2024年4月28日日曜日

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  昨日、息子の中学校の保護者会でした。フィリピン出身の若い先生は明るく、エネルギーに満ちていて、とっても良いなぁという印象を持ちました。

 懇親会では、授業中に子どもが自分で自分自身について書いたというカードを配布され、それを自己紹介がてら近くに座る親と交換し、子どもについて話をするというゲームをしました。

 隣や前後に座った親たち数人でグループを作り、カードを交換しました。ピンクのカードには、子どもたちが自分自身について表現したひと言が記されています。私の隣のお父さんのカードには「Creative(想像力のある)」と書かれていました。そうか、このお父さんの娘さんは表現することが好きな子なのかなぁと想像できました。

 その隣のお父さんのカードには「kind(親切な)」が書かれていました。そうか、きっとこのお父さんの息子さんは控えめで、でも、お友達には親切にできる子なのかなぁと想像しました。

 隣のお母さんのカードに書かれていたのは、「shy(恥ずかしがり屋)」。そうすると、その後ろのお母さんからは「あらっ、同じ。うちの娘もshy なんです」と、shyな娘さんを持つお母さん同士で話が弾んでいました。

 後ろのお父さんのカードには、「careing(優しい)」。「うちは一人っ子なので、おっとりしているんです」とのことでした。

 さて、我が息子。我が息子が自分自身について表現したひと言は「troublesome(面倒な、煩わしい、やっかいな)」。息子が自分を否定的に捉えていることを残念に思うとともに、幼稚園から小学校卒業まで、息子は「面倒な」「やっかいな」からは一番遠い子どもだったのに、なぜ?という疑問を持ちました。

 学校では友達ともめごとを起こしたことは一度もなく、お友達から遊びの誘いをよくもらいます。担任の先生からも、「他の子を助けてくれる子です」「腰が軽く、率先して手伝ってくれます」など、誉め言葉をもらってきました。家でも我儘を言うこともなく、お菓子を作ってくれたり、「ママ、お茶飲む?」と紅茶を入れてくれたりします。夕ご飯を作るときも、「僕も作るよ」とよく手伝ってくれます。その子がどうして、「troublesome」なんて自己評価をするんだろう?と残念に思いました。

 どうして、こうなったんだろう? 私は親として何が間違ったのだろう? とまた、考えてしまいました。息子の可能性を信じ、愛情もかけてきたつもりだし、家族も仲が良い。どうしてだろう?

 もちろん、私も大人ですので、その懇親会の場では「思春期だからでしょうか。息子は最近、口数が少なくなってきて、『面倒っ』とよく言うんですよ。だから、こんな言葉になったんですね」などと、その場を取り繕いました。でも、寂しかった。

 懇親会の後、先生に相談しました。

「このtroublesomeという言葉に困惑しているんです。息子は最もtroublesome な子どもではないので」

「私もそれを見たとき驚いたんですよ。君は全くtroublesomeじゃないのにとも言いました。彼は英語が出来ますから、出来ないクラスメートをよく助けているんですよ、だからtroublesome というより、人の助けになると言う表現のほうが合っているのですが」

「息子は自己肯定感がとても低いんです。息子にはいいところが沢山あるので、夫も私もその部分を褒めて、彼が興味を持つことを後押しするなどして、何とか自分を肯定する子になってほしいと思っていんです。先生、少し注意をして息子を見守っていただけますか?」

 先生は私がそうして先生に相談したことに感謝の言葉を言い、「様子を見ますね」と言ってくれました。

 帰宅し、夫に相談しました。夫は機嫌が悪く、「何で僕に相談するの? 息子に直接聞けばいいじゃないか? 僕は今週はストレスがたまることが多くて疲れているんだ」と返されてしまいました。

 息子に聞くと、「難しい単語を使ってみたかっただけだよ」とそれこそ、面倒そうに答えました。

 小さいころから大人びたところがある子でした。小学校高学年になると物の見方も冷めてきました。学校や塾に行きたくない!と反抗することもなく、かといって、目標や希望を持って、何かに熱中することもない。日々淡々とそつなくこなしているという感じです。

