2023年8月25日金曜日

バトルの後に

  バトルの翌朝、息子は口はきいてくれましたが、朝ごはんは食べずに不機嫌なまま塾へ。でも、前日のような「塾には絶対に行かない!」はありませんでした。

 その日のお弁当も、息子の大好物を入れました。しっかりつけ込んだ鶏の竜田揚げです。何があろうと美味しいものを食べれば、機嫌は 良くなるもの。帰宅した息子に「お弁当美味しかった?」と聞くと、「めっちゃ、美味しかったよ!」と機嫌が直っていました。

 「明日のお弁当のリクエストは?」と聞いてみました。息子は間髪を入れず、「オムライス!」と答えました。そうなんだ、オムライスが食べたかったんだ。想像していなかった答えに、リクエストを聞くのもいいなと思いました。

 で、翌日のお弁当も心を込めて作りました。玉ねぎとマイタケ、小ネギ、ベーコンを炒めてご飯を加え、ケチャップ・塩・胡椒で味付けし、お弁当箱に詰めます。その上に薄焼き卵を載せます。ケチャップでハートマークを書いて、出来上がり。息子がお弁当箱を開いたときの顔を思い浮かべると、思わず、口元が緩んでしまいました。

息子のリクエストに応えて作ったオムライス弁当。娘にも作りました

 ハートの形は、リュックサックの中で揺れて崩れてしまったかもしれませんが、美味しく食べてくれたと思います。こうして息子の機嫌も直り、3日目からは朝ごはんをしっかり食べ、文句も言わず、塾に行くようになりました。あぁ、良かった、良かった。

 



2023年8月24日木曜日

息子とのバトル再開

  16日から息子の塾が再開しました。この日の朝は大変でした。

「塾、行きたくない」を連発。ベッドに戻り、布団を被ってしまいました。それはそうだなぁと気持ちはよく分かりました。

 ハワイでの楽しい休暇の後、学校の宿題や夏休み自由研究など、比較的簡単なことをやり、なかなか塾の宿題に手を付けられませんでした。この間のんびりモードでしたので、また、朝から夕方までの塾なんて、私も息子の立場だったら絶対嫌だろうなと思いました。

 でも、そうは言っていられません。「塾に行かない選択肢はないの。ハワイで楽しかったでしょう?ハワイに塾の宿題持っていってもやらなかったでしょう?だったら、遅れた分、取り戻しなさい」

「嫌だ。もう、塾なんて行かない。同じなんだよ、塾変えたって、成績なんて上がらない。頭悪いから、どの塾行ってもダメなんだ」

「じゃあ、どうするの?何で生きていくの?水泳だって、かけっこクラブだって、サッカーだって、いろいろやったじゃない? ヴァイオリンだって、2歳からやっているでしょ? お絵描き教室も行った。でも、何一つ一生懸命やらないじゃない?何にも打ち込まなかったじゃない?だから、あなたの嫌いな勉強をして、皆と競争して、どこかの学校に行って、自分が食べていく手段を探さなければならないんでしょ?」

 小6の息子にこれはないなと、よくよく分かっています。でも、優しく説得しても、息子は聞きません。もう、叱るしかありません。息子は言い返します。

「何かに打ち込めば、受験しなくてもいいなんて知らなかった。それを知っていたら、何かやっていた」

「そういうことじゃないでしょ?受験勉強したくないから、スポーツを一生懸命やるの? 逆でしょう? 何かに打ち込んでいるから、受験勉強するよりも、それに打ち込んだほうがずっといいねって周りは応援するのよ。あなたのように、何にも本気にならない子を誰が応援するの?」

「とにかく、嫌だ。勉強なんて嫌いだ。塾も行かない。受験もしない」

「じゃあ、公立中学校に行く?いいのよ、それでも。近いし、知っているお友達も何人も行くし。でも、公立にいけば、今度は高校受験だよ。入学と同時にまた塾なんだよ。中学に行けば、今度は内申点といって、宿題をやったか、授業への参加態度はいいか、日々の生活が成績となって受験に影響するのよ。一発勝負で当日の試験の点数さえ良ければ合格がもらえる中学校受験とは違うの。それに、公立はきちんとしている女子が有利って何人ものお母さんから聞いた。普段の宿題さえやらないあなたが、どうやっていい内申点を取るの?それに、東京は地方と違って、沢山の私立学校が中高一貫校になっているの。だから、高校受験になると選択肢は狭まる。特に男子は。だから、皆、受験しているでしょ。スポーツが大好きで勉強嫌いそうだった●●君も、●●君も中学受験塾に行っている」

 大人の私が、周辺情報を仕入れて、息子にまくしたてる。ああ嫌だなぁと思いました。息子を叱り、追い込んでいく自分はつくづく駄目な母親だな、と思いました。でも、でも、です。ここで息子に何とか踏ん張ってもらわないと…と思うのです。踏ん張ってもらう方法が分からない。だから、とりあえず、塾に行ってほしいと思ってしまう。浅はかな母親。

  息子を叱りながら、心の中で愚痴を言います。私だって、サッカーばかりしている、ヴァイオリンに打ち込む、水泳が大好きというような息子を応援したかった。「勉強なんて、基本的なことで十分。あなたは自分な得意なこと、好きな事をやりなさい。ママは応援するよ!」と言いたかった。でも、残念ながら、我が息子はそういう意欲を小さなころから持たない子どもだった。どこか、冷めていた。だから、普通に勉強して、受験して…の道しか、なかったのです。

