2016年12月3日土曜日

捨てられない!

 「片づけは、『捨てない』ほうがうまくいく」
 朝、娘を学校に送り出した後、コーヒーをすすりながら朝刊を読んでいたところ、こんな本の広告が目に飛び込んできました。なんて、胸に響くタイトルでしょうか。この日は夫が一週間の出張から帰ってくる日。整理整頓好きの夫が帰宅するまで、散らかった家を片付けなければならず、うんざりとしていたところでした。

  昨今、世の中には「物を捨てて、すっきり暮らしましょう」というメッセージが溢れています。物を捨てることが出来ない私にとっては、いくら「物への執着を断ち切れば、幸せになる」と言われても、捨てられない。だから、このようなタイトルに引かれてしまうのですね。出版社も分かっているのでしょう。世の中の「捨てましょう」という風潮に賛同しない人が少なからずいることが。

 しかし、タイトルの横の文章を読んでいくと、いまひとつ、ピンとこない。パソコンを立ち上げて、アマゾンで注文する気になれない。私はそこから目をそらし、新聞を読み終え、その後3時間かけて散らかった家を片付けたのでした。

 私の「捨てられない病」は結構、重症です。無類の片付け好きな母に育てられたことの、反動かもしれまません。

 母の潔さは天下一品です。まず、一人っ子の私が独り立ちした後、私の部屋の壁を取り払い、広々とした部屋を作りました。私の使っていたベッド、机を処分し、私が必死に勉強した大学時代のテキストブックも本棚ごと、捨てました。私が小さいころ読んで、子供が生まれたら読み聞かせようと思っていた絵本もすべて、処分。置かせてもらっていたゴルフセット一式もなくなっていました。

 「お母さん、一応、私のものなんだから、ひと言聞いてよ」と言うのですが、「ごめんね。でも、もう、捨ててしまったからしょうがないじゃない」と、反省の色なし。で、「自立した後、親の家に私物を置いておく自分が悪いのだ」と自身に言い聞かせ、今は先手を打って、捨てられては困るものを実家に戻るたびに持ち帰ったり、母にくぎを刺したりします。
 「お母さん、お願いだから、アルバムは捨てないでね。お母さんやお父さんが若いころの写真が貼ってあるあのアルバム」

 昨年は、「雨漏りしてねえ。あんたのクローゼット(もちろん、私のものは処分され、母の服が入っています)も水浸しになったんだよ。で、業者さんに来てもらって、直してもらった」という話を電話で聞いたときは、真っ青になりました。作り付けのクローゼットの引き出しの下に、昔イギリスのロックバンドに憧れたときに買いためた雑誌を、隠していたのです。しばらくしてから帰省し、引き出しを引っ張り出し、その下に雨がしみ込んでくたっとなった雑誌を確認したときは、思わず、胸をなでおろしました。こうやって、”生き延びた”雑誌は、母に気付かれないように、少しずつ、帰省するたびにスーツケースに入れて持ち帰っています。たまたま、どこに転居しようと持ち歩いていて、手元に残っている唯一の児童書「若草物語」とともに、自宅に大切にしまってあります。

 今、片付けられない親についてなげく中年の娘たちの話がよく出てきますが、うちは逆。片付け過ぎる親についてなげく、娘という構図です。いつも家がきちんとしているママ友達に「どうして片付けが好きなの?」と聞いてみると、ほとんどが、「親の家が物で溢れていて、それを見て育ったからかな」と答えます。やはり、「反動」なのですね。

 あるママ友達のエピソードは、考えさせられるものでした。
 「母にね。私の小さなころの思い出の品々を渡されたの。でも、私まるで覚えていないし。結局、全部捨ててしまったわ。せめて、取捨選択して、母の思い入れのあるものだけ残してほしかった」
 娘や息子が書きなぐった紙の切れ端さえ、いとおしくて捨てられない私には、そのママ友達のお母様の気持ちは良く分かります。うらやましいほどの話ですが、思い出の物はやはり、ある程度の量までに絞っておくべきなのでしょう。

