昨日、不思議な出来事があったので、皆さんと共有したいと思います。このような出来事に意味づけするか、しないかは、人によってまちまちだと思います。私は意味があってのことではと受け止め、その意味について考えを巡らせています。
昨日の朝、霊を呼び降ろすイタコさんに会って亡父の霊を降ろしてもらったときの録音テープを聞きました。昨年10月末、青森県八戸市にイタコさんに会いに行ってから初めてです。実は、そのときイタコさんの語りから、イタコさんは父を呼んでいない・もしくは呼んだのは父ではないーと思ったため、その後その録音を聞いていなかったのです。
イタコさんの声を聞きながら、テープ起こしをしました。イタコさんは父の代わりに話していることになっています。その話している内容、話ぶり、使われている語彙を改めて確認しても、やはり父ではないな、と思いました。話があまりに一般的だし、父があのようなことを言うはずがない、父はあのような言い回しはしないーと一文一文、そう思いました。
100歩譲って、言い回しや話し方、使う語彙はイタコさんのものだとしても、話が抽象的過ぎ、霊を降ろす前に命日・病気や死因を申込書に記すことになっていますので、それに寄せた話をすることはいくらでも可能だーという内容だったからです。
テープ起こしを終えて、昼食を取り、車の洗車に行こうと思いました。もう15、6年は乗っているこの年季の入った車は実は父が買ってくれたもの。当時、私の体調が悪く、電車で1時間かけて病院に行くのは大変だろう、車なら少しは楽なのではないか、と買ってくれた、今となっては父の大切な形見です。
ですので、古くなりましたが、とても大事に乗っています。洗車も定期的に行っています。運転が乱暴な夫が付けた傷、自転車の出し入れで子供たちが付けた傷と満身創痍の車ですが、修理をまめにしており、これからも大事に乗っていこうと思っています。
で、いつも洗車をしてもらうガソリンスタンドに行きました。すると、店員さんが申し訳なさそうな顔で、「洗車の機械が壊れているんです」と言います。珍しいこともあるなぁと思いつつ、別のガソリンスタンドに行きました。ここは我が家から少し遠いのですが、とにかく、車をきれいにしたかった。
そして、そのガソリンスタンドでも、その日は予約がいっぱいで洗車はできないと断られました。2件断られ、ガソリンスタンドはもう近くにはないので、諦めて、自宅に戻ることにしました。
右折かUターンをしようとしましたが、走っても走っても、Uターン禁止か、右折したい道路は進入禁止のサインが立てられています。しばらく走って、ようやく、右折ができる道路がありました。そして、そこの道路に入ると、道路はすぐ行き止まりになり、目の前にお寺が現れました。
お寺は真言宗智山派という、父の家の宗派門派のお寺でした。私と母は昨年、札幌のこの門派の納骨堂から、父の遺骨をこちらに移してきており、来月は父の13回忌で、現在母のマンションの仏壇の横に置いてある遺骨を、門派は違いますが高野山真言宗の納骨堂に納めることになっています。
真言宗は沢山門派があるようですが、父の家の門派のお寺にたどり着いて、びっくりしました。何せ、父の形見の車に乗り、2つのガソリンスタンドで洗車を断られ、自宅に戻るためのUターンや右折も出来ず、ようやく右折でき、入った道路がすぐ行き止まりで目の前に父の宗派門派のお寺があったのですから。
父は私に何か言いたかったのかなぁ、と思いました。ここずっと、気持ちが落ち込むことが続いており、一人でいるときは時々、年甲斐もなく、”お父さん”と呼びかけ、泣くこともしばしばありましたので、励ましてくれたのかもしれません。
父の生前は特に仲が良かったわけでもないのですが、父が亡くなりお葬式の席で、父方の従姉妹に私は父の自慢の娘だったーと聞かされました(従姉妹が私を慰めるために言ってくれたのかもしれませんが)。その従姉妹の一言で、自分に自信のなかった私も、これからの人生を何とか生きられるーと思いました。誰かに自分という存在を認めてもらえているという確信を、そのときの私は必要としていました(今もです)。
もしかしたら、納骨堂にまた入らなければならないのが、寂しいのかもしれないとも思いました。昨年3月末に札幌の納骨堂から遺骨を持ってきてから、ずっと母のマンションの仏壇の横に置いてありましたし、母の家に行くたびに父に手を合わせていましたので。
いや、先日、母が父の遺骨の袋を開いて具合が悪くなったと言っていましたので、もしかしたら、”寝た子を起こす”ではありませんが、穏やかに眠っていたのに、起こされてしまったと言いたかったのかもしれません。
まぁ、父はそういうことで文句を言うタイプではありませんので、私のことを天国から見守っていると伝えたかったのだと受け止めることにしました。
そこには土地勘はなかったので、お寺の写真を撮り、いくつか目印となる建物を頭に刻み込み、自宅に戻りました。そして、もう一度、そこのお寺に行きました。覚えた建物を頼りに、迷わずに行くことが出来ました。車を近くの駐車場に止めて、お寺にお参りをしました。こぢんまりとした、良い気が巡っているお寺でした。
お寺内のあちこちに、手を合わせました。その間、ずっと父に心の中で話しかけました。父と話ができたような気がしました。