2015年12月31日木曜日

2015年 私の挑戦 ベスト5 ①200㍍を走る

 「2015年 私の挑戦 ベスト5」のトップは、何と言っても200㍍を走ったことです。これは、事前の準備も心構えもない中での、アラフィフママの無謀過ぎる挑戦でした。が、私は走り切りました。たとえ、歩いているような速さで走ったとしても・・・。

 秋に開かれた、娘の運動会でのことです。この春、地元の公立小から、横浜のインターナショナルスクールに転校して初めての運動会。一事が万事、”ゆるい”インターですので、すべて、ギリギリになるまで分かりません。当然、父母へのお知らせもありません。娘が黄色のTシャツを着ることは前日に判明。慌てて、私のユニクロのTシャツを引っ張り出して、娘に着せたほどの、適当さです。

 プログラムは当日の朝、グラウンドの保護者席で配布。ですので、どの種目が何時にどこで行われるかもギリギリまで分かりませんでした。また、グラウンドに着くまで、保護者席はどこにあるのかも分からず、とにかく、すべてがきちんとしている日本の小学校の運動会とは全く違うため、とまどってばかりの運動会でした。

 4方に引っ張る綱引き、何回でも走れる徒競走、ただただゴールにボールを入れ続けるバスケットボールなど、度肝を抜かれる競技ばかり。整然とした、時に手に汗を握る日本の運動会とは違い、整列も行進も競争もない、こういう緩い運動会も良いなあと楽しんでいたときに、小学生の部の最後の競技になりました。父母も参加してくださいとアナウンスが入りました。

  出張中で来られなかった夫の代わりに、たまたま、スニーカーを履いていた私は、「試しに」と参加することにしました。娘もグラウンドから「ママ!」と呼んでいます。前年、地元の公立小で参加した、父母が力を合わせる「大玉運び」のような競技をイメージし、グラウンドに進みました。

 ところが、です。生徒と父母が集まったところで、リレーを走ることが判明したのです。それも、6人1組となり、1人200㍍、つまり、グラウンドを一周するというのです。組み分けには、日本の学校のように、男女バランス良く配置し、勝敗に極端な差がつかないようにするなどという配慮は全くなし。いかにも日頃鍛えていそうな、体の引き締まった父親たち6人がさっさと組を作ってしまいます。私は、あれよあれよという間に、母親がほとんどのチームに。もう、引き下がれません。

 誰も信じてくれませんが、私は小学校から高校までずっとリレーの選手でした。アンカーは走りませんでしたが、いつも1番走者か2番走者。前の走者を抜いていく、あの、たまらない感覚は忘れていません。ですので、たとえ、何十年走っていなくても、秘かな自信があったのです。

 私は3番走者でした。トラックを走る走者の順位が入れ替わるたびに、ゴール付近で待つ次の走者の、インコースからの順番が入れ替わります。昔の記憶が蘇ります。自分の組の走者が近づいてくると、左手を後ろに差し出し、少しずつ走りだします。バトンを左手で受け取り、そく、右手に持ち替え、前方を見て全速力で走る・・・はずでした。が、自分の体が覚えている動きと、実際の動きが違うのです。初めの30メートルぐらは走りました。「私もまだ、走れるんだ」と勘違いしそうになりました。が、その後が全く続かない。足が、動いてくれないのです。もたついているのです。

 そうこうするうちに、前の男性がころびました。私は、慌てて迂回します。そこで、インコースに入るつもりが、足がうまく動いてくれません。そして、次から次へと抜かされます。「なんで、足が動かないのよぉ!」と心の中で叫びながら、ゴールに向かって走っていると(観客には歩いているように見えたかもしれません)、前方に悠々と、いや、堂々と歩いている大柄な女性が見えました。娘のアメリカ人の同級生の母親です。私はその姿を見て、「さすが、アメリカ人」と感動すら覚えながら、ゴールまで走り切り、次の走者にバトンを渡したのです。

 「ママ、頑張ったね!」と娘に迎えられ、私は少し照れながら、保護者席に戻りました。気分は、爽快とまではいかないですが、「ナイス トライ!」と心の中で、一応、自分をほめました。

 このリレーには後日談があります。運動会の後に開かれた保護者会で、悠々と歩いていたアメリカ人の女性と、私の前で転んだ男性の奥さんと話をする機会があったのです。いずれも、娘の同級生の親です。

