2022年7月31日日曜日

家庭科と体育と道徳と

  先週、息子の担任の先生との面談がありました。前回の授業参観のとき、クラスメートが皆手を挙げて発表する中、ノートを取ってばかりでしたので少し心配でしたが、心配は無用でした。

 まずは先生に先日の家庭科の授業での息子の様子を報告しました。

「家庭科の授業のお手伝いをしながら、息子の様子を見ました。勉強で冴えない息子ですが、ジャガイモの調理では手際が良く、クラスで一番早かったんです。後片付けも率先してやっていました。輝いていました」

「そうですか。輝いていましたか。お母さん、どうぞたくさん褒めてあげてください。教室でも気が利きますよ。何かしますか?といつも聞いてくれますので、助かっています。クラスに一人はほしいタイプの子です」

 先生が豪快に笑いました。息子は1年生から4年生まで女性の先生でしたが、今年度初めて男性の先生です。

「そう言ってくださると安心します。勉強があまり得意でないものですから。先日の授業参観のときはひと言も発していなかったので、少し心配しました」

「そうですか? 心配ありませんよ。たとえば、道徳では、しっかり考えいるなと感じさせる文章を書いています」

 先生が、息子が書いた文章を見せてくれました。

「自分には長所がないと思っていた。でも、自分には長所がないと思っていたから見当たらなかったと分かった」

 なかなかやるではないか。我が息子。

「お母さん、手を挙げて発表するだけが理解しているということではないんです。息子さんは理解が深いですよ。道徳で締めの発表をしてもらうこともあります」

 そうなんですね。授業で積極的に発言しないからといって、息子にマイナスの評価をしてはいけないんですね。

「体育委員として仕事をきちんとしてくれますし、運動はよくできます。家庭科と体育と道徳と日々の生活で輝いている。十分じゃないですか。私は全く心配していません」

 息子の良いところを評価してくれて、嬉しかった。中学受験のことを考えると心配は尽きないですが、息子なりに学校で頑張っているんだからよしとしよう!と思えた日だったのでした。 

2022年7月24日日曜日

ケンブリッジからの報告 ③

  ケンブリッジ大学の高校生向けサマープログラムで「建築」を学ぶ娘のクラスには、8人のクラスメートがいるようです。出身はエクアドル、トルコ、アメリカ、中国、韓国、ブラジル、イギリス、そして日本から来た我が娘です。先生はギリシャ人だそうです。

 教室で建築に関する勉強をするほか、街に出て建物のデッサンをすると言います。これまでずっと自分に自信がなかなか持てなかった娘は、「ママ、私、けっこうデッサンうまいほうだと思う」と少し自信を持ったようです。

 幼稚園ではお絵描き教室に通い、インターナショナルスクールでもアートのクラスに力を入れてきた娘。親の私から見て、娘には絵の才能があると常々思っていたので、日本から一歩出てみることで自分の好きなこと、得意なことに気付いてくれたことが嬉しい。

 一方で、娘は自分のアイデンティティも意識したようです。「私は、日本人だなってつくづく思ったの。こうして外国に来てみると、日本の方がいいなって思う」と言います。私が学生のころ、アメリカで感じたことと同じ感覚を持ったようです。

「日本人って丁寧だし、がさつじゃないでしょう。そこがいいなって思うの」

 これはおそらく、外国に住んでみないと分からない感覚かもしれません。私は自由と可能性の国アメリカに憧れましたが、住んでみたら、日本の良さがしみじみと感じられた。レジに並ぶ女子学生が、買い物かごをフロアに置き、それを足でつついてレジの方に進むのを見て、『信じられない!』と驚いたこと。今でも大学の購買のレジと前に並んだ女子学生のことを鮮明に覚えているくらいです。

 逆に、留学生の中にはアメリカで水を得た魚のように生き生きとして、アメリカで暮らし続けることを選んだ日本人もたくさんいました。

 シカゴ育ちの夫は日本で暮らして20年経ちますが、アメリカより日本のほうが暮らしやすいと言います。私と出会う前は、外国に住むことなど考えたこともなかったそうですし、世間に馴染めないという感覚も持ったことがないと言います。それでも、外国に住んで違和感を持つこともなく、暮らしている。不思議なものです

 娘の「日本人」としての”気付き”についての話は続きます。

「女の子たちがね、これ下着?と思うような服を着ているの。とにかく露出が多い。服より肌の出ている割合が多いの。マジ、文化の違いを感じる。日本ではありえないし、私は絶対したくない服装」

 うん、うん。分かる、分かる。

「私が日本人だから日本料理屋さんに行こう!ということになって、お友達と行ったの。アボガドとマヨネーズをお米で巻いて、海苔で巻くこともしないで、『お寿司』として売っているんだよ。お米だって、日本のお米じゃない。パサパサしたタイ米?かな。恥ずかしかったよ、日本人として。こんなのはお寿司じゃない!って」

「お米にパクチーが入っているのが、最近の『お寿司』のトレンドらしい。ママ、パクチーだよ!パクチー! パクチーは何も悪くないけど、日本料理屋さんでお寿司として売るのは間違っているでしょう?」

 あぁ、分かるなぁ。その感覚。私が「日本人」としての誇りを持ったのも、日本人としてのアイデンティティをしっかりと意識したのもアメリカ暮らしがあったから。昨年の東京オリンピックの競泳女子200㍍個人メドレーで大橋悠依さんが金メダルを取り、日本の国旗が一番上に上がり、その下にアメリカの国旗が上がるのを見たときは、感極まって涙が流れたくらいです。まぁ、ここまでの感覚はどうかな?と自分自身に苦笑しましたが。

