2025年4月29日火曜日

自分を褒めよう

  「会いたい人に会いに行く」第2弾の最終日は、札幌で出版社を営むHさんに会いました。Hさんは仕事をバリバリこなしながら、子育てもし、多くの人に慕われるハンサムウーマン。ずっと私の目標の人なのです。

 待ち合わせは札幌の閑静な住宅街にあるイタリアンレストラン。シェフは札幌市内の有名なイタリアンレストランで長い間修行をし、昨年独立したそうです。Hさんはいつもこういう若い方々を応援し続けています。

 Hさんに出会ったのは、私がまだ30代になったばかりのころ。共通の友人を通じて、知り合いました。ご飯を食べに連れて行ってもらったり、Hさんの友人たちとの飲み会に誘ってもらったりと、楽しい時間を過ごさせてもらいました。辛いこと悲しいことがあったとき、Hさんに泣きながら電話をして、話を聞いてもらったこともあります。

 Hさんの息子さんに初めて会ったのは、息子さんが小学4年のとき。東京の大学に入学してからは、一緒に我が家に遊びに来てくれたこともあります。その息子さんも今や30代。素敵な女性と結婚し、幸せに暮らしています。Hさんはお嫁さんのお母さんを●●ちゃんと呼んで、時々ご飯を一緒に食べたりするそう。そういうところも、Hさんの魅力なのです。

 美味しいお料理をいただきながら、近況報告をしました。相変わらず悪戦苦闘していることを苦笑しながら話すと、Hさんはこう言いました。

「むっちゃん、年を取ったら、もう誰も褒めてくれないから、自分で自分のこと褒めなきゃだめよ。あぁ、私、頑張っているよね、偉いぞ!って自分を褒めるの。自分をいじめるのはやめようよ」

 そうかぁ、自分で自分を褒めるかぁ。「私ってなんて駄目なんだろう」と自分を責めることは多々ありますが、褒めることはしないかも。時折、研究室に行く前にコンビニでリンツのチョコレートを買って、自分を励ましたりはしますが…。

 Hさんに習って、たまに自分を褒めてみよう。そうしたら、Hさんのような素敵な女性像に近づけるかな?

 

Hさんがご馳走してくれたイタリアン

パスタも美味しかった!

 

 

2025年4月28日月曜日

同期会パート2

  「会いたい人に会いに行く」第2弾の19日(土)は、高校時代の女子会の後、還暦を祝う同期会に参加しました。

 私たちの期は1クラス45人で10クラスありましたので、1学年450人。そのうち、74人が参加しました。幹事は札幌在住の男子5人です。すすきののイタリアンレストランで16時スタート。東京で開かれた同期会もそうでしたが、この年齢になると早めのスタートが嬉しい。

 今回は還暦記念ということで、部活動の仲間と写真を写しました。私はソフトボール部で同じ部の2人は残念ながら参加していませんでしたが、野球部からは2人が参加していましたので、ソフトボール部と野球部合同で記念写真を撮りました。

 我が息子が通う東京の都会の学校はグラウンドがなく、サッカーやテニスなどの屋外スポーツは屋上でします。息子はバスケットボール部なので体育館で出来るので恵まれています。それでも、バレー部など他の部と譲り合いながらですので、平日は週3日のみ。

 それに比べて、昔の札幌の学校は恵まれていました。広いグラウンドには、ソフトボール部、野球部、サッカー部、ラグビー部、陸上部、テニス部がすべて自分たちの練習場を持って毎日練習していました。女子ソフトボール部がグラウンドを毎日使えるなんて、本当に恵まれていたと思います。

 同期会に出ると、私が忘れていた話が聞けて、楽しい。向かいに座ったハットリくんから、面白い話を聞きました。1年7組のときの思い出です。場面は社会の授業で、先生からテストを返却されたときのこと。ハットリ君は私の隣の席だったそう。ハットリ君によると、私の点数はなんと6点だったそう。

 ハットリくんが話します。「普通ならさ、6点とかだったら、点数のところ折るとかするけど、むっちゃん全然隠さないで堂々としててさ。おおっ、スゲーって思ったよ。でさ、むっちゃん、次のテストで80点とか90点とかいい点取ったんだよ。リベンジだったんだね」

「あははっ、そんなことあった? 6点かぁ。息子がいつもすごい点数取ってくるから『こんな点数見たことない!』なんて叱り飛ばすけど、私もそうだったんだね。息子をもう叱れないね」

「むっちゃんの話、授業で生徒たちを励ますのに何回も使わせてもらったよ。ひどい点数を取っても、頑張れば次にいい点取れるって」

「おおっ、私でも役に立つことがあるんだね。ハットリ君、仕事何していたの?」

「中学校の先生だよ」

「そうなんだ、科目は?」

「社会」

 あちゃー。ハットリ君、社会が好きだったのですね。だから、私の6点をしっかり覚えているのですね。

 部活動が終わった後の楽しみは、学校の最寄りのバス停近くにあったお店の自動販売機で、コーラを買うことでした。練習で汗を流した後に飲むコーラが何よりも美味しかった。コーラ好きの私の原点です。私にとっては思い出の自動販売機でしたが、男子にはさらに深い話があったようです。その店の名前はすっかり忘れていましたが、「吉田商店」だったそう。

 ナカヤマくんが懐かしそうに目を細めます。「吉田商店のおばちゃんが優しくてさ。あんたたち、タバコ吸うならこっちに入って吸いなさいって、家の中に通してくれてさ」

 イシグロくんもタバコの話題に敏感に反応します。「●●(喫茶店の名前)のマスターもさ、俺ら制服で行って堂々とタバコ吸っていても、見逃してくれたよなぁ」

 あぁ、なんて昭和な話。そして、きっとこれは都会ではなくて、地方ならではの話かもしれません。こうして地方では、悪ガキどもは地域の大人に温かく見守られていたのですね。

 親友ナナちゃんは新しい話も披露してくれました。

「むっちゃん、私たちミスド(ミスタードーナッツ)によく寄ったじゃん。私が最高10個でさ、あのときはむっちゃん、私より少なかったけど6個とか8個とか食べたと思うよ」

「えー、私そんなに食べた?」

「そうだよ、私たちいっつもお腹すいてたじゃん」

 私はミスドが大好き。街でミスドがあると必ず「エンゼルクリーム」と「チョコファッション」を今でも買います。私のミスド好きの原点は、小学校のときに母に初めて買ってもらった「ハニーディップ」の美味しさに衝撃を受けたことですが、そこから、さらにパワーアップしていたのですね。私のミスド好きの血は、しっかりと息子に受け継がれています。

 そして、「スキー学習」もあったことが判明。これもすっかり記憶から抜け落ちています。当時、生徒たちは自宅から公共交通機関にスキーを担いで乗って学校に来て、貸し切りバスでスキー場に行ったそう。年に1、2回はあったらしい。いいですねぇ、札幌の高校は。

 レベルがA,B,Cに分かれていて、皆によると、私はAだったそうです。そうかぁ、勉強でぱっとしなかった分、スポーツで挽回していたのですね。そういえば、運動会も大好きだったなぁ。

 私は体調も悪かったこともあり3,40代は同期会には参加していません。でも、50代になってからは体調が良くなり、こうして、参加できるようになりました。この年齢になると、亡くなっている同期もいます。分かっているだけで女性3人、男性3人。まだまだこれからというときに、無念だったと思います。彼らのことを思うと、こうして元気に同期会に参加でき、皆と会えることをとても有難く思うのです。

 