 アメリカ人の女性は言いました。「私はこの体格よ。走れるはずないじゃない。でも、息子にママ出てよ!と言われたら、出ないわけにいかないじゃない」。
 転んだ男性の奥さんは、「あの後、起き上がって、しばらく走ってまた、ころんだのよ。娘はダディ恥ずかしいっていうし。私はたくさんの知り合いに、旦那さん2度転んだけど大丈夫?って聞かれるし。もう、その話には触れないでって感じ・・・」と苦笑いしていました。

 お父さんもお母さんも、子供のために体を張って?頑張るんですね。
 

 

2015年 私の挑戦 ベスト5 ②ブログを始める

 「2015年 私の挑戦 ベスト5」の中で、最も勇気が必要だったのは、ブログの開設です。個人情報を不特定多数に公開することへの警戒心があったからです。が、以前取材して書くことを職業としていた自分に、長いブランクの後にもう一度書きたいという気持ちが芽生えたとき、手段として可能だったのがブログでした。手探りで始め、1カ月以上経ちました。家事を効率良く終わらせて執筆の時間を作るため、生活にメリハリが出来ました。書きたいことやエピソードをノートにメモしているため、仕事をしていた頃の自分を少し取り戻したような気分になり、生活が楽しくなりました。身辺雑記ではありますが、ブログは今の私にとって、大切な生活の一部になりつつあります。

 長い間、日記はつけていました。人に見せない闘病記のようなものです。記事体で書いていましたが、どこに公表するあてのない文章は次第に、記録するためだけの文章になり、人に読んでもらう工夫をしなくなりました。それでも良いと考えていたのですが、体調が良くなるについて、気力もわいてきました。また、書きたい!と切望するようになったのです。

 長らく人と関わりたくないと願い、ひっそりと暮らしてきた。知り合いとつながるフェイスブックなど興味もない。連絡を取りたい友人には、メールや電話での連絡で十分と考えてきた人間にとって、ブログの開設はハードルが高かった。ネットで調べても、ブログに関する様々な語彙すら分からず、まず、語彙をネットで調べることから始める始末。浦島太郎のような気分になっていたときに、たまたま、インターナショナルスクールに通う娘の同級生のお母様が、ブログをしていることを知ったのです。海外生活が長い彼女が使っていたのは、「blogger」。 さっそく調べると、日本ではまだ馴染みの薄いこのブログは操作が簡単で、ネット関連情報に疎い私にもすぐ出来たのです。

 今のところ、ブログのURLを伝えたのは、夫と私の共通の友人1人です。親友には、明日届く年賀状で伝えました。「去年、ブログを開設しました。軌道に乗ったら、URL教えるね」と。息子の出産のときも、親にも親友にも、ママ友達にも言いませんでした。過去の経験から、本当に実現させたいことは、人に言わないほうが、結果が良いからです。

 開設から1カ月。どうやら、私のブログは軌道に乗ったようです。読み手のいない媒体に、文章を書き続けることは、社会復帰の一歩を踏み出したばかりの私には合っているようです。少なくとも公開されているので、間違って誰かが読むかもしれないという緊張感はあります。ですので、まずはワードで書いてプリントアウトして、推敲し、手直ししてから、ブログの投稿欄に打ち込みます。この作業が、たまらなく、楽しいのです。

  

2015年 私の挑戦 ③1日に複数の行事をこなす


  「2015年 私の挑戦 ベスト5」で3番目に上げたいのは、1日に複数の行事をこなしたことです。往復2時間かかる娘の学校関連行事に朝夕2回参加し、その合間に自宅近くの幼稚園に息子を送迎。シリア難民のためのチャリティーバザーにも参加しました。あの日は、まるで偉業を成し遂げたような誇らしい気分になりました。12月4日のことです。

  健康で仕事をしていたころは、仕事以外の時間にいかに効率よく用事を済ませるかーに知恵を絞っていました。が、体調を崩してからは、ついでに用事を済ませたことで後々まで体調に響いてしまい、結果的に家族に大迷惑をかけてしまった経験が続き、「1日用事は1つまで」と自分を律していました。

  しかし、46歳で息子を出産してしばらくしてから、体調はどんどん上向きに。女性の友人たちに「出産で、胎盤と一緒に悪いものが全部体外に出ていったのでは?」「出産は最高のデトックスと言うけど本当ね」と言われるぐらいになりました。自分でも、あの体調からよくぞここまで、と驚いています。

