2023年11月6日月曜日

胃がんを報告 母の場合

  私が胃がんの診断を受けたことについて、母に報告をしたのは10月26日の午後、娘に話をした後でした。

 電話で伝えました。母は少し驚いたようですが、「今は2人に1人ががんになる時代だから」と相変わらず、前向きです。「私に何か出来ることがあったら、言ってね」とも。もちろん母のことですから、その気持ちは十分あるとは思うのですが、体のあちこちが弱ってきている85歳です。気持ちだけ、ありがたく受け取りました。母は一人で食料品や日用品の買い出しをし、病院に行き、料理をし、1日3食をきちんと食べています。家の中もいつ行っても整理整頓と掃除がなされています。高齢の親がこのように自立していてくれるのは、子どもにとって何よりも有難いことなのです。

「ありがとう、お母さん。私は、お母さんが自立して一人で何でもしてくれているのを本当に有難いと思っているの。今お母さんに倒れられたら、お世話は十分できないと思う。だから、とにかく元気でいてほしい」

「分かった。あんたは病気がちだし、子どもを遅く産んだからまだまだ手がかかるときだから、私は自分のことは自分で何とかすると常日頃思っているの。私は大丈夫だから、まずはしっかり治してね」

「うん、ありがとう」

 私が38歳で初めて血液がんを罹患したとき、母はまだ60代でした。当時、父も健在で2人で札幌の実家に住んでいました。母は私が病院で診断を受けた日も、飛行機で来てくれましたし、治療のときもずっと東京の私たちの賃貸マンションに泊まって家事をしてくれ、毎日のように私を見舞ってくれました。当時は子どももいず、夫だけだったので何とかなったのですが、父母としては居ても立ってもいられなかったのだと思います。

 娘が生まれた後、がんの再発、再々発、そして、2つの自己免疫疾患、心臓疾患の入院治療中はすべて、こちらに来て幼稚園の送迎など娘の世話と家事をしてくれました。私の体調が急に悪化して入院となったり、救急車で病院に運ばれたりすると、動転した夫はすぐに母に電話をし「お母さん、睦美さんダメです」と言うらしいのです。夫は片言の日本語しか出来ないので、何が駄目なのかも分からなかったらしいですが、母はその言葉を聞くと、取る物も取りあえず、飛行機に乗ってこちらに来てくれました。

 父は脳梗塞の後遺症で右半身が不自由(右手が使えなかった)だったため、父をどうするかも考えなければならず、苦労も多かったと思います。施設に一時的に入ってもらおうとしても、父が「俺は行かない」というのでほとほと困ったーと母が後に涙ながらに語ってくれたことがあります。父も父で、恐らく、食事は外食やお弁当でいいので、自宅にいたいという気持ちだったとは思いますが、母としては「娘の緊急時ぐらい、協力してほしい」という気持ちだったのでしょう。結局、このとき父も母に説得されて、私の入院中は施設に入ってくれました。父にも不便を掛けたと申し訳なく思います。

 このように母のお陰で、私は自分の治療に専念できました。母はよく、「あんたが無事退院して家に戻って、私とお父さんが札幌に帰るとき、駅まで送ってくれたでしょ。手を振りながら、これが生きている睦美を見るのは最後かもしれないと何度思ったことか」と当時の話をします。一方で、私が入院先のベッドで起き上がることも出来ないでいるときも、私の顔を覗き込み、「大丈夫、あんたは不死身だから。後は私に任せて」と言って励ましてくれました。ひどい状態の娘を明るく励ますのは、なかなか大変だと思いますが(私も子どもがいるので、その大変さは想像できます)、母はそうやって私を鼓舞してくれたのです。

 報告した2日後、母は私の大好物のあんドーナツを手土産に、家に寄ってくれました。「早期発見で、何よりだった」と話し、大学生になった娘の話、息子の受験の話、自分の病院の話などいろいろおしゃべりし、「手伝えることがあったら、言ってね」と言い、帰っていきました。

 最後の自己免疫疾患の入院治療から13年も寛解状態が続いていたので、私としてはこのまま健康で長生きできるかもと期待していました。母としても、自分に何かあっても娘は近くにいるし、病気も治まっているから大丈夫と安心していたと思います。あーあとため息も出ますが、とりあえずこの新たながんに立ち向かいます。完治を目指して、母を安心させたいと願っています。

 

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