2023年11月28日火曜日

娘に会いに母を連れて、京都・大阪へ

  この週末、家族で娘に会いに行ってきました。「もう一度京都に行ってみたい」「孫の大学を見てみたい」と願っていた母を連れて行きました。

 土曜日の朝一番の飛行機で大阪伊丹空港へ。空港からバスで一時間ほどで京都駅に着きました。駅では娘が待っていてくれました。夫も私も母も、娘をそれは可愛がっていますので、久しぶりのハグはとっても嬉しかった。息子もおねぇねぇに会えて元気いっぱいです。

 初日は京都市内を巡りました。母が希望した伏見稲荷大社と清水寺、紅葉が綺麗で有名な南禅寺。鮮やかな紅葉がそれは美しかった。日暮れ直前に行ったのは息子が希望した銀閣寺でした。静謐な空気に満ちていて、清らかな気持ちになりました。

伏見稲荷神社

清水寺

美しい南禅寺の紅葉

銀閣寺

 日曜日はユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ。事前に、待ち時間を短縮できるファストパスを4アトラクション分購入していました。母はジェットコースターはさすがに「遠慮する」と言いましたが、巨大なサメに襲われるボートツアー「ジョーズ」は娘と一緒に体験。3Dで「ミニオン」の冒険を体験する乗り物、大迫力の乗り物「スパイダーマン」、箒に乗って空を旋回するような体験を出来る「ハリー・ポッター」の乗り物も乗りました。


 これらも、かなり動きが激しかったのですが、母は頑張りました。乗っている間、「お母さん、大丈夫?」と声をかけても母は無言で、もしかしたら全身むち打ち状態になるのでは?と心配しましたが、無事乗り終えました。

 乗り物を降りるときは家族とスタッフに支えられ、ようやくという状態でしたが、母は「最高!」と満面の笑顔。「85年生きてきて、こんな乗り物は初めて体験したよ。楽しいねぇ。長生きするもんだねぇ」とそれは嬉しそうでした。長い間、骨粗しょう症の治療をしていますので、骨も丈夫になっているのかもしれません。

 娘も息子も大喜びでした。息子は月曜日に学校と塾がありますので、夫と一緒に新幹線の最終便で東京に戻りました。私と母は娘の大学のある茨木市へ向かいました。

2023年11月19日日曜日

11月の花

  昨日、友人から電話がありました。病気の報告をしたブログを読んで仰天したという電話でした。

 その友人は前の会社の同期で、お互いに退社した後も連絡を取り合い、時折ご飯を食べておしゃべりする仲。昨日も電話で、お互いの抱えていることについて語り合い、笑い飛ばしました。下がり気味だった私の気持ちもぐんとアップしました。

 彼女がその後ラインに、「去年か今年、私たち入社30年でしたよね…」というメッセージに自宅で咲いたという青いアサガオの花の写真を添えて送ってくれました。癒されました。

 実は私の家の小さな庭でも、今年、青いアサガオが咲きました。ピンクと青のアサガオは息子が小学校1年のときに学校から持ち帰ったもので、秋に種を採り、毎年植えているのです。その年によって、青い花が咲かないときもありますが、今年は咲いて、家族で喜んでいたのです。

 11月に入りぐんと寒くなったのですが、先日も最後の力を振り絞ってくれて、小さくはありましたが、咲いてくれました。そのときは、この夏買ったハイビスカスも綺麗に咲いてくれました。花は心を癒してくれますよね。

 


 


2023年11月16日木曜日

息子が駅伝選手に

  今日、息子から携帯電話に電話がありました。「ママ、駅伝の選手に選ばれたよ!」。声が弾んでいました。息子が学校代表の選手になったようなのです。

 選ばれたのは6年生約100人中8人で、男子4人女子4人。息子は今月から、塾の理科社会をやめて、かけっこ教室に戻ったばかり。受験を3ヶ月後に控えての決断は勇気が要りましたが、息子の明るい声を聞いて、あの決断は良かったんだと思えました。

 今日は息子に別の良い知らせがありました。数カ月前に学校見学に行ったインターナショナルスクールから、来年秋入学に向け、息子の出願を待っているというメールでした。息子は高校生向けの学校見学に行ったのですが、息子の受け答えがしっかりとしていたことを評価してくれたらしく、今回メールをいただいたようです。もちろん英語と算数の2教科の受験の結果によりますが、ともかく親として、どこかの学校が息子に「welcome」な態度で接してくれたことがうれしい。

 息子に良かれと進めていた、日本の中高一貫校。でも、息子の成績は一向に上がらず、無気力になり、どうしたものかと考えに考えて理科社会をやめることを決めました。4科目受験が必要なほとんどの中高一貫校の受験を諦めなければなりませんでしたが、息子の心のほうが大切でした。

 私は毎朝ジョギング・ウォーキングをしており、息子に「一緒に走ろう」と誘っていました。いつも、「起きられない」と断ってきましたが、今日は「ママ、明日、僕も一緒にジョギング行く」と自発的に言ってくれました。

 息子が少しずつ、息子らしくなってきています。

 

 