 息子のことが良く分からないーとなげくママさんの話はよく聞きましたが、私も同様な気持ちです。

息子のお弁当8日目、オムライス


2024年4月26日金曜日

娘@メルボルンからの報告 食材を守る

   この2月、オーストラリアの大学に入学した娘は、寮に住んでいます。部屋は9階にあり、キッチンは1階。料理好きな娘は自炊をしっかりしているようです。

 キッチンには壁一面にいくつも冷蔵庫が並んでおり、娘はその中の一つを割り当てられ、幾人かの寮生シェアをしています。最近、そこで問題が起きていると娘から報告がありました。なんと、食材が盗まれるようなのです。

 物価高のオーストラリア。食材も外食もそれは高いと娘から聞いていました。大学側も「パンケーキの日」「冷凍食品無料提供の日」などを設け、学生たちを助けているようです。が、寮のキッチンで食材が盗まれることが頻発しているようなのです。

 最初はトマトだったそうです。大きなトマトを2つ冷蔵庫に入れ、翌日食べようとしたら、1個しかない。「あれっ、私1個食べた?」と最初は思ったと言います。そして、翌日は卵がいくつかなくなり、そして、極めつけがカツ丼を作ろうと買っておいた豚肉4枚がなくなったそう。

 お友達に聞くと、「食材なんて、当たり前に盗まれるよ。鍵をかけなければダメ」と言われたそう。入寮したときに、冷蔵庫の中のバッグに鍵をかけるよう説明を受けたという娘。「あのときは、何て大げさなと思ったけど、今その理由が分かった」と言います。

 さっそく、鍵を買いに行き、今は冷蔵庫内の袋のチャックに鍵をかけている娘。「テーブルに物を置いても盗まれない日本が懐かしい」とぼやいています。

 

2024年4月25日木曜日

がんのママ友と

  先日、がんのママ友とお茶をしました。そのママ友は私より16歳も若いのですが、気が合い、時折食事をしたり、お茶を飲んだりします。

 彼女ががんを発病したのは37歳のとき。私は38歳でしたので、年は違えども30代でがんになるということはどういうことか、彼女の気持ちはよく分かるつもりです。

 私は今、2つのがんはいずれも寛解状態ですが、彼女はまだ治療中です。治療法を選ぶときに、彼女は髪の毛が抜けない治療法を選びました。私は発病のときは、症状がかなり重かったこともあり髪の毛が抜ける治療は受け止めましたが、2度目の再発時は薬の副作用で顔が醜くむくんでいたため、それに加えて髪の毛が抜けることはやはり辛かった。でも、治療が終わって半年、1年経てば、髪が戻ってくることが期待できた。でも、彼女の場合は治療をずっと続けるため、もしその治療法を選べば髪の毛が戻ることは期待できないそうなのです。

 髪の毛が抜けたり、顔がむくんだり、皮膚に色素沈着したり、と女性として気が重いそれらの出来事は、前向きに生きる気力も奪っていきます。特に30代、40代は女性として最も輝く時代。そういうときに、これまでの自分ではない外見で生きるのは、それは辛いものです。

 以前、入院していたとき、緊急入院して目覚めたら声を失い、外見も変わっていたという当時50代の女性と話したことがあります。「これからどう生きていいのか分からない」と手に持つメモ用紙に書いてくれた彼女の絶望的な気持ちは、察して余りあるものでした。

 顔がむくみ、髪の毛はカツラという、その女性に比べればまだまだ外出が出来る外見でしたが、「誰にも会わずにひっそりと生きる」が、当時の私の願いでしたし、外出時は帽子を深く被って知り合いに会っても気付かれないようにしました。さらに、過去の自分を知る人には絶対に会わなかった。

 それでも、その時は辛くても、治療が効けば、その辛かったことは過去のこととして忘れることが出来ます。ママ友の今の治療が効くこと、彼女の笑顔がこれからもずっと続くことを、心から願ってやみません。

我が家の小さな花壇の花
息子の弁当7日目(4月25日)。ローストビーフ


 

