2025年2月28日金曜日

今週の1冊_TOUCH

  昨年末、娘の大学があるオーストラリア・メルボルンに向かう飛行機の中で、映画を観ました。最近はアクションものもミステリーも観たくなく、恋愛ものもあまり興味がありません。で、ジャンルで言うと「ドラマ」を観るのですが、選ぶときは観た後で後悔しないよう慎重になります。で、慎重に選んで観た「TOUCH」がとても良かった。先日、偶然この本を書店で見つけて買い、すぐ読了しました。

 本も映画も、高齢のアイスランド人の男性が母国で経営するレストランを閉店するところから始まります。そこから、現在と過去が行き来し、彼がどのような人生を歩んできたか、が丹念に描かれます。

 彼は若いころ、ロンドンに住み、有名な大学に通っていましたが、大学での学びに疑問を持ち、退学をして日本料理店で皿洗いのアルバイトをします。彼はその店の日本人店主の娘と恋に落ちるのですが、ある日、店主とその娘が忽然と姿を消します。

 その男性は理由が分からないまま、祖国アイスランドに戻り、家庭を持ちます。が、晩年になってもう一度その女性に会うために、日本へ向かいます。50年の月日を経て初めて、店主と娘が姿を消した理由を知ることになります。

 人の人生について深く考えさせられるとともに、私たちが忘れていはいけない事実も改めて認識させられます。また、ラストのシーンも味わいがあり、心が温まります。

 アイスランドはあまり日本に馴染みのない国ですが、皆さんにこの映画と本をぜひ、お勧めしたい。この本は、アイスランドでベストセラーになったそうです。



2025年2月27日木曜日

娘@メルボルンからの報告 エアフライヤー

 皆さん、エアフライヤーをご存じですか? 日本ではノンフライヤーとも呼ばれています。油を使わずに調理が出来る家電製品です。です。一昨日、このエアフライヤーを買ったとメルボルンにいる娘から報告がありました。

 娘に頼まれ、この家電製品を我が家で買ったのは数年前。想像していた以上に便利で、お肉をガスレンジで焼いているときに、フライドポテトやハッシュドポテトを入れます。また、お弁当作りをしているとき、もう一品必要というときにも使います。

 娘の寮には立派なキッチンがあるのですが、多国籍の学生が住んでいるため、調理に行くと髪の毛や服に強い香辛料や油の匂いがつくのだそう。で、キッチンから帰った後は、服を替え、髪の毛も洗わなければならず面倒だったようです。

 で、そのような心配をしなくても良いように、自分の部屋がある9階の共有スペースの簡易キッチンで簡単に調理ができるエアフライヤーを買ったとのこと。

 この日は食べたかったサーモンとソーセージを焼いたそう。毎食作るのは大変なので、一回で2,3食分を作るそう。昼・夜・翌日の昼と同じものを食べると飽きることもあるけれど、「毎回作るのは大変なんだもん」と娘。

 ちなみに、このサーモンとソーセージは2日分の食事だそうです。オーストラリアは物価が高いので、ファストフードもなかなか食べられず、娘は頑張って自炊しています。自炊が少し楽になる家電製品を見つけられて良かったです。

娘から送られてきたエアフライヤーの写真。サーモンとソーセージを焼いています

娘がエアフライヤーで焼いたチキン・パルメジャーノ

2025年2月26日水曜日

花壇のフェンスづくり

  何年間も探し続けた花壇のフェンスをようやく見つけました。2011年にこの家を中古で購入し、内装、外装、庭、デッキ、玄関周りなどあちこちリフォームしてきましたが、唯一見つけられなかったのが白い縦型の木製のフェンス。先日、たまたまインターネットで見つけて、取り寄せることが出来ました。

 祝日の月曜日、夫と息子と3人で、高さ90㌢のフェンスに防水用のラッカーをスプレーし、金具で留めました。幅5メートルのフェンスを組み立てる予定でしたが、柱が一本足りず、またフェンスを固定するためのしっかりとした金具も必要だとわかり、現在、それらを注文中。

 アメリカの家でよく見かける、白い縦型の木製フェンスが日本では探せず、工務店に特注しようかと夫と話し合っていたところでした。注文すれば、結構な金額だったと思いますが、今回はラッキーなことにアウトレットで安く購入することが出来ました。

 追加注文した部材が来れば、完成です。猫の額ほどの小さな花壇ですが、出来たら皆さんに報告しますね。

フェンスに防水ラッカーをスプレーする夫と息子

金具で留めるのは、結構難しい

 

2025年2月25日火曜日

不思議な出来事

  昨日、不思議な出来事があったので、皆さんと共有したいと思います。このような出来事に意味づけするか、しないかは、人によってまちまちだと思います。私は意味があってのことではと受け止め、その意味について考えを巡らせています。

 昨日の朝、霊を呼び降ろすイタコさんに会って亡父の霊を降ろしてもらったときの録音テープを聞きました。昨年10月末、青森県八戸市にイタコさんに会いに行ってから初めてです。実は、そのときイタコさんの語りから、イタコさんは父を呼んでいない・もしくは呼んだのは父ではないーと思ったため、その後その録音を聞いていなかったのです。

 イタコさんの声を聞きながら、テープ起こしをしました。イタコさんは父の代わりに話していることになっています。その話している内容、話ぶり、使われている語彙を改めて確認しても、やはり父ではないな、と思いました。話があまりに一般的だし、父があのようなことを言うはずがない、父はあのような言い回しはしないーと一文一文、そう思いました。

 100歩譲って、言い回しや話し方、使う語彙はイタコさんのものだとしても、話が抽象的過ぎ、霊を降ろす前に命日・病気や死因を申込書に記すことになっていますので、それに寄せた話をすることはいくらでも可能だーという内容だったからです。

 テープ起こしを終えて、昼食を取り、車の洗車に行こうと思いました。もう15、6年は乗っているこの年季の入った車は実は父が買ってくれたもの。当時、私の体調が悪く、電車で1時間かけて病院に行くのは大変だろう、車なら少しは楽なのではないか、と買ってくれた、今となっては父の大切な形見です。

 ですので、古くなりましたが、とても大事に乗っています。洗車も定期的に行っています。運転が乱暴な夫が付けた傷、自転車の出し入れで子供たちが付けた傷と満身創痍の車ですが、修理をまめにしており、これからも大事に乗っていこうと思っています。

 で、いつも洗車をしてもらうガソリンスタンドに行きました。すると、店員さんが申し訳なさそうな顔で、「洗車の機械が壊れているんです」と言います。珍しいこともあるなぁと思いつつ、別のガソリンスタンドに行きました。ここは我が家から少し遠いのですが、とにかく、車をきれいにしたかった。

 そして、そのガソリンスタンドでも、その日は予約がいっぱいで洗車はできないと断られました。2件断られ、ガソリンスタンドはもう近くにはないので、諦めて、自宅に戻ることにしました。

 右折かUターンをしようとしましたが、走っても走っても、Uターン禁止か、右折したい道路は進入禁止のサインが立てられています。しばらく走って、ようやく、右折ができる道路がありました。そして、そこの道路に入ると、道路はすぐ行き止まりになり、目の前にお寺が現れました。

 お寺は真言宗智山派という、父の家の宗派門派のお寺でした。私と母は昨年、札幌のこの門派の納骨堂から、父の遺骨をこちらに移してきており、来月は父の13回忌で、現在母のマンションの仏壇の横に置いてある遺骨を、門派は違いますが高野山真言宗の納骨堂に納めることになっています。

 真言宗は沢山門派があるようですが、父の家の門派のお寺にたどり着いて、びっくりしました。何せ、父の形見の車に乗り、2つのガソリンスタンドで洗車を断られ、自宅に戻るためのUターンや右折も出来ず、ようやく右折でき、入った道路がすぐ行き止まりで目の前に父の宗派門派のお寺があったのですから。

 父は私に何か言いたかったのかなぁ、と思いました。ここずっと、気持ちが落ち込むことが続いており、一人でいるときは時々、年甲斐もなく、”お父さん”と呼びかけ、泣くこともしばしばありましたので、励ましてくれたのかもしれません。

 父の生前は特に仲が良かったわけでもないのですが、父が亡くなりお葬式の席で、父方の従姉妹に私は父の自慢の娘だったーと聞かされました(従姉妹が私を慰めるために言ってくれたのかもしれませんが)。その従姉妹の一言で、自分に自信のなかった私も、これからの人生を何とか生きられるーと思いました。誰かに自分という存在を認めてもらえているという確信を、そのときの私は必要としていました(今もです)。

 もしかしたら、納骨堂にまた入らなければならないのが、寂しいのかもしれないとも思いました。昨年3月末に札幌の納骨堂から遺骨を持ってきてから、ずっと母のマンションの仏壇の横に置いてありましたし、母の家に行くたびに父に手を合わせていましたので。

 いや、先日、母が父の遺骨の袋を開いて具合が悪くなったと言っていましたので、もしかしたら、”寝た子を起こす”ではありませんが、穏やかに眠っていたのに、起こされてしまったと言いたかったのかもしれません。

 まぁ、父はそういうことで文句を言うタイプではありませんので、私のことを天国から見守っていると伝えたかったのだと受け止めることにしました。

 そこには土地勘はなかったので、お寺の写真を撮り、いくつか目印となる建物を頭に刻み込み、自宅に戻りました。そして、もう一度、そこのお寺に行きました。覚えた建物を頼りに、迷わずに行くことが出来ました。車を近くの駐車場に止めて、お寺にお参りをしました。こぢんまりとした、良い気が巡っているお寺でした。

