2025年7月29日火曜日

丼ぶり弁当

  28日から息子の夏休みが始まりました。息子が家にいるときはなるべく私か夫のどちらかが家にいることにしていますので、今週月・火は私が研究室に行く日、水・木・金は夫が職場に行く日と「シフト」を組みました。

 お弁当作りは私の役目。月曜日は生姜焼き肉弁当を作りました。娘のときと比べて、息子のお弁当で俄然増えたのが「丼ぶり弁当」。息子はいつもお腹をすかせているので、大盛りのご飯の上に具材を載せるととても喜ぶのです。



 生姜焼き肉丼、親子丼、カツ丼、ステーキ丼、チャーシュー丼、鶏そぼろご飯、焼き鮭丼…。レパートリーは結構あります。お弁当に持って行ける蓋付きのどんぶりは母から受け継いだものです。

 その母を月曜日の夕ご飯に招きました。夕方、夫から息子と一緒にブイヤベースを作ったのでバケットを買ってきてほしいとの連絡があり、「ブイヤベースならお母さんが好きだから、招こう!」ということに。母に連絡をすると「今日は暑くて朝から顔も洗っていない」と言うので、「お母さん、顔なんて洗っていなくても大丈夫。今迎えに行くから!」と車で迎えに行きました。

 母のマンションに行くと、母はちょうど顔を洗って眉を描いているところでした。「暑くて暑くて、お化粧も面倒で…」とブツブツ言いながら、ちゃんと口紅を引き、「なんだか、首元が寂しいから」とネックレスも付けました。

 我が家では息子がちゃんとテーブルセッティングをしていました。エビ、アサリ、イカ、ムール貝、白身魚の入ったブイヤベースには玄関前の小さな花壇で育てているバジルとイタリアンパセリなど何種類ものハーブや野菜を入れてあり、コクがあってとても美味。母と私はスパークリンワイン、夫はいつもの赤ワインと一緒に食べました。

 母は「ブイヤベースなんて久しぶりだよ。美味しいねぇ」ととても喜んでくれました。歯が悪いのでバケットは食べない母ですが、この日は「たまに、食べたい」と言い、スープに浸して食べていました。スープの冷めない距離に親が住んでいると、こんな風に気軽に行き来できるのがいい。

 あまりに美味しそうだったので、写真を撮るのも忘れて、あっという間に食べてしまいましたので、皆さんにお見せ出来ないのが、残念です。

 

 

2025年7月27日日曜日

肉食女子

 オーストラリアに留学する娘がこの10日ほど精神的にかなり不安定になり、心配な日々を送りました。その理由についてはまだブログでは書けませんが、かなり深刻な状況でした。夫も私も毎日電話をしていましたが、出てくれない日も多く、夫も私も心配で眠れない日々が続きました。

 精神的な不調が体まで影響を及ぼしたのでしょうか。数日前から下痢がひどかったらしく、私も夫も安否確認に必死でした。私はメルボルンから帰国して間もないですので、夫が様子を見に行こうかという話をしていましたが、もしかしたら、娘は今、問題を自分で解決しようとしているのではないかー。娘の自立を妨げることはしないで、心配だけれども、ここはぐっと堪えて待ってみようかー。いや、そんなことを言っている場合ではない。何かあってからでは遅いーと日々夫婦で喧嘩をしながら、それぞれが何とか娘と話をしよう、娘の側(精神的な意味で)にいてあげようと必死でした。

 ようやく峠を越したようで、今日、連絡が付きました。カナダの大学に留学する中高校時代の親友レイちゃんと5時間電話でおしゃべりして、気持ちが晴れたようです。娘の顔も少しすっきりして、元気になっていました。20歳の女子ですから、やっぱり助けになるのは友人なのですね。

 娘はレイちゃんと話をした後、元気が出てスーパーに行ったといいます。「1週間ぐらい寮に閉じこもっていたから、パスタとジャガイモとご飯とソバしか食べていなかったの。だから、お肉が無性に食べたかった」と言い、牛肉のステーキ1.6㌔分の塊を買ってきて、それを焼いたそうです。

「美味しくて、美味しくて、ずっと食べていたら、1.6㌔分全部食べたの」

 いやぁ、すごいですね。肉食女子。娘曰く、1.6㌔の牛肉は自分の頭ぐらいの大きさがあったと言います。それを一回で食べるとは、よほど、体がタンパク質を欲していたのでしょう。何せ、180㌢を超す身長ですので、食べる量も違います。

 肉の威力はすごいです。数日前に娘と話をしたときは顔はぼんやりとしていて、全く精気がありませんでした。それが1.6㌔の牛肉を食べた後という今日はお肌がつやつやとして目もぱっちりとして、顔色も良かった。

