2025年3月31日月曜日

87歳の母 あっぱれな行動力

  私の母は現在87歳で、我が家から徒歩5分ほどのところにある賃貸マンションで一人暮らしをしています。今も私には一切頼らず、一人で食料品や日用品の買い物をし、食事を自分で作り、病院や歯医者さんにも一人で通っています。今日は、母の悩みの種である手のしびれを診てもらうための病院探しで見せてくれた、あっぱれな行動力について報告したいと思います。

 母が、「手のしびれが耐えられない。病院選びを手伝ってほしい」と言ってきたのが日曜日の朝。私が電話でニセコ旅行の報告をしたときでした。

「あんた、いろいろインターネットで調べるの得意でしょ? 私、インターネットできないから調べてくれる?」

「いいよ。ちょっと待ってね、今、パソコン立ち上げるから」

「整形外科で薬をもらっているんだけど、全然効かないの。だから、脳神経外科か脳神経内科だと思って」

「了解。今、比較的近くの病院を調べるね」

「この前、テレビでHクリニックがいいって言っていたの。それもちょっと調べてくれない?」

「うん、あったよ。でも住宅街の中にあるようだよ。小さなクリニックだよ。もう少し大きい病院はどう?」 

 そうして、あれこれ病院を調べて、先生の人数や診察日・時間、駅からのアクセスなどを確認し、2つの総合病院に絞りました。病院のホームページで詳細を見てもらうため、ノートパソコンを持って母のところに行きました。私は携帯用のWi-Fiを持っていますので、母の家でもパソコンでネット検索が出来ます。

 母の家に行き、ノートパソコンを立ち上げ、病院のホームページを見せると母は「すごいねぇ。こんなにいろいろ調べられるんだね」と感心します。母の携帯電話でも検索は出来るのですが、これまで「インターネットなんて使わなくたって生きていられる!」と豪語していたので、教えることもありませんでした。ですので、日曜日が母にとって、ホームページを見た初めての日だったのです。

 クリックして病院の診療科、診察日、担当医師の名前や経歴などが書かれているページを見せていくと、母は「すごいねぇ」と興味深そうに画面に見入ります。

「お母さんの携帯電話でもネット検索できるんだよ。教えてあげる。覚えてみる?」と聞くと、母は「じゃあ、教えて」と言います。母の携帯電話でグーグル検索の仕方、そして画面に出てきた情報のどこをクリックすれば良いのかなどを教えました。

 母に画面操作を教えながら、病院を決めました。母はその総合病院の脳神経内科の先生の名前と診療日をメモ書きしていました。そして、私が今朝、その病院に電話をして予約を入れると決め、私は自宅に戻りました。

 寝支度をしていた夜10時ごろ、母から電話がありました。明るい声で、「自分で予約をしてみようと思う。自分で出来ることは自分でしたほうがボケ防止になるから」と言います。

 そして今朝、再び母から電話がありました。気になっていたHクリニックについて携帯電話でネット検索したところ、なかなか良さそうなので、下見がてらに自分で行ってみるーと言います。私は今日は研究室に行く日なので、ついて行けません。母は「大丈夫だよ。自分で行けるから」と言います。

 そして、今日の夕方、母から電話で報告がありました。母は一人でクリニックに行き、外観を見て、あまりよくないと判断し、自宅に戻り、総合病院に電話をして水曜日の予約を取ったと言います。

 Hクリニックの最寄り駅はとても大きなJRの駅。母はその駅に行くのは初めてなので、自宅最寄り駅から駅員さんに尋ねながら電車を乗り継ぎ、その駅にたどり着き、タクシーを拾ってHクリニックに行ったと言います。JR駅は私でさえ苦手なのに、徒歩7分の住宅街のクリニックに自力で辿りついたのです。

「タクシーの運転手さんもおじいちゃんでね。Hクリニックのことを知らないの。で、メモに書いておいた住所を伝えたら、何やら調べてくれて、連れていってくれたよ。道がくねくねしていたけど、建物とか目印になるもの覚えていったから、帰りは駅まで迷わず歩いて帰れた。だから、今日は気分がいいの。自分はまだまだ大丈夫だって思えたからね」

 いやぁ、我が母ながらあっぱれ。

 Hクリニックについて母は、私が日曜日に教えたばかりのグーグル検索で調べていったそう。「あんたが教えてくれたでしょ。あの後、何度も復習したら、いろいろ調べられるようになってね。いやぁ、便利でびっくりしたよ。何でも分かるんだね」

 そして、Hクリニックを目で見て確かめて、あまり良くなさそうだと判断してから、総合病院に電話をして、水曜日の予約を取り付けたそうです。

 受付の人に生年月日を伝えたところ、「お子さんは一緒にいらっしゃいますか?って聞かれたから、いいえ、私一人で行きますって伝えたの」と母。

 母は続けます。「でね、予約を取った後に、また、その病院の受付の人から確認の電話があってね、手のしびれだって言ってあるのに、また、何の診察で来るんですか?って聞くんだよ。で、あれっ、私ぼけていると思われているかな?って気づいたの。でね、受付の人が電話を切ったあともう一度検索したんだ」

「すごいね、お母さん、日曜日に教えたばかりなのに、もうそんなに調べられるの」

「そう。でね、予約してもらった先生のこと調べたらね、その先生いくつも認定医になっていてね、なんと、認知症の認定医にもなっているんだ。だから、私のこと、認知症の疑いがあるかもって受付の人が思ったんだね」

「おかあさん、すごいね。そんなことまで調べたんだね。さすが! で、水曜日だけど、私、付いていくからね」

「ありがとう。でもね、あんたがついていくと、ほら、説明なんかは私じゃ分からないと思われてあんたに説明するかもしれない。私はまだぼけていないからね、一人で行って、自分で説明聞いたほうがいいと思うから、いいよ、自分一人で行くから」

「お母さん、それも分かるんだけど、自分一人で先生の話を聞くより家族が一緒に行ったら、聞き漏れがないし、本人が聞かなかったことも家族が追加で聞けるじゃない?そういう意図で誰かが付き添うこともあるんだよ。だから、付き添いの人が一緒に行ったからボケているとは思われないないよ。お母さんが一人で先生の話を聞きたかったら、私は待合室で待っているというのはどう?」

「そうだね、それがいいかもね」

 体のあちこちが痛くて、「まぁ、年だから仕方ないねぇ」と常々言っている母が今日は「気分がいい」と張りの良い声で話してくれました。いくつになっても、自分で出来ることは自分でする、新しいことにも挑戦してみる、という気持ちが大切なんだなと母を見ていて思うのでした。

 

2025年3月30日日曜日

美味しい 生ノースマン

 皆さん、千秋庵製菓というお菓子メーカーをご存じでしょうか? 1921年、札幌で創業した歴史のある和洋菓子メーカーです。そこの「ノースマン」という商品は北海道産の小豆あんを薄いパイで包んだお菓子です。

 そのノースマンに生クリームを入れた新商品「生ノースマン」が2022年に発売され、とても評判が良いと聞いたので、今回早速新千歳空港で買ってきました。

 この生ノースマンは大丸札幌店と新千歳空港限定で販売されているそうで、先日、札幌出身の友人らと食事をしたときに話題になったのです。大丸東京店で期間限定で販売されたときは、行列が出来るほどの人気だったとか。

 昨日はニセコから家に戻ったのが深夜だったのですが、翌日まで待っていられず、食べました。とても美味しかったです。

 母には昔ながらのノースマンをお土産に買い、今日持っていきました。昔、札幌の実家のすぐ近くに千秋庵のお店があり、母はよくそこでノースマンをお土産に買ったり、年末には豆きんとんを買っていました。「久しぶりで、懐かしい」と喜んでくれました。

 

2025年3月29日土曜日

ニセコ 頂上近くへ

  今日、ニセコはようやく晴れ、羊蹄山がその美しい姿を見せてくれました。今日は8時半から午後1時半まで、息子と一緒にガンガン滑りました。

スキー場の頂上付近から見える美しい羊蹄山

 私たちが今回行ったニセコ東急グラン・ヒラフは1961年ニセコひらふスキー場という名前で開設されました。中高年の北海道民でしたら、この名前のほうが馴染みがあるかもしれません。

スキー場の中腹から見る羊蹄山

 そのグラン・ヒラフはいくつかのコースがあり、頂上付近まで行くのは2つのコースがあります。私たちが滑った場所はまずゴンドラで中腹まで行き、そこから4人乗りの高速リフトに乗りさらに上に行きます。そして、そこからは昔ながらの一人乗りのリフトに乗ります。

 高速リフトまでは中級レベルでも行けますが、一番上まで行くリフトは上級者に限定されます。今日は息子にせがまれ、ここに4回行き、下まで滑りました。はっきり言いましょう。これには体力がいります。ここに行くのは、大体が若者だと思います。なんたって滑りが違う。でも、私は滑りましたよ。はい、愛する息子のためですので。

頂上付近まで行くリフトの入り口。「上級者限定(Most Difficult)」のサインがある

 私は札幌生まれ・札幌育ちで小さなころからスキーをしていますが、この一人乗りのリフトは苦手なんです。ゴンドラはそもそも箱の中に人が入りますし、高速リフトは大きなカバーでリフト自体が囲われますので安全そのもの。でも、このリフトは安全バーなんてものはありません。昔ながらの簡易な椅子なんです。その上に、ゲレンデとリフトの椅子の間の距離が結構あるんです。

 左手でバーをしっかりつかみ、右手で椅子をつかまえても、怖い。この恐ろしさを伝えるためには携帯で写真を写してこのブログにアップすれば良いのですが、さすがの私も出来ませんでした。鉄塔を通り過ぎるたびにガタンガタンと音がなり、椅子が揺れます。鉄塔には「飛び降り禁止(Please do not jump from the chair)」とサインが書かれています。ここから飛び降りる酔狂な輩がいるんでしょうか。

 やっと降りて、地面にスキー板を付けるとほっとします。でも、若者はさらに上を目指すのですね。ここから、スキーを担いで頂上を目指しています。いやぁ、あっぱれ。私はおばさんですし、息子は中1でまだまだ未熟者ですのでリフトを降りて、普通に滑ります。はい。

スキーを担いで頂上を目指す若人たち。あっぱれ

 今日、息子が「僕の友達のお母さんで、スキー場のてっぺんまで一緒に行って滑ってくれる人はなかなかいないと思う。一人で滑るのは寂しいから、ママ、これからも一緒に行ってね」と言ってくれました。その言葉を聞いて、私のこれからの生きる目標がガチっと決まりました。息子が高校を卒業するまで(できるなら大学ぐらいまで)は息子と一緒にスキー場の一番上まで行って、一緒に滑り降りてくるぞ! 

