2025年8月30日土曜日

みっちゃんの佃煮

  北海道むかわ町に住む従姉妹のみっちゃんから、佃煮が届きました。弟のアジさん(このニックネームで皆に親しまれていました)の四十九日法要が終わりご供養の品物と一緒に入っていました。

 みっちゃんの手紙には、アジさんは10年近く病気を患い入院していたため、しばらくは伯父さんとタツ伯母さんの仏壇の横にお骨を置いておきますーと書いてありました。アジさん、伯父さんとタツ伯母さんの側にいられるんだね。良かったね…。

 みっちゃんの佃煮はほかほかご飯の上に載せて食べても、おにぎりにして食べても本当に美味しかった。みっちゃんに電話をしてお礼をしたら、「お茶漬けも美味しいんだよ。試してみて」ととのこと。

 翌朝、お茶漬けにして食べたら、ほっぺたが落ちそうなぐらい美味しい。きっとこれはタツ伯母さんから引き継いだのかなぁと想像しました。

 私は一人っ子のため、従姉妹とのつながりをとても大切に思っています。みっちゃんの佃煮はお姉さんからの差し入れのような気がして、とっても嬉しかったのでした。



2025年8月29日金曜日

アサガオさらに

  昨日はアサガオが4つも咲いてくれました。夜、花壇のライトを消して3日後から連日青い花が咲いています。

 アサガオの葉っぱばかり育って、花が咲かないーというのは沢山の人の悩みらしく、ネットには同じような質問や助言がありました。アサガオは強い植物だと思っていましたが、繊細なんですね。

 この青いアサガオは数年前に採取した種。毎年、沢山の種が採れるのでそれを小さな紙の容器に入れて保存しており、今年「青いアサガオ」とラベルを貼った箱から種を取り出し、植えてみたら、咲いたので本当に嬉しい。自画自賛になりますが、綺麗ですよね。

 アサガオの種って、いったい何年持つのでしょう?



2025年8月28日木曜日

息子がパン作り

  我が家の中2の息子は、料理男子です。週末など、「ランチ作ってくれる?」などと頼めば、快くOKし、作ってくれます。

 昨日は久しぶりに美味しそうな舌平目を買ったので夕食時に調理しようと思っていたところ、ママ友との電話が長くなりました。すると、息子が寝室に来て、「ママ、僕作るよ。サラダ油?」と聞きます。「ううん、オリーブオイル」と答えると、「了解!」と言ってキッチンに戻りました。塩コショウして、片栗粉をまぶして、こんがりと焼いてくれました。

 夕食後は、パンも焼いてくれました。先日、急に「ママ、パンを作りたい」といい、私のパンのレシピ集から一つ選んで作ってくれました。が、あまり膨らみませんでした。息子曰く、「イースト菌が古いかも」と言うので、新しいものを購入。昨日、その買ったばかりのイースト菌で、同じパンに挑戦しました。

息子が焼いたパン。とっても美味しかった

 出来上がったパンは、外はカリカリ、中はモチモチとしてとっても美味しかった。先日のニョッキもそうでしたが、息子の作る料理は本当に美味しい。

2025年8月27日水曜日

やっとアサガオ咲いた!

  やっとアサガオが咲きました。とても綺麗な青色のアサガオです。

 今年は葉っぱばかり育ち、どうしたものかとインターネットで調べてみると、原因は花壇のライトかもしれないと思い当たりました。

 アサガオは夜一定時間の長さが続くことにより、つぼみが出来るようなのです。我が家は花壇にライトがあり、アサガオはその横に葉っぱを広げていました。それで3日前の夜から花壇と玄関前のライトを消しました。そうしたところ、何と、今朝、花が咲いたのです!

 アサガオは息子が小学校1年生のときに学校で育て種を持ち帰り、それから、毎年春に種を植え、花を楽しみ、秋にまた、種を採ってきました。種を植えるときも採るときも息子と一緒で、私の毎年の楽しみなのです。

 この青のアサガオは数年前の種です。もしかしたら、種が古いのかな?とも思いましたが、ちゃんと咲くんですね。

 

2025年8月24日日曜日

娘@メルボルンからの報告

  夫の5泊6日のメルボルン滞在は娘にとって、心の安定につながったようです。2人でマーケットや博物館、美術館、ビーチなどに行ったとのことで、娘にとっても心安らぐ時間だったと思います。

 そのほか、娘がなかなか出来ずにいた、学部長との面談も行けたということ。夫が面談室まで付き添い、娘1人で学部長と話すことができたそうです。

 そのときの学部長の話がとても考えさせられるものだったと娘が報告してくれました。娘は必修科目を落としてしまい、1年留年することになったのですが、その必修科目の評価の50%がレポートだったそうです。

 娘は他の科目の課題に追われて、このレポートにギリギリまで取り組まなかったため良いレポートを書くことが出来ず、結果的に単位を落としてしまいました。

 今回、学部長が娘に言ったのは、この50%の評価対象だったレポートを来年からはなくして、面談にすることになったということ。学生のレポートのどれがAIを使っているか、使っていないか、もうチェックできないからだそうです。

 たとえば普通のレポートで、他の論文をコピーしていたら、剽窃をチェックするソフトを使えばすぐ分かります。しかし、AI生成の文章は、AIを使った文章であるかどうかチェックするソフトが機能しなくなるほど、精度が高い、つまり、”オリジナル”に近いものになっているということらしいです。

 こうして、いろいろ便利になると、昔ながらの評価方法に戻るのですね。面談ですと先生の負担も増えるでしょうが、確実に学生の理解の程度が分かります。

 まぁ、どの評価方法であっても、来年はこの単位を落とさないでもらいたいーそう願うばかりです。

 

2025年8月23日土曜日

新人戦終わる

  今日、3日間の日程で行われた東京私立中学校バスケットボール大会が終わりました。連日2試合合計6試合あり、息子は6試合全部出場し、頑張りました。

 6試合中、息子の学校が勝ったのは1試合のみ。でも、負けた3試合が接戦で、もう2試合が、100点以上の大差が付いた試合でした。

 その大差がついた2チームは今大会の優勝、準優勝のチームでしたが、心構えも、練習の仕方も、気合いの入れ方も全く違い、全国大会に行くチームはこんなに違うものかーと観戦している方も勉強になりました。

