2023年10月23日月曜日

胃がんの診断

  今朝午前9時過ぎ、珍しく自宅の電話が鳴りました。誰だろう?と不思議に思いながら出てみると、国立がん研究センター中央病院の主治医からでした。

「先日の胃カメラの検査結果が出ました。予約した次回の診察日より少し早く来ていただくことは出来ますか?」

「あっ、はい」

「今週はいかがですか? 水曜日の午前中は?」

「何時でも大丈夫です」

「では、9時半はいかがでしょう?」

「はい。大丈夫です。先生、それまで待つのも気になりますので、検査結果を教えていただけますか?」

「先日、胃の細胞を採って検査した結果、胃がんの結果が出ました。これまでの悪性リンパ腫ではない、がんです」

「そうですか。分かりました。では、水曜日によろしくお願いします。夫も同席したほうがいいですか?」

「いいえ、今回はお一人でまずはお越しになるのが良いと思います」

 2つ目のがんの診断でした。私は2009年に再々発した血液がん「悪性リンパ腫」の治療を終え、その後14年間再発はしていませんでした。患っていた2つの自己免疫疾患も寛解状態で、この病気を抑える微量の薬を飲んでいるだけで、今は健康な人と変わらない生活をしています。突然の胃がん宣告に虚を突かれました。

 22日の運動会の振り替え休日で、息子は自宅にいました。夫も在宅勤務で、私は2階の仕事場で来週末の学会で発表するスライド作りをしていました。階段を降りると、息子が夫と一緒に英語の勉強をしていたところでした。

「勉強しているところごめんね、今、先生から電話があって、胃がんの診断だったの」

「胃がん?」

 夫がびっくりした表情で聞き返します。先週水曜日に悪性リンパ腫(私のリンパ腫は胃が原発)の年に1度の胃カメラの検査を終えたばかり。主治医からは今回、組織が盛り上がっていて、それは肝臓機能低下による何たらかんたらという説明を受けて、とりあえずは異常なしと受け止めていた矢先の胃がんの宣告でした。

「水曜日に詳細を聞くから、まずは、それを待っていろいろ考えようと思う」と夫に伝え、私は10時半から始まる同僚研究者Oさんとのズームミーティングに備えてスライドのチェックに戻り、夫は息子との勉強に戻りました。

 Oさんは40代前半の博士号を持つ研究者で、まだまだ実力不足の私を全面的にサポートしてくれています。Oさんは国立がん研究センターの公式ウェブサイトを改訂するにあたっての研究のメインの研究者で私はその下で働いています。29日の学会でOさんは研究の全体像について発表、私はそのうちの1つの研究についての発表をすることになっています。ですので、20分間の発表のスライド作りは今まさに完成に向けての作業に入っていました。2つ目のがんの診断によるもろもろのことはさておいて、スライドを完成する必要がありました。

 粛々とスライド作りを進め、Oさんとのズームミーティング。Oさんはとても親切な人で私のスライドの一枚一枚を確認し、適切なアドバイスをくれます。あと数枚で終わりというところで、夫が「昼ご飯にしないか?」と下から声をかけてきました。12時30分を過ぎていました。Oさんには息子が食事を一緒に取るのを待っていることを告げて、一旦はミーティングを終了しました。Oさんも2人の子どもの子育て真っ最中で、その辺のところはよく分かってくれるのです。

 下に降りていくと、夫がダイニングテーブルにランチマットやカトラリーを準備し、キッチンに戻って準備していたミートソースを温め直している最中でした。マイヤー家は全員が料理好きですので、手の空いた人が食事を作るようになっており、私が忙しいため夫と息子がミートソースを作っていたのです。

「今、終わったよ。作ってくれてありがとう!さぁ食べよう!」と言うと、ミートソースをかき混ぜていた夫が私の肩を抱いた後、急に床に倒れ込みました。

「It's too much, too much」ーと肩を震わせて嗚咽する夫に、驚いた息子が駆け寄り肩を抱き締めます。夫の言葉を日本語に訳すと、「もう十分だ」「これ以上はもう無理だ」というような意味でしょうか。私も申し訳ない気持ちが一杯で、「ごめんね、本当にごめんね」と謝りました。