 お寺内のあちこちに、手を合わせました。その間、ずっと父に心の中で話しかけました。父と話ができたような気がしました。 

2025年2月24日月曜日

休日の朝は…

  今日は3連休の最終日ですね。皆さん、連休はどう過ごされていますか? 私たちはいつもの週末という感じで、のんびりとしていました。

 週末の朝はよく、子供たちが大好きなホットケーキを作っていました。ミッフィーのお皿によそうのが決まりでした。というより、ミッフィーのお皿は特別なので、週末のホットケーキにしか使わない決まり。

 昨日の日曜の朝は夫が息子と教会に行くというので、持っていけるようにホットケーキの粉を使った蒸しパンをミッフィーのカップに入れて作りました。

   今朝は、キッシュを焼きました。実は土曜日の朝も作っていて、中身はホウレンソウとベーコン、マイタケでした。久しぶりに作り家族に好評だったので、今朝も作ることにしました。中身は少し変えて、ブロッコリーとベーコン、マイタケに。

 出来たてのキッシュは美味しく、夫が喜んでくれました。息子はまだ寝ていますので、きっと冷たくなってから食べることになりますが、それはそれで美味しい。

 私のキッシュは手抜きをして、市販のパイクラストを使います。ですので、中身を炒めて、チーズを入れ、卵と生クリーム、牛乳を混ぜた液を入れて、オーブンで焼くだけ。

 蒸しパンの写真を娘に送ったら、「いいなぁ、私もママの蒸しパンが食べたい!」と言ってくれました。キッシュも娘がいたら、喜んでくれただろうなぁ、とちょっと寂しい気分。でも、娘も留学先で頑張っています。寂しいなんて、言っていられませんよね。



 

2025年2月23日日曜日

改葬許可申請書

  来月24日に父の13回忌を迎えるにあたり、父の遺骨を都内のお寺の納骨堂に納めることになりました。

 遺骨を札幌市内のお寺の納骨堂から持ち帰ってきたのは、昨年3月末。母と日帰りで行ってきました。遺骨は今も母の住むマンションの仏壇の横に置いてあります。来月13回忌法要をするにあたり、父の遺骨を昨年契約していた納骨堂に納めようとしたところ、書類が足りないとご指摘を受けました。

 父の遺骨をこちらに持ち帰るときに、札幌のお寺からは「納骨収蔵証明書」を発行してもらっていました。ここに遺骨が埋葬されていますーという証明書です。それがあれば、次の納骨堂に移せると思っていましたが、違いました。

 なんと、新しい墓地の管理者に提出するための「改葬許可証」を札幌市に発行してもらう必要があるということなのです。まずは、札幌市役所に問い合わせをして、申請書をホームページからダウンロード。そこに、「墓地使用者」として母の名前を、「改葬者」として父の名前と本籍と住所を記載。そして、これまでの埋葬場所の住所と施設名、改葬先の住所と施設名を記載します。

 まずは、本籍です。私はうっすらとは覚えていましたが、正確には思い出せません。母に電話で聞いてみると、「忘れちゃった」と言います。東京に引っ越しして5年以上経ちますし、何せ、87歳。忘れても不思議ではありません。「ちょっと調べて、また電話するよ」と言います。

「お母さん、それとね、火葬した年月日と火葬場所を記す必要もあるんだよね」

「うーん、火葬したのは亡くなってから数日経っていたと思うけど、忘れたよ。あっ、火葬した場所と日にちはお父さんの遺骨の袋の横に書いてあったかもしれない」と言います。結局は本籍だけ分かり、火葬の場所については分からなかったようです。母は、遺骨の袋を開けたり、のぞいたりしているうちに具合が悪くなったらしく、「あぁ、遺骨なんて触るもんじゃない」とつぶやいていました。

 私の死産した子の遺骨は、私の枕元にあります。時々抱きますし、愛おしくて、袋を開けて遺骨を見ることもこれまで何度もありました。でも、気持ち悪くなったことはありません。ここはやっぱり自分の子供と、夫との違いなのかなぁと思ったりもしました。

 「分からないものは仕方ないよね。世の中には、親族の火葬した場所を覚えている人はそんなにいないと思うから、たぶん大丈夫。ここは空欄にするね」と私。

 そして、その申請書と札幌のお寺からいただいた「納骨収蔵証明書」、490円分の切手を同封して、札幌市役所の施設管理課に送ったのでした。札幌市役所から改葬許可証が届いたら、ようやく父を東京の納骨堂に納められます。

 それにしても、生きている人間ではなく、亡くなった人の骨を移動するのにも自治体の許可がいるなんて、驚きました。でも、これは、父がこの世に存在したことの証明ですし、それを自治体もお寺も尊重しているのだということですよね。

 手続きには驚きましたが、父が大切に扱われていることを嬉しく思った出来事でした。

2025年2月22日土曜日

がんのママが旅立つ

  昨日、親しくしているがんのママさんからラインがありました。「むつみさん、18日Eさんが旅立ったそうです。同じマンションのママ友から連絡がありました」

 事実だけを伝える簡潔な文章から、そのママさんの深い悲しみが伝わってきました。そのママさんは最後までEさんを精神的に支えていました。ママさんに電話をしました。

 Eさんは中学生のお子さんを残して旅立たれました。ママさんは高校生、私も中学生の子供がおりますので、まだまだ世話をしたい、成長を見守りたい子供を残して逝くのは、どれほど無念だっただろうと語り合いました。

 Eさんは血液のがんで、骨髄移植という大変な治療をした後も再発・再々発し、最後は治療法がなく緩和ケアの病院に行かれたそうです。私は何度も、今回連絡をいただいたママさんが主宰するがんのママの集いでEさんとご一緒しました。小柄で可愛らしい、そしてお話好きな方でした。種類は違いますが、私も血液のがんを患っていたこと、高齢で出産したことと共通点もあり、いろいろお話もさせていただきました。

 骨髄移植で再発・再々発をしたということは、完治を望めるはずのこの治療法で、がんの勢いを止められなかったということ。骨髄移植の治療中は免疫が低下しますので、無菌室というところに入らなければなりません。この期間は長く、面会も禁止されます。ですので、Eさんも長い間、お子さんと離れて入院されていたそうです。子供との幸せな暮らしに戻ることを願って、辛い治療も耐えてきたEさんが、結局は天に召されてしまった。人生は酷です。

 私もEさんのように、血液がんが再発・再々発しました。再々発時は完治を目指し「造血幹細胞移植(骨髄移植、末梢血幹細胞移植、臍帯血移植の3種類の方法がある)」を主治医に勧められ、またセカンドオピニオンでも移植を勧められました。セカンドオピニオンを伺った医師からは「造血幹細胞移植をしなければ、娘さんが成人するまでは生きられない」とも言われました。

 私は当時43歳だったため、妊娠を諦められず、化学療法(抗がん剤治療)より強い治療である、造血幹細胞移植を選びたくなかった。この治療は治療が強力である分、副作用・合併症が多い。病院で同室の患者さんが、この治療を受けて別人のようになり、合併症を治すためにあちこちの病院にかかっていました。その様子を見て、私もこの治療を受けたら副作用・合併症の治療に時間がかかり、妊娠を望めない年齢になってしまうだろうと予想しました。

 主治医も私の意向を尊重してくれ、初発時に使った薬は使えないなど制限がある中、通常とは違う治療を選んでくれました。私はその治療法で寛解し、現在に至ります。今年、娘の成人式を一緒にお祝いすることもできました。寛解後にセカンドオピニオンを伺った医師に報告し、医師からは治療法を聞かれました。説明すると、その医師は「そうきたか…」とつぶやきました。このような結果から、どの治療が完治を望め、どの治療がそうでないのかーは最終的には、人智の及ぶところではないのではーと考えます。 

 ママさんは、Eさんのご主人に落ち着いたころに連絡を取り、Eさんと交流のあったがんのママたちからメッセージとお花を贈っていいかを伺ってくれるそうです。電話は、お互い治してもらった体を大切に生きようねーと言い合いながら、終えました。

 Eさん、長い間お疲れ様でした。お子さんを残して旅立つのはどれほど心残りだったでしょう。どうぞ、天国からお子さんを見守っていてくださいね。

2025年2月21日金曜日

児童館でお話し会

  皆さんは日々の暮らしの中でどんなときに幸せを感じますか? 私は料理をしているとき、子供たちと一緒に過ごしているとき、そして地元の小学校で絵本の読み聞かせの活動をして子供たちとふれあっているときにしみじみと幸せだなぁと感じます。

 今日、近所の児童館でひな祭りお話し会をしました。地元小学校の絵本読み聞かせサークルの仲間たちが、小学校以外にも活動を広げようと昨年、新たにボランティアグループを立ち上げました。ありがたいことに、私もお誘いいただき、昨年夏から活動に参加しています。

 今日のお話し会は4つのパートに分かれていました。最初が昔話の語り、2番目が紙芝居、3番目がクイズ、最後に子供たちも一緒に「うれしいひな祭り」を歌います。

 私の今回の担当はクイズでした。娘が帰国中に一緒につくってくれました。やっぱり若い子のセンスはいいですね。無料のイラストや文字をプリントアウトして、見やすく、可愛らしく作ってくれました。

「ひな祭りに食べる”ひなあられ”は何でできていますか?」

「答えは…①さつまいも ②おこめ ③だいこん」

「あかりをつけましょぼんぼりに おはなをあげましょもものはな 5人ばやしのふえたいこ きょうは●●●●ひなまつり この●●●●に入る文字は何?」

「答えは…①うれしい ②かわいい ③たのしい」

 こんな風にクイズを出します。子供たちは大きな声で競うように答えを言ってくれ、場はとっても盛り上がりました。子供たちは本当に可愛くて、こちらが癒やされました。とても幸せな気持ちになった午後でした。

 こんな素敵で楽しいサークルへ誘ってくれた仲間たちに感謝です。今度生まれ変わったら、保母さんか幼稚園の先生になりたいなぁ。

娘と一緒に作った「ひなまつりクイズ」


2025年2月20日木曜日

大好きな冬の花・ビオラ

  私は札幌生まれ・札幌育ちなので、雪の降る冬を懐かしく思う一方、天気良い日が多く花を楽しめる東京の冬もいいなぁと感じています。

 我が家から最寄り駅に向かう商店街の歩道には小さな花壇が並び、今ですと、ビオラが咲き乱れています。私はビオラが大好きなので、毎日街の花壇を眺めながら、幸せな気分で駅に向かいます。

  我が家の小さな花壇でも毎冬ビオラを植えています。ビオラは単色よりも、2色咲きのものが長持ちするようなので、今年もいくつか2色咲きを花壇に植えました。春から夏に咲く花は豪華で美しいのですが、暑さのせいかすぐ枯れたりしおれたして、植え替えを頻繁にしなければならない。でも、冬のビオラは毎日水をあげておけば、春まで咲いてくれます。


我が家の玄関前の小さな花壇

冬はビオラと、シクラメンが大好き

2色のビオラは春までずっと咲いてくれます

 今年はいつまで咲いてくれるかなぁ?