2023年11月15日水曜日

夜の甘辛チキン弁当

  一昨日、落ち込む出来事がありました。自分の身に降りかかることは何とか対処できると思うのですが、社会や組織の中での関わりなどについては、すぐ考え込んでしまいます。一昨日は心が乱れ、帰宅後ベッドに横になり大泣きしました。

 息子は塾に行っており、夫も自室にこもってました。ひとしきり泣き続けたら、お腹が空いてきました。その夜は夫が夕ご飯の担当で、ラム肉のパイを用意していました。私はラム肉が苦手なので、遠慮すると伝えていました。

 「あの唐揚げ弁当が食べたい」と急に思い立ちました。2つ隣の駅近にある、お弁当屋さんです。ここは息子の英語塾の近くにあり、以前、息子の塾の帰りにいつも寄るレストランが満席だったので、仕方なくこのお弁当屋さんで買って公園で食べたら、思いのほか美味しくて、息子も私も大満足だったのです。そのお弁当屋さんの名物”甘辛チキン”が食べたくなりました。

 寒かったのですが、コートを羽織ってマフラーをぐるぐる首に巻いて、自転車で駅に向かいました。駅の駐輪場に停めて、電車に乗り込みました。次の次の駅で降り、そのお弁当屋さんへ。開いているか調べもせず行ったのですが、開いていました。お客さんが何人も並んでいました。私の前のお客さんは男性で、唐揚げ弁当を4つ注文していました。残業組の買い出しでしょうか? 同僚と夜、他愛のない会話をしながら唐揚げ弁当を食べるー。そういうのっていいなって勝手に想像しました。いずれにせよ、皆、このお弁当のファンなのですね。

 甘辛チキン弁当を買い、近くの公園に行きました。ベンチに座りました。電車に乗っている最中、札幌の親友にラインをしていました。

「わたし、ちょっと落ち込んでいるの。なんだか、辛い。2つ目のがんというより、人生について。私は間違っていたのかな?と考えてる。病気の後、社会復帰しようと頑張ってきたけど、疲れたし、悲しい。ごめんね、愚痴で」

「むっちゃん、やっぱり落ち込んでいるんだね。胃がんは内視鏡手術で取り除けること、本当に良かった。むっちゃんの人生、何も間違ってなんかいないと思うよ」

 親友に、お弁当屋さんとお弁当の写真を送りました。暗い公園でお弁当をパクパクと食べました。会社帰りでしょうか? 沢山の人が公園の前の道路を通り過ぎていきます。「このおばさん、夜一人で公園のベンチでお弁当食べてる。寂しそう」と思われるかな?とちょっぴりおかしくなりました。もう、そんなことも気にしません。それよりも、一筋縄ではいかない人生でつまずいている状態を、少しでも気分を軽くして乗り切るほうが大切。夜、一人公園で唐揚げ弁当を食べる。そんな自分を笑う。そういうことが必要でした。




 がん治療がうまくいかないときは、混雑した渋谷のスクランブル交差点を見下ろせるカフェに行き、雑踏を見ながら、自分の抱えていることなんて小さいーと思うようにしました。年齢を重ね、もう、渋谷のカフェに行くパワーもないので、駅の近くの公園で、お弁当をパクつくのです。

「自分なりに一生懸命生きてきたし、いろいろあったけど、頑張ってきたつもり。でも、社会からは拒否されるし、頑張った結果がまた、がんか…と思ったら、やりきれなかった」

 お弁当を食べている間、親友がこんな重たいラインの会話に付き合ってくれました。一人で公園のベンチに座っていましたが、一人ではありませんでした。友達ってありがたいなぁとしみじみ思いました。

 お弁当を半分ほど食べて、お腹が一杯になると、生きる元気が出てきました。親友に「いつも、ありがとう。話を聞いてもらって、気持ちが落ち着いたよ」とラインを送り、電車に乗りました。自宅に着くころには、少し、気持ちが軽くなっていました。もう、涙も出ませんでした。

 

2023年11月14日火曜日

寒くなると…

  週末はぐんと冷え込んだので、夕ご飯はおでんにしました。ちょうどおでんを好まない夫と娘がいないので、母を招いて息子と3人で食べました。

 母が実家で使っていて、昨年実家を売却するときに「いらない」と言ったけど、もったいなくて段ボールに詰めて持ち帰ってきた皿を使いました。あのときは段ボール箱7箱ぐらいこちらに送り、収納エリアがギチギチになる原因になってしまいました。でも、やはり持ってきて良かったと思います。

「あらっ、あの皿だね」

「うん。あのときこっちに送ってきた皿だよ。どう?おでんが映えるでしょ」

「そうだね。おでんにピッタリだね」

母が実家で使っていた皿におでんを盛り付けました。紫色の箸は母用

 母も息子も「美味しい」と食べてくれたので、良かった。私自身も、ようやく大好きなおでんを自宅で作れるようになって、嬉しい。おでんは冬になると一人分をコンビニエンスストアで買って食べていましたが、やはり家族や友人など人と一緒に食べるのがいいなと思ったのでした。

2023年11月12日日曜日

確定診断

 国立がん研究センター中央病院で11月8日、胃がんの確定診断を受けました。その日からいろいろ考えを巡らせていたため、報告が遅れました。このブログの前の2つ「3世代で回転ずしへ」「冬支度」は診断の後のことですので、報告の順番が前後しました。