 申し訳ない、本当に申し訳ないと思いました。これまで散々病気をした私に、別のがんの診断。夫は一生懸命家族を支えてくれているのに、また、いろいろ迷惑を掛けてしまう。神様は人が背負えない荷物は与えないらしいけど、私はまだまだ荷物を背負えるということなんだな、と解釈しました。

 3人でミートソースパスタを美味しくいただきました。「ママ、セロリを細かく切って、椎茸も入れたよ」と息子。息子と夫が作ってくれたミートソースはそれは美味しかった。いつも、家族で一緒にいられる幸せをかみしめてはいますが、今日はさらにその気持ちが強くなりました。

 食卓ではほとんど無言でした。でも、今日は娘が合格をいただいたシドニー大学へ授業料と入学金を支払わなければなりません。他の大学の結果を待っていたら間に合わなくなるので、夫と一緒に昼休み中に行くことにしました。

 銀行の担当者とやり取りをし、全ての確認作業を終えてから夫を銀行に残して帰宅しました。息子に「今日の塾の宿題をしなさいよ~」と言いながら、Oさんとのミーティングを再開。4時30分に終了し、夫と一緒に車で息子を塾に送りました。

 夫に車で待ってもらい、スーパーで食材の買い物をしました。今日は自分に花を買いたくなり、スーパーの店頭で売っているバラ2輪を買いました。その足でドラッグストアに行きました。行き慣れているドラッグストアでしたが、考え事をしているせいか買うはずだった洗剤をうまく探せず、店内をぐるぐる回りました。洗剤の棚を眺めていると、涙が勝手に流れてきました。優先順位を付け直して取り組まなければならないこと、時間のやりくりをどうするかで頭がパンクしそうでした。

 娘は出願しているもう一つの大学の面接試験を木曜日に控えているので、その後に伝えることにしよう。娘にはとにかく自分の夢を追うことを最優先にするよう説得しよう。

 母は元気だが、ひとり娘が2つめのがんを発病したことを伝えるとかなり堪えるに違いない。伝えるタイミングを考えなければ。手術や抗がん剤治療になれば外見に影響が出るので言わずにはいられないが、そうでなければ黙っていよう。

 息子の中学校受験は2月。その間に治療になったら、どうしよう。日本語が出来ない夫には対応は無理で、娘は関西にいて2月には海外に行くかもしれない。母は85歳。このまま日本の中高一貫校を目指していいのだろうか? 私に何かあったら、日本語の読み書きができず会話も限定的な夫には日本の学校とのやり取りや大学受験などの対応は無理だろう。中高一貫校ならまだしも、受験に失敗して地元の公立校に行くとなると、私の体調では高校受験のサポートは無理かもしれない。熟考して決めよう。

 いま、取り組んでいる研究は何とかやり抜きたい。博士課程はあと2年あるが、研究を進めて博士論文を書く気力と体力と知力を持ち続けられるだろうか? 

 2冊目の出版の準備を進めているひとり出版社「まりん書房」はどうしたらよいだろう?2冊目を出版する体力・気力はがん治療後にどれくらい残っているだろうか?

 母に、父の遺骨を札幌の納骨堂から、東京のお寺を探して移動したいと相談を受けている。資料などを取り寄せていたけど、急いだほうがいいかもしれない。母と一緒に納骨堂の見学に行き、契約をして、札幌の納骨堂を解約して、父の遺骨をこちらに持ってくれば母も安心するだろう。早く手続きをして母を安心させなければ。

 家の中の膨大な物の処分を進めなければ。娘や息子にプレゼントする予定のアルバムづくりだけは完成させよう。icloud に膨大な写真や動画を保存していて、私が管理しているけど、このことを家族に引き継がなければ…。

 To Do List が頭の中を駆け巡りました。いろいろ考えることはありますが、きっとなるようになると思うようにしました。

 このブログで、2つ目のがんを診断されたママの育児(育自)の日々をつづっていきます。皆さん、どうぞ今後もお付き合いください。

 

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