2024年4月24日水曜日

撃沈

 昨日、研究所で自分の研究の進捗を発表しました。「よく分からないんですけど」とあれこれ質問され、しどろもどろの答えをし、完敗でした。研究所を出た後、涙が出そうになりました。

 電車の駅に向かう道すがら、まずフェイスタイムでオーストラリアにいる娘に連絡しました。幸いなことに、出てくれました。画面に出たニコニコ顔での「ママぁ~」というひと声で心がすうっと軽くなりました。

 オーストラリアは2時間時間が進んでいますが、まだ寝る前の8時でした。「今、何していたの?」と聞くと、「ご飯、食べてたの」と言います。「何食べてたの?」「作り置きの炒飯と鶏のから揚げ」。偉いぞ!娘の寮生活は順調なようです。

娘が送ってくれた作り置きの食べ物の写真。左が炒飯、右が鶏の唐揚げ

 「ママ、落ち込んでいるの」。「えっー、大丈夫?どうしたの?」と娘。ブログには何度も書きましたが、娘とのおしゃべりで私は本当に癒されるのです。娘は優しく、包容力があり、そして人の話をよく聞いてくれる。19歳の大学生は悩みも不安もたくさんあるはずなのに、気持ちが落ち込むことも多い母を支えてくれるのです。

 「ママさぁ、自分の能力をずっと超えた所に挑戦して、疲れているの。自分の不得意なところであがいている感じ。山の7合目ぐらいにくると、向こう側にさらに険しくて高い山が見えてきて、さぁ、またチャレンジしようと思ってしまったことを後悔している」。娘はこう返してきました。

「ママ、それちょっと違うと思う。7合目ぐらいまで登って目前には何もなかったんだよ。ママはさ、7合目まで来て見通しが良くなると、双眼鏡を取り出してあちこち見渡して、さらに険しくて高い山を見つけて、そこに最初から登ろうとするんだよ」

「そうかぁ、双眼鏡を使ってまで、難しいことを見つけようとするんだね。自分でもほとほと疲れる。今年還暦なのに、大学院で苦労するのはちょっと違うよね。普通はさ、ママぐらいの年齢で博士号を取得しようとする人は、自分の積み上げてきた仕事や経験の集大成としてだよね。もしくは、自分がずっと興味を持っていたことを追求するために学び直す。ママは長い病気の後に仕事の方向転換をしなければならなくて、新しい道を選んだ。それが、想像していたよりずっと困難な道だったということかな」

「ママ~。ママはよく年齢の話をするけど、これは年齢の問題じゃないよ。あえて、辛くてチャレンジングな道を選ぶ性格の問題だよ」

「そうかなぁ。もう、難しいことだらけで、自分が何が好きで何が得意なのかも分からなくなってきた。少なくとも、同じ学生だから、新しいことを学ぶ娘の大変さは実感できるぐらいかな。良いことがあるとすると」。気持ちを建て直すために、気晴らしに読んだ本の中に「自分の得意なことは意外と分からないもの。家族や友人に聞いてみましょう」とありましたので、娘に聞いてみます。

「ねぇ、ママの良いところって何?」

「ママの優れているところはね、文章が上手で、写真が上手なこと。そして、料理上手。特にすごいのは、冷蔵庫の中の残り物で、美味しい料理を作れるところだよ」

「そっかぁ、ありがとう」と私。文章を書くこと、写真を撮ること。これは新聞記者時代に鍛えてもらったこと。料理は料理上手な母から学んだことです。

 気持ちが軽くなりました。

「ありがとう、話を聞いてくれて」

「どういたしまして。電話ありがとう。大大大好きだよ!」と娘はにっこり笑って、電話に向かってキスをしてくれました。本当に良い子で、私は恵まれています。

 次に電話をしたのが、もうかれこれ30年以上は友人として連絡を取り合っているKさん。私が新聞社の前に勤務していた会社の先輩です。この会社を退社した後も、電話で話をしたり、勤務地が同じときは、ご飯を食べたりして、互いの近況報告をし合っています。同世代の日本人男性の視点でのアドバイスがほしいときにも、相談をします。留守番電話になっていましたが、すぐ折り返しで電話をくれました。

