立ちました。私の問題は小さなころの家庭問題、その後の病気、出産にまつわること、そして博士課程での問題と、それぞれを独立させて受け止めるもしくは解決するべき問題が実は絡み合っていることをある時点で認識しましたので、それからは心許す人に話はしますが、意見を求めるなど相談はしないようにしています。

 でも、別の視点がほしくなりました。問題を解決するための助言ではなく、その問題を別の視点で見る、別の観点で捉えたほうが良いと思いました。私は読書によりたくさんのことを学びましたが、やはり自分が選ぶ本・もしくは書評で選ばれた本・識者が勧める本では限界があるのではと思い至ったのです。

 まずは、先月で退職し、海外の研究所に行った研究員に年末に相談しました。彼女は外国人なので別の視点から見てもらえると期待しました。彼女からは「研究室は狭い世界なので、大学に行ったほうが良い」と勧められました。大学は若い学生たちがたくさんいて、エネルギーを感じられる。パソコンを持って行き、論文は図書館で書くなど試したらどうか、と。そして、大学の相談所のカウンセラーと話をすることを勧められました。そこでは学業や人間関係に関する相談を受け付けるそうなのです。

 先週の金曜日(1月10日)にその相談所の予約を入れました。大学に行くのは数カ月ぶりで、すがすがしい気持ちでキャンパス内を歩きました。相談所はキャンパスの奥まったところにありました。カウンセラーは40代ぐらいの経験を積んでいそうな女性。約1時間話をしました。自分はかなりメンタルが強いほうだと思いますが、過去を振り返り、思わず涙がこぼれてしまった場面もありました。これから、2週間に1度30分間、カウンセリングをしてもらうことにしました。

大学の相談所の入り口

 問題を解決していくのは自分で、問題を解決する方法を考えるのも自分です。でも、別の視点で捉えてみたら、こんな方法もあるのだーという気付きがほしい。私は以前、がん患者専門のベテラン精神科医に8回のカウンセリングを受け、「先生には私の問題を理解していただけなかった。ですので、自分で何とか生きていきます」と啖呵を切って診察室を出たほどの面倒な人間です。

 ですので、大学の相談所のカウンセラーの方との対話で、自分の問題が解決できるかどうかは分かりません。でも、話を聞いてもらうことに遠慮はいらないと思いました。友人の貴重な時間を使ってしまうこととは違います。カウンセラーの方は給料が支払われる仕事として私に向き合い、大学側も学生たちのメンタルのサポートをするために予算を配分している。私は大学に授業料を払っています。国立ですので税金も投入されている。ですので、ここは遠慮なく、話を聞いてもらうことにしました。

 久しぶりの大学のキャンパスで見上げた空は青く澄んでいて、気持ちが晴れました。学食で学生たちに交じって、お昼ご飯を食べました。大盛りのご飯の上にキャベツの千切りが載り、その上に鶏の唐揚げが載り、たれとマヨネーズがたっぷりとかかっている、若者用のカロリー高めな丼ものです。ワカメとお豆腐のお味噌汁も付けました。食後はコーヒーを買い、ベンチに座って飲み、図書館に向かいました。

学食で食べた昼食

相談所から図書館に向かう間にある安田講堂。近くのベンチでコーヒーを飲みました

 図書館の机でパソコンと資料を広げ、作業をしました。珍しく、眠気を感じ、気が付いたら、机に突っ伏して寝ていました。オバサンが医学図書館で、若い精鋭たちに交じって、机に座り、パソコンのキーボードを打っているうちに、途中で机に突っ伏して寝だしたー。そんな滑稽な自分に、心の中で苦笑した私でした。

 

2025年1月11日土曜日

メルボルン滞在記 ⑤オーストラリア警察はすごい

  メルボルン滞在5日目(12月29日)は、娘がお世話になっている現地在住のIさんとパートナーのNさんとビクトリア州立王立植物園に行きました。前日もご自宅で食事をご馳走になり、メルボルンの名所をぜひ案内したいとお誘いいただいたのです。

 お二人は60代で、12年前に知り合い、一緒に暮ら始めたそうです。Iさんは娘と同じ大学の大学院をアート専攻で修了したアーティストで、Nさんは建築家。Iさんは大の日本びいきで、夫の友人の従姉妹というご縁で、親しくさせていただき、我が家にも昨年、夫の友人ご夫婦とIさんNさん4人で遊びに来てくださいました。