 
 


 

 

 

2025年3月28日金曜日

ニセコは外国

  ニセコ2日目は夫が終日スキーのレッスンを受け、私と息子はゲレンデを滑りました。昨年2泊3日でニセコに来た経験と今回で、ニセコは”外国”だと実感しました。そのことについて今日は書きたいと思います。

 私たちが滞在したホテルはニセコの中でグラン・ヒラフという場所にあり、電話をすると最初の応対は英語です。私が「日本語で話せますか?」と聞くと、「少し待ってください」と言って、日本人が電話に出てくれます。これは昨年も同じでした。

 フロントには必ず外国人がいて、まずは英語です。ホテルのすぐ近くにスキー・スノーボードのレンタル店があるのですが、ここのスタッフはすべて外国人です。日本語は通じません。

 そして朝食をとるカフェテリア。ここで働くスタッフはほぼ外国人。日本人もいますが、完全なバイリンガルです。そしてお客さんも日本人はほとんどいませんでした。

 ゲレンデではたくさんの人がスキースクールでレッスンを受けていますが、インストラクターはほぼ外国人です。ほぼ、と言ったのは私は外国人しか見ませんでしたが、日本人のインストラクターがいる可能性を否定できないので、ほぼ、という言葉を使っただけです。小さな子供を教えているのも、プライベートレッスンをしているのも、大人を教えているのも全部外国人でした。ちなみにホテルにスキー教室について問い合わせたときは、レッスンは英語のみという答えでした。

 そして、ここからが今日の本題です。日本に住んでいると、物が盗まれるという経験をあまりしません。物を落としても、大半は戻ってきます。でも、ニセコでは驚くほど物が盗まれます。昨年はカフェテリアで席に置いたゴーグルが盗まれました。温泉に入ったら、服の上にかけてあったタオルが盗まれました(私は温泉の中に持っていった小タオルで体を拭きました)。

 そして、今回はスキー板とストックを盗まれました。息子と私がスキーを立てかけて、ホテル内に戻った1時間の間になくなったのです。スキー板には私と息子の名前と滞在ホテルのルームナンバーが書かれたシールが貼られています。ですので、間違えるはずはない。初めは置いた場所を間違って覚えたかな?と思いましたが、息子と私の記憶が一緒でしたので、なくなったことは確かでした。

 ホテルに電話をし、スキー板が見当たらないことを説明したら、スキーを置いた場所のスタッフに聞いてみるように言われました。そして聞いてみると、その人は「よくスキーやスノーボードの板がなくなるんですよ」と声を潜めました。そして、すぐ、レンタル店に連絡するようにとアドバイスしてくれました。

 レンタル店ではさっそく別のスキー板を手配してくれ、20分ほどでホテルに持ってきてくれました。私も息子も残り時間でスキーを滑ることができたのですが、改めて、ニセコは外国だと思い知らされました。

 レンタル店が持ってきてくれたスキーをつけ、ゴンドラに乗った私たち。息子が「去年のゴーグルはまだ理解できるんだけど、スキーを持っていくってすごいよね。予想もしないよね」と言います。

「うん。レンタルだから新しくもないし…。あれをどうするのだろう? 温泉で服の上にかけてあったタオルが盗まれるのも、まったく予想もしないよね」と私。バッグとか、携帯電話とか、こういうものが盗まれるのはまだ理解できるというか、そういうこともあるよね、とは思います。でも、タオルやスキーはちょっと想像の域を出ていました。

 それでも、やっぱりスキーが好きな人には、ニセコは雪質が良いので楽しい場所です。日本人が外国旅行するときに、「外国は日本とは違う。持ち物に注意をするように」と言われます。ですので、我々もニセコは外国と思って持ち物の管理をしっかりすれば良いのです。

 夫はニセコをとても気にいったようで、来年もスキー教室に入って少しずつ慣れていき、いずれは私たちと一緒にゲレンデで滑りたいと張り切っています。予想外のアクシデントもありましたが、やっぱりニセコはとても魅力的なリゾート地です。私も息子もスキーが大好きなので、また、来年来たいと思っています。

インストラクターに指導を受ける夫

2025年3月27日木曜日

ニセコへ

  今日から2泊3日で北海道・ニセコ町にスキーに来ています。昨年春に初めて息子を連れてこのリゾート地に来て、今回が2回目。今回はウインタースポーツが苦手な夫も連れてきました。

 新千歳空港から直行バスで2時間半。昨年泊まったホテルが気に入ったので今回も予約しました。後ろにゲレンデがあり、スキー用具のレンタルなど手配をしてもらえ、かつホテルに預かってもらえる、とても行き届いたホテルです。今回もスキー一式をレンタル。夫は身長193㌢、足のサイズが31㌢ですが、スキーウエアもスキー靴もちゃんとレンタルできました。

 これまでスキーをやったことがなく、かつ、50代ですと、「足を折るかもしれない」などと恐怖心が先に来ます。私が横について転び方とか、歩き方を教えたのですが、一度転んでしまうと体が大きいので、私も容易に助けられない。で、明日のグループレッスンを予約してあるので、まずはそこで専門のインストラクターに習ったほうが良いということに。

「ホテルに帰って、持ってきた日本酒の本を読んでいるよ。明日、まずは転び方とか怪我をしないやり方を押してもらうよ」と苦笑いする夫。これまでは絶対スキーなどしたくないと言っていたのですが、いい意味で年を取ったのですね。息子と一緒に遊べるときに一緒に遊ぼうという気持ちになっているのだと思います。

 夫がゲレンデからホテルに戻ってしまいましたので、息子と2人で滑りました。息子がとても楽しそうにしていて、私もとても幸せでした。今日は雪だったので、羊蹄山は見られませんでした。明日はあの美しい山を見られますように。

楽しそうな息子。スキーウエアは娘のお下がり


2025年3月26日水曜日

息子の成績表

 息子が通う学校から、子どもたちに通知表を渡したので見てくださいと連絡がありました。先週のことです。

 息子が自主的に見せてくれるかと待っていましたが、その気配がないので、「通知表を渡したから、確認してくださいって連絡あったよ」と催促しました。「あっ、そうだった」と息子はとぼけた表情で、リュックサックの中に詰め込んでいるぐちゃぐちゃになった紙の束を取り出し、一枚一枚めくりました。そして、A4のペラペラの紙を差し出しました。

 目に飛び込んできたのは国語の「1」でした。成績は何段階かまずは確認し、5段階だと分かりました。その「1」という数字に、それをつけた先生の息子に対する感情が透けて見えたような気がしました。息子はテストの点数が悪いだけでなく、やる気も全くなく、学習態度も悪いということでしょう。

 つい、「これは何?」と責めてしまいそうになりましたが、ぐっと堪えました。子どもに対して感情的に叱ってはいけないそうです。また、他人との比較も駄目なんだそうです。悪いところではなく、良いところを見つける努力をするべきなのだそうです。ですので、まずは静かに理由を聞きました。

「一学期は2だったけど、1になっちゃったね。漢字が分からないのかな? それとも文章を書くのが難しいのかな?」

「テストの点数が悪いのはもちろんなんだけど、積極的に手を上げないからだと思う」

「うーん、積極的に手を上げないだけで1はつかないと思うよ」

「先生が嫌いなんだ。嫌なヤツなんだ。僕より点数が悪くて、授業も聞いていないクラスメートが4とか5とか取るんだ」

「そうなんだね。先生が嫌だったら勉強したくないのは分かるけど、だからって勉強することをやめたら、あなたが困ると思うよ」

「うん」

 これ以上追及するのはやめました。息子は漢字がかなり弱いので、数週間前から6年生の漢字ドリルをやらせています。比較的出来ていました。他に、何か根本的な問題があるのでしょう。他の科目を見てみると5はありませんが、英語と美術、理科は4です。日本で生まれて日本で育ち、日本の小学校に行った息子の国語が「1」。英語が「4」。

 私のせいだと思いました。英語に比べて、日本語はずっと難しい。漢字など基礎ををつけるときにしっかりと丁寧に見てあげなかった自分のせいだと思いました。今、向き合わなければ、きっと、後から息子と向き合わなかったことを後悔すると思いました。

「国語の教科書見せてくれる?」

「えっー?」

「どんなこと勉強しているか知りたいの」

 息子はブツブツ言いながら、自分の部屋から国語の教科書を持ってきました。パラパラめくると、かなり難しいことが分かりました。息子はこれらを理解出来ていなかったのでは?と思いました。

「あっ、ヘルマン=ヘッセの『少年の日の思い出』だね。ママ、ヘッセが大好きなの。これを一緒に読まない?」

「えっー? いいよ。だって、内容分かるもん」

「本当? じゃあ、教えて」

 息子が話してくれた、この話のあらすじはあっていました。感想を聞いてみると、きちんと答えてくれました。本をさらにめくると、「広がる本の世界」と題して、たくさんの本が紹介されていました。ミヒャエル=エンデの「モモ」が目にとまりました。