「もう、辛くて…。めちゃくちゃ頭の良い人たちの前で、自分でもまだ自信を持てないことを発表する。そして、逃げ場のない、冷静な指摘って、本当に堪えるの」

「それさ、自分との闘いでしょ? 自分の能力が足りないということでしょ? 前のように指導教員が全く指導してくれなくて、悩んでいるときより前に進んだんじゃないの?」

「うん、確かにそう」

「まぁ、最も難しい場所に行っているんだから、その苦しみは当然だよ。簡単に学位は取れないと思うよ。それに、自分で好んで、険しい道を選んでいるんだから」と笑い飛ばします。

「確かにそう。もう、こういう自分がほとほと嫌」

「まぁ、その年でも成長しているんだから、大したもんだよ。まずは、支えてくれるご主人や子どもたちに感謝するべきだね」

「いつも、それ言われるよね。日々、感謝の気持ちは持っているつもりなんだけど、目の前に困難が立ちはだかると、そちらにばかり意識がいってしまう」

「そうだよ。君の場合は、生きているだけで御の字だよ。生きていることに感謝しなきゃ。幸運にも病気を克服して、今は健康になっている。そのことに感謝することだね。じゃあ、またご飯でも食べよう」

 彼はがんで奥様を亡くしています。ですので、がんを克服できたことに感謝をすべきだーといつもたしなめられるのです。そして、私のちっぽけな悩みを笑い飛ばしてくれるのです。

 2人と話し終わり、電車に乗りました。先ほどのどん底の気持ちは持ち上がっています。ほどなく、夫からテキストメッセージが届きました。「いま、どこ? 雨降っているから迎えに行こうか?」

 駅には夫が車で迎えに来てくれました。帰宅すると、夕ご飯が食卓に用意されていました。メニューは私が昨日リクエストした焼き鳥でした。白ワインも添えてありました。夕ご飯を作って待っていてくれた夫と息子に感謝。

息子の4日目(4月21日)の2段弁当。おかずは豚肉の生姜焼き。左と右は夫と私の分

息子の5日目(4月22日)の2段弁当。おかずはハンバーグ

息子の6日目(4月23日)の2段弁当。鶏そぼろご飯。すでにネタ切れで初日と同じ



2024年4月20日土曜日

息子の得意なこと

  学校では自分のことをあまり表現せず、周囲との調和をはかり、自宅に戻ればゲーム攻略のユーチューブを見るを楽しみに生きる息子。朝、私より早く起きれば、お湯をわかして紅茶を入れて飲んだり、お茶漬けを食べたりと、自分のことは自分でする手のかからない子です。

 何か希望を聞くと、大体が「何でも良いよ」。先日、2泊3日で学校のオリエンテーション合宿があり、駅までは迎えに行きましたが、クラスの半分は親が学校まで迎えに来ていたそう。で、「ママも学校まで迎えに行けば良かったね」と言うと、「ううん、ママの都合が良ければ迎えに来てもらってもいいし、都合が悪ければ来なくてもいいんだ。僕はどちらでも」という返事。一事が万事、こんな感じ。「どちらでも」「ううん、大丈夫」。返事はだいたいこんな感じです。

 息子の世話を焼くのが私の幸せな時間なのですが、先手必勝でいかないと、息子は何でも自分でしてしまうので、「ママにさせて~」と言うことになってしまいます。食事はもちろん作りますが、息子は自分でも作れるので、お腹が空けば、冷蔵庫にあるもので食べてしまう。「ママ、お腹空いたから作って!」というリクエストもない。なんかなぁ、寂しいなぁと感じる日々。

 このような息子は何に対しても情熱的に取り組むことがないのですが、一つ、自ら率先してやることがあります。お菓子作りです。

 先日は、「龍の髭」という飴づくりに挑戦。水あめを使い、生地をこねて、糸のようになるまで何度も生地を回していきます。何度も失敗して、生地をまた丸めて、細長くして、回していきます。最後はやはりうまくいかず、諦めたようですが、そういう気の長い作業を出来るのがすごい。