 明日から2学期が始まるそうです。元気になって本当に良かった。夫とは娘への対応のことで日々喧嘩をし、一昨日は深夜から明け方にかけてすごい大げんかをしましたが、娘の元気になった顔を見て、休戦となりました。

 やっぱり、子どもが親元から離れて海外の大学で学ぶことは、心配も多いものです。今回は親としての胆力を試されました。そして、とばっちりを受けたのは息子でした。

「おねぇねぇ、いろいろ大変だから、あなたは日本の大学に行ってちょうだい」

「えっ、まぁ、おねぇねぇはアーティストだから、仕方ないなぁ」。そう、ぼそっと言い、まったく他人事という表情で、目の前のゲームを続ける息子なのでした。

2025年7月25日金曜日

息子が英検1級合格!

  中2の息子が英検1級に合格しました!今日、合格証が届きました。面倒がって試験に向けて勉強をしたことがなく、4回目の挑戦の今回は「落ちたら、もう受験はしない。意味ないし」と言っていたので、安堵しました。

 一緒に受けた私は筆記試験の1次試験で不合格。3度目の挑戦でした。点数が息子よりぐんと低く、やっぱり違うなぁと思いました。でも、これからも年に一、二度のゆるりとしたペースで挑戦していきます。

 そして、今日、息子が持ち帰った1学期の通知表。前回「1」だった国語が、一緒に毎日漢字練習をしたかいがあり、「3」に。その代わり、数学が「1」。あーあ、小学校のころはあんなに算数が得意だったのに、どこかでつまずいたのですね。

 夫が隣について勉強した「歴史」と「物理」はそれぞれ「4」でした。自主性に任せていると全く勉強しませんので、「これからも嫌がれながらも付き添うしかないね」と夫と話しています。

 子育ての道のりは、長い。

 

2025年7月23日水曜日

屋根裏部屋で

  先週土曜日に、息子の担任の先生と息子、そして夫・私の面談がありました。フィリピン出身の可愛らしい先生は息子が物理、歴史で頑張りを見せていること、友人たちとも仲良く、学校生活は順調という話でした。

 娘のときは、絵やヴァイオリンなど際立った才能を見せてくれて誇らしく思うことが多かった一方、日常生活や友人関係などにいつも心配ごとがあり、今でも連絡が数日取れないとやきもきします。一方で、息子は何というか、低め安定。

 こういう落ち着いた息子との3人暮らしはつつがなく進んでいきますが、娘がいないとやっぱり我が家は静かです。

 土曜日の午後は軽井沢に行きました。軽井沢の家はデッキを建て替え中で外で食事をすることが出来ませんでしたが、のんびりと出来ました。夫と息子はソファでくつろぎ、私は屋根裏部屋で子どもたちの物を整理しながら、幸せな時間を過ごしました。


ソファでくつろぐ夫と息子


娘の代わりに、東京から連れてきたクマのぬいぐるみ

 屋根裏部屋は、いくつかのエリアに分かれています。子どもの本やパズルなどを置く「ライブラリィ」とドールハウスやキッチン・ドール用のベビーカーや椅子などを置く「ファンタジールーム」、子どもたちが赤ちゃんの頃乗った車や遊んだ楽器・おもちゃを置く「トイエリア」、子どもたちの衣類やランドセル・バッグ、小学生時代の作品を収める収納エリアです。

 一部を除いて、すべてのエリアでは大人が立つことはできません。ハイハイをする赤ちゃんや2,3歳の子が楽しく遊べるエリアです。夫はそもそも立てないので、「屋根裏部屋は君が好きに使うといいよ」と言ってくれましたので、私だけの世界。

 今回も東京に持ち帰り洗い直した子供服や靴などを持って行き、防虫剤を入れて、箱に入れ直しました。その一つ一つの作業が楽しく、幸せでした。

 世の中では「断捨離」という言葉に沢山の人が共感し実践していて、何もない部屋ですがすがしく過ごす幸せもあるんだなぁと想像します。でも、私のように、こうしてたくさんの物に囲まれて、それを丁寧に整理している時間を何よりも幸せに感じる人間もいるのです。

 今回、「ライブラリィ」を整理していて、端に収めてあった歌舞伎の筋書きや観た映画のパンフレットを収めたファイルを見直しました。独身時代と娘が生まれる前にハマっていた趣味です。これは東京の家に持ち帰ることにしました。すぐに捨てはしませんが、いつでもさよならできる物だからです。