「じゃあ、インターに行く」

「インターを甘く見ちゃダメ。今の時点でインターにスイッチするための試験は難しいの。あなたの嫌いなエッセイだって、すごく長く書かなければならないんだよ。英語の塾だって、いつも宿題を提出していないって連絡が来るじゃない。本当にインターに行きたかったら、必死に勉強していたはずだよ」

 娘は発達が遅く、小4の3学期の授業参観で「この子は、もう少しのんびりとしたところで育てなければつぶれてしまう。中学受験をする子どもがひしめき合う東京の公立小学校にこれ以上いては駄目だ」と判断し、インターに移しました。

 でも、息子は頭もほどほどに良く、何でもそつなくこなしていた。スポーツも好きだった。お友達とも仲良くできた。だから、インターという選択肢を今の今まで真剣に検討しなかった。でも、選択肢を残しておくために、英語の塾にも通わせている。国・算・理・社の4教科に加えて、英語も勉強させている。でも、息子は帰国子女ではないので、英語が出来ても中学受験での特別枠である「帰国子女枠」は使えない。結果的に5教科を勉強させるという酷な事をさせているのです。

 「スポーツでもいい、音楽でもいい、絵でもいい。あなたに何かに打ち込んでもらいたかった。ママはいい学校に行きなさいとか、大学に行きなさい、とかあなたの道を決めるつもりはもうとうなかった。あなたはいつも、何を聞いても、別にという態度で、、、。いい?生きるって大変なの。際立った才能を活かして生きることが出来るのは、ほんの数パーセントなの。ママもダディも、特別な才能がないから、一生懸命努力したの。だから、こうして暮らせている。とにかく、勉強をして基礎力を付ければ、その間に、僕はこれがやりたい!ということが見つかるかもしれない。だから、今は勉強をしなさい」

 勉強が出来る子の親は「勉強をしなさい」と言わないそうです。あの大谷翔平君の親も、子どもを温かく見守っていたそうです。でも、勉強しなさいと言わないと勉強しない子、温かく見守っていたら、テレビばかり見ている子どもの親はいったい、どうしたらいいのでしょうか? 

 勉強しなさいと言わず、受験はしなてもいいよ、あなたが好きなことをしなさいーと見守っていれば、息子はどこかの時点で気付いて、方向転換してくれるのでしょうか? もし、そうならなければ、そのとき親はどうすれば良いのでしょうか? そうならなかったと気付いたときは「時すでに遅し」にならないのでしょうか? だから、今のうちに、親としてやれることはやっておくしかない。その方法として、嫌がる息子を塾に通わせることしかできないなんて、本当に私は駄目親だなと思います。

 大事な息子。病気の回復を待って、7年間凍結保存していた受精卵を子宮に戻し、46歳で産んだ息子。夫にも反対され、主治医にも相談せず、親にも友人にも言わずに、黙って産んだ子。愛おしくて、愛おしくて、たまらない息子。それほど大切な息子をこうして追い込んでいく自分が本当に嫌です。可愛い、可愛いと抱き締めながら育てたい。

 息子はぶすっとした顔をして、もう、返事もしません。音を立てて、テキスト類をバックパックに詰めました。夫が「ダディが車で送っていくよ」と息子に言いました。「ご飯をたべていきなさい」と言っても、息子は私を一切無視。夫とは会話しながら、何とか家を出ました。でも、心を込めて作ったお弁当だけはバッグに入れてくれました。

息子の大好きな生姜焼き肉弁当。娘と夫にも作りました

ああ、息子に嫌われちゃったなと思いました。悲しいけど、嫌われてもいい。でも、嫌われてもやらせることが、息子が嫌いな勉強をさせることだなんて、私はいったい何をやっているのだろうと、また、落ち込むのでした。

2023年8月22日火曜日

娘の働く姿を見ながら考えたこと

 娘が近所のスーパーでアルバイトを始めました。 来月、大学に入学する前に「アルバイトを経験したい」と言い、応募して採用されました。昨日は家族全員がそれぞれのタイミングで娘の様子を見に行きました。

 働いているのは、「まいばすけっと」というイオングループの小型スーパー。我が家の近くにも2件あり、いずれかで働いています。それぞれが徒歩5,6分のところにあります。

 昨日のシフトは「1丁目店」で午後6時から9時まででしたので、7時ごろ飲料を買いがてら、娘の働いている様子を見に行きました。

 入口からのぞくと、娘は緑色のエプロンと三角巾を付けて、ニコニコしながらレジを打っていました。この時間帯は仕事帰りのお客さんなどで混んでいました。店内に入ると「いらっしゃいませ!」と娘の元気な声が。娘は私と分かると、満面の笑みで迎えてくれました。

 店内を回り、水、お茶、牛乳をバスケットに入れて、娘のレジの前に並びました。私の番が来て、レジの横にバスケットを置くと、娘は「いらっしゃいませ。レジ袋はどうなさいますか?」と聞きます。「大きい袋をください」と私。娘は、「かしこまりました」と言い、レジ袋を開いて、一点ずつ商品をバーコードで読み取りながら、入れていきます。

「ポイントカードはお持ちですか?」「いいえ」「お支払いはどうなさいますか?」「カードで支払います」と、会話もスムーズ。あっという言う間にお会計も終わりました。

「じゃあね、頑張ってね!」と小声で娘を励まし、店を出ました。昨日は娘の親友レイちゃんが泊まりに来ていました。レイちゃんは24日にカナダの学校に旅立つので、その前に我が家に遊びに来てくれたのです。娘のアルバイトが3時間ありましたが、その間は息子とパソコンで映画を観て、待ってくれていました。

