2018年12月31日月曜日

2018年、私の挑戦 本出版に向け準備

 2018年は前進の年でした。初めての本出版に向け、準備を進めました。

 出版する本は私の闘病記。来年3月に発売予定です。書き始めたのは2006年4月、血液がん「悪性リンパ腫」の後に発症した自己免疫疾患「自己免疫性溶血性貧血」で緊急入院となったときです。度重なる病気で、「もしかしたら、自分は長く生きられないのではないか?」と思い、「娘に何か残そう」と考えたときに思い付いたことでした。

  娘が成長し、私に相談したいと思ったときには私はこの世にいないだろう。だから、私がどういう時代にどう生きたか、どういう局面で何を決断し、後にそれをどう振り返ったのか。娘に対して、どのような思いで日々を過ごしたのか、正直に娘に伝えたいと考えました。新聞記者というやりがいのある仕事についていたにもかかわらず、体を大きく壊してしまった。「仕事と家庭の両立は当たり前」と考え、「仕事と家庭の両立を実現させることができる社会を目指して」記事を書いてきたのに、40歳で退社するという結果になってしまった。だから、娘には私を反面教師に、もっとしなやかに健やかに生きてほしいと心から願いました。そのために、私の半生を正直につづり、娘に残そうと考えたのです。

 ところが、闘病記を書いているときにがんが再発。そのがんを治療した後に別の病気になる。その病気を治して闘病記を書き直しているときに、がんが再々発する。それを治療して、闘病記に新たな章を付け加えている最中に、また別の病気になるー。いつまでも完結しない闘病記を書いている間にあっという間に時は過ぎていきました。ようやく書き終えることが出来たのは、「私は長く生きられない。だから、娘にきょうだいをつくってあげたい」と産んだ息子が幼稚園に入園し、少し時間ができたときです。

 完成した闘病記の表紙に娘宛ての直筆のメッセージを添えてファイルに収めました。それをしみじみと眺めていたときにふと、「私ががんを発病したときに幾冊もの闘病記を参考にさせてもらったように、この闘病記もどなたかのお役に立てるのではないか」という気持ちが湧いてきました。その手段を模索するために、第14回開高健ノンフィクション賞(集英社)に応募。応募作139作のうちの3冊の最終候補作に残りました。受賞には至りませんでしたが、大きな一歩でした。それを今回、出版することにしたのです。

 今年、ある出版社から「ぜひ、出版したい」とオファーをいただき作業に入りました。が、結局最後まで自分の納得のいく本にしたいと考えて自費で出版することにしました。編集は新聞記者時代からの友人の編集者の方にお願いしました。表紙には娘が小学校1年生のときに描いた絵を使い、タイトルには私の直筆の字を使いました。

 闘病記には、38歳でがんを発病したときの心の動揺、仕事を辞めるまで葛藤、体調が悪いなか2人目の子どもを産む決断をするまでの心の動きと周囲の反応などを正直に書き、詳細な治療記録も入れました。幾度もの入院時に同室だった20代から80代までの女性がん患者たちが、どうやってがんと向き合っていたのかも盛り込みました。

 娘の双子の弟の死産についてもつづっています。公にすることについては最後まで悩みました。が、世の中にたくさんいる、おなかの中の赤ちゃんが死産となってしまったお母さんたちに、「死んで天国の息子の側に行きたい」と思い詰めた私がどうやって死産を受け止め、病気と闘いながら46歳で再び出産することとなったのかお伝えしたかった。

 尊敬するジャーナリストの方が「結局は自費で出版することになりました」と報告する私にこう言ってくれました。
「どのような形であれ、記録として残すことが我々の使命です」

 どなたかのお役に立てればと心から願っています。

 

2018年12月27日木曜日

お金の価値、どう教える?

 香港の学校に転校した娘の親友レイちゃんから、娘に「年末帰国するから、一緒に遊ぼう!」のメールが来ました。娘は大喜び。さっそく、レイちゃんと遊ぶプランを立て始めました。

 レイちゃんが行きたいのは「キッザニア東京」。子どもたちが警察官になったり、ピザ屋さんになったりと職業体験をできる場所で、園児・小学生たちに人気のスポットです。娘は小学生のときに一度だけお友達と行ったことがありますが、レイちゃんは行ったことがなく、「一度行ってみたかった」とのこと。

 ホームページを見ると、価格設定が平日・土日・学校の休みの日など複雑なので私が娘の代わりにチェックすることに。レイちゃんが来る29日は冬休みですのでチケット代金は高くて税込み4698円です。私は娘に提案しました。

「グランマやばあち(札幌在住の私の母)からもらったお小遣いを貯めているでしょ。あれから出したら?」
娘はグランマや私の母からもらったお小遣いやお年玉を、一度も使ったことがありません。ですので、それを使うのには良い機会でしょう。

ところが、娘はきっぱりとこう言います。
「それは、嫌。あのお金を使うぐらいだったら、キッザニアには行きたくない」
「でも、せっかくお友達が遊びに来てくれて、行きたいと言う場所があるんだから、行ったら?」
「嫌なの。あのお金はどうしても使いたくないの」
「どうして?」
「だって、グランマやばあちからもらったお金にはそれぞれ思い出が詰まっているの。ママがばあちの家に一人で行ったとき、ばあちが小さな袋に入れてお小遣いをくれるでしょ。『お留守番ありがとう』って書いてあって。グランマからのハロウイーンのカードやイースターのカードには、5ドルとか10ドルとか入っているでしょ。そんな風に入っているお金を使うと、その思い出がなくなってしまうような気がするの。だから、絶対に嫌」
目には涙が浮かんできました。

 うーん、なるほど。母は私が母の様子を見に札幌に行くたびに、ポチ袋に入ったお小遣いを娘と息子、そして私にもくれます。私も何年間も使わずにとっておいたのですが、この冬、そのお金で欲しかったコートを買ったばかり。もちろん、「おこづかい」「ありがとう」などと母の字で書いてあるポチ袋はまとめてとってあります。娘のコメントを聞いて、胸がチクリと痛みます。

 私と夫は、娘には決まった額のお小遣いはあげていません。中高校生にもなれば、近所の家の落ち葉拾いや雪かき、ベビーシッターなどの小さな”仕事”をしてお金を貯める文化のあるアメリカで育った夫は、「労働なしにお金をもらえると子どもに教えるべきではない」との考え。私もその考えに賛同し、今のところは、お友達と外出するときなどその都度お金をあげることにしています。中2にもなると、お友達と学校帰りにピザを食べに行くことなどありますので、緊急時用に定期入れに千円札1枚も入れています。

 が、今回のキッザニアは違うなと思いました。おばあちゃんたちはこういうときに使うようにお小遣いをくれたのだから、それを使わせることで、お金は大事に貯めて自分がずっとほしかったものを買ったり、したかったことに使う楽しさを知ることが出来るだろうと。

 娘はこの世の終わりという表情で大粒の涙をこぼし始めました。
「貯めたお金を使うぐらいだったら、キッザニアには行きたくない」
「でも、レイちゃんは親友でしょ。久しぶりに会う親友が行きたいところなら、連れていってあげたらどう?」
「うん。でも貯金箱のお金は使いたくない。でも、キッザニアには行かなきゃならない。どうしたら良いの?」

 娘とは半年ほど前に、夕食後に食器を洗うと1回につき100円をあげる”契約”をしていました。が、1カ月試して3千円貯めたら、「そういう風にしてもらったお金は、学校帰りにお菓子を買ったりして無駄に使ってしまう。夕食(特に皿の数が多い和食)のお皿を洗うという労働に見合わない」と思ったらしく、「お金はいらない」という判断になってしまったのです。労働の対価としてお金をもらう。それを自分が使いたいものに使うーということを教えたかったのですが、娘には効果がなかったようです。

「あのときから続けていれば、とっくに今回のお金は貯まっていたのにねえ」と私。
「私もそう思う」としょんぼりとする娘。

 娘と私のやり取りを聞いていた息子が突然、2階に上がっていきました。そして、また階段を下りてきて娘に十円玉を差し出しました。自分の部屋にある貯金箱の中から10円を取り出してきたのでしょう。
「おねえねえ、かわいそうだから、これあげる」
娘はそれを見て、大粒の涙を流しました。

息子の部屋に置いてある貯金箱
息子は近所の駄菓子屋さんで、11円でキャンディやガムが1個買えて、100円では9個買えるということを実体験から学んでいますので、10円というお金の価値は分かっています。誠意を示しながらも現実的な行動を取る息子に、私は心の中で「なるほどなぁ」とうなりました。