 こうして、日々貴重な経験をしている娘。2週間のサマープログラムもあと1週間を残すのみ。たくさん学んで、たくさん友達を作ってほしい。 

娘が送ってくれた、寮の部屋の窓からが見える風景の写真

2022年7月23日土曜日

親の私は…

  子どもたちがどんどん成長している中、親の私は低迷を続けています。正直に言うと、どん底にいます。昨日は大学院の教室のゼミがあり、発表をしましたが、指導教員にも他の研究者たちにも苦笑されてしまいました。

 前回の発表のときはメッタ刺し。今回の発表では苦笑の嵐。皆、おそらく指導教員も私より年下でしょう。年下の優秀な人達にあきれた笑いをされるって、辛いんですよ。本当に。

 このブログで以前、現在の指導教員(女性)の対応について書きました。打開策を求め、大学の他の教室のゼミに参加させてもらうようにお願いし、7月から週に1度参加しています。この教室は私の教室の親教室のような位置づけです。

 驚きました。このゼミでは毎回、学生たちが発表するのですが、とにかく伸び伸びとしているのですよ。修士課程の学生も博士課程の学生も。私ぐらいの年齢の学生もいます。皆、活発に意見交換をしている。先生たちからも厳しい指摘もありますが、建設的だし、最後には救いの一言がある。

 「まだ、時間があるから大丈夫」「これを仕上げると、君はこの分野の第一人者だね」。こういう言葉掛けって大事だよなぁとゼミの教室の片隅に座って、議論を聞きながら、私は羨ましく思いました。

 鋭利なナイフであちこち刺され、血を流し、その血を自分で止めて、傷口を何とか塞いで、自力での回復を目指す自分とは違うなぁと、羨ましかった。まぁ、こんなオバサンがそもそも学び舎にいることが変で、指導を受けたり、励まされている学生たちを羨ましく思うのが間違っているのかもしれません。

 でも、人生の折り返し前に様々な出来事が重なり、仕事も学びも再開が遅れてしまったことは事実。人生において、私がいまこのような状況にあるということは、ここで何かを学びなさいという天からのメッセージだと受け止めるようにはしています。

 3回このゼミに参加し、私は決意をしました。これから4年間、今の指導教員の下、博士論文を仕上げることは出来ないな。それまで精神が持たないだろうなとずっと考えていました。たぶん、精神よりも身体に影響が出るだろうな。そうすると家族にまた迷惑がかかる。

 人生は短い。私はたぶん同年代の人達よりもっと短いかもしれない。だから、せっかくもらった機会だけど、ここは潔く撤退しようーと。でも、大学院を辞める決断をする前に、ダメ元で指導教員の変更を願い出てみようと考えました。

 大学院での指導教員の変更はかなり難易度が高い。私と同じ私立大の大学院修士課程から国立の大学院博士課程に進んだ先輩にも、「どこで、どのような情報が洩れるか分からないし、手続きする前には慎重にステップを踏んだ方が良い」とアドバイスを受けていました。

 リスクは十分承知していました。が、もう、限界にきていました。指導教員の変更の手続きはまず、自分の指導教員の許可を得なければなりません。それ相応の理由がなければもちろん出来ません。でも、私にはもう指導教員と面と向かって話は出来ませんでした。

 親教室の教授の秘書に、教授と面談したい旨をメールで伝えました。教授への連絡はすべて秘書を通すことになっています。秘書からは丁寧な返信をいただき、日時も指定してくれました。そのメールには、stuffという一斉メールのアドレスが、ccに付いていました。つまり、その教室の教員たちに、私が教授と面談することが分かってしまいました。その一斉メールのアドレスに、私の指導教員が入っていることも考えられました。でも、もうここまで来たら、仕方ないなと覚悟を決めました。

 教授との面談は、会議室で行われました。会議室は大きくドアが開いていました。コロナ禍の今ですので、ドアが開いたまま話をするのかなぁと思っていましたが、教授はドアを閉めてくれました。

 私は単刀直入に、その先生の教室に移りたいとお願いしました。今の指導教員への文句ではなく、あくまでも、その先生の教室で指導を受けたいと訴えました。その教授は話を聞いてくれましたが、「指導教員を変えるのは手続きがかなり面倒なんだよね。まずは、今の指導教員の了承を得てから、指導教員の間で話し合い、かつ、上にも届け出なければならない。まだ、始まったばかりだから、今、指導教員を替えたいというと、あなたが変だと思われるよ。1年頑張ってみたら」

「…」

「●●先生には今日のこと話したの?」

「いいえ」

「僕も先生には何も言っていないよ。だから、来年の春まで頑張ってみなさい。それから考えたらどう?」

 いい先生でした。ゼミでの学生たちへの対応を見ていると、懐の深さを感じさせる人でした。でも、やはり、Noだった。それはきちんと受け止めなければいけません。

 そして昨日の私の教室でのゼミ。ここで学生は私だけ。他はすべてプロの、博士号を持つ研究者らです。私の指導教員も実務の人であって、教育者ではありません。私の発表と質疑応答への指導教員の苦笑を受け止めながら、なんとか1時間を終えました。

