2016年1月28日木曜日

札幌帰省

 
 1月15日から4日間、札幌に帰省しました。一人暮らしの母の様子を見るためです。昨年もこの時期一人で帰省しましたが、今回は4歳の息子も一緒でした。息子にとって、冬の札幌は初めてです。

  私は寒さが原因で発症する(不思議な病気です)、「自己免疫性溶血性貧血」という持病を持っています。一定の寒さにさらされると、自己免疫が血中のヘモグロビンを攻撃してしまうのです。ヘモグロビンは酸素を運ぶ役割があるので、呼吸困難になったり、体が動かせなくなったり、と症状は極めて厄介。札幌生まれ札幌育ちなのに情けないのですが、この病気を41歳で患い何度も再発を繰り返してから、寒い時期(10月から5月ぐらいまで)の帰省は長い間控えていたのです。

 が、昨年母が体調を崩したため、恐る恐る一泊二日で帰省。この自己免疫疾患が再燃しなかったために、自信をつけました。健康を害してから実感したのですが、緊急の出来事に対応することは、健康な体でなければ出来ません。1カ月後の友人とのランチは、その日を目掛けて体調を整えれば良いのですが、葬儀への参列や家族の看病などは、健康な体であってこそ。ずいぶん時間がかかりましたが、今、私は緊急時にも対応できるようになったのです。

 さて、昨年に続いての真冬の札幌帰省。冬の札幌と言えば雪。札幌市民にとっては、連日の雪かきという苦行があるため雪はロマンチックではありませんが、年1度しか雪が降らない土地に住む人間、特に子供にとって、雪は憧れです。

 千歳空港に飛行機が着陸したとき、窓から一面の雪を見た息子は大はしゃぎです。札幌市内行きのバスの中でも、ずっと窓から雪を眺めています。そして、実家に着いた途端、「ママ、外で遊んでくる」と言い、電話で娘に聞きます。「おねえねえ、雪だるまどうやって作るの?」。

 受話器から聞こえる姉の説明を聞いた息子が私に説明します。「ママ、雪だるまはね、雪の玉を作って、その周りを雪で固めるんだって」。娘は年に1、2度の東京の雪でも、雪だるま作りを習得しています。ましてや、雪国生まれの私にとって、雪だるま作りなどお手の物。でも、やっぱり寒い。体調が悪くなったら困るし・・・と心の中で葛藤し、私はまた、我が子を1人で庭に送り出すのでした。

 実家の庭は、降ったばかりのパウダースノーに覆われています。私は灯油ストーブで温められた家の中から、雪だるま作りをする息子の姿を眺めました。どうも、うまくいかないようです。「ママ、雪だるまが作れない」という声が聞こえます。私は意を決し、防寒対策をしっかりとして、庭に出ていきました。そして、息子と一緒に小さな雪だるまを作りました。本当に久しぶりに触った、札幌の雪は、粉砂糖のようにさらさらして、キラキラして、きれいでした。

 冬の札幌で遊んでも大丈夫なんだー。愛しい息子と雪を転がしながら、私はほんわかとした幸福感に浸りました。


2016年1月23日土曜日

竹田圭吾さんの死

 私は新聞記者の仕事を離れて、12年になります。が、今でも気になる新聞記事や雑誌の記事を切り抜き、手帳に貼っています。今年最初に手帳に貼った記事は、小さな死亡記事でした。10日にすい臓がんで亡くなったジャーナリストの竹田圭吾さんの記事です。竹田さんは私と同い年の51歳。仕事に情熱を燃やし、養うべき家族もいるであろう51歳のがん患者の死は、私にとって他人事ではありませんでした。

 私が竹田さんを朝のテレビ番組で頻繁に見ていたのは、もう何年も前のことです。端正な顔立ちと低く落ち着いた声が魅力的な人で、冷静で鋭い切り口のコメントに共感することが多かった。その後、すっかりテレビを見なくなり、久しぶりに竹田さんを見たのが、昨年です。ずいぶん年を取られたな、というのが印象でした。そのときはがんを患っていらっしゃることは知りませんでした。ですので、すい臓がんだったと死亡記事で知ったとき、あのやせ方と老け方は、抗がん剤治療によるものだったのだと納得がいきました。

 週刊文春1月21日号によると、竹田さんは2013年末にがんの手術を受けられ、昨年の9月には抗がん剤の副作用が強く出始めて、歩くこともままならない体調になったということです。インターネットで検索をすると、竹田さんには奥様と複数のお子さんがいらっしゃるようです。

