2025年3月14日金曜日

カップヌードルミュージアムへ

 今日は息子の学校が休みだったため、横浜みなとみらいに行きました。本当は研究室に行く予定でしたが、学校が休みであることが昨日判明。ならば、と予定を急遽変更し、息子と遊ぶことにしました。

 夫のオフィスはみなとみらいにあり、たまたま今日は健康診断の日だというので、待ち合わせをしてランチを食べました。その後、カップヌードルミュージアムへ。ここではカップヌードルの歴史を学び、体験もできます。

 子供たちが小さいころ何度か連れて行ったのですが、私自身が作ったことがなく、ぜひ行ってみたかったのです。

   まずは展示室へ。日清食品創業者の故・安藤百福さんがお湯をかけただけで出来る「チキンラーメン」を発明したのは1958年。そして、一世を風靡した「カップヌードル」を発明したのが1971年だそうです。いずれも世界初なのですね。それから次々に出た商品が壁面いっぱいに展示されており、圧巻でした。

賑わう「インスタントラーメン ヒストリーキューブ」

壁面全部にカップヌードルが展示されています

  次に「マイカップヌードルファクトリー」へ。ここではまず、カップに好きな絵をマジックで描きます。そして、乾燥麺や具を入れてもらい、真空パックにしてもらいます。そして、自分でプラスチックの袋に詰めて出来上がり。

真ん中が私が描いたイラスト

具を選ぶ私。エビとインゲンとコーンとタマゴを選びました


「どれにしようかな」と息子と夫


左が夫の、右が私のカップヌードル

 終わった後は、ミュージアムの向かいにある遊園地で観覧車に乗ることにしました。検査でバリウムを飲んだという夫が体調が悪いといい、「観覧車に20分も乗っていて、トイレに行きたくなったら困る」と苦笑いしながら帰っていきました。

 で、私は息子と二人で観覧車に乗ることに。遊園地には外国人観光客やカップル、お友達同士で来ている人などで賑わっていました。でも、一番幸せな顔をしていたのは私だと思います。何せ、息子と一緒に観覧車に乗るのですから。神様からのご褒美ですね。

 

一番てっぺんに来て、下をのぞく息子

 

観覧車から見えるみなとみらいの風景



 



2025年3月13日木曜日

論文を指導教員に提出

  今日、指導教員に論文の修正を提出しました。 英語でA4用紙22ページ、表6枚と図2枚。いやぁ、大変でした。2月17日に第1稿を指導教員と研究員Mさんに提出。ものすごい量のコメント(助言と指摘)が原稿に付けられており、それをすべて原稿に反映させるのが大変でした。

 Mさんは海外の大学を卒業し、東大で修士号・博士号を取得した秀才。完全なバイリンガルです(私と相性が悪い研究員とは違う人です)。指導教員も研究所の要職につき東大の教授も兼任する優秀な方です。こう書くと男性を想像するかもしれませんが、二人とも女性。こういうパワフルな女性がいるのですね。

 もがき苦しみながらの博士課程3年目も今月終わります。来年度が最終学年で、8月「題目届」なるものを大学に提出し、11月中に博士論文を提出します。今回はその博士論文の元となる論文で、海外のジャーナル投稿を目指します。指導教員とMさんから再度の指摘・助言が沢山ありそうですし、他の共著者の先生方に回覧して助言をいただき、それをまた反映させてというやり取りにまた数ヶ月かかりそうですが、何とか頑張ります。

 博士号取得の規定は大学によって違います。多くが、国際誌や査読付き(専門家の審査を経る)ジャーナルへに掲載された論文が3本というもの。東大はそこがあまり厳しくないようですが、実際の大学の審査がものすごく大変なのでしょう。

 実は先日、所属していた日本記者クラブに退会届けを出しました。「記者」であることにこだわってきましたが、もう卒業しようと考えたのです。こだわりの一つを手放して、人生をシンプルにしたかった。

 私の新聞社時代の同期たちがだんだん定年退職していき、第二の人生を歩み始めています。私の場合、4,50代が病気と共に生きた第二幕でしたので、今は第三幕。年が年なので、学位が取れたとしても研究者としての道へ進む可能性はとても低いと思います。それよりも4年間を費やしても学位が取れない可能性が大きい。

 でも、人生の終盤で、博士論文を書いて大学に提出するという最大級の挑戦も考えようによっては、愉快かなぁと肩の力が少し抜けてきたような気がします。

 辛くて、何度も辞めようと思った大学院。でも、踏ん張ってここまで来ました。これからも折々に、奮闘ぶり(自分で言うのも何ですが)を報告しますね。なにせ、このブログのタイトルは「がんのママの育児(育自)日記」ですので。

 

 