 帰りは、駅近くにあるたい焼き屋さんに寄って、一人でたい焼きをほおばりました。母に2枚、息子と夫に2枚買って、電車に乗りました。自宅最寄り駅に停めてある自転車に乗って、母にたい焼きを届け、帰宅しました。

 夫に今日のことを伝えました。毎日、話を聞いてくれる夫が言いました。

「君の話を聞いてあげたいけど、僕も疲れているんだ。僕たちは50代なんだよ。もう若くない。昨日覚えたこともすぐ忘れてしまう。若くても難しいことに、君は挑戦しているんだよ。それも、指導をしてくれない教員の下で、気軽に聞いたり相談できる学生もいない場所で。君の人生は長くない。もちろん僕の人生もだ。そんな中、ここ数カ月の苦しみをあと4年間も続ける意味があるのかな?」

 今日の夕飯のメニューは餃子でした。夫も子どもたちも私の作る餃子が大好きです。餃子を作るときだけ、無心になれました。

2022年7月22日金曜日

ケンブリッジからの報告 ②

 「ママ~、具合が悪くて吐きそうなの」

 今朝の3時ごろ、イギリス・ケンブリッジ大学のサマープログラムに参加している娘からFacdTimeを使った電話がありました。連日40度近い気温で、かつ、エアコンもないので、当然と言えば当然です。

 「しっかりと水分を取って、冷たい水に浸したタオルを絞って、顔や頭に当てて」

 「うん、分かった」

 しばらく話をしていましたが、私は睡魔に勝てず、寝てしまったのでした。そして6時にはっと目覚め、娘にFaceTimeをしてみると、先ほどよりずっと顔色が良くなりました。具合も良くなったようです。やはり、暑すぎたのですね。

 体調が良くなった娘から、楽しい報告をたくさんしてもらいました。

 まずは、娘が受講している「建築」の授業が充実しているということ。午前9時半から11時半まで、そして午後1時半から3時半まで授業があり、「一日4時間なんだけど、すごい情報量なの」と娘。ノートに描いたたくさんのデッサンを見せてくれます。

 「私、将来建築家になりたい」ー。娘が夢を語ってくれました。娘は小さなころから絵が上手でしたので、デザインなどの分野に進むと良いかなぁとは思っていました。こうしてサマースクールで自分の興味のある分野の学びを深めることが出来、それが将来の目標になったことはとても良かったと思います。

 次に教えてくれたのが、イギリスは現金が使えない国だということ。レストランやお店だけでなく、なんと、コインランドリーまでカードらしい。コインランドリーの洗濯機はコインを入れて、動かすものでしたが…。

「だからね、お友達にカードで払ってもらって、現金をお友達に支払うの。コインランドリーもレストランもカフェも」

 念のためにドル紙幣を持たせる私は、なんと、遅れているのでしょう。念のために持たせるのはカードなんですね。私が留学したときは、「トラベラーズチェック」と現金を持って行きましたが、今もトラベラーズチェックは存在しているのでしょうか?

「カードを使う人が半分、スマホで支払う人が半分という感じ。カードだってもう古いんだよ」

「えっ、そうなの?」

「そうだよ。時代はカードではなくスマホ」

 同じケンブリッジ大学のサマースクールに行っている、娘の同級生もカードで払っているそうです。

「レイコはね、お兄ちゃんがイギリスに住んでいたから、イギリスがカード社会だって分かっていたの。それで、カードが必要だってお母さんにアドバイスしていたみたいなの。それでレイコはカード持ってきたんだって」

「そうなんだね。ママ、気が付かなくてごめんね」

「大丈夫だよ。お友達がいるから」

 仲良くなったゾラちゃん、本当にありがとう。

「それとね、ママ、物が何でも本当に高いの。昨日ハンバーガー食べている写真送ったでしょ。あれ、千円ぐらいするんだよ。高いものなんて選んでないの。ちょっとしたものでも、本当に高いの。改めて、日本って物が安くていいなぁって思ったよ」

「イギリスは物価が高いって聞いていたけど、円安で拍車がかかっているんだね。現金だけど十分持たせたと思うから、ちゃんと美味しいもの食べて、必要なものがあったら買うんだよ」

「ありがとう。そういえば、サンダル買わせてもらったよ。バスルームが共同なの。バスルームに行くたびにスニーカーの紐を結ぶの面倒だから、買ったの。無駄遣いはしていないからね」

 我が子ながら、無駄遣いをしないで偉いよなぁと感心する私。娘は前日にケンブリッジの街をボートに乗って周ったツアーの様子も話してくれました。これはサマースクールのプログラムの一環です。

「ママ、ケンブリッジの名前の由来知っている? オックスフォード大学はケンブリッジより100年ぐらい前に建てられたみたいなの。で、オックスフォードからきた人がCAMという川を渡るときに、Bridge(橋)を作ったから、Cambridge という名前になったんだって」

そうなんですね。初めて知りました。それから、前々日に行ったケンブリッジの街中での「宝探しゲーム」についても話してくれました。学生たち皆で、「赤いドレスの人と写真を撮ってください」「●●●というレストランの前で写真を撮ってください」などという指示に従って、街中を探すのだそうです。証拠として示すために、自撮りをするそう。狙いは学生同士で協力し合うことだそう。

 「皆で協力しながら、街中で宝を探すの。お友達もたくさんできるんだよ」

 娘は高3の夏に、得難い経験をしています。

2022年7月21日木曜日

息子の成長

  17歳の娘がイギリスでひと回りもふた回りも成長しているとき、10歳の息子も着実に成長しています。先日は、家庭科の授業でカッコいい姿を見せてくれました。そして、先週末には立て続けに良いニュースがありました。