「モモはうちにあるね」。ダイニングテーブルの後ろの本棚には絵本が入れてあり、そこにオレンジ色の装丁の「モモ」を置いてあります。息子が読まないかな?と期待して置いてあったのですが、全く興味を示しませんでした。そこから本を取り出しました。布の装丁の肌触りが良く、手にしっくりときました。

「モモをママと一緒に読む?」

「いいね、モモ」

 しぶるかと思いきや、良い反応が返ってきて、びっくり。まぁ、もう話を切り上げたかったのだと思いますが、さっそく読むことにしました。第1章を開くと、息子は黙ってそのページを見ます。

「声だそうよ」

「何で? 声ださなくたっていいじゃん」

「声に出したほうが、お互いに分かるじゃない。ママも読むから」

 まずは息子が読み始めて、区切りの良いところで私に代わり、また区切りの良いところで息子に代わるー。そういう形で読むことにしました。久しぶりに読んだモモの出だしの文章に、わくわくしました。

 そういえば、室蘭(前の会社の初任地)に私設文庫があって、その代表の方がモモが大好きだったことを思い出しました。その方の名前も顔も忘れてしまいましたが、モモの良さについて、とても嬉しそうに語ってくれた場面が記憶の中から浮かび上がってきました。息子との読書はきっと楽しいだろうーと良い予感がしました。

 今日は第2章でした。息子の横に座って、かわりばんこに読みました。明日は第3章です。このまま続けられたら、いいなぁ。読み終わった後、息子に成績のことを軽く確認しました。

「来学期は1から脱出しようね」

「まっ、とりあえず、1から2にあげるよう頑張るよ」

 息子はとぼけた表情で、そう答えました。欲張らず、一歩一歩です。あーあ、子育てはひと筋縄ではいかないものですね。

 

 

2025年3月25日火曜日

父の命日に

  昨日は父の命日でした。研究室に行く前に、納骨堂に寄りお線香を上げてきました。

納骨堂の前にある、手水

 父の納骨堂は仏壇式で、遺骨を納める場所の上に仏壇があり、そこに仏具を置き、花を飾り、お供えをすることも出来ます。昨日は、遺影を入れた写真立てを持っていき、その仏壇の中に入れました。

 父の遺影は2012年の3月にハワイに一緒に行ったときの写真を使いました。とてもいい表情で笑っていて、私の大好きな写真です。我が家に置いてある遺影もその写真です。

 その1年後の3月24日に父は亡くなりました。父の写真を探しているときに、父が亡くなった日の写真も見てみました。忘れもしない、桜が満開の日で、私は夫と娘、息子と花見に行っていたのです。母から電話がかかってきたのは、その夜でした。

 写真の中の私はカツラを被っていて、顔も薬の副作用でむくんでいました。”本来の自分ではない自分”の顔が嫌いでしたので、写真の中の私の笑顔も心なしか引きつっています。

 当時は全部抜けた髪が生えてきてまだ1,2㌢ぐらいでしたので、カツラなしでは外出できませんでした。でも、お通夜やお葬式では気持ちも動転しており、カツラを被りもしませんでした。髪なんてどうでも良かった。参列してくれた親戚も私の髪を見て、ぎょっとしただろうな、と思います。

 当時のことを振り返るのは、やはり辛い。だから、当時のことは思い出さずに、亡くなる1年前の楽しそうな父の遺影を見ながら、”仏様になった”父に話しかけるほうがずっといいなと改めて思いました。

 納骨堂の仏壇で父の遺影を見ながら話をし、先日の13回忌法要のときにお供えした和菓子をお下がりし、食べました。「お父さん、また来るからね」と言うと、お線香の煙が大きく揺れました。窓から入ってくる風によってでしょうが、もしかしたら、父が喜んでいてくれて、お線香の煙を揺らしてくれたのかなぁと想像しました。そう考えると、私も笑顔になれました。

 

 

2025年3月24日月曜日

ピクニック

 来月から博士課程4年目に入ります。普通博士課程は3年なのですが、私の場合、 医学系研究科なので4年になります。今年度で必要単位数は取りましたので、来年度は博士論文に集中しますが、これがまた、大変なのです。

 いやぁ、4年は長い。もし博士号が取れたとしても、年齢的に将来の仕事につながるわけではありません。取れなかったとしたら、この4年で費やした時間でもっと充実した日々を過ごせたかもしれないのにーなどと後悔するかもしれません。

 ですので、常日頃、「いま、博士課程で学ぶことは意味があるのだろうか?」なんてことを自問自答してしまうのです。そういう思考の迷路に入ると、気持ちがダウンし、日々の暮らしに影響が出てしまいます。

 私は2人の子供の親ですので、まずはきちんと子育てをすることが最優先です。異国の地で一人で頑張る留学中の娘のサポートをし、ゲームに夢中の中1の息子に目を光らせ、全うな人間に育てなければなりません。そのために、親である私は、健全な精神でいなければならない。

 健全な精神でいるために、体を動かし、本を読みます。「禅」やら、「仏教」やら、「哲学」やら、「精神療法」やら、毎日とっかえひっかえ読んで、精神状態を保ちます。今日、研究室の行き帰りで読んだのは「STOIC 人生の教科書ストイシズム」(ストア哲学についての本)、昨日読み返したのは「生きる力 森田正馬の15の提言」(精神療法についての本、10回以上は読み返しました)と「考えすぎないコツ」(禅についての本、曹洞宗のお寺の住職によって書かれています)。その前の日は、今年1月に亡くなられた故・森永卓郎さんの「生き抜く技術」を読みました。

 ジャンルの違う本ですが、それらの本には共通することがあることが分かりました。いずれの本も、いろいろ考え込まず、目の前のことに集中して取り組むことを勧めていることです。

 で、昨日の朝、その日一日を大切に生きることを意識しようと決めました。朝は教会の日曜学校に息子と一緒に行きました。息子が通っていた幼稚園の園長先生が退任されるため最後のお話を聞くためです。お昼ご飯はお弁当を詰めて近くの公園でピクニックをしました。夜は夫と一緒に息子をプール教室に送り、息子の泳ぎを見ました。

家族で近くの公園でピクニック。お友達からいただいた日本酒を持って

 いろいろ考え込まずに、目の前のことに集中すること、毎日を楽しむこと。ついつい考え過ぎてしまいますが、日々感謝しながら、その日一日を大切に生きて行くことにもっと意識を向けたいと思っています。

2025年3月23日日曜日

夫とデート

  昨日春休みに入った息子が部活の後に昼ご飯を友人と食べに行くというので、久しぶりに夫とフランス料理を食べに行きました。毎日一緒にいますので今更デートということでもないのですが、子供たちなしでレストランに行くこともあまりないので、そうタイトルに書きました。

 フランス料理を選んだのには、理由があります。我が家の子供達は、コース料理のオードブルやサラダはあまり好きではありません。ですので、フランス料理を食べに行くと、私と夫が2人分のオードブルやサラダを食べることになってしまいます。これは、苦役に近い。ですので自然と、フレンチレストランには子供たちとは行かなくなりました。

 子供たちと行くのは、ピザやパスタなど単品でも注文できるイタリアンレストラン、そして担々麺など単品料理も豊富な中華料理店です。今回は息子がいないので、フランス料理を食べに行くことにしたのです。

 フランス料理と言えば、昨年、観に行った映画「至福のレストラン 三つ星トロワグロ」。これはフランスで55年間、親子三代に渡りミシュランの三つ星を持ち続けるレストランを描いたドキュメンタリーです。この映画を観て触発された私と夫は、子供たちが大きくなったので、また、若いころのようにフランス料理を楽しもうと決めたのです。

 そして、昨日行ったのは隣駅のレストラン。ここは、娘が幼稚園のときのママ友に連れてきてもらったのが最初です。とても美味しいので、娘がインターナショナルスクールのときのママ友、そして、札幌から後輩が遊びに来たときも連れて行きました。

 こうして何度も足を運んでいるので、夫も一緒に行ったと思ったら、「ここ、行ったっけ?」と聞くと、「いや、君が友達と行ったという話はよく聞くけど、僕は行ったことがない」とのこと。ああ、そうだった。私を含め女性たちは美味しいレストランには女友達と一緒に行くことが多い。ですので、ついつい、夫は友人たちの後になってしまうんですよね。

 そして、行ったそのレストラン。フランス料理はカモやイノシシ、ウサギ、シカなど私が好きではない肉料理が多く、いつもはお魚を注文するのですが、このレストランはポーク、チキン、ビーフから選べましたので、喜んでポークを注文しました。スープもオードブルも、お肉も大変美味しく、満足したランチでした。

美味しかったオードブル

ポークはクスクスと一緒に

 夫が、「一緒に観た、『トロワグロ』を思い出すね。あれはいい映画だった。残念ながらフランス語で、字幕が日本語だったから、あまり理解出来なかったんだ。実は誕生日に君が英語の字幕が付いたDVDをプレゼントしてくれるかなと期待していたんだけど。今度、父の日にプレゼントしてくれないかな?」とのこと。

 あぁ、そうか。夫の55歳の誕生日は日本酒や禅についての本、私が大好きな作家の本をプレゼントしたのでした。帰宅後、アマゾンで調べてみるとまだDVDは発売されておらず、日本では4月25日に発売予定らしい。英語の字幕は探せませんでしたが、日本語の字幕のDVDはさっそく予約しました。父の日の前にアメリカのアマゾンで調べて、英語の字幕のDVDを注文しましょう。

