2024年10月31日木曜日

恐山へ ⑥

 「6時半から朝のお勤めがあります。地蔵堂にお集まりください」

 午前6時過ぎ、恐山菩提寺の宿坊の館内アナウンスがありました。前夜、ガタガタという音がひどくて、布団を別の場所に移し、電気を付けたままで眠りについたのですが、少し眠れました。このアナウンスの少し前に目が覚めていました。

 顔を洗い、歯を磨いて、服に着替え、お化粧をして、お堂へ。すでに宿泊客のほとんどが集まって、椅子に座っていました。私が行ったのは最後のほうでしたので、もう椅子はなく、お坊さんが「椅子がない方は前へいらしてください」と案内してくれました。菩提寺院代(住職代理)の南直哉さんがお立ちになっているすぐ前に正座しました。

 私は、ダイニングテーブルとソファで育った世代ですので、正座をすることもほとんどありません。足が痺れることを想像し、「もう少し早く来れば椅子に座れたのに」とふと思いましたが、すぐに気持ちが変わりました。南さんの後ろ、私の場所からよく見えるところに、長い「塔婆」が4枚立てかけられており、そのうち2枚に私の父と息子の名前が書かれていました。

 南さんと他3人のお坊さんのお経を、父と息子の名前が書かれた塔婆を見つめながら、厳粛な気持ちで聞きました。父と息子が極楽浄土(キリスト教の天国)で幸せに過ごしていますよう、祈りました。すべてが導かれている、と感じた時間でした。

 本来ですと、塔婆を納める場所に一緒に行くようになっていましたが、南さんから「風が強いため、本日は私たちが納めて参ります。向こう側は石などが飛んできて危ないですので、8時ごろまでには行かないように」とのご指示がありました。そして、皆静かにお堂を後にしました。

 お堂の廊下から、宿坊が見えました。私の泊まった部屋の窓の前にだけ、台の上に乗ったエアコンの室外機がありました。前夜のあのガタガタはこれが原因だったんだな、と分かりました。ですので、あの音に震え上がっていたのは私だけで、他の宿泊客は静かに寝られたのだと分かりました。大きな部屋の片隅の布団置き場に布団を移し、襖を閉めて、電気を付けたまま寝た自分が何とも滑稽で、思わず苦笑しました。

 午前7時半に朝食です。お坊さんと一緒に「五観の偈(ごかんのげ)」を唱え、「いただきます」を唱和しました。朝食も美味しく、そして、前日は全く働かなかった胃もちゃんと食べ物を消化してくれているようで、また、治った後もずっと続いていたマイコプラズマ肺炎による咳もほとんどなくなり、体も通常に戻ったようでした。

 食事を終え、8時過ぎに外に出ることにしました。チェックアウトは10時ですので、すでに支度をして宿坊を出る宿泊客もいました。が、私は10時10分発のバスで下北駅に行く予定でしたので、ギリギリまでここにいることにしていました。

 宿坊を出て、本堂の近くに行くと、お守りなどを売っている小さな小屋がありました。そこで家族全員にお守りと父の仏壇に供えるお札を買い、色鮮やかな風車も買いました。そして、「水子供養地蔵尊」がある場所に向かって歩きました。

 水子供養地蔵の周りにはたくさんの風車がくるくると回っていました。たくさんのお母さんがここに来て、手を合わせたのだろうなと思いました。前日の強風で吹き飛ばされてしまったのでしょうか。お地蔵さんがよく見えるところにある風車を刺す穴が一つ空いていました。そこに買ってきたばかりの風車を刺しました。そして、その前の池に前日社務所でいただいたお札を浮かべました。

水子供養地蔵の周りを囲む風車。真ん中が息子のための風車

   「アンディ、無事産んであげられなくて、ごめんね。おねぇねぇは来月20歳になるよ。時が経つのは早いね」

 そう、息子に話しかけました。風車は勢いよく、くるくると回っていました。

 

 

2024年10月30日水曜日

恐山へ ⑤

  午後7時から、薄暗いお堂で行われた恐山菩提寺院代(住職代理)・南直哉さんの法話は、心に深く染み入るお話でした。死者の霊が集まると言われる恐山になぜ、人は来るのか? 南さんは、亡くなった方のご供養をしに来た方々が、実はご自身が幼少期から深い傷を抱えている場合も少なくないと言います。

 小さいころ、母親が頻繁に外泊する中、幼いきょうだいの世話をし、酔いつぶれる母をも介抱した女性が、母にかけられた言葉のむごさに傷つき、それを抱え続けた人生を送った話。

 それでも、南さんはこの年配の女性が救われるのは「お母さんを許す自分を許す」ことだと言います。南さんのご著書には、等身大の大きな人形を亡くなった一人息子として慈しんだ母親、目の前で子供を事故で失い絶望の中で生きる両親、親に愛されようと一生懸命親に尽くして結局は自分の納得のいく人生を歩めなかった人…。恐山にご供養に訪れるそのような方々の例がいくつも出てきます。

 私は南さんのご著書を読みながら、私のような者がこう言うのはおこがましいとは思いますが、この方々の深い悲しみに心から共感しました。私自身、一人で恐山を訪れたのは、一人であの霊場に行かざるを得ない事情があったからです。そうでなければ、物見遊山で決して行くべきではないーと言われるあの場所に一人で行くはずがありません。

 南さんは1958年生まれで、大学卒業後に2年間社会人生活を送られた後に出家された方です。ご自身のご家族にはお寺の方はいらっしゃらないそうです。出家された理由について、「恐山 死者のいる場所」(新潮新書)の中で、「私は小さい頃から、『生きる』ということより、『死とは何か』というテーマが、問題の中心にあった」とあり、「世俗にとどまったままではその問題をいかんともしがたく、とうとう出家してしまった」と説明されています。

 「私は人の役に立ちたいという『尊い志』があって僧侶になったわけではない」(心がラクになる生き方、アスコム)とキッパリ言い切っていらっしゃいますが、人生で様々な経験をした後で出家するのではない、人生これからという20代で出家されるのです。世俗を離れた世界で、長い間の厳しい修行と深い思索を通して生まれたお考えは、読む者の胸を打ちます。

 私自身、自身の問題に対しての答えを得るために、様々な本を読み、専門家のカウンセリングも受けましたが、答えは出ていません。でも、心の拠り所となる本は何冊かあり、南さんのご著書もその中の一冊です。今回、暗いお堂の中で、南さんを囲む宿泊客の一番後ろでお話を聞くだけでしたが、お目にかかれて光栄でした。

 ただ、明るいお人柄なのでしょうか。落語のような語り口でお話しになり、文章から立ち上がってくる印象とは少し違っていたので驚きました。でも、そのことについてもご著書で「私はおそらく僧侶らしくない。実際に多くの人からそう言われてきた。君には信仰が無いんだねと真っ向から言われたことさえある。僧侶というより、哲学者だとも」(超越と実存、新潮社)と書いていらっしゃいます。実際に法話を聞いて、やはり、南さんのお考えを理解するには、ご著書を読むほうがずっと良いような気がしました。

