2025年4月7日月曜日

指導教員との面談②

  4月1日の指導教員との面談で、これまで聞けなかったことを思い切って聞きました。学位を取った後に、研究員としての仕事があるかどうかです。指導教員の答えは明確でした。「あなたの年齢では、無理でしょう」。非常勤でも無理だと言います。

 指導教員によると、研究所の定年は60歳。それは、どこの研究所も同じだとし、残されている可能性は「海外」。でも、海外は実績が必要になるので、私のような今学位を取ろうとしている人間にはかなり難しいということ。

「研究の世界はとても厳しい競争の世界です。その中で自分の力を発揮し続けなければなりません。そして、研究はどんどん進んでいる。私がハーバードにいたころの研究と今の研究は全く違います。研究は若い人に任せないと。私も来年定年です。自分は老害だという認識を常に持ちながら、皆に接しています」

 そうかぁ、老害かぁ。私のような年の人間がたとえ授業料を払って、若い研究者の邪魔にならないようにしていたとしても、老害になるのかなぁ?と心の中で苦笑しました。

 修士課程と合わせて7年という期間、時間とお金とエネルギーをかけて研究の基礎を学び、研究を続けられないのは残念ですが、それが現実です。でも、何もかも休み休みで、自分が長生きできるとは思わなかった40代を経て、ようやく体調が戻った50代に少しずつですが社会の中で努力は出来た。それで良しとしなければ、ですね。

 

 

2025年4月6日日曜日

花見②

  今日の東京は午前中は晴れましたので、花見の名所「目黒川」と「桜坂」に行きました。

 目黒川沿いにはお店や屋台が並び、大変な混雑ぶりでした。夫と息子と一緒に焼き鳥やたこ焼き、シシカバブなどを食べながら、花見を楽しみました。

目黒川の桜

  桜坂は目黒川沿いに比べて人も少なく、ゆっくりと桜を見ることが出来ました。ここの桜は毎年見にきており、父が亡くなった日も知らずに来ていました。私にとって、あの日を思い出すと胸を締め付けられる思いがするのですが、一方でここは家族の思い出の場所でもあります。

 治療で髪が抜けてカツラをつけた私、薬で顔がむくんだ私、父が亡くなるとは知らずに花見を楽しんでいた私、そして赤ちゃんだった娘も息子も桜とともに写真に残っています。

桜坂の桜

 桜の命は短い。そして、人の人生もあっという間です。桜を見ていると人生のはかなさに思いを馳せてしまいます。

 

 

2025年4月5日土曜日

花見

  今週の東京は寒い日が続き、せっかく咲いた桜を楽しむことが出来ませんでした。今日、ようやく、晴れ間が見えて、花見を楽しむことができました。

 息子の幼稚園時代のママ友と子供たちと、公園で集いました。子供たちはバレーボールをしたり、ブランコに乗ったりして幼稚園時代と同じように遊び、ママたちは子供のこと、仕事のこと、体調のこと、などおしゃべりに花を咲かせました。

お弁当を持って、ピクニック

 私は息子を46歳で産みましたので、ママ友は10歳~15歳若い。でも、いつも「むっちゃん、隙間時間にお茶しない?」とか「むっちゃん、子供たちと花見しない?」とか誘ってくれるのです。本当に有り難く、これからもずっとママたちとご飯を食べたり、お茶したりして、楽しい時間を過ごしたいと願っています。

 

 

 

 

2025年4月4日金曜日

指導教員との面談

  母の体調悪化で慌ただしくしていた4月1日、指導教員との面談がありました。指導教員は大変多忙でこれまで年に数回話すぐらいでしたが、この日はしっかりと話が出来ました。

 私は今年度、博士課程4年目になります。この日、私が準備していった質問は三つ。一つ目は博士論文のスケジュールと内容、二つ目は他の講座のゼミの受講について、そして三つ目は博論提出後の見通しについてでした。