 

2025年2月19日水曜日

がんのママと語る

  一昨日、がんのママの集いに参加し、その集いを主宰するFさんと集いの後にお昼ご飯を食べながら語り合いました。

 Fさんは40代、私は30代と働き盛りでがんになり、また、子供を死産しており境遇が似ていることから、お互いに親近感を持ち、折々に会ってはお話しします。Fさんは慈愛に満ちた人で、がんを罹患して悩み苦しむママさんたちや、子供を死産した人を支える活動をしています。皆に慕われ、敬われる、素晴らしい人です。

 一昨日は、しみじみと子供を死産することについて語りました。私もFさんも死産後にもう一度出産したのですが、実は、死産後に子供を持つことを諦める人は少なくありません。赤ちゃんをお腹の中で大事に育てながら、また死産する結果になるかもしれないという不安を抱え、長い妊娠期間を送ることに耐えられないと考えるためです。

 Fさんが親のような世代の人に、お嫁さんが死産後もう子供は産みませんと断言して結局孫は出来なかったという打ち明け話をされたと話してくれました。「皆があなたのように次の子供の妊娠・出産が出来るほど精神的に強いわけではない」と言われたとも。

 私も息子の妊娠中は生きた心地がしませんでしたし、もう一度、あの死産という悪夢が現実になるのではと想像しない日はなかった。Fさんもそうだったと言い、そのお嫁さんの気持ちがとても良く分かると言います。

 その期間を耐えられるかどうかは、自分がそれを耐えられるぐらいに精神的に強いかどうかをまず見極めるところから始まるのだと思います。いや、耐えられるかどうかよりも、Fさんも私も、気が狂うほどの心配で不安な期間を経ても、赤ちゃんを産みたいと願ったのだと思います。さらに言うと、もう一度、死産という結果に終わったとしても、産むという決断をしないで後悔するよりはまだ良い、という究極の判断をしたとも言えます。

 Fさんとはその後、「執着」についての話になりました。私が大学院で苦しんでいることを話すと、Fさんは「むつみさん、それは、きっと一度始めたことは最後までやり切るべきだという、むつみさん自身の信条に対する執着ではないだろうか」と言います。

 確かに、そうです。私は諦めないことを信条としていますし、常に目標を掲げて、それに向かって努力したい人間です。そして、途中で諦めることがなかなか出来ない。でも、最近、そういう自分の性分に疲れてきているのも事実です。

 Fさんは天国にいる娘さんの元に行くためには身軽にならなければならないーと信じているそうです。この世での様々な執着を手放さないままあの世に行ったら、重すぎて娘さんのところに辿り着けないと苦笑します。

「あっちであの子を育てたいから。この世で身軽になってあの世に行かなきゃ。だからね、考え方も含めていろいろなものを手放すようにしているの。ほら、私たちいつまで元気か分からないじゃん。手放すのも精神的なパワーいるから、それも元気なうちだよ」

 そうだね、私たちの子供がこの世に生まれる前にあの世に行ってしまったということは、この世で修業しなくてもいいほど徳が高い子どもたちなんだよね、天国の中でもかなり高いところにいるよねーと互いに天国の子に思いを馳せました。

 Fさんからはいつも、とても大切な気づきをもらえます。自分の信条への執着ー。本当だなぁとつくづく思ったのでした。

 

2025年2月18日火曜日

娘がメルボルンへ

  今日午後5時50分、娘がオーストラリア・メルボルンに向け、旅立ちました。夫と私で成田空港まで送りに行きました。

 昨年10月31日に帰国。3ヶ月半の長い夏休みでした。娘のいる日々は楽しく、いつも家に笑いがありました。家族全員が娘に癒やされていました。

 ここ数日間、息子がずいぶん娘の側に寄っていき、ハグをしたり、腕をからませたり、膝の上に頭を載せたりと、甘えていました。息子はあまり感情を表に出さないのですが、やっぱりおねぇねぇがいなくなるのは寂しかったのですね。

 JALカウンターでスーツケースを預けて、空港内のカフェでお茶をしました。娘が「毎日、ママの美味しいお料理食べて幸せだった。これから、自分で作った料理を毎日食べるんだ。飽きちゃうよなぁ」と言います。

 娘の寮の部屋は9階にありますので、1階のキッチンまで作りに行くのが面倒で、オーブン料理を一度に沢山作って、自室の冷蔵庫に入れておくらしいのです。2日間同じ物を食べるということが多く、飽きてしまうよう。確かに、20歳の子が自分のために料理を作るのは面倒だろうな、と思います。だからこそ、ちゃんと自炊しているところは褒めてあげたい。

 カフェを出て、セキュリティゲートへ。夫も私も、娘をぎゅっとハグして送り出しました。娘は何度もこちらを振り返り、手を振ってくれ、両腕を大きく広げて頭の上でハートマークを作ってくれました。私たちも、娘が見えなくなるまで見送りました。



   夫も私も寂しくて、もう会話もありません。でも、すぐ駐車場に戻り、帰路を急ぎました。息子は夜英語の塾があるので、その前に夕ご飯を食べさせて、駅まで送らなければならないからです。

「一人っ子だったら、この寂しさから気持ちを立て直すのに時間がかかっただろうね」と私。

「うん。もう一人いるから、早く帰って夕ご飯食べさせようと気持ちを切り替えられるのは、ラッキーだよね」と夫。

 携帯電話を見ると、娘から写メールがありました。娘の大好きな「じゃがポックル」の写真です。札幌に帰省したときは、いつもこれをお土産に買っていました。成田空港でも売っているのですね。

  私からは、車から見えた「虹」の写真を送りました。「虹が見えたよ。グッドラックだね」とメッセージを添えました。まずは娘が、メルボルンに無事に着き、楽しく充実した学生生活を送れますように、と祈ったのでした。


 

2025年2月17日月曜日

熱海温泉へ

  昨日、家族で熱海の日帰り温泉に行ってきました。娘が明日、オーストラリアに帰ってしまいますので、家族でのんびりできて良かったです。

 娘は「休みの日はどこに行きたい?」と聞かれたら、「温泉と答える」というほど、温泉好きです。今回連れていった日帰り温泉は露天風呂が海と一体化しているような造りで、眺めがとても良く、娘も気に入ってくれたようです。

 温泉につかった後は、レストランで食事。その後は広々とした休憩エリアで寝られましたので、とてもリラックスできました。

温泉の休憩エリアでくつろぐ息子

 熱海温泉は我が家から行きは車で約2時間、帰りは混んでいますので約2時間半。日帰りですと往復で5時間近くかかりますが、行くととても楽しめますので、それくらいの時間をかけても行ったかいがあります。

 以前、母をその温泉に連れていったときはとても喜んでくれましたが、車での日帰りは高齢の母には大変だったようでした。

 私は札幌出身で、札幌市には「定山渓温泉」という有名な温泉地があります。札幌で働いていたときは、よく一人で車を運転して日帰り温泉に行きました。また、東京から実家に子供たちを連れて帰省したときも、父母が1泊2日で連れていってくれました。定山渓温泉は市街地から車で40分ぐらいで行けますし、良い温泉が多いので、札幌に住む人たちは幸せですね。 

 55歳になった夫が最近、「早めにリタイアする」と言っています。息子はまだ中1ですので、まだまだリタイアするには早いと思うのですが、夫に理由を聞いてみると「君は僕より年上だし、病気もいろいろしているから、君が元気なうちにあちこち旅行したい」とのこと。

 昨日、熱海温泉に行ってとてもリラックスできたので、日帰り温泉巡りもいいかなぁと思い始めました。



2025年2月16日日曜日

母のお赤飯

  母はとても料理が上手で、母が作るものは何でも美味しい。その中でも一番美味しいのはお赤飯です。

 母が作るお赤飯には甘納豆が入っています。お赤飯に甘納豆を使うのは北海道、青森県、山梨県など限られた地方だそうで、関東地方では小豆や小豆にとてもよく似ている「ささげ」が使われています。

 特におめでたい席でのお赤飯には小豆ではなく、ささげが使われます。小豆は煮崩れするので、「割れた小豆を用いるのは縁起が悪い」とされ、煮崩れしないささげが使われるそう。

 そのような歴史はさておき、北海道のお赤飯は甘納豆入り。農水省のホームページによると、この甘納豆入りお赤飯を考案したのは、札幌にある学校法人光塩学園の創設者・初代学長の南部明子先生。自身も働く母親だった南部先生が「忙しいお母さんが手軽に作ることができるように」という想いだったそう。昭和20年代に考案し、全道各地での講演でお母さんたちに教えたたところ子供たちが大喜びし、またたく間に広がったそうです。