 今朝、今回優勝したチームとの対戦でした。私と夫は試合開始30分前に会場となった中学校に到着しました。息子のチームと相手チームはコートの半面を使い、次の試合を待っています。

 相手チームはかなりの人数で、列を組んで、ステップなどボールを使わないエクササイズを大きなかけ声をかけてながらしていました。一方で、息子のチームはお行儀良く、皆でパイプ椅子に座っています。まず、心構えが違います。たぶん、息子のチームはこういう試合前の時間にやることが決まっていないのでしょう。

 そして、試合開始。最初の15秒ぐらいで相手チームがシュートを決めたのですが、相手チームの監督がタイムを取り、ものすごい形相で選手たちを叱っています。

「ねぇねぇ、今、シュート決めたのに、どうして?」と息子のチームのママたちは目を丸くしています。いやぁ、点数を取るだけじゃ駄目なんですね。強いチームは。

 その後、ものすごい勢いで点数を取られて、息子たちは圧倒的な力の差を見せつけられました。それでも息子が6点、ソウ君が6点取って、なんとか、一桁は避ける事が出来たのでした。

 息子はチームの中で一番身長が高いのですが、何せ、おっとりしていて、ボールに食らいついていくことがありません。リバウンドでボールを取っても、すぐ、パスをします。でも、ゴールに近く、シュートすれば、点数を入れる確率がそこそこ高い。今回の試合では、自分の課題がきっと見えたと思います。先生からも再三、リバウンドでボールを取って、シュート圏内だったら、パスをせずにシュートをするようにーと注意を受けたそうです。

 今朝は、フェイスタイムで義父母に息子の様子を見せました。夫は男4人兄弟で、兄と夫がバスケットボールをしていたため、義母がとても嬉しそうな表情をしていました。夫の両親も私たちも、息子に楽しませてもらった3日間だったのでした。

2025年8月22日金曜日

ばあちへのカード

  娘は私の母を「ばあち」と呼んでいます。言葉を話し出したころ、おばあちゃんと言うことた出来ず、舌っ足らずに「ばあち」と呼んでいて、それが定着しました。

 ばあちは娘をそれは可愛がっていますが、ここ半年ぐらい娘はばあちとのラインも見ず、電話にも出ないことが多いのです。母が悲しがり、時にさめざめと泣くので、私も何度か「せめてラインを読んで返信してあげて」と娘に頼むのですが、娘は「ラインを読むと返信書かなきゃと思ってプレッシャーになるから、ラインを読めないの。ばあちには本当に申し訳ないんだけど」と言います。

 ここ数ヶ月、娘は精神的に不安定で私たちからの電話に出ないことも、メールを開かないことも頻繁にありましたので、ましてや、ばあちの電話には出ないのは仕方ないと思っています。母には事情を説明していますが、母にとっては生きがいであり、誰よりも愛する孫とやり取りできないのは、かなり堪えるようです。が、私にできることはプレッシャーにならない程度に娘にお願いするだけ。

 嬉しいことに、昨日、夫がメルボルンから帰国して娘からの私と母へのカードを持ち帰ってきました。息子のバスケットボールの試合から帰ってきて、すぐ母のところに届けに行きました。母は涙を浮かべて喜んでいました。

 ああ、良かった、良かった…。

 

2025年8月21日木曜日

バスケ新人戦観戦

  今日から東京私立中学校バスケットボール大会が始まりました。

試合に向かう選手たち。息子は青のユニフォームのチーム

  息子を、厳しい中学校受験で闘わせた理由はこれ。運動部活動を通年で存分に楽しませたかったからです。娘はインターナショナルスクールに入れましたが、息子はあえて運動部の活動が活発な、日本の教育システムの中で育てようと思いました。

 インターナショナルスクールは夏休みが3ヶ月近くあり、その間、運動部活動もほとんど行われません。また、学期ごとに所属クラブを変えて、いろいろなスポーツを体験させることに主眼を置いているよう。一方、日本の学校では中学校3年間、中高一貫校でしたら6年間通して同じ部で活動することも出来、夏休み、冬休みも活動が行われます。

 勉強や他の物事に深い興味を示さない息子も部活動だけは別。日々の練習だけでなく、夏休みも冬休みも楽しそうに通っています。私にとっても、日々汗を流して練習した部活動は大切な思い出です。

 息子のチーム5人のうち、息子とソウとヒロトは同じクラスで、大の仲良し。今日はソウとヒロトのママと兄弟も来ており、一緒に応援しました。メルボルンから今朝帰国した夫も観戦しました。

 息子はリーグ戦の2試合ほぼ出場しました。スタミナ切れで途中、ベンチに引っ込むこともありましたが、また、すぐ復活。1試合目は41対35と惜敗。強豪と戦った2試合目は何と107対11と完敗でしたが、頑張りました。

 ママたちと、互いの息子たちにも「ヒロト、行け行け!」「ソウ、ナイスシュート!」「ナイスディフェンス!」と大声援を送ります。2試合目は相手チームの点数の入り方があまりに早く、「このままの勢いだったら、点数3桁行っちゃう?」「早く試合終わってほしい!」などと言い合いながら、大笑い。ソウもヒロトも気持ちの良い青年で、ママたちも親しみやすくて、「こういう時間って、楽しいなぁ」と心も和みます。

 試合後、私たちの所に子どもたちが来ました。息子がチームメートたちと肩を組んだり、楽しそうに話している様子を写真に収めました。日本の学校に入れて、本当に良かったと思ったのでした。

 

2025年8月20日水曜日

友を見送り、心に誓ったこと

  ママ友を見送った夜、仲間の1人と夜電話で話をしました。

 その友達は「本当はありがとうって伝えたかった。でも、ありがとうって言ってしまったら、さよならすることになってしまうような気がして、言えなかった」とすすり泣きました。私も「治るって信じていたよね、皆。入院長くなるってことは、治療できるということだから良かったって…」と泣きました。

 そう、治ると信じていました。病院にお見舞いに行ったときは、「退院したら、皆で花火しようね」とか、「また、美味しいもの食べに行こうね」と励ましていたし、また、それが出来ると、疑わなかった。