 また、娘をメルボルン内の美術館や博物館に連れていってくださったり、ご飯をご馳走してくださったりと、とても親切なカップルなのです。

 Iさんはとても知的な女性で、NさんはIさんを心から尊重している感じが傍から見ていても伝わります。Nさんは、私が抱いているオーストラリア人男性のイメージ通りの人です。おおらかで、いつもリラックスしていて、仕事とプライベートのメリハリが出来ている、人生を楽しんでいるタイプ。

 Iさんの語りを、Nさんはいつもにこにこしながら聞いています。大人の素敵なカップルだなぁと思います。そのお二人とお話しながら、植物園をのんびりと散歩しました。Iさんが持参してくれた美味しいパンを園内の芝生の上に座っていただきながら、Iさんの日本移住計画を伺いました。60代で他国に移住する計画を進めているなんて、素敵だなぁと思いました。

ビクトリア州王立植物園

美しいハスの花

あまりに美しいのでハスの花をアップで撮影

 

太い木の幹に触れる息子

 私は日本が大好きですが、もし、機会があるなら、のんびりとしたオーストラリアに住んでみたい。私の場合は、既往症が多過ぎ、日本以外の国の医療保険ではカバーしきれないと言われているため、夢のまた夢ですが…。

 IさんNさんとお別れした後、中心街に行き、衣料品を安価で購入できる「Kマート」という店に行き、夫と娘の服や靴を買いました。2人とも背が高く、手足も長く、足のサイズも大きいので、日本では衣料品はなかなか探せないのです。

 買い物が終わり、店を出て、ホテルに帰ろうとしたときに、娘がハンドバッグをKマートに忘れたことに気付きました。戻って探しましたが、どこにもありません。たまたま、夫の携帯電話に娘と息子の携帯電話を追跡するアプリをインストールしていたため、それで探そうと考えましたが、娘は日本のSIMカードを外していましたので、追跡できません。  

 そのとき、夫が、娘のiPod(イヤフォン)も登録していたことを思い出しました。で、それを鳴らしてみました。追跡できたらしく、Kマート内にあることが分かりました。夫の携帯電話の画面を見ながら、Kマート内でそのアプリの画面が示す場所を探しましたが、ありません。そうこうするうちに、画面が示す場所が店外に移動しました。我々もそちらのほうに行きましたが、もうどうしようもありません。諦めて、警察に届けることにしました。

 さっそく、街中にある警察へ。担当の若い警察官は娘と夫にたくさん質問をし、詳細をメモをした後、「すぐに、Kマートに連絡して、探します。見つかったかどうかはお父さんのメールに連絡します。帰国された後にも連絡できるよう、こちらにお知り合いがいらっしゃっいましたら、連絡先を教えてください」と言います。夫がIさんに連絡して了解を得て、Iさんのメールアドレスをお伝えしました。

 警察官は申し訳なさそうな表情で「せっかく旅行に来てくださったのに、残念です。でも、残りの日を楽しんでください」と言ってくれました。親切な警察官でした。

 ホテルに帰り、気を取り直して夕食を作りました。そのとき、夫の携帯電話に「ハンドバッグが見つかりました。KマートのInformation に行ってください」との連絡が。夕食を食べ終えて、駅前で警察官にお礼に差し上げるドーナツを買い、Kマートへ。

 娘のハンドバッグはトイレで見つかり、携帯電話は店の入り口で見つかったとのこと。娘のハンドバッグを見つけた人の行動はいろいろ推測できましたが、とにかく、すべて戻ってきて何よりでした。迅速に対応してくれたオーストラリア警察に本当に感謝です。

 ドーナツを持って、警察に行きました。担当してくれた警察官は窓口にはいませんでしたが、まだ署内にいるようで、窓口の方が呼びに行ってくれました。

 警察官が出てきてました。真面目な表情で、「なくなったものはありましたか?」と聞き、娘が「全部戻りました。ありがとうございます」とお礼を言うと、「良かったです」と一言。娘が「これ、ドーナツです。召し上がってください」と差し上げると、警察官は「いいえ」と最初は断りましたが、「娘がお礼をしたいとお小遣いで買ったんです」と私が説明すると、はにかみながら受け取ってくれました。