 そうこうするうちに法話の時間が終わりました。南さんが最後に宿泊客に念を押しました。「今日は大変風が強いですので、浜のほうにはいらっしゃらないでください。何かあっても我々は責任を取れませんので」と。間髪を入れず、「まぁ、これまで夜行った方はいらっしゃいませんが」とお笑いになりました。

 私は、その言葉に深くうなずきました。昼間でさえ、あの場所に一人で行くのは勇気が要ります。たとえ、死のうと決意をしても、夜あそこに行くのは恐ろし過ぎて、死ぬのは諦めようと思うような気がします。「もう、生きるのはいいかな」と思った私でも、あそこは死ぬ場所には選びません。死ぬなら、僅かでもいい、遠くでもいい、人の気配があるところで死にたい。

 法話が終わり、薄暗い長い廊下を通って、宿坊に戻りました。そして浴衣に着替え、温泉に向かいました。そこには、夕食のときに、私の左に座っていた女性も入っていました。その女性はいったい、どのような理由でここに来ているのでしょうか?

 体が温まり、清潔なお布団に入って寝ましたが、風が強過ぎて、ガタガタという音が止まず、すぐ起きてしまいました。また、うとうとしても、音で目が覚めます。あまりに音がひどいため、午前2時過ぎに、部屋の中の布団置き場(人数が多いときはここも寝室になるのでしょう)に布団を移動し、襖を閉めて寝ました。恐山の宿坊の広い畳の部屋に一人。そして、強風でガタガタという音がなり続ける夜。あーあ、早く夜が明けないかしら? 私は、電気を付けたまま布団に横になったのでした。

 

2024年10月27日日曜日

恐山へ ④

  温泉に入って体も温まった午後5時50分ころ、「お食事の時間です。皆さん、お集りください」という館内アナウンスが入りました。朝から何も食べていないため、「やっと、ご飯が食べられる」と有難い思いでお食事処に行きました。

 とても広い部屋にテーブルが長く3列に並び、テーブルの上に赤いお膳が整然と並んでいました。全員の椅子が入口の方に向いていましたので、皆が前を向いて、会話をせず、食事に集中するようです。

 前回のブログでご説明したスリッパと同様の、何といいますか、食事をする場の温かみなどは一切排除された、初めてその光景を見る者を圧倒するような雰囲気です。各部屋から集まってきた宿泊客は皆、静かに席に着きました。

 その日は宿泊客が少なかったようで、真ん中の列と後ろの列2列にお膳が準備されていました。それぞれのお膳の前には名前が書かれた札が立てられています。真ん中の列が2人客で、6組。かなり高齢の母と娘の1組を除いて、中高年のご夫婦(だと思う)でした。私は後ろの列で全員一人客、7人でした。

 夫婦や親子でここに来る理由は何となく分かります。旅行で来る人、大切な家族の供養に来る人、それぞれ理由があって相談してここに来たのでしょう。でも、一人でここに来る人は供養が目的ではない場合、かなりの強者かあるいは酔狂な人に違いありません。

 後ろの席に座っていたのは、一番左が中年の男性、その右におそらく40代ぐらいの女性、私、その右に若い男性、その右に中高年の男性が3人座っていました。右の若者は一人旅が好きな男性という感じで理解できたのですが、平日にここに一人でいらした中高年男性はどのような理由だったのでしょうか? 

 左の女性も、ここに一人で来るには私のように然るべく理由があるはずです。だって、おひとり様の旅なら、日本中たくさん素敵な場所がありますし、あちこち行ったのでたまには違った場所にというほどその女性はお年ではありませんでした。あえて、恐山に、それもお寺の宿坊に泊まるのは何らかの理由があるかもしれないーと想像しました。いや、「日本3大霊場を巡る一人旅」を自ら計画し、ブログに記事をアップしている明るい”大人女子”の可能性もあります。

 そんなことを考えていると、お坊さんが前にお立ちになりました。お食事の前に、「五観の偈(ごかんのげ)」を唱えましょうというご指示でした。宿泊客が全員前を向いているのは、お坊さんがいらっしゃるからなんですね。皆が、お膳の横に置いてある紙を開いて、それを見ながら、お坊さんと一緒に唱えます。

 一には功の多少を計り、彼の来所を量る。

 二には己の徳行の、全欠を忖って供に応ず。

 三には心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす。

 四には将に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。

 五には成道のためのゆえに、いま此の食を受く。

(1・このお米は大変な苦労を重ねて出来たもので、食膳に上がるまでに沢山の人の手を経て今いただけることに感謝する。2・私は今この食事をいただけるほど日夜精進努力しているかどうか反省する。3・お腹がへると過ちを犯しがちなもの。そうかといって美味しいから沢山食べたり、嫌いだから少しでやめたりはしない。4・食事をすることは薬をいただくのと同様で、やせ細ったり命が絶えたりしないためにいただくのである。5・自分自身の本分を全うし、よりよき人間として素晴らしく生き続けるために今この食事をいただきます。)

 そして最後に、「いただきます」を唱和します。ようやく、食事が許されました。

 食事は精進料理で、野菜の天ぷら、煮物、ゴマ豆腐、酢の物などとても美味しかったです。あまりの空腹で、胃がキリキリと痛んでいたため、ゆっくり十分噛んでいただきました。 

 ゆっくりと食べていたので、お坊さんが再びいらしたときはまだ食べ終えていませんでした。が、皆と一緒に「食後の偈」を唱え、「ごちそうさまでした」と唱和しました。

 午後6時30分過ぎに食べ終えました。お腹も一杯でしたが、「五観の偈」を唱えた後でしたので、残すのもはばかられ、何とか全部食べ終えました。まさに、食べる修業でした。私が食べ終わる前に、片付けの方々が来てお膳を下げていましたので、やはり遅かったのでしょう。

 部屋に戻りました。胃が全く働いていないことを、食べている途中から感じていました。でも、午後7時からお堂で菩提寺院代の南直哉さんの法話が行われます。ご著書を何冊も読み、感銘を受けていましたので、お目にかかる機会を逃すわけにはいきません。でも、胃の調子が悪くなってきました。

 私は若いころから胃が悪く、20代で胃潰瘍で血を吐き入院治療。30代で血液がん・悪性リンパ腫を患い、それも胃から始まるがんでした。40代で2回再発した悪性リンパ腫も胃から。そして50代で胃がんを罹患し、手術をしました。長く自分の胃とつきあっていますので、たぶん消化しないだろうな、と分かっていました。大きなストレスがかかると、まずは胃からダメになっていくのです。

 まもなく、吐き気をもよおしました。そして、トイレに行き、何回かに分けて、夕ご飯を全部吐きました。

 6時間かけ、列車やバスを乗り継いで緊張しながらここにたどり着いたこと。朝、準備していた昼食や果物を夫に捨てられてしまい夕食まで何も胃に食べ物を入れられなかったことがずいぶん堪えたこと。恐山のお寺の宿坊は全くの非日常の世界だったこと。そして死者の霊が集まると言われる場所に一人でいるという不安。で、私の体で一番弱い胃がシャットダウンしてしまったのだと思います。