 まず、英検の準一級の合格通知が来ました。筆記試験では良い点数を取ったのですが、面接試験があまり出来なかったと言っていた息子。それでも、ちゃんと結果を出してくれました。次は目指せ1級です。

 もう一つは塾でクラスが上がったこと。先月まではずっと12クラス中12番目か11番目というポジションだったのですが、なんとか8番目まで上がりました。国算理社の中で、算数と理科で何とか点数を稼ぎました。

「ご褒美に何か買ってあげる!」とすっかり機嫌が良くなった私。息子は大喜びで、携帯用のミニ扇風機をリクエストしてきました。さっそくアマゾンで注文。頑張ったので、息子の大好きな焼き肉屋さんに連れていきました。

 受験まであと1年半。頑張れ!息子よ

ビビンバを食べる息子と、焼肉を焼く夫



 

2022年7月19日火曜日

ケンブリッジからの報告

  娘はホテルに一泊し、翌朝、大学から迎えが来るヒースロー空港までタクシーで向かいました。本当はホテルからバスで空港まで行くはずでしたが、バスが15分ほど待っても来なかったらしく、タクシーに切り替えたと言います。アクシデントが重なり、少し可哀想ですが、これも旅の醍醐味。娘も大きく成長するでしょう。

 ヒースロー空港から電話をくれました。学生がたくさん来ていると言い、ようやく、「これで、大丈夫」とほっとしたらしい。私たちも落ち着きました。

 バスの中で、さっそく、お友達が出来たようです。カナダのトロントから来たゾラちゃん。娘は「建築」のコースで、ゾラちゃんは「数学」のコースだそう。

 学校に着いて、寮に入ってからも電話をくれました。窓からキャンパスが見渡せて、とても素敵な寮でした。その日は37度で、「観測史上最高の暑さ」だったそうです。寮の中も、教室もエアコンがないので、大変そうです。

 翌日の月曜日から授業でした。たくさんデッサンをしたようで、ノートを見せてくれました。「授業とっても、楽しいの」と娘。ランチはゾラちゃんと街のカフェに行って食べ、夜は寮で。

 先ほど、授業が終わったと電話をくれました。お部屋にお友達が2人遊びに来てくれていました。ゾラちゃんと、イギリス人の男子(名前が覚えられない)。その楽しそうな姿を見て、私たち親が一緒に行かなくて本当に良かったと思いました。

 面白かったのが、同じクラスにアメリカから来た子がいて、娘はあまり良い印象を持たなかったと言っていたこと。「『私、フロリダから来たの。フロリダではね●●がトレンドなの』っておしゃべりなの」と娘。あぁ、分かる、分かる、その感じ。

 私も留学していた時、疲れましたもの。若くて元気なアメリカ人女子に多い、「私はこれが出来ます、あれが出来ます」の主張や自信たっぷりな態度。本当に疲れるんですよ、あれが。だから、娘がおそらくアメリカ人よりは控えめなカナダ人女子と仲良くなるのが分かります。こんなことを言うと、控えめなアメリカ人女子に叱られそうですが。

 娘の生き生きした様子を見るのが本当に嬉しい。2週間、存分に楽しんで! 

2022年7月18日月曜日

家庭科授業で輝く男子

  息子は輝いていました。クラスで一番生き生きとしていました。調理方法を学ぶ家庭科の授業で、です。

 娘がイギリスに旅立った日の朝、地元の公立小5年生の息子の家庭科授業の補助ボランティアをしました。学校でのボランティアは、元気の良い子どもたちを見るだけで心が癒されますし、息子の様子も見られるので、とても楽しみなのです。

 この日、5年1組の32人は16人ずつ2組に分かれて、家庭科室でじゃがいもの調理法を学びました。

子どもたちが調理法を学んだ家庭科室

 ボランティアのお母さんは私を入れて3人。私たちの役割は事前にじゃがいもの皮をむき、半分に切って小鉢に入れて水に浸しておくこと。バターを小さく切って、容器に入れておくこと。そして台ふきや調理用具を作業台に置いておくこと。下準備が終わったら、調理をする子どもたちを手伝います。

 まず、1組目の子どもたちが元気よく家庭科室に入ってきました。息子のお友達もいます。子どもたちはジャガイモを10等分にして、フライパンでゆで、竹串で柔らかくなったことを確認してから、お湯を捨てます。そして、そのフライパンにバターを入れて、ゆでたジャガイモを炒めて塩コショウをします。

 じゃがいもをゆでている間、まな板と包丁を洗って仕舞うように先生に言われているのですが、皆、じゃがいもに集中して、調理用具を洗うことまで気が回りません。まだ硬いじゃがいもに竹串を何度も刺したり、菜箸でぐるぐると回したり…。切ったジャガイモの大きさが違ってしまい大きな固まりがなかなかゆで上がらなかったり、ゆであがったジャガイモを取り出すのに手間取る子もいたり…。本当に楽しくて、手伝う私の心も一緒に弾みます。