 息子もレイちゃんと映画を観るのが楽しみだったらしく、自分のお小遣いからお菓子を買って、レイちゃんを”おもてなし”していたので、笑えます。

 自宅に戻り、「元気に働いていたよ~」と報告すると、レイちゃんもニコニコして「私たちも9時少し前に行って、一緒に帰ってくる予定なんです」と言います。

 私はさらに、母にも電話で報告。すると母は「私、これまで3回行ったんだよ。でも、タイミングが悪くて会えなかったの」と言います。「今日は6時から9時までのシフトで、今行ったら、レジにいるよ」と伝えると、「そうかい? じゃあ、行ってみるね」。

 夫も、切らしていたベーコンとチーズを買いに行きました。こうして、昨夜は入れ替わり立ち代わり、家族全員プラス友人一人が娘の様子を見に、まいばすけっとで買い物をしたのでした。

 娘はハーフで身長が183㌢あり、ヒールも履きますので、私服になると独特の雰囲気があります。でも、エプロンと三角巾を付けてレジを打っている姿は本当に普通で、何だかほっとしました。

 娘は成長がゆっくりでずいぶん心配も多かったのですが、こうして大学からも合格をいただき、スーパーでアルバイトも出来るようになったんだと感慨深かった。そして、自分の子のことをこう表現するのはおかしいかもしれませんが、「健全に育ってくれたなぁ」としみじみ思いました。

 インターナショナルスクールに通うハーフの女子で、身長が180㌢以上もあれば、モデルや芸能界など華やかな道に興味を持ってもおかしくないのですが、娘はそういう世界には全く興味を持ちませんでした。

 「アルバイトがしたい」と自分で探して応募したのは「マクドナルド」と近所のドラッグストアで、いずれも採用されず、今回のスーパーは3度目の正直でやっと採用されました。一つ一つ、地道な方法で小さな失敗と小さな成功体験を積み重ねて成長していく娘を見ていると、改めて、「親元を離れるタイミングなんだなぁ」と思います。

 昨日、娘の”まっとうな”姿を改めて見て、「一人でもちゃんとやってける」と確信しました。おそらく、いろいろ失敗はするだろうけど、その中で自分なりの気づきを得て成長していけるでしょう。逆に親が近くにいると、つい手を差し伸べてしまいますので、娘の成長の機会を奪ってしまう可能性もあります。このタイミングがベストなのでしょう。

 娘の巣立ちの日が、すぐそこに来ています。


娘が一昨日の朝のバイトの帰りに拾ってきてくれた花。娘は小さなころから道端に落ちている綺麗な花を拾って、私にプレゼントしてくれました。こういうことも娘の大学進学でなくなると思うと、寂しい



 

2023年8月20日日曜日

昭和な味

  帰国した翌々日の朝のこと。起きてきた息子に、いつものように朝食に何を食べたいか聞きました。前日、スーパーに行き、いろいろ食材を仕入れていました。

「何食べる? 選択肢は、納豆ご飯、うどん、そーめん、トースト。納豆食べたいと思ったから、昨日買ってきたよ」

「うーん」と言いながら、冷蔵庫の中を見る息子。そして、冷蔵庫の扉を閉じ、お米や乾麺、缶入りの食材を入れてあるストッカーを開けて眺めました。そして、「ああ、これが食べたかったんだ!」と缶入りのコーンに手を伸ばしました。

「ママ、ベーコン買った?」

「買ったよ。あっ、コーンの料理だね」

「そう!」

「じゃあ、ママがタマネギをみじん切りしてあげる」

息子は缶を開け、コーンをざるに入れて水分を切りました。そして、冷蔵庫からベーコンを取り出し、切り始めました。

 息子が聞きます。「ベーコン先だよね」

「ベーコンはすぐ焼けるけど、タマネギは時間がかかるから、タマネギが先」

「そうなんだ、ベーコンが先だと思っていた」と息子。

 息子はフライパンに油を入れてタマネギを炒めて、飴色になったのを確認し、ベーコンを投入。最後にコーンを入れて塩・胡椒をして、皿に盛りつけました。「ママも食べる?」と聞いてくれましたので、「もちろん!」と答えました。

 2人で食卓に座り、味わいました。これは、母が私に作ってくれた料理の中でも、私が大好きなもの。夫と娘は残念ながら嫌いなのですが、息子が大好きなのです。

一口食べて、息子がこうつぶやきました。

「ああ、これが食べたかったんだ」

「美味しいよね、やっぱり。何で美味しいんだろう?」

「なんかさ、古いっていうか、昔っぽいところがいいんだよね」

「昭和な味?」

「そう!昭和な味。平成じゃないんだよね」

「そうか、平成生まれの息子が、昭和の食べものを美味しいと思ってくれて、ママは嬉しいよ」

コーン、タマネギ、ベーコンの炒め物を食べる息子

 北海道のむかわ町という小さな町から札幌に嫁いできた母が、私の子ども時代に作ってくれたこの料理は当時、コーンとベーコンを使った、洋風の新しい食べ物だったように想像します。時が経ち、それは、レトロな料理に。

 でも、マイヤー家で、なんとか子どもに引き継ぐことが出来ました。私の作る豚汁や肉じゃがなど和食を好む息子は、これも「母の味」として、覚えてくれるに違いありません。娘がラザニアやミートパイ、アップルパイを母の味として覚えてくれるように…。


