2023年9月30日土曜日

22回目の結婚記念日

  昨日、22回目の結婚記念日でした。夫が赤いバラの花とシャンパン、そして手作りのチーズケーキをプレゼントしてくれました。

 夫は毎年、結婚記念日に花をプレゼントしてくれます。いくつになっても、花を贈られるのは嬉しいものです。昨年までは子どもたちもいたのに、今年は娘もいなく、息子は塾に行っていましたので、静かな夜でした。二人でシャンパンを飲みながら、子どもたちのこと、将来のこと、などを話し合いました。

夫がプレゼントしてくれた赤いバラとシャンパン

  夫と私が出会ったのはアメリカ・ミシガン州の大学です。卒業後は私は帰国し、英会話の講師を経て、新聞記者に。夫は少し働いてから、大学院へ進みました。お互い、キャリアを築くために忙しく、結婚したのは30代になってからです。

 アメリカに住むか、日本に住むか随分話し合い、結局は夫が日本に来る形で結婚しました。2001年のことです。9月に結婚式をハワイで挙げ、お互い、一旦はそれぞれの国に戻りました。同年の春に、札幌から東京に転勤してきたばかりの私は、東京都目黒区の1LDKの賃貸マンションに住んでいました。長い一人暮らしの間で必要なものはすべてそろえており、マンションも手狭なため、夫に「何もいらないからね。身一つで来てね」と伝えてありました。

 夫はサンフランシスコのアパートの物はことごとく処分し、大きなスーツケースとボストンバックとリュックサックだけで、11月に日本に来ました。そして、翌12月には大田区の2LKDの賃貸マンションに引っ越し。ようやく、落ち着いて生活が出来るようになりました。

 が、間もなく私は体調を崩し、どこの病院に行っても診断が下らず、ようやく2003年5月に血液がん「悪性リンパ腫」の診断を受けます。それから、1年後に退職し、私は長い闘病生活に入ります。あまりに病気が続くので、友人に「よく、離婚されないわね。夫がアメリカ人で良かったね。日本人だったら、とっくに離婚されているわよ」と言われました。そうなんだ、病気をするということは世間に「離婚される女」とみなされるのだーと深く落ち込みました。

 発病する前は私には経済力がありましたので、夫に求めていたのは経済力ではなく、家事力でした。そして、妻が働くことについて理解。その、結婚生活の前提となる私の経済力が、病気のためになくなってしまうなんて、人生は皮肉です。でも、夫は体調が悪い私を支え続けてくれました。

 時々、ご主人の経済力に期待して結婚したのに、そのご主人が事業に失敗したり、失職したりして、自身が働かざるを得なくなったーという女性の物語を読むことがあります。逞しい女性たちの物語を読みながら、人生は一筋縄ではいかないものなのだなぁとつくづく思います。

 私はいま、健康を取り戻し、普通の生活を送っています。このように不安なく暮らせるのは、夫のお陰です。感謝の気持ちを表すのをつい忘れがちになりますが、改めて、ありがとう。 

夫の作るチーズケーキは世界一、美味しい

2023年9月28日木曜日

娘の大学へ~母の出番

 23日から3日間の日程で、娘がこの秋入学した大学に行ってきました。寮の部屋に必要なものを娘と一緒に買いに行き、寮内にあるコインランドリーの使い方を教え、共用キッチンでご飯を一緒に作りました。25日は入学式にも参列し、新しいお友達やお母さんたちとも会うことができ、母親としてそれは幸せな3日間を過ごすことができました。 

 夫と入れ替わりで、私が行ったのは23日土曜日の午後。大型スーツケースとボストンバックに娘から頼まれた物を詰め込んで、家を出ました。重くて、重くて、電車や新幹線の乗り降りが本当に大変でしたが、頑張りました。

 駅に着いたら、娘が改札口前で待っていてくれました…と言いたいところですが、もちろん娘はそこにいず、「今、寮を出たところだよ」というメッセージが携帯電話にありました。娘らしいなぁと苦笑しながら、駅前の屋外カフェでレモンスカッシュを注文し、のどを潤しながら、娘の到着を待ちました。


 数分後に、Tシャツにジーンズ、長い髪をポニーテールにした娘がにこにこして私の方に向かってきました。いかにも大学生という雰囲気の娘は、表情も生き生きとしていて、心からほっとしました。まずは、ぎゅっとハグ。娘が東京にいたときは、毎日何回もハグできたのが、まるでずっと前のことのように感じました。「ママ、会えて嬉しいよぉ。ねぇ、学校に行く前にスーパー見る?」と娘。娘が夫と食料品を買ったという駅近のスーパーを見せてもらいました。店内は清潔で、品物も良く、買い物もし易そうでした。学校から徒歩5分ぐらいで来られますので、まずはひと安心。

 魚売り場で娘がいいます。「ママ、サーモンが食べたい」。「買ってあげるよ。ローズマリーもだね。お肉は?」「この前、ダディがもも肉と鶏の挽肉と生姜焼き肉用の豚肉を買ってくれたから大丈夫」。「生姜買った?」。「面倒だから、チューブのがいい」「そうだね。一人暮らしだから、チューブで十分だね」。

 そんな風におしゃべりしながら、買い物を終えて、キャンパスへ。開放的で、明るくていい雰囲気です。

 


 娘の寮はキャンパス内にあります。2019年に出来たばかりで、新しくて清潔感あふれる寮です。セキュリティは厳しく、管理人さんの前を通って入寮します。娘の部屋は最上階の5階。エレベーターに乗り、5階で降りて、学生たちが食事をする場所と共有キッチンを通り過ぎて、女子寮へ。ここも鍵がなければ入れません。

 

共用キッチン

 ドアを入り、すぐに共用バスルームとランドリールームがあります。ランドリールームには洗濯機と乾燥機がそれぞれ3台ずつ。「ママ、コインランドリーの使い方分からないから、後から教えてね。1回100円もするんだよ。何日間に1回でいいよね」と娘。

 廊下をしばらく歩いて、娘の部屋へ。4畳半ぐらいのこじんまりとした清潔感溢れた部屋です。備え付けのベッド、クローゼット、冷蔵庫、カラーボックス3つ、机、シンクと鏡、洗濯物干しのラックも。ラックはベランダに置いてありました。窓を開けると、それは気持ちの良い風が入ってきました。