  あの日息子は通常通り、娘は夕方からのクリスマスコンサートのため午後の登校でした。まず、朝6時に起床。チャリティーバザーに出品するキッシュを作り、子供たちにもお弁当を作りました。9時に息子を幼稚園に送り、その足で娘と一緒に娘の学校近くの駅へ。そこで娘のクラスメートとその母親たちと待ち合わせをし、お菓子教室へ行きました。午前中に時間が出来た娘たちにクッキー作りを企画したのです。美味しいクッキーを作った娘は友人たちと学校へ。私は息子を迎えに幼稚園へ向かいました。

  午後は、娘の学校へ。クリスマスコンサートが開かれる講堂に行くと、エネルギッシュな母親たちがすでに、チャリティーバザーを開いています。手作りの美味しそうなお菓子やケーキが並ぶテーブルに、私はラッピングしたキッシュを並べました。そして、入り口に立ち、コンサートに訪れた父母らに難民への寄付を募りました。夕方からは、娘らの歌や踊りを楽しみました。

  「体調が良くなってからあれをしよう、これをしようと患者は思う。でも、多くの患者は将来、体調の悪い今を振り返って、あのころはもっと出来たと思うものだ。だから、今、出来ることをやってください」
 たまたま書店で手に取ったがん専門医の著書に、このような趣旨の文がありました。それを読んだのは、6、7年前だったと思います。

  当時は、国立がん研究センター中央病院=東京都中央区=の主治医の診立ても良くなく、また、他の病気でかかった病院の医師も主治医と同じような診立てで、体調も悪化するばかり。この著者の言葉が心にずしんと響きました。それからです。自分に残された時間で何をしたいかーを真剣に考えるようになったのは。

  夫の反対を押し切り、主治医に相談もせず、私の体調を心配する親に内緒で、不妊治療のクリニックに通い、息子を妊娠しました。私が娘にしてあげられることは、細々と生き長らえることではなく、残された体力を使って、娘にきょうだいを作ってあげることだと考えたためです。

  幸運なことに、今の私は、がんや自己免疫疾患など病気の連鎖を断ち切ろうとあがいていた過去の自分より、ずっと健康です。

 1日に複数の用事を足せるような体に戻れたことに、感謝したいと思います。

2015年 私の挑戦 ベスト5 ④保護者会幹事になる

 「2015年 私の挑戦 ベスト5」で次に上げたいのは、息子の通う幼稚園保護者会の「幹事」役を引き受けたことです。幼稚園の様々な行事のお手伝いをしたり、幼稚園からの連絡事項を保護者へ伝達したりするのが主な仕事。割と頻繁に雑務を引き受けるだけでなく、緊急時には臨機応変に対応します。ですので、幹事は、時間に融通がきき、体調が安定的な健康な人しか引き受けられません。その役割に私はこの春、手を挙げたのです。これは私の、高らかな”社会復帰宣言”でした。

 幹事には年少、年中、年長組の母親たちから各2名選出されます。春の保護者会のときに、立候補制で選ばれます。同じ年少組で、娘が幼稚園のときも3年間一緒だったママ友達と事前に相談して、一緒に引き受けることにしました。

 このママ友達は外見はかわいらしいのですが、中学生、小学生、幼稚園児の男子3人を育てている”つわもの”です。さっぱりとしていて、かつ細やかな気配りも出来る人です。そのママ友達と送迎時の時間を活用し、メールやラインで連絡を取り合いながら、フットワーク軽く”業務”をこなしています。

 「私、やります!」
 こう、言えることがどれだけ幸せなことか、おそらく、健康を大きく害したことがある人にしか分からないかもしれません。どんな仕事でも責任を持って引き受けることは、自分の体調に自信がなければ出来ないからです。

 娘が幼稚園に通っていたときは、いつも、「ごめんね」「ありがとう」とママ友達に頭を下げるばかりでした。体調はいつも不安定。治療や手術のための入院が毎年のように続き、そのたびに、札幌の両親に助けを請い、娘の世話と家事を頼みました。両親が帰った後はソファに横になり、目の前のほこりを見ながらも、掃除機をかける体力もない自分自身を情けなく感じる日々。また、薬の副作用で外見的にも変化が大きく、風船のように醜く膨らんだ顔と、こぶとり爺さんのように耳の下にこぶまでつけていた(これは後に手術で取りました)私は、すっかり厭世的な人間になっていました。そのため、人の役に立つどころか、何とか人と関わらずにひっそりと生きたいと願っていたのです。

