2024年11月30日土曜日

娘が20歳に

  娘が先日20歳になりました。私の母、そして、サプライズでカナダの大学に行っている親友のレイちゃんも来てくれ、一緒にお祝いしました。娘にとって最高の誕生日になりました。

 娘が生まれたときは、双子の弟が死産だったため、医師も看護師もそして親戚も友人もどう言葉をかけて良いか分からず、誰からもおめでとうと言われなかった娘。2,664グラムと小さく、成長もゆっくりで心配も多かった娘ですが、心の優しい、とても良い子に育ってくれました。そして、身長もすくすく伸びて183㌢になりました。

 誕生日の前日の午後7時ぐらいでしょうか。家のベルが鳴りました。インターフォンを押すと、「レイです」。「えっー、レイちゃん?」と皆びっくり。家族全員で玄関に出てみると、レイちゃんがにこにこして立っています。娘が「びっくりしたー」と言うと、「毎年誕生日に来てたじゃん」と言います。レイちゃんは娘にも知らせず、来てくれたのです。

 レイちゃんのご両親は中国にいるのですが(レイちゃんは日本人と香港人のハーフ)、冬休みに憧れだったタイに一人旅をし、その帰りに我が家に寄ってくれたよう。その後におじいちゃん・おばあちゃんの家に行く予定だそう。

 誕生日当日は、母もお祝いに来てくれて、皆で夕食を食べました。娘のリクエストはダディのチーズケーキとリゾット、ママのアップルパイとコロッケでした。それに、娘の大好物のステーキをつけました。

 夫のプレゼントは十字架の形をしたエメラルドのネックレス。息子からは娘が大好きな猫の絵のついたマグカップ、母からは「好きなものを買うように」と1万円、レイちゃんからはTシャツと中国で流行しているというアニメキャラクターのフィギュア。

 私からは、私が若いころ使っていた時計でした。娘には、16歳の誕生日から毎年、私が使っていたバッグやジュエリーを引き継いでいます。今回引き継いだ時計やこれまであげたバッグやジュエリーはいずれも、今の私には似合わないのだけれど、ブランド物だったり思い出があったりしてなかなか手離せなかったもの。年季が入ったものなので、メンテナンス費が高かったりもしますが、娘がいると引き継げるので、嬉しいです。

 皆に囲まれ、プレゼントを開けるときに大笑いしたのは、夫からのプレゼントを開けるときです。私が携帯電話で、レイちゃんがビデオカメラで撮影していました。娘が小さな箱に書いてある文字を読み上げます。

「わぁ、あなたと私の”たからいし”箱だって…」

 思わず吹き出してしまった私が直します。「違うよ。宝石(ほうせき)箱だよ」。娘がびっくりした表情で「ええっ、知らなかった」。レイちゃんも私のほうを見て、真顔で言います。「私も知りませんでした」。息子がお腹を抱えて笑い、「おねぇねぇ、ウケル~」と言いましたが、本当に知っていたかどうかは、疑問です。

 まぁ、インターナショナルスクール卒なので、こういうこともあるでしょう。にぎやかな誕生日パーティでした。娘が何よりも喜んだのは、レイちゃんが来てくれたこと。レイちゃん、本当にありがとう。 

 娘の誕生日に合わせて、息子の骨壺のカバーも新しくしました。骨壺は今も私のベッドの横に置いてあります。カバーを作り直そうと思っているうちに、20年も経ってしまい、ミッフィの模様は色褪せてきていました。前に作ったときの生地をとってありましたので、それを使って縫いました。

 縫っているときに、「かあさんは夜なべをして、手袋編んでくれた」という童謡を思い出しました。こういう縫い物は、家事終え用事を済ませてからでなければ、取り掛かれません。今も昔も同じだなぁと思いました。そして、本当に20年はあっという間だったなぁとしみじみとした気持ちになりました。

 ディナーテーブルに新調したカバーに入れた息子の遺骨を置いてあると、母が「あらっ、アンディ君」と言って、抱いてくれました。記念写真も娘が息子を抱いて、写しました。天国の息子も、娘が無事20歳を迎えたことを喜んでいたと思います。

左は夫が作ったチーズケーキ、右は私が作ったアップルケーキ

誕生日パーティのデコレーション


 

2024年11月21日木曜日

誤診

  先月中旬から発熱や背中の痛みなどで体調が優れず、まずは泌尿器科を受診。数日後に行った内科クリニックでマイコプラズマ肺炎の診断を受け、薬を飲んでいましたが、咳が止まらず、耳鼻咽喉科へ。そこで副鼻腔炎と咽頭炎の診断を受けて処方された薬を飲みましたが、ずっと咳が止まらず、呼吸器内科へ。そこで何と、「喘息」の診断。

 吸入のプレドニン(ステロイド剤)を生涯使い続けなければならないという説明を医師から受けました。プレドニンは錠剤をもう20年以上も服用し、先月末にようやく”卒業”できたのに、また、プレドニンです。それも一生。