 その息子は、もらったお小遣いは全部使ってしまうタイプ。それも、駄菓子屋さんでガムやキャンディを買うのがほとんどで、親の私から見るとあまり有効な使い方をしない。まぁ、息子にとってはキャンディこそがほしいものなのでしょう。

 お金の使い方がまったく違う子どもたちを見ていると、実家の向かいのお宅の息子さんたちのことを思い出します。

 実家のお向かいのお宅は、おばあさん、その娘夫婦、そして夫婦の息子2人という5人家族です。息子たちが働き始めたころから、おばあさんが「次男坊はしっかり者だ。稼いだお金は全部貯金している。でも、長男坊は駄目。全部使ってしまう」と母に話していたようです。やはり、おばあさんが言っていた通り、次男はさっさと独立し、結婚して、安定した生活をしています。長男は定職に就かず、実家から出ていかないようなのです。

 このような話を聞くとやはり、もらったお金を使わずに貯めておく娘は正しいような気がして、息子の将来について案じるようになります。でも、やはり、社会では「ケチ」は嫌われますし、、、。子どもにお金の価値を教えることは、本当に難しい。

 さて、娘の涙は止まりません。そして、優しい小1の弟に付け込んで、「ねぇ、明日の朝、温かい紅茶を入れてあげて夕食のサラダを食べてあげるから、100円くれる? 」と提案までしてしまいました。
「いいよ」と息子。全く、頓着がありません。
「弟からお金をむしり取るなんて、そんなことするぐらいだったら、自分のお金を使いなさい!」ときょうだいの話に口を挟む私。
「ママ、むしり取るなんて、そんな強い言葉使わないでよ」と娘。

 結局、キッザニアの入場料は、毎晩お皿洗いをしたり、私が息子の習い事の送迎をできないときに娘が代わりに連れていく”ベビーシッター代”を貯めて賄うことにしました。

 息子が聞きます。
「ねぇ、ママ。僕のベビーシッター代っていくらなの?」
「500円」
「それ、高過ぎじゃない? ただ、僕をプールに連れていくだけだよ」
「でも、弟を安全に、かつ、ケンカもしないで目的地に連れていくって、ちゃんとした仕事だよ」
「僕、電車の乗り方知っているし、おねぇねぇとケンカしないなんて、ありえない」
「でもさ、おねぇねぇ、お金貯めなきゃならないから、協力してあげて」

「なんか、それずるくない?」
腑に落ちない表情でそう語る息子の横で、娘の目からはすっかり涙が消えて、表情は晴れやかです。

 私が提案したことはその場しのぎで、一貫性がないような気もします。でも、キッザニアの入場料を丸ごとあげるのもまた、違うような気がします。かと言って、子どもの思いの詰まった貯金箱のお金を使わせるのも酷です。逆に、「お金のかからない遊びをしなさい」と提案するのも中2の子どもたちには現実的ではないでしょう。何が正解なのか、教えてほしいです。

 

2018年12月11日火曜日

お手本になりたい

 息子の小学校の宿題が1つ増えました。毎日の漢字ドリル、音読、計算カード(足し算や引き算の暗記)に加えて、週1回提出する日記です。

 配布されたノート(ありがたいですね)の1ページ目には、「かきかたのポイント」という紙が貼られています。担任の先生が書いてコピーしたものを配ってくれ、子どもたちがのり付けしたのでしょう。

①いつ
②どこで
③だれと(だれが)
④なにをした
⑤どうおもったか
、や。をつかってかこう。

ふむふむ。これをふまえ、息子が書いた最初の日記は次の文でした。

「ぼくは、かるいざわでゆみやをひとりでつくりました。とてもうれしかったです。」

 息子が書き終えた文章を読み、そのときの情景を思い出しながら、「もう少し、書き加えたほうが良いだろうなぁ」と思いました。でも、そのまま提出させることにしました。

 学校から帰宅した息子に「先生に日記見てもらった?」と聞くと、息子は「うん!」と言い、ランドセルを開けてノートを取り出し、私に差し出しました。ページをめくると、息子の4行日記の横に、「いつのはなし? ひとりでいったの? ゆみやづくりでのおもいでなどかけるといいね」という先生からのコメントが書かれてありました。「そうだろうなぁ」と心の中でつぶやいた私。

 さて、2回目の日記を書く日。ノートを開き、鉛筆を持った息子が「この前は1ページだったけど、今日は2ページ書く」と宣言しました。

「あら、どうして今日は2ページなの?」
「先生がね、こうた君とゆうだい君の日記をスクリーンでみんなに見せて、『これみたいな日記を書いてください』って言ったの。2人とも2ページ書いていたんだ。僕もお手本になりたい」

 感動しました。そうか、小1でも何かきっかけがあれば「お手本になりたい」という気持ちが芽生えるんだな。それがモチベーションになって、目の前の宿題にちゃんと取り組もむようになるんだなと。こういう前向きな気持ちに子どもたちを誘導してくれる先生はさすがです。そして、息子が一気に書いた文章はこうでした。

「きょうぼくは、せせらぎこうえんで、サッカーをしました。一くみのるいくんとあおしくんもいっしょでした。サッカーでゴールをしてとてもうれしかったです。こんどのすいようびにはもっとゴールにむかってボールをけってかちたいです。」

 最初にもらった「かきかたのポイント」通りに、「いつ、どこで、だれと、なにをした、どうおもったか」がきちんと書かれているではありませんか。それに、句読点も使っています。先生の指導でこれだけ良くなるのですね。



 それから週に1回ずつ、日記書きは続いています。3回目は夫とパソコンで映画を見たことがテーマ、4回目はハロウイーンに仮装をして友達とキャンディをもらいにいったこと。5回目は夫と一緒に薪割りをしたことでした。5回も書いているのに私のことが一度も書かれていないのは、さすがにちょっと気になります。毎日一緒にいて、かつ、これだけ息子を愛おしんでいるのに、です。

 「ママと一緒に公園に遊びに行ったこととか、サッカーゲームをしたこととか、お料理をしたこととか、書いてよぉ」と言いたいところですが、ぐっとこらえています。

2018年12月4日火曜日

ママ、おかえり

 夜10時少し前、玄関ドアの鍵を開けて家の中に入ると、一枚の絵がたたきに置かれていました。「ママ、おかえり」。心温まるメッセージが添えられていました。中2の娘が、私のために描いてくれたのです。


 私はその夜、新聞社時代の先輩と会うことになっていました。ちょうど娘と息子のヴァイオリンのレッスンが夕方5時から1人1時間ずつ続けてある日でしたので、子どもたちを先生のお宅に送って一旦帰宅し、夕食の支度をして外出。夫が会社の帰りに子どもたちを迎えに行ってくれました。

 私が和食レストランで料理に舌鼓を打ち、グラスを傾けながら先輩と語り合っているとき、夫からは私が準備していたロールキャベツを美味しそうにほおばる2人の写真がメールで送られてきました。

 そして、名残りを惜しみながら「また、来年お会いしましょう!お元気で」と先輩と駅で別れ、気分良く帰宅したとき、その絵が玄関で待っていてくれたのでした。

 娘は絵が得意です。娘が小さいころは私の体調が悪いときが多く、私がソファやベッドに寝ているときには隣で静かに絵を描いていました。娘はいつも私に絵を描いてプレゼントしてくれました。私の体調が悪いときも、入院したときも、息子を出産したときも、日々の何気ないときにも・・・。

「また、あそぼうね。まま、だいすき」
幼稚園のころ、お店屋さんごっこをして遊んだ後にくれた絵

 絵の中で私の隣に並んだ娘はとても小さかったのに、いつの間に私と同じ背丈になりました。娘が私の背丈を超したころから、私と娘が並んだ絵を描いてくれなくなりました。その代わり、花を描いてくれることが多くなったような気がします。

娘が小6のときに描いてくれた絵。額に入れ、飾っています
玄関に置いてあった絵を手に取り、眺めながら、目頭が熱くなりました。少しずつ、子どもらしさが消えて大人びてきた娘。家族と過ごすより自分の部屋にこもるほうが好きになっている娘。「一緒に●●しよう!」と声を掛けても、「ううん、大丈夫」と断ることが多くなってきた娘。でも、娘は外出している母親のために、時間をかけて絵を描いてくれる優しさをまだ持っているのです。