 まず、一つ目。博士号取得には他の大学の場合、国際誌や査読(専門家の審査)付きジャーナルに最低3本の論文が掲載されることなどという条件があるようですが、私の大学ではそういう条件がありません。かといって、簡単というわけではなく、教授らの厳しい審査を受け、かつ、その審査会での指摘をすべて反映させて、論文を仕上げて提出しなければなりません。

 スケジュールとしては9月初旬に題目届けというものを大学に提出し、11月に論文を提出。11月から1月までの間に審査を受けて、2月に修正した論文を提出します。

 その日、指導教員はホワイトボードに2つの文字を書きました。「博士論文」と「査読論文」です。

「学生には査読論文ばかり書いている人(実績になるため)もいます。でも、査読論文と博士論文は全く別物。査読論文が何本もあるからといって、博士論文が書けるわけではありません。だから、博士論文に集中すればいいと考える学生もいますが、査読論文なしでは博士論文は書けても審査会であれこれ指摘を受け、修正が間に合わず最終的な論文提出が間に合わないということもあります。審査会はとても厳しい。指摘されたことをすべて反映させなければ、論文は差し戻しになります。それならば、早めに査読論文であれこれ指摘を受け、不備なところを直したほうがいいのです」

「はい」

「ですので、まずは先日の論文を完成させることに集中すること。今週来週中にはチェックして戻します。おそらく、何度もリジェクト(ジャーナルに不採用となること)されると思いますが、そこから足らざるところを補っていけばいいのです。ですので、まだ、博士論文は書き始めなくてもいいです」

「はい。先生、今回私は量的調査(アンケート調査)と質的調査(インタビュー調査)の2つの分析を入れていますが、もう一つ入れたほうがいいと考えるのですが」

「それは何?」

「アンケート調査の自由回答の分析です」

「やってもいいですが、間に合わない可能性があります。それなしでも仕上げられるようにしてください。本文は最低100ページは必要です。中には500ページも書く人もいますが、何を言いたいのか?という散漫な論文になりますので、長過ぎもよくない」

「はい」

「私は来年定年ですので、今の3人(私を含む3人の博士課程の学生)を今年度中に何とかしなければなりません」

 初めて知った、指導教員が来年定年だという話。私は2年目で指導教員が変わっています。指導教員が変わるとまた一からやり直しですので、今年度中にケリをつけなければなりません。同じ専攻の他の講座では1年2年延長している学生は沢山いますので、条件としてはとても厳しい。でも、逆にこの1年集中しようと覚悟が出来ました。

「●●先生、あなたのことを心配していましたよ」 

 指導教員が急に話を変えました。その先生は私が学業を続けられるよう、最初の指導教員から現在の指導教員へ変更してくれた前専攻長です。ありがたいな、と思いました。

「あなたは、皆の心配の種なんですよ」

 そうだろうな、と思いました。年で、専門のバックグラウンドもなく、研究者としての経験もない。ないないづくしなのに、博士号に挑戦しようとしている。年のため研究者としての将来もない人間に時間を割かなければならないなんて、指導教員にとって迷惑なんだろうな、申し訳ないなという気持ちにもなります。

 私がその日、指導教員と話した内容はおそらく、とても基本的なことで、もっと前に話すべきことなのだと思います。でも、私にとっては、指導教員が私と話してくれたということだけで嬉しかった。私はこの研究室では完全に”外様”です。指導教員の専門とは違う分野の研究をし、長い長い暗中模索の日々を送りました。が、何とか持ちこたえて最終学年になり、手持ちの材料で勝負をしようとしている。

 がんサバイバーのおばさんが、孤独な戦いをしながら、東大に博士論文を提出するー。この無謀な挑戦はどういう展開を見せるか。自分でも全く予想できません。

 

 

2025年4月3日木曜日

母の格言

  今朝午前7時半過ぎに母から電話がありました。「久しぶりにぐっすり眠ったよ。いつもは2時ぐらいにしびれで目が覚めるんだけど、今日は4時半まで起きなかった。一旦目が覚めたんだけどそれほどしびれていなくて、その後7時半までまた眠ったんだよ」とほっとした声でした。