娘の部屋のベランダから見える風景

 「ママが作ってくれた猫ちゃんのカバーをベッドの上にかけたら、とてもいい感じだったよ。ベッドの下は半分が収納になっているんだけど、半分が何もなくて、空けてみたら大きなスペースがあったの。で、スーツケースを入れてみたら丁度収まったの」と嬉しそうな娘。娘なりに工夫して、生活に必要な物をあちこちに収めたようです。


 でも、冷蔵庫の上に皿やコップ(自宅から持たせたものが沢山)が所狭しと置いてあり、シンク下に置いたカラーボックスも窮屈そう。机の上にも小ぶりの収納グッズが必要で、袖机やランドリーを入れる籠も買う必要がありそうです。ここは隙間家具を探すのが得意な私の出番です。

 さっそく「すっごく広くて、沢山の店があって、楽しいんだよ」と娘が言うイオンモール茨木に行くことにしました。モールは線路を挟んで向こう側にありますが、大学の前にある入り口から地下歩道を歩くと5分ほどで行けるようです。娘とのんびり散歩がてらモールへ。

 ここは沢山の店が入っていて、無印良品やキッチングッズ専門店、300円ショップ、100円ショップもあり、何でも揃いそうです。さっそく、スケール、洗濯物を入れるバスケット、食器を置く整理棚などを買いました。そして、寮に戻り、それらを収めてみました。

 23日の夜は京都のホテルに泊まりました。茨木市から電車で30分ほどなので、すぐ着きます。夕ご飯はパスタを食べました。ホテルで娘と二人、おしゃべりをしながら、寝ました。

 翌24日はチェックアウト時間の11時までホテルでのんびりし、また、茨木キャンパスへ。昼ご飯は娘が、しらたきと豚肉の炒め物を作ってくれました。娘は新しく出来たお友達数人とモールでランチをすることになったといいます。「ごめんね、ママ。せっかく遠いところ来てくれたのに」と申し訳なさそうでしたが、私は、娘が楽しそうにお友達とランチに行く姿を見るのが何よりも嬉しかった。仲良くなったお友達は、アメリカ人と日本人、カナダ人と日本人、中国人と日本人、韓国人と日本人のハーフと、ハーフの子が多く、娘も居心地が良いようです。友達が出来るだろうか、と心配していましたので、安心しました。

 娘の作ってくれたご飯を食べ、娘をエレベータまで送った後、共有キッチンで洗い物をしました。すると、「こんにちは!」と声を掛けられました。たぶん、学生のお母さんでしょう。「こんにちは。新しく入学されたお子さんのお母さんですか?」と聞いてみると、その人はにっこり笑って、「私、研究員なんです。韓国からきました」。娘の寮をうろうろするのは気が引けていましたが、彼女を見てほっ。私もここに滞在している研究員と学生たちが思ってくれたらラッキーです。

 娘の部屋に戻り、ベッドに寝転がってみました。グラウンドからは今風の音楽が流れてきて、スポーツをする女子学生たちの掛け声が聞こえます。何て素敵な音なんだろうとすがすがしい気持ちになりました。娘がこのようなキャンパスライフを送ることが出来て、本当に良かったと安心しました。

 娘が機嫌良く帰ってきた後は、コインランドリーの使い方を教えました。洗濯物をラックに干して、再びモールへ。洗剤などを入れるピッタリサイズの収納ボックス、文房具を入れる引き出し、お風呂グッズを入れる籠などを買いました。これで寮の部屋は完璧です。

シンク下に買って収めた無印良品の収納ケースと籠

冷蔵庫の上にはラックを買って、皿などを収めました

100円ショップで買った袖机

 翌日は入学式でした。娘は私の母が買ってくれたスーツを着て、参列。私も一緒に行きました。大学生と大学院生の合同入学式は全て英語で行われました。これまで同様、英語で学ぶことが出来て、心配が少なくて何よりです。


      写真を沢山撮って、ランチは再びモールのフードコートで。そして、昼食後は空になったスーツケースを押して、駅へ。改札口の前では、娘が泣いて泣いて、私も後ろ髪を引かれる思いでした。何度もハグをし、「また、フェイスタイムで話そうね」と言い、別れました。ホームで電車を待っていると、娘から「涙が止まらない」と大泣きの画像が送られてきました。

 でも、大丈夫。娘には何人もの友達が出来、翌日からは授業が始まります。娘が楽しく学べますようと願いながら、茨木を後にした私でした。そして、夜、娘からは「寮のお友達と一緒にご飯食べているの!」と弾んだ声で電話がありました。良かった、良かった。

2023年9月26日火曜日

娘の大学へ~父の出番

  娘の巣立ちの日はあいにく関西方面に出張中だった夫が21日、娘の入学した大学に立ち寄りました。その日は講義の履修登録の日。娘の学部のプログラムは全て英語で行われ、手続きも英語ですので、夫の出番でした。

 夫が大学を訪れたのは初めて。開放的な雰囲気のキャンパスがとても気に入り、また、清潔感のあるこじんまりとした寮の様子にも安心したようでした。履修登録を手伝った後、娘と一緒にスーパーに買い物に行き、お米や調味料、食材などを買ったよう。

 食事は、キャンパスから歩いて5分ほどのところにあるイオンモール茨木のフードコートでしたようです。このイオンモールは約150店舗が入る巨大モールで、レストラン、ファッションや生活用品店のほか、映画館も入っています。こんなモールが徒歩5分のところにあるなんて、娘は幸せです。また、モールは線路を挟んでキャンパスの反対側にありますので、キャンパス内はとても静かなのです。

 夫からは、それは楽しそうな声で電話がありました。娘が学ぶ場所や寮を見て、ほっとしたようでもありました。「部屋の中にいろいろ必要な物があるようだけど、君に任せたよ。こういうのは母親のほうが選ぶのが上手だと思うから」と夫。私は23日から3日間の日程で娘の所に行くことになっています。

 夫はその日の深夜、東京に戻りました。夫が帰るとき娘は随分泣いたようです。でも、翌日、娘からは元気な声で電話がありました。夫から買ってもらった食材でご飯を作ったという報告でした。メニューは鶏の挽肉に豆腐を混ぜたミートボール入りのトマトスープとおにぎり、冷ややっこ、トマト。「スープ、結構おいしくできたよ。作り過ぎちゃったから、明日の昼ご飯にする」と娘。娘は小さいころから料理が好きでしたので、この点については全く心配いりません。

