2023年11月1日水曜日

杉田さんのこと

  そこに行くと馴染みの人がいて、安心して仕事をお任せできるー。私はそのような人とのつながりを年を追うごとに大切に思うようになってきています。昨日10月31日、20年近く通っているガソリンスタンドの店長さんが辞めると聞き、とても寂しく感じるとともに、その店長さんがいることで私は安心してその店を利用していたのだなぁと改めて感じました。

 その人は杉田さんと言います。昨朝、車の洗車をしてもらいに、そのガソリンスタンドに行きました。火曜日は研究室に行く日なのですが、前日の月曜日に内視鏡検査で胃がんの深さと広がりを調べるために広範囲に組織を採ったこと、造影剤を用いたCT検査も行ったことで、体調がすぐれず、家で作業をすることにしました。体調が悪いと、気持ちも塞ぐもの。で、気持ちを切り替えるため、汚れが気になっていた車の洗車に行くことにしたのです。

 実は前日、夫に洗車を頼んでいたのですが、夫が行ったのは夕方。その日の作業はもう終わっていたらしく、「明日以降に改めて行くから」と言われていたのです。で、私がたまたま在宅だったので、行くことにしました。

 杉田さんはいつものように、「手洗い洗車ですね。今回は車内の掃除はどうしますか?」と聞き、テキパキと応対してくれました。そして、数時間後、仕上がったという連絡があり、行ってお会計をしようとしたところ、「村上さん、僕、今日で会社を辞めるんです。ご挨拶したいと思っていたのですが、なかなかお会いできなくて。でも、お会いできて良かったです」と言います。

 突然の退社のお話で、私はびっくり。「えっ?そうなんですか? 寂しくなります。でも、良かった。お会いできて。たまたま今日こちらに来たんです。転職するんですか?」

「はい、今の仕事とは全く関係ない、内装の仕事なんです。39歳になるのでいろいろ考えて、転職するなら今しかないと思いまして」

「そう、ずっとお世話になっていたから、寂しいです」

「村上さんには、もう20年近くお世話になっています。まだ、ここがセルフになる前で、僕、ガソリン入れさせてもらっていましたよね」

「そうですね、長い間お世話になっていて、杉田さんにお任せすれば安心だったから、残念です」

 私は杉田さんの若いころ、そして、副店長に、そして店長にと順調に昇進していったのをずっと見てきました。丁寧な仕事をする人で、礼儀正しく、信頼のおける人なのです。

「僕のあとに、あの細い●●が店長になって、体格のよい●●が副店長になります。どうぞ、今後ともよろしくお願いします。村上さんがこちらに初めていらしたときはまだ独身でいらっしゃっいましたよね」

「たぶん、結婚して間もなくのころでした」

「変わらず、お綺麗です。僕はすっかり年取っちゃいましたけど」

 たとえ、お世辞でも、この言葉、ありがたく受け取りました。先週は気持ちが塞ぐこともあったので、ほんわかと心が温かくなりました。

「あらっ、嬉しい。ありがとう。杉田さん、39歳なんてまだまだ若いじゃないですか」

「いいえ、転職するのにはギリギリだと思っています。でも、会社と喧嘩して辞めるわけではありませんし、近くに住んでいますので、また、お会いするかもしれませんね」

「そうですね。また、お会いするのを楽しみにします」

「ありがとうございます。ご主人とお子さんたちにもよろしくお伝えください。お子さんたちは赤ちゃんのころから知っていますので、大きくなりましたよね」

「はい、娘なんて本当に大きいです。杉田さん、新しい職場でも頑張ってくださいね」

そういって、握手をしました。そして、名残惜しい気持ちになりながら、車に乗り込みました。

 杉田さんはいつものように車を道路のほうまでしっかりと誘導してくれました。バックミラーで後ろを見ると、いつものように姿勢正しく立ち、私の車のほうに深々と礼をしてくれました。

 別れは、たとえ、それがその人にとっての新しい門出であっても、寂しいものです。でも、杉田さんの明るい将来を祈りつつ、お送りしたいと思いました。仕事に誇りを持って、真摯に取り組んできた杉田さんなら、新職場でもまたしっかりとした仕事をして職場の人からもお客さんからも信頼される人になるに違いありません。

 私は杉田さんの仕事の最終日にご挨拶することができました。私が洗車に行こうと考えなければ、もし、前日、夫が洗車することが出来たら、また、私が火曜日体調が良くいつものように研究室に行っていれば、お会いすることはなかった。

 少し大げさな表現になりますが、私は杉田さんの職場での最後の日にお話しできる巡り合わせで、また、杉田さんも20年来の客である私に、最後の挨拶が出来る巡り合わせだったのでしょう。

 私は父の死に目に会えなかったことをずいぶん長い間後悔してきました。この世を去る前の父に会えなかった、話せなかった自分の運命について後悔の気持ちを持ち続けてきました。でも、あるときから、私だけでなく、父もこの世を去る前にひとり娘である私に会うことが出来ない、私と話すことができない運命だったのだーとも思うようになりました。

 父は血液がんを発病した私に、病院への行き来が楽になるようにと車を買ってくれました。その車を父の形見だと思い、今でも大切に乗り続けています。その車を安心して預けることが出来た杉田さん。杉田さんの幸せと新職場での成功を祈りながら、様々なことを考えた一日でした。

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