 屋根裏部屋は子どもたちとの思い出だけが詰まった大切な場所にして、そこを片付ける幸せな時間をこれからもずっと大切にしていきたいと思ったのでした。

2025年7月20日日曜日

靴が物語る、娘の幸せ

  今回、娘の留学先に行き、胸がキュンと切なくなったことがありました。娘の狭い寮の部屋に、靴が10数足並んでいたことです。

 娘は身長183㌢で、足のサイズは28㌢。日本では娘が履けるレディースの靴はなく、スニーカーも男性用です。高校生のときは、インターネットを通じてアメリカのアマゾンから買ったり、義母に送ってもらっていました。

 寮の部屋には、女性らしいサンダルやパンプス、ブーツなどが並んでいました。日本にいると海外から取り寄せるしかない靴を、オーストラリアでは娘は自分で靴を試着して、買うことができるのです。「自分のサイズに合う靴があって、とっても嬉しいの」と娘。

 娘はオーストラリアに行って初めて、「One of them(大勢の中の1人)になれた」とそれは喜んでいました。背が高いということで特別視されないからです。日本で育ち、初対面の人に「大きいね」「背高いね」と言われなかったことがないーと目に涙を浮かべながら語っていた娘は、今、誰にもぎょっとした表情で見られることもなく、のびのびと暮らしています。

 娘には「大学を卒業したら、いったん日本に帰っておいで」と言っていますが、はたして娘は日本に戻ってきて、幸せに暮らせるのかなぁ、と考えてしまいます。ずらりと並んだ娘の靴が物語る、娘の幸せ。親としては、何とも複雑な気持ちになったのでした。

 

2025年7月19日土曜日

論文の修正に悪戦苦闘

  メルボルンから帰国してから、論文の修正に悪戦苦闘しています。今週は連日研究室で遅くまで執筆していました。

 論文は海外の医学ジャーナルに投稿予定で、量的(アンケート)調査と質的(インタビュー)調査の両方の分析結果をまとめたもの。

 私が筆頭著者で、共著者が9人。その先生方に論文を回覧し、フィードバッグがすごい量でした。ワードのコメント欄に記載された一つ一つの指摘や助言を論文に反映させ、そのコメントへの返信を書くのは、なかなかに手間のかかる作業です。9人の先生方は全員博士。指摘もなるほど!と感じるものばかりですが、データの追加解析など丸二日ほどかかります。

 でも、中には「こんな重箱の隅をつつくようなことを…」と思うようなこともあり、でもぐっと堪えて「ご助言ありがとうございます。ご指摘の通り、書き直しました」とコメントしなければなりません。でも、共著者の先生方も、私の不十分な原稿を彼らにとっても第二外国語で読むのは面倒なはずなので、助言や指摘をありがたく受け止めています。

 昨日、共著者の1人でこの春博士号を取得した20代のTさんとたまたま給湯室で一緒になりました。

「どうっすか?修正終わりそうっすか?」

「うーん、来週までかかりそう」

「下手に自分の言い分なんて言わないほうがいいっすよ。特に理論武装できないときは。余計に時間かかりますからね。ご指摘ありがとうございますって、その人の言うように直すんですよ。ほら、僕たちはまだ経験が足りないから、彼らが見えているところが見えないこともありますしね。まぁ、これは違うでしょう…と思うところがあれば、博士号取った後に言ってやればいいんですよ」

 なるほど、研究の世界で生き抜くためにはこういう心構えが必要なのですね。実は先週、ズームである共著者の先生に反論したばかり。その先生は不愉快極まりないという顔をし、それを他の先生が「まず、そのように書き直していただいてから、考えましょう」と収めてくれたという出来事があったのです。ついつい、やってしまうんですよ、私は…。

 反論して相手に不愉快な思いをさせると指導教員に言いつけられ、指導教員から「あなたのせいで研究が遅れています。チームから外します」と脅され(実際に昨年春に言われた)、自分の首を自分で絞めることになってしまうんですよね。うまく立ち回れないのも性分に加えて、年なので頑固になっているのもあるのでしょうね。

 博士号を持つ40代の友人が以前、「この世界では、博士号がmimimum requirement(最低条件)なんですよ。それを持ってから、物を言えということだと思いますよ」と言っていましたが、私はそういう世界に身を置いているのだと実感しています。

 こうしてあちこちに頭をぶつけ、時に理不尽なことをされ、居心地の悪さをずっと抱えつつ、トイレに駆け込んで泣いたりして、でも何だかんだいいつつも博士課程で生き残っています。今年、博士論文を提出する予定です。

 がんサバイバーの60歳での博論提出を皆さん、応援してください。

 