 さて、潔い母ですが、捨てずに取っておいて、私にくれたものがいくつかあります。私が娘を産んだ後、送られてきました。

 一つは、私が赤ちゃんのころ、母が私をお風呂に入れるときに使っていた温度計です。木製で船の形をしており、水色に塗ってあります。手に取るとすっぽりと馴染み触り心地も良く、「あの母にも捨てられなかったほど、思い出深いものだったのだ」と感慨深い。大切に、娘が赤ちゃんのときの思い出の物を詰めた箱に一緒に入れてあります。

 もう一つは母子手帳とへその緒。母と父の名前と住所などが、几帳面な母の字で書かれています。特に養育の記録はありませんが、予防接種の判がいくつも押されています。最後のページには、鉛筆のいたずら書きがあります。おそらく、私が書いたのでしょう。

 娘が小学校に入学したときは、私が赤いランドセルを背負った写真が送られてきました。街の写真館で写したものです。写っているのは私一人。父と母も一緒に写してほしかったなあ、と思いますが、当時はそのようなことも考えなかったのでしょう。もしくは、費用のこともあったのかもしれません。

 娘と息子が赤ちゃんのころの思い出の品々はそれぞれ、ピンクと水色の箱につめて、整理してあります。が、子供たちは成長していますので、思い出の品々は増えるばかり。「工作品は写真に撮って、現物は処分すること」などという、「片付け本」のアドバイスはまだ実行に移せていません。だって、空き箱で作った動物や、段ボール箱で作った家など、いとおし過ぎて捨てられるわけはないではありませんか。

               

 


 

 
 

 

 

2016年12月1日木曜日

日本人ママの心配

  娘の通うインターナショナルスクールで、保護者向けに日本語の授業説明会がありました。公立校からインターに転校し、語彙力が落ちてきている娘の日本語教育をどうしたものかと考えていた私は、真剣に説明に聞き入りました。

 会場になった教室は、あっという間に熱心な保護者たちで埋め尽くされました。第二外国語として日本語の授業を取っている子供の親も参加しているため、日本人教師からの説明はすべて英語です。

 教師はまず、「以前は週3時間だった授業が2時間に削られ、絶対的に時間が足りず、課題を終わらせることが難しい」と説明。それを補うための宿題はしっかりとやらせてほしいと親に協力を求めていました。

 日本人ママから、次々と手が挙がります。
 「日本の学校に行っている子供たちとのギャップはどんどん大きくなり、そのギャップは埋まらない」
 焦りがにじんだ意見です。振り返って、そのママを見て仰天しました。言葉を交わしたときは、ネイティブの日本語でした。が、英語も完璧なのです。話を聞いていくと、自分がインターに通っていたころと比較をしています。当時に比べて、日本語授業への物足りなさを感じているらしいのです。

 教師からは、「通常の授業のすべてを日本語で行い、かつ、週7時間ほどの国語の授業を行う日本の学校で学ぶ子供と、週2時間の日本語の授業だけのインターの子供では、習得のスピードに差があるのは仕方ないでしょう。やはり、ご家庭でどれだけ勉強するかにかかっていると思います」との説明。

 「やっぱり、そうだよな。家庭だよな」と私は思わず、うなずきます。なぜなら、英語での授業についていき、かつ、たくさんの宿題をこなしていく娘に、さらに漢字や文章読解など「国語」の勉強をさせることは、簡単ではないからです。私は、おそらく娘の到達点は英語はネイティブ並みにできるが日本語は「読み書きに難あり」だろうな、とあきらめつつあるのです。

 しかし、そう腹をくくれるのも、娘がハーフだからです。日本語が多少できなくても進路の選択肢は少なくはならないだろうと、楽観視できるからです。一方、生粋の日本人の子供を持つ親の悩みは深い。

 次に出た意見も日本人ママから。
 「年齢に適した本を推薦してほしい。以前は授業で課題図書を読んでいたのに、それがなくなり残念に思っています」
 その意見に対しても、教師は「圧倒的に時間が不足する中で、教科書に沿った授業をするのが精一杯で、たいへん申し訳なく思っています」と説明。さらに、子供たちの意欲に踏み込んだ説明もなされました。
 主要教科の勉強が難しくなり、子供たちが宿題に追われるようになっていく中で、子供たち自身が日本語の勉強を軽視し、日本語の本も読まなくなる傾向があるというのです。