 でも、吐いてしまうと胃の調子は間もなく良くなり、気持ちもすっきり。歯を磨き、水を少し飲み、身支度を整えて、南さんの本と手帳・ペンを持って、お堂に向かいました。長い長い薄暗い木の廊下を足早に歩いていくと、薄暗いお堂で南さんが高座に座り、その周りを宿泊客が車座になっているのが見えました。午後7時に間に合いました。私はその輪の一番後ろに座りました。

 風が強く、静かで薄暗いお堂にガタガタという音が響きました。本当に、どこまでも”恐山”です。

2024年10月26日土曜日

恐山へ ③

  午後3時半過ぎに菩提寺の総門を入ると、静謐な風景が目の前に広がりました。左は湖の浜へ続くであろう殺伐とした道、正面にお寺の山門、そして右に社務所があります。恐山の開山期間は10月末までのためか、人もまばらです。

恐山菩提寺の山門

 入山料を支払った場所のおじさんに聞くと、「恐山」はこの菩提寺の門の中の一体を言うらしい。いただいたパンフレットを見ても、歩くと3,40分はかかりそうです。暗くなってきましたので、リュックを背負ったまま湖の方に向かおうと思ったのですが、チェックインは4時までと事前に言われていましたので、まず宿坊に行くことにしました。

 向かって右側の社務所を通り過ぎると奥に宿坊がありました。玄関ドアには「宿泊客のみ」という張り紙が日本語と英語の両方で書かれています。ドアを開けて入ると、金色の文字で「恐山宿坊」と書かれた黒いスリッパが目の前にずらりと2列に整然と並んでいます。あぁ、何といいますか、「恐山」という文字は一つでも十分インパクトはありますので、それが黒地に金色で、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊…とずらりと並んでいると、すごい迫力なんですよ。

 でも、そのド迫力のスリッパによって、この霊場に来るまでにピークを迎えていた不安な気持ちも逆に落ち着きを取り戻しました。開き直ったとでもいいましょうか。「分かってますって。私、恐山に来ているんですよね」。そう心の中でつぶやきながら、そのスリッパを履き、靴を靴箱に入れて、フロントに行ったのでした。

 そこには年配の女性がいました。その女性は淡々と説明します。「今日はお一人で泊まっていただけます」(相部屋と聞いていたので、ほっとしました)、お部屋は”法泉”です」

「はい」

「ここはお寺の宿坊ですので、皆さんにはスケジュールに従っていただきます。夕食は午後6時、向こうのお食事処で宿泊のお客さん全員で食べます。夕食時間の少し前に館内アナウンスがあります。温泉は午後10時まで翌朝は午前5時からご利用できます。館内の温泉はお食事処の向こう側、外の温泉は4カ所あります。外のほうは午後5時まで一般のお客さんもいらっしゃいます」

「はい」

「朝の”お勤め"は午前6時半です。最初はあちらの地蔵殿で、その後本堂に移動して行われます。朝食は7時半、夕食と同じ場所で、皆さんご一緒です」

「はい」

「お食事の後、午後7時から地蔵殿で法話があります。あちらの本を書かれた方です」

 その女性はフロントに置いてある、この菩提寺院代(住職代理)・南直哉さんの本を指さしました。私は南さんの本を何冊も読んでおり、感銘を受けていました。本の中で、宿坊で宿泊客と話をするというくだりがあり、もしかしたら、南さんにお会いできるかもしれないと期待していたのです。

 宿泊代を現金で支払い、部屋に行きました。広くて綺麗な和室でした。前週から咳き込むことが続いており、相部屋ですと、一緒に泊まった方にご迷惑をおかけするかもしれないと心配していましたので、一人で泊まれて良かった。私はリュックを部屋に置いて、宿坊を出ました。

 恐山を歩くのには順路があるようでしたが、ずいぶん暗くなってきましたので、とにかく行けるところを巡ろうと、パンフレットの中にある宇曽利山湖の「極楽浜」から行くことにしました。薄暗い中、一人で浜を歩くのはやはり不安でしたが、歩いているうちにそんな不安もなくなりました。そこは本当に静かで穏やかな場所でした。あいにく雨が降っていましたので湖水はグレーでしたが、天気が良いと鮮やかなブルーに見えるそうです。

穏やかで美しい「極楽浜」

 恐山は「あの世に最も近い場所」と言われています。ですので、湖に向かって父に話しかけました。

「お父さん、来たよ~」

 極楽浜でしばし湖を眺めた後、「地獄谷」のほうに向かいました。歩いていくと、硫黄臭が漂い始めました。火山岩により地面は凸凹し、あちこちからガスが噴出し、草花も全くなく、荒涼とした風景が広がっています。まさに「地獄」を想像させます。「賽の河原」ではあちこちに小石が詰まれており、小石と小石の間に刺さっている色鮮やかな風車が、一種異様な雰囲気を醸し出しています。

異様な雰囲気を醸し出す、小石の間に刺さる風車

 その辺りで、幾人かの参拝客(宿泊客?)が歩いているのが見えました。ほっとしました。かなり暗くなってきましたので、急いで宿坊に戻ることにしました。

 宿坊に戻る前に社務所に寄りました。翌朝のご祈祷のときに、息子と父の供養をしていただくためです。申込書2枚に父の名前と息子の名前を書き、お代を納めました。お坊さんがこう説明してくれました。

「こちらのお札はご自宅にお持ち帰りになり、仏壇に納めてください」

「あの…、父の仏壇はあるんですが、息子は仏壇ないんです。まだ、遺骨は手元にあるので」

「その場合は、そのご遺骨の横に置いてください」

「分かりました」

 それと、もう一枚薄いお札を渡されました。

「これは、水子のご供養のためのお札です。明日朝、水子供養地蔵の水辺に浮かべてください」

「はい。分かりました」

 宿坊に戻ってから、タオルを持って、外の温泉に入りに行きました。一般の参拝客がいなくなる5時を過ぎていましたので、木の小屋の中に入っていったのは私一人。風が強かったので時折、ガタガタっという音がしましたが、「地獄」と「極楽」に一人で行った後ですので、もう怖くもなんともありませんでした。

 

木の小屋の中の温泉

2024年10月24日木曜日

恐山へ ②

  東京から下北半島にある霊場・恐山に向かう道のりは長かった。東京から新幹線で八戸に向かい、八戸から「青い森鉄道」で「野辺地」駅へ。そこで陸奥湾沿いを走るJR大湊線に乗り換え本州最北端の駅「下北」へ向かいました。

 大湊線の終着駅は「大湊」なのですが、その一つ前の下北より僅かに南に位置しているため、下北が本州最北端の駅なのだそうです。その大湊線は一両のワンマンカーでした。窓から海が見えてくると、この海は北海道へつながっているんだと感慨深く、東京からずいぶん遠くに来たという気持ちになります。