 診断は10月26日のブログでお伝えしたように、胃の「印環細胞がん」で病期は1期でした。腫瘍の大きさは1.2㌢で、内視鏡手術で取ることができるようです。ただ、顕微鏡で確認し、予想より腫瘍が大きければ、外科手術となるでしょうということでした。先生は「内視鏡の検査を定期的にしていたので、早期に発見できました」と言い、完治を狙えると前向きな発言をしてくれました。

 原因について聞くと、ピロリ菌か以前行った放射線治療かもしれないとのこと。胃の印環細胞がんは予後が悪く、術後2年以内の再発は約50%、5年生存率は約30%と言われています。早期発見といえども、油断はできないなというのが本音です。ただ、治療できる段階で見つかったのは本当にありがたいことです。

 親しい友人から「悪性リンパ腫の再発より、ずっといいと思う」と言われ、本当にそうだなと思いました。悪性リンパ腫が今度再発したら、かなり厳しい治療になるのは必至ですので、内視鏡手術で取り切れることに感謝です。

 私が13年前に再々発の診断を受けたときは看護師さんが待合室に来て、入院の説明をしてくれました。が、今回は8階の相談支援センターというところで、説明してもらいました。

 相談支援センターは広々としていて、7,8人の相談員の方がいました。「今回初めての入院ですね」と担当者の女性。「いいえ、もう何度も入院しています」というと、「えっ?」と驚いてコンピューターを見ます。「最後に入院したのはいつですか?」「13年前です」「そうですか。3年以上経っていると、もう一度説明させていただくんです」とのこと。私もすっかり忘れていますので、ありがたいです。

 まずは入院中のスケジュールなどについて10分間のビデオを見ました。次に書類の記入。部屋は4人の患者がいる大部屋の窓側か通路側、そして4つランクがある個室のうち第1希望と第2希望を書くことになっています。一番高い最上階の個室は一泊の追加金額が11万円(税込み)します。もちろん、私は大部屋。大部屋は患者同士でおしゃべりができて、楽しいのです。以前は運が良ければ窓側になることがありました。今は追加料金が一泊6,600円もかかります。ちょっと高いですが、1週間ですし、気持ちが明るくなるよう窓側を選びました。

 私が入院していたときはパジャマ持参でしたが、病衣を選べるようになりました。実はこれは、私が要望書をご意見箱に入れて後、すぐ導入されたもの。家族がいない患者さんは体調が悪い中、コインランドリーで洗濯をするのがとても大変なので病衣を取り入れてほしいと書きました。何だか嬉しくて、「病衣は10数年前、私が要望書を書いて導入されたんですよ」と心の中で、ちょっぴり自慢げにつぶやきました。いま、ここにいる職員の方々はおそらく、そのころはこの病院にいなかったでしょう。私はもう20年もここに通っている、古参の患者なのです。

 付き添ってくれた夫が、窓から外を見ます。「築地市場、なくなっちゃったね。君を見舞った帰り、お母さんとあそこに行ってお寿司を食べたんだよ」。長い年月の間に、築地も変わりました。

 看護師さんからも説明を受けました。一定金額以上の治療費については健康保険組合が負担してくれる高額療養費制度の説明もありました。この制度は知らない人も多く、説明してくれない病院もあるらしく、やはりがん研究センターはしっかりしているなと思いました。

 看護師さんからは「今回、先生からどのような説明を受けましたか?」「分からないことはありましか?」と聞かれました。患者がどれぐらい理解できているのか、確認しているのですね。気が動転して、大切なことを聞き逃した患者さんもいると思いますので、こういう対話は重要だなと改めて思いました。

 このようにいろいろチェックして、患者感覚をアップデートしました。私はがん患者さんへの情報発信についての研究をしていますので、最新の患者感覚を持つのはとても大切です。今回は新しいがんを罹患し、情報収集もたくさんしましたので、新たにがんと診断された患者さんが病院やインターネットでどれくらい情報収集できるのか、確認できてよかったです。

 朝9時の診察でしたが、お会計を済ませると11時半になっていました。その日は午後から講義があったので私は大学へ。夫は会社に向かいました。

 夜は月2,3回は夫と一緒にいく近所のバーに行き、「とりあえず、早くに見つかって手術も内視鏡でできるから、よかった」と乾杯しました。マスターに事情を説明すると、驚いたようでしたが、「早期発見良かったです。これは私のおごりです」とスパークリングワインを1杯ごちそうしてくれました。

 がんを甘く見てはいけないですが、落ち込んでいいことはありません。ポジティブに対処していくつもりです。

2023年11月11日土曜日

3世代で回転ずしへ

  一昨日の木曜日の午後、軽井沢に行く夫を見送り、翌日の夜は夫がいないからおでんにしよう(夫はあまり好き出ないので)と考えていると、「そうだ!母を招こう!」と思い付きました。翌日は息子の塾があるので、今晩一緒に食べようと早速、母に電話をしました。