 すい臓がんは、最も治療が難しいがんだと言われています。全国がん(成人病)センター協議会の部位別生存率を見ますと、すい臓がんは5年生存率が9.2%、10年生存率は4.9%と一番低い。私は医療の専門的なことは分かりませんが、患者として何度もがん専門病院に入院していると、すい臓がん患者の治療が難しいことは分かります。肺がん、胃がん、子宮がん、乳がん、骨肉腫、肉腫、白血病・・・、様々ながん患者と同室になりましたが、すい臓がん患者の病状は、恐ろしいほど速く悪化していくのです。

 私が最初に国立がんセンター中央病院(現・国立がん研究センター中央病院)に入院したのは、38歳のときです。診断は悪性リンパ腫のⅣ期(一番重い)でした。同室の女性は60歳代の女性Kさん。Kさんはすい臓がんで、手術は出来ないと言われていました。入院して最初のころはスタスタと歩いていましたが、間もなく、ご飯が食べられなくなり、チューブで栄養を取るようになりました。抗がん剤も効きませんでした。日中、何度も嘔吐するようになり、間もなく、起き上がれなくなりました。そして、そのころには、医師にホスピスを勧められていました。その間数週間。私も痛みがあり抗がん剤治療への不安もありましたが、Kさんの病状は私のとは比較にならないほど、重かった。

 竹田さんの死で思い出したもう1人のがん患者は、次の入院のときに同室になったOさんでした。Oさんは私と同じ悪性リンパ腫で何度も再発を繰り返し、最後は、造血管細胞移植という治療を行いました。治療後のOさんは、骨と皮だけになったようにお痩せになり、10歳以上はお年を召されたようでした。大量の抗がん剤投与を伴う造血管細胞移植のすさまじさを目の当たりにし、私自身もずいぶん気落ちしました。その後、私が2度目の再発をしたときにこの治療を主治医に勧められましたが、拒否したのはOさんの記憶が生々しかったためです。

 竹田さんについて調べているうちに、竹田さんがコメンテーターをしていた番組の特集を見ることが出来ました。竹田さんは亡くなる直前まで仕事をされていて、とてもお痩せになり、杖をついてやっと歩いていらっしゃいました。最後までジャーナリストとしての仕事をし続けた竹田さんの姿は立派でした。あの姿に胸打たれた人は多かったと思います。出演者の方も涙を流していました。

 が、私は泣きませんでした。5歳も10歳も年を取って見え、カツラを被り、やせ細り、杖をついて歩く彼の姿に、思わず、自分の将来を重ね合わせて見たからです。そう見た、がん患者も少なからずいたのではないでしょうか?私は慌てて浮かび上がる不安をかき消しました。竹田さんのご冥福を心から祈りながら、私は3度目の再発はしないぞ、まだまだ死なないぞと心に誓いました。
 

 
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2016年1月21日木曜日

夫とランチ

  「ランチ、ご馳走してくれる?」 。娘の学校の保護者会の帰り、夫にメールをしました。学校から3駅のところに夫の会社があるので、学校に用事があるときは、時々一緒に昼食を取ります。今回は、「一緒にランチしない?」といういつもの言い方ではなく、謙虚な言い方で誘ってみました。すると、夫からは「もちろんだよ。何時にこっちに来られる?」と機嫌の良さそうな返信がありました。

 夫の職場の近くで待ち合わせました。が、メールの返信とは違って何となく沈んだ様子です。日本で開かれる予定だった会社の会議が、キャンセルになったというのです。話を良く聞くと、夫が沈んでいるのは、会議がキャンセルになった理由でした。

 主要メンバーのアメリカ人2人の子供が相次いで亡くなったため、会議そのものがキャンセルになったそうです。
 「亡くなった理由は?」
 「1人が自殺。もう1人が薬物」
 「そう・・・」
 「2人とも僕より少し上の、50歳前後かなぁ。だから、子供はたぶん高校生とか大学生ぐらいだと思う。2人とも、世界各国を飛び回っていて、すごく成功しているんだ。もちろん、たくさん稼いでいる。でも、いくら成功しても、たくさん稼いでも、子供が死んでしまったら、何の意味もない」
 「自殺も薬物も、子供たちが何かしらのサインを出していた可能性は高いよね」
 「うん。忙しすぎて、そのサインに気が付かなかったのかもしれない」
 「自殺は防げたかどうか分からないけど、薬物依存は初期に気付いて対処すれば、死ななくてすんだかもしれないね」
 「うん」

 ランチはいつもより、話が弾みませんでした。レストランから会社に向って歩きながら、夫は、「このことを知らせてくれたイギリス人も、ちょうど同年代なんだ。彼の声も暗かった。自分の身に置き換えて、考えていたと思う。僕は、子供たちと出来るだけ一緒に過ごすようにしているつもりだけど、もっと努力すべきかもしれない」。

 「大丈夫よ。十分やっているから」。自分の口から出たそんな励ましも、何となく薄っぺらに聞こえました。でも、それ以外、言いようがありませんでした。
 

 