 今回の母の体調悪化でしみじみと感じたのは、近くに住んでいることの安心感と、夫と息子の協力のありがたさでした。

 母が札幌にいたときは体調が悪いと連絡が来ても駆け付けられるのは飛行機や電車の乗り継ぎがうまくいって、6時間後。飛行機の最終便に間に合わないときは翌日になりました。

 このブログにも書きましたが、以前母がまだ札幌にいたときに午後6時過ぎに体調が悪いと電話があり、実家に着いたのは午前0時を過ぎていました。あのときは息子を水泳教室に送ったばかりというタイミングでした。車で30分のところでしたので、夫に連絡をして帰宅。夫は私と入れ替えで息子を迎えに行ってくれました。私はすぐに身の回りのものをスーツケースに詰め込んでタクシーで羽田空港へ。そして最終便で新千歳空港に向かい、同空港から電車を乗り継いで実家に戻ったのでした。

 今は母は我が家から徒歩5分のところに住んでいますので、電話をもらえばすぐ駆け付けられます。また、夫も息子も協力的ですので、連携して母のサポートが出来ます。

 さて、明日のMR検査と来週水曜日の診察は、母が「大丈夫。自分で出来るから」と言います。理由は「どうしても体調が悪いときは助けてもらうけど、大丈夫なときは自分一人でやる。人を頼るとボケちゃうからね」とだそうです。

「一人だと診察時間に十分間に合うように何時ごろに家を出ればいいとか、電車はどこで降りるかとか、乗り換えはあるのかとか、保険証を持ったかとか、一つ一つ考えて、確認するでしょう? 失敗すれば次は間違えないようにどうしたらいいか、と考えるからね。家族が側にいてくれるのはありがたいけど、自分で何も考えないで家族がやってくれるとどんどんボケていってしまう」

 母は女のきょうだいの一番下で姉が5人いました。病気で早くに亡くなったのが1人、認知症になり長く施設にいたのが3人、90歳を過ぎても元気に一人暮らしをしていたのが1人でした。亡くなるまでしっかりしていた伯母は食料品を自分で買いに行き、料理が得意でした。母もスーパーやドラッグストアに一人で買い物に行きますし、料理が大好き。伯母の話を母から聞き、母を見ていると、やはり、自分で出来ることは自分でするーという気概を持っていることが大事なのだ思います。

 今回母が言っていたことが胸に響きました。

「このまま死ねるならいいんだけど…。札幌の家も処分したし、納骨堂も引き払ったし、お父さんの遺骨は東京の納骨堂にちゃんと収めたし、13回忌も済ませたし。心残りは全くない。でも、都合のいいタイミングで死ねるわけでもないし、死ぬまで生きていかなければならないからね。生きていくなら、施設になんか入らず、死ぬまで自分で自分の身の周りのことをしていたい」

 母は脳神経外科の医師に昨年11月、脳のCT検査の結果で、記憶をつかさどる「海馬」という部位が、母の場合はぜんぜん萎縮していないと太鼓判を押されたそうです。母を見ていると、高齢になり体のあちこちが弱ってきている中、生きていくのは本当に大変だなとと思いますが、出来なくなったことは何とか工夫しながら、一人暮らしで頑張っているからこそ、脳の状態も良いのだと思います。私も見習わなきゃなぁと思います。

 母の格言。

「私はあんたの道しるべ。あんたは私から、年を取って生きるってどういうことか学べるんだよ。よく見ておきなさい」

 はい。お母さん、ちゃんと見てますよ。

2025年4月2日水曜日

母 救急病院へ

  顔から足先まで左半身が全部しびれていた母は昨日、2つの病院で診察を断られ、息子と夫に付き添われて我が家に戻ってきました。私は研究室にいましたが、母からは「家に帰りたい」というメッセージが来たため、家路を急ぎました。とにかく私が帰宅するまで待つよう母を説得しました。