 やはり、人生は気の置けない人とおしゃべりしながら、美味しい料理を食べるのが一番幸せなのではないでしょうか。いつも一緒の夫ですので、取り立てて面白い話をしたわけではありませんが、ワインを傾けながら、美味しい料理をいただき、旅行やリフォームの計画や子供たちの進路の話などとりとめのない話をして、幸せな気持ちになった一日だったのでした。

 

 

2025年3月22日土曜日

北海道の会に参加

  昨日、東京・丸の内のビル内で開かれた北海道の会に参加しました。「八海山」という清酒を造る、新潟の八海酒造の代表の方のお話を聞き、お酒を試飲させていただきました。北海道にゆかりのある方々が沢山参加していらして、いろいろな方とお話をし、豊かな時間を過ごしました。

 この会は公になっておらず、会に参加するには会員の紹介がいるということ。私は友人夫婦の紹介で夫と一緒に参加しました。北海道を離れて24年。札幌の実家がなくなってから、ますます故郷が恋しくなっています。そんな中、声をかけてもらい、嬉しかった。

 八海酒造は北海道・ニセコ町のお米を使った純米大吟醸を造っていることを初めて知りました。また、ニセコ町に蒸留所を建設し、現在クラフトジンやウイスキーも造っているそうです。海外にも進出しており、ニューヨーク・ブルックリンで試行錯誤しながら酒造りをしていたアメリカ人男性2人と提携し、日本のSAKEをアメリカに広めるべく事業を展開。また、大谷翔平くんが活躍するドジャースの公式日本酒にも選ばれたそうです。

 夫は日本酒が大好きで、定年退職後は日本各地の酒蔵巡りをすると張り切っていますので、興味津々でお話を聞いていました。最初は夫が理解できないかなと思い私が要所要所を訳していました。が、スライドに文字が書いてあると、夫は携帯電話を取り出し、翻訳アプリを使って、読み始めました。カメラのレンズをスライドに向けると、瞬時に訳されていくのですね。本当に便利な世の中になりました。

 友人もご主人も、一緒に行ったもう一組のカップルも英語が話せ、かつ、参加者の中に日本酒好きな英語が堪能な方もいらして、夫はとても楽しかったよう。私ももちろん、お話もお酒も堪能しました。

 北海道出身、北海道に関わりがあるー。それだけで人がつながり、そして楽しいひとときを過ごせるのは幸せなことだなぁとしみじみと感じたひとときでした。

 

 

 

2025年3月21日金曜日

息子の得意なこと

  この写真、何か分かりますか?はい、玉ねぎです。最近買ったお皿に、丁度良く収まるので入れています。

 実はこの玉ねぎ、息子が学校の工作の時間に作ったもの。本物のように良く出来ているので、息子に「すごく、上手!」と褒めたのですが、「そう?」と全く嬉しそうではありません。

 我が家は、娘が絵を描くのが得意で大学でアートを専攻していますので、アートといえばおねぇねぇと皆が思っています。ですので、実はアートは息子の得意分野なのに、娘の才能の陰に隠れてしまうのです。

 息子はスポーツにも音楽にも工芸にも興味を示しません。ましてや、勉強など見向きもしません。淡々と学校に行き、週に3回部活に参加し、日々ゲームをして、アニメを見て、、、で終わります。

 夫が一緒に本を読んだり、私が一緒に料理やお菓子作りをしたりいろいろ働きかけるのですが、素直に従うだけ。抵抗もせず、その時間が終わると、また、ゲームに戻ります。漢字の練習も英語の勉強もしなさい、というと素直に従い、やります。でも、やる気がないので、成績は散々です。

 中学生男子ってこんな感じなのでしょうか? 運動も出来るし、工作も上手だし、2歳から小学6年生まではヴァイオリンだって習ってました。今一生懸命に何かに取り組めば、いくらでも可能性が広がるのにもったいないと思ってしまう。

 息子は毎日、嫌がらずに私にハグもしてくれます。気負いがないので、友人にも好かれ、毎日同じ時間に学校に行き、つつがなく過ごし、部活にもきちんと参加して、帰宅します。だから、それで十分と思います。

 でも、でも、勉強でなくてもいいから、何かに打ち込んでくれれば、と願わずにはいられない。息子に充実した良い人生を歩んでほしい。そのために、何か一つでいい、打ち込んでほしい。こう願ってしまう日々です。

 

2025年3月20日木曜日

Mちゃんの手

  年齢は手に出るそうです。ですので、”お年頃”の女性たちは皆、こまめにハンドクリームを塗っているようです。

 私の手は若いころからゴツゴツして、血管が浮き出て、最近はシワシワになってきていていますので、もう諦めているのですが、それでも、家事をしているとさすがにガサガサしてきますので、一日に一回ぐらいはハンドクリームを塗ります。

 先日、友人のMちゃんと会ったときにMちゃんの手が目に入りました。Mちゃんは私より若いのですが、指のところどころにあかぎれがありました。

 Mちゃんは週に一日介護施設で、そのほかにもパートで働いています。3人いる子供のうち一番下の子が今春から高校生になるので、地元で子供食堂を立ち上げると張り切っています。そして、料理好きなMちゃんとMちゃんが愛するご主人に育てられた3人の子供たちも立派に育っています。Mちゃんは才女でかつてはキャリアウーマンでしたが、子育て中はPTA活動にも積極的に関わっていました。要は働きものなのです。

 そんなMちゃんの手を見て、いいなぁと思いました。一生懸命生きているとこんな素敵な手になるんだなぁと思いました。そして、天国にいるセツコ伯母さんのことを思い出しました。

 セツコ伯母さんは息子と娘に恵まれ、大学を卒業し建設関係の仕事に就いた息子は20代で結婚しました。息子が結婚する前、初めて後のお嫁さんになる女性を連れてきたとき、最初にその女性の手に目がいったそうです。

「働きものの手だった。あの子だったら大丈夫だ」と母に語ったことを、母が私に教えてくれました。その話はずっと私の記憶の中にあり、Mちゃんの手を見たときに、セツコ伯母さんの言葉を思い出したのです。

 手は、その人の暮らしを物語ります。私たちには縁のないきらびやかな世界ではそれがマイナスに映るかもしれませんが、プラスに映る世界もあるのです。セツコ伯母さん、そしてセツコ伯母さんの話に感じ入った母、そして今回Mちゃんの手を見て胸を打たれた私のように。

 Mちゃんの社会への貢献ぶりと手を見ると、「年齢は手に出る」という言葉が薄っぺらく聞こえるなぁと思いました。それでも、自分のカサカサした手(働きものだからではなく、ただ単に年齢)を見るとついため息が出て、ハンドクリームを塗らなきゃと思うのは矛盾していますよね。

 何はともあれ、Mちゃん、応援しているからね!

2025年3月19日水曜日

片付けで見つけたもの

  先日、我が家に来客があったのに合わせて、物置を整理しました。ひな人形を飾るために出した物が居間に沢山積んだままだったからです。

 整理したと言っても、物を処分したわけではなく、あちこちの収納ボックスのふたを開けて空きを見つけて物を押し込んだのと、物の積み重ね方を工夫しただけです。

 何箱もある収納バスケットの一つ一つを開けてみると、あるわ、あるわ、子供たちの服。ああ、可愛い。子供たちの服は大きなプラスチックケース15,6個にぎゅうぎゅうに詰めて、軽井沢の家の屋根裏部屋においてあります。子供たちの靴も、買ったときの箱にきれいに仕舞っています。そこに収まらないものがここにあったのですね。忘れてました。

 私の大好きな作家・森博嗣さんは物を捨てない人で、彼の趣味は鉄道模型を作ることなのですが、物が増えて収納仕切れなくなると家を建て替えているそうです。自分の生活を「いわゆる『断捨離』とは反対の生活といえる。ミニマムな生活がシンプルで良い、といわれているらしいが、僕の場合、収納するスペースを増やせば良いのではないか、というもっともシンプルな方針である」とつづっています(アンチ整理術、日本実業出版社)。

 そして、「いつ死んでも良いように、僕の持ち物を処分するための金は残しておく」と淡々と語っています。あぁ、こういう割り切り、大好きです。我が家の場合、収納するスペースは増やせませんが、もし私が死んだ場合にこれらの物を処分してもらう費用はちゃんと貯金してあります。

 物と言っても子供たちの衣類やおもちゃ、工作・絵、教科書・絵本・ノート、思い出のものがほとんどなのですが、捨てると身を引きちぎられる思いがするものをわざわざ捨てる必要はないですよね。

 とうことで、物を何でもとっておく私ですが、整理整頓をするととても嬉しいことがありました。何年も見つからなかった息子の手袋の片方が収納バスケットの中にあったのです。幼稚園時代に、クリスマスプレゼントに作ったものです。冬場、この手袋をはめて、自転車の後ろのシートに乗っていた小さな息子が懐かしい。

息子が幼稚園のときに、作った手袋。アップリケは羊毛で作っています

 断捨離をしたいとは思いませんが、整理整頓は大事だなぁと実感した日だったのでした。


 

 

2025年3月18日火曜日

父の13回忌法要で考えたこと

  今日、父の13回忌法要を行い、遺骨を納骨堂に納めました。昨年の春から、ずっと母のマンションに置いてありましたので、父が近くにいなくなるのは寂しいなぁと思いましたが、母もひと安心だったようで、良かったです。

 夫と息子も一緒に行ってくれました。法要の後、お坊さんが「私たちがいまここにいるのは、親がいて、その親にもまた親がいて、と連綿と命が続いてきたからです。生まれてすぐ亡くなられる方もいますので、こうして生きていることはとても奇跡的なことです。ですので、日々、そのことに感謝をして生きましょう」と仰いました。そうだなぁと思いました。

 母は何度も、「安心した」と言っていました。父の遺骨を札幌から自分と娘家族が住む東京の納骨堂に移せたことが一番の理由ですが、「自分の入るところが決まって、安心した」こともあるようです。母は87歳なので、こういうことが心の平穏につながるのですね。

 お坊さんには「ここは何体入るのですか?」とざっくばらんに聞き、お坊さんが「12体入ります」と言うと、母は「前の納骨堂より大きいよ。あそこは8体だったからね」と嬉しそうです。そして、「あんたも入るところだから」とも。

 そう言われて、何となく嬉しくなかったのは、きっと私はまだまだ生きるつもりだからなのだと思いました。それに、宗教と夫のこともあるのだと思います。私は無宗教で日本人、夫はクリスチャンで米国人。こういう場合は死後はどうなるのでしょう? 