娘が送ってくれた、寮で作った食事の画像

 娘から送られてきた写真を見て、ほっとした母だったのでした。

 

 

2023年9月25日月曜日

息子の不安

 「今日も、変な夢を見た」。娘が巣立った日の翌朝、息子がまた夢の話をしました。息子は前日、娘に腕を切られる変な夢を見たばかりです

「どんな夢だったの?」

「家族全員で、白い大きな箱の中に入っているの。4人で寝ていたんだけど、僕が目覚めたときはダディもママもおねぇねぇも遠くに行っていて、僕だけ一人で寝ているのに気が付いた。怖い夢だった」

 よほど、精神的に不安定なのでしょう。注意深く、息子を見守っていかなければ、と思いました。娘は息子より7歳年上で、息子をそれは可愛がっていました。私や夫が息子に厳しく接すると、助け船を出すのはいつも娘。それでいて、娘は食べ物の”平等”にはうるさくて、息子に割り当てられた食べ物が多いと真剣に抗議してきて、それが逆に家族の笑いを誘いました。

 息子は自分の毎月のお小遣いから、娘の大好きな漫画を買っていました。娘の関心を引くためだったと思います。おやつを買うときは必ず、娘の分も買いました。娘の喜ぶ顔を見るのが嬉しかったのでしょう。私たちもそうでした。娘の飛び切りの笑顔を見ると、心が癒されました。

 息子は言葉少なに朝食を取り、普段通りに登校しました。家を出るとき、「今日はお友達を家に呼んだら?」と声をかけてみました。火木は塾のない日なので、午後3時半過ぎに帰宅してからは時間に余裕があるのです。息子は「うん」とだけ、返事をしました。

 息子は午後3時半過ぎに帰宅。「友達を呼んだよ」と嬉しそうです。仲良しのお友達が3人、次々と遊びに来てくれ、ゲームをしたり、トランプをしたり、楽しそうでした。受け答えが素直で、とても気持ちの良い少年たちです。朝は元気のなかった息子も、友達と遊んで、元気を取り戻したようです。

 ”塾行かない”問題と、小6という年齢(先輩ママさんらによると、男子はこの年齢からだんだん親と話さなくなるそうです)から、親として対応がとても難しくなっている息子。さらに、息子が慕っていた娘がいなくなり、これからは息子の笑顔と口数が少なくなるような気がしました。

 私の存在が負担にならないよう心がけよう、つい言ってしまう「宿題はしたの?」「勉強しなさい」という言葉を控えよう、息子の心に寄り添うよう努めようと思いました。でも、それが出来るかどうか、私は全く自信がありません。

2023年9月20日水曜日

巣立ち

 今朝、娘が巣立ちました。自宅最寄り駅から朝5時36分の新横浜駅行きに乗り、新幹線で京都へ。京都駅で電車に乗り換え、大学のキャンパスがある茨木に向かいました。

 家を出る前に、娘はまだ寝ている息子をぎゅっと抱き締め、「じゃあね、おねぇねぇ行くからね。大好きだよ!」と何度も語り掛けていました。自分の部屋にも「さよなら、私の子ども時代。大好きな部屋、大好きなお家、バイバイ」と涙をこぼしながら、声をかけていました。そして、私にもハグをしてくれました。

 車で、駅まで送りました。インターナショナルスクールに通っていたころ、毎朝毎朝ここに娘を送った日々を切なく思い出しました。娘は必ず、どんなに急いでいても、私のほうを振り返り、にこにこして手を振ってくれたのです。

 今朝は車を停めて、駅の改札口前まで送りました。娘をぎゅっと抱き締め、「いってらっしゃい」と送り出しました。娘の目からは涙がこぼれ落ちました。娘は、「また、明後日会えるのにね」とくしゃくしゃの顔をして、笑いました。入学式に参列する予定なので、あと数日したら会えるのです。

大型スーツケースを押し、ぬいぐるみを抱え、ヴァイオリンを背負って改札機を通る娘

 でも、娘は家にはもうしばらく帰りません。娘がエスカレータに乗って視界から見えなくなると、寂しさが増しました。ふと、お財布の中にパスが入っていることを思い出し、改札を入りました。エスカレータを駆け上がると娘が目の前に。

「ママ~。来てくれたんだね」とまた、娘は顔をくしゃくしゃにして泣きました。娘をもう一度ハグし、「18年間、とっても楽しかったよ。ありがとう!」と言うと娘は、「ママも私を産んでくれてありがとう!」と返してくれました。

 ほどなく電車が来て、娘が乗り込みました。電車のドアが閉まり、動き出しました。電車はすぐに見えなくなりました。

「母親は、子どもに去られるためにそこにいなければならない」

 心理学者エルナ・フルマンの、有名な言葉です。この言葉を胸に刻んだのは、数年前のことだと思います。子どもはいつまでも親を頼らない。子どもなりのタイミングで巣立ちをしていく。だから、親がすべきことは「去られるためにそこにいること」だと説いたこの言葉。私はちゃんと娘に去られるために、そこにいました。去られるときが予想よりずっと早かったけど…。私は、母親としての役目を一応は果たしたでしょうか。

 帰宅してしばらくして、息子が起きてきました。

「おねぇねぇ、行っちゃったね」と寂しそうです。そして、「変な夢を見たんだ」と言います。牧場を家族で訪れていて、そこで娘は「牛を切る仕事をしている」というのです。そして、息子に「この牧場では左腕を切ることが許されているの」と言い、息子の左腕を切るのだそうです。息子は「前も同じ夢を見た」と言います。そして、「なんか、左腕が軽い」とも。

 これはどういう意味かしら?とネットで夢占いを探しました。それによると、腕が切られる意味は「あなたが自由に動ける範囲が狭まること」だそうです。そして左腕の意味は女性の身内で、母親か姉。息子にとって姉は頼れる存在。娘はそんな弟から、自分自身を切り離したのです。息子は姉がいなくなり、自由に動けなくなる。つまり、私と夫の関心が息子に集中してしまうという意味でしょうか? ありえそうだと思いました。気を付けなければ…。