 その説明についても、私は「やっぱり、そういう傾向はあるんだ」と納得。娘には子供向けの「世界文学全集」を少しずつ買い与えるなど読書に興味を持ってもらうように努力はしていました。娘も、「ママ、次はこれを買って!」というほど読んでいたのに、今では日本語の本をほとんど読まなくなりました。その代わり、寝る前は英語の本を読むようになりました。また、日本語の宿題やテスト勉強も前ほどには熱心にはやらなくなりました。

 教師の話を聞きながら、少し前に娘を厳しく叱責したことを思い出しました。翌日漢字のテストがあるのに、前日の夜10時まで勉強せず、また、テストのことを私には言わなかったのです。地理や英語、算数のテストがあるときは夫に横についてもらい、必死にやっているのに、です。

 そのとき、私は娘にこう言いました。
 「あなた、日本語をばかにしているの?」
 「他の科目は必至に勉強するのに、漢字のテストはどうして勉強しないの? 勉強しないと結果がどうなるかはこれまでの経験で分かっているでしょう?」
 私はこう娘にたたみかけました。

 娘は驚いた表情で、「バカになんてしていない。忘れていたの。ごめんなさい。ママ。横について一緒に勉強して」

 私はきっぱりと断りました。ここで許せば、また、同じことの繰り返しになると思ったからです。娘はその後、泣きながら夜遅くまで漢字の練習をしていました。

 娘の通う学校には、外国人の子供たちだけではなく、日本人の子供も在籍しています。中には日本に生まれ育ちながら親の方針により通っている子もいますが、多くは親の海外赴任で英語圏の学校で学び、帰国後インターに編入した子供たちです。その子供たちの親の心配は「日本語」と「進路」。生粋の日本人でありながら、日本語の習得が遅れがちな子供の将来を心配し、今、どのような手を打つべきか、迷いながらの日々のようです。

 アメリカなど先進国に赴任すれば、当地に進出している日本の塾の担当者らに「いかに日本の受験を取り巻く環境は厳しいか」とあおられる。後進国に赴任すれば、補習校も情報もない中で、日本から取り寄せた教材を頼りに、子供に勉強させる。日本に帰国すれば、とりあえずインターに入れたものの、子供の進路はどうすれば良いのか、溢れんばかりの情報の中で迷う。

 娘は今中学1年生ですが、日本の学校に行っていれば小学6年生です。娘の同級生には密かに、日本の私立中学の受験を目指し、塾に通っている子供も幾人かいるようです。学校での「英語での勉強」に加えて、塾で「日本語での勉強」をする子供たちの負担を考えると、少しかわいそうにもなりますが、親も子供の将来を考え熟慮の上での決断なのでしょう。

 子供の将来についてママたちと話をしていたとき、理系の大学に進みたいと希望している、娘の同級生のママが言いました。
「インター卒の子供たちが行ける日本の大学は増えているけど、文系がほとんどなの。娘が、将来理系の大学に進むなら、留学しかない。だから、ここで軌道修正して、日本の学校の中で学ばせて、日本でも外国でも、娘が納得する進路を進めるようにしてあげたい」

 ママたちの心配は尽きないのです。

 

 
 

 

2016年11月11日金曜日

残念。アメリカ大統領選

 アメリカ大統領選で、大方の予想に反して、共和党候補のドナルド・トランプ氏が選ばれました。初の女性大統領が生まれることを期待していた私としては、とても残念な結果でした。アメリカ人の夫も私も事前の報道から民主党候補のヒラリー・クリントン氏が勝つと思っていましたので、夫婦でこの結果を驚きを持って受け止めました。


 この日は朝からワクワクしました。まずは午前7時のNHKニュースをしっかりと見るために、家事に集中。子供たちのお弁当作り、洗濯物干し、キッチンの後片付けを猛スピードで終わらせ、娘を学校に送り出し、日課の5分間ジョギングも終えて、入れたてのコーヒーを片手にテレビの前のソファに座りました。

 NHKによると、過去の大統領選ではオハイオ州とフロリダ州を制した候補が勝ってきたので、トランプ氏がこの2州を取れば、勝つ可能性も出てくるとのこと。「なるほど、オハイオ州ね」と夫の叔母が住むこの州の名前を頭にインプット。事前調査ではクリントン氏優勢だが、「クリントン氏支持と答えながら、実際の投票ではトランプ氏に投じる人も少なくない」という面白い解説もあり、「そうか、表立ってはトランプ氏支持と言えないが、投票用紙にはそう書く人もいるんだ」と日本時間の午前8時に始まる開票速報を待ち遠しく思いました。