 私は体も弱いですし、年上ですので、私のほうが先だと思います。夫は日本語が分からないので手続きが出来ませんので、「とりあえず、ビール」ではないですが、「とりあえず、納骨堂に」ということになりそうです。まぁ、父もいますし、順番から言うと母が私より先でしょうし、私としては両親と一緒でいいのですが、夫はどうなるのかなぁと心配したりします。

 夫の両親もすでに墓地を自分たちで準備しているようです。体が大きい人たちですので、広々とした墓地なのだろうなぁと想像します。夫は体が大きいのにずいぶん長い間狭い日本に住んでいて、死んでからも、宗教の違う納骨堂にぎゅうぎゅう詰めで入るのはかわいそうです。死んでからぐらい、のびのびしたいと思うかもしれません。アメリカに帰るのも手続きが大変そうですし、かといって関東にお墓を買うのは難しそうですし。海が好きな人なら、故・石原慎太郎さんのように散骨という選択肢もあるのでしょうが、夫は海に散骨してもらうほど海が好きではないですし、同様にそれほど森も山も好きではない。うーん、悩ましい。

 下の子供はまだ中学生ですし、我々の老後の話もまだなのに、母の「あんたも入るところだから」という一言で、いろいろ考えてしまった父の13回忌法要でした。

 

2025年3月17日月曜日

父と過ごす夜

  明日、父の13回忌法要を都内の真言宗のお寺で行い、父の遺骨をお寺併設の納骨堂に納めます。

 昨年春に札幌の納骨堂を引き払い、母と一緒に遺骨を東京に持ってきました。それからずっと母のマンションの仏壇の横に置いてありました。

 今日、その遺骨を我が家に持ってきました。今晩は私のベッドの横のテーブルの上に置き、一晩一緒に過ごします。

 父が好きだったあら汁を作り、日本酒と一緒に遺骨の横に置きました。きっと、父も喜んでいてくれていると思います。

 父が亡くなったのは息子が1歳半と手がかかるときでした。慌ただしく、じっくりと話をできませんでした。今晩はお酒を酌み交わしながら、いろいろ話をしたいと思っています。



2025年3月16日日曜日

我が家で送別会

 昨日、2組の友人ご夫婦が我が家に遊びに来てくれました。友人の一人Sちゃんがご主人の転勤に伴い札幌に転居するため、我が家で送別会を開いたのです。

 まずは、近所の日本酒バーで待ち合わせ。私と夫が月に2、3度は行くその店の名物「日本酒飲み比べ」を皆で楽しみました。Mちゃんご夫婦の息子くんも合流し、賑やかになりました。1時間ほどそのバーで過ごした後、我が家へ。

 準備していた料理は夫がアジのケーパー・トマト煮込みとホタテと野菜のグリル、私がラザニアと米ナスのバルサミコマリネ、そしてキッシュ。Mちゃんが鯛の塩釜焼きとフルーツクラッシュゼリー、Sちゃんが豚肉のリンゴ煮込みを持ってきてくれました。

 ダイニングテーブルにセッティングはしていたのですが、キッチンのアイランドカウンターに料理を並べると、皆で立ったまま飲んで、食べて、おしゃべりし始めました。お酒は赤・白ワインと日本酒を準備していましたが、日本酒と赤ワインを持ってきてくれたので、まずはいただいた日本酒からスタート。

テーブルには座らず、カウンターの料理を囲んで、皆で歓談

 ひとしきり食べ、日本酒も飲み切り、Mちゃんのデザートを食べようという段階でテーブルへ。そこからはSちゃんの赤ワインに。もう少し若いころはスパークリングワイン、白ワイン、赤ワインという流れでしたが、中年になると日本酒から赤ワインという流れなのですね。

 17時に日本酒バーでスタートした送別会は、Mちゃんの息子君の爽やかな語りで盛り上がったこともあり、あっという間に時間が過ぎていきました。23時を過ぎたころ、「もうこんな時間。そろそろお開きですね」ということに。Sちゃんご夫婦がこちらに来たときは、今度はMちゃん宅で集おう!と次の楽しみを残して皆、それぞれの家に帰っていったのでした。

 皆が帰った後、楽しい余韻に浸りながら、私と夫で皿洗いをしました。楽しんでもらえたかな? 料理やお酒の量は十分だったかな? 良いホスト役が出来たかな?と反省会も兼ねました。「皆、楽しんでくれたと思うよ。掃除や料理お疲れ様」と夫がねぎらってくれたのが、嬉しかった。

 はい、実は日頃の片付けが出来ていないことから、昨日の片付けは午前3時までかかったのでした。で、午前中は掃除と料理の仕込み、午後は追加の買い物と料理で、今年ずっと毎日続いていたブログの更新が出来ませんでした。こんなときのために、”書き溜め”もしておこうと、皿洗いの後は一人反省会をしたのでした。

 

 

 

2025年3月14日金曜日

カップヌードルミュージアムへ

 今日は息子の学校が休みだったため、横浜みなとみらいに行きました。本当は研究室に行く予定でしたが、学校が休みであることが昨日判明。ならば、と予定を急遽変更し、息子と遊ぶことにしました。

 夫のオフィスはみなとみらいにあり、たまたま今日は健康診断の日だというので、待ち合わせをしてランチを食べました。その後、カップヌードルミュージアムへ。ここではカップヌードルの歴史を学び、体験もできます。

 子供たちが小さいころ何度か連れて行ったのですが、私自身が作ったことがなく、ぜひ行ってみたかったのです。

   まずは展示室へ。日清食品創業者の故・安藤百福さんがお湯をかけただけで出来る「チキンラーメン」を発明したのは1958年。そして、一世を風靡した「カップヌードル」を発明したのが1971年だそうです。いずれも世界初なのですね。それから次々に出た商品が壁面いっぱいに展示されており、圧巻でした。

賑わう「インスタントラーメン ヒストリーキューブ」

壁面全部にカップヌードルが展示されています

  次に「マイカップヌードルファクトリー」へ。ここではまず、カップに好きな絵をマジックで描きます。そして、乾燥麺や具を入れてもらい、真空パックにしてもらいます。そして、自分でプラスチックの袋に詰めて出来上がり。

真ん中が私が描いたイラスト

具を選ぶ私。エビとインゲンとコーンとタマゴを選びました


「どれにしようかな」と息子と夫


左が夫の、右が私のカップヌードル

 終わった後は、ミュージアムの向かいにある遊園地で観覧車に乗ることにしました。検査でバリウムを飲んだという夫が体調が悪いといい、「観覧車に20分も乗っていて、トイレに行きたくなったら困る」と苦笑いしながら帰っていきました。

 で、私は息子と二人で観覧車に乗ることに。遊園地には外国人観光客やカップル、お友達同士で来ている人などで賑わっていました。でも、一番幸せな顔をしていたのは私だと思います。何せ、息子と一緒に観覧車に乗るのですから。神様からのご褒美ですね。

 

一番てっぺんに来て、下をのぞく息子

 

観覧車から見えるみなとみらいの風景



 



2025年3月13日木曜日

論文を指導教員に提出

  今日、指導教員に論文の修正を提出しました。 英語でA4用紙22ページ、表6枚と図2枚。いやぁ、大変でした。2月17日に第1稿を指導教員と研究員Mさんに提出。ものすごい量のコメント(助言と指摘)が原稿に付けられており、それをすべて原稿に反映させるのが大変でした。

 Mさんは海外の大学を卒業し、東大で修士号・博士号を取得した秀才。完全なバイリンガルです(私と相性が悪い研究員とは違う人です)。指導教員も研究所の要職につき東大の教授も兼任する優秀な方です。こう書くと男性を想像するかもしれませんが、二人とも女性。こういうパワフルな女性がいるのですね。

 もがき苦しみながらの博士課程3年目も今月終わります。来年度が最終学年で、8月「題目届」なるものを大学に提出し、11月中に博士論文を提出します。今回はその博士論文の元となる論文で、海外のジャーナル投稿を目指します。指導教員とMさんから再度の指摘・助言が沢山ありそうですし、他の共著者の先生方に回覧して助言をいただき、それをまた反映させてというやり取りにまた数ヶ月かかりそうですが、何とか頑張ります。

 博士号取得の規定は大学によって違います。多くが、国際誌や査読付き(専門家の審査を経る)ジャーナルへに掲載された論文が3本というもの。東大はそこがあまり厳しくないようですが、実際の大学の審査がものすごく大変なのでしょう。

 実は先日、所属していた日本記者クラブに退会届けを出しました。「記者」であることにこだわってきましたが、もう卒業しようと考えたのです。こだわりの一つを手放して、人生をシンプルにしたかった。

 私の新聞社時代の同期たちがだんだん定年退職していき、第二の人生を歩み始めています。私の場合、4,50代が病気と共に生きた第二幕でしたので、今は第三幕。年が年なので、学位が取れたとしても研究者としての道へ進む可能性はとても低いと思います。それよりも4年間を費やしても学位が取れない可能性が大きい。