 電話をしたのは夕方5時半ごろ。「お母さん、夕ご飯準備した? 良かったら家に来ない? これから作るんだけど、おでんを一緒に食べよう」と夫が軽井沢に行ったことを話して夕食に誘うと母は、「じゃあ、せっかくだから食べに行こう!」と言います。「私がおごるから!」とも。「あんたたちの好きなもの、何でもご馳走してあげる」と声が弾んでいます。「そう? じゃあ、ご馳走になるね」と息子と相談して、母のマンションの近くにある回転寿司に行くことにしました。

 夜は混むので、電話を切ってすぐ、母の家へ。母は85歳になりますが、こんな急な誘いにもすぐ乗ってくれます。母のマンションに寄って、そのまま、回転寿司へ。

 「何でも食べていいよ!」と母。私は大好物のいくら、シメサバ、ホタテ、アジ、茶わん蒸しを注文。母はエビとシメサバ、マグロ、カンパチとアサリのお味噌汁。息子は納豆巻きとフライドポテト、フライドチキンに3色団子。3世代がそれぞれ好きなものを注文できる回転寿司は”最強”です。

 回転寿司の帰り、母が言いました。「寒くなってきたら、札幌を思い出すよ。雪かきが本当に大変だったから。こっちに移ってきて良かった」。

「お母さん、家を手離して寂しくない?」

 母は昨年、50年近く住んだ札幌の家を手離しました。今は実家は取り壊され、新しい住宅が建っていることでしょう。母は言います。

「全然! こっちに来てから(母は新型コロナが流行する半年前にこちらに転居してきました)毎年業者さんに頼んで雪かきしてもらっていたから、業者さんに電話したり、契約したり、本当に大変だった。だから、そういう面倒なことなくてすっきり」

 あんなに大好きだった自宅を手離しても、全く、落ち込まない母。「わたしは、あの家を何回もリフォームして、自分の住みやすいようにして暮らしたの。皆に素敵だねって褒められた。だから、全く悔いがない」といいます。

 そうなんだな、そういう考えもあるんだなと思います。わたしなら、家族との思い出が詰まった家を手離すのは心が切り裂かれるように辛いと思いますが、そういう執着があると、それはそれで辛いもの。母のようにさっぱりと手離し、今を生きるという考えが、年を重ねても前向きに暮らせる生き方なのでしょう。

 母のマンションまで送りました。母は息子をハグし、「電話ありがとう!楽しかったよ」と喜んでいました。「こちらこそ、ご馳走様。じゃあ、おやすみ」。

 帰りは息子と手を繋いで帰りました。楽しい一日でした。


2023年11月10日金曜日

冬支度

  昨日、息子の小学校で絵本の読み聞かせをしました。私の担当は2年生。読んだのはこの時期になると低学年に読む「ふゆじたくのおみせ」です。

 仲良しのヤマネくんとクマさんは、開店した森のお店に行きます。そこには素敵な品物がたくさん売っており、どんぐり50個などと値段がついています。ヤマネくんはクマさんに、クマさんはヤマネくんにプレゼントをあげようと思い、互いにそのことは内緒で一緒に森にどんぐりを拾いに行きます。そして、残り1個で品物が買える数になったところで、森でやっと見つけたどんぐりの取り合いになり、、、というあらすじ。

 この本は息子が幼稚園生のときに書い、何度も大切に読み聞かせていた本です。やはり、好きな本は何年経っても、好きなんですね。昨日も、子どもたちのかわいらしい顔を見ながら、読ませてもらいました。息子も何年か前までは、こんなに小さかったんだなぁと懐かしく思いながら。


 木曜日は週に一度の平日休みの日。読み聞かせを終えて家に帰り、家の片付けをし、前夜作った焼豚を使って、夫と一緒に焼豚丼のランチを食べました。いつもはラーメンに入れるのですが、ご飯の上に載せて煮汁をかけたら、結構美味しくできました。夫も「これ、君の作るご飯のかなり上位に入るよ」と喜んでくれました。穏やかなランチタイムでした。

 午後、夫は一人で軽井沢の家に向かいました。デッキを囲ったり、薪を割ったり、と冬支度をする必要があるためです。

 夕方、夫から写真とメールが届きました。「景色が綺麗で、空気がさわやかだよ」といい、軽井沢の家で、静かな夜を楽しんでいるようでした。

 


 この数週間、私の病気のことや子供達の進路などでかなりのストレスを抱えていた夫。自然の中でリラックスしてほしいです。


2023年11月9日木曜日

息子の中学受験問題

  息子が今月から、塾の理科・社会の授業を受けるのをやめました。塾の基本授業は月、水、金の3日間で、土曜日に復習テストがあります。このうち、理社を学ぶ水曜日のクラスをやめて、その代わりに、半年間やめていた「かけっこ教室」を復活させることにしました。

 中高一貫校は基本的に国算理社の4科目受験ですので、理社をやめるということは、ほとんどの中高一貫校を諦めるということ。受験をあと3ヶ月後に控えた段階で、この決断はとても難しかったし、勇気のいることでした。でも、中学受験での合否よりも、中学受験での取り組みや親としての対応が、長期的に息子に影響を与えてしまうのではないだろうかという不安のほう大きくなっていました。で、中学受験そのものをやめるのではなく、理社をやめるという決断をしました。