 
 

2016年1月16日土曜日

インターの保護者会

   娘の通うインターナショナルスクールの保護者会に出席しました。毎月1回開かれており、小学校から高校までの保護者が一堂に会する催し。「コーヒーモーニング」と称するように、コーヒーとお母さんたちの手作りお菓子やオードブルなどが振る舞われ、気楽でありながらも、情報収集には最適の場です。

  「みなとみらい線」の終点「元町・中華街」に娘の学校があります。改札を出て、エレベーターを乗り継ぎ、地上へ。ドアが開くと広々とした公園が目の前に広がり、そこから学校まで、異国のような情緒がただよう道が続きます。

  学校に入り、保護者会が開かれるカフェテリアへ。様々な国のママたちが、コーヒーを片手に語り合っています。朝早いので、無造作に髪をまとめたママが何人もいます。それが本当に素敵。背が高くスタイルの良い若いママが、横に小さな子供を抱える姿はそれだけでも絵になり、思わず目を留めてしまいます。

  私は幾人かの知り合いに挨拶し、紙コップにコーヒーを注ぎ、ブラウニーとバナナケーキを紙皿に取り、席へ。間も無く会がスタートします。

   インターは海外から日本に赴任した外国人の子供や帰国子女が多い学校なので、入れ替わりが多い。この日も今学期から来たママたちが来ており、その方々に保護者会の役員が活動の説明をしています。バザーやインターナショナルデーなどイベントの開催、寄付金活動、保護者のための東京・横浜の観光地ツアー、横浜のショッピングエリアへの案内、学校で開かれる様々なサークル活動(ヨガ、料理、生花など多彩)など、充実しています。

   その後は、日本人と結婚したアメリカ人ママの日本食についてのお話。パワーポイントを使って図や写真を交えながら、栄養士としての知識と経験をたっぷりと盛り込んだ話は説得力があります。

    彼女は「日本にはたくさんの種類の魚があるので、いろいろ挑戦してみて」と勧め、「皆さんのお家のキッチンにも、魚焼き器があるはず。外側はカリカリに中はジューシーに、完璧な焼き魚が出来上がります」と、アメリカ人特有の大袈裟な表現で日本の調理器具を紹介してくれます。

  「味噌は、健康に良いので、味噌スープにして飲んでみて。もろみは、野菜スティックのディップとして使えば、最高」(そうか、今度もろみを買ってみよう)
   「野菜も試してみて。レタスの代わりに水菜。シャキシャキして美味しいです。ホウレンソウのお浸しは手軽に出来ます。作り置きして、子供たちのお弁当に」(えっ?うちの子供はホウレンソウ大嫌いだけど)
     「きんぴらごぼうは、本当に美味。ゴボウとニンジンを細長く切って、ゴマ油で炒めて、醤油を絡めるだけで、簡単に出来ます」(そうか、きんぴらごぼうは外国人にも美味しいんだ)と、日本人の私にも新しい発見が。

   食材の話になると隣のスロバキア人のママが、「私、日本の食材は何でも食べるのだけれど、コンニャクだけは駄目」と耳打ちします。「うちの夫は、コンニャクも、ワカメも、納豆も、駄目」と私。「本当?納豆美味しいのに」。

   帰りがけ、娘の同級生のアメリカ人のママと話が弾みます。彼女が、「この前、料理教室で日本料理を習ったの。魚はさばき方から教えてもらったのだけれど、内臓を取り出したり、ちょっと苦手」。それはハードルが高過ぎでしょうと私は思います。
   「魚をさばく、日本人のママなんていないわよ。スーパーの魚売り場の人に声かけて、さばいてもらえば良いの。イワシなんかは、三枚におろして!と言えば、身だけにしてくれるからすぐ調理出来るわよ」。

   彼女は、「ちょっと待って!」と言い、スマホを取り出し、「sanmai ni orosu 」と打ち込みます。彼女が発音すると、三枚におろす、には聞こえません。私はそのスペルをチェックしながら、彼女がこれを読みながらスーパーの担当者に頼んだとき、その人は、分かってくれるかしら?と少し不安になりました。

 
 

 

2016年1月14日木曜日

お弁当いろいろ

 朝、寝坊をしました。起きたのは7時15分。娘が家を出る時間は7時なので、15分も寝坊したのです。朝食を取る時間がないため、バナナとミカンと好物の「さけるチーズ」を袋に入れて、渡します。「ごめんね。今日はお弁当作れない。カフェテリアで食べてね」と言い、送り出しました。

 夕方、帰宅した娘にランチのことを聞いてみました。
「カフェテリアで食べたの?」
「ううん。コンビニでシャケおにぎり買ったの。しょっぱかった」
「どうして、カフェテリアで食べなかったの?」
「だって、美味しくないんだもん」