 子どもたちを日々教えるのは苦労することもあるでしょうが、小学校の教師の仕事はとてもやりがいがあり、楽しいのではと学校の様子を見にくるたびにいつも思うのです。

 調理し終わったジャガイモを食べて、食器を洗い、片付けを終わった1組目と入れ替わりで、2組目が入ってきました。息子はこの2組目にいます。

 「先生、ジャガイモを入れるお弁当箱を忘れてきましたので、食べられません!」と早速、息子が発言します。しまった!お弁当箱を持たせるんだっけ?そんなことお便りに書いてあった? 私はまた、確認忘れをしてしまったようです。

 有難いことに、先生はにっこり笑って「大丈夫ですよ。お皿を使ってください」。他に何人か忘れた子がおり、「うちの息子だけでなくて良かった」と胸をなで下ろす私。

 でも、ここから息子は挽回しました。手際よくジャガイモを切り、クラスで一番早くにゆで始めました。ゆでている間にまな板と包丁を洗って、片付けます。ジャガイモがゆで上がるのも、バターで炒めるのも一番最初。ジャガイモに程よい焦げ目をつけて塩コショウし、一番最初に食べ始めました。他の男子から「マイヤー、早っ!」と声がかかります。この間の息子の動きの良いこと。テキパキとしていて、惚れ惚れするほどです。

 授業参観では、全く発言しないので見ている私もやきもきしてしまうのですが、勉強があまり得意でない子どもが輝ける場があるのですね。息子の場合はこれまで運動会でしたが、家庭科の授業でも輝けるのだと分かったので、本当に嬉しかった。

 クラスで一番最初に食べ終わった息子は食器を洗って片付け、クラスメートを助けます。あちこちに散らばった塩コショウをまとめて、所定の場所に戻します。各調理台の上に置かれていた「行程表」を全部回収して、先生に渡します。台ふきで調理台を拭き、食器洗いなどに手間取っているクラスメートの調理台も次々と拭いていきます。

 「我が息子、なかなかやるぞ!」と誇らしく思うとともに、「こういう家事が出来る男子は、将来、家事が全く出来ないお嫁さんを連れてくるんだろうな」と遠い将来をちょっぴり憂いたりします。

 ワイワイガヤガヤの家庭科授業が終わりました。授業の後先生とお話をして、秋にはミシンがけをすることが分かりました。このときもボランティアを募集するようですので、また、お手伝いをさせていただきましょう。楽しみが出来ました。

 塾での成績が悪く、自信を失っている息子の生き生きとした姿を見られて、心から安堵した一日だったのでした。

 

 

 

 

2022年7月17日日曜日

イギリスからの電話

  娘(高3)が、無事イギリスに着きました。経由したフィンランドのヘルシンキ空港や、イギリスのヒースロー空港でも苦労をしたようですが、何とかホテルにたどり着き、翌日はケンブリッジ行きのバスに乗れました。

 便利な世の中になり、携帯電話の「FaceTime」という機能を使い、顔を見ながら話をすることが出来ました。ヘルシンキ空港に着いたときも電話をくれ、「フィンエアの食事は食べなかったから、お腹ぺこぺこ」と言います。

娘が送ってくれたFINNAIR機内の様子を写した写真

「パンはなかったの?」

「それがね、フィンエアはキュウリが好きらしくて、パンにもキュウリを挟んでいて、全く食べられなかった」と言います。娘はキュウリが大の苦手。

「JALは食事が美味しいし、果物とかデザートとか何かついているでしょう。それもなかったの。で、仕方なくてブロッコリーを食べたの」

 驚きました。娘はブロッコリーも苦手。その苦手なブロッコリーを食べなければならないほどの食事だったとは。ヘルシンキに着いたのは午前5時過ぎ。ヒースロー空港行きは7時半発ですので、2時間半ほどあります。まだ、どこの店も開いていないと言います。さらに、私たちもヘルシンキ空港で何かを買うとは思っていませんでしたのでユーロを持たせていませんでした。空港内を歩いた娘によると、「7時にお金を両替する場所が開くの」と言います。「ママ、お腹空いたぁ」。あぁ、可哀想に…。

 念のために20ドル札2枚と10ドル札6枚合計100ドルを持たせていました。何で「念のため」にユーロを持たせなかったのかーと後悔しました。

「お店が開いたら、ドル使えませんか?て聞いてみて。ママも以前、香港とかでドルで買い物したことがあるの。ドルは基軸通貨だから使えると思う」

 残念なことにドルは使えなかったようで、娘は7時に両替所が空いてから40ドルをユーロに替え、コンビニエンスストアでパンとヨーグルトなどを買ったようです。

「最初は20ドル替えようと思ったんだけど、今、アメリカもインフレで物の値段がすごく高いというから、40ドルを替えたの。自分が想像しているより物の値段が高いかもしれないから」

「それは賢いね。日本は物価が安いから…。ヨーロッパの相場は分からないから、40ドルを両替したのは、良い判断だったと思うよ」

 心配の多かった娘も、しっかりしてきたんだなぁと嬉しかった。娘はやっと買えた食べ物を持って、ヒースロー空港行きの飛行機に乗り込みました。

 ヒースロー空港に到着した娘から電話が来ました。飛行機内はとても混んでいたらしく、隣の座席の人のことが気になって食べられなかったそう。空港内で座る場所を見つけて、ようやくパンとヨーグルトを食べることが出来たようです。携帯電話の画面に映る娘の鼻やおでこにはニキビが吹き出ていました。やはり、初めての一人旅はストレスだったのでしょう。

 夫が予約していたホテルへは空港から有料のバスが出ていたようですが、バスに乗ろうとしたときに現金が使えないことが判明。タクシー乗り場を探して、タクシーでホテルに行ったようです。そして、ようやく着いたホテルから電話がありました。

