2024年9月30日月曜日

休みの日には

  週末の文化祭の振替で、翌週の火曜日(月曜日は敬老の日で祝日でした)は息子の学校はありませんでした。こういう日は夫と私のいずれかが家にいることにしています。息子を家に一人にしておくと、終日パソコンでゲームをしていますので、どちらかが家にいてメリハリのある過ごし方をさせるように心掛けているのです。

 もちろん、息子は中1ですので、終日見張っているわけではなく、「勉強しなさい」というわけでもないのですが、「もうそろそろ、ゲームはやめなさい」「スーパーに一緒に買い物に行こう」「宿題はやったの?」「昼ご飯を一緒に作る?」などの声がけをするようにしています。 

 夫婦間で予定を調整し、その日は私が家にいることにしました。午前中早めの時間は息子と私の両方がダイニングテーブルでパソコンを広げて、それぞれやるべきことをしました。ひと区切りついたところで、息子に「ママ、キャラメル・ウォルナットタルトの作り方教えてくれる?」と言われたので、教えることに。これは私が家族のためによく作るお菓子で、子どもたちが大好きなのです。たまたま、材料も買ってありました。

 キャラメルはバターと砂糖を中火で溶かし、生クリームを加えて作ります。ポイントは加える生クリームの量をほんの少しずつにして、しっかりかき混ぜること。そうすれば、キャラメルが固まらずに、とろりとした状態でざく切りしたウォルナットを入れたクッキーの型に流し込むことが出来るのです。

 息子は私に言われた通りに、少しずつ生クリームを加え、ひたすら混ぜていきます。こういう根気のいることを出来るということは、やっぱり料理好きなのですね。

タルトにキャラメルを流し込む息子

 

焼き上がったタルト

 タルトをオーブンに入れた後、息子に「お昼ご飯は何食べたい?」と聞いてみました。「ケンタッキーかインドカレーのテイクアウトはどう?」と提案すると、息子はしばし考えて、「僕が作るよ」。

 ケンタッキーのフライドチキンやチキンフィレサンド、インドカレーのテイクアウトより、自分で作るほうを選ぶなんて、やっぱり息子は料理好きなんだなぁと改めて思いました。

 使いかけのニラやシイタケ、タマネギ、ベーコンがありましたし、炊飯器にはご飯も十分あったので、「オムライス」を提案しました。息子は「いいね!」と言い、早速、材料を切り始めました。

 みじん切りしたタマネギをサラダオイルを敷いたフライパンで炒め、その他の野菜やベーコンを切っていきます。それらをタマネギに加えてさらに炒め、ご飯を入れて混ぜ合わせてケチャップを入れます。塩コショウで味を調えて、お皿に。その流れがとてもスムーズで、見ていて気持ちがいい。

ケチャップご飯を炒める息子

 「ママ、薄い卵焼き作るの面倒だから、このままでいい?」と息子。

「もちろん! ケチャップご飯はそれだけでも美味しいから」と私。こうして、息子の作ったランチを美味しくいただいたのでした。


2024年9月29日日曜日

文化祭

  中1の息子の学校で「文化祭」が開かれました。最近、めっきり口数が少なくなってきた息子ですが、学校では友人たちと仲良くしている姿が見られ、ほっとしました。

 息子の学校は同じ学年に日本語で学ぶクラスと英語で学ぶクラスが併存する、ユニークな学校です。息子の学年は、日本語のクラスが3つ、英語のクラスが1つ。日本語のクラスは毎年クラス替えがあり、息子のクラスは高校3年生まで6年間一緒です。

 2022年に完成したという新校舎は都心にある12階建てのビルで、1階から6階までが息子の学校が、7階から10階までがインターナショナルスクール、11階が息子の学校とインターが共用する体育館、12階が屋上のフィールド(サッカーなどが出来る)です。

 娘の通っていた横浜・元町のインターにはグラウンドがなく、校舎の屋上と体育館で運動をすることになっていました。ですので、息子にはグラウンドで伸び伸び走り回らせたいーと願って中学受験をさせたのですが、唯一合格をいただいたのが都心にあるビルの中に入った学校という、何とも皮肉な結果に。でも、息子は毎朝自分で起きて、時間通り(7時ごろ)に家を出て、バスケ部での活動も楽しそうなので、こちらに合格をいただけて良かったと今は思っています。

 さて、文化祭です。子どもたちはそれは生き生きとしていて、紅茶と焼き菓子が食べられる「アリスの不思議な国」、タイムマシンに乗って未来に行きAIからの質問に答えを出していく「タイム・トラベラー」、迷路を舞台にした脱出ゲーム「インディアナ・ジョーンズ」、など様々なユニークなテーマがありました。もちろん、文化祭と言えば昔からある「お化け屋敷」も。体育館では吹奏楽部や軽音楽部の演奏も行われました。

 炒飯と餃子が食べられる中華料理店や、ワッフルとコーラが楽しめるアメリカの店、自分でカスタマイズできるシューアイスの店など、食べ物も充実していました。子どもたちはお揃いのTシャツを着たり、女子は浴衣を着たり、と楽しそう。皆の顔が生き生きとしていて、元気いっぱいで、私と夫も安心したのでした。

 娘が通っていたインターとの違いは、販売している食べ物の価格です。国からの助成がないインターでは親が支払う授業料で全てが賄われます。ですので、教材や運動用具、楽器などはバザーの収益で賄われます。そのため、バザーなどで提供される食べ物が、割高。でも、息子の学校は普通の私立学校ですので、ワッフルセット(ドリンク付き)が300円、炒飯が350円、焼きそばが250円、フランクフルトが100円と子どもたちがお小遣いで楽しめる価格。そこがいいな、とも思いました。