 あまりの病気続きで家族や周囲の人に迷惑をかけ続けていたため、古くからの知人に「結婚したのが外国人で良かったわね。日本人だったら、とっくの昔に離婚されていたわよ」と言われたこともあります。そのコメントに私は、「日本人男性に対する侮辱だわ」と眉をひそめるどころか、「健康を害するということは、離婚されるような女になり下がることなのだ。そう、世間に見られているのだ」と落ち込み、泣き続けました。それが更なる体調悪化につながり、その後何カ月も体調が悪いまま過ごしたことは、今思い返しても心が沈む出来事です。

 この春引き受けた幹事の仕事は、とにかく楽しかった。保護者会に配布するお便りの作成、催しの受付業務、子供たちが世話をするカタツムリの夏休みホームスティ先のスケジュール調整、母親から子供へのクリスマスプレゼントの材料選びと袋詰め作業・・・。おそらく、私はこの10年間で、一番生き生きとしていたのではないかと思うのです。
 
 幹事の任期は来年の3月末まで。人の役に立つ喜びを、味わいたいと思います。

 
 

2015年12月30日水曜日

2015年 私の挑戦 ベスト5 ⑤自転車に乗る

 今年、私はいくつかの新しいことに挑戦しました。約10年間の病気との闘いを経て、ようやく体調も安定し、40代に出来なかったことを試してみたくなったのです。それらはいずれも心がワクワクするような体験で、「私はまだまだ、大丈夫」と自信を持つきっかけにもなりました。「2015年 私の挑戦 ベスト5」を振り返ってみたいと思います。

 まず、大きな挑戦の一つは自転車に乗ったことです。いわゆる「ママチャリ」です。息子の幼稚園入園に合わせました。これは、娘が幼稚園に通った3年間に私が憧れつつ、出来なかったことでした。

 44歳から46歳までのこの3年間は、とてもたいへんな時期でした。
 再再発した悪性リンパ腫をたたくための抗がん剤治療と放射線治療。抗がん剤治療中に悪化した、不整脈を治すための手術。放射線治療中に起きた敗血症ショック(死ぬ目に会いました)の治療。自己免疫が血中のヘモグロビン(酸素を運ぶ働きをする)をたたく自己免疫疾患=自己免疫性溶血性貧血=の治療。自己免疫が血中の血小板(血を止める働きをする)をたたく自己免疫疾患=特発性血小板減少性紫斑病=の発病と治療。これらの治療に伴う副作用もありました。体調が悪い状態が続きましたので、娘の幼稚園への送りは夫に頼み、帰りは徒歩やバス、車で迎えに行きました。ですので、自転車に乗るのは、夢のまた夢だったのです。

 私にとって”健康の象徴”であったママチャリに乗ることは、とても大きな意味がありました。自分の体調が安定したという自信を持てたということです。それまで一年ぐらいかけ、体調が悪いときには出来なかったことを少しずつ試していったのです。たとえば、寒いときの外出(自己免疫性溶血性貧血は寒さで悪化する)、外出時に複数の用事を足す(長い間、外出時の用事は1つだけと自分を律してました)、予定に合わせて体調を整えるのではなく緊急時にも対応してみる(葬儀への参列や家族の怪我や病気のときの臨機応変な対応)などです。

 電動アシスト付き自転車は、私の気持ちに合わせて、思い切った色を選びました。ターコイズブルーです。この明るい色は、いとしい息子を軽やかに送迎する喜びと私の晴れやかな気持ちを表していたからです。50歳でターコイズブルーの自転車はやり過ぎかしら?とためらう気持ちがありましたが、思い切りました。思い切ったついでに、ターコイズブルーのスプリングコートを合わせて送迎時に着ることにしました。

 4月、息子を後ろに乗せて、初めて自転車をこいだ喜びは言葉では表現できません。「ママ、すごいね。ジェットコースターみたいだね」という息子の言葉に、私は思わず泣きました。自転車を一生懸命こぎながら、泣きました。

 息子が通う幼稚園には、娘のときに一緒だったママも数人います。「むっちゃんが自転車に乗るなんて、信じられない」と驚かれました。「すごいね。全身、ターコイズブルー」と言うママ友達のコメントに、私は大笑いで返しました。気分は晴れやかでした。

 息子の自転車送迎に慣れたころ、電車通学する娘を駅に迎えに行きました。娘は駅から出てくると、息子が乗る後ろのシートに無理やり座ろうとします。大ゲンカが始まりました。
 「いいじゃない、1回ぐらい、おねぇねぇに乗せてくれても」。娘は真剣です。
 「嫌だ!これは僕の!」。息子が手足をバタつかせ、抵抗します。