 朝起きたときの、娘のにこにこ笑顔を見られないんだな、帰宅したときの「ただいま。ママ、ご飯なに?」という娘の言葉がもう聞けないんだな、そう思うと本当に寂しい。

 でも、娘は元気に巣立ちました。真っすぐ前を向いて。我が愛しい娘、頑張るんだよ! 応援しているよ、ずっと、ずっと。

 

2023年9月19日火曜日

巣立ちの前夜

  明日の巣立ちに向け、今日は娘の荷物詰めを手伝いました。この数カ月間、買い物に出掛けたときはお店で、日々暮らしていて気が付いたときにはネットや通信販売で、一人暮らしに必要な様々なものを娘のために買いそろえてきました。

 娘は黒猫が大好きなので、そろえたグッズには黒猫の模様がついています。マグカップ、ショッピングバッグ、箸置き、バスタオル、ハンドタオル、お弁当バッグ、バスマット、化粧ポーチ、筆箱、そして、娘が小さいころに縫った猫の模様のブランケットも。

 そのほか、まな板やフライパンなど調理用品、食器やカトラリーなど食事で使うもの、そして洗濯ばさみやネットなど洗濯するときに使うもの、シャンプーやソープなど生活必需品。

 そのほか、「Bucket List」という、人生でしたい100のことを書くノートも贈りました。私も若いころから、目標や夢をノートに書くのが大好きで、書いたことは大半が実現してきました。だから、娘にもワクワクしながら目標や夢を書いてほしいなぁと願いました。

娘に揃えた黒猫グッズ。パジャマも猫柄

 あまりにも慌ただしいですが、明朝、娘は家を出ます。夫は出張中なので、今晩は私と娘、息子と3人で寝ます。

2023年9月18日月曜日

Chapter1

  9月20日の旅立ちに向け、娘は一つ一つ自分の中に区切りをつけているようです。土曜日には中高校時代を過ごした横浜に「さよなら」をしに行きました。

 家族と一緒にいるのが大好きで、家族と一緒にランチやディナーに出掛けたり、お茶を飲んだりするのが大好きだった娘。私たちも娘が大学進学で家を離れてしまうのが寂しくて少しでも一緒に過ごそうとしていますが、土曜日は「ママも一緒に行っていい?」と聞いても、「ごめんね、一人で行きたいの」と断られてしまいました。

 娘は申し訳なさそうに、「もう横浜に行くこともあまりないと思うから、りんご飴の店とか、シシカバブの店とか、アニメのグッズの店とか、お化粧品を売っている店とか、一人でじっくりと楽しみたいの。ごめんね」と言います。

 娘は続けます。「私の人生のChapter1が終わるから、家から離れるChapter2をきちんとスタートさせるために、Chapter1でたくさんの時間を過ごした横浜にさよならしてくるの。だから、一人で行きたいの」

 娘は横浜・元町にあるインターナショナルスクールに通っていましたので、横浜の想い出がたくさんあります。私も、娘の学校のコーラスグループで歌ったり、学校のイベントに参加したり、娘と元町のレストランやカフェでランチやお茶をしたりと、楽しい想い出がたくさんあります。

 そんな想い出を娘と一緒にまちを散策しながら振り返りたいなと思いましたが、そこはぐっとこらえて「いってらっしゃい!楽しんできてね!」と娘を送り出しました。

 娘は夜、機嫌良く帰宅しました。りんご飴をお土産に買ってきてくれました。娘の最近の行動を見ていると、大人になったなぁとつくづく思うとともに、大人になってしまったことが寂しくてついつい目頭が熱くなるのでした。

娘がお土産に買ってきてくれたりんご飴


2023年9月17日日曜日

娘のお土産

  娘が京都から帰ってきました。お土産とお土産話をたくさん持ち帰ってくれました。

 15日に入寮者向けのオリエンテーションがありました。娘に男女の比率を聞くと、「男子6割女子4割ぐらいかなぁ」。外国人が多かったらしく、「中国人と韓国人が多かったよ」とのこと。確かに親元から離れる海外留学ではやはり寮が安心です。部屋は4畳半ほどの大きさで、部屋の中を撮影した動画を見せてもらうと、ベッドやカラーボックスの位置を変えて、使いやすくしたようです。持っていった洋服もクローゼットにちゃんとかけていました。

 私も留学したときは最初は寮、1年経ってからキャンパス内のアパートに移りました。夫も確か1年間は寮、その後はキャンパス外のアパートに移りました。昔ですから、寮の部屋は3人でシェア、アパートは2人でシェア。夫はアパートを3人でシェアしていました。もちろん寮は2段ベッド、アパートですらベッドルームをシェア(さすがにシングルベッド2つでした)ですから、プライバシーなんてまるでなし。ですから夜12時まで開いている図書館か、24時間空いているパソコンルーム(昔はパソコンが貴重でした)で勉強していました。それが当たり前の時代でした。でも、今は個室でなければ、誰も入らないでしょう。

 親の私としては、卒業までこの寮にいてほしいなと思っています。やはり、セキュリティがしっかりしているところが安心です。

 娘がお土産にと買ってきてくれたのは、私と息子にはミスタードーナッツと「ビアードパパ」のシュークリーム。そして甘い物をあまり食べない夫には「京都レモネード」。こんな気遣いもしてくれるようになったのだなぁとじんときました。

 娘の土産話を聞きながら、食べたミスドのチョコファッションはやっぱり美味しかった!

