2022年7月23日土曜日

親の私は…

  子どもたちがどんどん成長している中、親の私は低迷を続けています。正直に言うと、どん底にいます。昨日は大学院の教室のゼミがあり、発表をしましたが、指導教員にも他の研究者たちにも苦笑されてしまいました。

 前回の発表のときはメッタ刺し。今回の発表では苦笑の嵐。皆、おそらく指導教員も私より年下でしょう。年下の優秀な人達にあきれた笑いをされるって、辛いんですよ。本当に。

 このブログで以前、現在の指導教員(女性)の対応について書きました。打開策を求め、大学の他の教室のゼミに参加させてもらうようにお願いし、7月から週に1度参加しています。この教室は私の教室の親教室のような位置づけです。

 驚きました。このゼミでは毎回、学生たちが発表するのですが、とにかく伸び伸びとしているのですよ。修士課程の学生も博士課程の学生も。私ぐらいの年齢の学生もいます。皆、活発に意見交換をしている。先生たちからも厳しい指摘もありますが、建設的だし、最後には救いの一言がある。

 「まだ、時間があるから大丈夫」「これを仕上げると、君はこの分野の第一人者だね」。こういう言葉掛けって大事だよなぁとゼミの教室の片隅に座って、議論を聞きながら、私は羨ましく思いました。

 鋭利なナイフであちこち刺され、血を流し、その血を自分で止めて、傷口を何とか塞いで、自力での回復を目指す自分とは違うなぁと、羨ましかった。まぁ、こんなオバサンがそもそも学び舎にいることが変で、指導を受けたり、励まされている学生たちを羨ましく思うのが間違っているのかもしれません。

 でも、人生の折り返し前に様々な出来事が重なり、仕事も学びも再開が遅れてしまったことは事実。人生において、私がいまこのような状況にあるということは、ここで何かを学びなさいという天からのメッセージだと受け止めるようにはしています。

 3回このゼミに参加し、私は決意をしました。これから4年間、今の指導教員の下、博士論文を仕上げることは出来ないな。それまで精神が持たないだろうなとずっと考えていました。たぶん、精神よりも身体に影響が出るだろうな。そうすると家族にまた迷惑がかかる。

 人生は短い。私はたぶん同年代の人達よりもっと短いかもしれない。だから、せっかくもらった機会だけど、ここは潔く撤退しようーと。でも、大学院を辞める決断をする前に、ダメ元で指導教員の変更を願い出てみようと考えました。

 大学院での指導教員の変更はかなり難易度が高い。私と同じ私立大の大学院修士課程から国立の大学院博士課程に進んだ先輩にも、「どこで、どのような情報が洩れるか分からないし、手続きする前には慎重にステップを踏んだ方が良い」とアドバイスを受けていました。

 リスクは十分承知していました。が、もう、限界にきていました。指導教員の変更の手続きはまず、自分の指導教員の許可を得なければなりません。それ相応の理由がなければもちろん出来ません。でも、私にはもう指導教員と面と向かって話は出来ませんでした。

 親教室の教授の秘書に、教授と面談したい旨をメールで伝えました。教授への連絡はすべて秘書を通すことになっています。秘書からは丁寧な返信をいただき、日時も指定してくれました。そのメールには、stuffという一斉メールのアドレスが、ccに付いていました。つまり、その教室の教員たちに、私が教授と面談することが分かってしまいました。その一斉メールのアドレスに、私の指導教員が入っていることも考えられました。でも、もうここまで来たら、仕方ないなと覚悟を決めました。

 教授との面談は、会議室で行われました。会議室は大きくドアが開いていました。コロナ禍の今ですので、ドアが開いたまま話をするのかなぁと思っていましたが、教授はドアを閉めてくれました。

 私は単刀直入に、その先生の教室に移りたいとお願いしました。今の指導教員への文句ではなく、あくまでも、その先生の教室で指導を受けたいと訴えました。その教授は話を聞いてくれましたが、「指導教員を変えるのは手続きがかなり面倒なんだよね。まずは、今の指導教員の了承を得てから、指導教員の間で話し合い、かつ、上にも届け出なければならない。まだ、始まったばかりだから、今、指導教員を替えたいというと、あなたが変だと思われるよ。1年頑張ってみたら」

「…」

「●●先生には今日のこと話したの?」

「いいえ」

「僕も先生には何も言っていないよ。だから、来年の春まで頑張ってみなさい。それから考えたらどう?」

 いい先生でした。ゼミでの学生たちへの対応を見ていると、懐の深さを感じさせる人でした。でも、やはり、Noだった。それはきちんと受け止めなければいけません。

 そして昨日の私の教室でのゼミ。ここで学生は私だけ。他はすべてプロの、博士号を持つ研究者らです。私の指導教員も実務の人であって、教育者ではありません。私の発表と質疑応答への指導教員の苦笑を受け止めながら、なんとか1時間を終えました。

 帰りは、駅近くにあるたい焼き屋さんに寄って、一人でたい焼きをほおばりました。母に2枚、息子と夫に2枚買って、電車に乗りました。自宅最寄り駅に停めてある自転車に乗って、母にたい焼きを届け、帰宅しました。

 夫に今日のことを伝えました。毎日、話を聞いてくれる夫が言いました。

「君の話を聞いてあげたいけど、僕も疲れているんだ。僕たちは50代なんだよ。もう若くない。昨日覚えたこともすぐ忘れてしまう。若くても難しいことに、君は挑戦しているんだよ。それも、指導をしてくれない教員の下で、気軽に聞いたり相談できる学生もいない場所で。君の人生は長くない。もちろん僕の人生もだ。そんな中、ここ数カ月の苦しみをあと4年間も続ける意味があるのかな?」

 今日の夕飯のメニューは餃子でした。夫も子どもたちも私の作る餃子が大好きです。餃子を作るときだけ、無心になれました。

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