2025年4月27日日曜日

高校時代の女子会

  「会いたい人に会いに行く」第2弾は、今月19日20日の札幌帰省でした。その前の週末は新聞社時代の同期会に参加するのに合わせて室蘭と伊達、そして札幌で友人や従姉妹に会い、先週末は高校の同期会に合わせて友人たちに会ったのでした。

 同期会の前に、高校時代の仲良し女子4人が集いました。4人全員が一緒のクラスになったことはないけれど、1、2、3年のどこかで一緒のクラスになり、それからずっと仲良くしている友人たちです。私と千葉県に住むNちゃんは東京で時折会っていますが、札幌在住のMちゃんとSちゃんに会うのは5年ぶり。5年前は55歳、そして今回は還暦です。

 15歳で出会った私たちもなんと60歳になりました。45年もの月日が流れているのです。でも、NちゃんもMちゃんもSちゃんも45年前の高校時代のままです。

 4人とも40代までの間に、親や配偶者、子供を亡くしています。私は30代後半から40代にかけて大きく体調を崩しました。でも、皆、そこから何とか人生を立て直し、今はそれぞれが穏やかに幸せに暮らしています。

 19日は高校時代の思い出話に大笑いし、弱くなってきた歯や健康、親のお墓の話など、様々な話で盛り上がりました。言わずもがなですが、高校時代の友人の良さは、一緒に年を取っていくということ。なので、悩みも共有できるのです。

 次に4人で会うのは65歳の同期会です。それまで4人とも元気でいられますように。そして、また沢山おしゃべりして、大笑いできますように。

 

2025年4月26日土曜日

娘@メルボルンからの報告 白い鍋

  メルボルンにいる娘から「ママ、素敵な鍋を買ったの!」と報告がありました。キムチスープを作っていると言い、写真を送ってくれました。

 少しでも野菜を採れるよう、鶏胸肉の挽肉に、エノキダケを細かく切って混ぜて、お団子にしてスープに入れていると言います。野菜が大嫌いだった娘も、少しずつ成長しているのだなぁと嬉しくなりました。

娘が送ってくれた白い鍋の写真。深さもあり、お料理が楽しくなりそう


 

 

2025年4月25日金曜日

母を相撲に連れていく

  87歳の母を先日、相撲の地方巡業に連れていきました。母は相撲の大ファン。この日ばかりは、手足のしびれも忘れて観戦していました。

 開かれたのは区の体育館です。回覧板でたまたまこの地方巡業のチケット販売の案内チラシが入っており、事前に2枚購入していたのでした。

 母に、何十回と聞かされてきた、母が北海道の「むかわ町役場」に勤めていた20代のころの話。祖父が大の相撲好きで、相撲の本場所が始まると一緒にテレビ観戦するために、終業のベルが鳴ると同時に役場を出て、走って帰ったそうです。

「おじいちゃんはね、私と相撲を観るのを何よりも楽しみにしていたの。私も、終業のベルが鳴るのを今か今かと待っていたものだわ」

 区の体育館の外には「相撲のぼり旗」が何本も立っており、私と母が着いたころにはちょうど外のキッチンカーに観客らがお弁当を買うために並んでいるところでした。若い力士たちも並んでおり、それを見た母の気分は一気に盛り上がります。

    体育館では、ちょうど力士たちが外に出てきて、ファンたちにサインをしたり、握手をしたりしていたところでした。力士たちは子供たちにもお年寄りにもそれは優しく接してくれていました。

 私たちの席は「マス席」で、土俵が良く見える場所でした。外国人も沢山来ていて、相撲の人気の高さがうかがえました。


    中入りの前に、力士たちが東と西に分かれて並んで土俵入りするのですが、母はその前にトイレに行ってしまい、他のおばあちゃんが力士たちと写真を写していたのを見て、私も慌てて母を探しに行きました。人がごった返す中、ようやく母を見つけ、「お相撲さんが近くにいるから、一緒に写真を写そう!」と言うと、母は「いま、●●にも●●にもタッチしてきたから大丈夫だよ」と満面に笑みを浮かべています。さすが、我が母です。チャンスは逃しません。

 力士たちの取り組みも、綱締めも、それはダイナミックで、母は大喜びでした。体のあちこちが弱ってきていますが、元気なうちに母の好きなことをさせてあげたい。今度は本場所に連れて行こうと思っています。

 




 



2025年4月24日木曜日

春色、秋色

  オーストラリア・メルボルンの大学で学ぶ娘が「秋になってきた!」と色付いた葉の写真を送ってきてくれました。あちらは夏が終わり、これから秋に向かう季節です。

 

 こちらは春。私からも、我が家の小さな花壇の写真を娘に送りました。ビオレやスミレがきれいなのです。そして昨朝、自宅の前の雑草の中で咲いた花の写真も。どこからか種が飛んできたのですね。

玄関前の小さな花壇

私の大好きなビオレ


自宅と道路の間の雑草の中に、小さな花が咲いていました

 この一両日、自宅から駅まで向かう道すがら撮った写真も一緒に送りました。私が住む住宅街は家がひしめき合っているせいか、どの家も道路沿いに小さな花壇を作ったり、小ぶりな木を植えたりして、緑や花を絶やさないようにしています。東京は雪が降りませんので冬も花が植えられますので、一年中、花や緑があるのです。






 東京ではそれは見事だった桜が葉桜に変わり、あちこちの家の花壇でツツジが満開です。あと1ヶ月もすれば、アジサイが咲き始めるでしょう。花を見ると心が和みます。




 

2025年4月23日水曜日

壁の穴

 昨朝、洗濯物を干しに2階に上がりカーテンを開けるとなんと、そこに大きな穴があり仰天しました。縦15㌢横10㌢ほどの穴で、壁紙の下地の石膏ボードも壊れています。

  写真を撮り、我が家の男子2人に画像を送りました。

「Wasn't me (僕じゃない)」と夫から即返信がありました。

 

夫からの返信

 次は息子からの返信です。一言「ごめんなさい」。ここは正直にならざるを得なかったのでしょう。

 

息子からの返信

 息子への私からの返信は、絵文字のみでした。

 男子を育てる親たちから聞いていた「壁の穴」事件。我が家でも、ついに起きました。これで、家の中の不思議な場所で見つけた小さな穴の原因が分かりました。息子は帰宅後、ガッチリと叱られたのは、言うまでもありません。

2025年4月22日火曜日

新人記者時代の上司の家へ

  「会いたい人に会いに行く」旅(4月11~13日)の最終日は、新聞社勤務時代の初任地・室蘭支社報道部のデスクだったYさん宅に伺いました。退社後も長い間親しくさせていただいているYさんと奥様にご招待いただいたのです。

 新聞社のデスクは、記者の書いた原稿をチェックし、追加取材や加筆を指示したり、原稿に手を入れたりして、紙面に掲載する記事に仕上げる人です。大きな事件や事故、選挙など複数の記者がチームとなって取材するときは、その取材を指揮します。

 当時、室蘭報道部には7,8人の記者がおり、デスクが3人、部長が1人という体制でした(女性は1人)。私が入社した1992年はまだ女性の記者が珍しいときで、私は同報道部”2代目”の女性。前任者と入れ替わりで、私が赴任となったのです。

 そのときに担当だったデスクがYさんです。Yさんはお人柄が穏やかなで指示も丁寧で、私の書いた訳の分からない原稿は、Yさんに直してもらうとピシッと引き締まりました。「さすがっ、デスク!」と感心したものです(本来なら手直しされない記事を書くべきですが…)。