2023年9月16日土曜日

ブログ名を変更しました

  ブログ名を変更しました。このブログは2015年に「アラフィフママの育児日記」に始まり、筆者のマイヤー睦美が年齢を重ねたため、「アラフィフママの育児(育自)日記~ミッドフィフティーズ編」に変更。さらに年齢を重ね、今度は「アラ還編かなぁ?」とも考えましたが、これからもずっと続けていくことを考え、このタイミングで思い切って変えることにしました。

 私は38歳でがんを患い、治療後39歳で双子を出産・死産、その後がんの再発・再々発を経て46歳で再び出産。その後は社会復帰への”険しい”道を歩んでいます。その楽しくも一筋縄ではいかない日々を、時には笑い飛ばし、時には涙しながらつづっているのがこのブログ。「人生100年時代を元気に生きるがんサバイバー」として発信するために、ブログ名でその点をはっきり表そうーと思いました。それが、変更の理由です。

 ブログを開始した2015年は、おそるおそる社会復帰の一歩を踏み出した年でした。当時、娘はまだ11歳、息子は4歳。翌年、自身のがんと関連疾患の治療や46歳での長男の出産についてつづった闘病記を開高健ノンフィクション賞に応募。最終候補に残りましたが出版に至らず、合同会社「まりん書房」を立ち上げ、出版。現在は、東大大学院医学系研究科博士課程の院生として国立がん研究センターが運営するWebサイト「がん情報サービス」の改訂に向けての調査研究に携わっています。

 こうして、目まぐるしい日々を送っていますが、目指しているのは「がん患者さんとご家族のお役に立つこと」。家族との暮らしを大切にし、育児も自分なりに一生懸命やりながら、何とか社会の一員としてお役に立ちたいと願っています。

 ブログ名をこのタイミングで変えたのは、私が運営する”ひとり出版社”「まりん書房」の2冊目の出版に向け、ホームページを全面的に変えることにしたからです。まりん書房のホームページとこのブログを互いにリンクさせようと考えました。2冊目はがんのお母さんを取材します。ホームページももう少しで出来ますので、そのときはご紹介させていただきます。

 ブログのイラストは、東京都大田区のデザイン会社「pamz.」の宮嶋さんと北條さんに作っていただきました。ありがとうございました。 

2023年9月15日金曜日

娘がおじやを作ってくれた

  娘が茨木に行く前日、体調不良でダウンしてしまいました。38度の熱が出て、体もだるく、何もする気になれずにベッドに潜り込みました。

 そのときに娘が作ってくれたのは、おじやです。豚肉のしゃぶしゃぶで残ったスープを使い、味噌で味付けしてくれました。フルーツと薬も添えてくれました。

娘が作ってくれた夕食。薬も添えてくれました

 このおじやは、私が夕食にしゃぶしゃぶをした翌朝に必ず作ってきたレシピ。この日も準備していましたが、体調が悪く、作れませんでした。私の代わりに娘が家族のために作ってくれ、私にはおじやも作ってくれました。娘のおじやは、とてもやさしい味がしました。

2023年9月14日木曜日

娘の入寮手続き

  今日、娘が大学の入寮手続きをしに1泊2日の日程で、大阪府茨木市に行きました。娘が入学する立命館大学は関西圏にいくつかキャンパスがあり、娘の学部があるキャンパスは茨木市にあります。京都駅から電車で30分ほどのまちです。

 今朝は家族4人で、駅まで行きました。「4人で朝、一緒に歩くのはもうあまりないかもね」と言いながら、ちょっぴり寂しい気持ちにもなりながら、歩きました。途中何度か、携帯電話で自撮り。まずは息子を小学校に送り、次は駅へ。娘は東京駅へ、夫は大手町へ向かう電車に乗りました。在宅の私は駅前のスターバックスへ。

 1時間ほどして娘から電話がありました。「新幹線に乗ったけど、自由席がいっぱいで座れなかった」とのこと。これから、京都往復は頻繁にあるでしょうから、指定席ではなく、自由席を買っていたのです。

「隣の座席に荷物置いていた人がいて、ここ、空いていますか?って聞いたけど、荷物を置いているからダメって言われたの」と娘。

「他に荷物置いている席はなかったの?」

「いくつかあったけど、聞くのは勇気がいるし、断られるのはさらに嫌だし。そんなことに1日の限られたエネルギーは使いたくなかったの」

「そういう考えって、いいね。確かに人のエネルギー量は決まっているよね。じゃあ、次回は1人に聞いてダメだったら、2人目に聞くことにしたら? それでダメだったら、諦めて、その次のときに3人目に聞いてみるの。それなら、できるでしょ?」

「うん、そうするね。私、今出入り口の扉の前にスーツケースを置いて、その上に座っているの。いい感じだよ。窓は大きくて、景色が良く見えるの」

 娘から、窓の近くで機嫌良くしている自撮り写真が送られてきました。「じゃあ、寮に着いたら電話するね」

 次に電話があったのは12時半。ビデオ電話「フェイスタイム」で部屋の中を見せてくれました。4畳半ぐらいのこぢんまりとした、いい部屋でした。小さな洗面台と冷蔵庫(冷凍庫付き)があり、机とベッド、布団や毛布も完備。寝具は2週間に1度、取り換えることができるそうです。キッチンとシャワーが共用。寮は男女が分かれていますが、吹き抜けになった場所を境に分かれており、それぞれが向こう側も見え、ちょうど良い距離感です。

「見て、見て、ママ。ここから空が眺められるの。空が見える部屋でありますようにってずっと祈っていたから、とても嬉しい」と言い、窓からの眺めも見せてくれました。広々としたテニスコートが下に見え、遠くにスーパーの「イオン」の看板が見えました。とても開放的な眺めでした。

 寮の手続きを終え、少し仮眠を取った後、娘はイオンモールまで行ったようです。帰宅後、また電話をくれました。

「無印やGAP、ダイソー(100円ショップ)もあったんだよ。サーティンワン(アイスクリーム)もママの大好きなミスタードーナッツも」と嬉しそう。

「無印とGAPにダイソー? その上にサーティンワンにミスド!!最強じゃない。良かったね。ところで夕ご飯は何食べたの?」

「ラーメン。でも、京都の麺って変わっていた。食べた後に、スーパーに行ったの。スーパーは2つあって、1つは高級スーパーでもう1つは安いスーパー。安い方のお肉を見てみたけど、脂が多い感じだった。でも、高級スーパーに比べて、結構安かったよ。品物の種類は少なかったけど」

 娘の学費は私の父が遺してくれた教育資金で賄います。そのほかについては、「寮費はダディとママが払うけど、食費やお小遣いはアルバイトをして稼いだお金で賄ってね」と伝えてあります。夏休みにスーパーでバイトをして貯めたお金は食費に充てるそうです。先日は娘に頼まれて一緒に文房具屋さんに行き、「家計簿」を買いました。無駄遣いをしていないかどうか、振り返るためにつけるそうです。