メルボルンの警察署

警察署内の窓口

  迅速に、誠実に対応してくれたオーストラリアの警察には、本当に感動しました。今回の件で、私たちはさらに、オーストラリアを好きになったのでした。

娘のハンドバッグが戻ったのでワインで乾杯。スナックはツアーで行ったチーズ工場で買ったカマンベールチーズとクラッカー、ホテル近くのスーパーで買ったマンゴーとネクタリン

ワイナリーで買ったピノ・ノワールをあけました


2025年1月10日金曜日

おねぇねぇはアーティストだから

  昨日から、息子のお弁当作りが再開しました。私の日々の楽しみの一つなので、素直に嬉しい。夫も出勤だったため、張り切って家族全員のお弁当を作りました。


 今週は月、火と研究室に行き、水木と家で論文を書いていました。家にいるとやるべき家事が限りなくあるので、なかなか集中できませんが、娘と一緒にいられます。昨日はお天気も良かったので、近くの公園で娘と一緒にお弁当を食べようと計画しました。

 でも、我が娘は毎日、お昼近く(時にはお昼過ぎ)まで寝ています。娘は寝るのが大好きで、寝る子は育つということわざがあるように、身長がぐんぐん伸びました。でも、もう成人なので本来なら注意すべきなのでしょうが、娘の場合、なぜか注意をするのがためらわれるんです。娘が小さいころからそうでした。息子はいつも、「もう起きなさい!」「歯磨きなさい!」とうるさく注意するのですが。

 娘に注意することがためらわれ、息子には当たり前のように注意するのは、おそらく息子はあらゆる面で普通で、娘は感覚が少し普通とは違うからだと思います。たとえば、娘は注意したときの反応が普通ではないので、こちら側が注意する気がそがれるのです。というより、ここで注意をしなくてもいいのではないか?と逆にためらってしまう場面が多々ある。

 たとえば、2017年のブログ。このころ、すでに私は娘の躾について考えを巡らせています。https://ar50-mom.blogspot.com/2017/10/blog-post_29.html

 昨日もこんな反応です。

「もう10時だよ、起きてね。起きて、カーテン開けてね。毎日少しずつでもいいから部屋を片付けよう」

「ママ、いま私、とっても素敵な夢を見ていたの。もう少し寝ててもいいかな?」

 不機嫌そうに「分かった」とか言われれば(息子のように)、「さっきから分かったって言っているけど、起きてないでしょ」とか言えますよね。「休みぐらい寝かせて」とか言われると、「毎日休みでしょ。休みでも朝はきちんと起きたほうが生活のリズムが出来るんだよ」とか言い聞かせられますよね。

 娘のような反応をされると、素敵な夢を見ている娘を、起こすのはどうかな? と逆に自分自身に問いかけてしまうのです。以前も、「寝てばっかりいないで…」と注意したら、真顔で、「ママ、私は遊び歩いて親に心配かけるわけでもないし、悪いこともしていないんだよ。誰にも迷惑かけず、自分の部屋で、ただ幸せに寝ているだけなんだけど」と静かに反論されてしまいました。

 すると、そうだよね、出かけて夜遅くて親に心配をかけるわけでもなく、自分の部屋で娘が幸せに寝ている。お腹が空いたり、十分寝たら、起きてくる。だったら注意しなくても…と思わされる。

 一方で、母親としての心配もあります。たとえば、思い出すのは、遠い昔の従兄弟のYちゃんとの会話です。当時、Yちゃんは年下の可愛らしい女性と付き合っていました。Yちゃんによると、アパートにその子が泊まりに来て、Yちゃんが朝出勤して夕方帰宅すると、その子がまだパジャマ姿でいた。あまりのだらしなさに幻滅し、それが別れる理由になったという話。

 当時は、「そうだよなぁ、夕方までパジャマ姿でいるなんて、ちょっと…」とYちゃんに共感しました。でも、でも、我が娘だって、さすがに夕方まではパジャマ姿ではいませんが、午後までなら、頻繁にあります。娘に好きな人が出来て、その人のアパートに泊まりに行って、午後まで寝ていて幻滅されたら…。だったら、今のうちに母親の私がきちんと躾けたほうがいい。

 私はこうして、日々逡巡するのです。こんな悩みに息子が、ストレートな表現で考え方を提示してくれました。

「おねぇねぇはアーティストだから。ほらっ、アーティストって変わっている人多いっていうじゃん」

 おねぇねぇがお昼近くまで寝ていても許されるけど、自分はなぜか起こされてしまう。おねぇねぇはずっとアニメを見ていても許されるけど、自分はずっとゲームをしていると叱られる…。息子としては理不尽と感じているかもしれませんが、一方で「姉はアーティストだから、違うんだ」と受け止めている。おもしろいなぁと思いました。確かに、娘の絵とヴァイオリンの才能は、家族の欲目かもしれませんが、家族全員が認めています。