 医師の説明の後、看護師さんから説明を聞きながら、私、その若い看護師さんに訴えました。「もう、プレドニンは嫌なんです」と。「20年以上飲んでいるんです。で、やっと、やっと先月末にやめられたのに、またプレドニン。もう嫌なんです」

 錠剤を服用していたときは、自分の顔とは思えないほどに醜くむくみ、減らしては病気が再発し、また増やすを繰り返しました。で、ようやく病気が落ち着き量を徐々に減らし、微量の服用で日常生活を送れていました。顔のむくみも取れました。数年間にわたり、主治医にやめたいと申し出ていましたが、検査結果が良くなかったり、昨年は胃がんにも罹患し、薬はやめないほうが良いとの診断でした。全てが落ち着いた今、やっと卒業してよいという言葉をいただいた矢先、別の病気でまた「プレドニン」です。

 「こんな簡単な検査で、生涯プレドニンという、患者にとってはとても重い診断を下すなんて絶対におかしい」と思い、看護師さんに「プレドニンは使いません。抗生物質と咳止めを先生に処方してもらってください」と頼み、いくつかの薬を処方してもらいました。

 そして、翌日に別の呼吸器内科へ。そこではレントゲン撮影とCT検査の両方をし、院長先生が聴診器でじっくり肺の音を聞き、診断は「副鼻腔炎」。「喘息でないのですか?」と質問すると、「喘息ではありません。症状が全然違います」とキッパリ。副鼻腔炎を鎮める薬を処方してもらい、薬局へ行きました。 

 お薬手帳を見て、前日に呼吸器内科で別の薬が処方されていたのを見た薬剤師さんが質問してきました。薬局長さんでしたので、何か変だな?と思ったのかもしれません。

「昨日も呼吸器内科にいらっしゃって、お薬を処方してもらっていますが…どうされましたか?」

「昨日、〇〇クリニックで、喘息の診断だったんです。で、ステロイド剤を一生使い続けると言われて…。納得がいかず、今日の呼吸器内科に行ったんです。そうしたら、副鼻腔炎という診断だったんです」

 薬局長さんが声をひそめて、言います。

「あぁ、そうですか。実は、あそこのクリニックに行くとすぐに喘息の診断になるという話なんですよ」

「そうなんですね。私も変だなと思ったんです。レントゲンと、肺活量を調べる検査だけで、喘息の診断。それも、生涯プレドニンを使い続けるなんて、あまりにも安易で。でも、咳が止まらないので、プレドニンの代わりに咳止めの薬を先生にお願いしたんです」

「あぁ、この咳止めのお薬、実はあまり効かないんですよ」

「そうなんですね」

「ええ、処方は1錠になっていますが、2錠は飲まないと…」

「効かない量の咳止めの薬を処方して、患者は咳が止まらないからやっぱり諦めてステロイド剤にというふうになると考えたのかと勘ぐってしまいますよね。簡単に喘息と診断され、別のクリニックでは全く違う病名の診断だと…」

 という会話を薬局長さんと10分ほどして、副鼻腔炎を抑える薬と咳止めをもらい、帰宅しました。それから10日ほど経ちましたが、咳はだいぶ落ち着きました。夜中に長く咳き込むことがなくなり、寝られるようになりました。

 いやはや…。長年、病気と闘っていると、勘が働くのかもしれません。すぐに、セカンドオピニオンを聞きに行って良かったです。あれから、そのクリニックの評判をネットで検索すると、あまり評判が良くなく、「喘息と診断され、別の病院に行ったら違う診断だった」などという私と似たクレームもありました。やっぱり…。

 でも、その呼吸器内科はとっても混んでいました。私のように喘息と診断され、素直に信じて、ずっと通っている人もいるかもしれません。そういう方々には、「何か、違うなぁ」と思ったら、医師の言うことを鵜呑みにせず、ぜひ別のクリニックに行ってほしいと願います。

 


2024年11月17日日曜日

娘に癒される日々

  娘がオーストラリアから帰国して2週間。家族4人で食事をし、娘と息子がじゃれ合う様子を眺め、娘とおしゃべりをするー。娘がいる日常はやっぱりいいなぁと思う日々です。

 娘は朝、起きてくると機嫌良く「ふっ、ふぅ~♬」とまるで鳥がさえずるような綺麗な声を出します。こちらの気持ちがほんわかと温かくなるようなその声を昨日、改めて「綺麗な声だね」と褒めました。

 すると、娘は歌うように「前世は鳥だったの」と答えました。なるほど、と思いました。娘は続けます。「私、空を眺めるのが好きでしょう?」。確かに。娘はよく空の話をします。「ママ、今日は空がとってもきれいなの」とオーストラリアからフェイスタイムで青い空を見せてくれることがあります。また、お弁当を詰めて一人で公園を散歩し、空を眺めながら食べることもよくあるようです。