 娘はゆっくりですが、一歩一歩自立への道を歩んでいます。

2023年9月11日月曜日

母の日常

  昨日は母の好物のカボチャの春巻きを作ったので、差し入れようと、母のマンションに行きました。夕ご飯の時間を目掛けて行きましたが、残念ながら不在でしたので、合い鍵を使って入りました。

 母の家は私の家と違い、どんなときも整理整頓が出来ています。テーブルの上にあったのは読みかけの本と漢字を練習している途中の紙。本の中身をちらっと見ると、樋口恵子さんが書いた本でした。タイトルは「90歳になっても楽しく生きる」。

 そうかぁ、母は楽しく生きようと努力しているんだ。きっと本を読みながら、忘れがちな漢字を拾っては、練習しているんだろうなぁ。

 85歳になる母がいつもシャープでいるのは、きっと日常的にこんな努力をしているからなのでしょう。私は袋の中から、春巻きが入った容器を取り出しテーブルの上に載せました。枝豆2袋は冷凍庫に。和菓子は仏壇にお供えしました。しばらく待ちましたが、母は帰宅しないので、帰ることにしました。

 マンションを出て自転車に乗ろうとしたところで、母が戻ってきました。

「あらっ、来てくれたの? ごめんね。私、今散歩していたの」

「カボチャの春巻き作ったから、持ってきたの」

「ありがとう。ちょうどこれから夕ご飯食べようと思っていたの。少し、寄っていく?」

「うん」

 再び、マンションへ。母は冷蔵庫の中の作り置きのお惣菜をいくつか出して、「これ食べる?」と聞き、小鉢に入れながら言います。

「ねぇねぇ、このTシャツいいでしょ? この前、ユニクロで買ったの。1500円ぐらいで、こんなに素敵なTシャツ買えるんだよ」

 薄いピンクの可愛いらしいTシャツでした。年を重ねても、こうしてお手頃価格の新しいTシャツを買い、それを着て散歩する母は、偉いなぁと思いました。こういうところは見習わなければ、ですね。


 

2023年9月10日日曜日

娘の絵を家に~マイヤーギャラリー①

  我が家の娘は小さいころから絵を描くことが好きでした。何時間でも飽きずに絵を描いていました。幼稚園生のときにクレヨンで描いた絵も、小学生の時に水彩絵の具で描いた絵も、上手に仕上がった作品はフレームに入れて、家のあちこちに飾っています。

 6月に卒業したインターナショナルスクールで描いた絵も、飾り始めました。まずは、1点1点、娘と相談しながら、近所の額縁屋さんで額装してもらいます。夫も交えて飾る場所を考えます。高校時代の作品の1点目は玄関に飾ることにしました。

 私が娘と息子を抱いている絵。これは円形なので、枠をオーダーしました。グスタフ・クリムトの絵から着想を得て描いているこの作品には、金が多用されています。ですので、選んだのは渋い金色の枠。マット紙は作品が引き立つ黒を選びました。黒のマット紙の下にほんの5㎜ほど、金のマットも入れました。


我が家の玄関ドアは青色の木のドア。このドアは春のリフォームのときに迷いに迷い、最後は納得して選んだドアです。このドアを開けると、娘の絵が目に飛び込んできます。




2023年9月9日土曜日

行くべきか行かぬべきか

  昨日の私は、心が不安定でした。昼間、大泣きしました。でも、夜は自分の判断はあれでよかったのだと納得し、心穏やかに眠ることができました。昨日の私の心の動きを皆さんと共有したいと思います。

 ”事件”の発端は水曜日のグループ会議。これは私の指導教員である教授と研究者、IT担当、秘書が集まり、自分の仕事の進捗を話し合う場です。

 そこで気付いたのは昨日から金沢市内で開かれている「がん予防学会」にほとんどの研究者が参加するという事実。私もその学会のことはぼんやりとは知っていましたが、私は10月末に開かれる別の学会で研究発表をすることになっており、そちらに注力していたため、すっかり失念していました。

 私の指導教員の専門は「がん疫学」。私は昨年春に大学院博士課程に入学し、別の指導教員についていましたが、いろいろ事情があり、今年から今の指導教員の下研究しています(顛末はこのブログにも書いています)。指導教員の専門は私の研究の分野と違いましたが、私の研究テーマと似ている研究班に私を割り当ててくれ、現在、私はそちらの研究に集中しています。

 でも、私としてはせっかくその指導教員に引き受けていただいたので、その専門について学びたいという気持ちを持っています。さらに、研究室のほとんどの研究者がその学会に参加している。その仲間に入りたいーという気持ちもありました。

 で、急ではありますが、その学会に行くことにしました。指導教員に聞くと、「いいですよ。じゃあ、●●費から出張費は出します」と秘書の方にその旨伝えてくれました。そして、秘書の女性から送られてきたエクセルのファイル。そこには、その学会への貢献度をパーセンテージで記すことになっていたのです。ガーン! 私は他の研究に携わっていますので、こちらの学会への貢献度はゼロ。で、その女性に「私は貢献していないので、自費で行きます!」と返信しました。

 調べると学生の参加費は無料。あとはホテル代と交通費負担だけです。娘と一緒に軽井沢にいる夫に電話で相談すると、「行ったほうがいいと思う。先生の専門分野について君も学べるし、他の研究者と交流もできる」と理解を示してくれました。学会は金・土の2日間の日程。今月末から娘が京都の大学(キャンパスは茨木市にある)に行くので、その前に軽井沢で過ごしたいと火曜日から向こうの家に行っている夫と娘に、本来なら土曜日に戻る予定を一日早めてもらい、金曜日の夜に戻ってもらうことにしました。

 息子は学校から3時半過ぎに帰宅しますので、1時間だけ一人で過ごしますが、午後4時半に家を出て塾へ向かう。で、夫と娘が、午後6時か7時くらいに自宅に着き、午後8時45分に夫が塾に息子を迎えに行くー。そんなスケジュールを立ててもらいました。

 学会の前日の木曜日に、金沢駅近くのホテルを予約し、新幹線の切符は当日朝に買うことにしました。そして木曜日の夜。台風が近づいているというニュースが流れ、息子の小学校からは「天気予報を見て、明日7時に対応を決めます」とのメールが。

