2025年2月28日金曜日

今週の1冊_TOUCH

  昨年末、娘の大学があるオーストラリア・メルボルンに向かう飛行機の中で、映画を観ました。最近はアクションものもミステリーも観たくなく、恋愛ものもあまり興味がありません。で、ジャンルで言うと「ドラマ」を観るのですが、選ぶときは観た後で後悔しないよう慎重になります。で、慎重に選んで観た「TOUCH」がとても良かった。先日、偶然この本を書店で見つけて買い、すぐ読了しました。

 本も映画も、高齢のアイスランド人の男性が母国で経営するレストランを閉店するところから始まります。そこから、現在と過去が行き来し、彼がどのような人生を歩んできたか、が丹念に描かれます。

 彼は若いころ、ロンドンに住み、有名な大学に通っていましたが、大学での学びに疑問を持ち、退学をして日本料理店で皿洗いのアルバイトをします。彼はその店の日本人店主の娘と恋に落ちるのですが、ある日、店主とその娘が忽然と姿を消します。

 その男性は理由が分からないまま、祖国アイスランドに戻り、家庭を持ちます。が、晩年になってもう一度その女性に会うために、日本へ向かいます。50年の月日を経て初めて、店主と娘が姿を消した理由を知ることになります。

 人の人生について深く考えさせられるとともに、私たちが忘れていはいけない事実も改めて認識させられます。また、ラストのシーンも味わいがあり、心が温まります。

 アイスランドはあまり日本に馴染みのない国ですが、皆さんにこの映画と本をぜひ、お勧めしたい。この本は、アイスランドでベストセラーになったそうです。



2025年2月27日木曜日

娘@メルボルンからの報告 エアフライヤー

 皆さん、エアフライヤーをご存じですか? 日本ではノンフライヤーとも呼ばれています。油を使わずに調理が出来る家電製品です。です。一昨日、このエアフライヤーを買ったとメルボルンにいる娘から報告がありました。

 娘に頼まれ、この家電製品を我が家で買ったのは数年前。想像していた以上に便利で、お肉をガスレンジで焼いているときに、フライドポテトやハッシュドポテトを入れます。また、お弁当作りをしているとき、もう一品必要というときにも使います。

 娘の寮には立派なキッチンがあるのですが、多国籍の学生が住んでいるため、調理に行くと髪の毛や服に強い香辛料や油の匂いがつくのだそう。で、キッチンから帰った後は、服を替え、髪の毛も洗わなければならず面倒だったようです。

 で、そのような心配をしなくても良いように、自分の部屋がある9階の共有スペースの簡易キッチンで簡単に調理ができるエアフライヤーを買ったとのこと。

 この日は食べたかったサーモンとソーセージを焼いたそう。毎食作るのは大変なので、一回で2,3食分を作るそう。昼・夜・翌日の昼と同じものを食べると飽きることもあるけれど、「毎回作るのは大変なんだもん」と娘。

 ちなみに、このサーモンとソーセージは2日分の食事だそうです。オーストラリアは物価が高いので、ファストフードもなかなか食べられず、娘は頑張って自炊しています。自炊が少し楽になる家電製品を見つけられて良かったです。

娘から送られてきたエアフライヤーの写真。サーモンとソーセージを焼いています

娘がエアフライヤーで焼いたチキン・パルメジャーノ

2025年2月26日水曜日

花壇のフェンスづくり

  何年間も探し続けた花壇のフェンスをようやく見つけました。2011年にこの家を中古で購入し、内装、外装、庭、デッキ、玄関周りなどあちこちリフォームしてきましたが、唯一見つけられなかったのが白い縦型の木製のフェンス。先日、たまたまインターネットで見つけて、取り寄せることが出来ました。

 祝日の月曜日、夫と息子と3人で、高さ90㌢のフェンスに防水用のラッカーをスプレーし、金具で留めました。幅5メートルのフェンスを組み立てる予定でしたが、柱が一本足りず、またフェンスを固定するためのしっかりとした金具も必要だとわかり、現在、それらを注文中。

 アメリカの家でよく見かける、白い縦型の木製フェンスが日本では探せず、工務店に特注しようかと夫と話し合っていたところでした。注文すれば、結構な金額だったと思いますが、今回はラッキーなことにアウトレットで安く購入することが出来ました。

 追加注文した部材が来れば、完成です。猫の額ほどの小さな花壇ですが、出来たら皆さんに報告しますね。

フェンスに防水ラッカーをスプレーする夫と息子

金具で留めるのは、結構難しい

 