 午前9時に息子を幼稚園に送り、その足で幼稚園ママたちで活動するハンドベルサークルへ。1時間半の練習の後のお茶の時間でも、ママたちの話題はアメリカ大統領選です。アメリカ国籍の夫を持つママが言います。
 「夫が、投票しに行こうかなって言っていたのよ。こんなこと初めて。よほど関心があったのね」
 「それって、どこで投票できるの? アメリカ大使館?」
 「昨日のニュースで、トランプが最後の雄叫びを上げていた。暴言を吐いて選挙を戦おうとする人が候補になっちゃうなんて、アメリカもよほど人材不足なのね」
 私も朝仕入れた「オハイオ州とフロリダ州」の話をします。

 このように今回のアメリカ大統領選は、地球の反対側にいる日本人ママたちがお茶の席で話題にするほど、注目のニュースだったのです。

 この日幼稚園は午前中で終わるため、息子を迎えに行って帰宅。珍しく自宅で仕事をしていた夫が、パソコンで現地のニュースを見ながら、興奮気味に語ります。
 「トランプが優勢なんだ」
 「ほんとう?」

 ほどなく、注目のオハイオ州をトランプ氏が制したことが判明。ママ友達からも「トランプ氏がオハイオ勝利した~。どうなるんだろうね」とメールが。それからは、画面のアメリカの地図がトランプ氏の赤に染められていき(クリントン氏は青)、多くの人が驚くような流れになっていくのです。

 私は、ヒラリー・クリントン氏をずっと「後に続く女性たちのために、道を切り開いてくれる力強い女性リーダー」として注目してきました。自分の置かれた環境の中で最大限の努力をし、チャンスを生かし、やりがいのある仕事も家庭生活も手に入れた女性。野心やしたたかさなどで、ずいぶん嫌われていましたが、私は「あそこに至るまで、どれほどの努力と忍耐とタフさが必要だったか」とヒラリー(と呼ばせてもらいます)が最終目標を達成し、アメリカンドリームを体現する日を待ち望んでいました。が、それがもう一歩というところで叶わず、とても残念に思いました。

 9日、敗北を認めた支持者前での演説で、ヒラリーは「私たちはいまだに最も高く硬いガラスの天井をくだくことが出来なかったが、私たちが思うより早く誰かが達成するだろう」と後進に女性大統領の夢を託しました。彼女の闘いはたいへんなものでしたが、この後に続く女性たちに道を切り開いてくれたことは、とても大きな意味があったと思います。

 トランプ氏が勝利宣言をした後、私は、本棚の奥にあるヒラリーの自伝「リビング・ヒストリー」を取り出して、ページをめくってみました。奥付を見ると2003年12月31日初版発行とあります。700㌻超の本は、いくつもページが折り込んであり、1か所だけ赤い付箋がついていました。イエール大学のロースクールを修了して弁護士資格を取得したヒラリーが、アーカンソー州にいる恋人のビル・クリントン氏を追っていく場面です。

 「一緒になるなら、どちらかが、譲らなければならない」
とヒラリーは、自分に言い聞かせます。アーカンソー州まで車で送ってくれた友人に道中何度も「本当にこれでいいの?」と聞かれながらも、首都ワシントンでの自分の将来を捨て、自分が愛する男性の元に行くのです。

 「人間として成長しようとするなら、今こそ、エレノア・ルーズベルトの言葉ではないが、”いちばん恐れていることをすべき”なのだ」

 ヒラリーは、尊敬するルーズベルト大統領夫人(アメリカ国連代表・婦人運動家)の言葉を引いて、自身を奮い立たせています。私はこの部分に、傍線を引いています。通読した分厚い本の中で、傍線を引いたのは唯一この部分だけ。私はこのとき、遠い国アメリカの、私とは全く接点のない、二十歳近く年上のヒラリーのこの言葉に背中を押されたのだと思います。