2023年8月19日土曜日

義母の涙

  私たちは現地時間9日午後2時のフライトで日本に戻り、義父母は午後4時のフライトでシカゴに戻りました。ギリギリのスケジュールだったので、義父母とさよならをしたのは空港内を循環するバスの中でした。国際線・国内線の順番でしたので、私たちが先に降りました。

「楽しい時間をありがとう。また、会おう」とハグしてくれた義父。「体に気を付けるのよ」とぎゅっとハグしてくれた義母。

 夫をハグするとき、義母は泣いていました。毎回の別れのときのように。

 バスを降り、見えなくなるまで手を振りました。夫がポツリとつぶやきました。「ママは別れるとき、いつも泣くんだ」

 今回、義母は夫に何と声をかけたのでしょうか。以前、義母が別れ際に夫を抱き締めながらかけた言葉が聞こえたことがあります。

「家族を大切にしなさい」

 別れの言葉として、息子にこのような言葉掛けができる義母はなんて素敵な人なのだろうと思いました。そして、今、同じく息子を育てている私は将来、息子が外国人と結婚するとしたら、嫁と一緒に異国の地に戻る息子にそんな言葉掛けが出来るか自信がありません。でも、出来る母親になりたいと思います。

 今回、義母に「遠い日本に住むことになってごめんなさい」とずっと思ってきたことを伝えました。私は母を自宅の近くに迎え、一緒に食事をしたり、何かあったら駆け付けることが出来ます。でも、義父母には出来ません。

 義母は私の言葉にうなずきながらも、「会えないのは寂しいけど、あの子は幸せだからいいの」と答えました。義母の言葉に深く感動し、そして、救われました。

 

2023年8月17日木曜日

夫と友人の再会の場で

  ハワイ旅行最終日の9日、夫の高校時代の同級生フランクと彼の奥さんに会いました。シカゴ出身の夫は高校時代バスケットボール部に所属しており、そのときの友人です。

 フランクは高校卒業後大学に進学し、そのまま真っすぐ大学院修士課程・博士課程と進み、建築学で博士号を取得しました。夫は地質学で修士号取得後に就職。フランクはハワイ、夫は日本へ移り住み、長い間交流はなかったようです。が、今回、夫が連絡を取り、再会を果たしました。

 会ったのは、ワイキキの大きなショッピングモール・アラモアナセンター内のレストラン。実は私は大学時代に一度だけ、フランクに会ったことがあります。今回、久しぶりに会ったときの印象は「アメリカ人にしては珍しく、痩せているなぁ」ということ。アメリカ人は中年になると太る人が多いのですが、フランクはアメリカ人と中国人のハーフで、アジア人の血が混じっているせいでしょうか。フランクの奥さんは日系人で日本の大学に留学していたそう。奥さんもスリムで、ショートカットの似合う、素敵な女性でした。

 フランクがにこにこしながら、夫に聞きます。「大学時代、日本人の女の子と会ったのは覚えている。ムツミはあのときの女の子?」「そう、あのときの女の子」と、夫が大笑い。そうか、私も昔は女の子だったんだ、と私も大笑い。

 フランクと夫がひとしきり近況報告をし合った後、フランクが私に聞きました。「ムツミは今、何しているの?」

「博士課程の学生」

「そうなんだ。何を研究しているの?」

「医学系研究科でヘルスコミュニケーションの研究しているの。患者・医療者間のコミュニケーションや、医療情報をどう一般の人に伝えるか、とかそういう研究。私、昔、新聞記者をしていて、そのときにがんを患ったの。医療情報を発信する側から、患者になって医療情報を探す側になると、大きなギャップを感じて…。で、全ての病気が収まってから、ほぼ10年かかったんだけど、また、学び直しをしているの」

「がん」という言葉に、フランクは敏感に反応し、奥さんも身を乗り出すように、私の話に聞き入りました。

「何のがん?」

「悪性リンパ腫。血液のがん。2度再発して、自己免疫疾患も2つ患って、治療中に敗血症ショックで死にかけたり、心臓病を患って手術したりと散々だったけど、10年かけて、治ったよ。今は、とっても元気」

「そうなんだね。実は僕も2年前にがんになったんだ。珍しいがんで、膵臓と胃、そして腸の一部を切ったんだ」

「そうなの…。悪い所は全部取ったの?」

「うん」

 フランクが痩せていたのは、そういう理由だったのだなと合点がいきました。話は尽きなかったのですが、フライトの時間が迫っていたので、お別れすることに。レストランの前で皆で写真を撮りました。フランクが奥さんに「ジョンと二人で写真を撮ってくれないか?」と頼みました。フランクの言葉が、胸にじんときました。2人はとってもいい笑顔で写真に収まりました。

「また会おう。ムツミ、体調にはくれぐれも気を付けて」とフランク。

「フランクもね」と私。そして、再会を祈って、ハグをしました。

 空港に向かう車の中で、夫が言いました。「フランクは11月に日本に来る予定だったけど、来られないかもしれないって言っていたんだ」

「そう、体調が悪化していなければいいけど。随分痩せていたもんね」

「うん」

 フランクの体調が良くなりますように。そして、フランクと奥さんの来日が実現し、また、楽しくおしゃべり出来ますようにと願いました。

 

2023年8月15日火曜日

22年前の想い出

 今回、ハワイ・オワフ島での滞在先が22年前に結婚式を挙げた教会と式場の近くでしたので、家族で見に行くことにしました。

 そこは東京・恵比寿にあった代理店を通じて私が選んだ結婚式場。当時サンフランシスコに住んでいた夫とメールや電話で連絡を取り合いながら、それぞれがドレスとタキシードを借り、ビュッフェの内容など式に必要な様々なことを決めました。