 北海道では節分の豆まきに、雪の上でも拾いやすいように殻付き落花生を使います。こうして独自の食文化を作り上げてきた北海道って素晴らしい!とまたまた、北海道自慢。

 さて、先日娘がこの甘納豆入りお赤飯の作り方を母に習ってきました。炊飯器で炊くと簡単なのですが、母は蒸し器で蒸かしています。だから、とっても美味しい。母のお赤飯はやっぱり、最高です。

母と娘が作ったお赤飯。「東京で甘納豆を探すのが大変」と母




2025年2月15日土曜日

寂しい書店の閉店

  よく行っていた書店が2月20日で閉店することになりました。102年続いていた歴史ある店です。昨日、お店に行きじっくりと本棚を眺め、本を1冊買ってきました。そして、お店の外観の写真を撮ってきました。

 いつもそこにあった店がいなくなるのは、とても寂しいものです。ここ数年、近所ではおじいちゃんおばあちゃんが営んでいた文房具屋さん、駄菓子屋さんが次々と閉店。コロナ禍、何とか持ち堪えた店もこうしてひっそりと閉店していくのです。

 この書店では子供の絵本や新書・ビジネス書などよく買いました。息子も時折、漫画を買っていました。本当に寂しいです。

 書店内と入り口にはこんな張り紙が貼ってありました。



 「長引く出版不況、コロナ禍、その後の先の見えない不況に苦しめられながらも考えつく限りの工夫と努力をし、お客様に支えていただきながらこれまで必死で頑張ってまいりましたが、万策・力ともに尽きてしまいました。

 これまで102年にわたりお客様方にかわいがっていただいたこと、只々感謝申し上げます。そして頼りにしてくださっているお客様を心ならずとも裏切ってしまい、ご不便をおかけすることを心よりお詫び申し上げます」

 そして、隣駅の書店を紹介し、「苦しいなか頑張っておられます。お引き立てのほど、どうぞよろしくお願いいたします」と記してありました。そこで紹介されていた書店も時折行きますが、何とか頑張ってほしい。

 娘に書店の閉店の話をすると、「確かに本を買わないよね。私、読む漫画、全部Kindleだもん」と言います。考えてみれば、私も今や読む本の3冊に1冊はKindleです。でも、Kindle で読んで気に入った本は紙の本を改めて買っていますので、これからも紙の本は買い続けると思います。

 102年も続いた店を閉めるのは、とてつもなく苦しい決断だったと思います。店主は、閉店後どう生きていくのでしょうか。張り紙には万策・力ともに尽きたと書いてありましたが、肩の荷を下ろして穏やかに過ごされますように、と願わずにいられません。

 

2025年2月14日金曜日

バレンタインメッセージ

  今日はバレンタインデー。皆さんは、どなたにチョコレートをあげましたか? どなたからもらいましたか?

 私は夫と息子、娘にチョコや焼き菓子を贈り、娘からは手作りのチョコをもらいました。

娘が作ってくれたチョコ

娘はこの可愛らしい箱にチョコを入れてくれました。箱の裏にはメッセージが書かれていました

 娘は夫、息子、私にくれたチョコレートの箱にそれぞれメッセージを書いてくれました。夫へのメッセージがとても素敵だったので、ここに訳して載せたいと思います。

「言葉では伝え切れないけど、ありがとう。

 ダディが私を愛し、知恵を授け、様々な犠牲を払ってくれたから、今の私があります。

 ダディは私を導くために、寝る前に、そしてそれ以外でも、数え切れないほどの沢山の時間を使ってくれました。

 ダディはいつまでも、私のヒーローだよ。

 チョコレートを気に入ってくれることを願っています。

 I love you!」

 こんな素敵な言葉をもらえるお父さんはなかなかいないのではないでしょうか。

 夫の優先順位の一番は常に家族でした。家族が夫を必要としたときは、いつ、どんなときも家族の側にいました。それを娘はちゃんと分かっているのですね。

 

私が家族にあげたチョコ。息子が好きないちごチョコ、娘が好きな焼き菓子、夫が好きなピーカンナッツチョコとあちこちで買いましたが、娘の愛情のこもったチョコに比べると普通ですね




2025年2月13日木曜日

20歳の献血

  先日、20歳の娘が初めて献血を試みました。条件が整わず、結果的に出来ませんでしたが、次につながる良い経験が出来たようです。

 朝、洗濯物をベランダで干していると、区から献血を呼びかけるアナウンスがありました。アナウンスはほとんどの場合、夏の「光化学スモッグにご注意ください」という注意報。「珍しいな。きっと血が足りないのかもしれない」と受け止めました。お役に立ちたいところですが、私はこれまで病気や出産でたくさん輸血をしていますので、出来ません。で、娘に聞いてみました。

「ねぇ、20歳になったから、献血してみない? ママはこれまで病気でたくさん輸血してもらったの。ママがこうして生きていられるのは、献血してくれた人たちの血液をもらえたお陰。ママはもうしたくても献血できないから、お願いできるかな?」

「いいんだけど。私、血を採られるのが怖くて」

「えっ? そうなの?」

「うん。去年大学で血液検査をしてもらったときは、恐ろしくて、涙が止まらなくて、看護師さんに側についていてもらったの」

「そうかぁ、じゃあ、無理かぁ」

「ううん、ママが側についていてくれるんだったら、献血してもいい。私も人の役に立ちたいし」

「じゃあ、早速行こう」

 娘は支度をしている最中から泣いています。玄関を出るときは、ティッシュで涙を何回もぬぐうくらいになっています。「やめようか?」と聞いても、「いや、行く」と言うので、泣きながら自転車をこぐ娘と一緒に献血会場に行きました。

 まずは、登録です。私はすぐ後ろについていましたが、娘はまだ泣いています。「帰る?」と改めて聞くと、「ううん、献血する。でも、怖くて」とまた、大粒の涙を流します。

 ようやく登録が終わり、血圧と脈拍数を測りましたが、なんと脈拍が100以上あり、次の手続きに進めません。看護師さんに促され、座って冷たいお茶を飲み、何とか脈が100以下に下がるまで待ちます。心のありようは、脈拍数にも出るのですね。

 やっと、100以下に下がり、さて献血というところで、看護師さんから、待ったがかかりました。

 看護師さんは娘の手を握り、優しく質問します。「献血が終わった後、体調が悪くなる人もいるんです。そうした場合、会場で少し休んでもらうのですが、大丈夫ですか?」

 娘は1時間後に歯医者さん、そして、その後にスーパーでのアルバイトが3時間入っていました。もう一人の看護師さんも側に来て、「献血をしていただくときは、次に予定がないときにしてもらったほうがいいです。今日献血してもらって、歯医者さんで体調が悪くなっても困りますし、もしかしたら、アルバイトも行けなくなるかもしれません。また、次の機会にお願いします」

 そうか、献血は体調が十分良く、かつ、献血の後に予定がないときでなければならないのですね。そうしたことに気が付かず、区のアナウンスにすぐ反応し、娘を巻き込んでしまった自分を反省しました。

 私はこれまで、ヘモグロビンが壊れる病気でヘモグロビンを、血小板が壊れる病気では血小板を、そして帝王切開でも輸血をしました。

 ヘモグロビンが壊れる病気だったときは、あっという間に体が動かなくなり呼吸が苦しくなります。そく輸血となるのですが、点滴を準備してもらっている間にも体調がだんだん悪化し、点滴から体に血が入った瞬間からどんどん呼吸が楽になっていきます。また、血小板が壊れる病気では、体のどこも打っていないのに内出血であちこちに赤紫色の斑点が出来ますので、これも緊急処置として血小板を輸血して内出血を止めるのです。最初の出産は緊急帝王切開でかなり出血し、これも輸血をしました。本当に私は沢山の方々のお陰でこのように生きているのです。献血をしてくださる方々に心から感謝をしていて、私もお役に立てるのなら、立ちたいのですが…。

 娘は私の勧めもあり、怖がりながらも献血を望んでいましたが、看護師さんの説得で今回は断念することになりました。会場の方々は献血が出来なかった娘や私にとても親切でした。そして、出来なかったけれども、娘の顔は晴れやかでした。「次は少し落ち着いて、泣かないで出来ると思う」

 帰りは娘に「ありがとう」の気持ちを込め、近くのカフェでケーキをご馳走しました。

 20歳の献血は今回は出来ませんでしたが、娘なら、きっとまた挑戦してくれると思います。そして、献血してくださっている方々、本当にありがとうございます。

2025年2月12日水曜日

中学校のバスケ試合を観戦

  昨日、東京都内の中学校のバスケットボールのリーグ戦を観に行きました。息子は出場しなかったのですが、頑張っている2年生を応援できました。

 午前10時の試合は娘と夫が観戦し、二人で最寄り駅付近で昼食を取り、娘はヴァイオリンレッスンに行くために帰宅。夫はそのまま会場に戻り私が午後現地で合流し、午後1時からの試合を観戦。試合終了後は夫は帰宅、私は午後3時15分からの健康診断の会場に向かう。そんなスケジュールでした。

 娘は高校のバレーボール部を描いた「ハイキュウ」やバスケットボール部を描いた「黒子のバスケ」などのアニメ映画(原作は漫画)の大ファン。インターナショナルスクールに行って一番残念だったことは、「日本の部活動を経験できなかったこと」というくらいに、日本の中高校の部活動に憧れています。今回は1年生の息子は出場しないことは分かっていましたが、誘うと喜んで応援に行きました。