 さて、昨日は午前11時半ごろ、「お天気がいいから、公園でお弁当食べよう!もう11時半だから、起きたら?」という声掛けで、ようやく娘が起きました。ベッドからむくっと起きた娘は、「うっ、ふぅ~」とうぐいすのような声で第一声を出し、「おはよう、ママ」とご機嫌です。

 私は娘のこのうぐいすのような声が大好き。その声を聞くと、気持ちが明るくなります。こうして、親を明るい気分にしてくれる娘ですので、毎日、昼過ぎまで寝ていることぐらい、良しとしようと思ってしまいます。

 支度をして、お弁当とお茶を持って、近くの公園に行きました。娘は「お天気が良くて気持ちいいね」とにこにこと幸せそうでした。その楽しいひとときを味わうと、まぁ、いいかと、朝の私の心配はどこかに吹き飛んでしまったのでした。

 


2025年1月9日木曜日

制服の裾伸ばし

  昨日、中1の息子の学校が始まりました。昨日からは裾を伸ばしたズボンをはいて行ったので、足元が寒くなることなく、過ごせたようです。

 昨春の入学時に購入したズボンが短くなり始めたのは夏。夏休みに近所のお直し屋さんに持っていって裾伸ばしをしていただこうと思っていたのですが、連日部活動があり断念。秋はズボンが短いまま、学校に行ってもらいました。

 そして、冬になり、「ママ、足が寒いんだけど…。立っているときはいいけど、座るとズボンが上がってすごく寒いんだ」と息子。

「冬休み中にお直ししてもらうから、終業式の日はちゃんと帰ってきてね。次の日から旅行だし、お正月はお直し屋さんが休みだから、終業式の日しか持っていく日がないからね」

 息子の学校の終業式は12月23日。翌日の24日は成田発メルボルン行きの飛行機に乗るため午後早い時間に家を出る予定でしたので、23日の午後にお直し屋さんに持っていくことにしていました。

 ところが、念を押したにもかかわらず、午前中に終業式が終わり午後に帰宅するはずの息子は「友だちと昼ご飯食べるから」とメッセージを送ってきて、帰宅したのは夜6時過ぎ。24日午前は家族全員が荷物詰めに忙しく、裾伸ばしのことはすっかり頭から消えていました。

 旅行を終えて帰国し、お正月を迎え、裾伸ばしのことを思い出しました。さてどうするかと考え、自分ですることにしました。実は私、縫い物は得意なほう。いろいろ縫いたくて布などを買ってきていましたが、縫う時間が作れず今に至ります。で、この際、必要に迫られてではありますが、お裁縫の機会を楽しむことにしました。

 さて、お正月三が日をお正月らしく過ごすと、「To Do List」が一杯になります。たとえば、義母に誕生日プレゼントを贈るとか(内容を記述した送付状を作って印刷するなど時間がかかる)、息子の定期券を買うとか、各種振り込みとか…。そして、研究論文の執筆を再開しなければなりません(あぁ、気が重い…)。このブログだって書きたい。6日からは研究室通いが再開します。

 で、ズボンの裾伸ばしを1回でやろうとすると他にやるべきことの時間を使わなければなりませんので、2回に分けてすることにしました。8日水曜日が始業式ですので逆算して、余裕を持って7日朝にはクリーニングを終えた状態にしたい。そうするとクリーニング屋さんに取りに行くのは6日夜。ですので、持っていくのは5日日曜日。で、5日の午前中にまつり縫いを終える計画を立てました。

 ということで、4日の夜、まずは裾のまつり縫いを取ることにしました。ズボンの裏を見ると、後側の下のほうに縦1㌢、横8㌢ほどの布が縫ってあります。恐らく、かかとで踏んで布地が擦り減るのを防ぐ目的なのだと思います。それを、丁寧に外します。

 次にまつり縫いを外します。まつり縫いの糸を外すときは、ロックミシン(裁ち目をかがるミシン)の糸と間違えないように注意が必要。こちらも丁寧に外します。これらにかかった時間は1時間。