  そのときに小麦粉をたくさん使って余ったので、「これを使って、何か美味しいものを作ってね。余った食材を使って、美味しいものを作るのが料理の醍醐味なんだから」と言うと、翌日、クラッカーを作ってくれました。ほんのり甘くて、実に美味しかった。マーマレードを付けると、美味しさがさらに増しました。

 一昨日は「ママ、イチゴ買ってくれる?」と珍しく、要望があったので、買ってあげると、「イチゴ飴」を作りました。これも、また、美味しい。


 家族4人とも料理好きなので、夫が、「将来、レストラン開こうか?」と息子に言います。「そうだね、ダディが日本酒とアメリカ料理とメキシカン担当、ママがワインと和食・中華担当、おねぇねぇがイタリアン担当。あなたがパテシエとしてデザート担当だね」と言うと、夫は「アーティストのおねぇねぇは、店のデザインとか広告も、担当だね」。

 マイヤー家の夢は広がります。

 

2024年4月19日金曜日

幸せな時間

  私がもっとも幸せに感じるのは、家族のために料理をしているときです。誕生日などお祝いのときの特別な日の料理も楽しいですが、家族からのリクエストがあったり、冷蔵庫の残り物を使って工夫したり、そんなのも楽しい。

 先日、息子が春キャベツを千切りし、お好み焼きを作ってくれました。大きなキャベツだったので、まだ残りがあり、夫から「ロールキャベツを作ってほしい」とリクエストがありました。金曜日の今日、張り切って作りました。春キャベツは冬のキャベツと違って、巻きがふわふわなので大きな葉は少なく、芯に近いほうの葉は2枚重ねにするなど工夫して、何とか6つ作りました。

  今日は夫が出勤、息子も部活動があり、家族がそろったのは夕方6時。でも、まだ、日が暮れていないので、デッキで食べました。

 オードブルは夫と息子が大好きな、老舗の豆腐屋さんで買ったさつま揚げ、家族全員が好きなパルメジャーノ・レジャーノ・チーズ、バケット、茹でたソラマメ。夫はいつものカベルネ・ソーヴィニヨン、私は金曜日なので贅沢をして、シャブリ。


     夕方、娘に電話をすると、寮のキッチンで料理中でした。今日のおかずはしょうが焼肉だそう。しょうがが丁度切れていたらしく、同じ寮の日本人仲間にグループラインをすると、「俺、あるよ!」と同じ高校出身の男子から返信があったそう。私とフェイスタイムで話している最中に、ちょうどその友達がしょうがを娘に手渡してくれました。娘は昼も夜も自炊しています。きちんと手作りをして、食べています。

 そういえば、母も一人暮らしですが、毎食丁寧に手作りをして食べています。一人でも家族でも、美味しく食事をするって大切だなとつくづく思います。

 

息子のお弁当3日目(4月19日)。おかずはレンコンのはさみ揚げ

左は私のお弁当、右は夫のお弁当。レンコンのはさみ揚げに椎茸も追加

 

 

 

2024年4月17日水曜日

ブラッドオレンジジュース

 最近のマイヤー家のヒットは、「ブラッドオレンジジュース」です。生のブラッドオレンジを絞って、炭酸水かトニックウォーターで割って作ります。連日、息子が私に作ってくれるので、有難く飲んでいます。

 ブラッドオレンジジュースはイタリアンレストランのソフトドリンクメニューに入っており、家族全員が大好きな飲み物。自宅でも飲みたいなぁと思っていたところ、発見したのは缶入りのもの。駅横のスーパーに置いてあることを知ってからは、時折、買って飲んでいます。

 ところが、夫が別のスーパーで生のブラッドオレンジを発見。小ぶりなみかんぐらいの大きさでちょっと高めなのですが、息子が大好きなので、連日そのスーパーに行っては買ってきています。「今まで見たことがないから、たぶん季節ものなんだと思う」と夫。