 でも、人生の終盤で、博士論文を書いて大学に提出するという最大級の挑戦も考えようによっては、愉快かなぁと肩の力が少し抜けてきたような気がします。

 辛くて、何度も辞めようと思った大学院。でも、踏ん張ってここまで来ました。これからも折々に、奮闘ぶり(自分で言うのも何ですが)を報告しますね。なにせ、このブログのタイトルは「がんのママの育児(育自)日記」ですので。

 

 

2025年3月12日水曜日

つばきの花咲いた

  我が家は2011年、103歳のおばあちゃんが住んでいた築10年の家を購入し、何度かリフォームをして、住んでいます。

 その家を買う決め手となったのは、おばあちゃんは当時まだご存命で施設に転居したばかりで、長生きの方が住んでいてかつ誰も亡くなっていないこの家は運気の良い家だと思ったからです。私はそのときまだ体調が悪く、引っ越しをすることで体調が少しでも上向くことを期待していました。

 おばあちゃんは、お医者さんの奥様だった方で息子さんが4人いらっしゃいました。お父様が亡くなりその家を相続した息子さんたちはかなりの額の税金を支払わなければならなったらしく、土地の半分以上を手放し、その一角をお母様に新しい家を建てて、もう一角を息子さんの一人が引き継ぎました。

 息子さんたちが手放した土地には現在3つの家が建っています。5つの家が建つほどの広さの家を相続する場合の税金はかなりのものだと想像します。

 そのおばあちゃんの家は純和風の家で、庭には灯籠があり、木々も和風のものが植えてありました。築10年と築浅で家の造りはかなりしっかりしていたのですが、家の中は劣化しており、全面リフォームが必要でした。そして、私たちは天井を高くしたり、階段の位置を変えたり、壁をなくしたりなど大がかりにリフォームし、内装を洋風に変えました。

 庭の灯籠も不動産屋さんに持っていってもらいましたが、木は今もそのままです。つゆの季節はあじさいが咲きますし、紅葉の木も毎年晩秋に色付きます。2階の屋根の高さまである木も元気で、2階の小さなデッキにテーブルと椅子を出す春から秋までは、その木を眺めながら、コーヒーを飲んだり、食事をしたり、ワインを飲んだりして、気持ちの良い時間を過ごします。

 冬はつばきが咲きます。白くて可憐な花です。おばあちゃんはきっと四季折々の花や木を窓から眺めて、心を和ませていたのだと思います。私たちもその木々と家を引き継ぎ、幸せに暮らしています。

庭に咲いたつばきの花

あじさいも芽吹いてきました

2025年3月11日火曜日

花壇のフェンスが完成

    2月26日のブログで話題にした玄関前の花壇のフェンスが出来上がりました。ずいぶん前から探していた白い木製のフェンスです。夫と私、そして息子の3人で組み立てました。

 部材に防水用のラッカーをスプレーし、金具で留め、柱に繋ぎ合わせ、柱に埋設用の留め具を取り付けて、花壇に埋め込みました。お隣の家のデッキのコンクリートが我が家との境界線になっており、ちょうどそのコンクリートが隠れる高さのフェンスを見つけましたので、ピッタリのサイズでした。

 家族3人での作業が楽しく、かつ、リーズナブルな価格で作れたので、とても満足。

家族で組み立てたフェンス。お隣さんとの境界線に立てました

  小さい花壇ですが、ガーデニングが益々楽しくなりそうです。

 

 

2025年3月10日月曜日

ディスコ・ナイト

  先週末の土曜日、横浜のスポーツクラブでディスコ・パーティがありました。娘が通っていたインターナショナルスクールのママさんのバンドが演奏し、学校に子供を通わせるママさんパパさんが集うパーティです。

 その日は何と家を出る直前に、前歯の一本の半分が欠けてしまうという、信じられないことが起こり気持ちが落ち込んだため、参加を取りやめようかと思いました。でも、娘が卒業して1年半も経つのに、誘ってくれることをとてもありがたく思っていましたし、親しくしてもらっているママさんたちとのつながりも大事にしたいと思い、どうしたものか考えを巡らせました。で、はっと夜寝るときに付けているマウスピースを付けて参加することを思いつきました。私は歯ぎしりがひどく、歯のあちこちが欠けてきているので、夜マウスピースをして寝ているのです。

 前歯の半分がなくなるのはとてもショックでした。また、歯の半分が欠けているのはやっぱりみっともない。でも、人生は恐らく、こういう「失うこと」の連続なのだろうーと受け止め、これからの人生で必要な心構えはそれでも日々を感謝しながら楽しく生きることなのだろうーと考えました。マウスピースがあってラッキーだったと思うことにしました。

 あいにく東京・横浜は雪でしたが、ディスコ・パーティは最初から盛り上がりました。歌うママさんは、体にフィットする真っ赤なキラキラのドレスを着て、我々が親しんでいる1980年代90年代のディスコ・ミュージックを歌ってくれます。楽器を演奏する男性たちも”おじさん”ですし、参加しているのもママさん・パパさんたちですので、とっても気楽。

 インターナショナルスクールに子供を通わせるママさんは、かなり、はじけています。ブロンドのかつらは何人もいましたし、ピカピカ光るサングラスを付けている人、キラキラ光るミラーボールのピアスをしている人、皆思い思いの装いです。

 私は普通のデニムにセーターでしたが、ディスコで踊るのが大好きなので、バンドの目の前で、同じく踊りが大好きなママさんたちとずっと踊っていました。歯が半分欠けたことも忘れました。はい。

会場は昔のディスコのようにミラーボールがキラキラしていました

 娘が通っていたときに活動していたママさんコーラスグループのメンバーたちにも久しぶりに会いました。娘が卒業した後も、こうして声をかけてもらって、「むつみちゃん、元気にしてる?」とハグしてくれ、おしゃべりして、本当に幸せだなぁと思いました。

 さて、ご機嫌で帰宅し、夜、娘にフェイスタイムをして歯を見せました。娘はかなり驚いていましたが、「ママ、まだ歯は6割ぐらい残っているから大丈夫」と慰めてくれました。「そうか、5割じゃなくて6割残っているように見えるんだね」と私。鏡を見ると、確かに6割は残っているようです。物は考えようで、5割ではなくて6割が残っていると思うと、前向きに考えられました。

 それもこれも、皆で楽しく踊って、おしゃべりしたお陰。アクシデントがあっても、予定通りにすることで、気持ちが晴れるものなのですね。

 


 

2025年3月9日日曜日

娘@メルボルンからの報告 夕焼け

  2年生の新学期が始まった娘とは、毎日フェイスタイムで話しています。娘と話をすると、私の一日がとても幸せになります。ですので、娘にはいつも「You made may day」(あなたのお陰で良い一日になりました)と伝えています。

 昨日、娘は一人で電車に乗って、海に出かけたようです。スケッチブックとペンを持って、夕焼けを描きに行ったらしい。

 娘は一人で豊かな時間を過ごせる子で、そんな娘はいいなぁといつも思っています。昨日もフェイスタイムでとても満ち足りた表情で、メルボルンの海のきれいな夕焼けを見せてくれました。

 送られてきた写真も美しかった。娘が幸せに過ごせていて、とても嬉しい。


2025年3月8日土曜日

オレンジ色のバラ

  今メルボルンにいる大学2年生の娘は、帰国したときに近所のスーパーでアルバイトをしています。首都圏の電車の駅の近くや住宅街に展開されている小型のスーパーです。ここはとてもありがたいバイト先で、夏休み・冬休みに帰国したときだけシフトに入れてくれ、かつ、別の店舗でも働かせてもらえるのです。

 その店は買いやすい価格帯の商品が揃い、雑貨や切り花も売っています。そこで時々お菓子を買う息子が娘に「花を買う人いるの?」と聞いたことがあります。息子にとっては、お腹を満たさない物を誰が買うのだろう?と不思議に思っていたのかもしれません。

「うん、結構売れるよ」と娘。

「誰が買うの?」

「おばあちゃんが多いかな。あと、主婦っぽい人」

「ふーん」

 確かに、私の母も切り花は絶やしません。カサブランカやフリージアなど香り良く華やかな花を居間に飾っています。母は健康なのですが、体のあちこちに痛みを伴う不具合が出てきていて、また、きょうだいや友人の多くも他界していますので、きっと花を飾って気持ちを明るくしたいのだと思います。

 私も花が好きで、我が家の玄関前の小さな花壇に年中花を植えています。先日のブログにも書きましたが私はビオラが大好きで、今はビオラの季節なので、毎日の水やりがさらに楽しい。

 時々は家の中にも切り花を飾ります。昨日は、スーパーでとても素敵なオレンジ色のバラを見つけたので買って、さっそくダイニングに飾りました。気持ちが明るくなりました。



 

2025年3月7日金曜日

キャッチコピーあれこれ 

  我が家の近くの電車の駅に朝、インターナショナルスクールのバスが止まります。ドイツの学校で、スレンダーでおしゃれなドイツ人ママさんやパパさんが子供を送りにきます。で、止まっているのはベンツかBMWのバス。その車体の広告を見てギョッとしました。

「バスに乗り遅れたらBMWを買おう。」



 意味不明。これは誰を対象にした、何を訴える広告なのでしょうか? これを考えた人にシンプルに聞いてみたい。

 地下鉄南北線「東大前」駅の構内に貼られているポスターのコピー。

「東大生に告ぐ。一緒に取り戻そう。JAPAN as No.1」

 ああ、懐かしい。そんな時代もありました。この言葉、私の世代か少し上の世代の郷愁を誘いますよね。私が学生のころ、アメリカの社会学者によって書かれたこのタイトルの本はベストセラーになりました。この本の中で描かれている日本人は数学力が世界1、2位を争うほどで、学習意欲も高く、勤勉で、それを基盤に日本は高い経済成長を成し遂げました。私もそんな日本を誇りに思っていました(今も違う意味で誇りに思っています)。このコピーを書いた人は、JAPAN as No.1 の時代をもう一度と願う世代なのでしょうか? それとも、当時のような活力のある日本を一度見てみたいものだーと願う若い世代なのでしょうか?