2025年7月17日木曜日

ダディの愛

  メルボルン滞在中、娘とたくさん話をして、とても感動したコメントがありました。それは、夫についてです。

 これまで何度も書いてきましたが、夫は家族を何よりも優先する人で、特に娘への愛情はとても深い。夫と電話でどんな話をするのか聞いてみたら、娘がこう言うのです。

「ダディとは映画の話とか、アニメの話とかで盛り上がるの。もちろん、勉強の話もするんだけど…」

「そうだよね、ダディはあなたの読んでいる本の内容に詳しいし、アニメもちゃんと観てる。ハイキュウとか、鬼滅の刃とか…。ママもいつもダディ偉いなぁと思っていたよ」

「うん、私、分かっているんだ。ダディは私が観るアニメや映画を特に好きなわけではないって。でも、私と話をするためだけに、それらを観てるんだって」

 娘の目からは涙が流れていました。

「そんな風に、私と共通の話題を作るために努力をしてくれているダディ、大好き」

 夫の愛はちゃんと娘に伝わっていました。

 以前、娘が「私は何百回生まれ変わっても、ダディの娘に生まれたい」と言っていました。その言葉は、娘が結婚するときまで大事にとっておこうと思っています。そして、今回の娘の言葉も大切にとっておいて、特別なときに伝えたいと思います。

  

2025年7月15日火曜日

9万ビュー達成!

  メルボルン滞在中に、9万ビューを達成しました。2015年に「アラフィフママの育児日記」としてブログを開始。10年で延べ9万人の方に読んでいただいたのですね。ありがとうございます!

 達成したのは7月3日で、ちょうど投稿数も900本でした。2015年12本、2016年62本、2017年40本、2018年43本、2019年41本、2020年103本、2021年74本、2022年111本、2023年113本、2024年133本、そして2025年は昨日までで173本です。今年は半年で昨年を上回りました。

 我が家は娘が留学中で、息子はまだ中2、夫はアメリカ人で、私は悪戦苦闘する大学院生なので、有り難いことに話題に事欠きません。でも、以前に比べ行動のスピードは落ちているし、集中力は落ちてきているし、で日々の仕事に時間がかかり、書く時間を捻出できないときがあります。でも、”ネタ帳”にはいろいろ書いてありますので、これからもどんどん書いていきます。

 2015年の年末のブログを久しぶりに読み返しました。10年前に比べ、今の私のほうがずっと健康で、日々沢山のことをこなしているのだなぁと改めて思いました。よろしければ、10年前の私のブログを読んでみてください。なんか、私、初々しいです。

http://ar50-mom.blogspot.com/2015/

 この調子でいくと、これからの10年はさらにパワーアップするかもしれません。このブログはずっと書き続けますので、皆様、どうぞよろしくお付き合いくださいませ。

2025年7月13日日曜日

記憶について

  メルボルンから帰国して間もなく、ママ友2人と夕ご飯を食べました。豪雨となった10日です。中2の息子が通っていたインターのプレスクールのママ友です。会ったのは本当に久しぶり。1人は事業を興し、もう1人はフルタイムで働き出しており、その明るく前向きな暮らしぶりを聞いて、私も元気をもらいました。

 久しぶりに会ったSちゃんに、「お母様、お元気?京都芸術大学で学ばれていたよね。相変わらずおしゃれ?」と聞くと、Sちゃんは「えっ、それ私の母じゃないかも。まぁ、おしゃれは好きだけど」とにっこり。あっ、しまった!最近、立て続けにある”記憶間違い”です。

 でも、素敵なお洋服を着こなしたお母さんとSちゃんが一緒に歩いている姿は記憶に残っています。そして、お母さんが70代になってから京都芸大に入り直して、染め物について学んでいるといる具体的な記憶もあります。おそらく、記憶の中にあるおしゃれな人がSちゃんのお母さんで、同じプレスクールに通っていた他のママさんのお母さんが大学に行っていたのでしょう。

 こういうことがあると、私の記憶は当てにならないなぁとつくづく思います。そして、最近は人の名前が思い出せないことも増えました。少し前に、何回も我が家のリフォームをしていただいている建築士さんの名前を夫も私も思い出せず、夜考え続けても思い出せず、とりあえず寝たら朝、目覚めた瞬間に思い出したということもありました。

 今朝は、1週間ほどどうしても思い出せなかったことをあるきっかけで思い出しました。というか、現物が出てきました。長い話になりますので、お付き合いください。

 オーストラリアに行く前、「するべきことリスト」をこなしている中、図書館で借りていた絵本2冊を出発直前に返却しました。2冊とも息子に読み聞かせ、1冊があまりよくなく、もう1冊がとても良かった本です。