 息子は英検準1級を持っていますが帰国子女ではないため、多くの学校が設けている「帰国子女枠」は使えず、この枠も最初からありません。ですので、受けられるは英語・国語・算数の3科目試験を設けているいくつかの学校になります。それでも、ここまで一応は勉強を続けてきたので、途中で投げ出さずに続けて、受験をしたという自信を持ってほしいと考えました。

 受けられる数校のうち、算数は英語で出題する学校があることを知りました。たまたま、日程が合い、その学校の体験授業を受けさせたところ、息子が「算数の問題の意味が分からない」と言い出しました。つまり、息子は算数を日本語で勉強していますので計算は出来るのですが、「直径」「半径」「円すい」「台形」などの言葉が問題に出てくると、分からないのです。

 息子の通う英語塾に相談したところ、英語の算数のクラスがたまたまあることを知り、急きょ6回受講させました。このように、方針転換は息子への新たな負担を強いることにはなりましたが、算数の基礎は出来ているので、英語で言葉の意味を覚えるのは、理社を勉強し続けるよりはずっと負担は少ないだろうーと判断しました。

 息子は他の多くの子どもたちと同様、3年生の3学期から塾通いをしています。大手の集団塾に通いつつ、個別指導塾にも通いました。その間、好きな水泳とかけっこ教室は続け、6年生になってからかけっこ教室はやめさせました。塾の日程が増え、もうやり繰りが出来なくなったのです。しかし、塾での勉強の時間が増えても、息子の成績とやる気は下がるばかりで、親として「自分の考えは間違っていたのだろうか?」と自問自答する日々でした。

 息子は要領がよく、宿題の多さに押しつぶされることもなく、「勉強しなさい」と毎日親に言われても聞き流し、適当に勉強をこなして点数が悪くても全く気にしないという性格です。先日は塾のテストで、社会が3100人中、3960番という記録的な数字をたたき出しました。「これって、すごくない?」と聞いても、しらっとした顔で、「あと40人も下にいるから、いいじゃん」。

 このような感じですので、中学受験でありがちな追い詰められるということではありません。逆に、無気力な子になってきていたのです。「受験を辞めたい」という意志もなく、ただただ、日々をこなすのです。唯一の楽しみは、アメリカの若いユーチューバーによるゲーム攻略動画を見ること。

 得意のスポーツも得意でなくなってきました。小学校の体力テストもずっとAだったのに、「B」。「スポーツ得意だったのに、普通のBになっちゃったね。何か不得意なものあった?」と聞いても、「●●に失敗しちゃったんだ」と言い訳することもなく、「ママさぁ、いつも『普通は●●でしょう?』っていうじゃん。普通だからいいじゃん」とゲーム攻略動画に戻ります。

 「Oh, My God!」と叫ぶだけの、ゲーム攻略動画のどこが良いのかさっぱり分かりませんが、世界中に何万人ものフォロアーがいるらしく、息子もその一人。数年前に人気ナンバーワンだった青年はがんで亡くなったらしく、そんな背景ストーリーはちゃんと把握しています。世界中にフォロワーがいたその青年が亡くなる数時間前に残した動画を、彼のお父さんが泣きながらアップしたーという、がんサバイバーの私としては胸が苦しくなるような話も、淡々と事実として説明する我が息子。

 「ゲーム攻略いいじゃない? 皆がうなるようなゲームを作ったらどう?」と別の視点から息子を支援してみよう!と気持ちを切り替えて接しても、「ゲーム作るのって難しいんだよ。僕には無理、無理」。

 自分の経験から子どもの将来を規定してはいけない、自分の知らない世界が世の中にはたくさんあり、子どもは無限の可能性があるから、それをつぶしてはいけないーと自制していたつもりでした。でも、もしかしたら、努力すれば報われる、目標に向かって進むーという凝り固まった考えが私の根底にあり、それが言葉となって出てしまい、息子の気持ちに良くない影響を与えていたのかもしれません。

ママは人生をフルで生きようとする努力人間だけど、僕は”よろけ人間”なので…」。これは、息子を励ますような言葉をかけたときに、返ってきた言葉です。目標を持って努力を重ねれば、達成することができると自分自身を鼓舞しながら生きてきた私は、”昭和”な人間なのかもしれません。人生に目標を持つ、やりたいことに頑張って取り組むということ自体古い考えで、私はそのカビの生えた経験値で息子に接していたのかもしれません。もう、これは無意識レベルなので、意識的に変えなければなりません。 

 自省し、子どもの良いところを見よう、出来たところを褒めようと息子の良いところを褒めても、「無理して褒めなくても大丈夫だよ。ママ」とさらりと言います。見透かされています。何かを褒めたら、にこにこして「嬉しい!」と言ってくれた娘とは違い、息子は一筋縄ではいきません。