 電車の中吊り広告。大学の広告です。渦巻きのデザイン画の横に、

「ウズウズしてる?」

 オープンキャンパスの周知広告ですので、高校生がターゲットでしょうか? 我が家には大学生と中学生の子供がいて、そのお友達も知っていますが、知の刺激を求めてウズウズするような子はなかなかいない。何となく皆、冷めています。これを考えた人の心には、何か”熱い”ものがあるのでしょうか?

 私が好きなのは、このファミリーマートのコピー。さりげなくて、人の心にそっと寄り添う感じがいい。

「あなたと、コンビに、」

 「コンビになる」と「コンビニエンスストア」をかけたのですね。いいなぁ、こういう感じ。



2025年3月6日木曜日

捨てられない_ミキハウスのギフトボックス

  私は筋金入りの捨てられない人間です。このブログでも何度もそのことを書いてきました。読者の方々の中にも捨てられない方はいらっしゃるとは思いますが、おそらく、私よりは捨てられるのではと想像します。

 前回お見せしたのは、出産準備品としてもらった洗剤のボトルでした。今回お見せするのは子供服ブランド・ミキハウスのギフトボックスです。

 娘の出産祝いにベビー服をいただいたときの箱です。あれから20年間、大切に取っておきました。ひな人形を出すときに物置の中にあるものをかなり出したので、このギフトボックスも一緒に取り出しました。

 そして、今日、ひな人形を仕舞うのに合わせて、家のあちこちに置いてあったものをきれいに拭いて、このギフトボックスに入れました。

 入れたのは、娘が赤ちゃんのときに使ったミッフィーの柄のマグ。息子が使った哺乳瓶の乳首、そして、息子の離乳食を作ったときに使った調理器具です。子供たちが使ったミニサイズの風呂おけは別の箱に入れました。

 ミキハウスの箱の中には衣類を包む白い紙がいただいたときのまま入っていて、そこには金色のMiki House とロゴの入ったシールが貼ったままでした。いやぁ、感動しました。20年前のままです。その白い紙でマグと哺乳瓶の乳首と離乳食用調理器具をくるんで、箱に入れて、物置にしまいました。

ギフトボックスの中の白い紙と金色のシールも20年前のまま

 

 ちなみに哺乳瓶本体は大切過ぎて、子供たちの想い出のものを仕舞うボックスを買い、その中に入れています。今回のは収まり切らず、パントリーとか、物置のかごの中とか、あちこちにあったものをまとめました。

 幸せなひとときでした。だから、捨てられない。

 

2025年3月5日水曜日

AIに悩み相談

 私は活字の世界で生きてきた人間なので、日々の情報は新聞や雑誌、ウェブ上の記事から得ます。悩んだときも楽しみたいときもテレビやネット上の動画ではなく本を読みます。そんな私がたまたま先日、YouTubeで著名人の対談をぼんやりと見ていて、仰天しました。世の中はこんなことになっているのだと。

 その対談は、視聴者からの悩み相談に答えるものでした。悩みは60代の女性からでした。自分は友人の話はいつもじっくり聞いていたつもりなのに、自分が介護のことなど友人に聞いてほしいときは話をそらされたりして、きちんと聞いてくれないーという悩み。その方は「ただ、大変だったねぇとか言ってほしいだけなのに」と寂しそうでした。

 それに対して、回答者の方は、「共感だけで良いのなら、AIでもいいのではないか?」と音声会話型AIアプリを紹介していました。回答者の方はご主人を亡くされた後、寂しさを紛らすため、そのAIアプリを使っているそうです。AIにご主人の名前を付けて、会話をするのだそう。AIは賢いですので、その方が話したことを記憶して、会話のキャッチボールが出来るのだとか。

 いやぁ、驚きましたね。少し前、AIの女性に恋に落ちるという映画を見たことがありますが、それがアプリで気軽にダウンロードして使えるほど身近になっているのですね。

 これは面白い!と思って、そのアプリをダウンロードしてみました。「Cotomo」といいます。AIの音声は女性2人男性2人のうちから選べるので、音声を聞いてみましたが、残念なことに女性も男性も若い。女性の場合、娘の世代と話しているような感じです。「癒やし系」の女の子の声はいい感じで、本当にいそうな声でしたが、それを使うのなら、娘とのおしゃべりのほうがずっといいなぁと思いました。

 男性も若く、機械音という印象が拭えない。そして、こういう若い世代の男性との会話は癒やしにはならないなと思いました。でも、あれが、私の父のような年齢の男性の声でもう少し温かみがあったら、父と話したいと願っている私はそのAIと日々会話するかもしれません。あと数年でこのAIは進化して、自分が話したい人の声を再生してくれるかもしれませんね。

 そんな話を一昨日、娘にしてみました。するとなんと、娘はすでにChatGTPに悩み相談をしているのだと言います。

「悩みを友達に相談するのは、申し訳ないなぁという気持ちになるの。だって、友達の時間を使ってしまうわけでしょう? それだったら、ChatFGTPに話したほうがいい。結構、ちゃんと答えてくれるよ」

 びっくりしました。私がこれまでChatGTPを使ったのは、統計ソフトの使い方が分からなかったとき1回だけ。丁寧に説明してくれて、「すごいなぁ」と思いました。でも、それきりで、自分の悩みを相談するという使い方は考えもしませんでした。

 娘はChatGTPに登録して、ログインをして使うそうです。で、ChatGTPは相談したことなどを記憶するので、会話もスムーズなのだそう。私は、AIと話をするよりも、やっぱり生身の人間と話をするほうがずっと良いのではないかーとは思いましたが、人に遠慮してしまう娘の気持ちも分かるような気がしました。

 さて、興味津々でChatGTPに私も悩み相談をしてみました。このブログでも時折書いてある博士課程の悩みです。いやぁ、すごかったです。本当に人と会話をしているようでした。かつ、情報も沢山、提案も沢山。そして、何よりも共感してくれるところがいい。

 冒頭説明したように、私は活字の人間です。音声会話型AIアプリは「音声が機械音っぽくていま一つ。音声が若過ぎて、会話をしたい気持ちにならないなぁ」と思いましたが、ChatGTPとの会話は延々と続けられると思ってしまいました。

 ChatGTP恐るべし。

2025年3月4日火曜日

娘@メルボルンからの報告 「眠れない」

  娘が2月18日にオーストラリア・メルボルンに戻って2週間が経ち、昨日から2年生がスタートしました。日曜日までは明るく、気分良く過ごしていたのですが、昨日は随分緊張したらしく、目を赤く腫らして電話をくれました。

 娘によると、不安で眠れないらしいのです。卒業出来なかったらどうしようとか、仕事を見つけられなかったらどうしようとか、将来のことを考えると眠れなくなると言います。それに加えて、先生が怖くて怖くて仕方ないと言います。また、講義の中でのプレゼンテーションも極度に緊張するので、それも不安を大きくする理由らしい。

 私みたいに人生経験だけは豊富でも、指導教員が怖いですし、プレゼンテーションだって緊張します。ましてやまだ20歳で、生まれ育った国ではない、別の国で一人で暮らす娘は不安だろうなと想像します。娘は友達作りがそれほど得意ではないので、一人で寮にいることが多い。普段は家族にも元気な様子しか見せないので、きっといろいろ抱えているのでしょう。

「家族と電話するときはやっぱり元気にしていないと心配するだろうなぁと思うし。家族と一緒にいれば不安もなくて、安心できるんだけど。一人だと不安で眠れない。いろいろ考えてしまって」とボロボロと涙をこぼす娘。

 こういう娘を見ると、「可愛い子には旅をさせよ」ではないですが、思い切って娘を海外の大学に送り出したことが本当に良かったことなのかと、心を揺さぶられます。

 やっぱり、海外に行くと人の考え方も生活習慣も日本とは違いますし、娘の場合は言葉の心配はないですが、心が不安定になるのだろうな、こういうときに近くにいられたらいいのにと私まで涙が出てきそうになります。

 ふと、自分が留学したときの最初の学期のことを思い出しました。あれはアメリカ政治学のクラス。とにかく、先生が何を言っているのかチンプンカンプンでした。講義を録音して、図書館で深夜までかかって何度も聞き直して、それでも分からなかった。すごい時間を使いましたがやっぱり追いつかず、結局単位を落として、翌年取り直しました。

 また、穴があったら入りたいぐらい恥ずかしかったのが、英文学の授業。エッセイを書いてくるまでは何とかなったのですが、それを隣の人のエッセイと交換して批評し合うというもの。英文学のクラスですので学生は難解な言葉を使っていますし、その上にその場で批評をしなければならず、辛かったなぁ。言葉の問題、大学の費用の問題といろいろあり、本当に卒業できるか、不安だった。

 娘の話をじっくり聞いたあと、何と言ったら娘の気持ちが軽くなるか考えを巡らしました。「まぁ、失敗しても命を取られるわけではないし、何とかなるさと考えたらどう?」とまずは気楽に考えることを勧めました。