 その本を先週の小学校での絵本の読み聞かせで読もうと思ったら、どうしてもタイトルが思い出せない。どこかに記したはずで、記したという記憶もあります。手帳や日記など思い当たるところを全部調べても、ありません。

 そして、すごいことに、良い本だったことは覚えているのですが、どんな内容だったかも、何が絵本に出てきたかも、さっぱりと忘れているのです。探し当てるための、きっかけさえつかめない状態でした。

 まずは、息子に聞きました。

「ママがメルボルンに行く前に絵本を読み聞かせたでしょう?良い本だって言ってくれたけど、内容覚えている?」

「まったく、覚えていない」

「何が出てきたか、とか。きっかけになりそうなものは覚えていない?」

「まったく、覚えていない」

 まぁ、そうでしょう。息子にとっては、母親の絵本の読み聞かせに付き合わされただけのですから。

 さて、ここから私は”リサーチ”を始めました。まずは、図書館のウェブサイトの「マイページ」です。そこでは自分の借りている本や予約している本が分かり、本の検索も出来ます。本を「お気に入り」に登録できます。でも、自分の借りた本の履歴がなぜか出てこない。

 覚えているのは図書館の絵本の部屋の「雨」のコーナーに展示されていた本だったということ。さっそく、検索で「雨」「あめ」「つゆ」など入れてみました。ずらりと出てきた書誌の中に、借りた2冊の本の中で、あまり良くなかった1冊の本が出てきました。でも、良かったもう1冊がどう検索しても出てきません。

 図書館に電話をし、まずは借りた本の履歴はどう見るのかー聞いてみました。すると、「現在、お借りになっている本の履歴は出てきますが、返却された本の履歴は消えてしまいます。ですので、覚えておきたい本は”お気に入り”にご登録ください」とのこと。

 そうか、履歴に残らないのかぁ。あとは、6月の「雨」にちなんだ絵本を紹介するコーナーから、その本を借りた記憶しかありません。

「すみません、先月の雨の絵本のコーナーにあった本がとても良い本だったので絵本の読み聞かせに使いたいと思っているのですが、タイトルも、恥ずかしながら内容も思い出せず、ウェブで検索しても分からないので、お電話をしていました」

「そうですか。何か絵本に出てきた動物とか、虫とか、思い出せることはありますか?そこからですと、探せるかもしれません」

「それが、本当にお恥ずかしいのですが、良い本だったこと以外、何も覚えていないんです。でも、何とか思い出したく、このようにお電話をしているのですが…」

 こういう電話に、図書館の担当者はそれは誠実でした。

「そうですか。私は絵本のコーナーの担当ではなく、今、担当者が席を外しているので、折り返しお電話させていただいてもいいですか?」

「はい、よろしくお願いします」

 まもなく、絵本のコーナーの担当者からお電話をいただきました。「絵本をお探しと伺いました。6月にご紹介した絵本は100冊以上あります。雨にまつわる本ですので、カタツムリとかカエルとか、出てきたもののご記憶はありますか?」

「それが、良い本だったことしか記憶になくて…。お恥ずかしい話なのですが。そのリストは見せていただくことは出来ますか?」

「内部の資料なのでお渡しすることは出来ませんが、こちらにいらしていただければお見せすることは出来ますよ」

「では、今度伺います。何かに書き留めたはずなのですが、それも思い出せなくて…」

「そうですか! 書き留められたのですね。それが見つかると良いですね」

 そして、今日、図書館に予約をした絵本を取りに行く前に、たまたまダイニングテーブルの上に散らかっていた息子の学校の紙類を整理し、テーブル下の引き出しに入れたとき。ふと思いつき、全部の引き出しを確認したら、なんと、一番下の引き出しに、ドーンとその絵本の表紙のカラーコピーがありました。そして、絵本の読書日記の中に記した、息子の感想も。その感想には、表紙を縮小コピーして切り取ったものさえ貼り付けてあります。

 これほど、丁寧に記録をしている絵本のタイトルも内容も、読書日記に記録したことも思い出せないなんて…と自分にあきれました。でも、思い出せて良かった。これから、借りに行き、もう一度この絵本を味わいたいと思います。

良かった絵本のコピーと読書日記。日記の右は娘が小学生のときに書いたもの、左は息子が今回書いたもの。「本の中でも、まだまだあいてのしょうたいがわからないのがおもしろい。小4までいける」。中2が書いたとは思えない、ひらがなばかりの感想ですが、「小4までいける」と私の読み聞かせへのコメントが嬉しい



 

 

 

 