 メルボルンにいる娘からファイスタイムで連絡がきました。娘は「私でさえ、こんなに悲しいのだから、仲の良かったママはどれほど悲しいだろうと思う」と涙ぐみました。

 一緒に告別式に参列した息子も、式の間、何度も私の肩を抱いてくれました。こうして、子どもたちが私の友達の死を悼み、私の気持ちに寄り添ってくれ、嬉しかった。 

 私たち友人でさえ、受け止められないのです。ましてや、ご家族の悲しみはいかばかりかと胸が詰まります。

 今日はゆきちゃんのことを思いながら、自分の人生について思いを巡らせました。私もがんの闘病期間が長かったのですが、治療が効き、今は普通の暮らしが出来るようになっています。それを最近は当たり前のように思ってしまっているかもしれないと。

 ゆきちゃんは家族と友人との時間をとても大切にしていました。私もゆきちゃんを見習い、こうして奇跡的に生かされていることに感謝し、家族や友人たちとの時間をもっともっと大切にしようと心に誓いました。

2025年8月19日火曜日

ママ友を見送る

  昨日、大切なママ友を見送りました。日の光が差し込む美しい教会で開かれた告別式は、皆に愛されていたゆきちゃんにふさわしい、心に残る式でした。

 ご親族、学生時代からの友人、ママ友とその子どもたち、高2の息子と中2の娘の部活動の仲間たち、そしてご主人の会社の方々と沢山の人が訪れ、教会の1階、2階、そして地下にも人が溢れました。

 式が始まり、最初に歌った賛美歌は「ことりたちは」でした。これは、私たちの子どもが通った教会付属の幼稚園でよく歌った歌でした。

 その歌を歌い始めた途端、ご主人がむせび泣きました。まだ小さかった子どもたち、そして私たち母親も折々に一緒に歌ったこの歌は、ご主人にとっても大切な思い出なのだと思いました。

 賛美歌を歌い、牧師さんのお言葉を聞きながら、その教会で開かれた礼拝、クリスマス会、卒園式、そして母親たちのハンドベルサークルなど、ゆきちゃんとの楽しい思い出が次々と蘇りました。

 最後にご主人が挨拶をされました。教会で葬儀を行えたこと、沢山の人に来ていただいたことに感謝するとともに、ゆきちゃんとの思い出にも触れました。2人は前職場で知り合い、ご主人がゆきちゃんを大好きで、結婚に至ったそうです。ゆきちゃんは約9年間闘病しましたが、この春まで治療で外見が変わることがなく、美しい姿のままでした。

 ゆきちゃんは治療で髪を失うことを何よりも嫌がっていました。ご主人にとって、そして子どもたちにとって美しい妻・ママでいたかったのだと思います。

 ご主人は最後に「ゆきと過ごした日々は本当に幸せでした。ゆき、大好きだよ」と声を詰まらせながら、遺影に語りかけました。

 子どもたちも立派に挨拶し、式次第にとても素敵な言葉を残していました。子どもたちにとってママは自分たちを一番に考えてくれる、どんな時も味方でいてくれる人で、2人ともママのお料理が大好きだったそうです。

 式の後、ゆきちゃんの眠る棺は沢山の白い花で埋め尽くされ、家族と親しい友人と一緒に教会を出ました。教会の横の公園の前には参列者が並び、ゆきちゃんを見送りました。広い公園の端まで続く長い長い列でした。

 葬儀の前日、ゆきちゃんとママ友4人のライングループにご主人からメッセージが送られてきました。一緒にゆきちゃんを見送ってほしいーという依頼でした。ゆきちゃんの死を受け止められない私たちにとって、その申し出はとても嬉しくありがたかった。そして、ゆきちゃんが荼毘に付されるまで、見守りました。 

 ゆきちゃんがどう生きてきたかーはお別れの場面にしっかり表れていました。ゆきちゃんは家族と友人を愛し、絆の強い良い家庭を築き、深い友情を結び、沢山の人に愛されていました。

 ゆきちゃんがいなくなって、皆が寂しく悲しい気持ちでいっぱいです。ゆきちゃん、今まで本当にありがとう。天国ではもう苦しくないよね。ぐっすり眠ってください。

2025年8月18日月曜日

ニョッキ

  料理好きな中2の息子が、ニョッキを作ってくれました。ニョッキはジャガイモと小麦粉で作るショートパスタ。私も夫も一度も作ったことがないのですが、料理を紹介するユーチューブの動画を見て作ってみようと思ったようです。

 まずはジャガイモの皮を丁寧にむき、ゆでます。「ママ、ジャガイモって水からゆでるんだっけ? それとも水が沸騰してからゆでるんだっけ?」と息子。「水からだよ」と答えましたが、こういう手順って実は説明の中で省かれるんですよね。「塩コショウを適宜」なんというのもそうですが、これらの”料理の基本”は小さいころから身に付けたいもの。

 息子はのんびりとした性格ですので、ジャガイモがちょうど良い固さになるでじっくりと待ち、ゆで上がって水分を切ったジャガイモをこれまた丁寧にざるでこしていきます。その作業を横で見ていましたが、いやぁ、私には出来ません。時間がかかり過ぎて。

ゆでたジャガイモを丁寧にこす息子

 ジャガイモを完全にこした後は、少しずつ小麦粉を入れて、こねていきます。そして、ちょうど良い固さになった種を丸めてボウルに入れ、冷蔵庫へ。


ジャガイモに小麦粉を入れてこねる

種は形よく丸めて

 そして、次はトマトソースです。鶏の挽き肉とみじん切りしたタマネギを炒めて、缶入りトマトを加えていきます。これは息子も時折作っていますので、慣れたもの。

 ただ、タマネギを切っている最中に涙が出るようです。私はそういうことはほとんどないので、こういう目の反応も”若さ”なのかもしれません。小さいころは水泳で使う水中メガネをしてみじん切りをしていた息子ですが、最近は、そういうこともしなくなりました。あれはあれで、可愛かったのですが…。

「トマト缶二つだから、コンソメ1個かな。隠し味の砂糖忘れないでね。コショウとイタリアンパセリもだよ」と遠くから声をかける私。「了解!」と息子。料理の最中にも、近くにいなくてもいいので、料理好き男子は手がかかりません。