 何より、息子がお友達と食べ物を一緒に食べたり、笑ったりしているのを見られたのが良かった。息子が歩いていると横に何人かの男子が来て、息子の肩に腕を回して楽しそうにおしゃべりしている様子を後ろから眺めながら、「この学校にご縁をいただけて、良かった」と心から思ったのでした。

1980年代のアメリカを再現した店。ワッフルとコーラが美味しかった
学校が中華料理店に?テーブルも本格的です

こういうの、今風ですね。生徒の自主性を尊重した学校もなかなか良いです


2024年9月28日土曜日

アサガオやっと咲く

  相変わらず慌ただしい日々を送っています。毎日、ブログで報告したいことがあるのですが、朝起きて息子のお弁当を作り、朝食を食べさせ、身支度をして家を出て電車に乗って研究室に行き(週4日)、帰宅して夕ご飯を作って、洗濯物を取り込み、夕ご飯を食べて、片付けて、洗濯をして、パソコンでゲーム三昧の息子にお風呂に入って歯を磨くよう口うるさく言い、パソコンとスマホを取り上げ、化粧を落としてお風呂に入ったら、もう寝たくなってしまいます。

 そうしているうちに、あらら、あっという間に前回のブログから1週間も経ってしまいました。順不同になりますが、今日から頑張って報告します!

 まずは、最近、とっても嬉しかったことから。毎年たくさん咲いていたアサガオが今年はさっぱり咲かず、残念に思っていたのですが、ようやくこの1週間ほど毎日小さな花を咲かせてくれています。

 アサガオは息子が小学校1年生のときに学校で育て、秋に持ち帰ってきた種を翌年から毎年植えています。春に息子と一緒に玄関前の花壇に植え、夏に花を楽しみ、秋にはまた種を採り、茎を乾燥させてリースを作ります。口数が少なくなっている息子もアサガオの種を植えることは一緒にしてくれます。

 例年、花壇に2本の支柱を立て、1本の支柱につき3、4つの種を植えていたのですが、今年はもっと沢山の花を見たいと10個ぐらい植えたのです。そうしたら、なんと、葉がぼうぼうに茂って、夏は花がほとんど咲きませんでした。6年間植えていますが、こんなことは始めてでした。

 で、思い切って、葉や茎をかなり間引きし、様子を見てました。が、まったく咲かず。もう今年は諦めようと思っていたら、なんと、青い小さな花が咲き始めたのです。例年よりかなり小ぶりですが、可愛らしい。

「今年は沢山、植えちゃったからだね。来年はまたいつものように少しだけにしよう」と息子。やっぱり、欲張っちゃダメなんですね。 



 

2024年9月22日日曜日

熱海温泉へ

  敬老の日、86歳の母を熱海の日帰り温泉に連れていきました。母は「いつもテレビで見ていて、行きたいなぁと思っていた。嬉しい!」と思いのほか喜んでくれ、ランチを含めて半日の滞在でしたが、夫や中1の息子も楽しんだ良い日となりました。

 母は新型コロナウイルスの感染者が国内で初めて確認された半年前の2019年夏に東京に引っ越してきました。当時81歳だった母にとって、住み慣れた土地を離れるのは大きな決断だったと思います。

 東京での暮らしに少し慣れたころにウイルスの感染が拡大し、不要不急の外出が制限されました。私は、母をこちらに呼んで正解だったと胸を撫でおろしました。息子も小学生でしたし、私の病気の一つがウイルスにより再燃する恐れがあり飛行機による移動での感染が心配だったことから、札幌への帰省は難しかったからです。

 コロナ禍が収まりつつあった2022年8月、母が東京に引っ越して3年後に札幌の家を手放しました。この間の3年間、母もいろいろと考えたと思います。が、私と一緒に日帰りで札幌に戻り、家の売却手続きをしたときはもう、札幌や自分の家への未練は一切ありませんでした。とにかく、自分がまだ元気なうちに、片付けられるものは自分の手で片付けることが出来て良かったという安堵感に満ちていました。

 その1年半後の今年3月末、再び日帰りで一緒に札幌に行きました。父の遺骨を納めていた納骨堂をお寺に返し、遺骨を東京に持ってくるためです。すべての手続きを終え、母の気がかりだったことはすべて片付け、骨壺を大きなバッグに入れて母が大好きだった「かに本家」というかに専門店で食事をしたときは、母は晴れ晴れとした表情をしていました。

 そんな母の持ち物は2DKの賃貸マンションにすっきりと収まり、母は娘家族の家から徒歩5分のその住まいを“終の棲家”として、快適に暮らしています。体のあちこちに不具合がありますが、「年だから仕方ない」と割り切っているようです。

 さて、熱海の温泉です。海と一対化したような露天風呂につかりながら、母は思い出話をたくさん聞かせてくれました。ほとんどが、お姉さん6人とあちこちを旅行した思い出です。母たちは道内だけでなく、九州や沖縄、ハワイにも足を延ばしています。熱海にも来たそうです。

 母と伯母たちは1カ月に一度、それぞれの家に集まる「姉妹会」を開いていました。7人分の料理を準備するのは大変だったと思いますが、母にとっても伯母たちにとっても月に一度集まり、それぞれが腕によりをかけて作ったお料理を食べながら夕方までおしゃべりをするのは何よりの楽しみだったと思います。その姉妹会のときに旅行代として一人5千円を積み立てたそうです。お金の管理はしっかり者のフミコ伯母の担当。旅行の計画は一番若い母の担当だったそうです。