2025年7月9日水曜日

あじさん

 メルボルンから帰国し、母のところにお土産を持っていきました。そこで聞いたのは、私の従兄弟「あじさん」の訃報でした。
 
 あじさんはあだ名で、本名は「一男(かずお)」といいます。小さいころから、あじさんという名で親しまれていました。私も小さいころ、ポニーという小さな馬に乗せてもらうなどして、よく遊んでもらいました。心の優しい人でした。
 
 あじさんはお母さんのタツさんと暮らした実家がある、北海道勇払郡むかわ町に住んでいました。ここ数年は体調を崩し、近隣の病院を点々としていたようです。

 あじさんのお姉さんのみっちゃんと今日、電話で話をしました。あじさんは亡くなった後すぐ入院先の病院からみっちゃんの家に搬送されたそうです。家に戻ってきたあじさんは、とても穏やかな表情をしていたそうです。 まだ、70歳でした。  

 あじさんのお母さんのタツさんとても優しい人で、よくむかわ町のシシャモを私に送ってくれました。シシャモの箱の中に、新聞の広告でくるんだ5000円が入っていたこともありました。

 今日、たまたまスーパーで北海道産のシシャモを買って、タツさんのことを思い出していました。タツさんはアジさんのことを、それは可愛がっていました。いまごろ、天国で久しぶりの再会を抱き合って喜んでいるだろうなぁと想像しました。

 あじさん、素敵な思い出をありがとう。どうぞ、天国でタツおばさんと幸せに暮らしてくださいね。私はもう少し、こちらにいる予定ですが、また、天国で会いましょう。そのときは、昔のようにポニーに乗せてくださいね。

2025年7月8日火曜日

冬のメルボルンから帰国 東京は猛暑

  7月5日(土)、午前5時にウーバーでタクシーを予約し、メルボルン空港へ。娘とたくさんハグをして、7時半発のJALで日本に帰国しました。重宝したユニクロのダウンコートを付属の袋にぎゅっと詰めて、バッグの隅に入れました。30度近くになっている東京に備えて、Tシャツとトレーナーで飛行機に乗り込みました。

 約11時間で成田空港に到着。午後6時半ごろでした。税関もすんなり通り、成田エクスプレスに乗り込み、自宅近くの駅へ。息子と夫が迎えに来てくれました。

 今回は娘に頼まれた食材や日用品をスーツケース一杯に詰めていき、帰りは娘の1年生のときの作品を持ち帰りました。国際線は預けられる荷物が2つで、1つが23㌔以内と決められています。体重計で測ってギリギリ22㌔ちょっとに収めましたが、重いのなんの。成田エクスプレスの乗降車が大変でしたので、迎えに来てもらい助かりました。

 帰宅すると、デッキにプールが出してあり、かき氷機もキッチンにありました。メルボルンは冬でしたが、こちらは真夏。半日飛行機に乗るだけで、真逆の季節を行き来するのはなかなかにおもしろい。

帰国したら、デッキに出してあったプール

 娘との10日間は、本当に楽しかった。娘は着実に成長していて、娘の良さである優しさも変わらず、幸せいっぱいな気持ちのまま帰国しました。ずっと一緒に過ごしてくれた娘に感謝です。

2025年7月7日月曜日

@メルボルンからの報告 最終日には

  メルボルンに留学中の娘を訪れた旅は7月4日に最終日を迎えました。10日間、娘の寮のベッドで一緒に寝て、毎朝娘がフルーツ・ヨーグルトを丁寧に作ってくれました。朝そのヨーグルトを食べながら娘とおしゃべりし、一日をスタートさせるのがとても幸せでした。

娘が作ってくれたフルーツ・ヨーグルト

 

娘の寮の部屋の窓から見える景色

 ヨーグルトを食べた後は、再び大学のメインキャンパスへ。キャンパス内をのんびりと散歩し、日本食のファストフード店でテイクアウトのラーメンを買い、ベンチに座って食べました。スープは味噌かとんこつのいずれかを選べるので、私たちの大好きな味噌ラーメンをオーダーしましたが、醤油ラーメンのようにあっさりしていて、ちょっぴり残念でした。でも、手軽にラーメンやうどんが食べられるのは日本人としては有り難いなぁと思いました。

キャンパス内の日本食のファストフード店

テイクアウトしたラーメン

 大学のグッズ売り場では、夫や息子に大学のロゴの付いたTシャツや帽子などを購入。母と娘、そして自分自身にはクマのぬいぐるみを買いました。

グッズ売り場の入り口に展示されているベア。ベアの左手に買ったぬいぐるみを置いて写真撮影

 一旦寮に戻って、ワンピースに着替えて、日が暮れてからヤラ川沿いのレストランに行きました。毎日動きやすいジーンズとセーターでしたが、最終日におしゃれをしよう!と娘と決めていたのです。