 さて、出来上がったニョッキ。モチモチしていて、なめらかで、小麦粉の分量の多さによる固まりもなく、柔らかすぎず、適度な塩味で、お世辞抜きでレストランで食べるより美味しかった。

息子が作ったニョッキとトマトソース

 本当に美味しいので、つい、つい、「すっごく美味しいよ。ねぇねぇ、将来シェフになったら? カリフォルニアにクッキングアカデミーがあるの…」と将来の話につなげてしまいます。

「そうだね、それもいいかもね」とニッコリ微笑む息子。この手の話には一切のらず、いつもの、のらりくらりの反応。こんなに美味しい料理を中2の息子が作ってくれたんだから、「美味しいね、最高だね」でとめておけばいいものを、つい…。

 子どもの良いところを伸ばしてあげたい。全面的にサポートしたいーついつい前のめりになってしまうんです。こういうの、やめておこうと自戒しました。

 息子は私や夫が食事の時間に帰れなくて、事前に食事の準備も出来ないときも、「大丈夫、自分で何か作って食べるから」と淡々としているタイプ。そして、こうして時々料理を振る舞ってくれます。本当に助かるのです。


 

2025年8月17日日曜日

夫がメルボルンへ

  一昨日の8月15日、夫が娘の留学先のメルボルンへ向かいました。6日間の日程です。娘が先週、大学のクリニックで診断を受けたため、夫に行ってもらいました。

 娘はこの数ヶ月、精神的に不安定な日々が続いていました。毎日のように電話やフェイスタイムで連絡をしましたが、電話がつながらないことも多く、心配な日々でした。

 6月下旬から7月上旬にかけて、私が娘の様子を見に行ったときは娘は幸せいっぱいの表情をしていました。私もとても幸せで、娘と楽しい時間を過ごしました。が、私が帰国して数日後からぐんと落ち込み、連絡もなかなか取れなくなったのです。たまにフェイスタイムで話すと、「大丈夫だよ、電話にでられなくてごめんね」と言いながら、顔にはニキビが吹き出ていることも何度もありました。

 一度は1人で夜中に海に行っていたこともあり、このときは心配で寝られませんでした。たまたま、夫が娘の電話に位置情報を検索できる機能を付けており、それで分かりました。未明に電話をかけ続け、夫の電話がつながり、寮に帰るまで電話で話し続け、寮の部屋に入るのを”見届けた”こともあります。

 この機能を夫が付けたのは娘が高校生のときで、「娘のプライバシーに踏み込むのは良くないと思う」と指摘をしましたが、今となっては夫の心配性が功を奏した形になりました。

 何度も夫に行ったほうがいい、と勧めましたが、娘に聞くと「大丈夫」と言います。ですので、夫も躊躇して、なかなか行く決断が出来ませんでした。私のほうも中2の息子を夫に預けて娘のところに行って息子に申し訳ないという気持ちと、私自身博士論文を抱えていることから、もう一度娘のところに行く決断が出来ませんでした。

 また、夫と私は、常々娘の心配をして、あれこれサポートしてきましたので、親元から離れた今が自立のときかもしれない、その自立のプロセスを阻んではいけないーという葛藤もありました。一方で、娘の安否の心配も常にありました。このように、ずっと膠着状態が続いていたのです。

 娘が落ち込んだ理由は、必修単位を落としたことでした。娘はアート専攻で、実際に絵を描く実技だけでなく、アートの歴史など必修の講義もあります。その必修講義は6つあり、それはすべてつながっており、1番目の講義をパスしたら2番目を受講でき、2番目がパスしたら3番目が受講できるという形で連なっています。そして、それぞれが1年に一度しか受講機会がなく、一つを落とすと丸一年卒業が延びる形になるのです。娘は3番目を落として4番目を受講できない状態となり、卒業が1年延びたのです。

 そのような講義の仕組みはどこの大学でもありますが、6つがつながっているのは聞いたことがありません。学生のプレッシャーたるや、大変なものだと思います。オーストラリアの大学は3年なので、1年延びても日本やアメリカの大学と同じ4年間から大丈夫ーと慰めたのですが、娘は深く落ち込み、そこからなかなか上がってはきませんでした。

 よくよく聞くと、娘は権威的なもの(教師や大学の窓口など)に対する恐怖心がひどく、今や先生や大学からのメールも開けないとのことでした。中高時代から「先生が怖い」と言っていて、私や夫が娘の絵の才能を引き出してくれたと感謝するアートの先生でさえも、「怖い」と言って縮こまっていました。

 また、国際バカロレア(IB、国際的に通用する大学入学資格)の課程が大変だったことも尾を引いているようでした。娘はIBの中でも日本語と英語のバイリンガルで取得しましたのでさらに難易度も高く、プレッシャーもかなりあったのだと思います。夫と私の娘への期待もプレッシャーになっていたのかもしれません。

 メールを開けないことについては、私は娘にこう助言しました。

「やらなければならないことは皆、なかなか着手出来ないもの。それに、やる気なんてそもそも出ないもの。だから、朝起きたら5つだけメールを見るとか時間を決めて、感情を入れないで淡々と作業をするようにしたほうがいい。ママも落ち込んだり、気分が塞いだりすることが多くて生きるのが難しいと日々感じている。で、いろいろ本を読んで取り組んでみたの。これまで一番効果があったのは、原因に迫る心理療法じゃなくて、日々作業をすることで心の重荷を軽くしていく療法だった。だから、試してみて」

 でも、その助言は娘によると「聞いたときは、そうだな、それはいい方法かもしれないと思うの。でも、やっぱり怖くてメールが開けられない」と言います。

 夫はこう対処しました。

「じゃあ、電話でそのメールをダディにシェアしてくれないか?一緒に一つ一つ片付けていこう」

 娘はしぶしぶメールを夫とシェアしました。夫がそれを読み上げていき、締め切りが終わったものはどうしたらいいか、返信のメールの文面はどうしたらいいか、と実際の手続きを一緒にしていきました。娘と夫はそのとき20通ほどのメールを対処しました。それが終わったときの娘の表情はすっきりとしていました。私のように方向性を示すのではなく、実際に一緒に取り組むことが大切なんだと、夫に学びました。