 娘は顔にパックをしていました。こういう時でも顔にパックをする気持ちの余裕があるって良いなぁと思いました。

 その後、ホテル内のレストランに行ったようですが、また、現金が使えなかったようで、ホテルの外に出て、現金を受け付けてくれるカフェを見つけてリゾットを食べたと言います。

 いろいろなアクシデントに遭遇しながらも、何とか対処できた娘。この旅で、娘は大きく成長するに違いありません。

 

2022年7月16日土曜日

 「あーあ、おねぇねぇ、いないんだ」

 今朝、目覚めた息子が発した第一声です。昨夜、イギリスのサマースクールに行く娘を成田空港で見送ったのです。

「あら、昨日は軽口をたたいていたのに、おねぇねぇいなくなって寂しいんだ」

「家族の中で一番分かり合える人が行っちゃった」

 小5にしては深い一言です。

「ママじゃ駄目なの?」

「駄目。だって、おねぇねぇとは一番血がつながっているから」

「ママの方が血がつながっていない?だって、ダイレクトにつながっているんだよ」

「違うよ。おねぇねぇと僕はママとダディから半分ずつDNAを受け継いでいるんだ。だから、DNA的には一番近いんだ」

 確かに。そういえば、私が血液がんを再々発させたときに、主治医から勧められた「造血幹細胞移植」。この治療は、患者とドナーの白血球の「型」が同じでなければ出来ません。「一番型が合う確率が高いのはきょうだいです」と主治医から説明を受けて納得したことを思い出しました。

 きょうだいは両親から同じDNAを受け継いでいますので、白血球の「型」が合う確率が高い。私の場合、一人っ子だったこと、両親が高齢だったこともあり、骨髄バンクの利用を勧められました。結局、その治療はしませんでしたが、このときの経験が、息子を出産するときに臍帯血を保存する決断につながりました。血液疾患を3つ患った私のDNAを引き継ぐ子どもたちが、将来、血液疾患を患うことになってしまったときに、この臍帯血を使ってほしいと「保険」を掛けるような気持ちでした。

 そんなことを思い出しながら、息子と会話を続けました。

「そうなんだ。一番血がつながっていて分かり合える人がいなくなると、寂しいんだね」

「うん。寂しい」

そう言って、息子はベアのぬいぐるみをギュッと抱き締めました。そして布団を被ってしまいました。

 日頃は娘に邪険に扱われたり、勝手に物を使われたりして、理不尽な思いをすることも多い息子。でも、一方で娘にはとても可愛がられていることも確か。やっぱり、娘のことが大好きなんだなぁと娘の不在を寂しがる息子をとても愛おしく感じたのでした。


2022年7月15日金曜日

旅立った娘

  娘が先ほど、成田空港からイギリスに向け旅立ちました。フィンエアでヘルシンキ経由でヒースロー空港に明日着きます。月曜日から2週間の日程で、ケンブリッジ大学でのサマースクールに参加するのです。

 一人でイギリスに行くことを不安に感じていた娘は、私や夫に一緒についていってほしいと願っていました。実際、大学の寮には1部屋に2人泊まれるので、私がついて行こうと思えば行けました。娘が学んでいる間、ケンブリッジのあちこちを散策したり、カフェでお茶をしたりも楽しいな。夜、娘と寮のベッドに寝ながら、学校で学んだことを聞くのはどんなに楽しいだろうと考えました。

 また、コロナ禍、在宅勤務が出来るようになった夫も、娘と一緒の寮に泊まらなくても、近くにホテルの部屋をとって、そこで仕事を出来ると嬉しそうでした。夫はイギリスに本社がある企業に勤めていますので、社内のネットワークを広げることも出来るとも言っていました。息子は小学校に通っていますので、一人が東京に残って息子の世話をし、一人が娘と一緒に行くといいねということも話していました。

 でも、私たちはその夢のような2週間を過ごすことをぐっとこらえて止めました。娘は今、ここで親から自立するべきなのだ。自立への一歩を踏み出すときなのだと考えたのです。

 イギリスや世界中から集まる高校生たちと一緒に学び、交流し、寮で食事を一緒にする。クラスで仲良くなったお友達と週末にカフェでランチをする。街を一人で散策する。そんな体験をしてほしい。

 私たちが待っていると、家族思いの娘のことですので、せっかく知り合ったお友達の誘いも断り、私たちと食事をするでしょう。それをしてはいけない。私たちにとって、娘との時間は何物にも代え難いものですが、ここは娘を一人で旅立たせなければならないと考えたのです。

 一人で行かなければならないーと覚悟をした娘は、ずいぶん不安だったようです。ここ1週間は、不安を打ち消すように、ずっと眠っていました。荷物をスーツケースに詰めなければならない昨日も、昼間ずっと寝ていたのです。

 今日のお昼には、娘のお友達のユミちゃんから私に電話がありました。娘がイギリス行きを不安がっていたと言います。「とても心配なんです。電話もつながらないので大丈夫かなと本当に心配で」と。

 お友達も私たちも心配しましたが、娘はギリギリになってポジティブな気持ちで支度を始めました。夫は荷物のチェック担当、私は早めの夕食に、娘の大好物の「鶏そぼろ丼」を作りました。