 地図では下北半島に向こうに「函館」の文字が見えます。札幌から南の函館に向かうときは暖かくてお洒落なまちに行くワクワク感があるのに、東京から北の下北に向かうときは賑やかな都会から逃れるような寒々とした感覚になる。自分のいる場所から南へ向かうのと北へ向かうのでは、これほど感覚が違うのだと改めて思います。東京から下北へ行くのは、札幌から北海道の最北端「稚内」に向かうような感覚でしょうか。

 そんなことを考えているうちに窓の外に海が見えてきました。昨日は天候が曇り/雨だったことから海はグレー色で、朝から何も食べていないことからお腹もキリキリと痛み、気持ちは更に沈んでいきました。

 一両の車両に乗っていたのは7,8人でしょうか。前方に立つのは白いセーターを着た若い女性で小さなハンドバック一つと軽装です。ドアの近くに立っているのは紺色の帽子を深々と被った30代ぐらいの男性。私の斜め前の座席の窓側にはスーツを着た中年男性が座り、横にリュックを置いています。通路を挟んで横の席にはブランド物のハンドバッグと小さなボストンバッグを横に置いた中年女性。その斜め向かいには黒いスーツを着た中年男性。私の前には40代ぐらいの女性が座っており、カバーのかかった分厚い本を横に置いています。忙しなく携帯電話を見ることもせず、ただ、じっと窓の外を眺めています。ボッボーと汽笛がなりました。

 乗客は皆、一人でした。それぞれが本州最北端の駅に向かう列車に乗って、目的地へと向かっています。平日のこの時間に皆、どこに行くのだろう、と想像が膨らみます。かくいう私は、父と息子の供養を目的に、死者の霊が集まると言われている霊場・恐山に向かっています。

 そうこうするうちに下北駅に着きました。列車の乗り換えもここで終わりで、無事下北駅にたどり着いたことにまず、安堵しました。乗り換え時間が短かったことから食べ物を買うことも出来ず、お腹が極度に空いていました。駅舎を出ると大きな道路を挟んで向こう側にローソンが見えました。時間がないため、そこで空腹を満たす食べ物を買うことは出来ませんが、見慣れた店があるだけで、気持ちがほっとしました。実は、下北に着くまで、不安で不安で仕方なかったのです。

 駅の前にバス停があり、そこに「恐山」行きのバスが泊まっていました。目的地行きのバスがちゃんとそこにあるのは安心材料のはずなのに、この「恐山」という文字は本当に気持ちをざわつかせる字で、緊張感はさらに増します。

 大湊線から一緒に降りてきた紺色の帽子の男性、スーツを着た中年男性が、このバスに乗り込みました。運転手さんがバスの外で乗客が来るのを待っていて、私にも話しかけてくれました。「今日は一日雨なんですよ。晴れていたら、〇〇山が見えるんですが」と申し訳なさそうに…。

 バスに乗ったのは私を入れて全部で6人。バスが発車し、まちの中を縫うように走ると、車窓からから見えたのは、北海道でもよく見かける風景です。立派な家と古い家が混在していて、古い食堂や少しさびれた写真館、美容室、なぜか建物は立派な銀行、ずっとそこにあるような洋服屋さん、古い看板がかかった酒屋さん…が道路沿いにぽつんぽつんと建っている、見慣れた風景です。途中視界が広がり、広場が見えてきました。「野菜とりたて市」の看板がかかっていて、「あぁ、ほっとするなぁ」と思います。

 「むつ郵便局」でスーツ姿の男性が降りました。そうか、大湊線に乗っていた男性は郵便局に用事があったんだ(違うかもしれませんが)とぼんやりと考えます。その後、観光バスのように女性の音声による案内が流れてきて、恐山の由来などを説明してくれます。恐山は日本三大零場の一つで、天台宗の僧侶が開いたとされているそうです。昔はそこに向かうのは大変険しい道を行かなければならなかったらしい。

 「賽の河原」では、幼くして亡くなった子どもが「お母さん」「お父さん」と呼びながら、愛おしい父母を探します。でも、お父さんもお母さんもそこにはいません。そして、子どもたちは昼間、河原で小石を積んでいく。でも、夕方になると地獄から鬼が出てきて、子どもがせっかく積んだ小石を崩してしまう。何とも切ない話です。アナウンスは、子どもたちの供養のために、賽の河原では小石を出来るだけ多く、出来るだけ高く積んでください、と呼び掛けます。

 そうこうしているうちに恐山に着きました。左手に海、右手に大きな駐車場とその向こうに菩提寺の門。駐車場には十数台の車が止まっていました。人がひしめき合う東京駅から満席の新幹線で八戸へ。そこから、どんどん人が少なくなる電車に2度乗り換え、小雨が降る中、たった6人(途中で1人下車)が乗る、死者の魂が集まると言われる恐山行きのバスに乗って、終点に着いたときに目の前に見えた何台もの乗用車と人。

 ああ、ここにいるのは私だけではないという安堵感で、高まっていた緊張感が一気にやわらぎました。バスを降りるとき、運転手さんがニコニコと話しかけてきました。「今日はここに泊まるの?」「はい、今日はここでゆっくりします」。バスを降りて、湖を眺め、てくてく歩いて、あの世とこの世の間の「三途の川」にかかる橋を見てきました。橋を見終えて、恐山の駐車場のほうに戻ります。菩提寺の総門の横で入山料を払います。そこのおじさんが聞きます。

「入山料は700円だよ。わざわざ一人でここに来たの?」

「はい、東京から着ました」

「それは、遠くから。わしらは死んだらここに来られるから、わざわざ行かないよ。お祭りのときは行くけどね」

 この地方の人は死んだら恐山に行くと信じているそうです。死は特別なものではなく、今の延長にある。死んでいく場所も、普段暮らしている土地の近く。なんか、こういうのっていいなぁと思いながら、門をくぐりました。

2024年10月23日水曜日

恐山へ

   いま、東北新幹線の中です。八戸で降り、在来線に2回乗り換え、下北へ。下北からバスに乗り、恐山に行きます。恐山に着くのは午後3時過ぎになります。宿泊予定のお寺・菩提寺の宿坊に真っすぐ行く予定なのですが、バス停からどれくらいなのか、全く想像もつかず、不安です。

 今朝はちょっとしたアクシデントがあり、気持ちが落ち込んでいます。昨日は息子の運動会で、張り切って3人分のお弁当を作り、観戦。楽しい一日だったのですが、帰宅後、今日の準備をしているうちに、ざわざわとした気持ちになり、今に至ります。

 この気持ちに拍車をかけたのが今朝の出来事です。朝早く起き、洗濯機を2回回して外に干し、息子の朝食を作り、自分のランチ用にサンドウイッチを作りリンゴを切ってジップロックに入れ、みかんも2つ準備しました。今日は乗り換えが何回もあり、それぞれが5分~10ぐらいしか乗り換え時間がないためです。