 この本が発行された1カ月前の2003年11月は、私が厳しい抗がん剤治療を終えた月です。新聞記者の仕事に遅れを取るのを恐れて、働きながら治療をしていました。髪の毛がすべて抜け、肌も茶色に変わり、体調も悪い中で、懸命に仕事をしました。その後、体調は徐々に回復し、翌2004年春に妊娠。「仕事と家庭の両立」を目指し、それを記事に書いてもきた自分が、がん治療後の39歳での初めて妊娠という立場になり、逡巡したのです。やりがいのある仕事を続けるべきかどうかーと。そのようなときに、私はこの本を熟読しました。前を突き進む女性の先輩からのアドバイスが欲しかったのだと思います。

 そして、「人間として成長しようとするなら、今こそ、いちばん恐れていること=仕事を辞めること=をすべきなのだ」と、勝手に解釈したのです。まずは無事赤ちゃんを産み育てることを優先しようと。大きな決断を迫られた若き日のヒラリーと、自分を重ね合わせるのはあまりにもおこがましいですが、そうやって私は前を進む女性たちにたくさんの生きるヒントをもらってきたのです。

 その後、私は退職。出産後には体調が悪化していき、いくつもの病気と闘うことになります。そのような中、やはり、ヒラリーの活躍・奮闘は私の励ましとなりました。

 2010年5月、ノートにまた、ヒラリーの記述が出てきます。再々発したがんを抗がん剤と放射線で抑え、ヘモグロビンを自己免疫が叩き壊す自己免疫疾患を薬で抑え、抗がん剤の副作用で悪化した不整脈の手術を終えた後、さらに血小板を自己免疫がたたく新たな自己免疫疾患を発病し、「国立がん研究センター中央病院」=東京都中央区築地=に入院していたときです。病気の連鎖の中でもがき続け、気力を失いかけていました。

 来日したヒラリー・クリントン米国務長官と岡田克也外相の共同記者会見をがん研究センターのベッドに寝ながらNHKニュースで見た後、こうノートにつづっています。
 「弁護士として活躍し、結婚し、子供を産み、国の最重要ポストについている女性。比べる方がおこがましいが、同時代を生きる女性として何という差だろうー」

 ここでは「大統領の妻」という表記がないところが振り返って読んでもおもしろいのですが、このときも私は、大統領選の民主党指名の候補としてはバラク・オバマ氏に負けたが、気持ちを切り替え、再び国務長官として力強く進み続けるヒラリーに「病気ぐらいに負けちゃ駄目よ」というメッセージをもらったのだと思います。

 今回の敗北は本当に残念ですが、ヒラリーのことですから、また、どこかで活躍するに違いありません。69歳のヒラリーの挑戦は、私たちに感動をくれました。ヒラリー、お疲れ様です。私はまた、あなたに励まされました。

 

 
  
 

 

 

2016年10月31日月曜日

ハッピー ハロウイーン!

 ハロウイーンは、子供たちが最も楽しみにしている行事です。娘が小さいころは、デコレーション用のかぼちゃや飾りを手に入れるのも大変だったのですが、最近はどこもかしこもハロウイーングッズがあふれ、子供や大人にも大人気の行事になりました。今年も娘と息子は張り切って仮装し、駅前の商店街へ。お店の前で「トリック オア トリート」と言い、キャンディを次々と”ゲット”しました。駅前は、仮装した子供たちであふれ、親も子供も楽しいひとときを過ごしました。

 
  まずは、駅前に繰り出して、キャンディをもらいました。娘が扮したのは「狼男」。息子は「スパイダーマン」です。
今年、我が家で購入した一番大きなかぼちゃ。40㌔です。
左が娘、中央が夫、右が息子。一番大きいかぼちゃは娘が彫りました。私が彫ったのは大きなかぼちゃの左、息子のは右です。
パンプキンパイも焼きました。子供たちの大好物です。

2016年10月30日日曜日

親子ドッジボール

 娘の通うインターナショナルスクールで授業参観があり、体育の授業で親子ドッジボールに参加しました。

 授業参観が行われたのは、日本語、算数、体育、宗教(娘の学校はカトリックです)の4教科。日本語、算数、宗教は日本の公立校と同様、教室の後ろで見るだけでした。少し違ったのが、体育の授業。子供たちのバスケットボールの授業が終わった後、先生が「お母さん、お父さん、子供たちと一緒にドッヂボールをしませんか?」と呼び掛けたのです。