 娘はすでに大学のカウンセラーに相談していました。でも、カウンセラーからのアドバイスは的が外れていました。娘によると、助言は「日本の先生は厳しく時に暴力も振るうと聞いている。オーストラリアではそんな先生はいないから大丈夫」というものだったといいます。娘は反論したようですが、心の問題を抱える学生に知識と経験に裏打ちされたものではない、見聞きした情報で浅い助言をするカウンセラーにはがっかりしました。

 夫と私で大学のクリニックを受診するようにーと助言しました。娘は大学内のクリニックの一般内科を受診。そこで、先日、「不安症」「パニック症」と「軽度のうつ病」の診断を受け、精神科の医師へ紹介してくれることになったようでした。その医師によると、娘はまだ若いので薬の影響もあるため、なるべく薬を使わず、カウンセリングなどで対処した方が良いということでした。

 診断を受ける前日の娘の顔はニキビだらけで、目もむくんでいました。泣きはらしたような目でした。でも、翌日、診断を受けたときの娘の表情は明るくすっきりとしていました。「診断下ってほっとしたでしょう?」と聞くと、娘は「うん、ほっとした」と言っていました。診断が下りさえすれば、対処方法も分かりますし、前に進めます。娘にもう一度「ダディが行ったほうがいいと思う」と伝え、夫が行くことを納得してもらいました。

 先ほど、夫にフェイスタイムをしました。夫はソファに座っていて、娘が夫の腕の中で寝そべっていました。娘の顔がとてもリラックスして、幸せそうでした。

「私、何百回生まれ変わってもダディの娘に生まれたい」ー。以前、そう話していた娘の言葉通りの表情をしていました。数分間だけ話をして、あとは夫に「よろしくね」と任せました。娘に聞くと、大学の窓口の人に相談し、単位数は足りているか、何か見落としているものはないか確認し、4年間で卒業できることが分かったそうです。娘なりに1人で一歩前に進んでいました。

 娘は大丈夫だと思います。

2025年8月16日土曜日

ママ友が旅立つ

  ママ友が旅立ちました。ゆきちゃんといいます。まだ、45歳でした。

 子どもたちが同じ幼稚園に通っていた縁で親しくなり、卒園後もずっと親しくしていました。とても大切な友達です。

 ゆきちゃんは2016年、肺がんを発病。娘さん(息子と同い年)がまだ幼稚園児のときでした。ずっと治療を続けてきて元気にしていましたが、数ヶ月前から体調が悪化し、今朝旅立ちました。

 ゆきちゃんはママ友グループのまとめ役で、お花見や花火、ハロウィーンなど子どもたちと一緒のイベントをいつも企画し、取りまとめてくれました。ゆきちゃんがいるから、皆が今でもつながっていられました。

 6日にいつものメンバー4人でお見舞いに行ったときは少し体調も回復していて、「退院したら、皆で花火をしようね」と話していたばかりでした。

 今朝、7時18分にゆきちゃんとのラインにメッセージが入っていました。私がメッセージを見たのが8時半近くでした。

「ゆきの呼吸が止まりそうです」

 ゆきちゃんは意識が混濁していて、自分のことを「ゆき」と言って、「呼吸止りそう!」とメッセージを送ってくれたのだと思いました。

「大丈夫?これからお見舞いに行っていい?」とラインを返し、「このライン、パパからだったらどうしよう…」と思い、「午前中に行くね、ゆきちゃん、頑張ってね」ともう一度ラインを打ったところで、ライン電話が鳴りました。高2の息子さんからでした。「パパに代わります」。

 ご主人が電話に出てくれ、ゆきちゃんが旅立ったことを伝えてくれました。

 もう1人のママ友と連絡がつき、病院に行きました。病室にはゆきちゃんの大学時代のお友達4人がすでに駆け付けていました。2人は大阪から来たそうです。

 ゆきちゃんはいつものゆきちゃんらしいお化粧をしていました。お友達がしてくれたそうです。普段通りに、とても綺麗でした。

「ゆきちゃん、頑張ったね」

 そう、声をかけました。腕や肩をなでると、想像以上に痩せていました。咳がずっと続いていて、辛かったんだろうなぁと思いました。

 幼稚園時代の先生も1人駆けつけました。病室では7人の友達が代わる代わるゆきちゃんに話しかけました。

 ほどなくゆきちゃんは病室から霊安室に運ばれました。お部屋には綺麗なお花が飾られていました。気丈だったご主人は関係の方々への連絡や様々な手続きを終えて、眠っているゆきちゃんの横にようやく寄り添うことが出来ました。何度もゆきちゃんの肩をなでたり、ほおに触れたりしていました。涙がとめどなくほおを伝っていました。

 ご主人はTシャツ・短パン姿で、野球帽を被り、ニューバランスのスニーカーを履いていました。昨夜付き添っていた息子さんからの緊急電話で朝駆けつけたそうです。その、今にも外にジョギングに行きそうな精悍な姿と、旅立った妻を前に立ちすくむ様子があまりに不釣り合いで、胸が締め付けられました。

 ゆきちゃんは霊安室に続く廊下から、外に運ばれ、車に乗りました。ふと、20年前、死産した息子の小さな棺が霊安室から車に運ばれ、一緒に車で病院を出たときのことを思い出しました。あの日も、快晴でした。

 一足早く自宅に向かうゆきちゃんを見送り、霊安室に戻りました。

「どうもありがとうございました」と一礼したご主人は言葉に詰まり、「すみません、締め方が分からなくて…」と苦笑しました。このような場の挨拶の言葉なんて知るはずもない、若いご主人でした。

 ゆきちゃんは、お昼ごろ大好きだった家に戻ることが出来ました。ご自宅には牧師さんが駆け付けてくれ、ゆきちゃんのために聖書の一節を読んでくださいました。その言葉に聞き入っていると、ゆきちゃんの声が聞こえました。

「むっちゃん、ランチしない?」

「むっちゃん、隙間時間にお茶しようよ」

「むっちゃん、元気もらったよ。ありがとう」

「むっちゃん、むっちゃん…」

 ゆきちゃん、仲良くしてくれて、ありがとう。天国でまた、ランチやお茶をしよう。そのときまで、いい店を探しておいてね。



 