 高校生のときも、お昼の時間は一人で校舎の外に出て、空を眺めながらお弁当を食べたとよく聞かせてくれました。そんな話を聞くと「お友達とうまくいっていないのかな?」などと心配をしましたが、「空を見ながら、ママが作ってくれた美味しいお弁当を食べるのが、とっても幸せな時間なの」と答えてくれました。

 そんな娘は、とても素敵な言葉を家族にかけてくれます。先日は「ママが私のママで良かった」としみじみとした表情で言ってくれました。娘は毎日、「ママ、大大大好きだよ」と言ってくれ、私はそれを糧に日々の生活を送りますが、この言葉も大切にしていきたい。

 一昨日の夜は夫への気持ちをとても素敵な言葉で表現してくれました。二人で午前2時ごろまで寝ながらおしゃべりをしていたとき。たまたま、夫の話になると、娘は「私は何百回生まれ変わっても、ダディの娘に生まれたい」と言いました。世の中に、これほど素敵な言葉を娘に言ってもらえる父親はいないだろうーと思いました。もちろん、それは夫の娘への愛情の深さを娘が分かってるからです。

 この言葉はしばらく私の中にとどめておき、一番良いタイミングで夫に伝えたいと思います。きっと娘が結婚するときかな、と想像しています。

2024年11月16日土曜日

読み聞かせの会

  昨日、今年発足した読み聞かせの会の打ち上げ会がありました。メンバーは子どもたちが通った地元小学校で、絵本の読み聞かせサークルに入っていたママさん5人。卒業後も「卒業生ユニット」としてサークル活動を継続しています。その仲間の3人が新たに地元密着の読み聞かせの会を春に発足。私ともう一人のママにも「入らない?」と声を掛けてくれたのです。

 メンバーは皆50代。子どもが2、3人いて、下の子が中高生だったり、大学生だったりと手がかからなくなっています。でも、絵本の読み聞かせが大好きで、自分の子どもたちが通った小学校以外でも、活動の場を広げようと今回の会の発足となったのです。

 最初のメンバー3人で、すでに2回大人対象と子ども対象で読み聞かせをしており、好評だったよう。私も来年2月に地元の児童館でする予定で、今からワクワクしています。

 この会を始めたママさんがこれからの活動の目標と夢を語ってくれました。目をキラキラさせながら語ってくれた話に、素敵だなぁと心から共感しました。私に声を掛けてくれた経緯について、「むっちゃんは、一本釣りなの」と笑って話してくれて、私を活動に誘おうと思ってくれるなんて、と胸がいっぱいになりました。

 打ち上げ会が開かれたのは、地元のレストランでした。食べ物のメニューは野菜サラダ、白身魚のカルパッチョ、フムスとバケット、ハムの盛り合わせ、ピクルス、フィッシュ&チップス、ポークロースト、パスタ。そして飲み放題付きで5千5百円。女子会で飲み放題は珍しいなぁと思ったのですが、ワイン、ビール、サワーなどそれぞれ好きなものを頼み、ソフトドリンクもオーダー出来たので、とても良かった。


 2時間おしゃべりして盛り上がった後、2人が帰って、残り3人が店の外で30分も立ち話をしました。実はこの3人はがんサバイバー。がんを経験したからこそ、残りの人生で自分のしたい事をしよう!と積極的に活動するのかもしれません。こんな素敵な会に声を掛けてもらって、有難いなぁと幸せを感じた夜でした。

 

 

2024年11月15日金曜日

エンディングノートについて

  天国に召されたママ友Pちゃんにさよなら出来たのは、深い悲しみの中、子どもの幼稚園時代のママたちにつながる人に「妻に最期のお別れを」と連絡をくれたご主人のお陰でした。

 改めて、自分に何かあったときの連絡先などを家族に伝えておく大切さを実感しました。というのも、月曜日に開かれたがんのママたちの集いで、まさにその話題が出て、家族に何も伝えずに亡くなっていくママさんの話になったからでした。

 幾人ものがんのママを見送ってきた主宰者のFさんによると、「エンディングノート」を準備しているのに、中に何も書いていない人が少なくないということでした。

 エンディングノートとは自分自身の万が一のときに備えて、自分自身に関する様々な情報を書いておくノートです。書き留める内容は、医療や介護の希望、パソコンや携帯電話のパスワード、通帳やキャッシュカードの置き場、訃報の連絡をしてほしい人、葬儀に呼んでほしい人など、などです。

 ノートを準備しているのに何も書いていないー。このことに、集いの参加者は深く共感しました。がんのママは3,4,50代とまだまだ若い。自分の周囲には病気を患う人は少なく、また、自分も若いことから自分には奇跡が起こると信じている。いや、信じなければ、子供のことを心配しながらの厳しい治療は乗り越えられません。だから、エンディングノートを書くという作業が、自分の死を受け入れるということ=諦めること=につながると考えるのです。