 私は昨日は論文執筆があり、午後は健康診断もあり、息子も出場しないし、夫と娘は観戦したので家族がサポートしていることは息子に分かってもらえるし…で、行かない理由が沢山ありました。が、パソコンに向かい論文を書いている途中、「自分にとって一番大切なことは何か」という問いが、頭の中に浮かびました。そして、「やっぱり行こう!」とお昼近くに決断し、支度をして出かけました。

 会場は港区立三田中学校でした。都営三田線の三田駅から徒歩10分ほどの場所ということでしたが、息子の学校の試合開始時間に間に合うか心配でした。私は地図を読むのが得意ではなく、駅の出口前にある地図と携帯電話の地図を照らし合わせて確認しても、別の方向に行ってしまう人間です。ですが、夫からの「まずは、A3出口を出たらいいよ」という助言と、グーグルマップのお陰で、何とかたどり着くことができました。

 三田中学校はなんと、クエート大使館の横にあります。すごい立地です。創立20周年ということで建物も新しく、洗練されています。公立中学校のイメージを払拭するような外観です。

港区立三田中学校の外観

 そして、驚くべきは校内のプール。もしかしたら、撮影禁止かもしれませんが、素晴らしさをお伝えするための写真なので、このブログにアップさせてもらいます。

三田中学校のプール。手前にある三本線と「田」の字は「三田」を表したデザイン

 皆さん、すごくないですか? 公立中学校にこの屋内プールですよ。生徒は幸せですね。それに、三田のサイン。あちこちのガラス窓の下に三本の線が長く引いてありその右に「田」の文字。これ、デザイナーさんが作ったに違いありません。本当に、おしゃれです。いやはや、港区、力あります。

 肝心の試合は、我が息子の学校は午前中はコテンパンにやられたらしく、私が観た午後の試合も負けでした。対戦相手はあまり強そうでなかったのですが、息子の学校のチームの選手が、こう言っては何ですが、あまり上手ではない。

 「なんであんな遠くからシュートするの?」というほど、遠くからのシュートが多く、それもほとんど決まらない。それでも、選手たち、一生懸命でした。その一生懸命さが、とても良かった。

 相手チームのコーチは女性で、ドスの聞いた声で、子供たちに様々な指示を与えます。優しい先生が多い昨今、「こういう先生っていいよねぇ」と、夫も私も、笑みがこぼれます。

 やっぱり、部活動はいいですね。私が息子をインターナショナルスクールではなく、日本の中高に通わせたかったのは、この部活動を経験させたかったからです。私も年を重ねた今、部活動が一番の思い出だからです。

 息子は身長が170㌢を超えていますので、普段、セーターにジーンズを着ると高校生に見えるのですが、運動着を着ている息子はやっぱり中1の幼さと頼りなさがあって、可愛かった。息子の新しい一面を発見したように嬉しかった。試合に出ていた中2の選手は皆、息子より背も体格もひと回り大きく、頼もしかったので、尚更そう感じたのでしょう。 

 その日は3試合あり、私たちが帰った後の最後の試合で、なんと、息子の学校が勝ったと帰宅した息子が報告してくれました。「やったね!」「それは良かったね!」と家族で喜びました。

 夜、寝る前に娘とおしゃべりしているとき、その日のバスケの試合の話になりました。2人の間の話ですので、ついつい本音が出てしまいました。

「いやぁ、あのチームが勝つなんて、相手チームよほど弱かったんだね」

「上には上がいるけど、下には下がいるもんだねぇ」

 ところが、その会話、隣の部屋にいた息子に聞こえたらしく、息子が「そこまで、言わなくても…」と静かに反論してきました。娘が起き上がって、慌てて息子のところに行き、「あっ、ごめん、ごめん!! けなすつもりはなかったんだけど…」と息子に謝りに行ったのが笑えました。

 昨日もとても幸せな日でした。合理的な決断をせず、直感に従って良かったーと思えた日でした。

2025年2月11日火曜日

スーパーボウル

  アメリカ発祥のスポーツ・アメリカンフットボール。アメリカでは大変人気です。日本に住んで23年経つ夫もアメフトだけはフォローをしており、昨日開かれた第59回スーパーボウルも、朝からしっかりテレビで観戦していました。

  NFL(National Football League)公式サイト日本語版によりますと、スーパーボウルはNFLのチャンピオンチームを決める優勝決定戦。NFLはAFC (American Football Conference)とNFC(National Football Conference)で構成され、それぞれのプレイオフを勝ち抜いたチームがスーパーボウルを戦います。開かれるのは例年2月第1週の日曜日ですので、時差がある日本では月曜日の朝に放映されます。

 留学して間もないころ、寮のルームメートが大学のチームの試合を見に行って帰ってきて、興奮気味に言った言葉を鮮明に覚えています。彼女が言った言葉は「We won!」(私たちは勝った!)。"Our Team" ではなく、”We"。「私たちは勝った」というシンプルな一言に、チームと一体となって応援している様子が表現されています。

 こんなに年月が経ってもその一言を覚えていますので、彼女の興奮ぶりとこの「We」の使い方はとても印象に残るものだったのでしょう。

 また、夫は4人兄弟ですが、義母から「アメフトだけは絶対に駄目」と禁じられていたのだそうです。ですので、夫も夫の兄も選んだのはバスケットボール。すぐ下の弟は演劇、一番下の弟は歌です。アメフトは怪我をして打ち所が悪いと、半身不随なるほどの危険さをはらんだスポーツですので義母の言うことももっともです。

 以前、夫と一緒にテレビ観戦していたときに、試合中に怪我をした選手が病院に運ばれたのですが、アナウンサーが試合の合間にその選手が首から下が動かなくなると報告していました。こんな酷なことをテレビであっさり伝えるなんて…と胸が痛くなりました。その記憶も鮮明で、選手のその後の人生を考えると胸が苦しくなります。大変な苦しみを背負われた選手が、良い人生を歩んでいることを願わずにはいられません。

 さて、私は夫の横の机で論文書きをしていましたが、ずいぶんコマーシャルが多いなぁというのが印象。夫に聞くと、「試合の間に入れるコマーシャルの価格、すごく高いんだよ」とのことおそらく、大多数の国民が観ているでしょうから、企業としてはこれ以上の宣伝はないでしょう。久しぶりに見たコマーシャルもとってもアメリカっぽくて(大げさで、明るい)、あぁ、アメリカだなぁと思いました(なんか変な表現ですが)。

 スーパーボウルを垣間見て、アメリカに関する様々な記憶が蘇ってきました。その記憶は陽と陰の差が大きく、色合いが濃く、頭の中で主張し合い落ち着きません。

 やっぱり、日本の地味な色合いの、輪郭がぼやけた記憶のほうがいいなぁと思ったりします。

 夫は観戦終了後、すぐに仕事に戻っていました。以前はスーパーボウルの日は休みを取って観戦して、特別感があったのですが、今は通常の日のひとコマになりました。かくいう私は試合を横目で見ただけで、頭の中でアメリカでの様々な記憶が交錯し、落ち着くのに少し時間を要しました。スーパーボウルはそういう意味でもやっぱり、アメリカを象徴するスポーツなのですね。

 

 

2025年2月10日月曜日

久しぶりに一人っ子

  昨日、息子が一泊二日の日程で山梨県の国立天文台「野辺山宇宙電波観測所」に行ったため、久しぶりに一人っ子となった娘と私たち夫婦で、娘の「バケットリスト」(したいことリスト)を叶えることにしました。

 娘が今回の帰国で私に伝えてきたバケットリストは次の8つ

1)家族でディズニーシーに行く

2)映画を家族で観る

3)温泉に行く

4)三鷹の森ジブリ美術館に行く

5)コストコに行く

6)焼き肉を食べに行く

7)北海道ラーメンを食べに行く

8)ママのクリームシチューを食べる(娘が観る日本のアニメ映画でよくクリームシチューが出てくるので、食べたくなったそう)

 このうちジブリ美術館以外はすべて叶えてあげました。最後に残ったジブリ美術館に行く?と聞いたのですが、息子と一緒に行きたいというので、次回に持ち越すことに。その代わりに、前回帰国したときに持ち越した「観覧車に乗る」を叶えてあげることにしました。

みなとみらいにある大観覧車

 向かったのは、横浜みなとみらい。ここには都市型遊園地「コスモワールド」があり、そこには全高112.5㍍の大観覧車があります。まずは娘のリクエストで、夫のオフィスがあるランドマークタワーのイタリアンレストランへ。ここは家族で何度か行ったことがある店で、大きな窓から観覧車が見えるのです。

 レストランではそれぞれが好きなパスタを注文。私と夫がワインで、娘がピンクグレープフルーツジュースで乾杯しようとしたところ、夫が「今日はママとダディが出会って34年目の記念日なんだ」。「えっ、忘れてた!」と私。「出会って34年って、すご!」と娘。そこそこ長くなった私と夫の人生の半分以上はお互いを知っているんですね。ちなみに夫と私が出会ったのは、大学のバレンタインパーティでした。

私は海老のトマトクリームパスタを注文しました

デザートはチーズケーキ

 食事とデザートでお腹がいっぱいになったところで、コスモワールドへ。観覧車は娘が小さいころ、時々乗りました。息子がまだ生まれる前で、まだ若かった私と夫と小さな娘が写った記念写真もあります。昨日も同じ場所で記念写真を撮りました。観覧車はゆっくりと動くので、横浜の景色を堪能できて、とても素敵な時間でした。