 私は最初、教育担当でした。室蘭市内の小学校、中学校、高校、そして室蘭工業大学をくまなく回り、”ネタ”を拾いました。教員室でもまだタバコが吸えた時代で、小学校の教員室が禁煙になるという”ニュース”も記事にしました。こういう教育とは関係のない小さなネタも、学校を回っていると耳に入ってきて、地方版(地域のニュースや情報を掲載する面)に載せることが出来るのです。

 雑談の中でそのネタをくれた教頭先生に、「先生、写真が必要なんですけど、先生がタバコ吸っている写真うつしてもいいですか?」と聞くと、「いいよ」とタバコに火を付け美味しそうにくゆらせてくれました。こうして私は、教員室で名残惜しそうにタバコを吸う教頭先生の写真を付けた記事を掲載できたのでした。のんびりとしたいい時代でした。

 Yさんには、このような街の小さな記事から、私なりに頑張って取材した記事まで見てもらいました。お正月には奥様の美味しいお料理でもてなしていただいたのも、とても懐かしい思い出です。

 13日も奥様の心づくしの手料理とYさんの準備してくださったビールと日本酒でもてなしていただきました。次々と振る舞われる奥様の美味しい手料理をいただきながら、たくさんお話をしました。

Yさんの奥様の心づくしの手料理

 私は札幌には実家がなくなり、父の遺骨を納めていた納骨堂も引き払っていますので、この地には縁が薄くなっています。でも、こうして、Yさんと奥様のお宅に伺い、お話できることをとても有り難く思っています。この日はお昼近くに伺い、夕方6時近くまで楽しく過ごさせていただきました。幸せな時間でした。

2025年4月20日日曜日

同期会

  「会いたい人に会いに行く」旅(4月11~13日)の2日目は強行スケジュールでした。朝8時過ぎのJRで東室蘭から伊達紋別に行き従姉妹に会い、午後2時過ぎのJRで伊達紋別から札幌へ。札幌駅近くのホテルにチェックインし、着替えてからすすきのに向かいました。

 向かった先は、札幌唯一の酒蔵「千歳鶴」の直営店の居酒屋です。新聞社勤務時代の同期会に参加するためです。今回の会は私と同い年のKさんの定年退職を祝うために開かれました。

 集まったのは9人。Kさんは記者として地方の支局・支社や社会部で活躍し、紙面の見出しを付けたりレイアウトをしたりする「整理部」でも仕事の堅実さが評価され、お人柄の良さで後輩からも大変慕われたそうです。同期の間では、愛される”いじられ役”でした。

 仕事をやり切ったKさんにとって、目下の悩みは「家」。購入のタイミングを逸してしまい、札幌の不動産への海外からの投資が盛んで価格がつり上がってしまった今、高過ぎて買えないのだそうです。

 Kさん以外は皆どこかのタイミングで家を購入しており、「今まで何やっていたんだ?」とからかわれながらも、とぼけた表情で「いやぁ、安くなると思っていたんだけどなぁ」とおおらかに返します。「なんで、札幌の不動産の価格が下がると思うわけ?」と皆にいじられてもにこにこしているところがKさんの良さです。

 Kさんは思い出深い取材として、1996年の後志管内の豊浜トンネル崩落事故について語ってくれました。ご遺体が安置される現場でずっと取材していたKさんは、自分の宿泊先を見つけることができずにいたそうです。そのようなとき、新聞の販売店さんが「うちの2階に泊まってください」と申し出てくださり、とても助かったという話をしてくれました。

 「ホテルとか旅館とかがほとんどない田舎に全国から記者が集まって取材するからさ、寝泊まりするところの確保が大変なんだよな。そんなとき、販売店さんの存在が本当にありがたいんだ」

 支局長1人と支局員1人の2人で道内の広い地域をカバーする支局に赴任したことがある他の同期が大きく頷きます。

「本当にそうだよな。販売店さんには足を向けて寝られないよな」

 取材現場での話から、話題は新人研修に遡ります。私たちが入社したのは1992年。既卒者を採用する「秋入社」でした。全部署で35,6人はいたでしょうか。記者職は17人(うち女性は2人)。採用された記者の年齢の幅は7.8歳はありました。

 その「新人」が研修センターで約3週間みっちりと研修を受けました。記者としての心構えに始まり、記事の書き方や写真の撮り方(当時はフイルムの一眼レフカメラでした)まで幅広く学びました。

 そのとき、前職の引き続きで数日遅れてきたSさん。当時を振り返ります。「会議室に入ったら、ちょうど皆がグループ討議をしていたんだ」

「テーマなんだっけ?」

「松井秀喜の5打席連続敬遠をどう考えるかだよ」

 これは1992年8月に、甲子園で星陵高校の松井秀喜4番打者が相手チームの明徳義塾高の投手に5打席連続で嫌遠された有名なエピソードです。当時、大変大きな話題になりました。

 Sさんが言います。「いやぁ、発表が皆すごく立派でさ。とんでもないところに入社したと思ったんだ」

 すると、別の人がSさんに「Sさん、そのときサスペンダーしていましたよね」と話題を振ります。「そうですよ、Sさんのサスペンダー有名でしたよ」。こうして皆がそれぞれの思い出を披露し始め、お互いをからかい合い、大爆笑です。

 会社が採用した新人たちをみっちりと鍛えてくれる、とてもいい時代でした。私も記者職で入社したものの、一眼レフカメラの使い方など全く知りませんでしたが、この研修で基本的なカメラの使い方、フイルムの現像の仕方、紙焼きの仕方など習いました。そして、研修の後に辞令が交付され、それぞれが、道内各地の支局・支社に散っていったのです。

 私はがんに罹患し体調を大きく崩してしまい、会社を辞める決断をしましたが、この新聞社で仕事をしたことを誇りに思っています。ですので、こうして、同期会に今も誘ってもらえることをとても有り難く幸せに思っています。

 これからも声をかけてもらえれば、同期会に参加し続けたい。そう願っています。

 


2025年4月17日木曜日

従姉妹に会いに

  今回、新聞社時代の同期会に参加するのに合わせて計画した「会いたい人に会いに行く」旅。2日目は姉のように慕う従姉妹のジュンちゃんに会いに、伊達紋別を訪れました。

 多くの人にとって、親戚に会う機会は恐らくお葬式のときではないでしょうか。私も多分に漏れずそうで、ここ20年ぐらいはジュンちゃんに会ったのは伯母たちやジュンちゃんのお母さん(母の姉)とお父さん、私の父のお葬式のときです。

 父が突然亡くなり動揺していた私は、伊達紋別からお通夜に駆け付けてくれたジュンちゃんに、話を聞いてもらいました。私は抜けた髪が生えてきたばかりでしたが、カツラを被るどころではなかった。カツラで外見を取り繕う必要もなかったし、そんなことは父の死を前に、どうでも良かった。でも、ジュンちゃんがニッコリと微笑んで「セシルカット(ベリーショートの髪型)とても似合うよ」と褒めてくれたのが救いでした。

 味わいのある駅舎が特徴の、JR伊達紋別駅に迎えに来てくれていました。「ジュンちゃーん!」とまずはがっしりとハグ。久しぶりのジュンちゃんは、相変わらずの美人で、笑顔が素敵で、スレンダーな体型もかつてのままでした。母方の鈴木家の血を引く女性たちは母を含めて顔立ちのはっきりとした美人で(私は父似)、体が華奢(私だけ体格が良い)なのです。駅には旦那さんも一緒に迎えに来てくれていました。