 翌朝は気持ちの良い作業です。まずは裾上げの部分にアイロンをかけます。ギリギリまで伸ばします。そして、まつり縫いを始めます(まち針でとめるのを省略したら曲がってしまったので、途中からまち針を刺しました)。縫い終わったら、まち針を外し、アイロンをかけて終了。ここまでの作業で1時間。裾を8㌢伸ばすことが出来ました。


 息子さんが違う中学校に通うママ友に聞くと、その息子さんの制服のズボンの裾上げ部分は15㌢ぐらいあるそう。息子のはそれほど長くなく、8㌢しか伸ばせませんでした。息子の背はぐんぐん伸びていますので、3学期をこのズボンで過ごすぐらいで精一杯でしょう。2年生になるときに新しいズボンを買うことにしました。

 息子にはいてもらうと、ちょうど良い長さでした。息子に褒めてほしくて、「ねぇねぇ、ママ、ちゃんとお母さんしてる?」と聞くと、「うん、してるよ。ありがとう」と褒めてくれました。満足して、クリーニング屋さんに持っていったのでした。

 昨日朝、制服を着た息子を送り出しました。これまではズボンが短くて格好悪く、母親として後ろめたい気持ちだったのですが、昨日は「いってらっしゃい!」と気分良く息子を送り出せたのでした。

 

2025年1月8日水曜日

メルボルン滞在記 ④アボリジニ文化センターへ

  メルボルン滞在4日目(12月28日)はメルボルン博物館のバンジラカ・アボリジニ文化センターに行きました。オーストラリアの先住民族アボリジニについて学ぶのは今回の旅行の目的の一つでもありました。

メルボルン博物館内のバンジラカ・アボリジニ文化センター入口。アボリジニの言葉で「ようこそ」という文字が書かれている

アボリジニのアート作品

 アボリジニは700を超える部族があったと言われ、それぞれが独自の言語を話していたそうです。文字を持たないため、部族に伝わる掟や様々な知恵を岩壁に描いたり、物語にして語り継いできたそうです。自然に畏敬の念を持ち、調和しながら生きており、北海道に住む北方先住民族のアイヌに似ています。

 アボリジニの人々は、イギリスの植民地時代に虐殺され、居住地を追われ、オーストラリアが独立した後も迫害され続けました。アボリジニの子どもや白人との混血児は親から隔離され、民族としてのアイデンティティを喪失させる政策も長い間取られました。

 アボリジニの市民権がようやく認められたのは1967年。オーストラリア政府がアボリジニに正式に謝罪したのは2008年です。娘が生まれた4年後で、いかにアボリジニの人々の闘いの歴史が長かったかを痛感します。

 今回、メルボルンを訪れて強く感じのは、国を挙げてアボリジニに敬意を表し、その固有の文化を守り、植民地時代から続く負の歴史も後世に伝えていこうとしていることでした。娘によると、大学の講義が始まる前には毎回、先生たちが「自分たちは今、先住民族アボリジニが住んでいた土地を使わせていただいている」という趣旨の言葉を言い、アボリジニの人々に感謝の意を表するそうです。

 また、娘が通う芸術・音楽の学部のキャンパスのあちこちに、大きな半円形のオブジェがあるのですが、これはこの土地にキャンパスを建てるときに掘った土を処分したり他の土地に運ばず、この地に置いたままにするためにオブジェの中に土を入れることにしたからだそうです。大学の入り口には「Welcome」(ようこそ)という文字の横にアボリジニの言葉「Wominjeka」が併記されています。

 メルボルンの街では、中心街に建つ壁にアボリジニのアートが描かれていたり、アボリジニの人々の肖像画が描かれている壁もありました。訪れたワイナリーではアボリジニのアーティストによる絵が飾られていました。

 今回、バンジラカ・アボリジニ文化センターで歴史を学んだ後、ギフトショップで義父母にアボリジニのアーティストが作った美しいカトラリーと木製の皿、母と私たちの家にもお皿を買いました。私たちはアボリジニの歴史・文化について学び始めたばかりですが、小さな工芸品を普段の生活で使うことで学びを深めるきっかけになればと考えています。

メルボルン博物館の入り口近くのモニュメント。この日は空が綺麗でした

メルボルン博物館の横に建つ王立展示館とカールトン庭園。世界遺産に登録されている


メルボルン博物館のギフトセンターで買ったアボリジニのアーティストが作った皿。一枚一枚に作家の写真とデザインの意味などが書かたカードが添えられている