観覧車の中から観たみなとみらい

海もきれいです

 観覧車の後は、「横浜赤レンガ倉庫」へ。ここには可愛らしい雑貨屋さんがたくさんあるので、娘と一緒に買い物を楽しみました。その間、夫は読書です。夜ご飯は、観光客にも人気の商業施設と客船ターミナル、ホテルが一体化した「横浜ハンマーヘッド」のレストランで。カクテルを飲み、美味しいお料理を食べながら、家族3人でのおしゃべりを楽しみました。


久しぶりにカクテルをオーダー

美味しかったナチョス

 めったになれない一人っ子の時間を、娘は満喫したようです。

2025年2月9日日曜日

きりたんぽ鍋

  寒い日が続きますね。寒い日は皆さん、何を召し上がりますか? おでんでしょうか? ポトフでしょうか? 我が家では、子供たちがおでんを好きではないので、私はぐっと我慢して作らず、以前はコンビニエンストアで一人分を買って食べていました。最近では夫と一緒に行く近所の飲み屋さんのメニューに入りましたので、そこでいただきます。

 で、冬場の我が家の定番メニューは「きりたんぽ鍋」です。時に母を招いてこの鍋を囲むことは前にこのブログで触れました。今日は少し踏み込んで、書いてみたいと思います。

 農水省のホームページによると、きりたんぽ鍋は秋田県大館・鹿角地方が発祥の地。炭焼きや伐採のために山籠もりをした人々が残りのご飯をつぶして棒に刺して焼いて食べていたものを、鳥鍋に入れたことが始まりだそうです。

 串に刺して焼いたご飯が「がまの穂」に似ていて、短い穂の意味の「短穂」から「たんぽ」と呼ばれるようになったそう。「きりたんぽ」はこの「たんぽ」を鍋に入る長さに「切った」ものだからなのだそうです。

 使われる鶏肉は昔は「比内鶏」でしたが、国の天然記念物に指定されてから食用には出来なくなり、この比内鶏と米国産の鶏の交配により現在の「比内地鶏」が誕生し、再び食卓に上がるようなったそうです。

 私がこのきりたんぽ鍋を最初に食べたのはもう20年ほど前のことです。お友達のご夫婦のお宅にご招待されて、ご馳走になり、すっかり気に入りました。特に気に入ったのはスープです。おそらく、自分で再現するのは無理だろう思いましたので、お友達にラベルを見せてもらい、覚えて帰宅。さっそくインターネットで調べて、取り寄せました。きりたんぽもそのときに一緒に買いました。

 それからしばらく取り寄せて食べていました。その間、冬場に近隣のスーパーに行っては鍋のスープが並ぶ棚を見て探しましたが、ありません。それで、普段の食材は買わないけれど、そこでしか売っていない食材などを買う店に行ってみると、なんと売っていることが分かりました。それからはその店で買っています。

 車で5分ほどのイオンに行ったときに探してみたところ、その店よりずっと安い価格で販売していることも判明。2つの店を確保したことで、1つのスーパーで品切れている場合はもう一つのほうへ行き購入することが出来るようになりました。

 きりたんぽがスーパーの棚に並ぶのは3月末までですので、それまでは月に1度は作ります。材料はざく切りした鶏もも肉(比内地鶏ではなく、普通の鶏肉)とニラ、ネギ、そしてマイタケです。ハクサイも美味しいのですが、スープが薄まってしまうので、この4つの食材に落ち着きました。

 スープを鍋で沸騰させてから、お肉を入れ、ひと煮立ちさせて野菜を入れ、一番上にひと口サイズに切ったきりたんぽを乗せて、蓋をしてしばらく沸騰させます。きりたんぽが柔らかくなり、お肉に火が通ったら出来上がりです。

 他の鍋も作ってみて、それぞれそれなりに美味しいのですが、やはりこのきりたんぽ鍋が一番美味しい。スープが染みこんだきりたんぽは絶品で、子供たちが競うように食べます。

 きりたんぽ鍋に馴染みのなかった方、よろしければ試してみてください。

おすすめの「元祖秋田屋 比内地鶏スープ ストレートタイプ」。ネットを通じて買うと高いので、スーパーで見つけていただければ…


2025年2月8日土曜日

今週の一冊_「幸せについて」

 先週の土曜日(1日)夕方に定期券を失くし、もう諦めていた一昨日、警視庁遺失物センターから届いていると連絡があり、昨日引き取りに行きました。

 これまで2回定期券を失くしたことがあり2度とも戻ってきましたが、今回は定期券で利用する2つの鉄道会社に問い合わせしても届いていなかったため、早々に諦めました。普段ですと次の手段である、その2つの鉄道がつながる別の鉄道会社に問い合わせするのですが、今回はあえてしませんでした。

 ネットで、定期券を失くすという意味を調べ、自分がいつも通う場所から離れるタイミングという意味もあると書いてあったので、そうかもしれない、と納得。本当にそうなのかどうかは別として、そう思うことが必要でした。研究所のことでずっと悩んできましたので、あと2ヶ月半分残っている、自宅最寄り駅から研究所最寄り駅までの定期券と定期入れに入っていた2千円を厄祓いにして、気持ちを切り替えようと思ったのです。

 気持ちの切り替えの手段として、すでに週4回は行っていた研究所への回数を減らし週2回にし、1回を大学の図書館にし、残り1日を在宅にすることに決め、2週間前から実行していました(平日週1回は友人とランチをするなど、全く研究をしない日にしました)。

 そうして今通う研究所への精神的な縛りを手放そうとしたところ、一昨日の電話でした。愛着のある、クマさんの顔の形をした使い古した定期入れを失くしたことを残念に思っていましたし、一日往復800円は痛いなぁとも思っていましたので、有り難く引き取りに行ったのです。

 飯田橋駅近くにある警視庁遺失物センター。駅の出口を出て、携帯電話の地図を見ながらキョロキョロしていると、「お困りですか?」と中年の女性が声をかけてくれました。有り難く、遺失物センターへの道筋を聞くと、とても親切に教えてくれました。

 そして、同センターでも担当者の方がとても親切にこの定期入れを渡してくれました。誰が拾ってくれたか聞いたところ、その方は「JRの職員です」と言い、「ですので、お礼はいりませんよ」とにっこり。「そうでしたか。大変助かりました。ありがとうございます」とお礼を言い、同センターを出ました。

警視庁遺失物センターの前で。戻ってきたクマさんの定期入れ

 私は定期券で使う鉄道会社2社には問い合わせていましたが、JRは乗りませんので、問い合わせていませんでした。JRも乗り換え出来る駅でしたので、誰か親切な方が拾って窓口に届けて下さったか、職員さんが拾って警察署まで届けて下さったのでしょう。

 いずれにしても、拾った定期入れを最寄りの駅の窓口に届けてくれる、正直で親切な人がいる(大多数だと思います)、そして道に迷っている人を助けようと声がけしてくれる親切な人がいる、日本に住む私は何て幸せなのだろうとしみじみと思いました。

 ふと、そこに来るまでの電車の中で読んでいた本のことを思い出しました。「幸せについて」(谷川俊太郎、ナナロク社)です。谷川さんが幸せについて、考えたことを綴っています。昨日は大学に行く日で、たまたま寄った構内の書店でこの本を見つけて買い、大学最寄り駅から飯田橋駅までの電車の中でその本を読み始めていました。

故・谷川俊太郎さんの「幸せについて」

 谷川さんの言葉を心の中で反芻しながら、自分にとっての幸せについて考えを巡らせていましたので、親切な人が住む日本に住んでいることを幸せだなぁと感じられたのだと思います。私自身の中でぼんやりとは分かっていつつも、明確には分かっていなかったことを、谷川さんはこの本の中で言語化してくれています。その一節を引用します。

「幸せが自分の外にあるように思うのはアホ、外にあるのは幸せそのものではなくて、幸せの理由だけ、お金とか、友達とか、地位とか、広々した自然とか、可愛い子犬とか、幸せを感じる理由は身近にいっぱいあるけど、幸せそのものはひとりひとりのヒトのカラダとココロに湧く感情の一種、それもいわゆる喜怒哀楽の感情の次元を超えた〈感動〉だから、自分のココロとカラダから湧いてくるのを信じるしかない。」

 この本を夜、寝る前にもう一度読み返しました。そこには、英語では「ラッキー」(幸運)と「ハッピー」(幸せ)は意味は違うけど、日本語では同じ字を使うために、混同してしまう人がいると書いてありました。

 確かに、私が昨日しみじみと感じたのは「幸運」以上の感情、「幸せ」だったなぁと振り返りました。以前2度、落とした定期券をどなたかが窓口に届けて下さったときは「幸運」だと思い、届けてくれた方に感謝の気持ちは持ちましたが、「幸せ」とは少し違う感情だったように思います。

 落とした定期券と谷川さんの本で、幸せについて深く考えさせられた一日でした。 

2025年2月7日金曜日

ポロコ組

 昨日は終日気持ちを明るく保てた日でした。朝は絵本の読み聞かせで子供たちに心を癒やしてもらい、お昼は新聞社時代の同期Sちゃんと、Sちゃんを通じて仲良くさせてもらっているMちゃんの3人で美味しいピザをいただきながら大いに笑い、おしゃべりを楽しみました。

   振り返ればSちゃんとは30年以上の付き合いです。Sちゃんは大変な才女なのですが、そんなところはみじんも見せない謙虚で優しい女性。気持ちがダウンしたとき、ラインに「元気してる?」とメッセージを書くと、必ず元気でユーモアに溢れた返事が来る。こちらは特に何を言うわけでもないのに、わたしの心の有り様に合わせるように、さりげなくランチやお茶に誘ってくれる。そんな友人です。

 頼りにしていたSちゃんから、昨日、ご主人が3月に札幌に転勤することが決まったと報告がありました。札幌は私たち3人の故郷で、3人の集いも札幌の情報誌「poroco」にちなんで、「ポロコ組」(Sちゃんが名付けてくれました)。要のSちゃんがいなくなると、このポロコ組ランチが気軽に出来なくなってしまいます。