 さっそく、ジュンちゃんの家へ。家は整理整頓が行き届き、すっきりとしていて、ジュンちゃんが幸せに暮らしていることが伝わる家でした。

 ジュンちゃんは3人の息子の子育てが一段落した60歳のときにお裁縫の楽しさに目覚め、現在は作品を展示会に出展したり、お店で販売したりするほどの腕前です。伯母さんが裁縫の得意な人でしたので、似たのですね。仕事場として使っているお部屋も見せてもらいました。日当たりの良いお部屋にはミシンと裁縫の道具がきちんと並べられてあり、気持ち良さそうなベッドもあり、ジュンちゃんがそこで充実した時間を過ごしているのが分かりました。

 ランチは心のこもった手料理でした。何もかも美味しく、特に混ぜご飯は最高に美味しかった。そして、ダイコンの粕味噌漬けもいただきました。これも私の大好物。12月1月に食べるのが一番美味しいそうですが、私が来るまで取っておいてくれたそう。

ジュンちゃんが作ってくれた心のこもった手料理

ほっぺたが落ちそうなほど美味しいダイコンの粕味噌漬け

 母が札幌にいたころ毎年作っていたのと全く同じ味でした。ジュンちゃんに聞いてみると、伯母さんも作っていたそうです。これは鈴木家に代々伝わる味なのですね。私は引き継ぎませんでしたが、ジュンちゃんが引き継ぎました。東京の冬は北海道に比べ暖かいので作れないと思いますが、何とか工夫をすれば、冷蔵庫などで作れるのでしょうか?あまりに美味しく、懐かしく、私も東京で挑戦してみようかなと思ったぐらいでした。

 ジュンちゃんの旦那さんは定年退職後も継続して会社勤務をしていて、今はジュンちゃんの作ったお弁当を毎日持っていくそう。インスタグラムにアップしているという写真を見せてもらいましたが、それは丁寧に作られているお弁当で、旦那さんは幸せだなぁと思いました。

 ジュンちゃんとはラインでやり取りし、電話でもおしゃべりもしていて、お互いの近況は知っていますが、やっぱり会ってお話しするのとは違います。今回の滞在は6時間あまりでしたが、たくさんお話が出来、とても嬉しかった。

 お土産に母とおそろいの手作り化粧ポーチもプレゼントしてもらいました。ジュンちゃん、おもてなしを本当にありがとう。話足りなかったので、この続きはまた、電話でね。

2025年4月16日水曜日

室蘭の夜

  先週の金曜日、30年ぶりに室蘭を訪れて、友人のなおみちゃんに市内を案内してもらった後、夜はイタリアン・レストランでなおみちゃんとかつてお世話になった元室蘭市役所職員のKさんMさんと4人で食事をしました。

 私が室蘭にいたころによく食べに行っていたレストランで、30年前は室蘭市役所近くの中央町にあったのですが、現在は中島町という繁華街に移転しました。共同オーナーのお二人とは、私が室蘭を離れた後も親しくさせていただいており、「いつか、また、お二人のお料理を食べたい!」と願い続け、今回、その願いを叶えることができました。

 当時広報係長だったKさんにお会いしたのも30年ぶり、国際交流課の係長だったMさんも28年ぶりぐらいでしょうか。元新聞記者だったなおみちゃんもお二人を知っており、数十年ぶりとは思えないほど、話が弾みました。「むっちゃん、職場で辛いことがあって、私のところに来て泣いたことあったよね」とKさん。あぁ、その節はお世話になりました…。

 レストランオーナーのお二人は、私がたまたま、お二人がお昼ご飯を食べているときにレストランに行き、そのまかない料理を一緒に食べさせていただいた思い出話をしてくれました。「あのとき、むっちゃん、このお魚料理美味しい!と感激してくれて、家で作ってみたけど失敗したって話してくれてね。今日はこれを作ろうと話し合ったの」。なんと、ありがたい。

 美味しいお料理をいただきながらのおしゃべりは本当に楽しく、あっという間に時間が経ちました。夜6時に集合し、お食事が終わったのが10時。幸せな時間でした。

 名残惜しかったですが、なおみちゃん、Mさん、Kさんと「また、会いましょう!」とハグをしてお店の前でお別れしました。私は店に戻り、厨房でオーナー二人と深夜までおしゃべりしました。

 出会ってから30年以上経っても、こうして親しくお付き合いさせていただいていることに心から感謝。


美味しい「真がれいのイゾラナ」


 

2025年4月14日月曜日

遂に室蘭へ

 先週の金曜日、遂に念願の室蘭に行きました。この街は新聞社勤務時代の初任地で、訪れたのは30年ぶりです。

 友人のなおみちゃんが車で迎えに来てくれました。地元紙の記者をしていたなおみちゃんとは仕事を通じて出会い親しくなり、室蘭を離れた後も年賀状や手紙、メールでずっとやり取りをしていました。「今年こそ会いたいね」と言い合ってきたものの、互いに子育てに忙しく(同い年の娘がいます)、室蘭と東京と離れていることから、なかなか実現しませんでした。で、今回、「会いたい人には会いに行こう!」と、札幌で新聞社時代の同期会に参加するのに合わせて、前日に室蘭行きを計画したのです。

 なおみちゃんのニコニコ笑顔と姿勢のよいスレンダーな体は当時のままでした。「やっと会えたね」とぎゅっとハグ。目頭を押さえながらしばし再会を喜んだ後は、息つく間もなくおしゃべりです。

 繁華街のある東室蘭駅周辺から、室蘭市役所がある室蘭駅のほうへ向かうと、途中「日本製鋼所」の工場が右手に見えてきました。懐かしい風景でしたので、車を止めてもらい、携帯で写真をパチリ。「新日鉄球場」を通り過ぎると、高校野球取材を思い出しました。高校野球取材は新人記者が最初にする仕事で、スコアブックを付け、一眼レフカメラで選手らのプレーを撮影し、活躍した選手を取材し、記事を書いた当時を懐かしく思い出しました。私は学生時代ソフトボールをしていましたので、高校野球取材は何よりも好きでした。

 次に連れていってもらった室蘭市役所では、庁舎2階にある「記者室」も覗かせてもらいました。「昔と全然変わらないでしょう?」となおみちゃん。記者室も、廊下を挾んで向かい側にある「広報課」も当時のまま。広報課のKさんにはお世話になったなぁ。

 お蕎麦屋さんでランチを食べた後は、「むっちゃんが住んでいた唐松平コーポ、まだあるんだよ!」と当時住んでいたマンションにも連れていってくれました。なおみちゃん、私が来たらあそこに連れて行こう、ここに連れて行こうと計画してくれていたんだろうなぁ、とじんときました。

 マンションの上にある「測量山」という山にも連れていってもらいました。仕事で辛いことがあるとそこに車を走らせ、車の中で大声で泣いたことも思い出しました。ワンワン泣きながら、ハンドルに頭をゴンゴンぶつけて、自分のふがいなさを反省した日々。若かったんですね。

 そして、太平洋を一望できる美しい「地球岬」へ。入社1年目、ここに元旦の初日の出を写しに行ったものの、会社に帰ってフイルムを現像してみると、全然写っていない。真っ青になっていると、その日の担当デスクが私を心配してこっそり地球岬に来て写真を写してくれていたことが分かりました。紙面が何とか埋まりデスクに向かって手を合わせました。あぁ、こういう失敗数知れず。