 医師に余命宣告されても、ホスピスに行っても、たとえコンマ1%でも、自分には奇跡が起こると信じていたい。子どもが小さければ尚更です。エンディングノートを書くことは、そう信じることとは真逆の行為なのです。

 かくいう私は30代でがんを罹患したときは子どももいなく、自分のことだけ考えれば良かったですし、心配事がなければ案外割り切れるものですので、必要事項を英語と日本語の両方で記したノートを夫に残しました。

 が、その後、子どもが2人出来、病気が続いて忙しくなり、かつ自分の万が一のときの家族の心配事が多過ぎて、そのノートの更新は出来ていません。

 一昨日に旅立ったPちゃんはご主人に、幼稚園ママにつながる人の連絡先を残したのでしょうか? 自身の葬儀のことについてご主人と話し合ったのでしょうか? 一つ言えることは、私たちはPちゃんの清らかで美しい顔を見て、話しかけ、思い出話をし、ご主人に亡くなるまでのPちゃんの様子を伺うことで、信じられなかったPちゃんの死を受け入れることが出来たのです。そして、Pちゃんにさようならとありがとうを言えた。

 そうさせてくれたPちゃんと、ご主人にとても感謝をしています。そして、改めて、自分もエンディングノートを作り始めなければ、と思ったのでした。

2024年11月14日木曜日

ママ友にさよなら

  今日、息子の幼稚園時代のお友だちのママPちゃんにさよならをしてきました。48歳のPちゃんは2年半のがん闘病の末、中一と高一の娘を残し、昨日天国に旅立ちました。棺に横たわったPちゃんは生きていたころと変わらぬ美しさでした。

 Pちゃんはいつもニコニコしていて、Pちゃんと言えば、笑顔しか思い出せないほど周囲を和ませてくれる人でした。お料理が上手で、お宅に幼稚園の子どもたちやママさんを招いて、美味しい手料理を振る舞ってくれました。

 背が高く、スラリとした体形で、それは美しい人でした。白い服が好きで、その白い服がとても良く似合っていました。

 ご主人から昨日、Pちゃんが親しくしていたママ友の一人に連絡がありました。お葬式の前に「最後のお別れをお伝えいただける方がいらっしゃいましたら、ご自由に自宅に来ていただければと考えております」という、とても優しい文面でした。

 今日は6人のママ友がPちゃんにさよならを言いに行きました。昨日、ラインが回ってきたときは、とにかく、皆驚くばかりでした。誰もPちゃんの闘病のことを知りませんでしたので、突然の訃報にただただ、「信じられない…」という言葉しかありませんでした。

 中学生と高校生の娘を残し、この世を去らなければならなかったPちゃんの無念を思うと、いたたまれませんでした。今日、Pちゃんにさよならを言いにいった6人のうち、私を含め2人ががんと闘っていますので、他人事ではありませんでした。ご主人と子どもたち、そしてご両親の悲しみはいかばかりかと、自分の家族に重ね合わせて思いを巡らし、胸がいっぱいになりました。

 Pちゃんは笑顔しか思い出せないほど、穏やかな優しい人でした。だから、早くに天国に召されてしまったのかもしれないー。無理矢理そう解釈するしかないほど、Pちゃんの死は理不尽でした。

 Pちゃん、治療辛かったよね。でも、最後まで頑張ったね。天国は痛みも苦しみもないところだと聞いています。ゆっくり休んでくださいね。子どもたちのことは心配だよね。でも、Pちゃんの子どもだから大丈夫。笑顔の素敵な、優しい女性に育っていくと思います。本当にお疲れ様でした。

 

2024年11月13日水曜日

若い女性研究員の活躍

  大学院生の私は週3,4回研究室に通っています。朝、1時間かけて息子のお弁当を作り(私の楽しみの一つ)、息子に朝ごはんを食べさせて見送った後キッチンの片づけをし、洗濯物を外に干し、支度をして家を出ます。満員電車に体を押し込み、携帯電話でニュースを読みながら、研究室に向かいます。研究室は国立がん研究センターの研究所内にあります。

 現在博士課程の3年目で、先月データの解析が終わり、現在は論文執筆中です。私の指導教員は大変忙しい人なので、30分1時間の時間を取ってもらえるのは年に数回。あとは会議の後に捕まえて、こちら側からの報告を立ち話でします。

 こういう状況ですので、誰かに指導をしてもらうことはありません。ですので、質問や相談は研究所内の研究者たちにします。皆、親切に教えてくれます。でも、普通の会社のように気軽におしゃべりをすることはほとんどありません。私は研究所に雇われている研究員ではないので、立場が違いますので、おしゃべりの中に入れないのです。