 そして昨日金曜日の朝7時。学校からは特に連絡がなかったので、雨足が強まっていましたが、8時過ぎに息子と一緒に家を出て、そのまま東京駅に向かいました。学会は午前9時から始まっていましたが、「子育て中は全部参加は無理」と割り切り、午後から参加することに決めていました。あとは、息子の「塾行きたくない」が始まり、親がいないことをいいことに、塾を休むことがなければ順調に行きます。私は息子に釘を刺しました。

「ママ、学会に行ってくるから、今日は『塾行きたくない』は止めてね」

「学会? うわっ、プロフェッショナルぅ!分かったよ。今日はちゃんと塾に行くから」

 息子は私とバトルを繰り返しますが、自分が我儘を言ってはいけない重要な局面は判断できるらしく、一応は納得してくれました。

 そして、東京駅についたのが午前9時過ぎ。ものすごい人です。台風の影響で運転見合わせになっている新幹線もあったのでしょうか。乗車券売り場は大混雑。券売機の前にも人が並んでいます。私は9時20分発の「かがやき」で金沢に向かう予定でした。駅員さんを捕まえて、「ギリギリの時間なのですが、車内で乗車券を買うことは出来ませんか?」と聞きましたが、「入れるのは事前に乗車券を買った方だけです。券売機で買ってください」とにべもない。

 気を取り直して、券売機の前に並びました。ラッキーなことにすぐ私の順番が来ました。画面で金沢・自由席のボタンを押すと、何と片道13,850 円。ガーン! ここで、私は運賃を調べていたときに乗車券代約7,000円だけを見て、特急券を見ていなかったことに気付きました。でも、ここまで来たんだから、と自分を納得させて、購入。そして、改札を通り、電光掲示板で「かがやき」が発車するホームを確認し、エスカレーターを上りました。発車5分前のギリギリでしたが、間に合いそうです。

 ホームに出ると、たくさんの人がいました。「台風でも、こんなに大勢の人が移動するんだ」と感心しながら、自由席の乗り口を探していると、「『かがやき』は全席指定席です。自由席の券をお持ちの方は、35分発の『はくたか』にご乗車ください」というアナウンスが流れました。ガーン!

 ここで、私の気持ちは揺れ始めました。「何で、全てがうまくいかないんだろう? これは、行くなという意味だろうか」と。でも、行きたい!学びたい!他の研究者らの仲間入りしたい!という切実な思いがこみ上げてきます。

 再び、気を取り直して、「はくたか」の発車するホームへ。のどが渇いてきましたが、飲み物を買う余裕もなく、自由席の乗り口を探して、発車2分前に乗ることが出来ました。比較的空いていたので、座席に座ることが出来ました。ほっとしたのも束の間。「本当に金沢に行っていいのだろうか?」という気持ちがむくむく湧いてきました。

 「かがやき」は2時間半ぐらいで金沢に着きますが、「はくたか」は3時間。現地に着くのが12時半過ぎで、そこから迷いながら移動して、学会の会場に向かい、おそらく午後1時から始まるシンポジウムにギリギリ間に合うかどうかです。そこで、夕方まで聞いて、夜、一人でホテルに帰り(研究者仲間から食事のお誘いがあれば嬉しいですが、ないかもしれない)、翌朝また会場に向かい、研究者らの発表を聞く。そして、夕方3時間かけて東京に戻り、東京駅からまた1時間かけて自宅に戻るのです。 

 台風の行方もまだ分からない。もしかしたら、天候が荒れて、学校が早めに終わることになり、息子が集団下校で帰ってくる可能性もある。大荒れの天気で、一人で家にいるなんて、きっと不安に違いない。夫と娘は猛烈な雨の中、軽井沢から無事帰宅できるだろうか? 夫と娘が万が一東京に戻れなくなったら、最悪、母に連絡をして息子を母のマンションに泊めてもらえるか聞いてみよう。でも、そこまでするほど、この学会に参加することは私にとって意味のある、重要なことだろうか? 自問自答しました。

 カバンの中には新幹線の中で読もうと考えていた論文が何本も入っていました。パソコンも持ってきて、自分の論文にもすぐ取り組めるようにしてきていました。でも、この精神状態だと、有効に使えるはずの新幹線内の3時間もおそらく無駄になってしまうに違いないと考えました。

 現地に行けば、気持ちは切り替えられるだろうけど、学びたい!他の研究者の仲間に入りたいという自分の欲のために、交通費と宿泊費、食事も入れると4万円近くを使うのは正しいことなのだろうか? このお金があれば、子どもたちと美味しい食事が何度も食べられるし、ディズニーランドにも連れていけるのに。

 私は何をやっているんだろう? がんの闘病期間が長く、社会復帰がずいぶん遅れたため、しゃにむに頑張ってきた。でも、どこにも自分の居場所を探せず、そのことが辛くて、もがいている。ああ、バカだな、私は何てバカなんだろう。

 ぐるぐると考え、気持ちが定まりませんでした。そして、私は意を決して立ち上がり、次の「上野」駅で降りました。上野を出てしまうと、次の駅までずいぶん距離を走ってしまうので、ここで決断するしかありませんでした。東京駅で新幹線に乗り込み、数分後に上野駅で降りる人は、よほどの急用が出来た人しかいないでしょう。ドアが開くと、ホームには乗り込む人がたくさん並んでいました。私は彼らが入る前に、ドアから出ました。彼らが乗り込み、新幹線が発車してしまうと、ホームには私一人しかいませんでした。大きなホームはがらんとしていました。

 心の中は、決断できたという納得感より、敗北感で一杯でした。その気持ちを抱えたまま、東京行きの新幹線に乗り換えました。乗降口から乗ると、そこにはすでに、東京駅で降りる人達が待っていました。私は体を小さくしながら、そこに立ち、数分後に終点の東京駅で降りました。

 東京駅の窓口で、切符の払い戻しをしてもらいました。「台風の状況か不安定なので、乗車は止めました」と言うと、おそらくそういう方々も沢山いたのでしょう。すんなりと払い戻しが出来ました。宿泊費は、払い戻しのきかない安いホテルを予約していましたので、その五千円は「人生の勉強代」を支払ったと考えることにしました。