 それを紙袋に入れてリュックサックの隣に置いておいたら、何と、夫がゴミとして捨ててしまったのです。玄関に置いてあったのは新聞紙と雑紙の入った3袋。それと一緒に間違って捨ててしまいました。

 こういうのって、落ち込むんですよね。朝、雑紙をより分けて、袋にきちんと詰め直して玄関に置いたのは、私。このままゴミ捨て場に持っていけば良かったのですが、最後の最後に、夫に任せたのが悪かった。

 紙類のリサイクルは、箱類はつぶし、中に食べ物が入っていたりした場合はキレイに洗って干し、封筒の宛名部分だけ切り取って燃えるゴミとして捨てその他を雑紙を入れているごみ箱へ。それをごみ捨ての当日にまた、紙袋に詰め直して、朝玄関に持っていく。玄関からゴミ捨て場に持っていくのは一番簡単な部分でした。何で自分で仕事を完了しなかったのだろう?と後悔しました。

 マイコプラズマ肺炎にかかりましたが熱は下がって、外出をしても良いほどに回復しました。が、咳が止まらなくなることが頻繁に起きます。昨夜もベッドに横になったら咳が止まらず、気道が徐々に狭くなってきて、息も絶え絶えになりました。で、恐山で一人で息絶え絶えになるかもしれないと不安が増したのです。

 一昨日、すごくせき込み、気道がふさがりそうになったときは夫が近くにいました。夫は心配そうに近寄ってきて、椅子まで持ってきて私の側に座りましたが、床に座り込み、咳込んでいる私を見下ろすだけ。かける言葉は「カームダウン(落ち着くんだ!)」。「落ち着け? 咳が止まらなくて、細い気道でようやく息をしているのに? そういう人間がどうやったら落ち着くの? 落ち着くのは息が切れたときだよ!」と思いましたが、咳は止まらず、言葉も出ません。

 やっとのことで、「ウ、ウ、ウォーター」と伝えました。うなずいた夫が冷蔵庫に行き、持ってきたのは1リットルのペットボトル。そのキャップを開けて、私に渡します。

 もう、私は座り込んでいますので、力もなく、それを飲むこともできません。そのときに悟りました。「近くに人がいても、死ぬときは死ぬんだな」と。

 こういうことは本当に些細なことですが、体調が良くないときは、気力がうんと萎えるんですよね。別に夫を頼っているわけでもなく、当然、自分のことは自分でしているんですが、「お弁当は紙袋に入っているけど間違って捨てないでね、でも、紙類が入った袋よりずっと重いから気付くとは思うけど」とか、「咳込んでいる人には背中をさするとか、水をコップに入れて渡すんだよ」とかいちいち伝えなければならない。

 夫は私が病院で瀕死の状態のときに、「シカゴのママとダッドにこちらに来てもらう。ママとダッドも君に最後のサヨナラを言いたいと思う」と泣きながら、言ってのけた人。そのとき、私は酸素マスクをしていましたが、「だ、だ、大丈夫だと思う。まだ、死なないから。ママとダッドを呼ぶ前に、せ、せ、先生に私の状態を、聞いてみたら? た、た、たぶん、本人を前に先生も言いにくいとお、お、思うから、病室の外で聞いてね」と夫がすべきことを逐一伝えなければなりませんでした。こういう局面、結婚22年で数知れず。

 頑張って生きているつもりなんですが、死者の魂が集まると言われる地に行くときに(まぁ、自分で計画したことですが)作っておいたお弁当を捨てられるとか、咳込んで死にそうなときに1リットル入りのペットボトルを渡されるとか、というようなこと残念なことが続くと、ふと、あぁ、もういいかなって思ってしまいます。

 八戸に無事着き、乗り換え時間9分というギリギリの中で、「青い森鉄道」に乗り換えました。可愛らしい駅員の女性に「PASMO使えますか?」と聞くと、「使えないんですよ」ととっても申し訳ない表情で言われてしまいました。前で券売機で切符を買っているシニアの男女、そして男性は「お金を入れたのに、切符が出てこない」とか「買い方が分からない」と言っています。分かりますよ、難しいですよね。私もここ不慣れなので、お手伝いしたくても、教えて差し上げられません、、、。

 切符を買って、やっと「青い森鉄道」に乗りました。気持ちが少し上がるような、明るい青の電車でした。なんか、こういう素朴な感じ、いいなぁ。それに乗ったのは発車2分前。間に合いました。

 次は「野辺地」というところで大湊線に乗り換え、「下北」に行きます。乗り換え時間5分。下北では、下北交通というバスに乗り、恐山へ向かいます。

 夫に「お腹、空いて死にそう。何で、私の弁当捨てるの?」とメッセージを出しました。少なくとも、最果ての地に向かう妻は、生きているというメッセージです。本当にもう!お腹すき過ぎて、死者の魂に引っ張られるじゃないの!

 

 

2024年10月20日日曜日

おたまじゃくしの絵

  軽井沢の家の屋根裏をリフォームするにあたり、そこに押し込んであった子どもたちの衣類や工作・絵などをあれこれ見直しました。子どもたちと過ごす時間と同じくらいに幸せなひとときで、「これ着ていたとき、可愛かったなぁ」とか「そうそう、こんな面白い物作ったよね」とか当時を思い出し、胸がキュンとしっぱなしでした。

 娘は小さなころから絵が得意でしたので、娘の絵は木箱に入れたり、段ボールに挟んだりして、仕舞ってありました。その中で、とりわけ懐かしかったのは、娘が年長さんのときに描いたオタマジャクシの絵。この絵の一部を私が刺繍をしたのです。

 それを今回、東京に持ち帰り、いつも子どもたちの絵を額装してもらう近所の額装屋さんに持っていきました。とってもいい感じに仕上がってきました。

 1階のリビング・ダイニングに飾りました。娘が幼稚園のころ描いた絵は、動物も人も虫もみんなニコニコして、とっても可愛い。心が和みます。

娘が幼稚園・年長のときに描いた絵。右は私の刺繍


2024年10月19日土曜日

マイコプラズマ肺炎に

  今週月曜日から体調が悪く、ブログが書けませんでした。診断がついたのは昨日。マイコプラズマ肺炎でした。処方してもらった抗生剤と咳止め+市販の咳止め薬で何とか回復しつつあります。

 月曜日の夜38度超の熱が出て、火曜日には血尿(だと思います。赤に近い色の尿)が出て仰天。火曜日は日中熱は下がりましたが、夜にまた38度超の熱。咳が出始めました。水曜日は翌日会議での発表が控えていたので、自宅で発表用のスライド作りをしたため病院に行けず。この日も夜に38度の熱。木曜日の会議にはウェブ参加し、会議が終わってすぐに、まずは重大な疾患だと大変なので泌尿器科クリニックへ。

 血液検査をしてもらいましたが結果が出来るのが1週間後ということで、抗生剤と漢方薬を処方され、薬局へ。咳をしていました(もちろんマスクは着用しています)ので外で待ってくださいということで待つこと30分。名前を呼ばれて行って入ると、「すみません、在庫がありません」。