 そのような中、「おはよう、調子はどう?」といつも声をかけてくれる人がいます。私の机の後ろの部屋で仕事をしている外国人の女性Sさんです。Sさんと「おはよう」の挨拶を交わし、何気ない話題でちょっとした雑談をする。それだけで、私の気持ちを夕方まで持たせることができます。そのSさんが来年1月でこの研究所を退職し、インドネシアの研究所に転職することになったと昨日知りました。

 研究という分野では、転職はおそらく普通の企業よりも頻繁で、皆そうやってキャリアを積んでいきます。この研究所内で研究員としてのキャリアを積むには博士号はもちろんのこと、その上に医療資格を持たなければなりません。かなり上の地位まで行くには医師の資格が必要だそうです。Sさんは東大で博士号を取得して研究員としてキャリアを積んでいますが、医療資格を持っていませんので、いろいろと考えたのかもしれません。

 Sさんは結婚をしていて、2人のお子さんがいます。ご主人は仕事を辞めて、Sさんについて行き、子育てに専念するそうです。頼もしい女性です。Sさんは皆にフレンドリーで親切なので、皆にとってもSさんがいなくなってしまうのは寂しいと思います。私の場合、Sさんとの会話が救いでしたので、昨日はショックで思わず涙が出たほどでした。

 Sさんの他にも、Mさんという若い女性研究員が昨日、フランスの研究所に出張に出かけました。来年の2月まであちらに滞在するそうです。Mさんも東大で博士号を取得したバイリンガルの女性。とても優秀な人で、細やかな気遣いもできる人です。Mさんは私のデータ解析にいろいろアドバイスをくれた人なので、Mさんがいなくなってしまうことも心細い。
 
 こうして親切にしてくれた人がいなくなってしまうのは、とても寂しいのですが、若い女性たちが海外で活躍するのを見るのは本当に頼もしい。私は年齢ばかり上で何もできないけれど、陰ながら彼女たちを応援したいと思います。

2024年11月12日火曜日

がんのママと集う

  昨日は、今年最後の「がんママカフェ」に行ってきました。このカフェは子育て中のがんのママが月に一度、集う場。昨日は7人が参加し、様々な思いを共有しました。

 子育て真っ最中にがんと診断されることは、がん治療そのものよりも、子どもをどうするかーが一番の心配ごとです。

 協力的なご主人がいる場合やご実家を頼れるなら良いのですが、シングルマザーだったり、協力的ではないご主人の場合は、ママの負担はさらに重くなります。自分が入院中の子どものご飯はどうすればいいの? 塾や習い事のお迎えは? 出費が多い中自分の治療費の負担が家計を圧迫している、どうしよう? その上に自分の治療の決断をしなければなりません。

 昨日は妊娠中にがんに罹患し余命宣告され、病院を変えて、生き残った40代のママさんが参加していました。必死の思いで産んだ子は今小学生だそうです。「生きていることに感謝する日々」と語っていました。

 また、子供が小さいため、最初は伝えることが出来なかったという40代のママさんは、「伝えたら、予想に反して子供はちゃんと受け止めてくれた」と嬉しそうに語っていました。

 また、保険会社に勤めていたというママさんは、自分ががん保険に入っていなかったため、若い女性たちに保険の重要性を伝えたいと語っていました。確かに、分子標的薬など高額な薬を使い続ける場合は、保険からお金が下りると助かります。私の場合は普通の保険ですが、患っていたのが血液がんと自己免疫疾患で入院期間が長いために、1日5千円支給という普通の保険でもとても助かりました。

 昨日、来る予定でしたが、キャンセルになったママさんがいました。ホスピスにいます。昨日は体調が戻らず、参加できませんでした。そのママさんには何度もこの会で会い、いろいろとおしゃべりしました。だから、お会いするのを楽しみにしていたので、残念でした。

 心配なのは息子さんのご飯なのだそうです。ご主人は非協力的でかつ料理もできないので連日お弁当を買ってくるにも関わらず、「こども食堂」などからの支援も受け付けないらしい。ママさんはホスピスで、どれほどお子さんのことを心配しているかと思うと、涙が出てきます。

 集いの後、主宰者のママさんとランチをしました。このママさんは私ととても境遇が似ていて、30代でがんを罹患し、子供を死産しています。私の天国の息子が今月20歳、このママさんの天国の娘さんは来年20歳です。

 私が恐山に息子の供養に行った話をしたところ、早速、ご主人と「来年、恐山に行こう」と計画していると話してくれました。

 このママさんは慈愛に満ちた人で、がんのママさんを助け、赤ちゃんを死産で亡くした方々の支援もしています。私より若いですが、心から尊敬し、私も見習おうといつも思っています。

 元気だったママさんが体調を崩したり、再発を告げられたり、は本当に辛いです。でも、私たちは今は病気が落ち着いているのだから、家族を最優先にして、一日一日を大切に生きようねーと語り合ったのでした。