 私が帰宅したのは午後4時半。母の様子を見ても、やはり、母のマンションに帰らない方が良いと判断しました。母も私に「帰りたい」とメッセージを送ったきたものの、夕方になり手足や顔のしびれが強くなってきて、不安が増してきているようです。

「お母さん、昭和医科大学病院の脳神経外科に電話してみるね。不安な気持ちで夜を過ごすより、今からでも診てもらえるなら行こう」

「分かった」

 同病院は我が家から比較的近く、私も病気で何度もお世話になり、息子を出産し、また、子供たちも救急外来でお世話になりました。母も昨年の11月に今回のしびれの症状を診てもらうために脳神経外科にかかっていました。が、MR検査の予約をしていたのにも関わらず、恐ろしくてキャンセルしてしまったのです。ですので、母としてはきまりが悪くて行きたくないと言っていました。

 私としては行き慣れており、母のカルテもある同病院に最初から連れていきたかったのですが(夫からもなぜ昭和医科大学病院じゃないの?と聞かれていました)、母の気持ちを尊重し、別の病院を2つ探し、家族全員で母をサポートしました。が、その2つの病院で断られたので、母も観念したようです。

「お母さん、MR検査をキャンセルしたときもドタキャンではなく、きちんと連絡をしてキャンセルしたんだから、気にする必要はないよ。お母さんはお年寄りだから、医療者も事情を分かってくれるよ」

「うん。もう2つの病院に断られたから、納得した」

 昭和医科大学病院に早速電話をし、脳神経外科に電話を回してもらいました。4時45分でした。看護師さんが出てくれ、診療時間があと15分しかないので、救急外来に行くようすすめられました。

 早速、支度をして家を出ました。タイミング悪く車を車検に出しており、さらに昨日は雨。タクシーを拾おうとしても拾えません。タクシーのアプリをダウンロードしましたが、使い方が今一つ分かりませんでした。時間ばかり経ってしまうので、雨でしたが歩いて駅に行き、電車で病院まで行くことにしました。

「お母さん、ごめんね。タクシー拾えない。寒いけど電車で行こう」

「私は大丈夫だよ!」と母。母はこういうときは俄然しっかりしますので、助かりました。二人で「タクシーのアプリを使えるようにしなければね」と苦笑しながら、駅まで歩きました。

 電車に乗って、昭和医科大学病院の最寄り駅で降り、同病院の救急外来へ。受付の人は大変親切で、すぐ対応してくれ、間もなく診察をしてもらえることになりました。夫にその旨メッセージを送ると、夫からは「この病院は僕の家族の緊急時にはいつでも対応してくれる。ありがたい」と返信がありました。その通りです。

 診察室のベッドに寝て、問診を受けた母。母も私も父が脳梗塞で左半身が不自由になったので、母の症状から脳梗塞を一番心配していました。医師(若くて、綺麗で、誠実そうな女性医師でした)も私たちの心配に理解を示してくれ、MR検査を手配してくれました。ちょうどそのころ、自宅でのウェブ会議を終えた夫が駆け付けてくれ、母が乗った車いすを押して、検査室へ一緒に行ってくれました。

 検査結果では脳には異常がないという説明を受けました。そして、「しびれは脳の問題ではないようです。明日以降、整形外科を受診してください。今日はしびれに効くお薬を2種類出しますね」とのことでした。スタッフの皆さんにとても親切にしてもらい、救急外来を出ました。夜9時を過ぎていました。

 雨が降って寒かったですので、母に病院内で待っていてもらい、私と夫で病院外の薬局へ。タクシーのアプリをダウンロードしている夫がタクシーを呼んでくれ、3人で我が家に戻りました。家に着くと、ちょうど英語塾に行っていた息子が帰宅しました。