 車で成田空港に向かいました。フィンエアのカウンターで手続きを終え、ついさっき食べたばかりなのに「お腹が空いた!」という子どもたちのリクエストに応えて、マクドナルドのハンバーガーセットを食べさせました。そして、保安検査場へ。

成田空港のFINNAIRのカウンター

 「大好きだよ!サマースクール楽しんできて」「I love you! 」とセンチメンタルな気持ちで娘を抱き締める私と夫でしたが、息子は「くれぐれも体重を増やさないように。君に会えて良かったよ!」と、冗談を言いながら、娘を送ります。でも、最後にはさすがに抱き着いていました。「重いよ!」は娘は文句を言っていましたが、とても嬉しそうでした。

「おねぇねぇ、いってらっしゃい」

 保安検査場に入り、こちらを振り返って手を振る娘を見送りながら、娘の横に天国にいる息子の姿を見ました。娘と同じ背丈の息子はリュックサックを背負って、娘と一緒にこちらに向かって手を振っています。

 無事に産んであげられたなら、息子は娘と一緒にイギリスに旅立ったはずでした。でも、天国にいる息子は、双子の姉を見守ってくれているに違いありません。「無事にサマースクールを終えられるよう、見守っていてね」と天国の息子に祈りながら、見えなくなるまで娘に手を振りました。

 飛行機に乗り込んだ娘から自撮り写真付きのメッセージが届きました。飛行機に乗ったら読んでねと、手紙とお小遣いと2週間の出来事を書き留めるためのノートを渡していました。写真の娘の目には今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっていました。

 

 

2022年7月9日土曜日

叔母にさよなら

  札幌から戻った翌日、札幌の叔母の訃報が届きました。12人きょうだいの末っ子に生まれた母にとって、残ったきょうだいはこの92歳の叔母と89歳の叔父だけ。葬儀に参列したいという母の気持ちは十分分かりましたし、私にとっても思い出がたくさんある叔母です。札幌から帰ったばかりでかなり体力的にきつかったですが、お通夜が行われる水曜日、札幌に向かいました。

 叔母の家は、私の実家の近くにあります。ですので、葬儀は実家の近く、私の父を送ったときと同じ会場で行われました。会場に着くと、親戚がすでに集まっていました。母のきょうだいで残っているのは、母、叔父と奥さん、そして今回亡くなった叔母のご主人だけ。そのほかは、私のいとこたちです。久しぶりに会ういとこたちは皆、年を重ねていました。

 従妹のYちゃんが、私と母の顔を見るやいなや、涙を流して抱き着いてきました。Yちゃんは施設や病院を行き来していた叔母のお世話をずっとしていました。「亡くなる少し前にお母さんに会えたの」と言います。コロナ禍、会えない日々が長かったのですが、最近、ようやく会えるようになったらしいのです。

 「そうだったんだね。叔母さんに会えてよかったね」

 「うん」

 Yちゃんは、ポロポロと涙をこぼします。

 祭壇にはたくさんの花が飾られていました。棺の中の叔母は、今にも目を覚ましそうな、穏やかな表情をしていました。そして、遺影の叔母の美しいこと。

「Yちゃん、いい写真だね」

「うん、これを使いたかったの。お父さんとの結婚記念日に写した写真なの。いい写真でしょ」とYちゃんはまた泣きます。

 お通夜の後は、いとこたちとたくさんお話をし、布団を並べて寝ました。これまで何度も母や父のきょうだいのお通夜に出てきましたが、いつも、皆明け方まで起きていて、お線香を絶やさないようにしていたものです。ですが、今回は11時前には皆、布団の中に入っていました。皆、年を取ったんだなぁと思いました。

 私が布団に横になっていると、Yちゃんが喪服のまま、私の布団に横になりました。

「明日、やだなぁ」

 Yちゃんはポツリとつぶやき、目からは涙がつつっと流れました。

 告別式の後は、叔母さんを荼毘に付さなければなりません。私は死産した息子と、父を送りましたので、Yちゃんの気持ちは痛いほど分かりました。

 翌朝、告別式の後は葬儀会場からバスで火葬場に向かいました。母によると、そこは父を荼毘に付した場所だそうですが、私はバスに乗ったことも、その火葬場のことも、記憶にありません。覚えているのは、父の遺骨が骨壺に入りきらなかったため、私の従妹のご主人が木の棒のようなもので砕いてくれた場面だけです。

 逆に、並んだ火葬炉を見たときに、息子を送ったときのことをありありと思い出しました。あのとき、私は車いすに乗っていました。息子の死が受け入れられず、大声で泣き叫んでいました。車いすから立ち上がるのが痛くて痛くて、何とか立ち上がって、小さな棺の中の息子にキスをしました。

 今振り返ると、他にも何組もお見送りの人たちがいましたので、泣き叫ぶ私は大変な迷惑だったと思います。でも、息子が骨になってしまった後は、もう声も出なくなりました。息子の骨は小さく、可愛らしかった。その骨を一つ一つ拾い、小さな骨壺に収めました。そのときのことを思い出し、胸が苦しくなりました。

 還骨法要が終わった後、面倒見の良いいとこのMちゃんが私と母、そして、叔父と奥さんを送ってくれました。Mちゃんは72歳、私の母は84歳、叔父は89歳、叔父の奥さんは83歳です。