2025年8月15日金曜日

ニセコへ_チーズ工房

 ニセコ2泊3日の旅は、雨が降ったため計画していたアクティビティがいくつもキャンセルになりましたが、必死に探した代替案が当たりました。2日目のパークゴルフ、3日目のワイナリーとチーズ工房は天気が良ければ行かなかった場所。いずれもとても楽しかった。

 2005年にオープンしたという「ニセコチーズ工房」はオーナーがチーズの本場フランスで修業し、現在の場所に店舗を構えたそうです。家族3人で営んでおり、現在は息子さんが製造を一手に引き受けているそう。

 こんな人里離れた場所に人は来るのかなぁ?と思いましたが、私たちが店舗に入りチーズの盛り合わせとカマンベール味のソフトクリームを食べていると、続々とお客さんが入ってきました。皆さん、ショーケースの中のチーズを買っていました。どれも美味しそうで、チーズ好きな娘に食べさせてあげたいなぁと思いました。

外の景色を眺めながら、チーズの盛り合わせを食べました

広々とした店内で、窓の景色を眺める夫と息子

濃厚なカマンベール味のソフトクリーム

 
ニセコヒラフの山


羊蹄山は3日間、ずっと雲がかかっていました。

 私と夫が”本場”のチーズを食べたのはもう30年ぐらい前のこと。マルセーユのレストランでした。コース料理の最後にソムリエがワゴンに載せた様々なチーズをテーブルまで持ってきてくれました。そのとき初めて食べたのが「コンテ」。あれから、コンテは私たちにとって不動の一番のチーズなのです。今回はコンテはありませんでしたが、ミモレットもブルーチーズもとっても美味しかった。

 さて、チーズを食べた後は小さな湖「半月湖」を1時間かけて散歩。倶知安町内で昼食を取って、ニセコを後にしました。途中、支笏湖に寄りました。ビーチサンダルに履き替え、湖岸へ。湖水に足を付けると、ひんやりとして気持ち良かった。

綺麗だった半月湖


ニセコではあちこちにヒマワリが咲いていました

美しい支笏湖

 今回の旅行は、オーストラリアの娘が不安定なときに決行しました。娘には毎日電話をし、数日間つながらないこともあり心配でしたが、息子の中2の夏休みを何もせずに終わらせるのは忍びなかった。家族3人で旅行をするのは娘に申し訳ないとも思いましたが、息子をニセコに連れて来て良かった。

 これまで、手はかかったけど、人一倍愛らしい娘に、夫も私も時間も愛情もたっぷり注いできました。一方で、幼いころから手がかからず、自己主張もせず、わがままも言わず、何でも普通にこなした息子はついつい、後回しにしてしまうところがありました。でも、息子の子ども時代もあっという間に過ぎていきます。

 娘との時間もとても大切だし、息子との今も大切にしたいと思った旅でした。

2025年8月14日木曜日

ニセコへ_ワイナリー見学

  ニセコ3日目は熱気球体験の後にキャニオリングという川下りを計画していましたが、これも前日の雨による川の状態によりキャンセル。キャンセル続きで凹みましたが、夫がワイナリーをネットで探してくれ、早速足を運んでみました。

 羊蹄山の麓にある「ニセコワイナリー」では、オーガニックのスパークリングワインを製造しています。ブドウ栽培から醸造、瓶詰め、販売まで一貫して手がけているそうです。ブドウ作りをしているご主人にはお会いできませんでしたが、奥様が説明をしてくれました。

ニセコワイナリーの看板

ワイナリーの横にあるブドウ畑


 
ニセコワイナリーで製造・販売するオーガニックスパークリングワイン

スパークリングワインの貯蔵室も見せてもらいました

 会社は2009年に設立。ご夫婦はニセコの自然に見せられ佐渡島から移住してきたそうです。奥様は絵本作家で、お家には近所の子どもたちに開放している文庫もあります。私もいつか自宅に文庫をつくりたいなぁと夢見ていますので、とても参考になりました。


奥様が運営する「ほんま文庫」

世界各国の絵本が素敵に並べられています

 ワイナリーでは時間がゆったりと流れ、ワインづくりに没頭するご主人と、絵本づくりと読み聞かせをライフワークとする奥様と、豊かな人生を歩まれているなぁと羨ましくなりました。夏休みにはお孫さんも遊びにきて、にぎやかになるそうです。

 いろいろ見せていただいた後、スパークリングワインを買いました。東京に戻り、夫と一緒に飲みました。爽やかな上品な味で、とても美味しかったです。


2025年8月13日水曜日

ニセコへ_熱気球体験

 8月9日ニセコ3日目の朝は雨も上がったため、前日キャンセルとなった熱気球体験が出来ました。 スキー場の広い駐車場に設置された熱気球に乗り、地上から30㍍ほど上がります。気球の滞在時間は5分ほどでしたが、地上から眺めるニセコの風景は最高でした。

 車椅子の方が家族と一緒に参加していたり、子ども連れのご夫婦がベビーカーに乗った赤ちゃんを皆にみてもらいながら、もう1人のお子さんと参加したり、と参加者が思い思いに楽しんでいたのが印象的でした。

 


4台の車に熱気球をロープでつないでいます

遠くに見える山々



 

2025年8月11日月曜日

ニセコへ_ラフティング

  今回のニセコ2泊3日の一番の目的は、ゴムボートで川を下るラフティングでした。米国留学時代や新聞社勤務時代に、友人たちと体験して楽しかった思い出があり、息子や夫にもぜひ体験してほしいと願っていたのです。

 初日の夜のゴンドラの中止や2日目朝の熱気球体験の中止で心配をしましたが、小雨ながらも無事決行となりました。目的地に着くと、家族連れや友人同士の方々約30人が集まりました。

 足首や手首、首をきつく締めて水の浸入を防ぐドライスーツをしっかり着込み、マリンシューズを履いて、バスに乗り込んで尻別川へ。尻別川は清流としても知られる一級河川です。