 母には娘のベッドで寝てもらうことにしました。夕食をとり、薬を飲み、お風呂に入ってくつろいだ母は、しびれも少し良くなったと言います。

 ところで我が家の構造は、1階の娘の部屋の天井の3分の1は2階の息子のベッドになっており(ロフトみたいな感じです)、娘と息子がベッドに寝て、おしゃべりが出来るようになっています。昨日は母が娘のベッドに寝て、私が息子のベッドに寝ました。少しおしゃべりをしましたが、母はすぐ眠りにつきました。そして、いびきをかいて、熟睡していました。

 母は毎晩夜中にしびれで目が覚めると言っていましたが、昨日はそのしびれも軽くなり、いつもより寝られたようです。脳梗塞ではないと分かり、家族と一緒にいる安心感があったのだと思います。

 今日は昭和医科大学病院の整形外科に母を連れていきました。医師が母の手足の様子を丹念に調べ、首のレントゲンとMR検査を手配してくれました。その結果は来週の水曜日に出ます。

 2日間ドタバタしましたが、とりあえず母は今日明日にも体調が悪化するような病気ではないことが分かり、安堵しました。また、家族全員で母をサポートできたことをとても嬉しく思いました。今日の午後、母はマンションに戻りました。夜、しびれで目が覚めることがないよう願っています。

 


2025年4月1日火曜日

母の体調悪化

  昨日、新たに覚えたインターネット検索と持ち前の行動力で病院探しをした母。自信をつけて気分良く寝たはずでしたが、今朝6時45分ごろ弱々しい声で電話がきました。

「足と手のしびれだけでなく、顔もしびれてきたの。もう、心細くて。朝早くてごめんね」と言います。とても不安そうです。

 母がこんな朝早く電話をくれるのは大変珍しいので、かなり症状が悪いのでしょう。詳しく聞くと、左半身だけがしびれると言います。私の父は62歳のときに脳梗塞になり左半身が不自由になりました。もしかしたら、脳梗塞の兆候かもしれないと思いました。

「お母さん、病院行こう。明日午後2時から脳神経内科の予約があるけど、待たないほうがいいと思う」。昨日、検討したもう一つの病院に行くことにしました。

「7時半ぐらいに迎えに行くから、支度をしていて。私、今日は申し訳ないけどキャンセルできない予定があるの。でも、病院には連れていけるから」。

 母は涙声で「ありがとう。じゃあ、待っているね」と電話を切りました。

 タイミングが悪いことに、今日は車を車検に出す日でした。約束していた入庫時間は午前9時、そして私は指導教員との面談の予約が10時に入っていました。指導教員は大変忙しい人ですので、年に数回しか話が出来ません。ですので、これを逃したら、指針がないままに博士課程4年目に突入することになります。ですので、キャンセルは出来ません。

 すでに起きていた夫に伝えると、夫は車で私と息子、母を病院に連れて行って、その足で車を持って行ってくれると言います。春休み中の息子も起こしました。準備をして母のマンションへ。

 夫と息子に車で待っていてもらい、マンションの4階に住む母を迎えに行きました。母はちょうど、朝食を食べているところでした。あんなに弱々しい声を出していた母でしたが、きちんと着替えてお化粧をし、お皿に枝豆と温泉卵、そして湯むきしたトマト、バナナを綺麗に並べ、おかゆを食べているところでした。それを見て、母は大丈夫だ、と思いました。

 母が食事を終え、歯を磨き、身支度をするのを待ちました。母はこんなときでも、3本の歯ブラシを使って、きちんと歯磨きをしていました。母は歯の調子が悪く、下の歯が入れ歯なので、いろいろ手入れの方法があるのでしょう。そして、電気を消し、エアコンのスイッチを切って、雨が降っているので、傘も忘れずに家を出ました。もちろん、バッグの中には保険証、お薬手帳、薬もきちんと入っていました。

 息子は起こすのに時間がかかりましたが、文句も言わず、ついてきてくれました。病院に着くとまだ受付が始まっていませんので、整理券を取ります。ここで私は息子に母を託しました。

