2018年9月12日水曜日

北海道胆振東部地震・被災地札幌へ ②

北海道で震度7の地震が起きた翌日の9月7日(金)は、国立がん研究センター中央病院(東京都中央区築地)の年に1度の検査日でした。新千歳空港行きの飛行機は前日に続き、午前中の全便が欠航していましたので、予約をした午後の便が運航再開となることを願いながら、午前7時に家を出ました。

病院に着き、血液検査、CTを終えて、胃カメラの検査室へ。薬を注射し寝ている間に検査をしてもらい、目覚めたのは11時50分。以前、検査後数時間寝ていたこともありましたので、今回は気が張っていたのでしょう。診察予約時間前に起きることができました。

主治医の診察では、「異常なし」の結果を聞きました。私は血液がん「悪性リンパ腫」を2度再発させています。前回の治療では抗がん剤が効かず、その後の放射線治療でリンパ腫は消えました。ですので、今度再発すると厳しい治療になると覚悟をしています。まずは、ひと安心です。

会計を済ませ、薬局で薬を受け取り、タクシーを拾って浜松町駅へ。モノレールに乗り継いで羽田空港第2ターミナルに着いたのは午後2時15分でした。午後の飛行機は運航を再開しており、胸をなで下ろしました。

自動チェックイン・発券機で午後4時発の便を同3時発に変更し、保安検査場を通って、搭乗口へ。発着便案内モニターを見ると、午後2時発の飛行機が1時間遅れで、まだ離陸していません。さっそく、受付カウンターへ行きました。私はスタッフの女性に訴えます。

「北海道に親がいるんです。2時発の便に変更できませんでしょうか?」
「そうなんですか! それは、ご心配でしょう。本日はこのような状況ですので、普段は変更できないチケットも時間が変更できるようになっております。午後2時発は1時間遅れの3時出発。3時発は今のところ30分遅れと報告がきております。午後2時発のほうが早く出ますので、そちらに変更しましょう」

女性は快く対応してくれました。

次にスマートフォンで新千歳空港発の高速バスのスケジュールをチェックしました。が、朝から情報が更新されていません。停電の影響でしょうか。バス会社に電話をかけてみましたが、つながりません。でも、新千歳空港にさえ着けば、タクシーを拾って帰れるでしょう。そうしているうちに、搭乗開始。「ようやく、北海道に行ける」と、ほっとしました。
震災の翌日7日午後、運行を再開した飛行機に搭乗する人々
飛行機は順調に飛び、午後4時半過ぎに新千歳空港に着陸しました。飛行機を降りると空港内は人があふれています。手荷物は預けていなかったので、急いで高速バスのカウンターへ。そうすると、目の前にJR北海道の「快速エアポート」の時刻表が見えました。「動いているんだ!」とここでも、安堵しました。
午前中は運休していた、札幌行き「快速エアポート」が運行再開
本来は高速バス1本で実家の最寄り駅まで行くのですが、人をかき分けて高速バスのカウンターに行き、バスが運行しているかどうかを確認する時間はありません。それでなくても、空港内はたくさんの人でごった返しています。

とりあえず、動いているものに乗ろうと札幌行きの「快速エアポート」の乗り場に向かいました。午後5時発の列車に無事乗ってから、夫に到着を知らせるメールを送信。母にも電話をして、向かっていることを告げたい誘惑にかられそうになりましたが、心配をかけてはいけないので自宅のベルを鳴らすまでは母に知らせないでおこうと決めました。

列車の窓から見た札幌市内の風景。明かりが灯っている
札幌駅に近づくと、市内の見慣れた風景が目に入ってきました。「ビルのあちこちに電気が付いている!」と嬉しくなりました。電気が使えるようになって、札幌市民も安心しているでしょう。車掌さんから「本日、札幌圏で動いているJR線はこの快速エアポートだけですので、乗り継ぎのご案内はできません。申し分けございません」というアナウンスがありました。車掌さんからは続いて、運行を再開した公共交通機関の説明があります。実家方面の市営地下鉄・南北線と東豊線いずれも動いています。

改札口を出ると、構内のあちこちにシートが敷かれており、その上に荷物が置かれています。多くの人が、不安な夜を過ごされたのだと想像すると、胸が詰まりました。

構内には、携帯電話やスマートフォンの無料の充電サービスコーナーが設けられていました。今は多くの人にとって、携帯・スマホは生命線。家族や友人知人との連絡や情報を取るために使う電話が使えず、前日からの停電でどれだけの人が困っていたのでしょう。


この後、地下鉄に飛び乗りました。実家に着いたのは午後6時半。日もすっかり暮れていましたが、家の中から明かりがもれていて、「うちでも、電気がついたんだ」とほっとしました。実家のベルを鳴らすとしばらくして、母が出てきました。

「私だよ」
「あらぁ、どうしたの!」
が母の第一声。
「大丈夫だって言ったのに」
「一応、心配だから来たの」
「検査の後に電話で話したでしょう? あれから、来たの? こんな夜に誰だろう?ってびっくりしたよ。今、ちょうど夕ご飯を食べるところだったんだよ」

玄関から居間に入ると、きちんと皿に盛り付けられた夕ご飯が食卓に並べられていました。大地震があっても、いつも通りに料理をしたようです。前日、写メールで送ってくれた、落ちて割れた食器類はもう片付けたと言います。

食器棚からは、昔からある食器がいくつもなくなっていて、すかすかでした。高校時代、母がよく作ってくれたトマトソースのミートボール。それをよそおうときにいつも使っていたお皿は5枚全部割れたと言います。かつ丼や親子丼をよそおってくれたどんぶりも、1つ残っただけでした。思い出の皿がいくつも割れてなくなり、寂しい気持ちになりました。

夕食の後、母が昨日使ったというランタンを見せてもらいました。とても明るく、持ち運ぶのに便利そうです。


布団の横にいつも置いてあるラジオも見せてくれました。停電でテレビが見られなかった前日は大活躍だったようです。


ランタンで明かりを取り、ラジオで情報を取って、日ごろ多めに買ってある食材を使って、きちんと料理をして、”生き残った”小鉢や皿によそおい、食事をする母。「さすが、お母さん」と私はうなったのでした。

この日も、むかわ町の叔父・叔母に電話をしましたが、つながりませんでした。各地で死者・行方不明者が増えました。夜10時過ぎ、父の仏壇のある畳の部屋に布団を並べて敷いて母と横になり、「明日は叔父・叔母と連絡がつきますように」「一人でも多くの人が助かりますのように」と祈りながら、眠りにつきました。

北海道新聞9月7日朝刊。1面見開き。
北海道新聞9月7日夕刊。

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