 娘は昨年の春、地元の公立小から横浜のインターナショナルスクールに転校しました。公立小では学校の調理室で作られた美味しい給食を毎日食べていた娘。それと同じ感覚で転校した初日にカフェテリアでランチを食べ、1日で嫌いになってしまったのです。それから、私は毎日、娘にお弁当を作っています。毎日、似たようなメニューですが、娘は「ママのお弁当がいいの」と言って、絶対カフェテリアで食べません。

 娘によると、カフェテリアの食事は「丁寧に作ってないから、美味しくない」とのこと。「前の学校の給食は、栄養を考えて、すごく丁寧に作られていたの。でも、カフェテリアの食事は、冷凍食品をオーブンや電子レンジに入れて、作っているって感じ。違ったら、失礼だけど・・・。でも、たぶん、そうだと思う」と、意外にも観察力のある答え。丁寧さに価値を置く娘の言葉を聞くと、娘は日本人として育ったんだなと安堵します。

 さて、インターナショナルスクールでは、お弁当を持ってくる人が少なくないようです。国により、子供に持たせるお弁当は違い、興味深いです。

 娘のお友達の一人は、入学以来ずっとカフェテリアで食べているそうです。お母さんは中国人。ママのお弁当が食べたくて頼み続け、ようやく、先日一度だけ作ってくれたと言います。そのお弁当を「ママが、今日お弁当を作ってくれたんだよ」と本当に嬉しそうに食べていたと娘が話してくれました。少し切なくなる話です。

 アメリカ人のお母さんが作るお弁当は大らかなようです。
 「ピーナッツバターをはさんだサンドイッチと、カットしたパプリカやキュウリ、そしてミニトマト。それぞれがジップロックに入っているの」と娘。もう一人のアメリカ人は、同じようなメニューに、ポテトチップスが加わるようです。

 娘いわく、「アメリカ人のお母さんのお弁当は1分で作って、日本人のお母さんのお弁当は20分ぐらいかけているって感じ」。娘を含め、日本人や日本人のハーフの子供のお弁当は、「ごはんと野菜とお肉料理と卵料理、それと果物」と、入っているもののパターンが似ているそうです。

 フランス人の子供のお弁当は、「リゾットとか、ちょっと違う」。ベトナム人は「餃子とか春巻きとかだよ」。娘はランチタイムにいろいろと観察しているよう。

 夫に自分が子供のころのお弁当を聞いてみました。
「ピーナッツバターサンドイッチと、フルーツと、ポテトチップス」。アメリカ人のランチは、昔も今も変わらないのですね。
 
 私が覚えている母のお弁当は、三色弁当です。鶏そぼろと炒り卵、そして刻んだ緑色の漬物。お肉料理もゆで野菜を肉で巻いていたり、ハンバーグの中にうずらの卵が入っていたりと、工夫してくれていました。娘の言うように、確かに20分くらいはかけてもらっていたかもしれません。

 母の作ってくれたお弁当と私が娘に作るお弁当の違いは、主食はパスタが多いことでしょうか? バジルペーストをからめたショートパスタが、娘の大好物。二段弁当の下に白いご飯を詰めずに、バジルパスタを入れるとき、私はハーフの子を育てているのだ、と実感します。



 

 

 

 

2016年1月12日火曜日

スープに氷

 日曜の夜、夫がネギスープを作ってくれました。前日、きりたんぽ鍋で使った下仁田ネギが残ったので、「美味しいスープを作って」と頼んだのです。うちは夫婦で料理好き。特に夫は、創作料理も得意なので、食材が余ったときや、レストランで食べた料理をまた食べたいときなど、リクエストするのです。

 おいしそうなスープと、私の豚肉料理も出来上がり、さあ、いただきましょうというとき。スープをよそった子供たちのスープ皿に、夫が氷をカランと入れたのです。

 出来立てのスープは熱い。11歳の娘はまだしも、4歳の息子は熱くて食べられない。でも、それはないでしょう、と私は文句を言いたくなりました。どうして、ボウルに氷水をはって、その中にスープ皿を入れて冷まさないのよ、と言いそうになりました。でも、私はその言葉を飲み込みます。夫の機嫌を損ねたくないからです。

 熱いスープを冷ますのに、氷を入れるー。この発想はどこから来るのでしょうか。手間をかけることを嫌う夫の性格からでしょうか。アメリカ人というアバウトな国民性のなせるわざでしょうか。男子4人を働きながら育て上げた義母が、忙し過ぎる日常の中で時間短縮のために考えた方法を、夫が素直に受け継いだのでしょうか。それとも、このことに疑問を持つ私が神経質なのでしょうか。