 寒さを感じながら外で待っていましたので、体がすっかり冷えてしまい、気力もなくなり、自宅に戻りました。ベッドに寝ていると、夫が「薬もらってきた?」と聞きます。

「在庫ないということだから、戻ってきたの」

「別の薬局に行かないの?」

「もう、体力ないんだよね」

「車で連れていってあげるよ」と言ってくれましたので、有難くお願いして、ぎりぎり午後7時より数分前でしたので、午後7時閉店の薬局を携帯電話で見つけてそこへ。そこでも「在庫なし」。もう諦めよう、という気持ちになりながら、車に戻りました。夫が、携帯電話で午後7時半まで開いている薬局を調べてくれていました。そこは地下鉄の駅の近くでしたので車で行けないため、車は車道に停めて、私が助手席で待って、夫が行ってくれることになりました。

 しばらく経って帰ってきた夫が「もう、閉まっていた」といいます。熱も出てきているのが分かりましたし、咳もひどく、「もう、諦めて帰る」と言うと、夫が「もう1件行ってみよう」と言い、携帯電話でまだ開いている薬局を見つけてくれ、そこへ。ここも夫が行ってくれました。私は助手席でぐったりです。

 すると夫が戻ってきて、「あったよ!」と薬を渡してくれました。薬剤師さんもとても親切だったようです。

 抗生剤と漢方薬でしたが、あまり効かず、その夜も38度の熱。とにかく咳がひどく、寝られません。あまり睡眠も取れないまま昨日の朝、内科のクリニックに電話をしました。 

 症状を説明すると12時からの「発熱外来」に来るようにと言われ、12時にクリニックへ。「新型コロナ」「インフルエンザ」いずれも陰性で、その後は検査をせずとも説明した症状で「マイコプラズマ肺炎」の診断でした。

 処方された薬は最初に行った薬局で在庫があり、ほっ。帰宅してさっそく飲みました。ただ、咳の薬が効かず、咳が止まらなくとても苦しいため、市販の薬を足して飲んでしまいました。それでようやく少しは呼吸が楽になりました。その後も処方された薬と市販の薬を一度に両方飲んでいます。1日2日数日間、少しぐらい薬の量が多い心配より、咳をし続ける苦しさよりはいいだろう、と開き直りました。昨夜、熱が出始めて5日目でようやく平熱に戻りました。

 金曜日は楽しみにしていた絵本の読み聞かせ、夜はバレエのレッスン、今日の土曜日は昼はお料理教室、夜はママ友と夕ご飯を食べる約束していたのですが、いずれも泣く泣くキャンセルしました。今の私の人生の楽しみ4つもキャンセルする結果になってしまい、メンタルもぐんと落ち込みました。

 さらに今日、食べるのを楽しみにしていたのですが、全く食欲がなく手を付けていなかった大好きな「ふらの雪どけチーズケーキ」をようやく食べられるようになったので、冷凍庫から取り出すと、あれっ、軽い。開けてみると、中身がない! 息子が全部食べてしまい、空箱を冷凍庫に入れてあったのです。

 「これって、ひどくない?」

 さすがの私も怒りました。息子が肩をすくめて「ごめんなさい。美味しいので全部食べてしまいました」。「ママさ、ずっと5日間具合が悪くて、ようやくスイーツが食べたいなと思うぐらいに回復したんだよ。これって、ひどいと思う」。私は中1の息子に真剣に文句を言いました。

 夫が「えっ、全部中身を食べて、空箱をまた冷凍庫に戻すの? それは残酷だなぁ」と吹き出しそうな顔で言います。「どこで買ったの?車乗せていくよ」。駅近くのスーパーまで連れていってもらい、車の中で待ってもらって、私はスーパーへ。「北海道フェア」はまだ続いていて、愛する「ふらの雪どけチーズケーキ」はまだ在庫がありました。それを一つつかみ、レジへ。ドライアイスをもらって冷やしたまま自宅に戻りました。

 そしてひと切れ切って、ようやく食べることが出来たのでした。もちろん、ケーキの箱の上には赤のマジックで「Do Not Eat!」と大きく書きました。8等分できるこのケーキは毎回息子とシェアしていますが、罰として、今回はこのケーキは息子とシェアしないことにしました。

 以前、母親の面白いエピソードを写真付きで紹介した本を読んだことがあり、思わず笑ってしまった写真のことをふと思い出しました。それは冷蔵庫の中の食べ物に貼られたポストイットの写真でした。そこに書かれていたのは、「食べるな! 食べたら殺す!」という文字。そのときはきっとお腹空いた息子がいつも食べてしまうからなんだろうなぁ、、、と共感しつつも、そのメモから伝わる怒りと真剣さに、思わず笑ってしまったのです。

 でも、自分事になると、同じようなことをしている自分がいました。別に息子から笑いを取るためにやっていません。「これは食べるな!」とこちらも鬼のような顔をして伝えているのです。食べ物の恨みは昔から恐ろしいのです。

 


2024年10月14日月曜日

軽井沢の家のソファ

  私は筋金入りの家具好きです。最初にちゃんとした家具を買ったのは結婚前で、三越札幌店で購入した、三越オリジナルブランドの「Brugge」(ブルージュ)のチェストでした。引き出しにチューリップが彫られたナラ材の美しいチェストで、それからボーナスが出るたびに買い足していきました。

 札幌の1LDKの賃貸マンションではこのチェスト2棹と楕円形のダイニングテーブルと椅子4脚を揃えました。

 東京に転勤となり、結婚して2LDKの賃貸マンションに移ってからは、カップボードとベッド、ライティングディスク、本棚と飾り棚を加えました。

 そして、現在の一軒家に移ってからは、カップボードをもう一つ、飾り棚をもう一つ、本棚を1つ加え、そして長さ220㌢のダイニングテーブルをオーダーし、来客用に椅子4脚を買い足しました。

 こうして、30年近くかけて一つ一つゆっくりと揃えていきました。軽井沢の家の家具は丸ごと全部、ブルージュです。三越家具はこの「Brugge」と「Country House」の2つのブランドを持っていたのですが、残念なことに「Brugge 」をやめてしまいました。ですので、なかなか買い足すことも出来ません。というか、家はもう家具でいっぱいなのです。

 それを残念に思っていましたが、たまたま、2人掛けのソファを見つけました。三越家具を製作する工場併設のショールームでした。軽井沢の家の暖炉を囲む場所は2つの一人掛けの椅子を置いてあり、家族で暖まりたいときは、ダイニングテーブルの椅子を持ってきていたのです。そこにもう一つ椅子を加えようと長い間、どこかで同じ椅子を見つけることを願っていたのです。このソファを見て、迷わず買いました。

 実は、三越家具はあちこちの家具屋さんに置いてありますので、運が良ければ、見つけることができます。現在東京の家にある、本棚とカップボード、飾り棚はスペインのお皿を売っている店で現品販売されていたのを買いました。そのスペインの皿の店の上にはイタリアンレストランがあり、家族で食事をした後にそのお皿の店に立ち寄り、この3つの家具を見つけました。迷わず、3つ”大人買い”。店主とブルージュの家具の美しさについて盛り上がり、そしてブルージュがなくなってしまったことを惜しみました。

