2018年9月5日水曜日

ハーフの娘に勧める日本作家の本は?

 朝、ダイニングテーブルに朝食を用意しようとしたところ、色あせた4冊の文庫本が目に飛び込んできました。上下巻が2セットです。1セット目は緑と赤の表紙。もう1セットは上下とも街頭の下に立つ男の人のイラストが描かれた本で、それぞれ青と赤でタイトルが書かれています。『NORWEGIAN WOOD(邦題・ノルウェーの森』上下巻と、『A WILD SHEEP CHASE(邦題・羊をめぐる冒険)』上下巻とでした。著者はそう、Haruki Murakami(村上春樹)です。


 「そろそろ、日本の作家の本も読んだほうがいいと思ったんだ」。夫がネクタイを締めながら、そう話し出しました。インターナショナルスクール8年生(日本の中2)の娘のことです。

 読書に全く興味がなかった娘は突如、この夏休みにあるアメリカの作家の本にはまり、ペーパーバックの本を10冊近く読んでいたのです。寝る間も惜しんでという熱中ぶりでした。神話に基づいたシリーズ本で、英語圏の中学生が熱中する本らしい。『ハリーポッター』のようなイメージでしょうか。
 
 読書の勢いは止まらないため、米国に住むグランマから他のシリーズ本が先日送られてきたのです。その様子を見ていた夫が、「日本の作家の本も」と考えたらしいのです。

 夫が本棚の奥から取り出してきたのは、日本で発行された英訳本です。講談社から出版された文庫本で、奥付を見ると、『NORWEGIAN WOOD』は第1刷1989年11月22日、第8刷1991年7月13日とあり、『A WILD SHEEP CHASE』は第1刷1990年10月15日とあります。私が日本で購入して米国に住む夫に送ったか、会ったときにお土産として渡したのでしょう。
 
 すっかり変色してしまっていますが、何とも手に馴染みのよい文庫本。それをパラパラとめくりながら、気付かされました。「日本の作家の本をまずは英語で読むという手があったのだ」と。

 英語のほうが日本語よりずっと楽になってしまった娘。振る舞いから考え方まですっかり”外国人”になってしまった娘を前に、「もう、日本語の本なんて読むことがないんだろうな」と残念に思っていたところでした。数年前までは児童書を買い与えていたのですが、娘は次第に日本語の本を読むのが億劫になってきているようでしたので、「無理強いはやめよう」とあきらめていたのです。

 この際、「日本で生まれ育った日本人のハーフなんだから、日本文学は日本語で読まなきゃ」などという、杓子定規な考え方は捨てて、「まぁ、ハーフなんだから、英語で日本文学を読んでもいいじゃない」と妥協すればよいのです。子育てなんて、そもそも妥協の連続です。何せ、親が親なのですから。

 夫が言います。
「この『羊をめぐる冒険』は、君が最初に僕に勧めてくれた村上春樹の本だよ。細かなことは忘れてしまったけど、すごくおもしろかった。この本で、僕は彼のファンになったんだ。これ、いいんじゃない?」
「うん、そうだね。私も本の内容は忘れてしまったけど、おもしろかったことだけは覚えている。北海道が出てきたよね」
「うん。Jというバーのオーナーが出てこなかったっけ?」
「そうだった?」
しばし、うる覚えの本の内容について、夫と話が弾みます。

「でも、『羊をめぐる冒険』も、『ノルウェーの森』も少し早いかもね。男女関係とか、自殺とか、もう少し大人になってからでも良い内容が出てくるから」
「そうだったっけ?」
「『坊ちゃん』はどう?『吾輩は猫である』もいいんじゃない?」
気分が乗ってきた私は、そう夫に提案してみました。

 折しも、娘が新学期に入って持ち帰った中1の国語の教科書(インターナショナルスクールでは一学年下の日本語を勉強します)の中には、『坊ちゃん』のさわりがあったのです。「今の中1は何を習うのかしら?」と興味を持ち、教科書をめくってそれを見付けたときは、「あぁ、あるある・・・」という懐かしさで心がほんわかと温かくなったのです。

 夫がさっそく2階の本棚を調べに行きました。
「『坊ちゃん』はなぜか、ないなぁ。『吾輩は猫である』はあるよ。面白いけど、長いかもしれない。阿部公房の『砂の女』は? 面白いかったよなぁ、これ」
「『砂の女』かぁ。すごく面白いけど、中2にはどうかなぁ」
と返す私。

夫が持ってきた『I Am a Cat』は確かに厚かった。
「でも、いいじゃない。ペーパーバックを何冊か読むのと同じだよ」と私は珍しく、ポジティブな気分です。

 結局、米国人父と日本人母が選んだ「英語が母語の、中2のハーフの子供に読んでもらいたい日本の作家」は、王道の夏目漱石になりました。私も夫も大フアンの村上春樹は、もう少し大人になってから勧めることにしようということに。きっと、彼の作品なら親が勧めなくても何かのきっかけで読んでくれるでしょう。

 さて、娘に『吾輩は猫である』の英訳本を渡すと、「『I Am a Cat』? Ok. I will read it」と英語で答えて手に取り、一瞥してからすぐ、ダイニングテーブルに置き、目の前の宿題に戻ってしまいました。宿題は教科書とノートでするのではなく、パソコンとiPhoneで、です。「本当に、インターナショナルスクールは何から何まで違う(時代の違い?)」と心の中でため息をつく私。娘の私への咄嗟の応答も、英語になってしまうのも最近の私の気がかりではありますが、これも注意し続ける気力がなくなっていますので、黙ったままです。思春期の娘への対応は、それでなくても面倒ですので。

 それから数日間、『I Am  a Cat』は、ダイニングテーブルに置かれたままでした。でも、いつか手に取りページをめくってくれるときが来るかもしれません。この夏休みに、突如読書に熱中したように。そんな希望を持って、本を娘の机の上に置いておきました。妥協はしても、希望は失わないー。それが子育てですもの。

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