 最近は東京も暖かくなり、デッキにテーブルを出しているので、夜はそこで食事をしながら、このブラッドオレンジニュースを飲みます。心が豊かになります。 

息子が作ってくれたブラッドオレンジジュース。スライスをグラスに添えておしゃれです

息子のお弁当2日目(4月16日)はチャーシュー丼。チャーシューは前日に仕込みました



2024年4月15日月曜日

息子のお弁当作り始まる

  1週間ぶりのブログです。目まぐるしい日々で、気持ちがなかなか上向かないため、ブログを書くことが出来ませんでした。でも、先週から息子の中学校がスタートし、お弁当作りも始まったため、これをきっかけに自分の気持ちを立て直そうとブログのURLを開きました。

 3月4月は、息子の卒業式、始業式、息子とのスキー旅行、東京都内での納骨堂探し、札幌からの父の遺骨の移動…と家庭のことに取り組みながら、一方で、論文書きとデータの解析に追われていました。

 私の論文には共著者の先生が10人います。第一稿を回覧(一斉メールで送る)し、様々な助言をワードのコメントでいただき、それを修正し、どう修正したかをコメント欄に記載し、それを返信する。そして、英文校正に出し、その分野に詳しいエディターから様々な助言や修正があり、それを反映させた第2稿を先生方に回覧します。また、助言をいただくので、それを一つ一つ原稿に反映させます。今日は第3稿を完成させ、共著者の先生方に返信し、英文校正に出します。

 この世界に足を踏み入れて身を持って知ったのは、これらの助言が理論や厳密な手法に基づいたものなので、修正するためには海外の論文を探し、読み、理解してからという大変労力のいることです。力があれば、このような助言もないのでしょうが、私の場合まだ博士課程の学生ですので、”根本のところが分かっていない”ということなのだと思います。

 共著者の先生方のほとんどが博士号取得者でかつその分野での経験も豊富な方々。元新聞記者(とはいっても、12年間の経験)でがんサバイバー(20年前に発病し2度再発、昨年は別のがん発病)の私が太刀打ちできる場所ではなかったーと、困難があっても乗り越える、果敢に挑戦するーという自分の性分がほとほと嫌になっています。

 毎日、研究室の生き帰りの電車の中で、子どもたちの小さなころの写真を見返しては、「幸せはここにあるのに、なぜ、自分は別の世界に居場所を求めたのだろう」と後悔しています。とはいっても、子どもたちには学校や習い事など彼らの世界があり、夫も職場という別の場所がある。私も家庭以外に自分自身を活かす場を求めても、何らおかしくはないでしょう。

 手を伸ばした先が、自分の実力では到底及ばない、難しい場所だったということでしょうか。今年、還暦だというのに、パソコンの画面に向かって、自分が好きで少しは出来るであろう雑文を書くということではなく、うんうん唸りながら論文を書き、数学苦手だったのに…と思いながらデータ解析のためのコードを打ち込んでいる。こういう自分が滑稽で、苦笑する日々です。

 私の研究室は大学以外の場所にあるのですが、先週、講義があったため(自分が教えるのではありません。受講するんです)に東大に行きました。いやぁ、娘と同じ年代の若い学生たちが楽しそうにキャンパスを歩いているのを見て、しみじみ思いました。大学は若いときにくるものだとー。

 学び直しで再び大学に戻る方々もたくさんいると思います。が、その方々は30代40代でキャリアアップのためでしょう。もしくは定年前後に自分が学びたかったことを追求しにきた方々。私のように、30代後半から病気を患い、病気との闘いがひと段落して、50代になってから人生を立て直すために大学に戻るような人は稀でしょう。せっかく健康を取り戻し50代を迎えられたのに、なぜ、キャリア人生を立て直す必要があるのでしょう?

 多くの謙虚ながんサバイバーの方々のように「がんになって、人生の素晴らしさ、尊さ、家族や友人の大切さに気付いた」と、生きていること、生かされていることに感謝しながら生きるのではなく、病気をしたことで失ってしまった長い時間を取り戻すかのような無理を重ねる自分はやはり、間違っているのではないかと思います。でも、です。一つ困難をクリアすると、というよりクリアできると見積もると、次の目標が出てきてしまうのですよ。目の前に。