 そして、先日、ショールームで見つけたソファ。昨日、軽井沢の家にそのソファが届きました。まるで、以前からそこにあるようにぴったりと収まりました。これまで使っていた一人掛けの椅子は、寝室に移しました。娘が帰ってきたら、これをまた居間に移し、4人で暖炉を囲んでおしゃべりするのが楽しみです。

 

居間の暖炉を囲む場所に新しく買った2人掛けのソファ

 

これまで置いてあった一人掛けの椅子

一人掛けの椅子は寝室に移しました。左は同じくブルージュのチェスト


2024年10月5日土曜日

天ぷら蕎麦

  秋分の日の週末、1カ月ぶりに軽井沢で過ごしました。息子の私立中学校は土曜日に授業があり、軽井沢へは片道で3時間前後かかるため、大型連休や夏休み以外は月曜日が休みの週末しか行けません。でも、その分、軽井沢での時間をこれまで以上に大切にするようになりました。

 5、6年前でしょうか。夫が、別荘地の近くに温泉を見つけました。この温泉は、自然の中にゆったりと建てられた豪華なホテルの中にあります。日帰りでも入れ、隣にはレストランが併設されています。娘がいるときは私と娘が女湯に、夫と息子が男湯に分かれて入り、1時間後に入り口前で待ち合わせて、そのままレストランに入り食事をしていました。

 このレストランは以前はイタリアンでしたが、数年前からお蕎麦屋さんに変わっています。イタリアンのときは空いていたのに、このお蕎麦屋さんに変わってからはいつも満席に近いほど混んでいます。私と夫がいつも注文するのは天ぷらと黒蕎麦のセット。息子と娘は「カマンベールチーズの天ぷら」と黒蕎麦を注文します。

 メニューの中には鶏の唐揚げなどもありますが、横のテーブルを見渡しても、皆さん天ぷらを注文していますので、この店の看板メニューなのでしょう。

 私たちはかつてのイタリアンも食べましたが、お蕎麦のほうがずっと美味しい。なぜそう感じるのか考えると、イタリアンはレストランで食べずとも自分たちでそこそこ美味しく作れ、天ぷらは自分では絶対にあのようにサクサクには作れないからだと思います。レストランで食事をするという非日常的な特別感を、あの天ぷら蕎麦で味わえるのです。

 娘がいるときは温泉に入り、その後天ぷら蕎麦を食べるのが楽しみでした。でも、今は娘がいませんので温泉に入るとしたら私は一人。夫と息子はおしゃべりしながらお湯につかりますので、「私一人で温泉に入ってもちょっと寂しいし、1時間も一人では入っていられないかも」と言うと夫が「寂しい気持ちは、分かる。温泉は娘が帰ってきたときに行こう」と言ってくれました。で、今回は温泉はなしで、お蕎麦だけを食べに行きました。

 夫が「僕が運転するから、君は飲んだら?」と言ってくれたので、私は日本酒、夫はノンアルコールビールを飲みながら、サクサクの天ぷらとお蕎麦をずずっといただきました。贅沢な時間でした。 


2024年10月4日金曜日

「おおきな木」

  私は月に一度、地元の公立小学校で絵本の読み聞かせをしています。息子が2年生のときに始め、この春息子が卒業した後も、卒業生ママグループの一員として続けています。

 学校に向かう通学路で、ランドセルを背負って歩く小さな子どもたちを見たり、学校の廊下や教室でお友達と楽しそうにおしゃべりをする子どもたちを見たりすると、我が子がここに通学しているときに学校の行事を手伝ったり、読み聞かせをしたり、なんて幸せな時間だったんだろうと思い返し、胸がキュンとします。

 私は子どもが大好きで、今度生まれ変わったら、保育園や幼稚園、小学校の先生をしたいと願っています。今回の人生では無理なので、せめて、子どもたちに関われるよう、絵本の読み聞かせを続けています。私にとってその時間は、自分の子どもと過ごす時間と同様、とっても幸せな時間なのです。

 9月の読み聞かせは4年生担当でした。ちょっと切ないですが、心にしんと沁みる本「おおきな木」(ジェル・シルバスタイン作、村上春樹訳)を読みました。この本の原題は「The giving tree」(与える木)。りんごの木が、愛する少年にりんごを、枝を、与え続けます。でも、少年はりんごの木の優しさを当たり前のように受け取り、その深い愛情に感謝をしたり、悲しみに心を寄せたりすることはありません。

 私は母親ですので、りんごの木の気持ちがとてもよく分かりますし、私も愛する子どもたちのためには同じようにするだろうと思います。が、一方で、私にも若いころ、少年のような身勝手さはなかったか?とも考えます。

 この本を読むのは今回で2回目。いずれも、最後のほうで、目頭が熱くなりました。読み聞かせる人が涙を流してはいけませんので、ぐっと堪えますが、そんな本なのです。

 前回読んだとき、ボランティアママさんが集合する図書室で、あるママさんが「おおきな木、読んだんですね。私、たぶんできない。読んでいる間に泣いちゃうから」と話しかけてきました。

「確かに。私も泣きそうになりました」と私。でも、これは私の読み聞かせの本のリストに入れることにしています。これからも時折、読んでいきたい。誰かの心に残ってくれたら嬉しいな、と思っています。

地元の小学校で読み聞かせをした「おおきな木」


 

2024年10月3日木曜日

真っ赤な服、親友とお揃いで

  10月5日に都内で開かれる高校(札幌)の同期会に向け、親友Nちゃんとお揃いの真っ赤な服を買いました。還暦記念にお揃いで買って着て行こう!と盛り上がり、張り切ってデパートへ。赤い服を探すのは難しいかも?と想像していましたが、なんと、30分で決まりました。

 まず行ったのはカジュアルな服を売っている「Tomorrowland」というブランド。今年は赤い服が流行なのか、ジャケットやブラウスなど赤を基調にした服があれこれありました。「まぁ、こんな感じね」とひと通り見て、同じフロアの次の店「アニエスべー」へ。

 店に入るや否や目に飛び込んできたのが、このブランドの定番の綿のジャケット。色は深みのある赤。「昔、これよく着た。懐かしい!」とNちゃん。定員さんは「そうなんですね。これは、40年ずっとスタイルが変わらない定番の服なんです」と胸を張ります。

 「この赤、可愛いね。試着しよう!」 ついでに見たワイドパンツも素敵だったので、一緒に試着することに。身長が私より10センチ以上高いモデルみたいなNちゃんはサイズM,私はサイズS(なぜか、この店の服は大きめでした)と違うサイズなので在庫もあり、二人で向かい合わせの試着室で着てみました。

 試着室から出てきて、お互いに「似合うよ!」と褒め合いました(これ大切です)。2人ともどこも直しがなく、「まるで私たちのために作られた服みたい」と盛り上がりました。店内のあちこちで店員さんに写真を写してもらい、二人とも大満足。運よく、店には私たち以外お客さんもいなく、存分に試着を楽しめました。服を購入した後は、デパート内のパスタ屋さんへ。ワインを飲み、パスタやピザをつまみながら、おしゃべりに花を咲かせたのでした。

 関東に住む同期生で今回参加するのは私たちを入れて26人。宮城、新潟、群馬、茨城など遠方からも参加します。私たち、お揃いの服で行ったら、皆びっくりするかなぁ?