 新千歳空港で車から降りた後、母が泣きながら、車の助手席に座る叔父に話しかけていました。叔父は優しい表情で何度もうなずいていました。切ないさよならの場面でした。 

2022年7月3日日曜日

実家にさよなら

  ようやく週末です。先週は週末から忙しい1週間を過ごしました。やっとひと息つくことができました。

 まず、先週末は84歳の母と一緒に実家に戻りました。母が家を処分する決意をしたため、処分できるものと持ち帰るものを整理しにいったのです。

 50年近く住んできた家を手離すのは、母にとっても大きな決断だったと思います。でも、今は娘の家から徒歩5分のマンションに住み、そこを「終の棲家」と考えている母は、札幌の家を手離そうとこのコロナ禍に考えたようです。手離すのなら、自分が手をかけてきた家をなるべく良い状態で、どなたかに住んでもらいたいと願ったようです。

 6月25日の朝早くこちらを出て、真っすぐ実家に向かいました。昨年11月に一度、私が娘と一緒に様子を見に行っていますので、家は良い状態でした。母は身の回りの好きな物は引っ越しのときに東京に持って行っていますので、残っているものは母に選ばれなかった物たち。ですので、母にとっての今回の札幌帰省の目的は家の片付け・掃除でした。

 私は逆に、救える物は救おうという気持ちでした。事前に郵便局で大きな段ボール箱7枚を買い、家にあった梱包材をスーツケースにいっぱい詰めて持っていきました。

 「お母さん、この皿は?」「いらない」

 「この飾り物は?」「いらない」

 そのやり取りを繰り返しました。仕舞いには「いらないって言っているでしょ。あんたが使うなら持っていきなさい」と叱られる始末。「でも、可哀想じゃない」「そんなこと言っているから、あんたの家はいつまで経っても片付かないんだよ」。あーあ、厳しい母です。

 7段飾りの雛人形の箱を段ボール箱に詰めていると母が言います。「私の友だちでお雛様をとってある人は誰もいないよ。皆、娘たちがいらないというから処分したみたい。あっさりしたものだった。そうだよね、7段飾りなんて場所を取るし。あんた、持ち帰るなら、一年に一回は出してあげて頂戴。それじゃなきゃ、カビ生えるからね」

 お母さん、分かっているよ。忙しくて出せないときもあるかもしれないけど、処分するよりいいでしょという言葉を飲み込みます。そして、黙々と段ボール箱に詰めます。

 極め付けは、昔、私が母にプレゼントした生け花のお花器。群青色のそのお花器はデパートで時間をかけて選んだものでした。値段もそれなりにしました。それが母に打ち捨てられているのを見るのは辛かった。

 「お母さん、このお花器は?」「いらない。あんたが使うんだったら、持っていきなさい。でも、そのお花器で花を生けるのはあんたには無理だよ。持っていくなら、こっちを持っていきなさい。ただ、切り花を刺せばいいだけだから」「…」

 両親が使った皿や飾り物などあれこれ救って、梱包材に包んで段ボールに詰めていた私は、このお花器を諦めることにしました。私が母にプレゼントして、母が「いらない」と判断したものです。それを私が救う意味はないなと思ったのです。可哀想ですが、このお花器はそういう運命だと思うようにしました。

 その日は、母がよく友達とランチに行ったという「ホテルモントレー」を予約していました。片付けがひと段落ついた夜6時過ぎに向かいました。母が懐かしがってくれると期待していましたが、「私が友達と行ったホテルは新しくて広いほうのモントレー。ここは古い方のホテルなの」と返され、がっかり。ホテルモントレーはとてもクラシックで素敵なホテルですが、今年度に大規模改装するということでしたので、最後に母と一緒に泊まりたかったという気持ちも分かってもらえませんでした。

 翌日も私はせっせと家の中を探しました。父のシャチハタの印を机の奥まったところから見つけたときは嬉しかった。それと、使われていない名刺入れ。内側には何かの会の名前が刻まれています。母に聞いてみても「分からない」ということでしたが、父が取っておいたということはきっと意味のあるものだと判断して、持ち帰ることにしました。

 嬉しかったのは、父の杖を靴箱の横の奥まったところで見つけたことです。夫から「お父さんの物が何か見つかればよいね。杖とか」と言われてきたので、ふと思いついて見てみたら、あったのです。母によると外出用の杖ということで、あまり使われていませんでしたが、これも持ち帰ることに。

 父が遺したたくさんのアルバムは救えませんでした。すべて目を通して、仕事をしている写真、高校の同窓会の写真、友人と行った旅行の写真、会社で「還暦」をお祝いしてもらっている、赤いちゃんちゃんこを着た写真など十数枚を持ち帰ることにしました。それらを見ていて、父の人生は家の外にあったのだなぁと改めて思いました。

 日曜日はギリギリまで片付けをし、一つ一つの部屋の壁に触れて「ありがとう」と声掛けをし、「誰か良い人に住んでもらえますように」と願いながら、実家にさよならをしました。夜8時過ぎの飛行機で東京に戻りました。

さよならした、札幌の実家

 結局、段ボール6箱分の物(そのうち、3箱が雛人形でした)を東京の我が家に送りました。軽井沢の家には布団1組と枕も。布団は私が結婚したときに母が夫のために作ってくれたもので、これももちろん捨てられませんでした。 

子どもたちが小さなころよく遊んだボールと息子がよく隠れた籠も持ち帰りました

 実家がなくなるーというのは、人生においての大きな変化です。気持ちは塞ぐものです。せめて、父母が使った物、子どもたちが遊んだものを持ち帰ることで、動揺している心を落ち着かせたいと思っています。