 私は東京に住んでいましたので、現地集合という形で式を挙げました。振り返ると、何か一つ間違えると、式が挙げられなくなる可能性もありました。

 現に、式の18日前にはアメリカ同時多発テロが勃発しました。アメリカン航空がニューヨークの世界貿易センターに突入したのは9月11日日本時間午後9時45分(現地時間午前8時45分)。当時社会部記者をしていた私は仕事を終えて、同僚と飲みに行っていました。居酒屋のテレビでニュースを見ていて、飛行機が突入する映像を見て、「これは大変なことになった」と、同僚たちと慌ててタクシーに乗り込み会社に向かったことを鮮明に覚えています。

 情報収集のために関係先を駆け巡りました。また、亡くなった方々の名前と会社が分かると、紙面に載せるために顔写真を探しにあちこち駆けずり回りました。その後、世界中が厳戒体制となっても、結婚式を延期せずにハワイに行ったのですから、私も夫も若かった。

 後日談ですが、帰国後は仕事があまりに忙しく、区役所に婚姻届けを出しに行ったのが11月。おそらく、たまたま平日に時間が出来たので、行ったのだと思います。ですので、お日柄も全く気にしてはいませんでした。

 その後、がんを患い、子どもを死産してから、引っ越しなど小さなことでも大安や友引の日を選ぶなどお日柄をとても気にするようになりましたので、人間は不幸が続くと謙虚になるものなのですね。

 さて、そのような状況で結婚式を挙げたオアフ島コオリナの式場。まずは近くにある駐車場に車を止めて、教会を見ようとしました。が、すぐにセキュリティの人に「ここは私有地ですので、ご遠慮ください」と止められました。「ここで22年前に結婚式を挙げたんです。写真を何枚か撮るだけなのですが、、、」と伝えましたが、その人は申し訳なさそうな顔で、「すみません、出来ません」。

 数日後に野外でのディナーショーに行ったときにも、たまたまその教会が隣でしたので、反対側から写真撮影にトライしてみました。反対側は、一般に開放されている海岸でしたので、敷地との境界には高い金網が張り巡らされていました。

 家族で一番体重が少ない息子が金網をよじ登って、スマホでパチリと撮影。身長193㌢の夫が息子を支え、夫より10センチ身長が低い(でも183㌢)の娘が、鬱蒼としている木々の枝をよけて綺麗な写真が撮れるようにする、というチームプレーでした。一番の役立たずは、背が低く体重重めの私。

 
夫と結婚式を挙げたハワイの教会

教会に併設されている式場

「綺麗な教会だね」と娘。
「当時と全然変わらない。よくメンテナンスされている」と私。

 夫は事前に、結婚式のときの写真をいくつかスマホで撮影・保存してきており、それらを子供達に見せています。

「じいじとグランパ、ママとダディが映っているこの写真は、教会の横にある式場での会食のときに撮ったものなんだ」

 そこに映る父は遺影の父よりずっと若く、嬉しそうでした。父の遺影は、2012年に父母と私たち家族でハワイに行ったときに映した写真を使いました。ですので、父は結婚式のときより11歳年を重ねているのです。父親からおじいちゃんへと、父も変わっていったのですね。

 もう少しきちんと教会を見たくて、旅の最終日にも、トライしました。セキュリティの人も早朝はいないだろうと考え、午前6時半に行ってみました。ところが、私たちが建物に近付こうとすると、どこからともなく人が出てきて、また、「すみません、私有地ですのでご遠慮ください」と注意されました。

 でも、このときは隙を狙って窓側と正面からしっかり数枚の写真を撮ることが出来ました。記憶はずいぶん薄れてきていましたが、今回のことで、美しい教会は鮮明な記憶として再び私の脳に刻まれました。



 娘に「将来結婚することになったら、ここで式を挙げるのはどう? 親子で同じ結婚式場って素敵じゃない?」と勧めてみました。今回の旅行で3回もこの式場を見に行ったことが娘の記憶に残り、将来ここで式を挙げることになれば、何て楽しいのだろうーと想像を膨らませたのでした。


2023年8月14日月曜日

アートなワッフル

  18歳の娘の良いところは、たとえ急いでいるときでも、食べ物を皿に盛り付け、ダイニングテーブルできちんとゆっくりと食べるところです。出掛け前に時間がなくて、パンを口に頬張って慌てて玄関を出るーというようなことは絶対にしません。こちらとしては時間に遅れることのほうが心配なときもあるのですが、どんなときでも悠然と食べる姿を見て、我が子ながら感心します。

 今回のハワイ旅行でも、同様でした。朝食はそれぞれが食べたいものを自分で用意するので(義父母は必ず2人で食べていました)、夫はコーヒーとイングリッシュ・マフィン、私はワッフルとフルーツ、息子はシリアルに牛乳入れたものと、簡単に出来るものでした。

 でも、娘は、ワッフルを焼き、ラズベリーやブラックベリー、バナナを綺麗に飾り付け、食べていました。娘は絵を描くのが得意ですので、出来上がったワッフルもアーティスティック。

 娘は秋に我が家を離れます。大学に行って寮で暮らしても、こうしてきちんとご飯を食べてほしいと思うのでした。

 