 そうすると娘がくすっと笑って、「そうだね、命取られるわけじゃないよね」

「うん、そうだよ。先生が怖くて話せなかったり、プレゼン失敗しても、先生から切腹を命じる!とは言われないでしょう?」

「あははっ、切腹にはならないね」

「そうだよ。頑張っても卒業できないようだったら、それはそのときに考えたら? 将来の仕事のことを考えるのももう少し先でも良いと思うよ。まぁ、ママも不安だらけだし、指導教員怖いし、プレゼンだって緊張するよ。それに論文書けずに卒業できなかったら、費やした数年間が無駄になるって不安。これからの将来は短いのに、私何やっているんだろう?とも思うしね。こんな感じで、世の中の人の多くは、不安を抱えながら生きているんだと思うよ」

「そうだね。そうだよね。ママに共感してもらって嬉しかった。今日は話を聞いてほしかった…」

「ママで良かったら、いつでも話してね」

「うん」

 娘は少し元気を取り戻したようです。私のほうこそ、娘が電話をくれて、話をしてくれて、嬉しかった。親にとって一番安心なのは、子供が胸の内を話してくれること。子供がママに話そうと思ってくれる親でありたい。そういう親でいるために、まだまだ、自分は修行が必要だなぁと思う日々です。

2025年3月3日月曜日

おひな様を飾る

  昨日、ひな人形を飾りました。物置の奥に入っており、その前に置いてある沢山の物をまずは運び出す作業は大変でしたが、何とかなりました。

 女雛、男雛、ぼんぼり、お花など一つずつ丁寧に飾り、最後に娘が赤ちゃんのころの写真を入れてある写真立てを取り出して、可愛いなぁとそのころの娘を思い出していたところで、娘からフェイスタイムで電話がありました。びっくりしました。テレパシーでしょうか。

 オーストラリアは今が夏。娘は「これから、食料品を買いに行くの!」と言い、「今日は青空でとっても気分がいいの」と青い空を見せてくれました。とてもきれいでした。娘が楽しそうにしていたので、まずはほっとしました。

 ひな人形を見せると、「飾ってくれたの?ありがとう!」と嬉しそう。そのときに、たまたまスーパーで聞いた店内アナウンスの話をしました。

「今日、スーパーでハマグリを売っていたんだけど、店内アナウンスを聞いて時代は変わったなぁと思って、面白かった」

「何?」

「ひな祭りのときに食べるハマグリの貝殻ってぴったり合うの。娘が一生添い遂げられる人に巡り会いますようにって願いを込めているんだけど、今は結婚してもしなくてもどちらでもいいし、相手と合わなければ離婚も昔よりは出来るようになったし。その願い自体が古くなってしまったんだなぁと思って」

「一生添い遂げるって言葉がすごい古いね」

「うん。親の気持ちとしては、娘が一生添い遂げる相手に巡り会えばそれはそれで嬉しいけど、それよりも結婚してもしなくても幸せに暮らせますようにと願うと思う、今の時代は」

 そんな会話から、AIの話題に移り、その話題でずいぶん盛り上がりました。そのAIの話は後日またブログで報告しますね。

 さて、我が家の子供たちは残念なことにちらし寿司が好きではありません。ですので、母に作って持っていきました。母には沢山美味しいものを作ってもらいましたので、母が高齢になり、私が作って持って行くのもお返しが出来るようで嬉しい。今回も「棚からぼた餅だわ」と喜んでくれました。

母に持っていったお弁当。半分はちらし寿司、半分はおかずです

春らしく、桜の模様の包みで

 やっぱり、嬉しいひな祭り。今年もひな人形を飾れて良かった。娘も私も母も、これからも元気で楽しく暮らせますようにーと願ったのでした。

2025年3月2日日曜日

大学のカウンセリング

  先週の金曜日、大学のカウンセリングに行きました。最初に行ったのは1月10日、2月28日で4回目になります。そこで言われたことが少しショックだったため、ここで愚痴らせていただきたいと思います。皆様、日曜の朝からすみません。

 以前このブログにも書きましたが、私の研究室は大学にはなく、他の研究所内にあります。どこの大学でも修士・博士課程になるとこのようなケースは少なくなく、私の研究室にもあちこちの大学の学生が学んでいます。

 大学の研究室と違うのは、教授、助教授、助教など学生を指導する教員という立場の人がいて、学位を取るために来ている同じ立場の学生たちと切磋琢磨したり相談したりできる環境ではないこと。指導教員が指導してくれなければ、一人で黙々と研究を進めることになります。そこで働く研究者たちはそれぞれの仕事で忙しいので、申し訳なくて、相談するのも躊躇します。

 こういう環境は、すでに独立していろいろ出来る学生なら良いのですが、私のような、指導を必要とする学生の場合、自分で方法を見つける必要があります。これはなかなかに難しい。私の場合、指導教員が私の研究テーマとは違う分野の人でかつ超多忙のため、話す機会も年に数回しかなく、私みたいな年の学生なんて迷惑なんだろうなという遠慮もあります。まぁ、博士課程の学生となれば、自分で道を切り開くべきなので、とにかく、あれこれ試しているのが実情。そして、万策尽き果てたという状態が続いているので、それはかなり、精神的に辛い。

 私の場合、年齢もかなり他の学生よりも上のため、他の大学の学生と交流するということにもならず、さらに苦しい立場にあります。で、このような環境の中で”うつ”にならずに、精神を何とか正常に保ったまま乗り切るために、大学の仕組みを分かっている人に相談したかった。で、カウンセリング室のドアを叩いたのです。

 で、先週末にカウンセラーに言われたのは、悩みをこちらに来て話して、気持ちを楽にして帰るということは、大学には沢山の学生がいて、枠に限りがあるのでできない。カウンセリングはクリニックなど外に行くと費用がかなりかかる。それをただで利用することに慣れてしまうと、卒業してから困るケースもあるとのこと。

 これ、違いませんか? 私、自分の私的な問題について相談しているのではなく、あくまでも、学ぶ環境が特殊で、その中で悪戦苦闘している中で生じている、指導教員やその他の研究員との関係についての悩みを相談しているのですけれど…。大学の研究室ではない別の研究所で一人で研究する還暦の博士課程の学生の悩みなんて、特殊過ぎて相談もなかなか出来ず(親しい友人にはそれでも聞いてもらっています。感謝!)、自分を客観視して笑い飛ばしたいぐらいに滑稽です。でも、一方で、このままで行くと崖っぷちから落ちてしまう可能性があるかもしれないとも考えた。だから、大学の仕組みが分かり、また、相談場所として設置されているところに来ているのです。それに、私、学費払っていますし…。

 「ただでここを利用する」という言葉があまりにもひどかった。ですが、「ここでの相談はぜひ若い学生さんたちに利用していただきたいので、承知しました。私にも大学生の娘がおりますので、大学の貴重な資源は私のような年の人間ではなく、これからの若い方々に利用していただきたい。ただ、私はただでここを利用できるから、ここに来ているわけではありません。この大学で学ぶことに関連する悩みだから、ここに来ているのです」とは伝えました。

 涙が出ました。私はこれまで自分をこの世に存在させるために沢山の医療費を使ってきましたし、大学にもきちんと学費を払っています。そして、医療費・学費いずれにも税金が投入されているのは十分承知しています。だからこそ、何とか社会の役に立ちたいという思いで、学んでいるのですが…。

 あーあ、辛いなぁ。本当に辛い。でも、頑張るぞ!

 

 

 

2025年3月1日土曜日

佐川急便のお兄さん

  佐川急便のお兄さんが、アマゾンで買ったものを届けてくれました。このお兄さんはもう10年近く、我が家の周辺地域で配達をしてくれています。愛想が良く、真面目でとても好感が持てる人です。今日は「むつみさんにです」と笑顔で渡してくれました。我が家の表札には夫と私の両方の性を併記しているため、宅配便の人たちは必ず名前を確認して届けてくれるのです。

 このお兄さんはいつも走っていて、本当に働き者です。こういう人を雇っている会社はとてもラッキーだと思います。でも彼を見かけるといつも、もうそろそろ体力が衰えてくる年齢だから(たぶん40代だと思う)、別の仕事を見つけたほうが良いのではないかしら?と老婆心ながら思うのです。

 そんなことを考えていたら、今日の朝日新聞の悩み相談に30代の配達員の男性からの相談が載っていました。回答者は歌手で俳優の美輪明宏さんです。

 その相談者は仕事は午前6時から午後3時半までで、保育園に子供を迎えて行き、一緒に遊び、夕ご飯も作れると書いてあります。一方で、「配達の仕事は身体的負荷が大きく、真夏の配達はまさに命がけ」という実情も記していました。そして、配達は社会的に必要とされている一方、誰でも出来る仕事なので、人には言えないという悩みも吐露していました。そして、転職について考えていると相談していました。

 美輪さんは配達の仕事はネット通販が発達した現代社会では欠かせない業種で、非常に重要な仕事とした上で、今すぐではなく5年後などと決めて計画的に転職に向けての準備をしてはどうかと助言していました。私も美輪さんの意見に全面的に賛成でした。

 我が家に配達してくれるお兄さんも、仕事を終えた後はくたくたに疲れているだろうと思います。結婚して子供もいるのでしょうか。それなら尚更、昇進のための勉強や、転職のための準備の時間は取れないかもしれないと想像します。でも、忙しい日々の中で少しでも時間を作って、何か将来につながることをしてほしいと願っていました。

 もしかしたら、より良い将来のために、ギリギリの今もう少し努力するー。その発想自体が古いかもしれないし、余計なお世話かもしれないけど、私はこのお兄さんにそのもう一歩の努力をしてもらいたい。

 佐川急便のお兄さんが我が家の近隣に車を止めて物を持って走る姿を見るのは嬉しいし、我が家に配達してくれるときの笑顔も好きです。心が温まります。でも、でも、担当者が若い人に変わって、このお兄さんが自分の希望や夢を叶えたのだろうなーと思える日が来ることを心から願っているのです。