 体育館の2階のベンチに座って、子供たちのバスケットボールを観ていた親たちは互いに顔を見合わせました。「どうします?」「私、運動神経鈍いのよ・・・」という声が聞こえます。が、46歳の夫も51歳の私も立ち上がりました。こんな経験は二度とないかもしれないのです。参加しない手はありません。ためらうお母さんたちにも、「行きましょうよ」と声掛けし、コート内に。

 親子ドッジボールは、楽しかった。普段、スポーツをしている姿など見たこともない夫の活躍も、予想外の楽しい発見でした。誰も信じてくれませんが、私はバスケットボールやハンドボールは得意中の得意。が、コート内を軽やかに動き回った・・・とはならずに、あっという間に子供にボールを当てられ、コートの外に。夫は、コートの中心に立ち、少ない動きで、次から次へと子供たちにボールを当てていきます。私はコート外でようやくボールを拾って子供にぶつけ、コート内に。が、また、子供たちに狙われて、ボールを当てられます。こうやって、ちょろちょろと動くものの、出たり入ったりを繰り返す始末。夫は泰然と、なんと十人近くの子供に当ててしまったのです。

 楽しい時間も終わり、先生が親たちに言いました。「お父さん、お母さん、ありがとうございます。子供たちにとってとても楽しい時間となりました」

 「あっという間に子供に当てられたわ」
 「ドッジボールなんて、何十年ぶりかしら?」
 親たちの表情もみな、一様にさわやかでした。

 さて、体育の時間が終わりクラスに戻るとき、娘が私にこっそりとつぶやきました。
「男子たちがね、君のお父さん、怖いなぁって言うんだよ」
 娘は苦笑いしています。
 その言葉を聞き、40年以上前の、私の小学生時代を思い出しました。あのときもあったのです。授業参観での親子ドッジボールが。

 そのときの情景が鮮やかに蘇りました。運動神経抜群の私の母が、コート内をすばしっこく動き回り、子供たちに次々とボールを当てます。他のお母さんはおろおろとしているのに、私の母は生き生きとして、コート内を走り回っています。
 授業が終わり、担任の先生に、「君のお母さんは運動神経が良いね。たぶん、学生時代に何かスポーツをしていたんだね」と言われ、なぜか恥ずかしく、鮮明な記憶として私の脳裏に刻まれました。
 母と母のきょうだいは皆足が速く、「鈴木(母の旧姓)のサラブレット」と近所でも有名だったらしく、さらに、母は中学・高校とバレーボールのクラブに入っていました。ですので、授業参観で親子ドッジボールに参加することは、母にとって久しぶりの楽しい時間だったに違いありません。

 ドッジボールで親子の交流を深めるー。これが世代を超えて、国籍を超えて、行われている。このような素敵な発見が出来たことは、とても嬉しいことでした。

 後日、夫にこのときの活躍についてほめると、夫はまじめな顔をして答えました。
 「鍵は、コートの中心にいることなんだ。僕は195㎝と体が大きいから、的にするには最適だ。でも、ボールを投げるのは子供だからね。それほど遠くに的確にボールは投げられない。コートの中心にいれば、コートの外にいる自分の視野に入らない子供たちがたとえ僕を狙っても、なかなか届かないんだよ。自分の視野に入る子供たちは、狙えばすぐ当てられるしね」

 なるほど。さすが、アメリカ人。ドッジボールのやり方までも合理的で、戦略的です。私のように、ただただボールから逃げているだけでは、すぐ、当てられてしまうのだなあ、と妙に納得。
 「次の親子ドッジボールは、戦略的に行こう」
 息子が小学生になったときに、”リベンジ”の機会が訪れますように、と願ったのでした。

 

 

2016年10月19日水曜日

中村芝翫襲名披露公演へ

  私の秘かな趣味は、歌舞伎観劇です。今月は中村橋之助の八代目中村芝翫襲名披露公演に行きました。同じく歌舞伎好きな札幌の母も連れていきました。今回は橋之助が亡父の名跡を継いだだけでなく、息子三人もそれぞれ、四代目中村橋之助、三代目中村福之助、四代目歌之助を襲名するおめでたい公演。私と母は、豪華な役者たちの至芸を堪能しました。