「で、僕はどうすればいいの?」

「ばあち(母のことを子どもたちはそう呼んでいます)の側について、一緒に先生のお話を聞いてくれる? ママは研究室に行かなければならないし、ダディは車を車検に持って行かなければならないから、あなたがしっかりしてね。診察が終わって、家に帰れるようだったら、駅の近くにミスタードーナツがあるから、ばあちにおごってもらってね。入院ということになったら、ママとダディにすぐ連絡してね」

「オッケー」

 息子は整理券を持つ母の横に座り、携帯電話でゲームをし始めました。ゲーム三昧の息子ですが、こうして、祖母の病院に付き添ってくれる優しさがあることを有難く思うべきでしょう。

 私は息子と母を病院の待合室に置いて、夫が待つ車に戻りました。夫は最寄り駅に私を降ろし、車を預けに行きました。満員電車に乗って研究室に向かう途中、母からメッセージがありました。病院の受付で脳神経内科は予約が必要なので、まずは総合内科に行ってくださいと言われたと書いてあります。総合内科に行くと余分な時間がかかります。

 電車を降り、母に電話をしました。「今日、診てもらったほうがいいから、お母さん、昨日予約を取った病院に行ってくれる? 明日の午後2時に予約した人が今日来たということはよほど具合が悪いということだから、きっと診てくれると思う」

「私もここで総合内科に診てもらうより、別の病院に行ったほうがいい」言います。母に電車の乗り換えの説明をすると、タクシーで行くと言います。「お金はちゃんと持ってきたから大丈夫」と母。こういう緊急時にもきちんと現金を準備してくれて、助かるなぁと思いました。私は慌ただしくて、息子に現金を渡すなどという気が回らなかったのです。

 私は研究室へ、夫は車の車検へ、そして母と息子はもう一つの病院へ。結局、そこの病院では火曜日は脳神経内科の先生がいないということで、診察してもらえませんでした。診察してもらえませんでしたが、2つの病院に行ったことで母も納得し、私たち家族が全面的にサポートしているので安心したようで、体調も落ち着いたようです。一刻を争うような緊急時でもなさそうです。

 夫から車を置いて、電車に乗り、ちょうど母と息子が行った病院の近くまで来たという連絡がありました。夫と母、息子は無事合流し、家に戻ることになりました。夫は昼食にタコスを作ってくれたようで、母から電話があり「衝撃的に美味しかった!」と言い、ちゃんとある程度の量を食べてくれたようです。

 そして、夫は午後からのオンラインの会議に参加し、母は我が家の2階のソファでのんびりし、息子は相変わらずゲームをして、私の帰りを待ってくれました。が、母から午後3時ごろメールがあり、「申し訳ないので、帰る」と書いてあります。私は指導教員との面談のあと、会議が続いており、まだ帰れないでいました。

 夫からもメールがあり、「お母さんが帰ると言っているんだけど、心配だから、今日は僕らがお母さんの様子をみたほうがいいと思う。今日はここに泊まったほうがいい」と書いてあります。息子からも「ばあちが帰るって言っているんだけど、どうする?」というテキストメッセージが。

 私は母にメッセージを書きました。

「お母さん、今日はうちにいてほしい。体調悪化したら困るから」

「でも、やっぱり、あんたのうちでは寝られないし」

「お母さん、それも分かるけど、自分の家に戻って寝てまた夜不安になるより、うちで家族と一緒にいた方が安心じゃない? 私がお母さんの家に行って寝ることも出来るけど、何かあったときに、やっぱり私一人より、三人いたほうが手分けして対応できるし。今日はお母さん、うちにいてくれる?」

 母に電話をすると、「やっぱり、帰る」と言います。仕方ないので、すぐ帰宅して、母のマンションに一緒に行って、今日は母のマンションで寝ることにしました。研究所を出て、電車に乗り、家路を急ぎました。あと20分ほどで家に着くというときに母からメッセージがありました。

「なんかおかしいの。やっぱり帰らないほうがいいかもしれない」