2024年11月11日月曜日

現地到着は最低30分前に

  昨日、娘が通っていたインターナショナルスクールのママさんコーラスのカラオケパーティがありました。卒業しても、「むつみちゃん、カラオケパーティ来ない?」と誘ってくれるのが、本当に嬉しい。

 参加したのは、日本、イギリス、チェコ、インド、中国、シンガポールなど各国からのママ。コーラスママは皆、当然ですが歌が上手で、ステージが大好き。それぞれ母国語の曲を歌ったり、英語の曲を歌うだけでなく、イギリス人ママがいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌ったり、若いママが石川さゆりの「津軽海峡冬景色」をこぶしを振り上げながら熱唱したり、すごいパワフル。

 ピンクレディーの曲は2人の日本人ママが持参した衣装と振り付きです。皆で、歌って、踊って、で盛り上がりました。私はカラオケがあまり得意ではないので、取り合えず1曲は歌い、あとは皆の歌を一緒に歌って、楽しみました。4時間はあっという間でした。誘ってくれたコーラスママたちに感謝!

 さて、ここからが今日2つ目の話題です。昨日、パーティが開かれたカラオケ店は横浜の元町・中華街にあり、スタートは16時でした。で、実は私が現地に着いたのは15時15分。店の真ん前まで行き、店の名前と携帯電話のメールの中に書いてある店の名前を照合してから一旦店を離れ、中華街をぶらぶらして、5分前にまた店に戻りました。

 というのも、先週の金曜日、五反田駅近くで開かれた会合の会場にたどり着けないという、とんでもない出来事があったからでした。楽しみにしていた「ほっかいどうの会」でした。北海道生まれ・育ちの人か北海道にゆかりがある人が参加する会で、主宰者の友人から「久しぶりに『ほっかいどうの会』を開くので、参加しませんか? 鈴木宗男さんが来るんだよ」と誘われて、早々に参加表明をしていたのです。

 「一人一品、北海道の食べ物か飲み物を持ってくること!」という参加要件にも、ちゃんと「余市ワイン」を事前購入して準備し、当日は研究室の冷蔵庫で冷やして、持っていったのにも関わらず、です。

 会場は五反田駅から徒歩4分の場所でした。私が駅に着いたのは開始時間の15分前の18時45分。そこからグーグルマップを使って歩きましたが、どうしてもたどり着けません。30分ぐらい行ったり来たりし、地図を見たり、ビルの横に貼ってある住所を確認しましたが、たどり着けません。

 五反田駅周辺はこれまでほとんど行ったことがないため土地勘が全くなく、あの街はとにかく広い。友人は主宰者ですので、連絡をすることも出来ません。で、「諦めない」性格だった私も、いろいろあって最近は「人生は諦めも必要」という境地に達してきていましたので、19時半、「これは縁がなかったのかも」と受け止めて帰宅したのでした。

 そこから学んだのは、初めての場所に行くときは、最寄り駅ではなく、現地に少なくとも30分前に到着して場所を確認してから、他の場所で時間をつぶすぐらいの余裕を持つこと、です。昨日は、それを試してみて、気持ちに余裕を持って参加することが出来たのでした。

 これからは、「現地到着は最低30分前に」をモットーに生きることにします。

 

 

 

2024年11月10日日曜日

娘と居酒屋へ

  この1週間、家族全員が体調を崩していました。息子の高熱と咳に始まり、娘も同様に高熱と咳、次に体調を崩した私も38度の熱と咳で外出が出来ませんでした。一番症状が重かった娘はインフルエンザもコロナも陰性だったため、風邪だろうということで、薬を飲んで何とか乗り切りました。最後にうつったのが夫でしたが、比較的症状が軽く済みました。

 私は3週間前にマイコプラズマ肺炎を患いましたが、家族にはうつりませんでしたので、今回のはいったい何だったのでしょう? 

  体調が回復したため、昨日、娘と買い物に行きました。行ったのはユニクロ。娘は身長183㌢で、かつオーストラリアに行って少しぽっちゃりして帰国しましたので、合う服があるか心配でしたが、さすがユニクロ。娘に合うサイズがありました。ダウンコートとセーター、ヒートテックのインナーを買いました。

 娘が小さいころはZARAやGAPなどで娘の服を買うのが本当に楽しかったのですが、どんどん大きくなってしまい、まず、靴が買えなくなりました。そして、服もなかなか合うものがなくなり、残念な思いをしていたので、本当にユニクロ、有難いです。ヒートテックのスパッツも買ってあげたかったのですが、普通は足首ぐらいの長さが、娘はひざ下ぐらいになるので、買えませんでした。大きい人は、本当に大変です。

 夕ご飯の時間でしたので、娘に「何が食べたい?」と聞くと、「豚串が食べたい!」と言います。私も豚串が大好き。「今日は豚串を食べよう!」と盛り上がったのですが、ネットで調べても、串焼きのお店は大体が鶏肉。以前、娘と二人で行って豚串がとても美味しかった居酒屋に行ってみると、何と餃子の店に変わっていて、がっくり。