 今回は初日にチケットを取りました。襲名をする役者が観客に挨拶をする「口上」がある、夜の部にしました。親子4人の襲名披露公演なのでチケットはすぐ売れてしまうだろうと予想し、発売日の発売開始時間・午前10時には、パソコンを立ち上げ、電話も用意し、両方でアクセス。しかし、1階の1等席はすべて売り切れ。2階の1等席もほとんど売れています。「たぶん、ご贔屓の方々にチケットがまわるのだな」と思いつつ、気を取り直して注文し、2階席ではありますが、良い席を取ることが出来ました。

 さて、当日。母とおしゃれをして日比谷線に乗り、歌舞伎座のある東銀座駅へ。改札口を出て上りエスカレーターに乗り地上へ。入り口前にはすでにたくさんの人がいました。昼の部の観客がまだ出てきていないので、夜の部の観客が入り口前で待っているのです。髪を結い上げ、着物を着た美しい芸妓さんも入場を待っていました。
夜の部はまず、尾上松緑が主役を演じる「外郎売」で幕開け。松緑が早口言葉で台詞を言い立てるのを感心しながら聞き入り、中村七之助の美しさに見とれます。「最近、七之助が艶やかになってきたよね」と隣の席の母とする”役者談義”も楽しみの一つ。
 
                

 そして、見どころの襲名披露「口上」。袴姿の19人の役者がずらりと舞台に並びます。真ん中が新芝翫で、観客席から見て左側に息子3人が並んでいます。まずは、新芝翫の右横の坂田藤十郎が挨拶。やはり、この人がいると舞台が締まります。母とも開幕前に藤十郎の魅力について語り合ったばかり。結構なお年なのに、妖艶で、色気たっぷりなのです。
 藤十郎の後は玉三郎・・・と右側の役者らが次々と述べます。そして、右端の尾上菊五郎。「ちょろちょろせずに・・・」と、新芝翫に釘を刺します。観客席からは笑いが漏れます。公演直前、タイミングを見計らったように、京都の芸妓さんと熱い関係にあると週刊誌に書かれてしまったことを言っているのです。私と母も「口上で触れないわけにはいかないよね」と予想していました。観客を笑わせて、深刻さを打ち消してしまう菊五郎はさすが、と妙に感心しました。 
 そして、最後に新芝翫。「先祖の名を汚さぬよう、なお一層芸道に精進する心得でございます」と述べ、息子3人も「三人兄弟力を合わせてなお一層芸道に精進いたします」(新橋之助)などと立派に挨拶。観客たちは大きな拍手で4人の襲名を祝ったのでした。私と母も、2階席から大きな拍手を贈りました。

 三幕目は、「熊谷陣屋」。源平合戦での物語です。新芝翫が源氏の武将・熊谷直実を演じます。敵の若武者・平敦盛の首を討ち取ったとするが、実は、敦盛の身代わりとして我が子の首を討った直実。我が子の首を妻と一緒に抱く場面は、涙を誘いました。

 最後は玉三郎の「藤娘」です。うっとりとするほどかわいらしく、初々しい玉三郎。1階の両側の桟敷席に並んだ芸妓さんたちを双眼鏡でちらちらと見ながら、「この中に新芝翫のお相手がいるのかしら?」などと興味津々だった私も、玉三郎の舞を見た後は、「きっと、芸妓さんたちは、玉三郎を参考にするために来たんだわ」と思い直しました。女性がお手本にしたいと切望するほど、玉三郎は、美しかった。

 私が歌舞伎役者の中で最も好きなのは、この舞台に出ているはずだった新芝翫の兄、中村福助です。報道によると福助は2013年に脳内出血で入院、その後は公の場に出てきていません。口上では、福助の息子の児太郎が、父親がリハビリに励んでいることを観客に伝えていました。福助はどんなにこの舞台に出て弟の芝翫襲名を祝いたかっただろう、そして、自身の、女形の大名跡・中村歌右衛門の7代目の襲名が発表されて間もなくの発病で、どれだけ悔しかっただろうと思いました。

 「早く福助に舞台に戻ってきてほしいね」
 そう話しながら、私と母は歌舞伎座を出ました。もちろん、ちゃっかりと、出口に立つ着物姿の新芝翫の妻・三田寛子の横を通ってその表情を窺い、帰りの電車での話題にしたことは、言うまでもありません。歌舞伎は舞台も、舞台の外の話題も、ファンにとっては楽しみなのです。