 娘とのたくさんの思い出ができた10日間の滞在。娘は親元から離れて暮らすことで、ぐんと大人になっていました。将来に向けての考え方もしっかりとしていて、でも、優しさと家族への深い愛情は変わっておらず、安堵しました。

ヤラ川沿いのレストランで

 娘は我が家のアイドルで、私も夫も息子も娘と過ごす時間が大好き。夫は入学時にこちらに来て、娘がスムーズに大学生活をスタートできるよう手助けしました。今度は息子が1人で娘に会いに来ることになっています。中2の息子も来年ぐらいには1人でメルボルンまでの飛行機に乗れるでしょう。夫も来春ぐらいにもう一度来ると言っています。私ももう一度、娘と2人でこのメルボルンで過ごしたいなぁ。

美しいヤラ川の夜景



2025年7月6日日曜日

@メルボルンからの報告 大学のキャンパスへ

  娘が留学するメルボルンでの滞在9日目(7月3日)は、娘の大学のメインキャンパスに行きました。アート専攻の娘は普段は別のキャンパスにあるアトリエで絵を描いているのですが、共通の講義などはこのメインキャンパスで学んでいるのです。

 大学のキャンパスは娘の寮から歩いて5分ぐらいのところにあります。開放的な雰囲気で、冬休みなので学生たちがのんびりと外のベンチに座ってランチを食べたり、お友達とおしゃべりしたりしています。冬といっても、外で食事が出来るほどの気温です。雪国育ちの私にとっては、晩秋といっていいぐらいの快適さです。

メルボルン大学の構内
大学の校門
紅葉が綺麗です


 ランチはメキシコ料理のファストフード店に行きました。オーストラリアは日本より物価が高く、ファストフードでも1,700 ~2,000円ぐらいするのですが、キャパス内のファストフードは1,500円前後で、学生たちに優しい価格になっています。この日はメキシコ料理のブリトーを注文し、キャンパス内のベンチに座って食べました。

 食後は、娘のリクエストで街にあるケーキ屋さんへ。「ここにママと一緒に来たかったの!」と娘。実はここの店は数日前に”下見”に来ていて、ショーケースの中のケーキはどれも美味しそうで、何を食べようかずっと迷っていました。結局、初志貫徹で私はレモンタルトとコーヒー、娘はピーカンナッツタルトと紅茶を注文しました。

 レモンタルトはレモンの酸味がきちんと出ていて(美味しくないレモンタルトは酸味が足りないのです)、ピーカンナッツタルトはピーカンナッツが丸ごとふんだんに使われ、つなぎに使われているキャラメルも美味しく、スイーツ好きな私たちは大満足でした。

ケーキ屋さんのショーケースに見入る娘

どれも美味しそうで、迷いました

私はレモンタルト、娘はピーカンナッツタルトを選びました
 
  ケーキ屋さんの後は、第一次世界大戦の戦没者を祀る戦争慰霊館へ。戦争で亡くなった方々へ祈りを捧げました。その後、トラム(電車)に乗って、セント・キルダの海岸へ。この日見た夕日も素晴らしかった。娘と過ごす時間はなんて楽しいのだろうーと幸せをかみしめました。

戦争慰霊館からはメルボルンの街を見渡せます
 
  
美しいセント・キルダの夕日


2025年7月3日木曜日

@メルボルンからの報告 ナイトマーケット

  メルボルン8日目はあいにくの雨でしたが、夜は普段食材を売っている市場で開かれる「ウインター・ナイトマーケット」に行きました。

 オーストラリアの冬の6月初旬から8月下旬まで、市場がない毎週水曜日の午後5時から10時まで開かれます。メルボルンの冬の日の入りは午後5時過ぎと早いので、ナイトマーケットが始まるころはもう辺りは真っ暗。でも、市場の中は沢山の人で賑わっています。

 各国の食べ物を売る屋台が並び、大変な活気です。あちこち歩いて私はスペインのパエリア、娘はタイのヌードルのラクサを食べました。デザートはスペインのチュロス。とても美味しかったです。