 ひと手間をかける。日本料理の繊細な美味しさは、この努力抜きには出来ません。逆に夫の料理は大雑把。でも、その大雑把さがダイナミックな料理につながります。私はそのダイナミックな料理が大好きです。ですので、「ひと手間」を夫に望むのは酷と考えるべきでしょう。でも、スープに氷はたとえ子供の食事とはいえ、手間を省き過ぎではないかーと私は思うのです。

 手間をかけない。これは、合理性を尊ぶアメリカ人の夫の行動のすべてにつながります。たとえば、リンゴの切り方。シンプルに真っ二つに切って、芯をのぞくことはしません。芯の部分を避けて、つまり、外側から3分の1のところにナイフを入れます。そして、桃。皮はむきません。夫に桃を切ってもらった子供たちは、「皮に毛があって嫌だ」と言います。それは、そうでしょう。桃は皮をむいて食べるものなんです。

 何もしない夫を持つ妻たちには、「やってくれるだけ良い。文句を言うなんて贅沢」と言われるかもしれません。また、寛容な妻たちは「熱いスープを冷まして子供に出してくれるなんて、気の利く夫ね。氷を入れると味も薄まるし、一石二鳥じゃない?」と言うかもしれません。ですので、私は、ここで立ち止まって考えます。

 今止めなければ将来、娘や息子が自分の子供のスープに氷を入れてしまうようになるー。だから、止めてもらうよう夫に頼むべきではないか。でも、食事を作ってくれる夫に、こんな些細なことで文句を言うは正しくないのではないかー。心の中で、そんなせめぎ合いをしています。

 日曜日は結局、言えませんでした。子供たちが食べ始める前に氷がスープの中で溶けるよう、ただただ、念じていました。
 

 
 

2016年1月11日月曜日

銀座の雑踏

 気持ちが沈んだとき、人通りの多い場所に行きます。雑踏を眺めながら、自分の抱えているものなど、小さなことなのだと思うようにします。昨日の日曜日、所用で久しぶりに1人で銀座に行き、銀座三越の前にあるドトールでコーヒーを飲みながら、人混みを眺めました。昨日は沈んでいたわけではありません。気持ちを奮い立たせたころを、懐かしく思い出していたのです。

 銀座は、私がよく入院していた築地の国立がん研究センターにほど近い場所にあります。電車で2駅隣り、タクシーですと、10分もかからない場所です。
 治療の見通しがたたなかったり、検査の結果が悪かったり、でも、外出許可は下りるー。そんなときは、がん研究センターの前でタクシーをひろい、銀座に行きました。三越の周りを歩き、カツラだったり、顔が風船のようにむくんでいたりする自分の姿を、三越のショーウインドーにうつして、「悪くないよ。大丈夫だよ」と自分を励ましました。

 そのあとは、いつも、三越の斜め向かいにあるドトールのテラス席で、コーヒーを飲みました。行き交う人々を見ながら、「皆、それぞれに何かを抱えているのだ。私だけでないのだ」と自身に言い聞かせました。そうやって、1、2時間をつぶして、病室に戻りました。

 昨日は、8丁目までぶらぶらと歩きました。すがすがしい気分でした。絶望的な気持ちから、こうやって、這い上がることが出来る。生きることのすばらしさ、生きられることの幸せをかみしめました。
                

大掃除

 3学期が始まる前日の6日、息子の通う幼稚園の大掃除がありました。母親たちが集まり、隅々まできれいにしました。子供が1日過ごす場所の掃除ともなると、皆真剣。私はトイレを担当し、子供たちが使う小さな便器や手洗い場などをきれいにしました。

 さて、この大掃除を前に、ママ友達に「軍手忘れないでね」と声をかけられました。冬休みに入る前のことです。私は「大掃除=軍手」を頭の中にしっかりと刻みました。自宅を探しても見当たらないので、前日に近所のスーパーへ。そこの軍手の色が気に入らなかった(いつもの、まあいいや、にはなりませんでした)ので、コンビニエンスストアへ。そこで、やっと”気に入った”軍手を見つけて、108円で購入しました。

 そして、当日。ここで軍手を忘れれば、私はボケの始まりを疑うでしょうが、忘れませんでした。しっかりとバッグに入れて、幼稚園へ。しかし、園内に入るなり、私はママさんたちの姿を見て愕然としました。スリッパ、エプロン、ゴム手袋などその他に必要なものを全部、忘れていたのです。最近、こういうことが増えました。何かを忘れないように気を付けると、他を忘れることが・・・。

 「また、やっちゃった」と思いましたが、やはり、ここは年の功。臨機応変?に対応します。スリッパは幼稚園のものを借り、ゴム手袋は「先生、貸してください!」。こういうときは、恥ずかしがらず、「軍手のことばかり考えて、他を全部忘れてしまいました」と笑いを交えて、大声で頼むのがコツ。