 その絵を、娘から贈られた絵を収めてあるファイルに入れました。これまでの絵を一枚一枚眺めながら、娘にはたくさんの贈り物をしてもらったな、無償の愛をもらったな、だから、娘が離れていっても寂しいなんて思わないようにしようと、自分に言い聞かせたのでした。


2018年11月24日土曜日

もう赤ちゃんじゃない

 手持ちのズボンが小さくなってきた息子を連れて、ベビー・キッズ用品の店「アカチャンホンポ」に行きました。ここは息子が赤ちゃんのころから利用してきた店。息子がサイズ120センチを着ていた昨年まで、ズボンや下着などを買いに行っていた店です。



 ズボンを置いてある、いつものコーナーに行きました。でも、ひとサイズ大きい130センチがない。そもそも、ここは120センチまでの品ぞろえだということに、そのとき気付きました。

「今はいている120センチより大きい130センチがないみたいだよ。もう、赤ちゃんじゃないんだね」
「ママ、じゃあ、僕、お店の人に聞いてくるよ」と、もう赤ちゃんでなくなって久しい息子が店員さんのほうに走っていきました。

 もう赤ちゃんじゃないー。私は自分の言った言葉に、胸がキュンと切なくなりました。そうなんだな、赤ちゃん用品店にはもう来られないんだな、と。こみ上げてくる寂しさと一緒に、ここに通っていたころの心躍る日々が蘇ってきました。

 私は46歳で息子を出産しました。そのまさしく”中年”の女性が、やっと生まれてきてくれた赤ちゃんをベビーカーに乗せ、ベビー用品の店で買い物をするのは、少し照れくさいような、でも心満たされる幸せな時間でした。

 小さなベビー服や下着、哺乳瓶・・・。どれもこれも可愛らしく、いとおしく、それらの買い物がどれほど楽しかったことか。自分の娘と言っても良いほど若いお母さんたちを見かけると、「きっと、私は孫を連れて買い物に来たおばあちゃんだと思われているだろうなぁ」と心の中で苦笑しながら、さっと自分の髪をなでつけたりしました。

 お腹がすいてきて泣く息子に授乳するために、店内に設置されている授乳室に行って、息子におっばいをふくませて、あやすあの幸せな瞬間ー。その店での思い出はどれも、キラキラと輝いていました。

 そんなことを考えていると、息子が帰ってきました。息子は運動が大好きなので、伸び縮みしないジーンズは苦手で、ここで取り扱っているストレッチ素材のズボンがお気に入りでした。だから、残念そうに言います。

「130センチはないんだって」
「そうなんだね。じゃあ、違う店に行くしかないね」

 そう答えながら、別のブランドの品物が置いてあるコーナーに行ってみました。すると、なんと、たくさんの商品の中に1枚だけ、130センチのズボンがあったのです。触ってみると、息子が好きな伸縮性のある素材でした。

「アカチャンホンポ」で買う最後の品物となったサイズ130センチのズボン
試着室で息子に着させてみると、ぴったりでした。息子も「これ、膝を曲げても痛くないからいい」と言います。で、それを買うことにしました。その日は、いつもは財布の中に入っていない、この店のポイントカードを持ってきていました。レジでそれを差し出しながら、「これを使うのは、今回が最後だなぁ」とまたまた、寂しくなりました。

 その店の見納めに、店を出て通路からざっと店内を眺め、スマホで写真を写しました。「これまで、ありがとう」。心の中でお礼を言い、息子の手を取り、駐車場に向かったのでした。

2018年11月22日木曜日

ハッピーハロウィーン 2018②

 今年もマイヤー家では、ハロウィーンイベントの第2弾として、パンプキン・カービング(かぼちゃ彫り)をしました。事前に仕入れたのは、直径約35センチの形の良いパンプキン2個。地元のイベントが終わった週末に、彫りました。

 パンプキン・カービングは娘が幼稚園のころから、娘の友達のご家族も招待しながら、毎年楽しんできました。どんなに忙しくても、ハロウイーンの10月31日までには行っていて、大きなパンプキンも軽井沢の農協まで探しに行き家族全員が彫れるよう最低4つは確保していました。

 が、さすがに私も夫も年を取ってきて、「出来るときに、出来る分だけでいいよね」ということに。去年は11月1日に5個彫りましたが、今年は子どもたちの分2個だけ用意し、彫ったのは11月4日でした。

 そうは言っても、カービングの楽しさは一緒。子どもたちは喜々として、キッチンのカウンターに新聞紙を敷き詰め、パンプキンを載せ、種を素手で取り出し、表面に目と鼻、口をマジックで描いて、ナイフでゴリゴリ。


 今夏、夏休み明けの新学期にスマートフォンを持ち始めた中2の娘は(ついに根負けし、買い与えました)、イヤフォンをして音楽を聴きながら、取り組んでいます。親としては、「こういう家族の行事のときはイヤフォンを外しなさい!」と言いたいところですが、楽しく参加してくれるだけで良しとしなければ、とその言葉をぐっと飲み込みます。



 息子はまだ手の力がないので夫が手伝いながら、カービング。そうやって、コワーイ、カワイイ、パンプキンの顔が出来上がったのでした。


 今年も満喫したハロウィーン。来年も子どもたちと一緒に楽しめることを願いながら、眠りについたのでした。



2018年11月15日木曜日

ポール・マッカートニーのコンサートへ 2018

 ポールは最高でした! 11月1日、東京ドームで行われたポール・マッカートニーのコンサートに夫と行ってきました。

 ポールのコンサートに行ったのは2015年、昨年に続き3回目。若いころからビートルズファンの夫に楽しんでもらおうと、今回もチケットは販売サイトに事前登録して、抽選を経て入手しました。

 小1の息子の世話は、中2の娘に頼みました。娘は「いいよ!ベビーシッター代は?」と条件付きで快諾。昨年は「大丈夫だよ。ちゃんとお世話出来るから」という可愛らしい答えだったのですが、中2にもなるとしっかりしてくるのですね。「じゃあ、千円でどう? 学校と公文の宿題もやらせてね」とこちらも条件付きで頼み、「OK!」という娘の弾んだ声で”契約”は成立しました。

 会社を早めに切り上げてくる夫とは自宅最寄り駅のホームで待ち合わせ、開演2時間前の午後4時半に東京ドームに到着。まずはあちこちで写真を自撮りし、ドーム前に設営されたグッズ売り場で、あれこれと迷いながら、夫はTシャツとギターを持つポールが全面に描かれたリトグラフ、私はトートバッグとプログラムを購入しました。

 グッズの購入を終え、ドームの外周エリアにあるメキシカン・ファストフード店「TACO BELL」で腹ごしらえ。メキシカンフードが大好きな私たちにとっては打って付けの場所で、ビールで乾杯し、タコスやファヒタを頬ばり、今回のコンサートについて話を弾ませました。プログラムを見ながらアメリカ人の夫が言います。

「見てごらんよ。今回のツアーはアジアでは日本だけだよ。日本は東京ドーム2回と両国国技館、名古屋まで行くんだよ。アメリカは1カ所なのに」
「去年に続いて、今年も日本に来てくれるなんて、ポールは日本が好きなのね」と少し得意げな日本人の私。

 ドーム内に入っていく観客の多くは私たちと同じ様な中年。腰が曲がっている母親の手を引きながら歩いている中年男性もいました。若いころビートルズのファンだったお母さんを連れてきたのでしょうか? その微笑ましい姿を見ていて、心が温まりました。
 
コンサートは「ア・ハード・デイズ・ナイト」で幕明け。「コンニチハ、トウキョウ、タダイマ」というポールの日本語での挨拶に、客席から大きな歓声が上がりました。

 ポールは素敵でした。観客に日本語を交えながら話し掛け、次々と往年の名曲を熱唱し、新曲の数々も披露します。70代でどうやってあのスタイルと歌声を保っていられるのでしょう。曲が始まるごとに、終わるごとに客席から歓声と拍手が鳴り響きます。ポールが一曲一曲を熱唱し、いとおしむように歌い上げているとき、観客も体を揺らしながら、歌を口ずみさながら、その瞬間を味わっていました。ポールと客席は一体となっていました。


 昨年5月のコンサートと違っていたのは、今年は写真撮影が許可されていたことです。が、写真を撮っている人はあまり見かけませんでした。観客の多くが、ポールの姿を見、ポールの歌声を聴くことに集中していたのだと思います。スマホは写真撮影ではなく、歌に合わせてライトを振る場面で使われました。「スマホはこんな素敵な使われ方をするんだ」と私にとって驚きでした。見渡すと会場全体がキラキラと揺れて輝き、それは美しい光景でした。