 10年間東京にいたSちゃんにとっては喜ばしいことなのですが、わたしは動揺しました。お互い慌ただしい日々を送っていますので頻繁に会えるわけではありませんが、何かあったらすぐ連絡を取り合い会っておしゃべりできるSちゃんがいなくなるのは心もとない。Mちゃんは持ち前の明るさで「今はラインもあるし、札幌帰省の楽しみが一つ増えるね」と前向きに受け止めていましたが、それはMちゃんが私より少し若いからでしょうか。

 昨日はSちゃんから東京での様々な活動について教えてもらいました。「東京を離れる前にご挨拶に行くのだけど、もし都合が合えば一緒に行かない?」と誘ってくれた、北海道東京事務所。「私ですら、お嬢さんと呼んでくれるような年代の方々が事務所で働いていて。こんなイベントあるよとか教えてもらって、楽しいの」。

 Sちゃんは屋外で開催される北海道物産展などにも足を運び、ご当地の食材などを買って応援していたようです。

「たくさんのブースがあってね。秩父別(ちっぷべつ)の人たちが、『誰も秩父別なんて知らないんですよ』なんて言うと、じゃあ特産のトマトジュース買いましょうとか、あの町の特産品、この町の特産品…とあちこち回って買っているうちに、袋がいっぱいになるの。それが楽しくて、もっと前から来れば良かったと後悔したりして」と笑うSちゃん。

「秩父別!!20年ぶりぐらいにその名前聞いた!」とのけぞるMちゃんと私。「秩父別の特産がトマトジュースだなんて、知らなかった!」

「東川町からはね、お米を買うの」

「東川町、やっと思い出した!あそこはお米の産地だった」。上川郡東川町がいま本州からの移住者が多く注目されているという話にピンと来なかった私は、東川町は他に何かあったような…と考えを巡らせ、Sちゃんの言葉に膝を打ったのでした。

「そうそう、ゆめぴりか」とMちゃん。ここから、道内のあちこちの自治体の話で盛り上がります。

 Sちゃんは小さな出版社が出しているフリーペーパーを折る作業もずっとお手伝いしています。そのほかにも英国在住時の知り合いが出版した北海道の本を日本に広めるために尽力されたり、高校の同窓会のお世話係をしたり、と縁の下の力持ちなのです。これがSちゃんの一番の魅力で、Sちゃんと関わったたくさんの方々もそう感じていると思います。

 そんなSちゃんが東京を離れるのは寂しいですが、私が帰省したとき、Sちゃんが東京に来たときにまた会っておしゃべりするのを楽しみにすることにしました。まずは来月、我が家でSちゃんご夫婦、Mちゃんご夫婦と集うことに。かつて集ったときに持ち寄った得意料理をもう一度作ろう、今回はワインに加えて日本酒もだね、と盛り上がりました。

3月が楽しみです。

 

2025年2月6日木曜日

心が洗われる日 

  本当に、心が洗われます。月に一度の地元公立小学校での絵本の読み聞かせの時間です。今日は一年生のクラスを担当しました。

 一昨日、手持ちの絵本の中から冬の本二冊を選び、昨日、娘に聞いてもらいました。両方の本とも子供たちが小さいころに読んだ本で、娘も内容を覚えていますが、改めて聞いてもらうのです。

 一冊目はお友達ができないと泣く子ネズミと、泣くのことが嫌いな金魚のお話「ふゆのはなさいた」(アリス館)。もう一冊はお母さんからはぐれてしまったオオカミの子が、シロクマのお母さんに時に厳しくそして愛情いっぱいに育てられるお話「あなたがおおきくなるひまで」(岩崎書店)です。

 二冊を読み聞かせた後、娘に感想を聞きました。

「明日は一年生なの。どちらがいいと思う?」

「私は、子ネズミと金魚の絵本が好き。私も小さいころお友達ができなくて悩んだことがあるから、とっても共感できるの」

「そうなんだね。お友達が自分を嫌いなんだって勘違いして泣く子ネズミ、可愛いよね。気が強い金魚が実は寂しがり屋のところもいい」

「うん。それに一年生だったら、オオカミの子とシロクマのお母さんの本はちょっと難しいかもしれない。ほら、違うお母さんに育ててもらったオオカミが、自分が大きくなったらシロクマの子を同じように育ててあげるっていう、なんていうか、愛の話でしょう。いい話なんだけど、一年生に分かるかなぁ?」

「確かに。お友達が出来ずに悩んだ子ネズミが金魚とお友達になる話のほうが分かりやすいし、心に届くかもね」

「うん」

 ということで、「ふゆのはなさいた」に決まりました。


 そして、今日。一年二組の教室に入ると、子供たちが元気いっぱい「おはようございます!よろしくお願いします!」と挨拶してくれます。

「おはようございます! 今日は『ふゆのはなさいた』という本を読みます。後ろに座っている人、見えますか?」

「見えま~す」

「はーい。では、始めます。『はじめての冬をむかえたこねずみが、池の水になみだをぽちゃんとおとしました。するとー。『なくのはやめてよ』池の中から声がしました…」

 そのページにはまだ金魚が出てきません。すると…。

「えー、何だろう?」

「魚?」

「鳥かなぁ?」

 あー、一年生、本当に可愛い。この一瞬、一瞬が愛おしくてたまらない。その後も、一ページ読むごとに可愛らしい反応があり、私はたっぷりと間を取って、子供たちを見渡し、その間を楽しませてもらいます。

 読み終えると、先生が、「では、皆さん、ご挨拶してください」。日直の子が言います。

「姿勢を正して」。おおっ、さすが、日本の子供たち、偉いぞ!

 私も姿勢を正します。

「ありがとうございました」と子供たちが大きな声でお礼を言ってくれます。

「ありがとうございました」。私もお礼を言います。

 すると、前に座っていた子が私に話しかけてくれました。

「何年生のお母さん?」

「卒業生のお母さんだよ。今ね、中学校1年生なの。去年までここにいたんだよ」

「そうなんだぁ」

 在校生のお母さんによる絵本の読み聞かせボランティアグループでは、卒業生のお母さんたちも引き続き、「卒業生ユニット」として活動に参加させてもらえます。こういう、素敵な時間をもらえることに心から感謝です。

2025年2月5日水曜日

捨てられない_出産時にもらった洗剤のボトル

  私は筋金入りの捨てられない人間です。このブログでも何度もそのことを書いてきました。読者の方々の中にも捨てられない方はいらっしゃるとは思いますが、おそらく、私よりは捨てられるのではと想像します。

 この洗剤のボトル、中身はかなり前に使い切りましたが、これが捨てられません。もらったのは13年前。息子を出産した病院から、出産準備品としてもらった試供品の一つです。

捨てられない、洗剤のボトル

 これを見ると、息子の出産を楽しみにしていた時間、息子を出産してほっとして幸せに浸った時間を思い出すのです。なにせ、いろいろ乗り越えた後の46歳での待望の出産で、なんとしてでも無事出産したいーと神様に祈る日々を送っていましたので。

 でも、いくら良い思い出と一緒になっていても、洗剤のボトルはさすがに皆さん、捨てますよね。写真を写す、思い出のものはボックス一つなど量を決める、などなど捨てられない人のためのアドバイスは世の中に溢れていますし。

 それでも、やっぱり私は捨てられない。この中身でさえ、最初の5,6年は使えずにいて、でも「いくら洗剤とはいえ、消費期限はあるだろう」と自分を説得して、身を引きちぎられる思いで使いました(大げさ…)。

 実はこのボトル、昨年末のメルボルン旅行で久しぶりに使いました。娘が洗濯物をたくさんためて寮に置いてきたというので、母親の務めとして私がしてあげなければ…とこのボトルに洗剤を入れて持っていったのです。普段は棚の奥にしまってあるこのボトルも、久しぶりに出番が来て、喜んでいるような気がしました。

 このブログを読んで、物を捨てられず悩んでいる読者の方々が「あっ、私のほうがまだ捨てられるかも」と安心してくれたら、嬉しいです。もしかしたら、「分かる、分かる」と共感してくれる人がいるかもしれませんね。

 皆さんが捨てられないもの何ですか?

