メルボルン滞在中に娘とたくさん話をしましたが、一番考えさせられたのは宗教の話でした。
娘は生まれて間もなく、クリスチャンの夫と一緒に教会に行き始めました。娘が生まれる前に、夫から娘をクリスチャンにしたいと言われました。宗教を持たない私は「子どもが大きくなってから、子ども自身に決めさせたほうがいい」と主張しましたが、夫は譲らず、結局は無宗教の私が受け入れた形でした。
毎週日曜、家族の用事があるとき以外は、夫は娘を連れて教会に行きました。息子が生まれてからも、当たり前のように息子を教会に連れていきました。そして二人とも洗礼を受けました。
ところがです。娘は「もう、神様は信じていないの」と言うのです。娘が不安症やパニック症などの心の病で苦しんでいるときに、キリスト教の神様は全く救いにならなかったと。夫に悩みを相談し、聖書を読むよう勧められて読んだけれども、全く心に響かなかったと。でも、「そんなことを言ったらダディが可愛そうだから、言わないの」と娘は言います。
そして、息子もずいぶん前からクリスチャンではないというのです。息子は今も日曜は夫と一緒に教会に行っていますので、そのことを伝えるつもりはないのでしょう。子どもたちが夫に反抗できないのではなく、夫にそのことを言うと悲しむだろうな、と思って黙って教会について行っているのです。
私がキリスト教の神様について、しっくりこないのは、「日々一生懸命生き、良い行いしてきた人は、神様を信じなくても救われるべきではないのか」という問いに、キリスト教徒は答えられないからです。若いころ、米国や日本の教会の牧師さん何人にも聞きましたが、この点について明確な答えは得られませんでした。だから、私は今でもキリスト教を信じません。
でも、私は夫が子どもたちをクリスチャンにしようとしたことには異議はなく、今まで夫が子どもたちを教会に連れていくのをいつも快く「いってらっしゃい!」と送りだしてきました。結果的には、私が夫に伝えた通りに、子どもは自分で考え、自分で決めていったのだと思います。
神を信じるか否か。いや、どの神を信じるのか。この問いの答えは、与えられるものではなく、自分で考え抜くことでしか得られないものなのかもしれません。