美しい地球岬

 室蘭と東室蘭を結ぶ「白鳥大橋」。私が室蘭にいたのは開通の数年前まででしたが、他の記者と手分けして、開通に向けての記事を書きました。その白鳥大橋を通って、繁華街のある東室蘭に戻りました。橋から望む海がキラキラと輝いていました。

地球岬から見える白鳥大橋

 海があり、山があり、歴史があり、人々が気さくで優しい室蘭は、やっぱり素敵な街だなぁと改めて感じたのでした。


2025年4月10日木曜日

ハードルはくぐれ

  今日、一緒の研究チームの20代の男性研究者Tさんから、「ちょっと、お時間いいですか?」と声をかけられました。Tさんは今春、大阪大学で博士号を取得したばかり。1冊の本とコーヒーが入ったマグカップを持って、私を誘ってくれたのです。

 「もちろん、いいですよ」。私もコーヒーを持って、休憩エリアに行き、2人でテーブルに座りました。

 「どうっすか? 博論の進捗は?」

「まぁまぁです」。私は博論に盛り込む研究についてTさんに説明しました。

「●●先生と話しましたか?」

「はい。先週。先生はお忙しいので年に数回しか話す機会がないのですが、先日面談を申し込んだら、ようやく時間を作ってもらえました。博論の話と、次のことについても話しましたよ」

「僕も先日、面談しました。●●先生、来年定年ですよね。今年一年かけて、次の働き場所を見つけるみたいっす。私立大学だと70歳ぐらいまで働けるらしいから、そっちを狙っているかもしれません。先生がいなくなると体制もがらりと変わるので、僕も今年度いっぱいで辞めることにしたんです。先生と同じく、今年一年かけて、次の職場を探します」

「そうですか。Tさんなら引く手あまたですね。研究者としてのご経験もあるし、博士号をお持ちだし、お人柄もいいので」

「いやぁ、そんなことないっすよ。でも、研究者というより、学生を教えるのもいいかなと考えているんすよ。先生が私大に行くなら、ついていってもいいかなって思っているんす」

「いいですね。先生はTさんのこと評価されていて、頼りにもされているから、一緒に移るというと、心強いのではないでしょうか。それか、Tさんの出身校にポストがあればいいですね。私は、今年度博論出して、通ったとしても通らなかったとしても、今年度で終わりです。私の場合、年ですので、先日先生に職はありませんってはっきり言われましたので、どうしようかなぁと思案中です」

「ここの研究者たちは競争相手が世界ですからね。レベル高過ぎなんすよ。どんどんハードルが上がっていく。同じところを目指すと難しいけど、レベル下げればいろいろありますよ。ハードル上がったら、下をくぐればいいんすよ」

「あははっ、ハードルが高かったら、下をくぐる! いいですね」

「大丈夫っすよ」

 Tさんは何度も私に、「大丈夫っすよ」と言ってくれました。優しい青年です。

 Tさんは今朝、博論のコピーを私にくれました。「謝辞」の中に、私の名前を入れてくれたのです。嬉しかった。Tさんは私に、ここを辞めた後も研究への志を同じくする「仲間」として、「何か一緒に研究できればいいですね」と言ってくれました。「仲間がほしい」といつも願ってきて、「結局仲間は出来なかったな」と残念に思っていましたので、Tさんの言葉は心に染み入りました。

「この本、お貸しします」と本を手渡してくれました。タイトルは「在野研究ビギナーズ」(荒木優太著、明石書店)。大学や研究所に所属せず、フリーで研究をする人たちの話だそうです。

「先日、卒業式に出て感無量でしたが、僕、何度か博士課程辞めようと思ったこともあるんです。修士も入れて7年大学院にいますからね。長いし、本当に博士号取れるのかと不安も大きかった。そんなときに読んだ本です。組織に所属しなくても、研究は続けられるんだって、この本を読んで励まされたんです」

「ありがとう。今朝いただいた博論も一緒に、大切に読ませてもらいますね」

 Tさんとの話は1時間半にも及びました。きっと、私のことを心配してくれていたのでしょう。いろいろ辛いことも多い研究室ですが、今日は心があたたまった日でした。

 

2025年4月9日水曜日

大学図書館へ

  今日は大学の図書館へ行きました。借りていた本を返却するためです。借りた本は1986年出版の本で、論文で引用するために借りたのですが、こういう古い書籍もきちんと保管されていてありがたいです。

 大学の力は、教員の質や講義内容はもちろんですが、図書館の資料の豊富さでも分かるのではないでしょうか。私は修士課程は私大に行き、博士課程は国立大。私大のときは、読みたい本はないことも多く、また、海外の論文のダウンロードは有料のことも多く残念な思いもしました。今の大学は読みたい本がなかったことはほとんどなく、論文もほぼ無料でダウンロードできます。本当に助かっています。

 本を返却した後、医学図書館(私は医療者ではありませんが、医学系研究科に所属しています)のパソコン室で論文を書いていました。すると、しばらくして、学生が近くのブースに入り、ズームで話を始めました。

 話が漏れ聞こえてきました。どうも面接のようでした。自己紹介を聞いていると、講座は違いますが、同じ研究科の博士課程の学生だということが分かりました。いやぁ、立派でした。立て板に水という感じの話し方で、もう、自信たっぷり。こういう若い人が日本の医療界を支えていくのですね。

 先日、指導教員に私は年なので、非常勤でも研究者として働くのは無理だと言われましたが、今日の学生の受け答えを聞いて、さもありなんと思いました。あんな立派な若者たちが活躍する場に、私の居場所なんてあるはずがない。改めて思い知りました。

 でも、何となく気分は良かった。そうだよなぁと自分を笑えました。お弁当を持って、外に出てベンチに座り、ひと休みしました。賢そうな若者たちがおしゃべりしながら歩く姿を眺めました。周回遅れならぬ、何周も遅れていますが、こうして大学で学べるだけでありがたいことなんだと思ったのでした。

東大の総合図書館

赤門と桜

色鮮やかなツバキがきれい

医学部の管理・研究棟

図書館のパソコン室から見える風景。花が見えるところがいい


 

 

2025年4月8日火曜日

イチゴムース

  イチゴが美味しい季節です。今日は息子と一緒にイチゴムースを作りました。

 息子は料理が好きで、デザート作りも得意。このまま興味を持ち続けてくれて、将来、料理人かパテシエとかになってくれると、楽しいなぁ。

 

まず、イチゴのへたを取ります

イチゴをつぶします

水でふやかしたゼラチンと砂糖を混ぜ入れ、生クリームを8分立て

イチゴと生クリームをさっくり混ぜる

容器に入れる

冷蔵庫で冷やし、固まったらイチゴを飾ります

 明日が楽しみです。


2025年4月7日月曜日

指導教員との面談②

  4月1日の指導教員との面談で、これまで聞けなかったことを思い切って聞きました。学位を取った後に、研究員としての仕事があるかどうかです。指導教員の答えは明確でした。「あなたの年齢では、無理でしょう」。非常勤でも無理だと言います。

 指導教員によると、研究所の定年は60歳。それは、どこの研究所も同じだとし、残されている可能性は「海外」。でも、海外は実績が必要になるので、私のような今学位を取ろうとしている人間にはかなり難しいということ。

「研究の世界はとても厳しい競争の世界です。その中で自分の力を発揮し続けなければなりません。そして、研究はどんどん進んでいる。私がハーバードにいたころの研究と今の研究は全く違います。研究は若い人に任せないと。私も来年定年です。自分は老害だという認識を常に持ちながら、皆に接しています」

