昨日、職場で研究発表をしました。参加者は東大のダイバーシティ関連の教員・研究員たち約10人。当日、画面共有がうまくいかず、自分のパソコンではメモ付きの画面が見えて、相手側には全画面が見えるという仕組みが使えず残念でしたが、事前にメモをワードに落とし込んでプリントアウトしていたので、乗り切れました。
私は5月から特任研究員として働いており、今回が博士号取得後の初めての発表でした。発表後に質問を受けて答えるのは苦手なのですが、昨日は普通に答えられました。つくづく思ったのが、国立がん研究センターの研究室で博士課程時代に行った、いくつものプレゼンテーションが役に立ったな、ということ。
海外を勝負の場とする同センターの研究者たちはそれは優秀で、質問も鋭い。答えられず、「後ほど調べてご連絡します」と答えた場面数知れず。その渦中にいるときは、それは辛かったのですが、乗り越えてみると、自分の糧になっていた。改めてそう思いました。
私が61歳までの人生で、雇用されて就いた仕事は4つ。最初はサントリー株式会社札幌支店の事務職、次は札幌の英会話学校の講師、次は北海道新聞社の記者職、そして人生最後の職(年齢からして、たぶんそうだと思う)は東大の特任研究員です。
この道のりを「キャリア」という視点でみると、バラバラです。特に記者職から研究員までの道のりが長く、多難で、大きな方向転換でした。まぁ、よくぞここまでたどり着いたものだ、と思います。
この茨の道を振り帰ると、要所要所に、病気により社会から離れた私をもう一度社会へ引き戻してくれた人たちがいます。その人たちは、家族や友人のように人生の中での長く付き合ってきた人たちではなく、ピンポイントで現れます。
たとえば、病気の寛解後、社会復帰のきっかけとなったWebニュースサイト。元テレビ記者と元新聞記者が作ったサイトで、たまたま、元新聞記者の市民講座を受講していた私に声がかかり、サイトのメンバーになりました。ここでの経験は取材・執筆という基本の動作を取り戻すのに大変役に立ちました。
そして大学院修士課程では、良き指導教員に恵まれ、無事修了。博士課程では、私を受け入れた指導教員が大変なハラスメントをする人でしたが、1年もたたないうちに別の大学へ移りました。今振り返ると、その指導教員は私をこの大学に入れるという役割を担ってくれた人だったように思います。
そして、その指導教員に代わって私を引き受けた指導教員からは理不尽な扱いを受け、最後は決裂しました。が、彼女が私の人生で担ってくれた役割は、私を博士号取得まで導くことだったと考えています。実際、決裂後に私は無事、博士課程を修了することが出来ました。
こうした人たちは、私の人生の節目の局面で現れ、ほどなく私の人生から消えていきます。不思議なものだな、と思います。
皆さんの人生にも、ある局面で現れ、次の場所へとつないでくれた後、いつのまにかいなくなった人はいますでしょうか? もしかしたら、自分が誰かの人生で、その役割を担っているかもしれませんね。そう考えると、人生は面白いですね。
まぁ、「あの人は嫌な人だったけど」と思い出されるのも何ですが…(笑)。