 参加者は4つのボートに分かれて乗り込みました。各ボートにはガイドが付きます。写真・ビデオの撮影担当の人がカヌーに乗って、4つのボートの間を行ったり来たりして、撮影してくれます。


 川の流れは穏やかでした。ガイドさんと一緒に「いちっ、にっ」と掛け声をかけながら、バドルでこぎ、進んでいきます。途中、川に飛び込もう!ということになり、皆で川の中へ。気持ち良く泳いで、また、ボートに乗り込みます。

 途中、岸に上がって3㍍ほどの崖から参加者が順番に飛び込みます。これはなかなか勇気がいりました。夫も息子も泳ぎが得意ですので、飛び込む姿も普通。私は最初崖の上から下を見て足がすくみましたが、勇気を振り絞って、えいっと飛び込みました。

 ラフティングの年齢制限は65歳までです。ボートから川に飛び込んだり、川の中からボートに這い上がったり(これがかなり大変)、崖からジャンプしたりなど、体力も勇気もいります。若いころに体験したときは全く感じなかったのですが、今回は「まだ体力のあるうちに、やっておいて良かった」と思ったのでした。

 

直立不動で川に飛び込む夫

軽やかに飛び込む中2の息子


「こわすぎる~」と情けない格好で飛び込む私

2025年8月10日日曜日

ニセコへ_パークゴルフ

 残念ながらニセコに到着した日は小雨が降っていました。夜、ゴンドラに乗る予定でしたが、「雷の予想」ということでキャンセル。そして、8日朝に予約していた熱気球体験の会社からもキャンセルの電話がありました。

 残念でしたが気持ちを立て直して、多少の雨でも遊べる森のアスレチックを予約しました。 ところが翌朝そのアスレチックの会社からも悪天によるキャンセルの電話が。アウトドアの活動ばかり計画していると、キャンセルが続くと何も出来ないのだーと痛感しました。ホテルにいるのはもったいないので、夫と一緒に必死になってイベントを探しました。

 で、夫が見つけたのが乗馬です。1人1万円とかなり高額でしたが背に腹は代えられぬーと申し込みをしようとしましたが、なんと体重85㎏までという制限があるということが分かりました。夫は90㌔以上ありますので、当然無理。

 「まぁ、85㎏ですとごまかす手もあるよね」とも考えましたが、「いや、馬が走れなくなったら困るから、疑わしきは体重計で確認!ということもあり得る。大の男が体重をごまかしてバレるのは恥ずかしすぎる」と断念。

 こういうことがあると、思い出されるのがディズニーランドでの出来事です。ある乗り物に乗ろうとしたところ、身長120㌢以上195㌢以下という身長制限がありました。夫は制限以上かもしれないと見なされ、120㌢未満と疑われる子どもたちと一緒に計測が必要な人の列に並んで、担当のお姉さんに厳密に計測してもらい(お姉さんは計測するときに台に載っていました)、「193㌢ですので、乗ってもいいです!」とお墨付きをもらい列に戻されたのです。このように、大人になって制限に引っかかる人は本当に大変です。

 乗馬はあきらめ、2人でさらなるリサーチ。そして、ニセコにパークゴルフ場があることが分かりました。

 朝9時のオープンを待って電話をしてみると、小雨でも出来るということ。そして、何と利用料がクラブのレンタル料も含めて18ホールで1人500円ということが分かりました。キャンセル続きでしょげていた私たちも一気に気持ちが盛り上がりました。

 息子はパークゴルフを体験したのは初めて。雨も止み、過ごしやすい気温で、雨上がりの綺麗な空気の中、のんびりと18ホールを回りました。その間、私たち以外にプレーする人は誰もいなく、私たちはニセコの広々としたパークゴルフ場を貸し切りで楽しませてもらったのでした。




2025年8月8日金曜日

ニセコへ_蒸留所へ

  昨日からニセコに来ています。札幌出身の私にとって、ニセコは楽しい思い出の詰まった場所。冬のスキーはもちろん最高ですが、夏のアクティビティも楽しいのです。夫と息子に夏の北海道を体験してほしいと思い、企画しました。

 朝8時15分羽田空港発の飛行機で新千歳空港へ。いつもはニセコ行きの直行バスに乗るのですが、今回はレンタカーを借りました。空港到着後、レンタカー窓口に行くと、ニセコ行きの直行バス乗り場ぐらいに混んでいます。送迎バスで千歳市内のレンタカーの店舗へ。広い店舗の中には長いカウンターがあり、店員もたくさんいて、次々と名前を呼ばれていきます。「アメリカのレンタカーの店より、ずっと大きい」と夫が驚いています。

 小型の4WD車を借りて、いざ、ニセコへ。小樽方面を通る道と、支笏湖方面を通る道の2つのうち、前回バスに乗ったときに景色が綺麗だった支笏湖を通る道を選びました。

 運転しながら眺める北海道の自然は、やはり、ダイナミックでいい。東京にも自然はありますが、やはり広さが限られているのですよね。

   ニセコに着いたのは2時半ごろ。ホテルのチェックインまで時間があったので、地元でジン・ウイスキーを製造する「ニセコ蒸留所」へ。ここは日本酒メーカー「八海醸造」(新潟県)の関連会社。私も夫も日本酒好きで、たまたま誘われて行った八海酒造の試飲会でこの蒸留所のことを聞いたので、立ち寄ることにしたのです。


ニセコ蒸留所

  ニセコ蒸留所は「私、道を間違えていないよね」と途中で不安になるほど、奥まった場所にあります。でも、森の中に突如現れたのは、現代的でスタイリッシュな建物。店舗内には、高い天井まで届く大きな蒸留器があり、広々としたスペースで試飲も出来ます。運転を夫に代わってもらい、私がジンを試飲。一緒に試飲した日本酒「蝦夷富士」(ニセコの酒米を使い、新潟県で製造)が美味しかったので、「ホテルで飲もう!」と1本購入しました。

 ホテルに着いたのは3時半。このホテルは春スキーで2年連続で宿泊した場所です。少し休んで、まちの中を散歩して、早めの夕食にしようということに。でも、なかなかレストランが見つかりません。スキーシーズンとは打って変わってまちの中は人が少なく、どのレストランも休業なのです。