 「皆、すごいお金持ちでも、貧しくもなくて、同じぐらいの暮らしぶりだった。当時のひと月5千円の積み立ては結構な額だったけど、皆がそれを出来て、お金が貯まったら旅行に行けて幸せだった」と母。

 ツアーに参加し、他のツアー客も一緒の夕食会で7人が揃って挨拶したときは皆に驚かれたといいます。一番上のトシコ伯母が「私が一番上です」とあいさつ。そして順番に一言ずつ挨拶し、姉妹であちこちを旅行していると話をすると、皆から大きな拍手が起こったそう。そんな話を嬉しそうに母は語ります。

 赤ちゃんのころ養女に出されたもう一人の姉が何度か参加し「私も皆と一緒に育てられたかった」と大泣きしたこと、姉たちが少しずつ記憶力が落ちてきて「指輪がない!」と大騒ぎになって敷いたばかりの布団を皆でひっくり返して探したこと、一番上の姉からだんだん歩くことが難しくなっていったこと…。そんな切ない話にもなり、「皆、死んでしまって…。思い出話をする人もいなくなってしまった」と母は涙ぐみます。「まぁ、私が一番下だからね。仕方ないんだけど」とも。

 母の話を聞きながら、人の晩年は、人生で何を成しえたか、何を所有したかではなく、どれだけ楽しかった思い出を持てたかが大切になるのだなぁと思いました。母には、今回の熱海の日帰り温泉も楽しかった思い出として折々に振り返ってほしい。改めて、母が元気なうちに、こうした思い出をこれからも作っていきたいと思ったのでした。

温泉の休憩所から見える風景




2024年9月18日水曜日

諦めないこと

  先週の土曜日、新聞記者時代にお世話になったFさんに何年かぶりに会いました。Fさんは元西日本新聞記者で、現在は福岡で地元女性議員を増やすための活動をしています。今回、女性議員が多い東京都内の区議会を視察しにいらして、私に会う時間を作ってくださいました。

 Fさんとの出会いは20年以上も前に遡ります。Fさんと私は同じ記者クラブに詰めており、国会、政党、政治家や官僚への取材を一緒にし、取材手法や記事の書き方など、たくさん学ばせてもらいました。私ががんの治療で2ヶ月近く休んだときも、親身になって助けてくださいました。私が新聞社を退職した後も、親しくさせていただいています。

 コロナ禍の数年間は電話やズームでお話ししていましたが、今回、ようやくお会いできてとても嬉しかった。

 Fさんと話をしていると、現在の自分の無意識の行動が、実は新聞記者時代に培ったものだと気付かされます。仕事上で、その分野の専門家から「それは無理です。お金を払って専門家に頼んだほうが良い」と言われ奮起して、本を読んだり、無料相談を活用したりしてやり切った話をしたところ、Fさんが大笑い。

「その人、禁句を言ってしまったんだね。『あなたには無理』なんて」

「あははっ、確かに。私、無理とかダメとか言われると俄然やる気が出てしまう」

「それって、やっぱり記者やっていたからでしょう。私も、若い人が取材を断られたってしょげていたら、何言っているの!そこがスタートでしょうと発破をかけるもの」

「そうですよね。断られたところから取材が始まる」

  Fさんの指摘で、実は自分では自分自身のことを分かっているようで分かっていなかったことに気付きました。私は諦めが悪く、可能性がゼロでない限り何か方法はあるはずと思うタイプ。でも、単に諦めが悪いのではなく、「あなたには無理」「それは不可能」と人に突き放されたことで、逆に体の奥底からマグマのようなエネルギーが出てきて、そのエネルギーで猪突猛進することが多かった。普段はネガティブに考えがちだし、塞いでいることも多いのですが…。

 抗がん剤治療前に凍結した受精卵をがん克服後の7年後に子宮に戻して46歳で出産に至ったときもそうでした。45歳のときに不妊治療のクリニックの受付の女性から「こちらのクリニックでは治療は45歳までです。たとえご自身の受精卵でももう治療はできません。他のクリニックを探してください」と肩たたきにあいました。そこで奮起し、私の病歴から治療をしぶっていた院長先生に頼み込んで、子宮に戻してもらった。で、生まれたのが今中1の息子です。私が諦めのよい性格だったら、息子はこの世にいなかった。

 自著も、大手出版社のノンフィクション賞の最終候補に残り出版の予定で話は進んでいたのですが、突如担当編集者から「売れないという声が社内から上がったため、今回は断念させていただきます」と言われ奮起。自分で出版社を作って会社として登記し、編集も校閲も組版もデザインも印刷もすべて外注に出して、出版にこぎ着けたのでした。現在は2冊目出版に向け取材中です。

 軽井沢の家も、不動産屋さんの担当者に高飛車に「軽井沢で家を買うなら、3千万円はご準備いただかないと」と言われ奮起し、あちこち不動産屋さんを回り、「我々の仕事はお客様のご予算内で良い物件を見つけることです」という真っ当な不動産屋さんに出会い、ずっと安い価格で購入出来たのでした。

 現在通う博士課程も「あなたは医学のバックグラウンドがないし、年だから無理」と最初に目指した講座の教授に言われましたが、別の講座に出願。合格をいただきましたが、その指導教員からアカデミックハラスメントにあい一時は退学も検討。が、針の穴のような僅かな可能性を見つけ、何とか切り抜け、現在は別の教授の下、研究を進めています。大学としての責任からか私を引き受けざるを得なかった現在の教授も含めてアカデミアの世界ではずいぶん疎まれていますが、なんとか3年目まで来て、来年度博士論文提出の目途が立ちそうです。博士号を私に授与するかしないかは大学側が決めることで私の力の及ばないところ。ですので、目指せ!博論提出!です。 