2025年3月12日水曜日

つばきの花咲いた

  我が家は2011年、103歳のおばあちゃんが住んでいた築10年の家を購入し、何度かリフォームをして、住んでいます。

 その家を買う決め手となったのは、おばあちゃんは当時まだご存命で施設に転居したばかりで、長生きの方が住んでいてかつ誰も亡くなっていないこの家は運気の良い家だと思ったからです。私はそのときまだ体調が悪く、引っ越しをすることで体調が少しでも上向くことを期待していました。

 おばあちゃんは、お医者さんの奥様だった方で息子さんが4人いらっしゃいました。お父様が亡くなりその家を相続した息子さんたちはかなりの額の税金を支払わなければならなったらしく、土地の半分以上を手放し、その一角をお母様に新しい家を建てて、もう一角を息子さんの一人が引き継ぎました。

 息子さんたちが手放した土地には現在3つの家が建っています。5つの家が建つほどの広さの家を相続する場合の税金はかなりのものだと想像します。

 そのおばあちゃんの家は純和風の家で、庭には灯籠があり、木々も和風のものが植えてありました。築10年と築浅で家の造りはかなりしっかりしていたのですが、家の中は劣化しており、全面リフォームが必要でした。そして、私たちは天井を高くしたり、階段の位置を変えたり、壁をなくしたりなど大がかりにリフォームし、内装を洋風に変えました。

 庭の灯籠も不動産屋さんに持っていってもらいましたが、木は今もそのままです。つゆの季節はあじさいが咲きますし、紅葉の木も毎年晩秋に色付きます。2階の屋根の高さまである木も元気で、2階の小さなデッキにテーブルと椅子を出す春から秋までは、その木を眺めながら、コーヒーを飲んだり、食事をしたり、ワインを飲んだりして、気持ちの良い時間を過ごします。

 冬はつばきが咲きます。白くて可憐な花です。おばあちゃんはきっと四季折々の花や木を窓から眺めて、心を和ませていたのだと思います。私たちもその木々と家を引き継ぎ、幸せに暮らしています。

庭に咲いたつばきの花

あじさいも芽吹いてきました

2025年3月11日火曜日

花壇のフェンスが完成

    2月26日のブログで話題にした玄関前の花壇のフェンスが出来上がりました。ずいぶん前から探していた白い木製のフェンスです。夫と私、そして息子の3人で組み立てました。

 部材に防水用のラッカーをスプレーし、金具で留め、柱に繋ぎ合わせ、柱に埋設用の留め具を取り付けて、花壇に埋め込みました。お隣の家のデッキのコンクリートが我が家との境界線になっており、ちょうどそのコンクリートが隠れる高さのフェンスを見つけましたので、ピッタリのサイズでした。

 家族3人での作業が楽しく、かつ、リーズナブルな価格で作れたので、とても満足。

家族で組み立てたフェンス。お隣さんとの境界線に立てました

  小さい花壇ですが、ガーデニングが益々楽しくなりそうです。

 

 

2025年3月10日月曜日

ディスコ・ナイト

  先週末の土曜日、横浜のスポーツクラブでディスコ・パーティがありました。娘が通っていたインターナショナルスクールのママさんのバンドが演奏し、学校に子供を通わせるママさんパパさんが集うパーティです。

 その日は何と家を出る直前に、前歯の一本の半分が欠けてしまうという、信じられないことが起こり気持ちが落ち込んだため、参加を取りやめようかと思いました。でも、娘が卒業して1年半も経つのに、誘ってくれることをとてもありがたく思っていましたし、親しくしてもらっているママさんたちとのつながりも大事にしたいと思い、どうしたものか考えを巡らせました。で、はっと夜寝るときに付けているマウスピースを付けて参加することを思いつきました。私は歯ぎしりがひどく、歯のあちこちが欠けてきているので、夜マウスピースをして寝ているのです。

 前歯の半分がなくなるのはとてもショックでした。また、歯の半分が欠けているのはやっぱりみっともない。でも、人生は恐らく、こういう「失うこと」の連続なのだろうーと受け止め、これからの人生で必要な心構えはそれでも日々を感謝しながら楽しく生きることなのだろうーと考えました。マウスピースがあってラッキーだったと思うことにしました。

 あいにく東京・横浜は雪でしたが、ディスコ・パーティは最初から盛り上がりました。歌うママさんは、体にフィットする真っ赤なキラキラのドレスを着て、我々が親しんでいる1980年代90年代のディスコ・ミュージックを歌ってくれます。楽器を演奏する男性たちも”おじさん”ですし、参加しているのもママさん・パパさんたちですので、とっても気楽。

 インターナショナルスクールに子供を通わせるママさんは、かなり、はじけています。ブロンドのかつらは何人もいましたし、ピカピカ光るサングラスを付けている人、キラキラ光るミラーボールのピアスをしている人、皆思い思いの装いです。

 私は普通のデニムにセーターでしたが、ディスコで踊るのが大好きなので、バンドの目の前で、同じく踊りが大好きなママさんたちとずっと踊っていました。歯が半分欠けたことも忘れました。はい。