2025年2月25日火曜日

不思議な出来事

  昨日、不思議な出来事があったので、皆さんと共有したいと思います。このような出来事に意味づけするか、しないかは、人によってまちまちだと思います。私は意味があってのことではと受け止め、その意味について考えを巡らせています。

 昨日の朝、霊を呼び降ろすイタコさんに会って亡父の霊を降ろしてもらったときの録音テープを聞きました。昨年10月末、青森県八戸市にイタコさんに会いに行ってから初めてです。実は、そのときイタコさんの語りから、イタコさんは父を呼んでいない・もしくは呼んだのは父ではないーと思ったため、その後その録音を聞いていなかったのです。

 イタコさんの声を聞きながら、テープ起こしをしました。イタコさんは父の代わりに話していることになっています。その話している内容、話ぶり、使われている語彙を改めて確認しても、やはり父ではないな、と思いました。話があまりに一般的だし、父があのようなことを言うはずがない、父はあのような言い回しはしないーと一文一文、そう思いました。

 100歩譲って、言い回しや話し方、使う語彙はイタコさんのものだとしても、話が抽象的過ぎ、霊を降ろす前に命日・病気や死因を申込書に記すことになっていますので、それに寄せた話をすることはいくらでも可能だーという内容だったからです。

 テープ起こしを終えて、昼食を取り、車の洗車に行こうと思いました。もう15、6年は乗っているこの年季の入った車は実は父が買ってくれたもの。当時、私の体調が悪く、電車で1時間かけて病院に行くのは大変だろう、車なら少しは楽なのではないか、と買ってくれた、今となっては父の大切な形見です。

 ですので、古くなりましたが、とても大事に乗っています。洗車も定期的に行っています。運転が乱暴な夫が付けた傷、自転車の出し入れで子供たちが付けた傷と満身創痍の車ですが、修理をまめにしており、これからも大事に乗っていこうと思っています。

 で、いつも洗車をしてもらうガソリンスタンドに行きました。すると、店員さんが申し訳なさそうな顔で、「洗車の機械が壊れているんです」と言います。珍しいこともあるなぁと思いつつ、別のガソリンスタンドに行きました。ここは我が家から少し遠いのですが、とにかく、車をきれいにしたかった。

 そして、そのガソリンスタンドでも、その日は予約がいっぱいで洗車はできないと断られました。2件断られ、ガソリンスタンドはもう近くにはないので、諦めて、自宅に戻ることにしました。

 右折かUターンをしようとしましたが、走っても走っても、Uターン禁止か、右折したい道路は進入禁止のサインが立てられています。しばらく走って、ようやく、右折ができる道路がありました。そして、そこの道路に入ると、道路はすぐ行き止まりになり、目の前にお寺が現れました。

 お寺は真言宗智山派という、父の家の宗派門派のお寺でした。私と母は昨年、札幌のこの門派の納骨堂から、父の遺骨をこちらに移してきており、来月は父の13回忌で、現在母のマンションの仏壇の横に置いてある遺骨を、門派は違いますが高野山真言宗の納骨堂に納めることになっています。

 真言宗は沢山門派があるようですが、父の家の門派のお寺にたどり着いて、びっくりしました。何せ、父の形見の車に乗り、2つのガソリンスタンドで洗車を断られ、自宅に戻るためのUターンや右折も出来ず、ようやく右折でき、入った道路がすぐ行き止まりで目の前に父の宗派門派のお寺があったのですから。

 父は私に何か言いたかったのかなぁ、と思いました。ここずっと、気持ちが落ち込むことが続いており、一人でいるときは時々、年甲斐もなく、”お父さん”と呼びかけ、泣くこともしばしばありましたので、励ましてくれたのかもしれません。

 父の生前は特に仲が良かったわけでもないのですが、父が亡くなりお葬式の席で、父方の従姉妹に私は父の自慢の娘だったーと聞かされました(従姉妹が私を慰めるために言ってくれたのかもしれませんが)。その従姉妹の一言で、自分に自信のなかった私も、これからの人生を何とか生きられるーと思いました。誰かに自分という存在を認めてもらえているという確信を、そのときの私は必要としていました(今もです)。

 もしかしたら、納骨堂にまた入らなければならないのが、寂しいのかもしれないとも思いました。昨年3月末に札幌の納骨堂から遺骨を持ってきてから、ずっと母のマンションの仏壇の横に置いてありましたし、母の家に行くたびに父に手を合わせていましたので。