 そんな息子が先月、ポツンと「ママ、僕頭悪くてごめんね。僕なんて生まれてこなければ良かった」と言ったのです。息子の中学受験問題で私自身いろいろ悩んで、息子と”対話”をしてきたつもりが、こんな言葉を息子に言わせてしまいました。私は親として失格だと思いました。無気力になってきていた息子をどうしたものかずっと悩んできましたが、こんな究極の言葉を息子に言わせてしまったと、涙が目から噴き出しました。息子を抱き締めて、謝りました。「ごめんね、ママが悪かったの。ごめんね。せっかく生まれてきてくれたのに。こんなに元気に、素敵な子に育ってくれたのに」と、何度も謝りました。息子は私を抱き締め返してくれました。

 息子は頭もよく、性格も穏やかで、スポーツも出来て、お友達とも仲良くでき、料理も好きでーと可能性がいっぱいあった子でした。だから、親として息子の良いところを伸ばしてあげたいとずっと思ってきました。そのための選択肢を考えてきたつもりです。インターナショナルスクールではなく、日本の私立の中高一貫校は、運動が好きで、ハーフだけど日本人のお友達と仲良くできるという、息子の良いところを伸ばす選択肢のはずだった。でも、私はどこで間違ったのでしょうか?

 娘は絵が大好きで、飽きずに何時間も描いており、また、才能もあった。ヴァイオリンも上手だった。だから、「勉強しなさい」ということもなく、そちらの方を全面的にサポートしました。もちろん、勉強はしなければならないので、適性を考え、小5でインターナショナルスクールに転校させました。それは、結果的に娘には良かったと思います。

 でも、振り返ってみれば、娘のときも一つ一つの決断でずいぶん悩みました。今回、塾の理社をやめるときに、息子に「火、水、木と放課後何もなくなるよ。水曜日はかけっこ教室があるけど、行く?」と聞いてみると、珍しく、息子が「うん!行く!」と子供らしい返事をくれました。すぐに、かけっこ教室の先生に連絡をし、11月から通わせることにしました。

 水曜日、息子は帰宅後、嬉しそうにかけっこ教室に向かいました。中学校受験の3カ月前のこの時点で、塾を1日減らし、運動を再開させるのは”合格”からさらに遠くなる決断であることは十分承知しています。でも、息子の”今”のほうがもっと大切なんだ、息子の今を大切にすることが、息子の将来につながる道なのだと自分に言い聞かせています。

 

 



2023年11月6日月曜日

胃がんを報告 母の場合

  私が胃がんの診断を受けたことについて、母に報告をしたのは10月26日の午後、娘に話をした後でした。

 電話で伝えました。母は少し驚いたようですが、「今は2人に1人ががんになる時代だから」と相変わらず、前向きです。「私に何か出来ることがあったら、言ってね」とも。もちろん母のことですから、その気持ちは十分あるとは思うのですが、体のあちこちが弱ってきている85歳です。気持ちだけ、ありがたく受け取りました。母は一人で食料品や日用品の買い出しをし、病院に行き、料理をし、1日3食をきちんと食べています。家の中もいつ行っても整理整頓と掃除がなされています。高齢の親がこのように自立していてくれるのは、子どもにとって何よりも有難いことなのです。

「ありがとう、お母さん。私は、お母さんが自立して一人で何でもしてくれているのを本当に有難いと思っているの。今お母さんに倒れられたら、お世話は十分できないと思う。だから、とにかく元気でいてほしい」

「分かった。あんたは病気がちだし、子どもを遅く産んだからまだまだ手がかかるときだから、私は自分のことは自分で何とかすると常日頃思っているの。私は大丈夫だから、まずはしっかり治してね」

「うん、ありがとう」

 私が38歳で初めて血液がんを罹患したとき、母はまだ60代でした。当時、父も健在で2人で札幌の実家に住んでいました。母は私が病院で診断を受けた日も、飛行機で来てくれましたし、治療のときもずっと東京の私たちの賃貸マンションに泊まって家事をしてくれ、毎日のように私を見舞ってくれました。当時は子どももいず、夫だけだったので何とかなったのですが、父母としては居ても立ってもいられなかったのだと思います。

 娘が生まれた後、がんの再発、再々発、そして、2つの自己免疫疾患、心臓疾患の入院治療中はすべて、こちらに来て幼稚園の送迎など娘の世話と家事をしてくれました。私の体調が急に悪化して入院となったり、救急車で病院に運ばれたりすると、動転した夫はすぐに母に電話をし「お母さん、睦美さんダメです」と言うらしいのです。夫は片言の日本語しか出来ないので、何が駄目なのかも分からなかったらしいですが、母はその言葉を聞くと、取る物も取りあえず、飛行機に乗ってこちらに来てくれました。

 父は脳梗塞の後遺症で右半身が不自由(右手が使えなかった)だったため、父をどうするかも考えなければならず、苦労も多かったと思います。施設に一時的に入ってもらおうとしても、父が「俺は行かない」というのでほとほと困ったーと母が後に涙ながらに語ってくれたことがあります。父も父で、恐らく、食事は外食やお弁当でいいので、自宅にいたいという気持ちだったとは思いますが、母としては「娘の緊急時ぐらい、協力してほしい」という気持ちだったのでしょう。結局、このとき父も母に説得されて、私の入院中は施設に入ってくれました。父にも不便を掛けたと申し訳なく思います。