 Fさんも女性議員を増やして女性の声を政治に反映させようと頑張っていらっしゃる。それも、地方から変えていこうという果敢な取り組み。地方は旧態依然とした体制も残り、高い壁が立ちはだかっていると思いますが、しなやかに、そして精力的に活動していらっしゃる。現在の女性の社会進出は、かつての諦めなかった女性たちやFさんのような力のある女性が切り開いてくれた道の上にあるのです。

 諦めずに、自分が出来ることをコツコツとやるー。自分の限界は人が決めるのではなく、自分が決めるー。定年退職後もより良い社会実現のため活動を継続されているFさんを目標に、私も微力ながら社会の役に立つよう頑張るぞ!と思ったのでした。

 

Fさんと行ったフランス料理店のメインディッシュ。白身魚のパイ包み

2024年9月14日土曜日

恐山への旅計画

 来年の3月に亡父の13回忌を迎えるに当たり、霊を降ろすと言われる青森県のイタコに会いに行くことにしました。8月中旬に仲介者のメールでイタコの連絡先を教えていただき、先日直接お電話をして日時を決めました。

 今日、宿泊先も決めました。恐山にある曹洞宗菩提寺の宿坊です。恐山はイタコが死者の魂をこの世に降ろし、その言葉を伝える「口寄せ」を行う場所。私がイタコに会うのはご自宅ですが、青森県では昔から「人は死ぬと、恐山に行く」と信じられており、その恐山に行きたいと思ったからです。

 恐山について調べているうちに、菩提寺のお坊さんには何冊もの著書があることを知りました。まずは3冊購入し、読んでいくと、心にすっと染み入っていくとても良い本でした。そのお坊さんの法話を聞くことは出来ないだろうか?と調べているうちに、その宿坊にたどり着きました。著書の中で、そのお坊さんが宿坊に宿泊された人と話をしたと書いてあったのです。

 宿坊に電話をしました。女性が電話口に出ました。宿泊したい日を伝えました。

「何人でいらっしゃいますか?」

「一人です」

「では、相部屋をお願いします」

「はぁ、あの、できれば一人でお願いしたいのですが」

「こちらに宿泊される方には皆さんに相部屋をお願いしています」

「はぁ、そうですか。分かりました。そちらでは、お坊さんの法話があると聞いたのですが」

「それは分かりません。法話があるときもありますし、ないときもあります。その日によります」

「そうですか」

「ご供養はなさいますか?」

「はい」

「翌日の朝6時半に”おつとめ”がありますので、それには参加していただきます。ご供養の時間は午前11時か午後2時。それは来ていただいたときにご予約ください」

「”おつとめ”ですか?」

「はい」

「あの…、私そちらには行ったことがないので教えていただきたいのですが、レンタカーを借りたほうが便利でしょうか?」

「それはお客様次第です。バスもありますので。バスは時間を調べてください。車でいらっしゃる場合は午後3時までこちらに入っていただきます。チェックイン時間は午後2時から4時です。10月は夕方は真っ暗になりますので、早めにいらしたほうがよろしいかと思います」

「あの…食事は?」

「ついています。値段は1泊2食で1万5千円です。カードは使えませんので、現金をご用意ください。キャンセルとなる場合は早めにご連絡ください。お待ちになっている方もいますので」

 これまで生きてきて、これほど事務的な応対をされたことはないなぁと思うほどに、冷たい応対でした。死者の魂が集まると言われる恐山のお寺に一人で泊まるのはそれなりに不安なもので、その不安がさらに増しました。でも、相部屋と聞いて最初は躊躇しましたが、逆に人が同じ部屋に眠っているほうがまだ不安ではないかも、とも思えてきました。

 そういえば、夫が「もし一人で行くのが不安なら、僕も行くよ!」と申し出てくれました。でも、丁重にお断りしました。イタコ、零場・恐山、お寺の宿坊…。夫が日本人なら一緒に行くと思いますが、申し訳ないけどアメリカ人とはなぁ、と思ったからです。この感覚、皆さん何となく分かっていただけますでしょうか?

 


 

 

 

2024年9月12日木曜日

母の涙

  先週金曜日のことです。珍しく、母からメッセージが届きました。母はとても自立した人で、「自分で動けるうちは娘には迷惑をかけない」という心掛けを徹底している人でよほどのことがない限り私に頼み事などの連絡がきません。家に様子を見に行ったり、電話したり、食事を誘ったりはいつも私から。その母が、とても落ち込んだ様子で私にメッセージを送ってきたのです。

 その内容は、娘と連絡が取れないという切羽詰まったものでした。

「全く通信が取れなくなってしまいました。こんなこと今まで一度もありません。どうしたのでしょう?何を怒っているのでしょう?聞いてもらえますか?」

 オーストラリアの大学に留学する娘は母にとっての初孫で、それは可愛がっていました。小さなころから手をかけ、留学してからもラインや電話でつながっていたよう。その娘とのラインはお盆過ぎから既読にならないというのです。

「最近、大学も忙しくて、お友達もたくさん出来たみたいだから、私たちにも連絡来ないよ」と返信し、すぐ電話をしました。電話口に出た母はさめざめと泣きます。そして、「こんな年になって、孫と断絶するなんて、私は悲しい!」と語気を強めます。ひとしきり慰めた後、電話を切り娘に電話をしました。娘は出ません。メッセージで「ばあち(小さなころから母をこう呼んでいます)に連絡してくれる?ラインがつながらないって悲しんでいるの」と送りました。