 こうなると、もう、妥協できないんですね。もう、豚串が食べたくて食べたくて、仕方ない。あちこち歩き回ってやっと見つけたのが小さな炭火焼きの居酒屋でした。外に置いてあるメニューに豚串がありました。「やったぁ、豚串あった!」と勇んで暖簾をくぐりました。

 人気の店らしく、空いていたのはカウンターのみ。でも、いい感じのカウンターです。まずは、豚串、鶏串、カマンベールチーズ、シシトウなどを注文。娘は今月20歳なので、もう飲んでもいいよ!ということで、ジンジャーエールで割ったハイボール、私はサッポロ生ビール。

 娘は家では夫と私が飲むワインや日本酒の味見をしたことはありましたが、グラス1杯という量は飲んだことがありません。が、18歳以上が飲酒が認められているオーストラリアではお友達と飲んだことがあるようです。「私、ママに似て顔が真っ赤になるんだよ」とのこと。

 娘と居酒屋で美味しい炭火焼きの串焼きを食べながら、飲んで、おしゃべりできるなんて、幸せでした。夫からは、息子にタコスを作って、美味しく食べたという写真付きメッセージが届きました。夫も私も、父息子、母娘のゆっくりした時間を楽しんだのでした。



 

2024年11月4日月曜日

恐山へ ⑧ 続・番外編

  無事、東京の家に戻り、夫と息子との日常に戻ると、恐山での2日間がどれほど日常とかけ離れたものであったか、実感します。

 私が恐山に行ったのは10月23、24日の平日でしたので、夫に24日の朝の息子のお弁当作りを頼んでいきました。おかずの下準備をして冷蔵庫には入れてありましたが、夫が苦笑いをして答えました。

「君が作ってくれていた蒸し鶏と冷凍の枝豆をお弁当箱に入れたよ。紅鮭をほぐしてくれていたのをおにぎりの具にした。でも、おにぎりはうまく出来なかった。難しかったよ」

 夫が息子に作ったおにぎり…。その話を聞いて、父のおにぎりを思い出しました。父のおにぎりを思い出したのは久しぶりでした。

 父は私が小さいころ、何度かおにぎりを作ってくれたことがありました。父のおにぎりは丸くて、ソフトボールのように大きかった。その丸い、ソフトボールのようなおにぎりが私は好きだった。懐かしくて、懐かしくて、涙が出ました。

 恐山への旅で、父の懐かしい思い出が一つ増えました。そして、息子にも「ダディが作ってくれたおにぎり」という思い出が出来たと思います。

 楽しい、心地良い旅ではなかったけれど、納得できた、良い旅だったと思っています。

2024年11月3日日曜日

恐山へ ⑦ 番外編

  霊場・恐山で一泊した翌朝、私は10時10分恐山発のバスに乗り、下北駅へ向かいました。そこからJR大湊線、青い森鉄道に乗り換え、八戸へ。そこからタクシーで、死者の魂を降ろすと言われるイタコさんの家に向かいました。

 指定された午後2時数分前に到着しました。ベルを鳴らすと、玄関ドアから年配の女性が出てきて、「すみません、前の方が長引いているので、少し外でお待ちいただけますか?」と言います。その方と雑談をしながら、10分ほど待ちました。

 間もなく、中年の女性が玄関ドアを開け、外に出てきました。そして、私たちに会釈をして足早に去っていきました。

 家に入ると、イタコさんがいました。私より少し若い女性です。お部屋に入りました。申し込み書に、私の名前、降ろしてほしい人(亡父)の名前と命日、死因を書きました。

 「では、始めます」という言葉で、イタコさんは独特の節回しで経文を読んでいきます。しばらくしてから、イタコさんが語り始めました。

 イタコさんは10分ほど語ったでしょうか? 語りが終わったとき、父に聞きたかったことを聞きました。聞きたいことはいくつもありましたが、一つだけ、どうしても聞いておきたかったことだけ、聞きました。

 答えを聞いて、私はこれは父ではないーと思いました。父がこのようなことを言うはずがないと。でも、父の魂を降ろしてくれたイタコさんに心から「ありがとうございました」とお礼を言いました。お代5千円を支払い、タクシーを呼んでもらって、家を出ました。イタコさんの家の中での滞在時間は20分でした。

 私をイタコさんの家に送ってくださったタクシーの運転手さんが迎えに来てくれました。「もう終わったのですか?」と聞きます。「はい」とだけ、短く答えて、駅まで送ってもらいました。

 イタコさんが降ろしてくれた魂が父かどうか、イタコさんが本当にあの世にいる死者の魂を降ろすことができるのかーはこの世の人間は誰も証明できません。ですので、大切なのは、依頼した本人が納得したかどうかではないだろうか?と思いました。