 この大掃除は、娘が通っていたときもありました。私の体調が悪く、夫に会社を休んで行ってもらったときも。先生方からは、「高い所を軽々と掃除してくださって、助かりました!」と声をかけられたことを懐かしく、思い出します。

 娘の友達のママに、元客室業務員の方がいました。その方はほれぼれするような美しい姿勢で、丁寧に掃除をしていました。ああ、客室業務員になる人は、容姿だけでなく、掃除する姿まで美しいのだと感心したのを覚えています。このように、大掃除の日も懐かしい思い出となるのが、親の関わりが多い幼稚園の良さです。

 今回は、ママさんたちのエプロンが目に入りました。先日、娘の学校のバザーで撮ってもらった自分のエプロン姿の写真を見て、心のアラームが鳴ったからです。エプロンの上からでも分かる、ウエスト周りのぜい肉。ひもを後ろで結ばずに、前のお腹の下のほうで結んでいたので、さらに太いウエストが強調されていました。何気ない姿が、年老いて見える年代。学校関連の手伝いが多い中、エプロンの着用の仕方も気を付けるべし!と気を引き締めたのです。

 幼稚園のママさんたちのエプロンは、形がスッキリとしていました。ひもを結ばない、首の後ろで止めるタイプ。ハリのある生地で出来ているため、体系が目立たないタイプ。実用的でありながらも、少し凝ったエプロン。若いママさんたちは、こういうところでもお洒落をするのだな(意識はしていないかもしれませんが、お洒落に見える)、と参考になりました。

 さて、トイレ担当に手を挙げた私。もう1人のママさんと、おしゃべりしながら約1時間、換気扇や窓、床、トイレのドアなど隅々まできれいにしました。便器は小さな洋式のものが3つ、男の子用のが3つ。男子用の便器を掃除するのは生まれて初めてです。うちの息子はちゃんとおしっこ出来ているかなと楽しく想像しながら、心を込めて掃除しました。

2016年1月10日日曜日

一姫二太郎 ②

 「今日からジョギングをすることにしたの」。5日の朝、部屋から出てきた娘がそう決意表明しました。私は三日坊主ですが、娘はその上をいく”一日坊主”。発想は良くても、続かない人間です。が、何かを着想すると、それなりに形にしてしまうのが娘のすごいところなので、この日も「あら、そう。頑張ってね」と聞き流す、いいえ、気持ち良く送り出すことにしました。

 部屋から出てきた姿は、まるで本物のランナー。手持ちの服で、自分がイメージする装いが出来てしまうところも、娘の才能?の一つです。 上はGAPのトレーナー、下は派手な色のスパッツにシンプルな短パンを重ね着しています。髪は長いのですが、野球帽を目深にかぶっているので、いかにも運動が得意な女子という雰囲気(本当は違うのですが・・・)を醸し出しています。娘は張り切って、外に出ていきました。

 娘が出て行ったところで、前日娘の部屋で発見した”弟育てのリスト”を見に行くことにしました。

 「はなまるあげる」のリストは、
①ひとの物をひろってあげる 
②ごみをすててあげる
③言うことを聞く
④おかたづけをてつだう・・・

と続きます。掃除や食器洗いなど、実際のお手伝いはリストの最後のほう。最初のほうは、どう考えても、
①おねぇねぇの物をひろってあげる
②おねぇねぇのごみをすててあげる
③おねぇねぇの言うことを聞く
④おねぇねぇのおかたづけをてつだう・・・
です。道理で最近、息子が頻繁にキッチンのゴミ箱にゴミを捨てに来るはずです。


「はなまるとる」のリストは、
①けんか
②ける
③パンチ
④かむ・・・
と、娘が弟の行動で手を焼いているリストです。

 次に、花まるのポイント表を見てみました。表は、横16マスで縦9マス。「ポイントがたまったら、パーティを開いてあげるからね」と弟を励ましていますが、つまり、息子は144ポイントも貯めなければ、パーティを開いてもらえないのです。世の中にポイントカードは氾濫していますが、これほど還元率の悪いポイントカードはないでしょう。

 花まるといつ開くか分からないパーティで釣りつつ、弟を懐柔する娘。でも、一応それは、息子の躾になっているので、母親としては続けてほしいところです。

 次に花まるのポイント表の横にある、表を見ました。

 「今しっている」

1+1=、2+2=、3+3=、4+4=、5+5=

 「新しい 12/27/2015」

6+6=12、7+7=14、8+8=16、9+9=18、10+10=20

 「ふーん」と私は少し、感心しました。たとえ、丸暗記のようなものであっても、一応は弟の”学習”の到達度を把握し、少しだけ難しいところに目標を設定して、勉強させている。開始日を忘れないための日付も付けています。

 「花まる表」、どうぞ、1日で終わりませんように。

 
 