 子供っぽい(実際、子供なのですが)態度を取る娘をどうしたものかと考え、提案しました。
 「家に帰ったら、ママの後ろに乗ってみる?」
 「うん!」。娘は素直に了承し、弟とのケンカを止めました。

 帰宅し、息子に「家から出ちゃだめよ」と言い聞かせ、身長150㌢の小5の娘を自転車の後ろに乗せて、私は近所を走りました。
 娘が私の体にしがみ付き、「わー、わー」と雄叫びを上げ、泣きました。
 「ママの自転車の後ろに乗るのが夢だったの。ずっと夢だったの!」

 ママチャリは私の夢だけでなく、娘の夢でもあったのです。


 

2015年12月28日月曜日

クリスマスに思う

 スター・ウォーズを家族で見に行きました。クリスマス当日の25日、場所は六本木ヒルズにある映画館です。私は前作を見ていないので内容が良く分かりませんでしたが、ポップコーンをほおばり、コーラを飲みながら見るという映画の楽しみ方が好きなので、満足しました。

 娘と夫に内容を解説してもらうため、ヒルズで夕食を取ることにしました。クリスマスで金曜日ということもあり、子連れで入れそうなレストランはどこも満席か、クリスマス特別ディナーで高過ぎるかのどちらかのため、早々にあきらめ、メキシカンのファストフード店に行くことにしました。店内の席は埋まっていたため、寒さに震えながら、外のテーブルで食べました。そのときのことです。

 私たちの横を、白人の男性が大きなゴミ袋を両手に持って、通り過ぎました。20代後半から30代前半ぐらいでしょうか。その男性が出てきたのは、ファストフード店の横にある、おしゃれなレストランです。その日は貸切で、多くの外国人がパーティを楽しんでいました。男性はそのレストランで働いていました。

 六本木は外国人が多い街です。六本木ヒルズには、知的な雰囲気を漂わせている外国人がたくさんいます。おそらく稼ぎが良いのであろう、彼らが醸し出す雰囲気には独特のものがあります。私が、ゴミを捨てに行った男性を気にしたのは、彼がレストランで楽しそうに食事をする側にいるような風貌をしながら、外国人客が多いレストランで下働きをしていたからです。彼にはファストフード店などで働く若い外国人たちの屈託のなさや明るさがない。真面目さと一種の暗さを感じさせました。私は夫に話しかけました。

 「今、ゴミを捨てに行った男性見た?どうして、レストランの従業員として働いているのかしら?」

 「恋する日本人女性を追いかけてきたのかもしれないよ」。ロマンチックな答えでしたが、私は、賛同しません。

 「異国の地のレストランで下働きしているのよ。学生や若い人ならまだしも、ある程度の年齢よ」
 
 余計なお世話でしょうが、私は彼の物語を想像しました。日本で生まれ育ったという可能性もあるでしょうが、おそらく違うでしょう。自国でキャリアをスタートさせているはずの男性が、異国の地にいる。何が彼を日本に来させたのでしょうか? レストランに戻り、料理を運んでいる彼の姿を窓越しに見ながら、この仕事が、彼の目標を達成するためのステップであってほしいと願いました。

 私はふと、娘に私と夫の学生時代の話をしなければならないと思いました。

 「ダディとママはね、大学の学費を稼ぐためにいろいろ働いたのよ。ママはね、車の部品を作る日本企業で翻訳の仕事をしたり、留学してくる学生たちの世話をしたりしたの。ダディは・・・」

 「いろいろやったよ。ゴルフ場で働いたり、レストランのウェイターやったり」

 娘が素朴な疑問をぶつけます。
 「どうして働かなければならなかったの?」

 「ダディは4人兄弟だろ。グランパとグランマは4人を大学に入れるのに、経済的にたいへんだったんだよ。だから、大学の費用の半分は自分で稼ぐように言われていたんだ」 

 「ママはね、外国に行くことに大反対されたの。だから、学費は自分で稼がなければならなかったの。いい、あなたは恵まれているのよ。インターナショナルスクールに通って、ヴァイオリンを習って・・・」

 夫が懐かしそうに続けます。

 「毎週水曜日が、1ドルで映画を見られる日だったんだ。ママと良く行ったよ。今日見たスター・ウォーズの最新作みたいな映画はないんだ。古い映画ばかりでね。でも、ポップコーンを食べながら、楽しかったよな」