娘が作ったワッフル。カフェで出されるみたいに綺麗

2023年8月13日日曜日

義父母に好評だった料理

  10日に無事ハワイから帰国しました。コンドミニアムでのんびりとし、プールや海で泳ぎ、食事を作って皆で食べるー。そんな8日間はとてもリラックスできる休暇でした。

 円安により、ハワイでは何でも高いと知人から聞いていたので、今回はご飯パック、パスタ・蕎麦、焼きそば、トマト缶、ソースやたれ、味噌、天ぷら粉、紅茶・コーヒーなど生鮮食料品・冷凍食品以外は出来るだけ持っていくことにしました。

 今回、私たちが作った日本人が食べる料理の中で、義父母に好評だったのは天ざる蕎麦とコロッケと焼きそば。蕎麦は亡父が大好きだった乾麺を持参し、天ぷらの具は現地で調達したエビとカボチャでした。義父母が食べてきたカボチャは「スクワッシュ」と言い、日本人が好むカボチャとは違う品種です。今回はスーパーで日本人が食べるカボチャを買うことが出来ましたので、天ぷらの具にすることが出来ました。

義父母に好評だった天ざる蕎麦

 コロッケは帰国日が近くなり、ジャガイモと玉ねぎとパンが余っていたので、思い付きました。パン粉は硬くなりかけたパンをオーブンで焼いて砕いて作りました。天ざる蕎麦で使い残っていたエビもフライに。持参したブルドッグソースをかけて食べました。

 私は食材を無駄にすることにとても抵抗がありますので、工夫して美味しく無駄なく食べることに注力しました。焼きそばに使ったキャベツは、コロッケに添えるキャベツの千切りと、ベーコンを使ったキャベツスープに。

 天ぷらに使ったカボチャが半分余っていましたので、パンプキンパイも作りました。砂糖がなかったので、朝食のワッフルにかけていたメイプルシロップを代用。娘が「これ以上シロップを入れたら、メイプルシロップ味のパンプキンパイになっていたよ。甘さは控えめだけど、メイプルシロップもギリギリのところで、味が強すぎないよ。ママ、グッド!」と褒めてくれました。

 結局、余ったのはバターと夫がジントニックに使っていたレモンと、食べ切れなかったスイカ数切れのみ。毎日、バラエティのある食事をしながら、食材をほぼ無駄なく使い切ることが出来ました。義母もグリルして余ったソーセージを、翌々日の牛ひき肉を使ったパスタソースに細かく入れるーなど工夫をしてくれました。旅行に行くたびに、沢山の食材を捨てることになってしまうーと言う義父母ですが、こうして協力してくれて、感謝!


コロッケとエビフライのパン粉はパンから作りました

2023年8月9日水曜日

クロスワードパズル

  前々回のブログで、私は義父母の仲の良さを見て、夫との結婚を決めたと書きました。もっと言うと、義父を見て、夫が将来このような夫・父親になればいいなと思いました。それほどに、義父は理想の夫・父親像を体現するような人なのです。

 家族を大切にし、性格も穏やかでマナーも良く、いつもにこやかな人です。今回も、義父がいかに義母を大切にしているか、よく分かりました。どこに行くのにも手をつなぎ、膝が悪い義母を支え、朝起きてくるのが遅めな義母を読書をしながらのんびりと待ち、必ず一緒に朝食を取ります。趣味はクロスワードパズル。

 私が義父を知ってから30年以上経ちますが、この趣味は変わらないので、今回、聞いてみました。

「お義父さん、長年クロスワードパズルをしているから、もう分からない問題は少ないのではないですか?」

「確かに新聞などのクロスワードパズルは簡単だが、冊子になったのは、よく考えられているから、難しいのもあるよ」とのこと。

 最近、夫も暇なときはクロスワードパズルをしています。夫が義父から引き継いだのは家族を大切にするーというところで、その他は、まだまだ義父には近付いてはいません。今回、ふたりが一緒にパズルをしている姿を見て、夫も義父のように年を重ねられたらいいなぁと期待したのでした。

ベランダでクロスワードパズルをする夫と義父


変化したマネキン

  今回のハワイ旅行の目的は、義父母とのんびりと過ごすこと。ですので、食料品以外の買い物で行ったのは娘のジーンズを買いに行ったアラモアナ・ショッピングセンターと宿泊先の近くにある「ターゲット」というディスカウント・スーパーのみ。今回、その2店の婦人服売り場に行って気が付いたのは、マネキンがふくよかになっていることでした。

 日本の婦人服店に行くと、あり得ないほど細く、背が高く、頭の小さなマネキンが当たり前。マネキンが着ていて素敵に見える服でも、自分が試着してみるとイメージとは違ってがっかりというのはよくある話。でも、欧米では近年、「プラスサイズモデル」(大きめサイズのモデル」が注目されています。今回見たふくよかなマネキンも、この流れにあるのでしょう。


 いやぁ、ふくよかなマネキンが売り場にいると、安心しますね。本当に。アメリカ人の中でも背の高い娘も、お腹周りが太めな私も、堂々と買い物が出来ます。

「ターゲット」では、娘は日本で買えなかった靴もいろいろ試しました。日本のサイズ28センチ、アメリカでは11インチの靴はアメリカの店でもなかなか探せません。ターゲットでは11インチのサンダルが売られており、娘も複数の靴を試すことが出来ました。日本では、男女兼用のスニーカーすらサイズがないこともあるので、母親の私も、娘が靴をいろいろ試して、鏡に映して、迷っているのを見るのは嬉しかった。

 「ママはどれがいいと思う?」と私に意見を聞きながら、しばらく迷って娘はベージュ色のシンプルなサンダルを選びました。ヒールがあるので、これを履くと190㌢ぐらいになりますが、とっても娘に似合いました。