 そうかぁ、老害かぁ。私のような年の人間がたとえ授業料を払って、若い研究者の邪魔にならないようにしていたとしても、老害になるのかなぁ?と心の中で苦笑しました。

 修士課程と合わせて7年という期間、時間とお金とエネルギーをかけて研究の基礎を学び、研究を続けられないのは残念ですが、それが現実です。でも、何もかも休み休みで、自分が長生きできるとは思わなかった40代を経て、ようやく体調が戻った50代に少しずつですが社会の中で努力は出来た。それで良しとしなければ、ですね。

 

 

2025年4月6日日曜日

花見②

  今日の東京は午前中は晴れましたので、花見の名所「目黒川」と「桜坂」に行きました。

 目黒川沿いにはお店や屋台が並び、大変な混雑ぶりでした。夫と息子と一緒に焼き鳥やたこ焼き、シシカバブなどを食べながら、花見を楽しみました。

目黒川の桜

  桜坂は目黒川沿いに比べて人も少なく、ゆっくりと桜を見ることが出来ました。ここの桜は毎年見にきており、父が亡くなった日も知らずに来ていました。私にとって、あの日を思い出すと胸を締め付けられる思いがするのですが、一方でここは家族の思い出の場所でもあります。

 治療で髪が抜けてカツラをつけた私、薬で顔がむくんだ私、父が亡くなるとは知らずに花見を楽しんでいた私、そして赤ちゃんだった娘も息子も桜とともに写真に残っています。

桜坂の桜

 桜の命は短い。そして、人の人生もあっという間です。桜を見ていると人生のはかなさに思いを馳せてしまいます。

 

 

2025年4月5日土曜日

花見

  今週の東京は寒い日が続き、せっかく咲いた桜を楽しむことが出来ませんでした。今日、ようやく、晴れ間が見えて、花見を楽しむことができました。

 息子の幼稚園時代のママ友と子供たちと、公園で集いました。子供たちはバレーボールをしたり、ブランコに乗ったりして幼稚園時代と同じように遊び、ママたちは子供のこと、仕事のこと、体調のこと、などおしゃべりに花を咲かせました。

お弁当を持って、ピクニック

 私は息子を46歳で産みましたので、ママ友は10歳~15歳若い。でも、いつも「むっちゃん、隙間時間にお茶しない?」とか「むっちゃん、子供たちと花見しない?」とか誘ってくれるのです。本当に有り難く、これからもずっとママたちとご飯を食べたり、お茶したりして、楽しい時間を過ごしたいと願っています。

 

 

 

 

2025年4月4日金曜日

指導教員との面談

  母の体調悪化で慌ただしくしていた4月1日、指導教員との面談がありました。指導教員は大変多忙でこれまで年に数回話すぐらいでしたが、この日はしっかりと話が出来ました。

 私は今年度、博士課程4年目になります。この日、私が準備していった質問は三つ。一つ目は博士論文のスケジュールと内容、二つ目は他の講座のゼミの受講について、そして三つ目は博論提出後の見通しについてでした。

 まず、一つ目。博士号取得には他の大学の場合、国際誌や査読(専門家の審査)付きジャーナルに最低3本の論文が掲載されることなどという条件があるようですが、私の大学ではそういう条件がありません。かといって、簡単というわけではなく、教授らの厳しい審査を受け、かつ、その審査会での指摘をすべて反映させて、論文を仕上げて提出しなければなりません。

 スケジュールとしては9月初旬に題目届けというものを大学に提出し、11月に論文を提出。11月から1月までの間に審査を受けて、2月に修正した論文を提出します。

 その日、指導教員はホワイトボードに2つの文字を書きました。「博士論文」と「査読論文」です。

「学生には査読論文ばかり書いている人(実績になるため)もいます。でも、査読論文と博士論文は全く別物。査読論文が何本もあるからといって、博士論文が書けるわけではありません。だから、博士論文に集中すればいいと考える学生もいますが、査読論文なしでは博士論文は書けても審査会であれこれ指摘を受け、修正が間に合わず最終的な論文提出が間に合わないということもあります。審査会はとても厳しい。指摘されたことをすべて反映させなければ、論文は差し戻しになります。それならば、早めに査読論文であれこれ指摘を受け、不備なところを直したほうがいいのです」

「はい」

「ですので、まずは先日の論文を完成させることに集中すること。今週来週中にはチェックして戻します。おそらく、何度もリジェクト(ジャーナルに不採用となること)されると思いますが、そこから足らざるところを補っていけばいいのです。ですので、まだ、博士論文は書き始めなくてもいいです」

「はい。先生、今回私は量的調査(アンケート調査)と質的調査(インタビュー調査)の2つの分析を入れていますが、もう一つ入れたほうがいいと考えるのですが」

「それは何?」

「アンケート調査の自由回答の分析です」

「やってもいいですが、間に合わない可能性があります。それなしでも仕上げられるようにしてください。本文は最低100ページは必要です。中には500ページも書く人もいますが、何を言いたいのか?という散漫な論文になりますので、長過ぎもよくない」

「はい」

「私は来年定年ですので、今の3人(私を含む3人の博士課程の学生)を今年度中に何とかしなければなりません」

 初めて知った、指導教員が来年定年だという話。私は2年目で指導教員が変わっています。指導教員が変わるとまた一からやり直しですので、今年度中にケリをつけなければなりません。同じ専攻の他の講座では1年2年延長している学生は沢山いますので、条件としてはとても厳しい。でも、逆にこの1年集中しようと覚悟が出来ました。

「●●先生、あなたのことを心配していましたよ」 

 指導教員が急に話を変えました。その先生は私が学業を続けられるよう、最初の指導教員から現在の指導教員へ変更してくれた前専攻長です。ありがたいな、と思いました。

「あなたは、皆の心配の種なんですよ」

 そうだろうな、と思いました。年で、専門のバックグラウンドもなく、研究者としての経験もない。ないないづくしなのに、博士号に挑戦しようとしている。年のため研究者としての将来もない人間に時間を割かなければならないなんて、指導教員にとって迷惑なんだろうな、申し訳ないなという気持ちにもなります。

 私がその日、指導教員と話した内容はおそらく、とても基本的なことで、もっと前に話すべきことなのだと思います。でも、私にとっては、指導教員が私と話してくれたということだけで嬉しかった。私はこの研究室では完全に”外様”です。指導教員の専門とは違う分野の研究をし、長い長い暗中模索の日々を送りました。が、何とか持ちこたえて最終学年になり、手持ちの材料で勝負をしようとしている。

 がんサバイバーのおばさんが、孤独な戦いをしながら、東大に博士論文を提出するー。この無謀な挑戦はどういう展開を見せるか。自分でも全く予想できません。

 

 

2025年4月3日木曜日

母の格言

  今朝午前7時半過ぎに母から電話がありました。「久しぶりにぐっすり眠ったよ。いつもは2時ぐらいにしびれで目が覚めるんだけど、今日は4時半まで起きなかった。一旦目が覚めたんだけどそれほどしびれていなくて、その後7時半までまた眠ったんだよ」とほっとした声でした。

 今回の母の体調悪化でしみじみと感じたのは、近くに住んでいることの安心感と、夫と息子の協力のありがたさでした。

 母が札幌にいたときは体調が悪いと連絡が来ても駆け付けられるのは飛行機や電車の乗り継ぎがうまくいって、6時間後。飛行機の最終便に間に合わないときは翌日になりました。