メルボルンの市場で開かれたナイトマーケットの入り口

たくさんの人で賑わっています


スペインのパエリア売り場

ギリシャのスブラキ売り場


イタリアのカラマリ売り場

タイのラクサ売り場

スペインのチュロス売り場

フランスのチーズケーキ売り場

ギリシャのドーナツ売り場

美味しかったチュロス

2025年7月2日水曜日

@メルボルンからの報告 「ヒックとドラゴン」

  娘が留学するメルボルン滞在7日目は、娘も私も「作業日」にすることにしました。

 私はこちらに来る前に、海外のジャーナルに投稿予定の論文を共著者の先生にメールで送付していました。質問が1人の先生から来たので、それの返信をすることにしました。娘は、7月7日(月)から10日間の日程で行われる、冬期集中講座(こちらは冬です)の準備です。

 論文はほとんどの場合、複数の共著者がいます。その論文への貢献度により、筆頭筆者の次、そしてその次と順番が決まります。最後は責任者。私の論文の場合は、そのプロジェクトの責任者(病院で責任ある立場にある博士号を持つ医師)が最後、最後から2番目が私の指導教員(研究所で責任ある立場にあり、大学教授も併任する博士号を持つ医師)。

 そのプロジェクトには他に7人の研究者(全員博士)が関わっており、この9人全員に一斉メールで論文を送りました。2週間の期限を設け、チェックしてもらいます。皆さん、研究のプロですので、しっかりとした指摘をもらえます。月曜日にいただいた質問も、「なるほど、こういう視点が私には欠けていた」と思うようなものでした。

 この質問に答えるため、データと突き合わせて考えをまとめ、メールの文章を考えて送信するまでにかかった時間は4時間でした。

 皆さんにチェックしてもらう2週間の間に、メルボルンに来たので気持ちは晴れていたのですが、月曜日朝に質問が来てからは気持ちがどよーんと曇りました。娘にはそれが伝わるらしく、「ママ、何か考え事してる?」と言われてしまいました。とりあえず、メールを送ってほっとしました。でも、もしかしたらあのデータの解釈が間違っているかもーなどと不安になりましたが…。

 私も娘も作業が終わり、映画を観に行くことにしました。娘にせがまれていた「ヒックとドラゴン」です。これはアニメ映画の実写版で、娘はこのアニメ映画を「30回以上は観たと思う」というほどのファンで、すでに実写版は1人で観に行ったそう。「ママと一緒にこの映画を観たかったの」と言ってくれたので、張り切って行きました。

 この映画は海賊の一族とドラゴンの闘いの物語。海賊の子どもたちはドラゴンを倒すために鍛えられますが、主人公のヒックはあるドラゴンと少しずつ心を通わせ友達になり、悪の元凶であるドラゴンの女王を仲間たちと一緒に倒し、他のドラゴンたちと平和に暮らすようになるという物語です。

 映画の中では、ドラゴンの上に若者たちが乗って空を飛び回るシーンが何度も出てきます。映画を観終わった後、娘が「私もドラゴンのように空を飛べなくて、とても悲しい。前、ダディにその話をしたんだけど、現実主義者のダディには分かってもらえなかった」と言います。

 「ママも現実主義者だよね」と娘が聞くので、「ママはダディのような現実主義者ではなくて、理想を追うタイプ。でもその理想は空を飛びたいというような不可能なことではなくて、努力をすれば叶うというような実現可能な目標みたいなものだよ」と答えました。

 「そっかぁ、私は空を飛べないことが本当に悲しいの。で、こういう風に考える人はいるのかな?ってネットで調べていたら、この映画を観た人たちのチャットのような所で、空を飛べなくて悲しいーと真面目に書いている人がいて、私のような人間がいるんだなぁとほっとした」

 娘は昔から「鳥になって、空を飛びたい」と言っていました。小学校のころ、お友達と一緒に校舎の屋上に登って空を眺め、学校から厳重注意を受けたことがあるほど。性格も型にはまらず、自由な発想で、のびのびとしています。ですので、窮屈な日本ではなく、広々としていて、人々がおおらかなオーストラリアが合っているようです。

 さて、楽しい映画の後は、市街の中心を流れるヤラ川に面したカフェでスパークリングワイン(私)とレモネード(娘)で乾杯。昨日も楽しい一日だったのでした。

イルミネーションが綺麗です

カフェでスパークリングワインとレモネードで乾杯

どこから見ても、ヤラ川沿いのメルボルンの夜景は綺麗

オーストラリアで最初に出来たフリンダー酢ストリート駅


2025年7月1日火曜日

@メルボルンからの報告 美しい夜景

  昨日の夜はメルボルンの中心街を流れるヤラ川のクルーズに行きました。メルボルンは本当に美しい街です。夜は娘の寮の13階デッキで夜景を見ながら、カレーライスを食べました。

ボートからメルボルンの街を眺める娘

美しいメルボルンの夜景

寮の13階デッキで夜景を見ながら夕食