 このように母のお陰で、私は自分の治療に専念できました。母はよく、「あんたが無事退院して家に戻って、私とお父さんが札幌に帰るとき、駅まで送ってくれたでしょ。手を振りながら、これが生きている睦美を見るのは最後かもしれないと何度思ったことか」と当時の話をします。一方で、私が入院先のベッドで起き上がることも出来ないでいるときも、私の顔を覗き込み、「大丈夫、あんたは不死身だから。後は私に任せて」と言って励ましてくれました。ひどい状態の娘を明るく励ますのは、なかなか大変だと思いますが(私も子どもがいるので、その大変さは想像できます)、母はそうやって私を鼓舞してくれたのです。

 報告した2日後、母は私の大好物のあんドーナツを手土産に、家に寄ってくれました。「早期発見で、何よりだった」と話し、大学生になった娘の話、息子の受験の話、自分の病院の話などいろいろおしゃべりし、「手伝えることがあったら、言ってね」と言い、帰っていきました。

 最後の自己免疫疾患の入院治療から13年も寛解状態が続いていたので、私としてはこのまま健康で長生きできるかもと期待していました。母としても、自分に何かあっても娘は近くにいるし、病気も治まっているから大丈夫と安心していたと思います。あーあとため息も出ますが、とりあえずこの新たながんに立ち向かいます。完治を目指して、母を安心させたいと願っています。

 

2023年11月4日土曜日

胃がんを報告 娘の場合

  この2週間、いろいろなことがあり、ブログでの報告の順番が逆になりますが、関西の大学に通う娘に胃がんの報告をしたときのことをお伝えしたいと思います。

 娘に話をしたのは10月26日午後、国立がん研究センター中央病院の主治医から前週の内視鏡検査の結果について電話があった4日後でした。26日は娘の大学入試のズームでの面接日。この前に知らせて動揺して影響すると困るので、夫と相談し面接が終わってから報告することにしていたのです。

 がんのお母さんたちの会に参加すると、「子どもにどう伝えていいか分からない」というお母さんもいらっしゃいます。そのように子どもの心を気遣うお母さんに育てられた子どもなら大丈夫だとは思うのですが、話すタイミングについてはその子の性格により考える必要があるかもしれません。

 私の場合、主治医から電話で報告があった直後に、夫と息子に話しました。聞いた瞬間息子は泣きましたが、すぐ、ケロリとしましたし、その日のうちに「勉強しなさい!」「ユーチューブ見るの、もういい加減にしなさい!」と私に叱られる行動パターンに戻りました。息子は大丈夫だと思っていましたので、自然に話すことが出来ました。

 でも、娘の場合は繊細で物事を深く考える子なので、重要な面接は普通の精神状態で臨んでほしいと思いましたので、報告を4日間待ったのです。

 フェイスタイムで話しました。早期発見であること、腫瘍が小さければ内視鏡で取れること、最悪でも胃を3分の2切除だけで大丈夫であることを伝えました。娘は「何で別のがんになるの?」と涙をボロボロとこぼし、私の話を聞いていました。娘の心の在り様に影響しては困るので、「ママは大丈夫だからね。とにかく自分の夢に向かって進んでね。それがママにとって一番嬉しいことだから」と念を押しました。さらに、明るい見通しについて話しました。

「月曜日に先生から電話があったときは仰天したけど、昨日診察があって、胃外科と内視鏡科の先生とも話して、早期発見だという話を聞いて安心したの。この勝負、勝てるなと思ったよ」

「ママ、そういう受け止めは駄目だと思う。ママは、ネガティブにならなくてもいいところでネガティブになって、ネガティブに捉えて慎重にならなければならいところでポジティブになる性格だから。たとえ早期発見でも、がんだし、ママたくさん病気もしているから、慎重に受け止めて行動したほうがいいよ」

 娘にたしなめられました。

 確かに、「病院に入る前までは元気で、冗談を飛ばしていたのに」という話はよく聞きます。以前、入院していたとき「別荘に行ってくるわって、皆に言ってきたのよ」と強気だった女性が、大変な治療であちこちの臓器にも影響が出て、入院してきたときの美しさが治療でここまでになるのかーという外見に変わり、私もとても辛く悲しかったことを思い出します。

 で、病気に対する強気な態度を引っ込め、この新しいがんに対し、謙虚に対処することにしました。

 娘は小さいころから、体調の悪い私を見てきました。幼稚園のときは、ベッドに寝て点滴をする私の手を握り、側についていてくれました。小学生のときは、体調が急に悪化した私を見て「119」に電話をし「来ます!来ます!」と叫ぶだけの夫から(夫は、来てくださいと言いたかったのだと思います)受話器を取り、「ママが具合が悪くなって、動けないんです。うちの住所は……」と冷静に対応してくれました。床に横になったまま、娘の姿を見て、「これで、何かあっても大丈夫」と安心したものです。

 様々な経験を経て、娘は新しい病気には謙虚に対処すべきと母親を諭すほどに成長しました。あれこれと娘を心配した日々は、懐かしい思い出になりつつあります。

 