 娘に自分の境遇に感謝するように教えながら、私は隣のレストランで働く男性に心の中で話しかけます。 いつか、現在のことを家族や友人に笑って話せる日が来ますようにと。

 「若いころは、日本で働いていたんだ。レストランで下働きさ。クリスマスには外国人が貸切でパーティをしていて、僕は料理を運んだり、ゴミを捨てにいったりしていた。当時は何で自分はあちら側にいないんだろうと悔しい思いをした。でも、その悔しさをバネに頑張ったんだ」
 
 

 

 

 

2015年12月23日水曜日

千住真理子さん演奏会

  ヴァイオリニスト千住真理子さんの演奏会に20日、娘と一緒に行ってきました。演奏会は休憩時間を挟んで3時間。オーケストラのサポートも、ピアノの伴奏もなく、青いドレスをまとった千住さんは、自ら奏でるヴァイオリン演奏だけで、東京オペラシティコンサートホールの聴衆を魅了し続けました。

 ヴァイオリンを習う娘に聴かせてあげたいという目的でチケットを買ったのですが、当の娘は前半から、寝息を立てています。何度か起こしましたがあきらめ、私は演奏会を楽しむことにしました。美しい旋律にうっとりと聞き惚れました。「千住真理子の世界」にすっかり取り込まれました。ストラディヴァリウス「デュランティ」を奏でる千住さんを見つめながら、天国のお母様がどれほど、千住さんの活躍を喜び、誇らしく思っていらっしゃるかと思うと、涙が止まらなくなりました。

  千住さんは私より年上の53歳です。お母様については本や雑誌の記事などメディアを通じてしか存じ上げませんが、日本画家の博さん、作曲家の明さん、そしてヴァイオリニストの真理子さんの芸術家三きょうだいを育て上げた方として、以前から敬服の念を抱いていました。
 
 世に名をはせた人たちの多くは幼少期、その母や父に献身的に支えられています。「親はなくとも子は育つ」と言いますが、やはり、スポーツ選手や音楽家などは、親がつきっきりで子供の才能を伸ばす努力をしたケースは多い。ヴァイオリニストでは五嶋みどりさんがお母様の節さんと二人三脚で音楽家への道を歩まれたことは有名ですし、千住さんもそうだったといいます。ピアニストの辻井伸行さんもお母様が大変な努力をされたと聞きました。

 各界で活躍されている方々のお母様方と私を、同列で語るのはおこがましいと十分承知はしていますが、子供は生まれたときは真っ新(遺伝子が違うという話はあるでしょうが)で、かつ、母親が持つ時間は同じです。ましてや、私は専業主婦。ですので、いろいろと子供に手をかけることは出来たはずです。が、体力、気力、そしてやる気の面でも、子供の習い事や勉強に情熱を持って付き添うことは出来ませんでした。

 楽器を買い与え、お教室の送迎も何とかこなし、「練習しなさい」の言葉がけや、たまに演奏会などに連れていくことぐらいはしました。が、それで精一杯。自分の人生をかけるような気持ちで、子供の才能(あるかどうかは分かりませんが)を伸ばす努力は出来ませんでした。ですので、子供三人をあれほどまでに立派に育て上げた千住文子さんには、尊敬、いや畏怖の念すら抱くのです。

 千住さんの演奏会の後、私と娘は軽食を取り、家路につきました。娘の帰宅を待っていた夫は、「演奏会は良かったかい?」とだけ聞き、娘と息子と毛布にくるまってソファに座り、アメリカの映画を見始めました。演奏会の余韻が残っていた私には、その映画の音声は騒音にしか聞こえませんでしたが、娘や夫は大声を立てて笑っています。

 千住さんの演奏に刺激を受けて、最近替えたばかりのフルサイズのヴァイオリンを手に取り、何か弾いてくれるのではとの期待は見事に打ち破られました。が、私はそこで「せっかく、すばらしい演奏を聴いてきたのでしょ。少し練習したら?」とは言いません。「まあ、いいや」と、化粧を落とし、お風呂に入ります。そして、読みかけの本を手に取り、ベッドに入って、自分だけの束の間の時間を楽しみます。

 おそらく、千住文子さんや五嶋節さんや辻井いつ子さんには、この「まあ、いいや」がなかったに違いありません。この親の妥協が、子供の将来の差につながるのだろうなとうっすらと気付きつつ、改められない日々です。