2023年8月8日火曜日

義母からの贈り物

  ハワイで一緒に休日を過ごしている義父母は今年84歳になります。2人はミシガン州アンナーバーで出会いました。義父が法科大学院の学生で、義母が看護師として働いていたときです。

 義父母は友人の紹介で知り合ったそうです。2人が出会ったとき義父が学生だったため、義母に「ビールを奢ってもらった」と懐かしそう話してくれたことがあります。義父は苦学して弁護士になった後、義母と結婚し、義母にこう聞いたそうです。

 「沢山お金を稼いで家にあまりいられない夫と、収入はそこそこだけど家庭の時間を大切にする夫とどちらがいい?」

 義母は迷いなく、家庭での時間を大切にする夫になってほしいーと答えたそうです。義父はそれを忠実に守り、朝出勤し、毎日きちんと夕方に帰宅する夫になりました。2人は4人の男児に恵まれ、お互い協力し合って子育てをしたそうです。

 義父を会社に、子どもたちを学校に送り出した後、義母は掃除・洗濯と夕食の支度をして午後3時に介護施設へ出勤。午後5時過ぎに義父が帰宅して、義母が準備をした食事を作り子どもたちと夕食をとる。義母は、午後11時に仕事を終えて帰宅する。そんな暮らしを63歳まで続けて、老後をのんびり過ごすため、仕事を辞めました。

 昨日のブログに私が書いた、義父母がシカゴの家のデッキでくつろいでいた光景は、義母が午後11時に帰宅し、待っていた義父が義母に水割りを作って、二人でデッキの椅子に座って話をしていたときの想い出です。

 その後ろ姿を見て、「この両親に育てられた子どもなら、家庭を大切にする夫になるだろう」と考えました。後に夫に結婚を申し込まれたとき、決め手となったのは義父母の仲の良さでした。結婚に幻想を抱いていなかった当時の私は、夫が好きで結婚を決めたというよりは、夫の両親を判断規準に、結婚を決めたのです。

 義父母も年を重ね、数年前から、様々なものを手放し始めました。今年は、とても大切にしていた別荘も売却しました。夫にも、折々に夫が小さいときのころの想い出の品を送ってくれます。夫が前回シカゴに戻ったときは、別荘に置いてあった飾りなどを持ち帰ってきました。そして、今回、私にお土産として、とても素敵なものをくれたのです。

 それは、義母の祖母が作ったというキルトの布団カバーでした。「私の祖母はね、古着を小さく切って、一枚一枚手縫いでキルトを作ったの。今でも、布を縫っていた祖母のことを思い出す。ずっと大切にしてきたこのキルトを、あなたに持っていてほしいと思って」

 私は、代々家に伝わる古いものを引き継ぐという話が大好き。こうして、義母がずっと大切にしてきたものを私に引き継いでくれることを、とても光栄に、有難く思いました。

義母から引き継いだ、義母の祖母のキルト

 このブログで何度も書きましたが、私は子どもたちの服が捨てられません。60の手習いでキルトを習って、子どもたちの服でキルトを作ってみようかな? それを子どもたちに引き継ぐのもいいな、そんなことを考えました。また、新しい目標が出来ました。

2023年8月7日月曜日

ハワイの休日

 2日からハワイに来ています。コロナ禍ずっと会えなかった夫の両親と、久しぶりに楽しい時間を過ごしています。

 2日は7時間20分のフライトで午前9時過ぎに到着。税関もスムーズで、予約していたレンタカーを借り、義父母が到着する午後2時までハワイで一番大きなショッピングモール・アラモアナセンターへ。今回の旅行での「To Do List」一番、娘のジーンズを買いに行きました。

 身長183㌢、足のサイズ28センチの娘は、日本で十分な長さのあるジーンズや靴を探すことがとても難しく、試着をしては残念な思いをしています。ドレスやTシャツ、長袖のブラウスなどはZARAやGAPなどで何とか探せるのですが、ジーンズは無理。

 以前、義母に送ってもらったジーンズ2本をお尻や太ももが破れるまで着ていました。スレンダーだった以前に比べ、年頃の女子らしくふくよかになってきたため、さすがの義母もサイズが分からなくなったのか、ジーンズは送ってこなくなりました。日本では探せないため、仕方なく破れたジーンズをお直しに持っていくと、直すのに6千円以上かかると言われました。で、アメリカに旅行する機会を待っていたのです。

 アラモアナセンターでの数時間は娘のジーンズ選びに費やしました。「これは十分長いよね」と思っても、娘がはくとくるぶしよりずっと上になってしまいます。「アメリカでも長さが足りないのね…」と思いつつ、10数着試着して、何とか2本見つけることが出来ました。夫と息子は、ずっと椅子に座って寝ていました。日本のデパートでもよく見かける、椅子に座って目を閉じているオジサンたちと一緒で、思わず笑ってしまいました。

 「 ミッション・コンプリート(任務完了)」で、義父母を迎えに空港へ。4年ぶりの義父母は前回会ったときと全く変わらず、健康そうでした。子どもたちも久しぶりにグランパ・グランマに会い、大はしゃぎでした。

 義父母はそれは素敵なコンドミニアムを借りてくれていました。私と夫が22年前に結婚式を挙げた教会がある、「Ko Olina」というホノルルから車で30分ほどのリゾート地です。車で教会に近づくと、懐かしさがこみ上げました。私たちが式を挙げたのはアメリカ同時多発テロが起きた2001年9月11日の18日後の、9月29日でした。日本では政府が国民に海外への渡航は自粛するように呼びかけ、企業も社員らに海外出張や旅行は見合わせるように指示を出していたころでした。