 そして、「ヘイ・ジュード」。ポールが歌い終わり、観客が伴奏に合わせて「ラー、ラーラー、ラララッラー」と歌うところでは、ポールが客席に「ジョセイダケ」と呼び掛け、女性の観客だけで歌う場面もありました。男性が混じる力強い声とは違った、透き通るような声が会場全体に響き渡りました。


 アンコールの数曲を歌い終わった後、ポールが「モウ、ソロソロ・・・We should go home」と言い、会場全体に笑いが広がりました。そして、また会いましょうのポールの締めの言葉で、夢のような時間が終わったのでした。

 コンサートの余韻を楽しみながら、ドームを出た後は昨年と同様、近くのイングリッシュパブに寄りました。ドーム内の興奮とは打って代わって、仕事帰りの人たちが静かに、テレビに映ったプロ野球の日本シリーズを観戦していました。この光景も、勤め人ではない私にとっては非日常の世界。その雰囲気を楽しみながら、ビールを飲み、「フィッシュ アンド チップス」をつまんで、終わったばかりのコンサートについて夫と語り合ったのでした。


 娘に電話をすると、「宿題も終わったし、お皿も洗ったよ」とのこと。しっかり者のお姉さんになった娘を頼もしく感じながら、私たちは早々にビールを飲み終え、家路に付いたのでした。

2018年11月5日月曜日

ハッピーハロウィーン 2018

 子どもたちが楽しみにしている季節の行事の一つ、ハロウィーン。今年も最寄り駅近くの住宅街で開かれたイベントで、たくさんのキャンディをゲットしました。

 今年もパンプキンの形をしたキャンディ入れを準備して、この日を迎えました。着て行くコスチュームは、息子がスター・ウォーズの登場人物「ダースベイダー」、娘はギリシャ神話に出てくる女神です。


 

すっかり、ダースベイダーになり切っている息子
このイベントには、娘が幼稚園生のころから毎年参加しています。住宅街のあちこちの家の前にキャンディを置いてくれており、子どもたちが地図を見ながら家を探してキャンディをもらうのです。

 外国人が多く住む地区で、ずいぶん前に有志でスタートしたそうです。以前は有志の方々がご自分でたくさんのキャンディを用意してくれていました。ここ数年、参加者が多くなったため、参加する子ども1人につき2袋のキャンディやチョコレートをお母さんたちが事前に主催者のお宅に持っていく形になりました。持っていくお宅は毎年変わりますが、主催者から直接届け先を聞いたお母さんや、郵便受けに入っていたパンプレット(子供がいそうな家に配布するのでしょうか)を見たお母さんが友達に知らせる形で、情報が地域一体に伝わるようなのです。子供たちの参加は自由ですので(事前にお菓子を持って行っていない家庭の子供ももちろん参加できます)、子供がいる家庭にとっては、本当にありがたいイベントです。

 さて、日も暮れて、駅前にたくさんの子どもたちが親に連れられて集まってきました。息子も事前に約束した幼稚園時代のお友達5人と駅前で集合。私も付き添っていくと、近隣の幼稚園、小学校のお母さんたちなど、たくさんの顔見知りに会いました。皆、楽しそうな表情であいさつをし合います。

 キャンディをもらえる家の場所が描かれた地図をもらって、さあ出発。今年は40件近くの家がキャンディを置いてくれていました。工夫を凝らている家もあり、一緒に歩く親も楽しめます。


 娘は学校のお友達を誘って、参加しました。女神の衣装はシーツ、頭に被ったオリーブの葉は百円ショップで買ったもの。キャンディをもらうために並ぶ娘は他の子どもたちより頭2つ分大きい。中2で身長175センチ、足27センチの娘。ハロウィーン・イベントに参加するには大きい過ぎるような気がしますし、お菓子をくれるおうちの方より背が高かったりするのですが、このようなイベントに喜々として参加する子供らしさをまだ持っていてくれて、遠くから眺める親としてはとても嬉しいのです。


 娘と幼稚園や小学校が一緒だったお友達のお母さんたちにもあちこちで会いましたが、そのお友達はもうだれも参加していませんでした。お母さんたちは皆、下の子どもを連れての参加。あるお母さんが、娘が小さいころと同様仮装をして参加している姿を見て、「前と変わらず楽しそうにしているのを見ると、嬉しいね」と言ってくれました。そう、お母さんたちは、自分の子どもが子どものイベントに興味を示さなくなるのを、ちょっぴり寂しく思っているのです。

 私がいつも食料品を買っている駅横のスーパーでは、12歳以下の子ども限定でお菓子が入った袋をくれます。もらえる条件は、仮装をしていること、「Trick or Treat (トリック オア トリート」と店員さんに言うこと。去年お菓子をもらえた娘は、店の外で息子たちがもらう姿を見ています。娘のお友達は小柄なので、「きっともらえるよ!」と娘や私に言われて店内に入り、ちゃんともらってきました。「こんなに背が高いからね、キャンディはもらえないよね」と少し残念そうに、苦笑いしながら言う娘を見て、かわいそうに思ったりもします。でも、あちこち回って入れ物いっぱいにキャンディがもらえたので、十分です。


 夫も途中から参加しました。忙しくてご飯の支度をする時間がなかったため、夫と相談してこの日の夕食はケンタッキーフライドチキンにすることにしました。皆、考えることは一緒らしく、夫によると店の前には長い行列ができていて、いつもはすぐ買えるチキンも30分待ちだったそうです。

KFCの「バーレル」もハロウィーンの模様付きでした
 


 

2018年10月31日水曜日

夏の思い出① カエルとの交流

 あっという間にコートが必要な季節になりました。今年の東京は梅雨の期間も短く、また、夏もあっさりと過ぎたような気がします。赤、黄と鮮やかな色を付けた木の葉を見ていると、葉が青々としていた、楽しかった夏を思い出します。

 今年の夏も小さな楽しみがいくつもありました。その中でも、心温まる思いで見ていたのは子供たちと我が家に住み付いたカエルとの交流です。

 カエルがやってきたのは5月12日、夫と息子が家の小さな庭に芝生を敷き詰めた後でした。芝生を敷いたのは5月7日と10日の2日間でしたので、その2日後のことです。

 最初に発見したのは、芝生を植えたばかりで朝晩と水やりに熱心だった(当初だけ)夫です。
「カエルがやってきたぞ!結構、大きいよ」
「えっ? 本当?」
「どこ?」
と子供たちは大はしゃぎです。


 その後、ちょくちょくカエルは我々の前に姿を現しました。体形も変化しておもしろかった。
暑い日が続いたときは、「カエルさん、やせちゃったみたい」と心配する息子の声が庭から聞こえました。見にいくと確かにスリムになっています。カエルも”夏バテ”をしたのでしょうか?

 しばらくしたら、また体形が戻ってきて、「カエルさん、また、太ったみたいだよ。良かったね」と安心する息子の声が聞こえました。そういうときは、カエルはちゃんとデッキの下に隠れて涼んでいたりしました。

 7月16日は猛暑日でした。その日は玄関前の花壇で発見。涼を求めて移動したのでしょうか?もしくは他のカエルだったのでしょうか。カエルを発見した子供たちは大喜びで、また、つかまえて「ハロー、キューティ(かわいい子)!」と声掛けしながら、なでなで。

 特に娘は小さなころからカエルや虫が大好き。世の中広しと言えども、カエルにキューティと名付けて愛でる中2女子は娘ぐらいだろうなと思います。でも、そんな素朴な娘が何とも愛おしい。



 その日はとても暑かったので、庭のデッキに家庭用のミニプールを出そうと思っていたところ。水を入れると、息子は水着に着替えて、カエルと一緒にプールに入りました。


 
 当のカエルは迷惑だったのでしょうが、あまりに可愛いのでしばらく一緒に泳がせました。ちょうど水泳教室で平泳ぎを習っていた息子はカエルの泳ぎを観察。
 「カエルさん、本当に平泳ぎで泳いでいた。でも、腕は使っていなかったよ」
 
 最後にカエルを見かけたのは8月24日、花壇に植えたアサガオの葉の下です。息子が小学校で育てて間引きして持ち帰った苗を植え、育てたもの。息子が水やりをしていたときに、カエルを発見したのです。生い茂ったアサガオの葉の下は涼しかったのですね。