 父が亡くなってしばらくしてから、イタコさんに父の魂を降ろしてもらいたいと願ってきました。イタコさんのことは本を読んだり、雑誌で記事を読んだりしていましたが、青森県までは遠く、子供が小さかったことから、実現への一歩は踏み出せませんでした。でも、来春父の13回忌を迎えること、今月娘が20歳になる節目で一緒に生まれるはずたった息子の死産から20年経つことから、霊場恐山への供養の旅を計画し、長い間考えてきたイタコさんにお会いすることにしました。

 イタコさんにお会いしてから、一週間以上経ちます。そうすると、もしかしたら、あれは父だったかもしれない。父もあの世に行ってずいぶん経つから、穏やかな仏様になって、生前の父とは違うことを言うかもしれないーとも思い始めました。

 でも、たぶん、あれが父でも父でなくても、どちらでもいい。大切なのは私がイタコさんに会って、父の魂を降ろしてもらって、父と”会話をした”ことで納得できたことなのでしょう。いや、あれは、父だったと信じ、私がこれからの自分の残りの人生を生き切ることが大切なのではないかーそんなことを思う日々です。

2024年11月2日土曜日

グッドバイ、プレドニン

  昨日、恐山から帰ってきたら運気が少しずつ上がってきたという話をしました。もう一つ、私にとってのビッグニュースがありました。なんと、18年間服用し続けた薬を10月30日、やめることが決まったのです!

 プレドニンというステロイド剤で、「自己免疫性溶血性貧血」という病気に罹患した2006年から服用し続けていました。その後、2010年に「特発性血小板減少性紫斑病」という病気にも用い、この2つの病気を抑えるためにずっと飲み続けていたのです。

 これまで何度もやめることを検討したのですが、赤血球に対する自己抗体の有無を調べるテストでいつも陽性が出てしまい、断念。でも、昨年秋に行った検査でようやく陰性の結果が出ました。が、12月に胃がんに罹患。まずは胃がんの治療を優先するため、プレドニンの服用は続けるという診断でした。ですので、一年間様子を見ていたのです。

 薬の量は微量でしたので副作用もなく、前の主治医は「微量を服用することで病気が落ち着いたままなら、リスクを取るより、飲み続けるほうを勧める」との判断。今の主治医は「やめても良い。病院に来る頻度も少なくなり、精神的な負担も減る」との判断。いずれの判断も恐らく正しいのでしょうが、私はやめることを選びました。

 21年間、ずっと国立がん研究センター中央病院に通い続けていました。3ヶ月以上間隔が開いたことはありません。あの病院に行けば、救ってもらえるという信頼感と、「ここは私の居場所」という安心感さえ持っていました。

 でも、もう一度、病院に行かない、薬を飲まない暮らしをしたいなと思いました。もちろん、半年か1年に一度は検査で訪れるとは思いますが、薬を飲まず、通院も半年に一度になれば、きっと「自分は本当に健康なんだ」と思えるようになると思います。

 グッドバイ、プレドニン。今まで長い間、私を救ってくれてありがとう。でも、もう、あなたを卒業するね。



2024年11月1日金曜日

2024 Halloween 娘が帰ってきた

  昨日、娘がオーストラリアから帰ってきました。長い夏休みをこちらで過ごします。昨日はハロウイーンでしたので、パンプキンカービングも一緒に出来ました。やっぱり、娘がいると家に笑いが広がり、いいなとつくづく思いました。

 息子が夕方、学校から帰宅すると、2人は玄関でがっしりとハグ。息子はそれは嬉しそうでした。普段はあまり話さない息子も、娘がいるとおしゃべりになります。息子は身長が168㌢と、183㌢の娘よりまだ小さいので、娘は息子が小さかったころのように息子をおんぶしたり、抱っこしたりして、大騒ぎ。私はきょうだいがいないので、きょうだいっていいなぁと羨ましくなるぐらいでした。

 今年のパンプキンは私が築地の花屋さんで見つけ、重かったですが、抱えて持ち帰りました。毎年軽井沢の農協で購入するのですが、今年は不作ということで売っていず、また、東京のスーパーですと高いので、夫と「今年はパンプキンカービングできないね」と話していたところでした。

 実は恐山から帰宅した後は、私の運気が少しずつ上がってきているようで、幸運にも子どもたち用に形の良いパンプキンを2つ買うことが出来ました。

 とても、幸せな、楽しいハロウイーンでした。

子どもたちのために、パンプキンを2つ準備。パンプキンパイも作りました

玄関でハグする娘と息子

娘のリクエストで夕ご飯は餃子

パンプキンにまずは絵を描く2人

息子のパンプキン

娘のパンプキン

今年のコスチュームはハリー・ポッターのマント

ロウソクを入れて…

息子の今年の道具はコブラ