 歩き回って見つけたビストロに入ってみたら、なかなか良い店でした。マスターの英語はアメリカ人やイギリス人の英語とは違うアクセントがありましたので、「ニュージーランド人かななぁ?」と想像していたら、なんと、フランス人でした。20年以上もニセコに住んでいるそうです。ニセコはオーストラリア人・ニュージーランド人に好まれている場所だと思っていましたが、世界各国から来ているのですね。そういえば、前回スキーに来たときにレンタルスキーショップで働いていた若い人はイギリス人でした。

 ビストロで注文したのは私と夫が豚肉料理、息子が牛肉のハンバーガー。窓の外の景色を見ながら、美味しくいただいたのでした。

美味しかった豚肉のお料理


ビストロのカウンターに座る夫と息子

夕方の羊蹄山

バスタブの中で、娘と話す息子。良く分かりません



 

 

 

2025年8月4日月曜日

風鈴

  今日は研究室に行く日。最高気温は36度で、大変な暑さでしたが、気分転換にランチを外に食べにいきました。すると、ビルの前で沢山の風鈴が涼やかな音を出していました。


ビルの前にたくさん並んでいる風鈴

なんだか風情はありませんが、それでも音が涼やか

郵便局にも

 今年の7月は1946年の統計開始以降、一番の暑さだったそうです。去年は風鈴を見かけませんでしたので、今年はあまりの暑さのため、少しでも涼しさをということなのでしょうね。

  先月行ったメルボルンで唯一買い忘れたのが、マーケットで売っていた手作りの風鈴でした。何ともいえない素朴な形で、マーケットをぐるりと回った後に買おうと思ってすっかり忘れてしまいました。買っていれば今ごろ家に飾れたのに残念! でも、きっと、もう一度メルボルンに行って娘と過ごすチャンスがあるから、忘れたのですね。

 皆さんのおうちでは風鈴を飾っていますか? もし、どこかに仕舞ったままでしたら、ぜひ、取り出して飾ってくださいね。

 

 

 

2025年8月3日日曜日

アメリカから友が来る

  サンフランシスコに住む友人Mさんが帰国し、週末に会いました。Mさんは私と同時期に米国の大学に留学し、卒業後に札幌に帰り数年間勤務した後、米国に渡りました。留学時代に知り合った人と結婚し、息子さんが1人います。

 同い年のMさんとは、私がアメリカに行ったときに会ったり、Mさんが帰国したときに会ったりし、ずっと親しくさせてもらっています。アメリカの企業で日本人女性がキャリアを積むことは様々な苦労があったと思いますが、一つの企業にずっと勤め、良いチームに恵まれ、とても充実した日々を送っているようです。

 そんなMさんはこれからもサンフランシスコに住むと思いきや、なんと、札幌にマンションを買い、リタイア後は戻ってくるらしいのです。「夫も息子も日本が大好きだし、私も老後は札幌で暮らしたいなぁと思って」とMさん。

 札幌はいい街ですから、戻りたくなるのもよく分かります。住んでいるときは当たり前のように感じていましたが、出ると分かるんですよね、札幌の良さは。空気は綺麗だし、食べ物は美味しいし、人はいいし、自然も豊かだし、夏の大通りビアガーデンや冬のスキーも最高だし…。

 でも、Mさんはもう少し働くそうです。アメリカの企業は定年がないので、働きたいだけ働けるのだとか。それはMさんが会社に必要とされている人間だからで、改めてすごいなぁと思いました。

 Mさんに会った日は、Mさんがお友達のお宅にお参りに行ってきた後でした。Mさんが帰国している最中に、そのお友達ががんで亡くなったのです。52歳だったそうです。そのお友達はご夫婦で長くアメリカに住んでいましたが、がんの治療のために日本に戻ってきていました。治療のかいなく、数日前に旅立たれたそうです。私もMさんを通じて、日本での治療について相談を受けていましたので、ショックでした。

 Mさんと過ごしたのは1時間ほどでしたが、沢山お話が出来ました。亡くなられたお友達に思いを馳せながら、「こうしてお互い元気で暮らしていることに感謝し、日々大切に生きようね」と言い合いました。

 そして、ぎゅっとハグをして、別れました。Mさん、帰国時の忙しいときに連絡ありがとう。会えて、とっても嬉しかったよ。また、会おうね。そして、Mさんのお友達のご冥福を心よりお祈りします。

 

 

 

2025年8月2日土曜日

いよいよ…

  大学から、「課程博士論文提出の手引き」がPDFで送られてきました。9月初旬に論文のタイトルと論文審査委員会にお願いしたい教員(ほとんどが教授および助教授)名を大学に届け出。11月初旬に論文を提出します。いよいよです。

 現在、その元となる論文を共著者の先生方9人に回覧し、その先生方からいただいた助言・指摘をすべて反映させた論文を再回覧している最中です。

 その他、イタリア人の研究者2人と研究を進めており、そちらのほうもだんだん忙しくなってきました。研究は面白いですが、なかなかに大変です。

 7月末から研究室に行く日を週2日にしています。先週、たくさんの資料を自宅に持ち帰り、ファイルワゴンを新調して、自分の机の後ろに置きました。自宅で論文書きに集中します。研究室のほうが集中できますし、顔を出さないと、指導教員や他の研究者にあまり良く思われないかもしれませんが、覚悟を決めました。

 まだ娘が少し不安定ですので、母親として娘が私を必要とするときは家で電話を受けたいですし、夏休み中の息子を部活に送り出し、昼・夜ご飯もきちんと作って一緒に食べたい。子どもたちとの”今”を大切にしたい。これまでも、もちろん家族を第一優先してきましたが、やはり、大学院にまつわる様々なことに気持ちが取られてきました。

 あと数カ月で博士論文を提出で、最後のスパートが必要なのは十分承知しているのですが、でも、そこで子育てをなおざりにするわけにはいかない。子育てはやはり、待ったなしなんですよね。87歳の高齢の母はまだ元気でいてくれますが、目配りもしたい。

 なんだか忙しいですが、子育ても博論もしっかり取り組むぞ、と自分に気合を入れています。こうやって自分自身に”喝”を入れないと、気力も萎えてきますので…。

大学から送られてきた博士論文提出の手引き