 あまりに暑かったため、カエルには土がすぐ乾燥する花壇は辛いだろうと、近くの緑豊かな公園の小川の側に放つことにしました。娘がお別れの歌を作詞・作曲し、カエルに捧げました。
 
My little Froggy (私の小さなカエルちゃん)
 beautiful and calm (美しく、穏やか)
   My little Froggy (私の小さなカエルちゃん)
    free in the river  (川で自由になるのよ)
    My little Froggy  (私の小さなカエルちゃん)
       Spread it's wings  (その羽を広げて)
         My little Froggy  (私の小さなカエルちゃん)
           Good luck out there  (幸運であることを)

 カエルをなでながら、気分良くお別れの歌を歌う娘に、夫が茶々を入れます。
「カエルに羽はないぞ!」
「あるんだよ、ダディ」
と空想の世界に生きる娘が答えます。

 そして、カエルを手に娘と息子は公園に行き、小川の近くにカエルを放ちました。カエルはピョンピョンと繁みの中に消えて行ったそうです。気分良く帰宅した子供たちはカエルの様子を報告。
「さよならのキスをしたの」と娘。
「えっ?」とギョッとした私に、「大丈夫だよ。ママ、すぐ、公園の水道で口をすすいだから」と息子。

 そんな夏のエピソードを思い出しながら、息子が小1、娘が中2の夏も終わってしまったのだなとちょっと寂しくなります。来年の夏も、子供たちがカエルと一緒に遊んでくれることを願います。

2018年10月27日土曜日

息子の落とし物

 今朝、夫が行きつけの床屋さんに、小1の息子を連れて行きました。夫の楽しみの一つで、中2の娘もつい最近まで一緒に行っていました。

 床屋さんに子供を連れて行くと言っても、髪を切るのは夫で、子供たちは夫を待っているだけ。ご夫婦で経営する小さな店で、夫が髪を切ってもらうときには子供たちは近くのソファに座って、持って行った本を読んだり、絵を描いたりしています。お店の人や他のお客さんにご迷惑でないのか気になりますが、大人しくしているようなのです。小学生にもなれば子供たちもつまらないのではと想像しますが、よちよち歩きのころから夫と一緒に行っていた子供たちは喜々として着いて行きます。

「早く、早く。田中さん(床屋さんの名前)はすぐ混んじゃうからさ。図鑑はダディのバッグに入れておいたから」
2階で何やら準備をしていた息子を急かす夫の声が玄関から聞こえます。図鑑は息子が昨日、学校から借りてきたもので、床屋さんで読ませようと夫は自分のバッグに入れたようです。
「分かった。今行く!」
息子が慌てて2階から駆け降りてきました。
そして、急いでスニーカーを履いて出て行きました。

「いってらっしゃい!」
玄関前の道路で2人の背中を見えなくなるまで見送り、家へ。ぐちゃぐちゃに散らかった家の中をため息をつきながら一つ一つ片付けるのは私の仕事です。

 1階のキッチン・ダイニングをざっと片付け、息子の部屋がある2階に行こうと階段を上ると、その途中に息子が夫の床屋さんに付き合うために準備していたものが転がっていました。「キャプテン・アメリカ」というアメリカのコミック作品のヒーローが持っている盾の形をしたリュックサックと、息子が赤ちゃんのころから一緒に寝ているクマのぬいぐるみ「ベア」です。


 ああ、これを持って行こうとしたんだな。ベアと一緒に図鑑を読もうとしていたんだな、と想像しました。胸がキュンとしました。日常の何気ない風景。娘が成長し、このような子供らしい落とし物を家の中にしてくれなくなった今、尚更、これらがいとおしい。そして、いつか、こんな風景を家の中で見なくなる日が来る、と想像すると胸がチクンと痛むのです。

 仕事や趣味など、家庭以外で人生を豊かにしてくれるものを求める私ですが、私が本当にしたいのはそれなんだろうかと考えます。実はそうではなくて、子供との時間を精いっぱい楽しみながら、子供たちが好きそうな料理やお菓子の新しいレシピに挑戦したり、子供たちのために縫い物をしたり、ささやかな日常の風景を写真に撮ったり、文章につづったり、子供たちの成長を記録するアルバムを作ったりすることなのではと考えるのです。

 でも、一方で、子供たちが巣立ってしまったあと、自分自身が空っぽになってしまうのも恐れている。そして、世の中に必要とされなくなること、家庭以外に自分の居場所がなくなってしまうことも恐れている。私は39歳まで仕事に没頭し、40歳直前と46歳で出産しましたので、子供が小さくて可愛らしい50代前半の今、活動を始めなければあっという間に”老後”と言われる年齢になってしまうという焦りもあります。

 私が本当にしたいことは一体何なのだろうか? 息子があちこちに散らかしたものを拾い上げ、抱き締めながら、ぐるぐると考えを巡らせたのでした。

2018年10月20日土曜日

Iさんのこと

 私には母と同い年80歳(昭和13年生まれ)の友達がいます。Iさんといいます。Iさんとはアメリカ・ミシガン州の大学で出会い、もう、かれこれ30年近くお付き合いさせていただいています。

 私がIさんと出会ったとき、Iさんは50歳でした。働きながら子供2人を育て上げ、2人が大学生のときに仕事の専門性を高めるため、アメリカの大学院に留学しました。

Iさんと私が学んだ大学のポストカード
Iさんは、私が友人とシェアしていた大学内のアパートの部屋と同じフロアの部屋に住んでいました。面倒見の良い人で、たくさんの留学生がお世話になりました。私もちょくちょく部屋に遊びに行きました。

 アパートに顔を出すと、Iさんはいつも老眼鏡をかけ、テキストブックと格闘していました。普通の老眼鏡では間に合わなかったのでしょう。水中メガネのような大きな老眼鏡をかけていました。ご主人も研究者で、夏休みや冬休みなど長期休暇のときにIさんの様子を見に来ていました。集中しているIさんの邪魔にならないようにという配慮からでしょうか。部屋の片隅に静かに座っていた姿が印象的でした。

 今、私がIさんと同年代になり、視力も体力も衰えてきて、改めてIさんのすごさを実感します。私が40代や50代になって、何か新しいことを始めようとするときに躊躇するときはいつも、老眼鏡をかけて必死に勉強していたIさんの姿を思い出します。そうすると、30年前にIさんが50歳でアメリカの大学院に留学したことを考えれば、今の時代に50代で言葉の通じる日本で何かに挑戦するのは、簡単なことなんだと一歩を踏み出す勇気が出ます。

 Iさんは帰国した後、60代で博士課程に進み、医学博士となります。Iさんは「私よりずっと若い教授に、こんな年齢の人を医学博士として世の中に送り出して良いものかと思う、と言われたのよ」と笑い飛ばします。Iさんが成し得たことを考えれば、私の挑戦など本当に取るに足らないことと思いますし、Iさんがいるからこそ、私は目標を失わずに生きることが出来ました。

 そのIさんの傘寿(80歳)のお祝いに9月18日、私の大好きな4人組のヴォーカル・グループ「IL DIVO」のコンサートにご招待しました。IL・DIVOのコンサートには2年前、母を連れて行ってとても喜んでもらいましたので、Iさんもぜひお連れしたかったのです。

観客を魅了した「IL・DIVO」。4人ともハンサムで、とても素敵な声をしています
Iさんはとても喜んでくれました。私も、2年前と同様、4人の歌声にうっとりと聴き入りました。余韻が覚めない中、日本武道館を出たIさんと私は腕を組んで歩きながら、今聴いたばかりのコンサートについて語り合い、歌を口ずさみました。

コンサート終了後、たくさんの人がここをバックに写真を写していました
これからも大好きなIさんとの時間を大切にしたいと思っています。

 

北海道胆振東部地震 被災地札幌へ④

北海道胆振東部地震の翌々日(9月8日土曜日)、安否が分からなかった叔母から母に電話が来た後、同じくむかわ町に住む叔父夫婦とようやく電話がつながりました。

「おじさん、睦美です。大丈夫ですか?」
「おお、むっちゃんかい。お陰様でこの通り、無事だよ」
「おじさん、家の中すごいんでしょ?」
「うん。でも、子供たちが手伝いにきてくれて、壊れたものを全部外に出してくれるから、助かるんだ。家は壊れなかったから、避難所に行かなくてもいいんだ。ありがたいよ」