一姫二太郎

 今年の一番の目標は、「子供たちと遊ぶこと」です。実は私、子供の世話は好きなのですが、子供と遊ぶのがあまり得意ではないからです。具体的に言うと、子供の好きそうな工作用品や遊び道具などをそろえる労力は惜しまないのですが、「いろいろそろえたから、あとは自分で遊んでね」というタイプ。で、それでは駄目だろうと反省し、今年は少し遊ぶ努力をしようと決意したのです。

 まず、三が日が明けて夫が出社した4日、3人分のお弁当を詰めて、サッカーボールを持って近くの公園へ行くことにしました。お天気も良く、子供と遊ぶのには最適の日です。

 その公園には、広いグラウンドがいくつかあります。地域の子供たちが学校帰りに遊んだり、週末親子で運動をしたりする場所です。この日もサッカーボールをける子供たちや、野球のボールを投げ合う子供たちがいました。

 さて、グラウンドの横にあるベンチでお弁当を食べ終わると娘が、弟は少し太り気味なので、まずはグラウンドを走ってくると言います。姉に従順な息子は、素直に従います。2人はかなり広いグラウンドを3周します。11歳の娘には何でもないでしょうが、4歳の息子には結構たいへんそうです。が、息子はへとへとになりながらも、ついていきます。子供と3人で穏やかに遊ぶ予定が、何やら、違う展開になってきました。

 次に、2人でサッカーボールをけり始めます。何となく、ママが不要なようなので、私は傍観します。しばらくすると、グラウンドの横で、足し算を始めました。

 「2+2は」と娘が聞くと、息子は「4!」と答えます。
 「すごいね。じゃあ、4+4は?」。息子は「8!」と大声で答えます。足し算の概念は分からず、ただ、語呂で覚えさせられているのは明らかです。
 私は思わず、口を出します。「グラウンドは勉強する場じゃなくて、遊ぶ場でしょ。ボールでもけりなさい」。
 「ママ、私はね、弟には私のようになってほしくないの! 計算が得意で頭が良い子になってほしいの。だから、今から鍛えているの!」
 説得力のある言葉に、私は「そう」とだけ言い、ベンチに引き下がり、再び傍観者になります。結局、ベンチで見ているのも寒いので、子供たちをせかせて帰ることに。

 帰宅後、娘の”スパルタ教育”は続きます。
 「では、次はお手伝いです」
 「はい!」と直立して答える息子。さながら、どこかの訓練所の様相です。

 息子は小型の掃除機を使い、階段やダイニングなど、ほこりが目立つところをビュンビュンと掃除していきます。
 私はここでも、傍観者です。「弟ばかりにやらせないで、あなたが少しお手伝いしなさい」という言葉を飲み込みます。「まあ、家がきれいになるなら、いいや」とつい、自分に有利な判断をしてしまいます。

 そして、かいがいしく働く息子を見ながら、「きっと、この子は掃除も料理も出来る男子に育って、何も出来ないお嫁さんをもらうんだろうな」とぼんやりと将来を想像します。

 娘は弟にハッパを掛けます。「いい? 花丸がたまったら、パーティするから、頑張って!」
 「花丸?」「パーティ?」。聞き慣れない言葉に、私は反応しました。企みを暴くため、娘の部屋に行きました。
 すると、なんと部屋の壁には、弟育てのための、一覧表が貼られていたのです。何をしたら花丸がもらえるかというリストと、花丸をつけるポイント表が・・・。

 私は娘に聞きました。「で、パーティって?」
 「私の手作りクッキーを、素敵に飾ったテーブルで、家族で食べるの!」
 「・・・」。

 息子はそのためだけに、あの”苦行”に耐えている。いや、おそらく、何の疑問も抱かず従っているのです。

 昔から言われている、「一姫二太郎」。あれは、当たっています。
 
 
 

2016年1月8日金曜日

お正月に思う

 年末年始は例年通り、東京で過ごしました。元旦は近所の神社に初詣で。「日本に住んで14年になるけど、一度も大吉のおみくじを引いたことがない」とお正月早々文句を言っていたアメリカ人の夫は、生涯で初めて「大吉」を引き、大満足です。私は「末吉」。こういう”控え目な運”は、何より私が望むところで、私も気分良く2016年をスタートさせました。

 お正月に楽しみなのは、年賀状です。日頃、ご無沙汰をしている人の近況を知ることもできるし、友人たちの変わらない字を見ていると、ほっとします。また、子供の成長を写真で見ることも楽しみの一つです。