 夫からも電話やメッセージで連絡をしてもらいましたが、つながりません。息子からも連絡をしてもらいましたが、つながりません。母を慰めるため、土曜日の夕食に招待しましたが、「こんなに落ち込んでいるときに、一緒にご飯は食べたくない」と拒否されてしまいました。

 ようやく娘とつながったのが日曜日の午後。それも私や夫からの電話には出ませんが、息子からの電話にようやく応えてくれたのです。娘は寝ていました。息子の第一声は「おねぇねぇ、ばあちに電話してくれる?ばあち、おねぇねぇと連絡取れないから落ち込んでいるんだって」。そう言った後、息子が私に携帯電話を渡してくれました。

「あぁ、つながって良かった。全然、電話がつながらないから、心配していたよ。ばあちに、ほんの数行でいいからメッセージ送ってくれる?」

「うん」

 短く答え、娘は珍しくすぐ電話を切ってしまいました。とりあえず、つながって安心しました。しかし、その後も母には娘から連絡が行きませんでした。

 母をどう慰めようかと考え、母の大好きな「いくら」を持っていこうと思い付きました。夕方スーパーに行くと、なんと、北海道産の生筋子が半額になっています。早速購入して自宅に戻り、筋子を膜から丁寧に外して醤油と砂糖、みりんを混ぜ合わせたタレに漬けました。瓶に入れ替え、母の所へ。

 母は落ち込んでいました。何度も、自分と孫はとても仲良しだったこと、いつもラインでやり取りしていたこと、自分には連絡を絶たれるようなことを言った心当たりはないこと、を涙を流しながら話します。そして、連絡がないのは何か理由があるはずだと言ってききません。「あんた、何か言ったの?」と私を疑うコメントまで飛び出しました。母にとって、孫との交流が生きる支えだったのだなぁと改めて思いました。それと同時に、「これって、空の巣症候群(子どもが成長し独立することでヒナが巣立った後のような空虚感を覚えること)かもしれない」とも思いました。

 母には、娘からは誰にも連絡が来ないこと、大学が忙しいこと、今が青春だから家族と連絡を取らないのはよくある話だということ、を何度も説明しました。そして、娘が親友レイちゃんへのラインが2ヶ月既読にならずに悩み心配して、私がレイちゃんのお母さんに連絡をして、ようやくつながった話を聞かせました。

「親友からのラインすら2ヶ月間も見ないこともあるんだよ。レイちゃんはとっても落ち込むことがあって誰に限らずラインそのものを開かなかったんだって。だからさ、あまり気にしないで。悲しい気持ちは分かるけど」

 レイちゃんが娘に2ヶ月連絡を絶っていたという話で、ようやく、母の表情は明るくなりました。「分かったよ、じゃあ、気長に待ってみる」「そう、気長に待ってみて。そのうち、ケロリとして連絡来るよ」

 翌日月曜日の朝、母からメッセージが届きました。「夕食はおくら丼を用意していたら、いくらをいただいたのでいくら丼にしました。美味しかったです!棚からぼたもちですね」。冗談も出たので、ほっとひと安心です。

 それにしても、どうして電話が来ないんだろう?日曜日にようやくつながった時も寝ていて話したのはほん一瞬。もしかしたら、具合が悪いかもしれない、と不安が心をよぎります。夫も同じだったようです。月曜は夫・息子・私から何度も娘に電話をしメッセージを送りました。返信は来ません。

 不安なまま火曜日の朝を迎え、夫はまず娘がオーストラリアでお世話になっており時折お食事を一緒にさせていただいているIさんに連絡をしてみました。すると、なんと日曜日は夕ご飯にお邪魔するはずだったところ娘から電話があり体調が悪いのでとキャンセルになっというのです。

 夫は仰天し、寮に電話をし娘の安否確認を頼んだようです。寮の担当者は「メールで連絡してみます」という返答だったそうなのですが、夫が「メールで連絡取れないから、こうしてお願いしている」と説明し、担当者に娘の部屋に行ってもらったようです。が、ノックをしても応答はなかったということ。夫は鍵を開けて確認をしてほしいと頼んだようですが、それには書類へのサインなど厳格な手続きがあるようです。

 夫はもう一度Iさんに連絡をし、「ならば、警察に連絡をしてみましょう」ということになりました。私も心がざわざわし、「何で、オーストラリアに娘を送り出したのだろう。娘に得意なアートで人生を切り開いてほしかった。でも、日本の大学の教養学部で十分だったのに」と一旦は入学した娘を説得し、若いうちは失敗を恐れず自分の可能性を追求すべきだと背中を押したことを後悔し始めました。

 そして、父が亡くなったときのことを思い出しました。母から連絡があったときはすでに羽田空港発・新千歳空港行きの最終便は出発していて、まんじりともせずに翌朝を迎え、始発便で札幌に向かった日のこと。同じようにオーストラリアに行くのはもう耐えられない…とまで考えは飛躍します。

 心配が最高潮に達したタイミングで、母から電話が来ました。声が弾んでいます。「今、ラインが来たよ。忙しくて連絡できなくてごめんねって書いてあった」。私は胸を撫でおろしました。さっそく、娘に電話をしたら、出てくれました。

 娘に家族皆が心配していたこと、夫から寮に安否確認のお願いをしていること、お世話になっているIさんご夫婦がまさに警察に連絡をしようとしていること、を伝えました。娘は「ええっ? ばあちに2週間ぐらいは連絡していないけど、ママと日曜日に一瞬だけだけど電話で話したじゃん。2日間だよ、連絡取らなかったの」