 このブログにも書きましたが、以前母がまだ札幌にいたときに午後6時過ぎに体調が悪いと電話があり、実家に着いたのは午前0時を過ぎていました。あのときは息子を水泳教室に送ったばかりというタイミングでした。車で30分のところでしたので、夫に連絡をして帰宅。夫は私と入れ替えで息子を迎えに行ってくれました。私はすぐに身の回りのものをスーツケースに詰め込んでタクシーで羽田空港へ。そして最終便で新千歳空港に向かい、同空港から電車を乗り継いで実家に戻ったのでした。

 今は母は我が家から徒歩5分のところに住んでいますので、電話をもらえばすぐ駆け付けられます。また、夫も息子も協力的ですので、連携して母のサポートが出来ます。

 さて、明日のMR検査と来週水曜日の診察は、母が「大丈夫。自分で出来るから」と言います。理由は「どうしても体調が悪いときは助けてもらうけど、大丈夫なときは自分一人でやる。人を頼るとボケちゃうからね」とだそうです。

「一人だと診察時間に十分間に合うように何時ごろに家を出ればいいとか、電車はどこで降りるかとか、乗り換えはあるのかとか、保険証を持ったかとか、一つ一つ考えて、確認するでしょう? 失敗すれば次は間違えないようにどうしたらいいか、と考えるからね。家族が側にいてくれるのはありがたいけど、自分で何も考えないで家族がやってくれるとどんどんボケていってしまう」

 母は女のきょうだいの一番下で姉が5人いました。病気で早くに亡くなったのが1人、認知症になり長く施設にいたのが3人、90歳を過ぎても元気に一人暮らしをしていたのが1人でした。亡くなるまでしっかりしていた伯母は食料品を自分で買いに行き、料理が得意でした。母もスーパーやドラッグストアに一人で買い物に行きますし、料理が大好き。伯母の話を母から聞き、母を見ていると、やはり、自分で出来ることは自分でするーという気概を持っていることが大事なのだ思います。

 今回母が言っていたことが胸に響きました。

「このまま死ねるならいいんだけど…。札幌の家も処分したし、納骨堂も引き払ったし、お父さんの遺骨は東京の納骨堂にちゃんと収めたし、13回忌も済ませたし。心残りは全くない。でも、都合のいいタイミングで死ねるわけでもないし、死ぬまで生きていかなければならないからね。生きていくなら、施設になんか入らず、死ぬまで自分で自分の身の周りのことをしていたい」

 母は脳神経外科の医師に昨年11月、脳のCT検査の結果で、記憶をつかさどる「海馬」という部位が、母の場合はぜんぜん萎縮していないと太鼓判を押されたそうです。母を見ていると、高齢になり体のあちこちが弱ってきている中、生きていくのは本当に大変だなとと思いますが、出来なくなったことは何とか工夫しながら、一人暮らしで頑張っているからこそ、脳の状態も良いのだと思います。私も見習わなきゃなぁと思います。

 母の格言。

「私はあんたの道しるべ。あんたは私から、年を取って生きるってどういうことか学べるんだよ。よく見ておきなさい」

 はい。お母さん、ちゃんと見てますよ。

2025年4月2日水曜日

母 救急病院へ

  顔から足先まで左半身が全部しびれていた母は昨日、2つの病院で診察を断られ、息子と夫に付き添われて我が家に戻ってきました。私は研究室にいましたが、母からは「家に帰りたい」というメッセージが来たため、家路を急ぎました。とにかく私が帰宅するまで待つよう母を説得しました。

 私が帰宅したのは午後4時半。母の様子を見ても、やはり、母のマンションに帰らない方が良いと判断しました。母も私に「帰りたい」とメッセージを送ったきたものの、夕方になり手足や顔のしびれが強くなってきて、不安が増してきているようです。

「お母さん、昭和医科大学病院の脳神経外科に電話してみるね。不安な気持ちで夜を過ごすより、今からでも診てもらえるなら行こう」

「分かった」

 同病院は我が家から比較的近く、私も病気で何度もお世話になり、息子を出産し、また、子供たちも救急外来でお世話になりました。母も昨年の11月に今回のしびれの症状を診てもらうために脳神経外科にかかっていました。が、MR検査の予約をしていたのにも関わらず、恐ろしくてキャンセルしてしまったのです。ですので、母としてはきまりが悪くて行きたくないと言っていました。

 私としては行き慣れており、母のカルテもある同病院に最初から連れていきたかったのですが(夫からもなぜ昭和医科大学病院じゃないの?と聞かれていました)、母の気持ちを尊重し、別の病院を2つ探し、家族全員で母をサポートしました。が、その2つの病院で断られたので、母も観念したようです。

「お母さん、MR検査をキャンセルしたときもドタキャンではなく、きちんと連絡をしてキャンセルしたんだから、気にする必要はないよ。お母さんはお年寄りだから、医療者も事情を分かってくれるよ」

「うん。もう2つの病院に断られたから、納得した」

 昭和医科大学病院に早速電話をし、脳神経外科に電話を回してもらいました。4時45分でした。看護師さんが出てくれ、診療時間があと15分しかないので、救急外来に行くようすすめられました。

 早速、支度をして家を出ました。タイミング悪く車を車検に出しており、さらに昨日は雨。タクシーを拾おうとしても拾えません。タクシーのアプリをダウンロードしましたが、使い方が今一つ分かりませんでした。時間ばかり経ってしまうので、雨でしたが歩いて駅に行き、電車で病院まで行くことにしました。

「お母さん、ごめんね。タクシー拾えない。寒いけど電車で行こう」

「私は大丈夫だよ!」と母。母はこういうときは俄然しっかりしますので、助かりました。二人で「タクシーのアプリを使えるようにしなければね」と苦笑しながら、駅まで歩きました。

 電車に乗って、昭和医科大学病院の最寄り駅で降り、同病院の救急外来へ。受付の人は大変親切で、すぐ対応してくれ、間もなく診察をしてもらえることになりました。夫にその旨メッセージを送ると、夫からは「この病院は僕の家族の緊急時にはいつでも対応してくれる。ありがたい」と返信がありました。その通りです。

 診察室のベッドに寝て、問診を受けた母。母も私も父が脳梗塞で左半身が不自由になったので、母の症状から脳梗塞を一番心配していました。医師(若くて、綺麗で、誠実そうな女性医師でした)も私たちの心配に理解を示してくれ、MR検査を手配してくれました。ちょうどそのころ、自宅でのウェブ会議を終えた夫が駆け付けてくれ、母が乗った車いすを押して、検査室へ一緒に行ってくれました。

 検査結果では脳には異常がないという説明を受けました。そして、「しびれは脳の問題ではないようです。明日以降、整形外科を受診してください。今日はしびれに効くお薬を2種類出しますね」とのことでした。スタッフの皆さんにとても親切にしてもらい、救急外来を出ました。夜9時を過ぎていました。

 雨が降って寒かったですので、母に病院内で待っていてもらい、私と夫で病院外の薬局へ。タクシーのアプリをダウンロードしている夫がタクシーを呼んでくれ、3人で我が家に戻りました。家に着くと、ちょうど英語塾に行っていた息子が帰宅しました。

 母には娘のベッドで寝てもらうことにしました。夕食をとり、薬を飲み、お風呂に入ってくつろいだ母は、しびれも少し良くなったと言います。

 ところで我が家の構造は、1階の娘の部屋の天井の3分の1は2階の息子のベッドになっており(ロフトみたいな感じです)、娘と息子がベッドに寝て、おしゃべりが出来るようになっています。昨日は母が娘のベッドに寝て、私が息子のベッドに寝ました。少しおしゃべりをしましたが、母はすぐ眠りにつきました。そして、いびきをかいて、熟睡していました。