 今年は、息子の幼稚園のお友達(のママ)からの年賀状の加わりました。多くが、写真屋さんで作ったであろう、厚手の写真入り年賀状です。

 その中の1枚に、ひときわ目を引く年賀状がありました。スタジオで撮影したと思われる美しい写真。その中のママは、輝くばかりの若さと美しさです。

 そのママ友達の写真をまじまじと見ていると、夫に申し訳ないなという気持ちがふつふつとわいてきました。彼女のご主人は夫と同年代。夫も、彼女のような若い女性と結婚したら、幸せだったのではないだろうか?と思ったのです。ママ友達のご主人がぐんと年上だと、なぜかいつも私はこう考えるのです。「こんなに若い奥さんがいて、ご主人は幸せだろうなぁ」と。

 翻って私について客観的に評価してみます。病弱だけれども若くて美しい専業主婦の妻なら絵になるでしょう。が、バリバリと(しなやかに、でも良いですが)仕事をしているわけでもなく、病弱で年上の専業主婦の妻なんて、「使えないよなぁ」と思わず、自分に突っ込みを入れたくなります。
 やはり、年上の妻は健康でガンガン稼いでいる、もしくは才能に満ち溢れている、ぐらいでないと収まりが悪いでしょう。

   仕事と健康。自分を支えてきたこの太い柱を2本なくしてしまって久しいのですが、私はまだそのような自分に慣れていません。仕事を持たない自分を、全く評価できないーと言ったほうが正しいかもしれません。そういう自分を情けなく感じているのです。私は男女雇用機会均等法第一世代。男性に伍して働くことを「是」とし、「仕事と家庭の両立」が可能になった時代を生きていたにも関わらず、そうでなくなった自分をまだ、受け入れられないのです。

  と、いつもの堂々巡りの思考回路に陥っているので、気持ちを切り替えることにしました。

 「ねえ、この写真素敵だと思わない?」
 と娘に見せてみました。
  娘は「うん。バランスが取れているね」と大人びた答え。
 「それって、家族がバランス良く写真に配置されているってこと?」
 「ううん。ママが若くて、バランスが良いってこと」
 「うーん」。私は娘の表現に思わず、うなりました。そうか、母親が若いと、家族構成のバランスが良く見えるんだと、新たな(当たり前の?)視点を示されたような気持ちになりました。

  私は、ママ友達宛てに作った年賀状の家族写真をもう一度、確認しました。私の顔は米粒大の大きさです。これなら目にも留まらないから大丈夫と安堵しつつ、そんな些細なことに気を留めてしまう自分に、苦笑しました。

 

 

2016年1月1日金曜日

2015年 叶った夢

 あと40分で、2015年が終わろうとしています。「2015年 私の挑戦」5稿を書き終えた勢いで、「2015年 叶った夢」を書きたいと思います。

 今年は良い年でした。「私の挑戦」にも書いたように、たくさんの新しいことに挑戦できました。そして、いくつかの夢も叶いました。念願のポール・マッカトニーのコンサートに行ったこと、、ハンドベルサークルに入ったこと、そして、何と言っても、ピアノを購入して映画「カサブランカ」の主題歌「As Time Goes By(邦題・時のたつまま)」を弾きながら歌ったことです。

 ピアノを買うことは、ずっと前からの夢でした。が、子供たちの楽器(ヴァイオリン)を優先してきたために、母親の私の夢は二の次でした。おそらく、どこの家庭でも”親の夢”は二の次なのだと思います。が、今年に入り、子供たちがピアノに興味を持ち出し、音階の基礎練習にも使えるという理由が出てきたのです。で、考えに考え抜いてスペースを作り、電子ピアノを買うことにしました。

 ピアノで「As Time Goes By」を弾きながら歌うことが夢なので、そのためにピアノを基礎から習う忍耐力は持ち合わせていません。子供のころエレクトーンを習っていましたが(昔あれほどブームだったのに、今はどこに行ったのでしょう?)、エレクトーンとピアノは別物。楽譜は一応読めますが、楽譜を買えば弾けるようになるまでかなり時間がかかるでしょう。そのため、一番分かりやすいハ長調で、あれこれコードを試し、何となく恰好をつけて伴奏を完成させました。ネットで歌詞を拾いました。そして、遂に、念願の、自分のピアノ伴奏に合わせて歌うことが出来たのです。

 「You must remember this
    A kiss is just a kiss
    A sigh is just a sigh
    The fundamental things apply
   As time goes by・・・」

 白黒の映画のシーン。「歌ってよ、サム」と、バーでピアノの弾き語りをする黒人男性に思い出の、この歌をねだる、美しいイングリッド・バーグマン。ラストシーンで、愛する女性を救うため、自らを犠牲し恋敵にその女性をゆだねるハンフリー・ボガード・・・。昔見た映画を思い出しながら、私は何度も気持ち良く、歌いました。

 ふと後ろに視線を感じ、我に返りました。振り返ってみると、夫がニコニコしながら私をビデオに撮っていました。