「ダディがIさんに連絡したら、体調悪くて夕食キャンセルしたという話を聞いて、さらに日曜日の午後に電話でつながったのも一瞬だったし、寝ていたし。皆で心配していたの」

「ママ、まず寮に連絡する。それとダディに電話して警察への連絡もやめてもらう」と娘は言い、慌てて電話を切りました。

 その後、ゆっくりと娘と話すことが出来ました。娘によると、母からのラインは長いため、返信するときもきちんとした文章を送りたいため1時間ぐらいかかること、忙しい中それがとても負担だったため、しばらく返信出来なかったという説明を聞きました。その上に、息子からの電話も「ばあちに連絡して」というもので、私たちからの連絡も同じものだと考えて、メッセージを開くことも億劫になり出来なかったーということでした。

「分かったよ。でも、皆心配しているから、数行でいいから『私は元気だよ。いま忙しいからまた連絡するね』って連絡ちょうだいね」

「うん、心配かけてごめんね。でもさ、2日間だけなんだけど…」と娘は苦笑い。「あなたのこと、皆が愛しているから。大学卒業したら、こちらに帰ってきて。もちろん、引き続き大学院に行きたいとか、仕事をあちらでしたいと言えばそれは応援するけど、もし、そうでなければ帰ってきてね」

 つい本音がぽろりと出てしまいました。娘が通っていた幼稚園のお友達は全員自宅から大学に通っています。一方で、インターナショナルスクールのクラスメートのほとんどが海外の大学に行っています。インターのママたちもきっと似たような心配をしているのでしょう。子どもを遠く海外に送り出すということは、こういう心配も乗り越えていくことなんだなと改めて感じた”事件”だったのでした。

2024年9月8日日曜日

Good News

  今朝、夫が「Good News だよ」と嬉しそうに話し始めました。一番下の弟からメールが来たそうです。

「結婚するんだって」

「今のパートナーと?」

「そう。博士号取得のお祝いパーティの後に、結婚式を挙げるようだ」

 夫は4人兄弟の2番目で、一番下の弟は47歳。看護師としてキャリアを積み、働きながら大学院に通いこの夏に博士号を取得したばかり。その弟が数年前から付き合っているパートナーと結婚する決意を決めたそう。

「イリノイ州って同性結婚認められているの?」

「もちろん」

「それは良かった」

「アメリカでは恐らく半分以上の州で認められていると思うよ」

 私は義弟の真っすぐな生き方がとても好きです。大学で音楽を専攻しましたがなかなか芽が出ず、看護師を目指して大学院に入り直しました。働きながら修士号を取得した後は、博士課程へ。職場では責任のある仕事を任されながら、大変な努力をして博士号を取得しました。

 義弟がまだ学生だったころ、両親に自分が付き合っている人を紹介するのは、とても勇気がいることだったと思います。でも、彼が道筋をつけたことで、甥っ子、姪っ子もパートナーを家族に自然に紹介できるのだと思います。

 夫は「まだ、日程は決まっていないけど、結婚式には出たいな」と言います。私も息子の学校が休みのときであれば、ぜひ、参列したい。義弟は夫の兄弟の中で、一番のハンサムボーイでした。パートナーもとても誠実そうな人です。大人のカップルの素敵な結婚式になるのだろうな、と想像しています。

 

2024年9月7日土曜日

娘@メルボルンからの報告

  私がいつも羨ましいなと思うのは、デザインのセンスがある人。日常の何気ないことをイラストで表現できるって素晴らしいなといつも思います。娘もその一人。娘は大学でアートを専攻していて、本格的な絵だけでなく、何気なく描くイラストが本当に可愛いのです。

 娘が「炊いたご飯を小分けにしてサランラップにくるんで冷凍したの」と画像を送ってくれました。水分が多くて柔らかくなってしまったご飯は「ベチャベチャくん1号」と名前をつけています。

 こんな可愛らしいご飯が冷凍庫に入っているなんて、心が癒されますね。




2024年9月6日金曜日

高校の同期会開催準備

  高校時代の親友Mちゃんとのラインで、同期生で作る山登りの会のメンバーが集まったという写真を見せてもらいました。還暦を祝って真っ赤なTシャツを着ています。年を重ねて、当時のツッパリも、人気者も、変わり者も穏やかないい表情で写っています。

「いいなぁ」

「えっ、誘えばよかったね」とMちゃん。普通の同期会なら声を掛けてくれたと思いますが、遠方に住み、山登りの会にも入っていない私には当然、連絡は来ません。でも、生まれ育った札幌から離れ東京に住み、外国人と生活を共にし、実家ももう札幌にない身としては、故郷が懐かしくて仕方ない。残念なことに、心待ちにしていた同期会は節目の今年は開かれないそう。

 体調が悪くて集まりには参加できなかった40代。体調が上向き、薬の副作用による外見の変化も落ち着き、ようやく参加できるようになったのが50代。で、今年こそ!と張り切っていたのですが、肝心の同期会そのものが開かれない。これまで幹事を引き受けてくれた人たちもちょっと疲れてきたそう。そうだろうなぁ、と納得します。

 待っているばかりでは、駄目。関東に住む人たちでもいいから集まりたい!と思い立ちました。皆で、無事60歳を迎えたね!と乾杯したい。ワイワイおしゃべりしたい。

 さっそく、千葉県に住む親友Nちゃんに連絡しました。Nちゃんは「札幌で女子会もいいね!」と提案してくれました。うん、それいいね! 皆で久しぶりに語り合いたいね! 高校同期の女子会。なんて、楽しそうな響き。でも、日程合わせたり、飛行機やホテルを予約したり、ハードルちょっと高いかも。まずは、気軽に集まれる関東で開かない?と提案。ラインのチャットから電話でのチャットに切り替え、話は弾みました。