 気持ちを落ち着かせるために、自宅に戻る電車の乗り換えの駅で降り、タリーズに入りました。コーヒーを飲み、自分が取った行動をノートに記して、自分の心の在り様を整理するつもりでした。それも、途中でやる気がうせ、ただ、ぼんやりとコーヒーを飲みました。そして、再び電車に乗り、自宅に戻りました。

 雨足は弱くなっていました。おそらく、台風は東京をよけてくれたのでしょう。私はベッドに寝転がりました。涙が流れてきました。この無駄な時間と行動を反省するつもりが、心は悲しさと悔しさ、切なさが入り混じった気持ちでいっぱいでした。 

 誰かに話をしたかった。私のこの右往左往について、恥じることなく、正直に話せる人と話したかった。私は、大先輩のイワサキさんに電話をしました。イワサキさんは母と同い年の85歳。私が留学していたときに、国費留学生として大学院に入学してきた方です。そのとき、イワサキさんは50代。帰国後は大学の教員として働き、60代で博士号を取得し、教授に。もうかれこれ30年以上も親しくしていただいています。

 いつものように、「あらっ、睦美?」と明るい声で電話に出てくれました。イワサキさんはどんなときも、私を受け入れてくれます。私は顛末を説明しました。イワサキさんはじっくりと私の説明に耳を傾けながら、私がなぜこのような行動をとったのか、適格に分析してくれました。私が自分なりに考えていたのとほぼ同じ考えでした。イワサキさんはその後、こういう風に私を慰めてくれました。

「睦美、帰ってきたのは正解だったよ。あなたの子どもを守れるのはあなただけだから。子育てしながら仕事をしていると、どちらかを犠牲にしなければならない場面がいくつもある。そして子どもを犠牲にしてしまう女性は少なくない。私もそうだった。でも、それではだめ。仕事や学業より子どもは優先されるべきなの」

 1時間以上話をして、後半、私は泣きっぱなしでした。自分が情けなくて、情けなくて仕方なかった。でも、心は少し軽くなっていました。

 その後は仕事をしました。私が研究発表する学会に向け、発表の抄録を書き直し、メールで提出しました。これは2度修正依頼が来ていて、一緒に研究しているもう一人の研究者の女性と何度もやり取りをして、修正をしたのです。

 グループチャットには、金沢にいる研究者から「●●さんと●●さんと、金沢にいます!」という元気なテキストが届きました。この研究者は20代の男性。とても優秀で親切な若者です。私と同じくこちらに残った研究者の女性が、テキストを返します。

 「お疲れ様です! 金沢で美味しいもの食べてきてください。私たちも行きたかった!」

「私たち」という言葉が胸に沁みました。もし、私があちらに行っていたとして、このグループチャットを読んで、そこに「私も行きたかった」と書いてあったら、私は罪悪感に苛まれていたでしょう。彼女も中学生、小学生の子どもを育てる母親。「週末にかかる学会は、諦めることにしている」と以前話していたことがありました。

 そのチャットの「私たちも行きたかった!」の言葉をかみしめながら、やっぱり、行かなくて良かったんだと納得しました。 

 午後3時半過ぎ、息子が帰宅しました。「あれ、ママ、どうしたの?」「台風がひどくなりそうだったから、帰ってきたの。心配だったから」「そうなんだ、でも、雨やみそうだね」「アイスクリーム食べる?」「うん!」。

 息子と一緒に食べるアイスクリームは格別美味しかった。夜7時過ぎ、夫と娘が帰宅しました。娘はいつものようににこにこして、「ママ~、会いたかったよ」。「ママもとっても会いたかったよ」とハグ。夕ご飯は子どもたちが大好きな餃子と納豆巻き、お味噌汁を作りました。子どもたちに夕ご飯を食べさせた後は、夫と一緒にいつも行く近所の日本酒のバーへ。

 バーで日本酒を飲みながら、夫が聞きます。「明日は授業参観行くんだろう?」。そうでした。息子の授業参観に出られないので、夫に行ってもらうよう頼んでいたのでした。「もう小学校も終わりの年だから、授業参観楽しんだほうが良いね」と夫。そうだな、と思いました。明日は、息子の授業参観を楽しんでこようと思いました。そして、この数日間の自分の行動と心の揺れを振り返りながら、今回はやっぱり行かないほうが良かったんだと、納得しました。

 こうして、私の気持ちは少しずつ和らいでいきました。夜ベッドに横になるころには、自分の心に満ちていた敗北感や自己否定感がなくなっていました。そして、穏やかな気持ちで眠ることが出来たのでした。


2023年9月4日月曜日

夏仕舞い

  8月26日に子ども用プールを仕舞いました。夫と二人で、無言で行いました。今年も楽しかったプール。娘は1回しか、それも、足を付けるしかしなかったけど、息子はプールの中でぐるぐる泳いでいました。来年は入ってくれるかなぁ、と思いつつ、仕舞いました。

 作業をしながらふと思い出したのは、私が学生時代に読んだ本。その本は、アメリカの女性雑誌の編集長によって書かれた本で、私が多いに触発された本です。その中には、仕事を持つ女性への励ましの言葉がつづられていました。当時は、アメリカでもそのような先輩女性たちによる励ましが必要だったのですね。

 その中にあったのが、自宅で開かれた賑やかなパーティの後、夫婦がそれぞれ片付けをするシーン。著者がそこで言いたかったのは、表向きは華やかでも、その後には、黙々と片付けるという地味な仕事が必要なんだよというメッセージだったと思います。

 私がなぜ、そのシーンを覚えているのかというと、「そうなんだ、男の人も片付けをするんだ。家の片付けは女性だけの役割ではないんだ」というシンプルな感動。

 我が家の子供用プールは夫が出し、メンテナンスし、そして、綺麗に洗って外に干しました。この日、「手伝ってくれる?」と声を掛けられたのは、プールを小さく織り込む作業が出来ないので手伝ってほしいという理由。

 段ボールの中には、さらに段ボールが2つあり、その1つにまずはプールを支える鉄の棒約20本と、強固なプラスチックの支えを入れます。そして、もう1つに折りたたんだプールを入れます。

プールを片付ける夫

 土曜日の朝の夫との無言の作業。あのシンプルな感動を覚えたときから何十年もの時を経て、私は夫婦間での家事の分担を成し得たのだなぁとしみじみと思ったのでした。ひと昔前のフェミニズムの旗手の発言のようですが…。