今日、父の13回忌法要を行い、遺骨を納骨堂に納めました。昨年の春から、ずっと母のマンションに置いてありましたので、父が近くにいなくなるのは寂しいなぁと思いましたが、母もひと安心だったようで、良かったです。
夫と息子も一緒に行ってくれました。法要の後、お坊さんが「私たちがいまここにいるのは、親がいて、その親にもまた親がいて、と連綿と命が続いてきたからです。生まれてすぐ亡くなられる方もいますので、こうして生きていることはとても奇跡的なことです。ですので、日々、そのことに感謝をして生きましょう」と仰いました。そうだなぁと思いました。
母は何度も、「安心した」と言っていました。父の遺骨を札幌から自分と娘家族が住む東京の納骨堂に移せたことが一番の理由ですが、「自分の入るところが決まって、安心した」こともあるようです。母は87歳なので、こういうことが心の平穏につながるのですね。
お坊さんには「ここは何体入るのですか?」とざっくばらんに聞き、お坊さんが「12体入ります」と言うと、母は「前の納骨堂より大きいよ。あそこは8体だったからね」と嬉しそうです。そして、「あんたも入るところだから」とも。
そう言われて、何となく嬉しくなかったのは、きっと私はまだまだ生きるつもりだからなのだと思いました。それに、宗教と夫のこともあるのだと思います。私は無宗教で日本人、夫はクリスチャンで米国人。こういう場合は死後はどうなるのでしょう?
私は体も弱いですし、年上ですので、私のほうが先だと思います。夫は日本語が分からないので手続きが出来ませんので、「とりあえず、ビール」ではないですが、「とりあえず、納骨堂に」ということになりそうです。まぁ、父もいますし、順番から言うと母が私より先でしょうし、私としては両親と一緒でいいのですが、夫はどうなるのかなぁと心配したりします。
夫の両親もすでに墓地を自分たちで準備しているようです。体が大きい人たちですので、広々とした墓地なのだろうなぁと想像します。夫は体が大きいのにずいぶん長い間狭い日本に住んでいて、死んでからも、宗教の違う納骨堂にぎゅうぎゅう詰めで入るのはかわいそうです。死んでからぐらい、のびのびしたいと思うかもしれません。アメリカに帰るのも手続きが大変そうですし、かといって関東にお墓を買うのは難しそうですし。海が好きな人なら、故・石原慎太郎さんのように散骨という選択肢もあるのでしょうが、夫は海に散骨してもらうほど海が好きではないですし、同様にそれほど森も山も好きではない。うーん、悩ましい。
下の子供はまだ中学生ですし、我々の老後の話もまだなのに、母の「あんたも入るところだから」という一言で、いろいろ考えてしまった父の13回忌法要でした。
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