「私、幹事やってもいいんだ。Nちゃん、誰か連絡先知っている?」

「誰も知らないよ。連絡取っているのはムッちゃんだけ」

「私も誰ともつながっていないんだよね。そういえばさ、ずいぶん前だけど東京の同期会でK君と話したじゃん」

「あぁ、K君ね。名刺もらったけど、どこにあるか分からないよ」

「私ももらったけど、どこかにいっちゃった…」

 張り切っていたのに、最初から頓挫。Nちゃんと大笑いしました。Nちゃんは箸が転んでもおかしい年ごろの高校1年生のときに同じクラスになり、まぁ、どれだけ笑ったことか。国語の時間に二人でおしゃべりし過ぎて、先生の怒りを買い、げんこつで頭を叩かれたことも懐かしい思い出です。会話はすぐに同期会の相談から、思い出話に切り替わります。

「ムッちゃんが最初に叩かれたから、先生も力が入ってて、ムッちゃんたんこぶ出来たじゃん。私は次に叩かれたから先生の勢いも弱まって、たんこぶは出来なかった」

「あれ、痛かったよねぇ。そしてさ、先生あまりに怒って、期末テストの点数からそれぞれ10点引かれたじゃん」

「そう、私一桁の点数だったから0点になってさ」

「私は14点だったから、4点」

 子どもたちには絶対言えない話で、盛り上がります。

 盛り上がった後、Nちゃんが札幌のSちゃんに、私もMちゃんに連絡。それぞれから関東に住む男子2人の推薦をもらいました。Y君とK君(先ほどの会話のK君とは別の人)です。さっそくMちゃんが男子2人につなげてくれて、Mちゃんも含めて「とりあえずチーム」が発足しました。

 Y君が最近の男子の集まりの写真をグループラインに送ってくれました。あー、皆、いい感じに年重ねてる。顔の広いK君がいろいろ連絡取ってくれ、誰も連絡先を知らない人もMちゃんが調べてくれて、20人ほど集まることに。日程も10月に決まりました。場所もK君が素敵な店を予約してくれました。

 私の高校はマンモス校で、1クラス45人10クラスで、約450人の同期生がいます。これだけ人数がいると、亡くなった人も何人もいます。その人たちの無念に思いを馳せ、自分自身のかつての体調を考えると、やはり60歳まで生きてこられたことに感謝したい。

 言い出しっぺの私は何も出来なかったけど、同期会が開かれることがとっても嬉しい。昔の仲間との語らいが、待ち遠しいです。

2024年9月5日木曜日

蒸しパン

  皆さんは、ときどき無性に食べたくなるものってありますか? 私はたい焼きや甘納豆入りの蒸しパンなどの和のスイーツ。一昨日、急に蒸しパンが食べたくなりました。買い置きしていた甘納豆とホットケーキミックスを使って、作りました。

 急に思い立ったので、カップケーキの入れ物がありません。で、毎日息子のお弁当で使っているおかずケースに入れて蒸しました。蒸し器に入れたときは普通の丸い形をしていたのですが、蓋を開けてみるとケースがジャバラになっているために、それぞれが隣のケースと蒸し器の端まで広がり、綺麗なお花の形になりました。

 夫が海外出張でお土産に買ってきてくれた丸い大きな皿に並べました。この大皿は来客があるときなど食べ物の量が多いときしか出番がないのですが、今回はピッタリとはまりました。

 帰宅した息子からは、「ママ、蒸しパン久しぶりだね。美味しい!」と大好評。スイーツをあまり好まない夫も「僕も食べていいの?」 娘も蒸しパンが大好き。娘がこれを見たら、ニコニコして「ママ、素敵!」って言うでしょう。娘に作ってあげたいなぁ。

お花の形に出来上がった蒸しパン


 


2024年9月4日水曜日

協力して子育てするということ

  昨日、夫も私も在宅だったため、デッキのプールを仕舞いました。夫がスチール製のフレーム約20本を外し、プールの中を洗剤で洗います。私がそのフレーム一本一本を丁寧に拭いて、部品と一緒に段ボールに詰めます。洗ったプールは塀にかけ、水分が切れたら、雑巾で拭いて畳みます。そして、段ボールの中に入れて終わりです。

 お互い、ひと言も言葉を交わさず作業に集中しました。デッキでプールを洗う夫を見ながら、これまでずっと協力して子育てしてきたよなぁと改めて思いました。子どもの成長に合わせて、遊びを計画し、楽しんで、そして黙々と片付ける。習い事のお迎え、学校の行事の手伝い、躾や学習の習慣をつけさせること(失敗しましたが…)、子どもの適性を見極めて手助けすること…。夫とはこれら全てを協力してやってきました。有難いと心から思います。

 プールを片付けた後は夫が玄関前の木を剪定し、私は息子の誕生日の飾りを仕舞いました。

 ひと仕事終えた後は、一緒に昼食。ホタテ・イカ・エビとアスパラを炒めて、前夜の夕ご飯で余ったパスタを入れて、シーフードパスタにしました。

「今年もプール楽しかったね」

「うん。君の言う通り、お盆を過ぎると入りたいと思わなくなるね」

「そうなんだよね。やっぱり7月が一番いい。お盆過ぎはまだ暑いんだけど、冷たい水の中に入りたいと思わないから不思議」

「不思議だよなぁ。来年も7月早々に出そう」

「そうしようね」

 来年も息子は一緒に入ってくれるでしょうか。

デッキでプールを洗う夫。手前は私がふいて仕舞ったプールのフレーム


 