 私は登山はしませんが、登山で表現するとこんな感じだと思います。目の前に山があった。難しそうだけど、登ってみようと思い、登り始めた。頂上から見える景色が見てみたいと思ったからだ。7合目ぐらいになると、なんと、登っている山の向こう側により高い山が見えた。それを見て、「ええっ、まだ高い山があるの? 私はこの山を登って、山の頂上から見える景色を見てみるので十分だわ。頂上からの景色を眺めたら、麓まで戻って、登山の疲れを癒し、温泉でもつかろう」と思わない。私の場合は「そうか。まだ、高い山があるんだ。あの山から見える景色は、この山の頂上から見える景色と違うのだろうか。この山を登って、頂上からの景色を眺めたら、挑戦してみよう」とワクワクするのです。で、ずっと続く苦しい山登りをしながら、当初のワクワク気分はすっかり消え失せ、山を登ろうと決断したことを後悔しながら、黙々と山を登るのです。こういう性分って、本当に疲れます。自分自身に疲れます。

 でも、本当に厄介なこの性分は、私の人生で素晴らしいことをもたらしてくれました。46歳で息子を出産したことです。息子はがん治療前に凍結した受精卵で7年後に子宮に戻して、大事に育て出産しました。家族にも医師にも反対されましたし、様々なところから、Noのメッセージを受け取りました。おそらく、神様からのメッセージだったと思います。

 でも、「ほしいものがあるときは同等のものを差し出すべきだということは承知しています。私には差し出すものはありませんし、もう長くはありませんので、この命を差し上げます。引き換えにどうぞ、新しい命を…」をトンチンカンな祈りを日々捧げる私に、神様が最後には「仕方ないな」と息子とさらに健康という幸運をもたらしてくれたのだと考えています。まぁ、その息子も今は以前のように「ママ、ママ」とは言ってくれなくなりましたが…。

 さて、長々とつづってしまいましたが、今日のブログのテーマは息子のお弁当でした。子どもたちのお弁当作りは、私にとって楽しみと癒しです。お弁当第1日目は息子の大好物の鶏そぼろご飯です。夫と自分にも作りました。 

真ん中が息子の2段弁当。左が夫、右が私のお弁当

 

 

2024年4月7日日曜日

入学式

  昨日、息子の中学校の入学式でした。小学校の卒業式は着物を着て、晴れがましい思いで参列しましたが、入学式は普通のスーツにしました。

 ギリギリの時間に起きた息子。新しい制服を着るのも面倒そうで、笑顔も全くありません。中学校受験で、希望の学校に入ることが出来なかった子どもたちは、この時期はどういう表情をしているのでしょうか? 

 気持ちを切り替えて、合格をいただいた学校で頑張ろうと思えるのでしょうか。我が家の息子のように、やる気も気力もないまま、能面のような表情で中学校生活をスタートさせるのでしょうか。

 息子を急かしながら、子供らしい、可愛かった息子が中学校受験を経て、すっかり変わってしまったことを親としての私の判断の間違いによる結果だと猛反省しました。息子に中高一貫校で伸び伸びと勉強してほしい。スポーツ好きな息子にグランドを走り回ってほしいー。そう願って中学校受験をさせました。が、皮肉なことに、唯一、合格をいただいたのは都会の新しいビルの中に入っている学校でした。それでも、ここで何とか頑張ってほしいと願いましたが、息子はそうは思えないようでした。

 何度、「おめでとう」と言っても、黙ったまま。私も夫も何とか息子の気持ちを盛り上げようと明るく話しかけましたが、効果はありません。どよんとした雰囲気のまま学校へ。式場となる体育館(ビルの2階分を使った大きな体育館)に行くと、ほとんどの親が来ていました。息子が小学校に入学したときは早めに行き、体育館に入る親の中でも先頭グループにいるほど張り切っていたのに、息子の元気がないと、「子どもたちが入場する様子が良く見える座席を取って、息子の晴れがましい姿をビデオに収めよう」などと思わないものなのですね。

 1学年4組で、3組は通常の日本語による授業、息子のいる1組は英語による授業が行われるクラスです。息子の担任の先生は英語がネイティブの先生。生徒全員の名前が呼ばれるときは、他の3クラスは日本語で呼ばれて生徒は「はい!」と返事をしますが、息子のクラスは英語で名前を呼ばれ、「Yes!」と答えます。続く学校長式辞、理事長式辞、来賓祝辞…と「起立!」「礼!」「着席!」が繰り返し行われ、映画で良く見る軍隊のようだなぁとぼんやりと思いました。