 いや、先日、母が父の遺骨の袋を開いて具合が悪くなったと言っていましたので、もしかしたら、”寝た子を起こす”ではありませんが、穏やかに眠っていたのに、起こされてしまったと言いたかったのかもしれません。

 まぁ、父はそういうことで文句を言うタイプではありませんので、私のことを天国から見守っていると伝えたかったのだと受け止めることにしました。

 そこには土地勘はなかったので、お寺の写真を撮り、いくつか目印となる建物を頭に刻み込み、自宅に戻りました。そして、もう一度、そこのお寺に行きました。覚えた建物を頼りに、迷わずに行くことが出来ました。車を近くの駐車場に止めて、お寺にお参りをしました。こぢんまりとした、良い気が巡っているお寺でした。

 お寺内のあちこちに、手を合わせました。その間、ずっと父に心の中で話しかけました。父と話ができたような気がしました。 

2025年2月24日月曜日

休日の朝は…

  今日は3連休の最終日ですね。皆さん、連休はどう過ごされていますか? 私たちはいつもの週末という感じで、のんびりとしていました。

 週末の朝はよく、子供たちが大好きなホットケーキを作っていました。ミッフィーのお皿によそうのが決まりでした。というより、ミッフィーのお皿は特別なので、週末のホットケーキにしか使わない決まり。

 昨日の日曜の朝は夫が息子と教会に行くというので、持っていけるようにホットケーキの粉を使った蒸しパンをミッフィーのカップに入れて作りました。

   今朝は、キッシュを焼きました。実は土曜日の朝も作っていて、中身はホウレンソウとベーコン、マイタケでした。久しぶりに作り家族に好評だったので、今朝も作ることにしました。中身は少し変えて、ブロッコリーとベーコン、マイタケに。

 出来たてのキッシュは美味しく、夫が喜んでくれました。息子はまだ寝ていますので、きっと冷たくなってから食べることになりますが、それはそれで美味しい。

 私のキッシュは手抜きをして、市販のパイクラストを使います。ですので、中身を炒めて、チーズを入れ、卵と生クリーム、牛乳を混ぜた液を入れて、オーブンで焼くだけ。

 蒸しパンの写真を娘に送ったら、「いいなぁ、私もママの蒸しパンが食べたい!」と言ってくれました。キッシュも娘がいたら、喜んでくれただろうなぁ、とちょっと寂しい気分。でも、娘も留学先で頑張っています。寂しいなんて、言っていられませんよね。



 

2025年2月23日日曜日

改葬許可申請書

  来月24日に父の13回忌を迎えるにあたり、父の遺骨を都内のお寺の納骨堂に納めることになりました。

 遺骨を札幌市内のお寺の納骨堂から持ち帰ってきたのは、昨年3月末。母と日帰りで行ってきました。遺骨は今も母の住むマンションの仏壇の横に置いてあります。来月13回忌法要をするにあたり、父の遺骨を昨年契約していた納骨堂に納めようとしたところ、書類が足りないとご指摘を受けました。

 父の遺骨をこちらに持ち帰るときに、札幌のお寺からは「納骨収蔵証明書」を発行してもらっていました。ここに遺骨が埋葬されていますーという証明書です。それがあれば、次の納骨堂に移せると思っていましたが、違いました。

 なんと、新しい墓地の管理者に提出するための「改葬許可証」を札幌市に発行してもらう必要があるということなのです。まずは、札幌市役所に問い合わせをして、申請書をホームページからダウンロード。そこに、「墓地使用者」として母の名前を、「改葬者」として父の名前と本籍と住所を記載。そして、これまでの埋葬場所の住所と施設名、改葬先の住所と施設名を記載します。

 まずは、本籍です。私はうっすらとは覚えていましたが、正確には思い出せません。母に電話で聞いてみると、「忘れちゃった」と言います。東京に引っ越しして5年以上経ちますし、何せ、87歳。忘れても不思議ではありません。「ちょっと調べて、また電話するよ」と言います。

「お母さん、それとね、火葬した年月日と火葬場所を記す必要もあるんだよね」

「うーん、火葬したのは亡くなってから数日経っていたと思うけど、忘れたよ。あっ、火葬した場所と日にちはお父さんの遺骨の袋の横に書いてあったかもしれない」と言います。結局は本籍だけ分かり、火葬の場所については分からなかったようです。母は、遺骨の袋を開けたり、のぞいたりしているうちに具合が悪くなったらしく、「あぁ、遺骨なんて触るもんじゃない」とつぶやいていました。