叔母が電話口に出ました。
「おばさん、大変でしたね」
「お陰様でね、無事だったの。近所では壊れた家もあって、たくさんの人が避難所に行っているんだけど、うちは家だけは大丈夫だったの。築40年以上の経つのにね。本当に助かっているの」

大変な状況の中、「お陰様で」を繰り返す叔父夫婦に、ほんわかと心が温まりました。

この日はニュースを見た夫からも電話がありました。
「日本人って、偉いよなぁ。大災害があっても、助け合ってさ。食べ物が届いてありがたいとか言って、謙虚でさ。アメリカだったら、住人が避難所にいっている家の中に泥棒が入るよ」
「そう、日本は自然災害が多い国だけど、被災者たちは大変な状況の中で皆助け合って、乗り越えるの」
いつもの私の、”日本自慢”です。

さて、翌日の9月9日日曜日は朝早く起きて、実家の最寄りのバスターミナルから午前5時50分発の新千歳空港行きのバスに乗りました。母が「これ持っていきなさい」と、保冷バッグに入ったホタテの貝柱1キロと、母がふかしたお赤飯を持たせてくれました。留守番をしていた子供たちには「サーティワンのアイスクリームでも食べてね」というメッセージが書かれたお小遣いも。

この朝早く実家を出たのは、午前11時過ぎに夫が羽田空港からバンコク行きの飛行機に乗ることになっていたからです。

関西地方を襲った台風21号、北海道地震と大きな災害が続き、「東京でも地震が起きるかもしれない」という不安が募っていましたので、とにかく東京に帰らなければなりません。娘は中2ですので、何かあれば小1の息子を伴い、行動できると信じてはいますが、やはり、まだ子供です。とにかく、両親ともに東京にいないという状況だけは避けなければと考えました。

バスは順調に運行し、新千歳空港には7時少し前に着きました。出来るだけ早い便に乗るために、すぐJALカウンター前の列に並びました。

私の後ろに並んでいた60代ぐらいの男性が話し掛けてきました。
「もう少し混んでいるかと思ったんだけど、混んでいないですね」
「そうですね。飛行機も順調に飛んでいるようで、何よりです」

男性はにこやかに話を続けました。
「私、住まいは関西なんですけど、こちらにも事務所があるんですよ。で、こちらに出張に来ていて、さて帰ろうというときに関空が閉鎖になってしまって・・・。関空が再開するのを待っていたら、今度は北海道が地震になって、飛行機が飛ばなくなってしまって。ずっとこちらに足止めでした」
「そうなんですか。それは大変でしたね。私は札幌で一人暮らしをする母の様子を見に来ました。こちらに来たのは地震の翌日で、飛行機やJRが次々と運行を再開した直後で助かりました」
「そうですか。お母さんはご無事で?」
「ええ。元気で、家も大丈夫でしたので、これから東京に帰ります」

私が予約してた航空券は10時発でしたが、7時半発に変更できました。保安検査場に向かうと、普段は早朝から開いている空港旅客ターミナル内のお土産店・飲食店が閉まっていました。


張り紙には「消防(スプリンクラー設備)の障害が広範囲に発生し・・・」とありました。いつもは多くの人でにぎわう場所がひっそりとしているのは何とも不思議な感じでした。


さて、飛行機は新千歳空港を定刻に離陸して順調に飛び、9時過ぎに羽田空港に着陸しました。すぐ、「フェイスタイム」という顔を見て話すことが出来るスマートフォンの機能を使って、夫と話をしました。夫はちょうど保安検査場を通ったところだと言います。

「あら、ここからバスに乗って、国際線ターミナルに行って、顔を見ようと考えていたのに残念」
「なぁんだ。それなら、先に言ってくれれば、保安検査場を通らないで待っていたのに」
「まあ、私が無事に東京に着いたから良しとしましょう。とりあえず、今、何かあっても、子供たちのところには駆け付けられるから」
「そうだよなぁ、災害多いからな。最近」
「では、気を付けてバンコクに行ってきてね」
「うん。子供たちをよろしく」

夫との会話を終え、自宅最寄り駅行きの直行バスに乗り、家に着いたのは午前11時過ぎでした。

「ただいま」
「ママ!おかえり」
息子が抱き付いてきてくれました。
「おねぇねぇは?」
「まだ、寝てるよ」
娘の部屋をのぞくと、娘はまだベッドで熟睡していました。子供たちの側に戻ることが出来て、本当に安心しました。

今回の北海道地震では、とりあえず札幌の母の無事を確認し、また、東京の自宅にも夫が出てから間もなく帰宅することができました。天国の父が見守ってくれていたのだと思っています。

2018年10月15日月曜日

北海道胆振東部地震・被災地札幌へ ③

北海道胆振東部地震の翌々日(9月8日土曜日)午前、私は母を連れて自宅から程近いスーパー「イオン」に向かいました。当面の食料品を確保するためです。

駐車場に車を入れると、店の前に長い列が出来ていました。母に車の中で待つように言い様子を見に店の方へ。

次々に訪れる客たちを誘導するスタッフに聞いてみました。
「どれくらい待ちますか?」
「2時間ぐらいです」
「2時間も待つんですか。で、生鮮食料品は売っていますか?」
「いいえ、お米やカップヌードルなどの在庫がある商品のみです」とスタッフの男性は申し訳なさそうに答えました。

車に戻り母に聞いてみると、「じゃあ、私がいつも行く『ラッキー』に行こう」と言います。そこは母の家から車で数分のところにあり、母がいつも利用しているスーパーです。私は「大手スーパーのイオンに生鮮食料品が売っていないなら、地元のスーパーにもないだろう」と思いましたが、とりあえず母を連れて行くことにしました。

が、予想に反して「ラッキー」はあまり混んでいず、すんなりと店内に入れ、かつ、野菜や果物が豊富に並んでいたのです。「なんだ、初めからここに来れば良かった」と拍子抜けしました。納豆や豆腐などは品切れしていましたが、野菜などはおそらく、地震の被害があまりなかった道内の農家から納入されているのでは、と想像しました。バナナやグレープフルーツ、ナスやキャベツなど次々と買い物かごへ。

「お母さん、お水は?」
「ペットボトルのお茶をケースで買っているから大丈夫」
「でもさぁ、ペットボトルの水は1本でもあると急場はしのげるよ」
「いらない」
「そう?」
私はつかんだばかりのペットボトルを棚に戻します。

お米は飛ぶように売れているらしく、陳列棚に残っていたのは10袋ほど。その中から5㌔の袋を一つかごに入れました。母の好きなブランドではありませんでしたが、手持ちのお米が少なくなっていたことと、いつ物流が回復するか分かりませんでしたので、買うことにしました。

自宅に帰り、札幌市役所に勤めているいとこに電話をしてみました。彼からは地震があった直後に母への安否確認の電話をもらっています。いとこは地震が起きてすぐ役所に駆け付けたと言います。

「今は職員がシフトを組んで24時間態勢で対応しているんだ。あちこち被害がすごいからね」
「それはお疲れさま。どう、今晩うちにご飯食べに来ない?」
「うん、行きたいんだけど、同僚の奥さんの出産予定日が近いんだ。陣痛が始まったら俺が替わりに行くことになっているから、あとで連絡する」

職場にすぐ駆け付けたという、いとことの電話を終え、同じく職場にすぐ駆け付けたと言っていた北海道新聞社勤務の元同僚のことを思い出しました。彼には地震の翌日メールをしました。
「停電が続いていますが、輪転機は動いていますか?」と聞いてみると、「6日は自家発電で夕刊4ページ、朝刊16ページを作りました。社内も冷房を切り、蛍光灯も一部消して省電力に努める綱渡りでした」という返信だったのです。

出版社を経営する友人にも電話をしました。「停電の影響で、締め切りに間に合わないから雑誌の発行を少し遅らせた」と言います。やはり、停電は企業活動に大きく影響していました。

この日は、連絡が取れずに心配していたむかわ町の90代の叔母から母に電話がきました。しっかり者の叔母は自ら望んで一人暮らしをしています。今回の地震では、自宅から出るのに精一杯で、とるものも取りあえず近くの避難所に向かったそうです。「苫小牧の娘がすぐ迎えにきてくれて、いまは娘の家にいる」ということでした。