2025年2月4日火曜日

海老天重を食べながら…

  先週(29日)に築地の国立がん研究センター中央病院を受診しました。一昨年末に胃がんの手術をしてから、初めての胃カメラ検査です。

 その日のうちに結果が出て、悪性リンパ腫、胃がんともに所見なしでした。昨年10月には約20年間服用し続けた自己免疫疾患の薬も終わり、本当の意味で健康になった気がします。

 わたしはいつもこの病院を「わたしの居場所」と思ってきました。多くの患者さんが治療が効かずにこの病院を去っていく中、私は30代に罹患し2度再発した悪性リンパ腫も、治癒に時間のかかった2つの自己免疫疾患も、病気を忘れたころに罹患した胃がんも、全て治してもらいました。

 ここは闘いの場であり、治療が本当に大変なときもありましたが、なぜかここに来るとほっとする。主治医や他の医師、看護師の方々に良い治療をしていただいたとともに、「私は見捨てられていない」と信頼感を持ち続けられた。医療スタッフの方々、そして病院の運営を支える事務の方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。

 夫も母も、がん専門のこの病院でなければ、わたしは生きていなかったと断言します。わたしもそう思います。病院を何件受診しても体調不良の原因を発見してもらえず、ようやく悪性リンパ腫の診断を下してくれた都内の総合病院の血液内科医師・藤枝先生。藤枝先生が「あなたの病気は、チームで治療をしてもらったほうが良い。どこでも紹介状を書きます」と仰ってくれ、当時の国立がんセンター中央病院血液内科長の飛内先生につなげていただき、今に至ります(飛内先生は定年退職されました)。

 飛内先生には悪性リンパ腫だけでなく、国指定難病の2つの自己免疫疾患も治していただきました。他の病気で別の病院を受診し、私の病歴に関心を持った熟練の医師から治療法を尋ねられ答えると、「そうきたか…」とつぶやいたのを今も鮮明に覚えています。それほどに、私は良い治療をしていただきました。

 同じ敷地内の、病院の隣の隣に、がん専門の研究所があります。たくさんの優秀な研究者らが癌撲滅を目指ししのぎを削っています。私もそこに博士課程研究者として所属しています。

 幸運にも良い治療を受け、生き残った者として、役に立ちたいという思いで研究の道に入りましたが、私は研究者に向いていないらしいとつくづく思います。研究とは直接関係ないところで辛い思いをすることが多く、つい先日も耐えきれずにトイレに駆け込み、泣きました。この年になっても、あるんですね。耐えられずに泣いてしまうことが。

 「あなたはここでは不用な人間です」と言われているような気がしてならない。「あなたの居場所はここではない。隣の病院に戻ってください」と。

 さて、30日は鎮静剤を使い、寝ている間に胃カメラ検査をしてもらいました。私は20代のころから胃潰瘍を患い、これまで数え切れないほど胃カメラ検査をしていて体が胃カメラを受け付けず、鎮静剤なしでは検査が出来ません。

 鎮静剤を使うと、検査後も1時間以上は目が覚めません。その日も目が覚めたときには、すでに飲食禁止の時間は過ぎていて、食事が出来る時間になっていました。当然のことながら、前日夜8時以降は何も食べていないためお腹がすいていたので、19階の眺めの良いレストランに行きました。

 かつて、築地市場が病院の前にあったときは、大きな海老フライが定番メニューであり時折食べていました。母も夫もこの海老フライが大好きでした。がんと闘う娘・妻の見舞いに来るという気の重い時間、母と夫は美味しい食事をすることで気晴らしをしていたと思います。

 残念ながら、その海老フライがなくなって久しい。海老フライがなくなってからは、普通のランチメニューを食べていましたが、今回はなぜかあの大きな海老フライを思い出したので、代わりに海老天重をオーダーしてみました。そして、つらつらとこれまでを振り返りました。

国立がん研究センター中央病院の19階レストランで食べた海老天重

 この病院には20年以上3ヶ月以上開けることなく、通っています。入院も何度もしました。でも、おそらく今回の検査結果を受け、昨年には薬も終了したことから、通院の間隔が開きそうな気がします。親元からなかなか自立できない子供のようですが、私はこの病院(この敷地)から離れ、社会のどこかに自分の居場所を真剣に探す必要がありそうです。

 ここで食事をするのも、もう最後にしたいー。美味しい海老天重を食べながら、初めてそう思いました。いつまでもずるずるとここに居座る私に、神様が「おまえの居場所はここじゃないぞ」と言っているような気がしてきました。

 

2025年2月3日月曜日

鬼は外 福は内

  昨日は節分でしたね。皆さん、恵方巻きを食べ、豆まきをされましたでしょうか? 我が家では例年通り、両方とも完了。毎年していることなのに今年は新しい発見があり、面白かったです。

 北海道以外では豆まきの豆は殻付き落花生ではなく、大豆だということを知ったのは10年ほど前でしょうか。あのときは衝撃でした。何せ近隣のスーパーに殻付き落花生が売っていないのは、売り切れているからだと思っていましたから。殻付き落花生をまくのは、雪の積もった庭にまいたときに拾いやすいのが理由ということを知ったのもそのときでした。

 今年の新しい発見は、2月1日の朝日新聞の記事からでした。読者への豆まきについてのアンケートで、「馴染みのあるかけ声」はと聞いたところ、なんと90%が「福は内、鬼は外」と答えていたことです。

 私はこれまでずっと、「鬼は外、福は内」と信じており、我が家でもそのかけ声で豆をまいてきました。逆の言い方があることには全く気が付きませんでした。で、昨日、スーパーに行ってアナウンスに耳を澄ませてみると、なんと、「福は内、鬼は外」と言っているではありませんか。

 いやぁ、驚きました。ただ、新聞記事では「『鬼は外、福は内』といういう人も一定数いる」と書いており、その理由として東京の50代の男性が「鬼を追い出してから福を入れるのです」と答えています。私は断然、その意見に賛成です。

 子供たちに聞いても、「最初に鬼を家から出さなきゃ」と答えましたので、やっぱり我が家はこれからも、「鬼は外、福は内」で行きたいと思います。

豆まきは殻付き落花生で

 さて、今年も張り切って恵方巻きを作りました。残念ながら恵方巻きが嫌いな子供たちには納豆巻きを用意。食べる方角を調べると今年は西南西ということですので、コンパスで方角を調べ、全員で西南西を向いて食べました。母にも2本作って持っていきました。

恵方巻きも作りました

 ふと、豆まきをする時間帯はあるのか調べてみますと、正解は夜とありました。立春の前日の夜に訪れる鬼(邪気や災厄)を追い払うためだそうです。我が家では何となく夜にしていましたので、良かった。

 夜、豆まきをして落花生をひとしきり食べた後、今年は子供たちが「ピーナツバター」を作っていました。これが、結構美味しかった。

「鬼は外 福は内」

 

いっぱい集めた「福」

ピーナツバターを作ります

豆まきは家族全員が大好きな行事。来年も大声で、「鬼は外、福は内」が出来ますように。

出来上がったピーナツバター。結構、美味しい

2025年2月2日日曜日

ししゃもの思い出 

  先日、ししゃもの思い出話を書きました。すると翌日、北海道伊達市に住む従姉妹のジュンちゃんからブログを読んだというラインがあり、「私も幼い頃の鵡川を懐かしく思い出していました」と思い出話をつづってくれました。

 ジュンちゃんは私より5歳年上で、私が小さいころからお姉ちゃんのように慕っている人。今もラインや電話での交流は続いていて、子育ての話や趣味の話で盛り上がります。一人っ子の私にとって、昔話を一緒に出来るジュンちゃんはとってもありがたい存在なのです。

 ジュンちゃんのししゃもの思い出は、私たちの伯母「とこちゃん」の家です。とこちゃんの家は魚屋さんと仕出し屋さんをしていました。ジュンちゃんは、「とこちゃんの家の庭には時期になると、ビックリする程たくさんのししゃもを暖簾のように干してあり、3匹の番犬がカラスや猫からししゃもを守っていました」と振り返ります。

 私の鵡川町(2006年に穂別町と合併し「むかわ町」となりました)の思い出は断片的で、とこちゃんの家で思い出すのは居間や屋根裏部屋にあった従姉妹のチーちゃんの部屋ですが、ジュンちゃんの思い出話からじわじわと庭の風景を思い出してきました。

 ジュンちゃんはとこちゃんの家に遊びに行ったとき、仕出し弁当の余ったおかずを縁側に座って、従姉妹たちとおしゃべりしながら、干してあったししゃもを見ながら食べたそうです。

「伯父ちゃんが、カラカラに干せたししゃも(珍味)を大きな石の上で金槌でたたいて食べたこと、そのししゃもが、ビックリするくらい美味しかったこと」という話も、その様子が目に浮かぶようで、いつも明るく元気いっぱいのとこちゃんや優しい伯父(二人とも天国にいます)を思い出し、懐かしさで胸がいっぱいになりました。

 そういえば、鵡川町を懐かしがる母は、札幌からこちらに引っ越す前に「付き添うから、鵡川町に行こう」と強く勧めましたが、「いや、いい」ときっぱりと首を横に振りました。お別れをしに行くようで嫌だという理由でした。母にとっては、昔の思い出を持ち続け、懐かしく思い出すほうが良かったのでしょう。

 ジュンちゃんのラインで、ししゃもと鵡川町の思い出が深まりました。自分の思い出とジュンちゃんの思い出をつなぎ合わせながら、大切にしていきたいと思います。

2025年2月1日土曜日

子供たちも夕飯作り

  先週から、帰国中の娘が夕ご飯作りのローテーションに入ってくれました。一昨日は豚の肩ロースを使って、ローストポークを作ってくれました。「ママの焼豚のレシピ教える?」と聞くと、「今回は自分で作ってみる!」と新しい味に挑戦。とても美味しく出来ました。

 昨日は私の番で、サーモンとキャベツスープを作る予定でしたが、なかなか取りかかれないでいると中一の息子が「ママ、僕が作ろうか?」と言ってくれました。「お願い!」と頼むと、息子は「オッケー」と機嫌良くキッチンへ。

「ママ、キャベツスープどう作るの?」

「ベーコンを小さく切ってオリーブオイルで炒めて、ザクザク切ったキャベツを加えて、しんなりするまで炒めて、水を入れて煮るの」

「オッケー。コンソメ入れるんだよね。いくつ?」

「今回はキャベツの量が4分の1だから、1個でいいよ。コショウもね」

「オッケー。サーモンもオリーブオイルで焼くんだよね」

「うん。味付けは塩・コショウ、ローズマリー忘れないでね」

「おおっ、ローズマリー久しぶりじゃん」

「うん」

 そんな感じで口頭で指示すると、息子はちゃんと一人で作ってくれました。あとは私がスナップエンドウの筋を取って(こういう作業はコツがいり、子供たちはまだ苦手なので私がやります)ゆでて、ミニトマトを添えて、完了。

キャベツスープをよそう息子息子

 我が家の子供たちは2人とも大の料理好き。2日続けて楽をさせてもらい、ラッキーでした。