 私の死産した子の遺骨は、私の枕元にあります。時々抱きますし、愛おしくて、袋を開けて遺骨を見ることもこれまで何度もありました。でも、気持ち悪くなったことはありません。ここはやっぱり自分の子供と、夫との違いなのかなぁと思ったりもしました。

 「分からないものは仕方ないよね。世の中には、親族の火葬した場所を覚えている人はそんなにいないと思うから、たぶん大丈夫。ここは空欄にするね」と私。

 そして、その申請書と札幌のお寺からいただいた「納骨収蔵証明書」、490円分の切手を同封して、札幌市役所の施設管理課に送ったのでした。札幌市役所から改葬許可証が届いたら、ようやく父を東京の納骨堂に納められます。

 それにしても、生きている人間ではなく、亡くなった人の骨を移動するのにも自治体の許可がいるなんて、驚きました。でも、これは、父がこの世に存在したことの証明ですし、それを自治体もお寺も尊重しているのだということですよね。

 手続きには驚きましたが、父が大切に扱われていることを嬉しく思った出来事でした。

2025年2月22日土曜日

がんのママが旅立つ

  昨日、親しくしているがんのママさんからラインがありました。「むつみさん、18日Eさんが旅立ったそうです。同じマンションのママ友から連絡がありました」

 事実だけを伝える簡潔な文章から、そのママさんの深い悲しみが伝わってきました。そのママさんは最後までEさんを精神的に支えていました。ママさんに電話をしました。

 Eさんは中学生のお子さんを残して旅立たれました。ママさんは高校生、私も中学生の子供がおりますので、まだまだ世話をしたい、成長を見守りたい子供を残して逝くのは、どれほど無念だっただろうと語り合いました。

 Eさんは血液のがんで、骨髄移植という大変な治療をした後も再発・再々発し、最後は治療法がなく緩和ケアの病院に行かれたそうです。私は何度も、今回連絡をいただいたママさんが主宰するがんのママの集いでEさんとご一緒しました。小柄で可愛らしい、そしてお話好きな方でした。種類は違いますが、私も血液のがんを患っていたこと、高齢で出産したことと共通点もあり、いろいろお話もさせていただきました。

 骨髄移植で再発・再々発をしたということは、完治を望めるはずのこの治療法で、がんの勢いを止められなかったということ。骨髄移植の治療中は免疫が低下しますので、無菌室というところに入らなければなりません。この期間は長く、面会も禁止されます。ですので、Eさんも長い間、お子さんと離れて入院されていたそうです。子供との幸せな暮らしに戻ることを願って、辛い治療も耐えてきたEさんが、結局は天に召されてしまった。人生は酷です。

 私もEさんのように、血液がんが再発・再々発しました。再々発時は完治を目指し「造血幹細胞移植(骨髄移植、末梢血幹細胞移植、臍帯血移植の3種類の方法がある)」を主治医に勧められ、またセカンドオピニオンでも移植を勧められました。セカンドオピニオンを伺った医師からは「造血幹細胞移植をしなければ、娘さんが成人するまでは生きられない」とも言われました。

 私は当時43歳だったため、妊娠を諦められず、化学療法(抗がん剤治療)より強い治療である、造血幹細胞移植を選びたくなかった。この治療は治療が強力である分、副作用・合併症が多い。病院で同室の患者さんが、この治療を受けて別人のようになり、合併症を治すためにあちこちの病院にかかっていました。その様子を見て、私もこの治療を受けたら副作用・合併症の治療に時間がかかり、妊娠を望めない年齢になってしまうだろうと予想しました。

 主治医も私の意向を尊重してくれ、初発時に使った薬は使えないなど制限がある中、通常とは違う治療を選んでくれました。私はその治療法で寛解し、現在に至ります。今年、娘の成人式を一緒にお祝いすることもできました。寛解後にセカンドオピニオンを伺った医師に報告し、医師からは治療法を聞かれました。説明すると、その医師は「そうきたか…」とつぶやきました。このような結果から、どの治療が完治を望め、どの治療がそうでないのかーは最終的には、人智の及ぶところではないのではーと考えます。 

 ママさんは、Eさんのご主人に落ち着いたころに連絡を取り、Eさんと交流のあったがんのママたちからメッセージとお花を贈っていいかを伺ってくれるそうです。電話は、お互い治してもらった体を大切に生きようねーと言い合いながら、終えました。

 Eさん、長い間お疲れ様でした。お子さんを残して旅立つのはどれほど心残りだったでしょう。どうぞ、天国からお子さんを見守っていてくださいね。