2016年10月16日日曜日

緑の診察券

  9月28日は、4カ月ぶりの診察日でした。幼稚園への息子の送迎、子供2人のお弁当作り、炊事・掃除・洗濯、娘の学校でのPTA活動・・・という日常から離れて、私は久しぶりに「がん患者」に戻りました。

 病院に着き、再診受付の機械に診察カードを入れます。2003年初夏に初めて受診したときに作ってもらったもので、緑色の線がついています。患者らのカードの多くが黒い色だと気付いたのは、もう何年も前のこと。それから、患者たちが4台並ぶ再診受付機にカードを差し込むとき、クリアフォルダにカードを入れて持ち歩くときに注意してみるようになりました。ほとんどが黒でした。

「私のように長く生きている人はあまりいないのだな」
私よりずっと年上の患者たちの、黒い線のカードを見ながら、少しだけ感慨に浸ります。そして、「せっかくここまで生きたのだから、緑の線のカードを持った最後の人になろう」などと、つい、いつものように前向きな目標を立ててしまう自分を心の中で笑います。
              
1階で再診受付を終え、保険証の確認窓口を経て、2階の血液・尿検査室へ。採血・採尿の受付作業は以前職員が行っていましたが、いまは2台の機械が行います。このように、私が通い続けた13年間に病院内は少しずつ変わりました。病院名は「国立がんセンター中央病院」から「国立がん研究センター中央病院」に変わり独立法人化。院内も機械化が進んだり、患者の相談窓口が増えたり、売店などの店舗が変わったりしました。

 採血・採尿が終わると、診察時間までの間、私は1階のカフェに行きます。ここは以前、売店があった場所。そこで大好きなチーズケーキとコーヒーをオーダーします。このカフェが出来る前は自動販売機で売るコーヒーしかなくて、入院中は夫に頼んで「スターバックス」 のコーヒーを買ってきてもらいました。カフェのテーブル席がある場所は以前、救急患者の入り口になっていたところ。私もその入り口から、救急隊員に声掛けされながら、担架に乗せられて運び込まれました。そんなことも毎回このカフェでコーヒーを飲むたびに、懐かしく思い出します。

 カフェでひと息ついた後、2階の待合室へ。自分の診察室近くの椅子に座ります。待合室では頭髪が抜けてしまった頭を隠すため、かつらや帽子をかぶった人をたくさん見かけます。後ろの席では、患者が知り合いの患者に帽子を脱いで頭を見せています。
 「あら、きれいに生えて良かったわね」
 「そうなのよ」
 あっけらかんとした会話を聞きながら、かつらを被って仕事をしていた昔を思い出します。

 その外来には呼吸器、乳腺、内分泌、整形外科、血液内科の診察室があり、ひっきりなしにマイクを通して医師の患者を呼ぶ声が聞こえます。「医師の声が、若い」と気付いたのも最近。「いつのまに、外来の医師らより年上になってしまったんだな」と思います。

 「村上さん、34番にお入りください」
 13年間、聞き続けた主治医の穏やかな声が聞こえます。
 「こんにちは」。診察室に入ると、主治医はいつもの笑顔で迎えてくれました。
 「前回の胃カメラとCT検査では特に異常は見当たりませんでした」
 来年の検査まで、また、1年寿命が延びました。

 私は短い診察時間、いつも小さな話題を主治医に振ります。
 この日は診察カードの話をしました。

 「先生、私、ここに通って13年になるんです」
 「そうですか。ずいぶん経ちましたね」
 「私のように、緑色の線が付いたカードを持っている人、少ないんです」
 「そうですか。緑色のカードですか。それは良いことです」
 主治医はにこにこと笑って、薬の処方箋をプリントアウトし、4カ月後に診察予約を入れました。診察日の間隔はここ数年、少しずつ、長くなっています。

 会計を済ませて病院を出ました。活気付いていた、築地市場の場外市場はほとんど閉店していました。移転問題で揺れる築地市場。がん研究センターの斜め前にあった、私の好物のさつま揚げの店も閉店していました。「今日は好きなだけ、さつま揚げを食べるぞ」と1000円のパックを買って帰ったことを思い出しました。少し、寂しい気持ちになりました。

 「いろいろ移り変わるけど、私は生きてここに通っているから、まあ、いいか」
 気持ちを切り替え、角を曲がり、私はいつもの薬局に向かいました。