娘の家に滞在してひと安心の叔母ですが、一つだけ問題がありました。入れ歯を自宅に置いてきてしまったのです。総入れ歯の叔母は、大きく揺れたとき咄嗟に上の入れ歯だけは探して付けましたが、下の入れ歯は見つからなかったそうです。「下の入れ歯がなくて、食べられない」と母にこぼしていたようです。安否が分からず心配していた叔母と連絡が取れて母も安心していましたが、「やっぱり、食べられないから元気がなかった。食べられないと体が弱ってしまう」と他の心配が出てきました。

叔母によると、同じむかわ町に住む叔父夫婦も無事だそうです。ただ、家の中は叔母の家と同様「ぐちゃぐちゃ」だそうで、「とりあえず、けがはなかった」という状態なようでした。叔母からの電話で、私たちは心から安心することができました。

さて、午前中に母のために買ったお米。母は「今は無洗米しか食べないの。お米を研ぐのも大儀で、、、」と言います。仕方がないので、その5㌔のお米とレシートをもってスーパーに交換しに行きました。が、午前中にわずかにあったお米もすべて完売。で、母を説得するために携帯電話で写真を撮りメールで送ってから電話をしました。

「お母さん、写真見た? お米の棚には一袋も残っていないよ。だから、残念だけど無洗米もないの。こういう非常事態だから、いつお米が入荷するかわからないでしょ。とりあえず、このお米をとっておこうよ」
「でも、私は無洗米しか食べないの。だから、返品してきて」
「お母さん、これからどうなるか分からないから、家に置いておこうよ。少し落ち着いたらお店に行って、無洗米が入荷していたら、店員さんに事情を説明して交換してもらったらどうかな? お米は家の中に入れないで車のトランクに積んでおこう。交換するときは店員さんが来てくれるよ」
「うん、分かった」
母は不満そうでしたが、納得してくれました。

今後、物流がいつ回復するか、余震はどれくらいあるか分からないときに、お米の種類にこだわる母に対応しながら、「母も年を取ったのかな」「いや、長生きしている母だから、慌てなくても間もなくお米を買える状態になると分かっているのかな」と自問自答しました。

さて、いとこを誘った夕食。母に「何作ろうか?」と相談しました。母は間髪を入れず、こう答えました。
「お寿司をとろう。Yちゃんはお寿司が大好きなんだ」
「お母さん、地震であちこち停電しているし、お寿司屋さんもネタは仕入れられないし、お店を開けるどころでないと思うよ。いま、ある食材で私が作るよ」
北海道のほぼ全域が停電となる大規模地震があっても、普段利用しているお寿司屋さんは営業していると思ってしまうんだな、と寂しいような、ほっとするような不思議な気持ちになりました。

結局、いとこからラインがあり、同僚の奥さんが産気づいて、生まれそうなので自分が替わりに登庁するといいます。残念ですが、晩御飯は母と二人で食べることになりました。

さて、母が住む東区は、今回の震度6の揺れでした。実家の近くを通る地下鉄・東豊線の上の道路が陥没している様子がニュースで流れていましたので、母と一緒に見に行くことにしました。行ってみて、仰天。あちらこちらが陥没していました。

 すでに、道路の解体工事も始まっていました。

下を地下鉄が通るこの幹線道路の近くの道路は、どこも陥没していませんでした。今回液状化の被害が出た札幌市清田区も埋め立てした土地ですので、人為的に手を加えたところは、こういう災害の弱いのだ、と改めて思ったのでした。
 

2018年9月12日水曜日

北海道胆振東部地震・被災地札幌へ ②

北海道で震度7の地震が起きた翌日の9月7日(金)は、国立がん研究センター中央病院(東京都中央区築地)の年に1度の検査日でした。新千歳空港行きの飛行機は前日に続き、午前中の全便が欠航していましたので、予約をした午後の便が運航再開となることを願いながら、午前7時に家を出ました。

病院に着き、血液検査、CTを終えて、胃カメラの検査室へ。薬を注射し寝ている間に検査をしてもらい、目覚めたのは11時50分。以前、検査後数時間寝ていたこともありましたので、今回は気が張っていたのでしょう。診察予約時間前に起きることができました。

主治医の診察では、「異常なし」の結果を聞きました。私は血液がん「悪性リンパ腫」を2度再発させています。前回の治療では抗がん剤が効かず、その後の放射線治療でリンパ腫は消えました。ですので、今度再発すると厳しい治療になると覚悟をしています。まずは、ひと安心です。

会計を済ませ、薬局で薬を受け取り、タクシーを拾って浜松町駅へ。モノレールに乗り継いで羽田空港第2ターミナルに着いたのは午後2時15分でした。午後の飛行機は運航を再開しており、胸をなで下ろしました。

自動チェックイン・発券機で午後4時発の便を同3時発に変更し、保安検査場を通って、搭乗口へ。発着便案内モニターを見ると、午後2時発の飛行機が1時間遅れで、まだ離陸していません。さっそく、受付カウンターへ行きました。私はスタッフの女性に訴えます。

「北海道に親がいるんです。2時発の便に変更できませんでしょうか?」
「そうなんですか! それは、ご心配でしょう。本日はこのような状況ですので、普段は変更できないチケットも時間が変更できるようになっております。午後2時発は1時間遅れの3時出発。3時発は今のところ30分遅れと報告がきております。午後2時発のほうが早く出ますので、そちらに変更しましょう」

女性は快く対応してくれました。

次にスマートフォンで新千歳空港発の高速バスのスケジュールをチェックしました。が、朝から情報が更新されていません。停電の影響でしょうか。バス会社に電話をかけてみましたが、つながりません。でも、新千歳空港にさえ着けば、タクシーを拾って帰れるでしょう。そうしているうちに、搭乗開始。「ようやく、北海道に行ける」と、ほっとしました。
震災の翌日7日午後、運行を再開した飛行機に搭乗する人々
飛行機は順調に飛び、午後4時半過ぎに新千歳空港に着陸しました。飛行機を降りると空港内は人があふれています。手荷物は預けていなかったので、急いで高速バスのカウンターへ。そうすると、目の前にJR北海道の「快速エアポート」の時刻表が見えました。「動いているんだ!」とここでも、安堵しました。
午前中は運休していた、札幌行き「快速エアポート」が運行再開
本来は高速バス1本で実家の最寄り駅まで行くのですが、人をかき分けて高速バスのカウンターに行き、バスが運行しているかどうかを確認する時間はありません。それでなくても、空港内はたくさんの人でごった返しています。

とりあえず、動いているものに乗ろうと札幌行きの「快速エアポート」の乗り場に向かいました。午後5時発の列車に無事乗ってから、夫に到着を知らせるメールを送信。母にも電話をして、向かっていることを告げたい誘惑にかられそうになりましたが、心配をかけてはいけないので自宅のベルを鳴らすまでは母に知らせないでおこうと決めました。

列車の窓から見た札幌市内の風景。明かりが灯っている
札幌駅に近づくと、市内の見慣れた風景が目に入ってきました。「ビルのあちこちに電気が付いている!」と嬉しくなりました。電気が使えるようになって、札幌市民も安心しているでしょう。車掌さんから「本日、札幌圏で動いているJR線はこの快速エアポートだけですので、乗り継ぎのご案内はできません。申し分けございません」というアナウンスがありました。車掌さんからは続いて、運行を再開した公共交通機関の説明があります。実家方面の市営地下鉄・南北線と東豊線いずれも動いています。

改札口を出ると、構内のあちこちにシートが敷かれており、その上に荷物が置かれています。多くの人が、不安な夜を過ごされたのだと想像すると、胸が詰まりました。

構内には、携帯電話やスマートフォンの無料の充電サービスコーナーが設けられていました。今は多くの人にとって、携帯・スマホは生命線。家族や友人知人との連絡や情報を取るために使う電話が使えず、前日からの停電でどれだけの人が困っていたのでしょう。


この後、地下鉄に飛び乗りました。実家に着いたのは午後6時半。日もすっかり暮れていましたが、家の中から明かりがもれていて、「うちでも、電気がついたんだ」とほっとしました。実家のベルを鳴らすとしばらくして、母が出てきました。

「私だよ」
「あらぁ、どうしたの!」
が母の第一声。
「大丈夫だって言ったのに」
「一応、心配だから来たの」
「検査の後に電話で話したでしょう? あれから、来たの? こんな夜に誰だろう?ってびっくりしたよ。今、ちょうど夕ご飯を食べるところだったんだよ」