 

 

2024年9月3日火曜日

「至福のレストラン」を観て

  息子の13歳の誕生日祝い第2弾は、映画でした。料理好きの息子のために選んだのはドキュメンタリー「至福のレストラン」です。親子3代で55年もの間ミシュランガイドの三ツ星に輝き続けるフランスのレストラン「トロワグロ」を、ドキュメンタリーの巨匠フレデリック・ワイズマン監督が描いた作品。上映時間が4時間という長さでしたが、見終わった後はまだ見続けたいと思うほど素晴らしかったです。

 映画はフランスの朝市の場面から始まります。料理人たちが食材を吟味しながら買っていきます。色鮮やかな食材にテンポの良い会話。その軽やかな映像から、トロワグロのオーナーシェフ・ミッシェルが息子たちとメニューを決めるテーブルの場面へ。長い会話から、彼らの食材へのこだわりや料理に対する情熱、探求心の深さが描き出されます。

 畜産農家や菜園、チーズ貯蔵庫など、三ツ星レストランを支える生産者らや静かで美しい田園風景も描かれます。圧巻はひたすら続く厨房のシーン。調理する料理人たちの無駄のないリズミカルな動き、熟練の料理人から若い料理人たちに伝授される技術、新メニューの試作で繰り広げられるディスカッションの奥深さ、そして表現される料理の美しさ…。シェフと客たちとの会話も軽やかで、明るい。

 オーナーシェフが日本びいきで、醤油や味噌、シソなど日本の調味料や食材があちこちで出てくるのも嬉しい。

 言語はフランス語で日本語の字幕だったため、夫はあまり理解できなかったようですが、料理好きなので十分楽しめたよう。息子も途中ちょっとだけ寝ましたが、レストランの厨房のシーンは食い入るように見ていました。見終わった後の息子の感想は「本当のことが描かれているから、信頼できるなぁと思ったし面白かったよ。自分もファンシーな料理を作りたいと思った」。ファンシーな料理、ぜひ作ってみてください。

 私は見終わった後、とても心が豊かになりました。いつか、トロワグロに行けたらいいなぁと思ったのでした。



 

2024年9月2日月曜日

東京ディズニーシーへ

  息子の13歳の誕生日祝い第1弾として、「東京ディズニーシー」に行ってきました。昨年、一昨年と東京ディズニーランドに行ったため、何年ぶりかのディズニーシー。新しいエリア「ファンタジースプリングス」もオープンしていましたので、楽しみにしていました。

 事前に7月の帰国時にお友達と行った娘にリサーチ。娘いわく、まずは入場してすぐに公式アプリからこのファンタジースプリングス内にある「アナと雪の女王」、「塔の上のラプンツェル」、もしくは「ピーター・パン」のスタンバイチケットを獲得すること。そうしなければ、このエリアにすら入れないそうなのです。何だか難しいですね。

 息子と夫と3人でオープン30分前の8時30分にパークに到着。ゲートの前は長蛇の列でした。気温もすでに高く、麦わら帽子だけでは日光を防ぎ切れず、日傘を持ってこなかったことを後悔しました。若い男性も女性も多くの人が日傘を差しており、「そうだよなぁ、テーマパークだから、帽子で十分と考えた自分が甘かった」と反省。

 会場15分前にオープンしたので、比較的スムーズにパーク内に入れました。夫がアプリにアクセスし「アナと雪の女王」を獲得しようとしましたが、もう売り切れ、次に「塔の上のラプンツエル」にアクセスし、なんとか3枚分ゲット。その入場時間が13時半だったので、その前にいくつか乗り物に乗りました。それぞれが約1時間待ちでしょうか。

 面白かったのは、ローラーコースターには身長制限があり、110㌢以下の子は乗れないのですが、195㌢以上の人も乗れないのです。列に並んでいるとギリギリの身長の小さな子どもたちが次々とクルーのお姉さんたちに呼ばれ、夫も呼ばれました。

 身長計の前に夫が立っているのですが、お姉さんは夫よりずっと小さく、背伸びをしても夫の頭の上が見えません。台を持ってきてその上に乗り、夫の頭の上を見て、ぎりぎり195㌢未満であることを確認。夫は”合格”をもらい、列に戻れたのでした。

 夫は若いときは195㌢ありましたが、今は縮んで193㌢。身長が縮んで良いこともあるのですね。

 レストランはQRコードを読み込んで事前にオーダーしてから、席を予約します。乗り物に乗って写してくれる写真も以前は画面の番号を伝えると購入できましたが、今は、画面のQRコードを読み込んで注文です。もたもたしているうちに、次の人の画面を読み込んでしまい、クルーのお兄さんに聞くと「一旦読み込むと30分は出来ないんです」とのこと。あーあ、難しい。夫の公式アプリで読み込もうとすると、「英語版のアプリでは読み込めません」。で、お兄さんにいろいろと操作をしてもらい、ようやく写真を購入できたのでした。

 いろいろと、本当に難しくなりました。私たちは娘や息子がいるのでギリギリついていけますが、お年寄りだけでは戸惑うことが多いかもしれませんね。ディズニーシーには義父母も私の両親も70代のときに一緒に行きました。当時は複雑な手続きなしに、楽しめました。今はワクワクするようなアトラクションが増え、夜の水上パレードも本当に素敵でしたが、あれこれ焦らずに楽しめた昔がちょっぴり懐かしい。



ポップコーンを買う息子と私