高校の同期会に向け、お揃いの服を買ったNちゃん(左)と私


2024年10月2日水曜日

娘@メルボルンからの報告 気球

  私の母が娘と連絡が取れないと泣いて訴えてきた”事件” https://ar50-mom.blogspot.com/2024/09/blog-post_12.htmlから、娘とあまり連絡が取れなくなりました。先週は1週間ほど電話がつながらず、ずいぶん心配しました。ようやく週末に電話がつながりました。娘によると、「お天気が悪くて、誰とも話したくなくて、ずっと寮にこもっていた」といいます。

 メルボルンは時差が1時間なので、少し前までは、ダイニングテーブルに携帯電話を垂直に置いて、娘とフェイスタイムでつなげ、一緒(娘は大学の寮で)によく夕ご飯を食べました。そのほかにも、私と夫がそれぞれ娘に電話をし、おしゃべりを楽しんでいました。娘が一緒に暮らしていたときからそうでしたが、娘との会話が家族にとって癒しなのです。

 ですので、娘と連絡が取れなくなると、家族でパニックになります。それぞれが一日何回も電話をし、大変な量の着信になるので、メッセージに切り替えます。が、「心配だから、電話ください」というメッセージの応酬になってしまい、娘ももう読むのも嫌になったよう。こういうときに「我関せず」を貫くのは息子です。私と夫が大騒ぎしていると、息子がしらっ~とした表情で娘に電話をします。すると、娘も、弟からの電話には出るんです。で、安否確認ができる。やっぱり、きょうだいですね。

 ようやく電話につながった娘に聞いてみると、ずっと悩んでいたそう。で、悩んでいる間は人と話をしたくなかったと言います。

「それって、私ってなぜ生きているんだろう?とかいう哲学的な問題? それとも、学校の課題が多いとか絵が描けないとか現実的な問題? それとも、お友達とか恋とかそういう人間関係の問題?」

「うーん、大学卒業後に仕事が見つかるか? アートで食べていけるのか? という現実的な問題」

「そう。大学1年生なのに、もうそういうことで悩むの?」

「うん、この前、学校のフィールドワークで、アート専攻の卒業生たちのお話を聞く機会があったの。で、共通していたのが、職がないとか、生活するだけのお金が稼げないとか、そういう問題だったの。華々しく成功している人はいなかった」

「あぁ、そう」

 娘は夫の知り合いで、娘と同じ大学で同じアート専攻だった女性のお宅に時折伺ってご飯をご馳走になっています。とても有難いのですが、そこでも、思うようにならなかった人生の話になるらしく(同世代の私としては、そういう問題はご自身で解決してもらい、若者には希望を持ってもらうような話をしてほしい)、娘はアートを追求していく希望や夢が少しずつ薄れ、大学を卒業して仕事があるのだろうか?という現実的な悩みになってきているようなのです。

「あなたには才能があるから、今のまま絵を描くことに打ち込んでほしい。でも、アートの他に何か気になること、やってみたいことある?」

「うん、私、子ども好きだから先生になってみたいなぁと思う」

「そう。それなら、欧米の大学ではダブルメジャー(大学で2つの異なる専攻分野を主専攻として学ぶこと)が一般的だから、そちらを狙ってみたらどう? いくつか追加の単位を取って、教育実習を履修したら、1年ぐらいの延長で2つの専門分野で卒業できるかもしれないよ。でも、ダブルメジャーはそれなりに負担も大きいかもしれないから、まずはアート専攻の中に、将来アートを子どもたちに教える教職員への道がないかどうか調べてみて。若いころは全く別の仕事をしていたけど、年を取ってから学校の先生の仕事をしたくなって、学生時代に資格を取っておいたので出来たという話はよく聞くよ」

「あっ、そうか。そういう道もあるんだね」

「うん。卒業して、一念発起してまた大学に入り直すとかはかなりエネルギーがいるの。だから、学生時代に少し頑張って、将来に備えておくのもいいと思うよ」

「ありがとう。ママに相談して良かった。調べてみる」

 娘によると、今日は久しぶりの晴れで気持ちが少し上がってきて、家族に電話をする気持ちになったといいます。また、前日に、お友達数人とご飯を食べに行ったという楽しいイベントも心の在り様にプラスに働いたみたいです。

「今日はようやくお天気になったから、ママに電話をしようと思ったの。天気が悪いと気持ちも暗くなってしまって、誰にも会いたくないし、とにかく、部屋にこもっていたかった。今日はね、青い空に綺麗な気球が浮かんでいたの。それを見ていたら、気持ちが少しは晴れたの」といいます。

 夫と息子にも電話を回しました。娘は「ねぇ、楽しい話して!」といい、私たちの話を聞きたがりました。親が心配し過ぎるのは良くないとは分かっていつつ、日本にいたら駆け付けるのになぁと思ったり、いや、今が娘の成長のときだから見守ろうと思い直したり。親の私の心も揺れます。せめて、晴れてくれれば、と祈る日々です。


娘が送ってくれた画像。メルボルンの空に浮かんだ気球が綺麗

2024年10月1日火曜日

カラフルなゴミ箱

  遅ればせながら、この春から我が区の資源回収にプラスチックごみが加わりました。軽井沢ではずいぶん前から分別回収されていたのに、我が区ではペットボトルや瓶・缶、紙類は回収されていましたが、プラスチックの袋や発泡スチロールなどは燃えるゴミとして処理されていたのです。

 分別し始めると、燃えるごみのほとんどがプラスチックごみだということが分かりました。日々の暮らしで、野菜が入っている袋や肉・魚のトレー、お菓子の袋、洗剤のボトルなど多くがプラスチック製。ベーコンやお菓子が入っている袋などは中をスポンジで洗うなどして手間はかかりますが、これが資源となると思うとやりがいがあるというもの。

 分別するごみの数が増えましたので、これを機会に外に置いておくお洒落なゴミ箱を買いました。以前から欲しいなぁと思っていたのです。週末に家族で欧米の雑貨を売っている店に行き、まずは赤色を購入。送料が2千円ほどと高かったので、夫が持ち帰りました。猫の額ほどに狭い庭ですが、なかなか良い感じに収まりました。すっかり気に入って、緑と黄色を追加購入しました。

 カラフルなゴミ箱が来てから、分別がさらに楽しくなりました。日々の家事は楽しみながらやるのが一番。それと、やっぱり明るい色は気持ちが明るくなるものだなぁと実感したのでした。