 私たちも式の延期を考えましたが、様々な準備をしていたため、決行することに。ただ、参列してくれる予定だった私の親せきには、「このような状況なので家族だけで式を挙げてきます」と説明し、飛行機やホテルはキャンセルさせてもらいました。何かあっては大変という思いからでした。

 ただ、私の親友は「私は行くよ!」と言い、来てくれました。そして、夫側の親せきや弟も来てくれました。ワイキキの空港は厳戒態勢で、街中も閑散としていましたが、私たちは無事式を挙げることができました。

 22年経った今、式に出てくれたローズリー叔母さん、ハリー伯母さん、ジェリー伯父さん、そして教会のバージンロードをびっこを引きながら(父は脳梗塞の後遺症で右半身が不自由でした)私と一緒に歩いてくれた父も鬼籍の人となりました。そんな思い出のある場所に、義父母は今回、コンドミニアムを予約してくれたのです。

 チェックインした後、皆でスーパーに行き食料品を調達。夕食後、夫と子どもたちと早速海で泳ぎました。夕焼けがとても綺麗でした。海で泳いだ後部屋に戻ると、義父母がベランダの椅子に座り、水割りを飲みながら、話をしていました。

 その後ろ姿を見て、結婚前にシカゴの家に遊び行ったときの光景を思い出しました。そのときも、二人はデッキの椅子に座り、水割りを飲みながら静かに話をしていました。その姿を見て、「このような夫婦になれたらいいな」と思いました。

 あの時と変わらず、義父母はお互いをいたわり合いながら、年を重ねていました。「こんな風に、夫婦で一緒に年を重ねるって、素敵だなぁ」と二人の後ろ姿を見て、改めて思いました。

海で泳ぐ子どもたちを見守る義父母。いつも、互いをいたわり合っている


2023年8月4日金曜日

母の朝食

  先週木曜日のこと。この日は週1回の平日休みの日のため、母を夕食に招待しました。母に「何食べたい?」と聞くと、「前、あんたのところでご馳走になったラーメンが美味しかったから、あれが食べたい」と言います。

 これは、札幌・平岸にある有名な札幌ラーメン店「純連」が販売しているスープ付き生ラーメン。味噌味と醤油味の2種類で、私はコクのある味噌味が大好き。東京でも、こうして故郷の味が手軽に楽しめるのを本当にありがたく思っています。

 ラーメンに入れるチャーシューもこだわり、あれこれ試して好みのものを見つけましたが、最近は自分で作っています。市販のものはたとえどんなに美味しくても、化学調味料の味・匂いがかすかにします。自分で作れば吟味して選んだ肩ロース肉で、味付けも醤油、酒、みりん、砂糖、生姜だけで作れます。多少の手間はかかりますが、断然美味しく、家族の評判もいいのです。

 ラーメンといえば、餃子。この夜のメニューは決まりました。冷凍庫から豚の肩ロース肉と挽肉を取り出します。東京の夏は暑いので、室内での自然解凍もスムーズ。自転車でスーパーに向かい、「純連」ラーメンと餃子の皮を仕入れました。

 この日は夫が地方に出張中で、娘も美術専門の塾に通い始めましたので、夕食を一緒に食べられるのは私と息子だけ。でも、家族全員がそろって夕食をゆっくりと取れる日は少ないので、夫と娘はいませんが、母を招くことにしました。

 母はアイスクリームのお土産を持って、来ました。ラーメンを美味しそうに食べ、「餃子も美味しいよ。私も週に1度は餃子を作るんだよ」と言います。「日本酒飲む?」と聞くと、珍しく「そうだね、いただくよ」と言い、「久しぶりに日本酒も美味しいね」と、お猪口に2杯飲みました。食後に息子と3人でトランプをして、大笑いし、機嫌よく帰って行きました。
 
 そして、その翌日のこと。午前7時に電話をしましたが、母が出ません。「まだ、寝ているかな?」と思い、8時過ぎに電話。出ません。「ゴミ出しに行っているのかな?」とも思いましたが、心配になってきました。久しぶりにお酒を飲んで、何かあったかも?と心がざわざわとしました。で、様子を見行くことにしました。

 自転車に乗り、母のマンションへ。母のマンションは我が家から自転車で数分の「スープの覚めない場所」にあります。マンションの入り口の呼び鈴を鳴らすと、「はーい」と元気に答えました。「大丈夫だった」とほっとしました。

 エレベーターで4階に行き、母の家へ。母はちょうど、朝食を食べようとしていました。母に電話に出なくて心配した旨話すと、「あぁ、いつもは電話を寝室から居間に移すんだけど、今日はうっかり忘れていた。ごめんね」と言います。「無事で良かった。昨日、日本酒飲んだから、心配していたの」と私。

 で、食卓を見て、私は感心しました。母は「食事は味も大切だけど、見た目も大切」と常に言っています。一人暮らしでも手抜きをすることなく、毎食を丁寧に作り、美しく皿に盛り付けて食卓に並べ、味わって食べているのです。こうして毎日の食事を大切にする母は偉いなぁと思いました。


 「お母さん、すごいね。毎回、こんなに丁寧に盛り付けて食べているの?」と聞くと、母は「そう? ほら、それでなくても食欲はないし、食べないと痩せちゃうから、工夫して少しでも食欲がわくようにしているの」と言います。

 偶然見た母の朝の食卓。85歳になる母が、きちんと暮らせるのはこうして3度の食事をおろそかにしないからなんだろうなと改めて思ったのでした。