玄関から居間に入ると、きちんと皿に盛り付けられた夕ご飯が食卓に並べられていました。大地震があっても、いつも通りに料理をしたようです。前日、写メールで送ってくれた、落ちて割れた食器類はもう片付けたと言います。

食器棚からは、昔からある食器がいくつもなくなっていて、すかすかでした。高校時代、母がよく作ってくれたトマトソースのミートボール。それをよそおうときにいつも使っていたお皿は5枚全部割れたと言います。かつ丼や親子丼をよそおってくれたどんぶりも、1つ残っただけでした。思い出の皿がいくつも割れてなくなり、寂しい気持ちになりました。

夕食の後、母が昨日使ったというランタンを見せてもらいました。とても明るく、持ち運ぶのに便利そうです。


布団の横にいつも置いてあるラジオも見せてくれました。停電でテレビが見られなかった前日は大活躍だったようです。


ランタンで明かりを取り、ラジオで情報を取って、日ごろ多めに買ってある食材を使って、きちんと料理をして、”生き残った”小鉢や皿によそおい、食事をする母。「さすが、お母さん」と私はうなったのでした。

この日も、むかわ町の叔父・叔母に電話をしましたが、つながりませんでした。各地で死者・行方不明者が増えました。夜10時過ぎ、父の仏壇のある畳の部屋に布団を並べて敷いて母と横になり、「明日は叔父・叔母と連絡がつきますように」「一人でも多くの人が助かりますのように」と祈りながら、眠りにつきました。

北海道新聞9月7日朝刊。1面見開き。
北海道新聞9月7日夕刊。

2018年9月10日月曜日

北海道胆振東部地震・被災地札幌へ ①

 
観測史上初の震度7の地震に見舞われた北海道に向かいました。震度6弱を観測した札幌市東区に一人暮らしをする母の様子を見に行くためです。行ったのは震災の翌日、羽田空港発・新千歳空港行きの飛行機の運行が再開した、9月7日(金)午後でした。 

 地震のことを知ったのは、6日(木)午前5時過ぎ(地震発生は午前3時8分)。目が覚めて手に取った携帯電話の画面に「北海道で震度6強の地震」というニュースの見出しを見て、仰天しました。慌てて、母の携帯電話に連絡。しばらく「ぷるるる・・・」という音が鳴り続け心臓が高鳴りましたが、母が電話口に出てくれ、心底安堵しました。

 母は「大丈夫だよ」とまず言ってから、「すごく揺れてびっくりした。電気が付かないの。さっき居間を見に行ったら、食器棚から全部お皿が落ちていた。危ないから、明るくなってから片付けるつもり」と言います。

 「お向かいのご夫婦が、懐中電灯片手にすぐに様子を見に来てくれたの」と言い、札幌市に住む私のいとこ(母の甥)も安否確認の電話をくれたと言います。ありがたいことです。揺れが収まってからすぐに私に電話をしなかったのは、「寝ているところを起こすのは、申し訳ない」と思ったからでしょう。母は一人娘の私に迷惑を掛けないことを信条としているのです。

 母の無事を確認してからテレビをつけると、厚真町の土砂崩れと、土砂に飲み込まれた民家の様子が映し出されており、胸が詰まりました。厚真町の近くの、むかわ町(母の故郷)には一人暮らしの叔母、叔父夫婦、老人ホームで暮らす叔母、いとこ、とたくさんの親戚が住んでいます。不安が募ります。

 それからは、テレビに釘付けでニュースを見ていました。被害の状況が少しずつ分かってきます。午前6時半に母から写メールが届きました。「これから、気を付けながら片付けします。心配しないでね」というメッセージと、スマイルとハートのマークが付いています。写真を見ると、母のお気に入りの皿が割れていて、胸が痛みます。でも、母は無事で、家自体には被害がないので、お皿が壊れただけで済んだと考えるべきだと自分に言い聞かせました。


 母に電話をすると、「皿は割れても良いの」と気にしていません。「でも、足を切ったら困るから、革靴を履いて家の中を歩いている。お向かいさんにも革靴履いたほうが良いよってアドバイスしておいたよ」と落ち着いています。平時だけでなく、有事にも臨機応変に対応し、気持ちを切り替えることができる母です。80歳、あっぱれ。

 母が、むかわ町の叔父叔母に連絡がつかないと心配しています。母との電話が終わった後、私も叔父叔母に電話をかけましたが、つながりません。札幌の友人や親せき、地方の親戚に電話やメール、ラインをして無事を確認しました。連絡がつかないのはむかわ町の親戚だけでした。

 間もなく、テレビの画面に新千歳空港のターミナルビルの天井や壁が崩れ落ちている様子が映し出されました。同空港発着の便はその日全便欠航。北海道新幹線などJR各線や札幌市営地下鉄・電車、バスなど公共交通機関の運休が次々と報道されます。飛行機が飛ばなければ、東京から駆け付けたくても、駆け付けられません。

 母が気丈に一人で頑張ってくれることに感謝し、翌日の飛行機の運行再開を待つことにしました。停電だということなので、夜が心配です。大きな余震の可能性もあります。が、電話口の母はいたって明るい。

 「こんなときに備えて、ランタンを買っておいたんだよ。さっき、付けてみたらすごく明るいの。持ち運びも便利だし。夜はこれで、大丈夫。食べ物?大丈夫だよ。買い置きはたくさんしてあるし、昨日はたまたまバナナとか果物も買っておいたの。さっき早速食べたよ。バナナは栄養がいいからねぇ。こういうときに一番いいよ」

 テレビでは、厚真町の土砂崩れの様子が繰り返し、映し出されます。亡くなっている方も出てきています。札幌市では清田区の住宅が傾いて、マンホールが道路を突き破って出ている状態が報道されます。何ということでしょう。アナウンサーが、道内全域で停電なので道民がテレビを見られないため、状況が分かりにくいと説明します。「このテレビを見ている方は、比較的つながりやすい携帯電話などで現地の方々に状況をお知らせしてください!」とアナウンサーが繰り返し言います。また、母に電話をして、こちらのテレビニュースで報道されていることを説明します。

 ツイッターでも情報を確認しました。「夕刊を出せるだろうか?」と以前勤めていた北海道新聞社の動向も気になり出します。退社して十数年経つのに、大規模災害や大きな事件が起きたときには、何はともあれ会社に向かったことを思い出し、胸がざわつきます。紙面づくりに支障はないだろうか、輪転機は回るだろうか、などなど。そして、ツイッターの画面に夕刊一面がアップされたときは、目頭が熱くなりました。

実家に配達された、9月6日の北海道新聞夕刊1面

北海道新聞9月6日夕刊2,3面見開き
北海道新聞9月6日夕刊4面

 この日は結局、叔父叔母とは連絡がつきませんでした。新千歳空港行きの飛行機は翌日7日の午前中も全便欠航になることが分かりました。とりあえず、運行再開が未定の7日午後4時発の羽田空港発・新千歳空港行きのANAと、9日(日)午前10時新千歳空港発・羽田空港行きのJALのチケットを購入しました。

 タイミングが悪いことに、夫が9日の午前11時過ぎのタイ・バンコク行きの便で4泊5日の出張に出かけるため、東京に戻らなければなりません。台風21号と今回の北海道での地震と災害が続き、私も夫も東京にいない状態で子供2人を家に置いておくわけにはいきません。札幌に行ったとしても、母の様子を見てとんぼ返りとなりますが、とりあえず行って母の様子を見てこなければ。

 夜、家事を終えてから近所のスーパーに閉店5分前に駆け込みました。翌日、飛行機が運航するか分からないため、母に「そっちに行くからね」と言って安心させてあげることも出来ず、また、「何が必要?」とも聞けないので、母のことだからお米やペットボトルのお茶、根菜類は買い置きがたっぷりあるだろうと判断。当分買えないだろう、野菜や果物、母の好物の納豆などを買い、帰宅しました。スーツケースにそれらを詰めて、落ち着かない夜を過ごして翌日の7日を待つことに。

 タイミングが悪いことは重なるもので、7日は国立がん研究センター中央病院(東京都築地)での年に一度の検査日。再発しているかどうかを調べる検査ですので、よほどのことがない限りキャンセルはできません。CTは午前9時、胃カメラの検査は10時。結果を聞く主治医の診察予約時間は12時30分。

 胃カメラは眠る薬を打ってもらって行いますので、診察時間や午後4時発の便に間に合うように目覚めるかどうかも心配です。でも、心配しても仕方ありません。とりあえず、動くことにしました。