 「新入生宣誓」は、3クラスの代表の生徒が日本語で、息子のクラスの生徒が英語で行いました。息子のクラスの生徒はスピーチの中で、米国で2年間オランダで4年間を過ごしたと話しており、「帰国子女枠」で合格した子なのかもしれません。

 祝電は小池百合子東京都知事を始め、生徒たちの出身小学校からも沢山届いていました。息子の小学校からはなく、残念だなぁと思いました。息子の小学校は人数も多いので、おそらくどこにもしていないのだろうと考えるようにしましたが、もし届いていたら子どもの気持ちが持ち上がるのに…と悲しい気持ちになってしまいました。

 桜の模様がついた電報が学校の入り口に置かれたいくつものボードに、貼られていました。その横を通り過ぎ、表に出て、「入学式」と書かれた立看板の前で写真を写しました。一応は、息子が笑顔を作ってくれたので、良かったなと思うことにしました。

入学式の帰り、「入学祝いの食事をしよう」とイタリアンレストランへ。ピザをオーダーし、息子にようやく笑顔が戻りました



 

2024年4月1日月曜日

父を迎えに

  一昨日の土曜日、日帰りで母と一緒に札幌に行きました。亡父の遺骨を預けているお寺に行き、東京に持ち帰る目的でした。

 私の家から徒歩5分の賃貸マンションに住む母は86歳ですがとても元気で、身体のあちこちが痛いと言いつつも、近くのスーパーに自分で食材を買いに行き、3食を自分で作って暮らしています。娘の私は一人っ子で、下の子どもがまだ12歳で、さらに私は病気がちなため、母は私に迷惑をかけまいと頑張ってくれています。その母の一番の心配は札幌の納骨堂に納めている父の遺骨でした。自分の年齢と体の衰えもあり、自分に何かあったときのことも随分考えたのだと思います。

 で、東京都内に両親の宗派である真言宗の納骨堂を探して先月、母と一緒に内覧し、そこと契約して父を迎える準備を整えました。そして昨日、父を迎えに行ったのです。

 母には「たぶん、北海道に行く最後の機会だと思うよ。叔父さん(12人きょうだいで唯一生きている母の兄)に会いに行こうよ」と言っても、「いい。とにかくお父さんをこっちに連れてくるだけで十分」と言って聞きません。せっかくなので「一泊して、札幌のまちを一緒に歩こう」と誘っても「いい。札幌での暮らしは十分楽しんだから、未練がないの」と言います。で、母の強い希望で、日帰りで札幌往復をしました。

 朝8時15分の飛行機で新千歳空港へ。「快速エアポート」に乗って、札幌市内に向かいました。お昼は札幌駅近くの、母が大好きだった「かに将軍」というカニの専門店に行き、懐石料理を食べました。「カニ専門のお店は東京ではなかなかないからねぇ。最後にここで食べよう!」とご馳走してくれました。「サッポロ生ビール」を注文し、「お父さんを迎えに来れてよかったね」と乾杯しました。


  そして、中央区二子山にある「地蔵時」へ。ここに父の遺骨が納めてあります。事前に準備していたバッグに風呂敷で包んだ父の遺骨を入れ、タクシーとJRを乗り継いで、新千歳空港へ。フードコートで軽い夕食を取り、飛行機に乗り込みました。


   父の遺骨は、座席の上の収納棚に入れました。客室乗務員さんに相談すると、「お膝の上に載せていても良いですよ」と言われましたが、何せ、重い。「お父さん、少しの間我慢してね。飛行機が揺れたら、横になってしまうかもしれないけど」と話しかけながら、上の収納棚に入れました。

 そして、無事、東京に着きました。タクシーで母のマンションへ。仏壇の横に父の遺骨を置き、線香をあげました。「お父さん、こっちに来られて良かったね」と話しかけました。来年は父の13回忌です。きっと、父も天国で喜んでくれていると思います。