 母は毎晩夜中にしびれで目が覚めると言っていましたが、昨日はそのしびれも軽くなり、いつもより寝られたようです。脳梗塞ではないと分かり、家族と一緒にいる安心感があったのだと思います。

 今日は昭和医科大学病院の整形外科に母を連れていきました。医師が母の手足の様子を丹念に調べ、首のレントゲンとMR検査を手配してくれました。その結果は来週の水曜日に出ます。

 2日間ドタバタしましたが、とりあえず母は今日明日にも体調が悪化するような病気ではないことが分かり、安堵しました。また、家族全員で母をサポートできたことをとても嬉しく思いました。今日の午後、母はマンションに戻りました。夜、しびれで目が覚めることがないよう願っています。

 


2025年4月1日火曜日

母の体調悪化

  昨日、新たに覚えたインターネット検索と持ち前の行動力で病院探しをした母。自信をつけて気分良く寝たはずでしたが、今朝6時45分ごろ弱々しい声で電話がきました。

「足と手のしびれだけでなく、顔もしびれてきたの。もう、心細くて。朝早くてごめんね」と言います。とても不安そうです。

 母がこんな朝早く電話をくれるのは大変珍しいので、かなり症状が悪いのでしょう。詳しく聞くと、左半身だけがしびれると言います。私の父は62歳のときに脳梗塞になり左半身が不自由になりました。もしかしたら、脳梗塞の兆候かもしれないと思いました。

「お母さん、病院行こう。明日午後2時から脳神経内科の予約があるけど、待たないほうがいいと思う」。昨日、検討したもう一つの病院に行くことにしました。

「7時半ぐらいに迎えに行くから、支度をしていて。私、今日は申し訳ないけどキャンセルできない予定があるの。でも、病院には連れていけるから」。

 母は涙声で「ありがとう。じゃあ、待っているね」と電話を切りました。

 タイミングが悪いことに、今日は車を車検に出す日でした。約束していた入庫時間は午前9時、そして私は指導教員との面談の予約が10時に入っていました。指導教員は大変忙しい人ですので、年に数回しか話が出来ません。ですので、これを逃したら、指針がないままに博士課程4年目に突入することになります。ですので、キャンセルは出来ません。

 すでに起きていた夫に伝えると、夫は車で私と息子、母を病院に連れて行って、その足で車を持って行ってくれると言います。春休み中の息子も起こしました。準備をして母のマンションへ。

 夫と息子に車で待っていてもらい、マンションの4階に住む母を迎えに行きました。母はちょうど、朝食を食べているところでした。あんなに弱々しい声を出していた母でしたが、きちんと着替えてお化粧をし、お皿に枝豆と温泉卵、そして湯むきしたトマト、バナナを綺麗に並べ、おかゆを食べているところでした。それを見て、母は大丈夫だ、と思いました。

 母が食事を終え、歯を磨き、身支度をするのを待ちました。母はこんなときでも、3本の歯ブラシを使って、きちんと歯磨きをしていました。母は歯の調子が悪く、下の歯が入れ歯なので、いろいろ手入れの方法があるのでしょう。そして、電気を消し、エアコンのスイッチを切って、雨が降っているので、傘も忘れずに家を出ました。もちろん、バッグの中には保険証、お薬手帳、薬もきちんと入っていました。

 息子は起こすのに時間がかかりましたが、文句も言わず、ついてきてくれました。病院に着くとまだ受付が始まっていませんので、整理券を取ります。ここで私は息子に母を託しました。

「で、僕はどうすればいいの?」

「ばあち(母のことを子どもたちはそう呼んでいます)の側について、一緒に先生のお話を聞いてくれる? ママは研究室に行かなければならないし、ダディは車を車検に持って行かなければならないから、あなたがしっかりしてね。診察が終わって、家に帰れるようだったら、駅の近くにミスタードーナツがあるから、ばあちにおごってもらってね。入院ということになったら、ママとダディにすぐ連絡してね」

「オッケー」

 息子は整理券を持つ母の横に座り、携帯電話でゲームをし始めました。ゲーム三昧の息子ですが、こうして、祖母の病院に付き添ってくれる優しさがあることを有難く思うべきでしょう。

 私は息子と母を病院の待合室に置いて、夫が待つ車に戻りました。夫は最寄り駅に私を降ろし、車を預けに行きました。満員電車に乗って研究室に向かう途中、母からメッセージがありました。病院の受付で脳神経内科は予約が必要なので、まずは総合内科に行ってくださいと言われたと書いてあります。総合内科に行くと余分な時間がかかります。

 電車を降り、母に電話をしました。「今日、診てもらったほうがいいから、お母さん、昨日予約を取った病院に行ってくれる? 明日の午後2時に予約した人が今日来たということはよほど具合が悪いということだから、きっと診てくれると思う」

「私もここで総合内科に診てもらうより、別の病院に行ったほうがいい」言います。母に電車の乗り換えの説明をすると、タクシーで行くと言います。「お金はちゃんと持ってきたから大丈夫」と母。こういう緊急時にもきちんと現金を準備してくれて、助かるなぁと思いました。私は慌ただしくて、息子に現金を渡すなどという気が回らなかったのです。

 私は研究室へ、夫は車の車検へ、そして母と息子はもう一つの病院へ。結局、そこの病院では火曜日は脳神経内科の先生がいないということで、診察してもらえませんでした。診察してもらえませんでしたが、2つの病院に行ったことで母も納得し、私たち家族が全面的にサポートしているので安心したようで、体調も落ち着いたようです。一刻を争うような緊急時でもなさそうです。

 夫から車を置いて、電車に乗り、ちょうど母と息子が行った病院の近くまで来たという連絡がありました。夫と母、息子は無事合流し、家に戻ることになりました。夫は昼食にタコスを作ってくれたようで、母から電話があり「衝撃的に美味しかった!」と言い、ちゃんとある程度の量を食べてくれたようです。

 そして、夫は午後からのオンラインの会議に参加し、母は我が家の2階のソファでのんびりし、息子は相変わらずゲームをして、私の帰りを待ってくれました。が、母から午後3時ごろメールがあり、「申し訳ないので、帰る」と書いてあります。私は指導教員との面談のあと、会議が続いており、まだ帰れないでいました。

 夫からもメールがあり、「お母さんが帰ると言っているんだけど、心配だから、今日は僕らがお母さんの様子をみたほうがいいと思う。今日はここに泊まったほうがいい」と書いてあります。息子からも「ばあちが帰るって言っているんだけど、どうする?」というテキストメッセージが。

 私は母にメッセージを書きました。

「お母さん、今日はうちにいてほしい。体調悪化したら困るから」

「でも、やっぱり、あんたのうちでは寝られないし」

「お母さん、それも分かるけど、自分の家に戻って寝てまた夜不安になるより、うちで家族と一緒にいた方が安心じゃない? 私がお母さんの家に行って寝ることも出来るけど、何かあったときに、やっぱり私一人より、三人いたほうが手分けして対応できるし。今日はお母さん、うちにいてくれる?」

 母に電話をすると、「やっぱり、帰る」と言います。仕方ないので、すぐ帰宅して、母のマンションに一緒に行って、今日は母のマンションで寝ることにしました。研究所を出て、電車に乗り、家路を急ぎました。あと20分ほどで家に着くというときに母からメッセージがありました。

「なんかおかしいの。やっぱり帰らないほうがいいかもしれない」