昨日に続き、料理の話。娘と夫は食べませんが、息子と私が好きな一品があります。これも母から受け継いだものです。ジャガイモとニラの千切りをサラダ油で炒めて、味の素の「ほんだし」を振りかけて味付けしたものです。
これもきっと母が、顆粒の出汁が出回ったときに、使ったものと思います。母は昔、この「ほんだし」を料理に使っていました。
新しいものを取り入れるのが大好きな母ですから、今は使いません。 出汁専門の店「茅乃舎」や「久世福商店」から買ってきて、それを使っているようです。母によると、「茅乃舎の出汁は量が多くて、食べきれないの。久世福商店の一パックは一人暮らしの人にもちょうど良い量だから、デパートの買い物に行ったときに地下の食料品売り場に寄って買ってくる」のだそう。
私は母と違って、新しいものより昔からあるものを大事にしたいタイプ。だから、母から引き継いだこの一品は、母が作った通りに作りたい。
でも、このほんだしは、母のこの料理を作るときにしか使いません。ですので、すぐ賞味期限が切れてしまい、先日も茶色く固まってしまった顆粒のほんだしを捨てたばかりです。
で、捨てたことを忘れて、ジャガイモとニラを炒めてしまいました。香辛料を入れている引き出しを開けて、ないことに気づきました。もう、こうなると、他の香辛料で代用できません。あの味の素のほんだしでなければならないのです。
火を止めて、自転車を飛ばして、最寄りの小さなスーパーへ行きました。売ってなかったので、次は駅前の大きなスーパーに行きました。そこでようやく見つけました。帰宅して、封を開いて、ジャガイモとニラを温めなおして、この顆粒を振りかけ、仕上げました。もちろん、この日は夫はいなく、息子と私だけの夕食でした。
駅前のスーパーでやっと見つけた、味の素の「ほんだし」。嬉しくて、思わず携帯でパチリ |
これを作りながら、思い出したのはある本で読んだエピソードです。これはお料理の本ではなくて、人は固定観念に縛られているので、自分の思考も一旦は疑ってみることも大切ーという文脈だったと思います。その中での具体例として、次のようなエピソードが書かれていました。
ある女性が、丸くスライスしてあるハムを焼くときはいつもハムの両端を切ってフライパンに入れるのだそうです。で、その著者が、なぜ両側を切るのかと聞いてみると、「母がそうしていたから」と何の疑問も持たずにそう答えたそうです。
で、その著者がその女性のお母さんに聞いてみたところ、お母さんが不思議そうな表情で「当時、私が持っていたフライパンは小さくて、丸いハムの両端が入らなかったから、切って焼いた」と答えたそう。つまり、その女性は、お母さんが物理的な理由でハムの両端を切っていたものをハムはそうするものだと覚えて、ずっと続けていたということです。
私も同じだなぁと思いました。ジャガイモとニラの炒め物は、味の素のほんだしで味付けしなければならない。バジルもオレガノもイタリアンパセリもパプリカもターメリックもクミンもローズマリーも、そして塩・コショウもあったのに、それらでは駄目なのです。だから、食材を炒めた後でも自転車を飛ばして、スーパーまで買いに行くのです。
なんか、おかしい話ですよね。でも、この2つのおかしなエピソードが示すことは、こと調理に関する母親の影響は多大だということでしょうか。突き詰めれば、「母の味」「母の調理法」になるのでしょうね。
そういえば、母親に虐待されて育った男性が大人になり、その辛い幼少期の思い出を振り返った本の中で、「母の炊き込みご飯は絶品だった」と振り返るシーンがありました。その男性は思い出の中の母の味を再現しようと、何度も何度も炊き込みご飯を作って、その味に近付けようとするのです。なんとも切ない話ですが、子どもはいくつになっても、母の味を求めているのかもしれませんね。
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