2023年11月1日水曜日

杉田さんのこと

  そこに行くと馴染みの人がいて、安心して仕事をお任せできるー。私はそのような人とのつながりを年を追うごとに大切に思うようになってきています。昨日10月31日、20年近く通っているガソリンスタンドの店長さんが辞めると聞き、とても寂しく感じるとともに、その店長さんがいることで私は安心してその店を利用していたのだなぁと改めて感じました。

 その人は杉田さんと言います。昨朝、車の洗車をしてもらいに、そのガソリンスタンドに行きました。火曜日は研究室に行く日なのですが、前日の月曜日に内視鏡検査で胃がんの深さと広がりを調べるために広範囲に組織を採ったこと、造影剤を用いたCT検査も行ったことで、体調がすぐれず、家で作業をすることにしました。体調が悪いと、気持ちも塞ぐもの。で、気持ちを切り替えるため、汚れが気になっていた車の洗車に行くことにしたのです。

 実は前日、夫に洗車を頼んでいたのですが、夫が行ったのは夕方。その日の作業はもう終わっていたらしく、「明日以降に改めて行くから」と言われていたのです。で、私がたまたま在宅だったので、行くことにしました。

 杉田さんはいつものように、「手洗い洗車ですね。今回は車内の掃除はどうしますか?」と聞き、テキパキと応対してくれました。そして、数時間後、仕上がったという連絡があり、行ってお会計をしようとしたところ、「村上さん、僕、今日で会社を辞めるんです。ご挨拶したいと思っていたのですが、なかなかお会いできなくて。でも、お会いできて良かったです」と言います。

 突然の退社のお話で、私はびっくり。「えっ?そうなんですか? 寂しくなります。でも、良かった。お会いできて。たまたま今日こちらに来たんです。転職するんですか?」

「はい、今の仕事とは全く関係ない、内装の仕事なんです。39歳になるのでいろいろ考えて、転職するなら今しかないと思いまして」

「そう、ずっとお世話になっていたから、寂しいです」

「村上さんには、もう20年近くお世話になっています。まだ、ここがセルフになる前で、僕、ガソリン入れさせてもらっていましたよね」

「そうですね、長い間お世話になっていて、杉田さんにお任せすれば安心だったから、残念です」

 私は杉田さんの若いころ、そして、副店長に、そして店長にと順調に昇進していったのをずっと見てきました。丁寧な仕事をする人で、礼儀正しく、信頼のおける人なのです。

「僕のあとに、あの細い●●が店長になって、体格のよい●●が副店長になります。どうぞ、今後ともよろしくお願いします。村上さんがこちらに初めていらしたときはまだ独身でいらっしゃっいましたよね」

「たぶん、結婚して間もなくのころでした」

「変わらず、お綺麗です。僕はすっかり年取っちゃいましたけど」

 たとえ、お世辞でも、この言葉、ありがたく受け取りました。先週は気持ちが塞ぐこともあったので、ほんわかと心が温かくなりました。

「あらっ、嬉しい。ありがとう。杉田さん、39歳なんてまだまだ若いじゃないですか」

「いいえ、転職するのにはギリギリだと思っています。でも、会社と喧嘩して辞めるわけではありませんし、近くに住んでいますので、また、お会いするかもしれませんね」

「そうですね。また、お会いするのを楽しみにします」

「ありがとうございます。ご主人とお子さんたちにもよろしくお伝えください。お子さんたちは赤ちゃんのころから知っていますので、大きくなりましたよね」

「はい、娘なんて本当に大きいです。杉田さん、新しい職場でも頑張ってくださいね」

そういって、握手をしました。そして、名残惜しい気持ちになりながら、車に乗り込みました。

 杉田さんはいつものように車を道路のほうまでしっかりと誘導してくれました。バックミラーで後ろを見ると、いつものように姿勢正しく立ち、私の車のほうに深々と礼をしてくれました。

 別れは、たとえ、それがその人にとっての新しい門出であっても、寂しいものです。でも、杉田さんの明るい将来を祈りつつ、お送りしたいと思いました。仕事に誇りを持って、真摯に取り組んできた杉田さんなら、新職場でもまたしっかりとした仕事をして職場の人からもお客さんからも信頼される人になるに違いありません。

 私は杉田さんの仕事の最終日にご挨拶することができました。私が洗車に行こうと考えなければ、もし、前日、夫が洗車することが出来たら、また、私が火曜日体調が良くいつものように研究室に行っていれば、お会いすることはなかった。

 少し大げさな表現になりますが、私は杉田さんの職場での最後の日にお話しできる巡り合わせで、また、杉田さんも20年来の客である私に、最後の挨拶が出来る巡り合わせだったのでしょう。

 私は父の死に目に会えなかったことをずいぶん長い間後悔してきました。この世を去る前の父に会えなかった、話せなかった自分の運命について後悔の気持ちを持ち続けてきました。でも、あるときから、私だけでなく、父もこの世を去る前にひとり娘である私に会うことが出来ない、私と話すことができない運命だったのだーとも思うようになりました。

 父は血液がんを発病した私に、病院への行き来が楽になるようにと車を買ってくれました。その車を父の形見だと思い、今でも大切に乗り続けています。その車を安心して預けることが出来た杉田さん。杉田さんの幸せと新職場での成功を祈りながら、様々なことを考えた一日でした。