会場は昔のディスコのようにミラーボールがキラキラしていました

 娘が通っていたときに活動していたママさんコーラスグループのメンバーたちにも久しぶりに会いました。娘が卒業した後も、こうして声をかけてもらって、「むつみちゃん、元気にしてる?」とハグしてくれ、おしゃべりして、本当に幸せだなぁと思いました。

 さて、ご機嫌で帰宅し、夜、娘にフェイスタイムをして歯を見せました。娘はかなり驚いていましたが、「ママ、まだ歯は6割ぐらい残っているから大丈夫」と慰めてくれました。「そうか、5割じゃなくて6割残っているように見えるんだね」と私。鏡を見ると、確かに6割は残っているようです。物は考えようで、5割ではなくて6割が残っていると思うと、前向きに考えられました。

 それもこれも、皆で楽しく踊って、おしゃべりしたお陰。アクシデントがあっても、予定通りにすることで、気持ちが晴れるものなのですね。

 


 

2025年3月9日日曜日

娘@メルボルンからの報告 夕焼け

  2年生の新学期が始まった娘とは、毎日フェイスタイムで話しています。娘と話をすると、私の一日がとても幸せになります。ですので、娘にはいつも「You made may day」(あなたのお陰で良い一日になりました)と伝えています。

 昨日、娘は一人で電車に乗って、海に出かけたようです。スケッチブックとペンを持って、夕焼けを描きに行ったらしい。

 娘は一人で豊かな時間を過ごせる子で、そんな娘はいいなぁといつも思っています。昨日もフェイスタイムでとても満ち足りた表情で、メルボルンの海のきれいな夕焼けを見せてくれました。

 送られてきた写真も美しかった。娘が幸せに過ごせていて、とても嬉しい。


2025年3月8日土曜日

オレンジ色のバラ

  今メルボルンにいる大学2年生の娘は、帰国したときに近所のスーパーでアルバイトをしています。首都圏の電車の駅の近くや住宅街に展開されている小型のスーパーです。ここはとてもありがたいバイト先で、夏休み・冬休みに帰国したときだけシフトに入れてくれ、かつ、別の店舗でも働かせてもらえるのです。

 その店は買いやすい価格帯の商品が揃い、雑貨や切り花も売っています。そこで時々お菓子を買う息子が娘に「花を買う人いるの?」と聞いたことがあります。息子にとっては、お腹を満たさない物を誰が買うのだろう?と不思議に思っていたのかもしれません。

「うん、結構売れるよ」と娘。

「誰が買うの?」

「おばあちゃんが多いかな。あと、主婦っぽい人」

「ふーん」

 確かに、私の母も切り花は絶やしません。カサブランカやフリージアなど香り良く華やかな花を居間に飾っています。母は健康なのですが、体のあちこちに痛みを伴う不具合が出てきていて、また、きょうだいや友人の多くも他界していますので、きっと花を飾って気持ちを明るくしたいのだと思います。

 私も花が好きで、我が家の玄関前の小さな花壇に年中花を植えています。先日のブログにも書きましたが私はビオラが大好きで、今はビオラの季節なので、毎日の水やりがさらに楽しい。

 時々は家の中にも切り花を飾ります。昨日は、スーパーでとても素敵なオレンジ色のバラを見つけたので買って、さっそくダイニングに飾りました。気持ちが明るくなりました。



 

2025年3月7日金曜日

キャッチコピーあれこれ 

  我が家の近くの電車の駅に朝、インターナショナルスクールのバスが止まります。ドイツの学校で、スレンダーでおしゃれなドイツ人ママさんやパパさんが子供を送りにきます。で、止まっているのはベンツかBMWのバス。その車体の広告を見てギョッとしました。

「バスに乗り遅れたらBMWを買おう。」



 意味不明。これは誰を対象にした、何を訴える広告なのでしょうか? これを考えた人にシンプルに聞いてみたい。

 地下鉄南北線「東大前」駅の構内に貼られているポスターのコピー。

「東大生に告ぐ。一緒に取り戻そう。JAPAN as No.1」

 ああ、懐かしい。そんな時代もありました。この言葉、私の世代か少し上の世代の郷愁を誘いますよね。私が学生のころ、アメリカの社会学者によって書かれたこのタイトルの本はベストセラーになりました。この本の中で描かれている日本人は数学力が世界1、2位を争うほどで、学習意欲も高く、勤勉で、それを基盤に日本は高い経済成長を成し遂げました。私もそんな日本を誇りに思っていました(今も違う意味で誇りに思っています)。このコピーを書いた人は、JAPAN as No.1 の時代をもう一度と願う世代なのでしょうか? それとも、当時のような活力のある日本を一度見てみたいものだーと願う若い世代なのでしょうか?

 電車の中吊り広告。大学の広告です。渦巻きのデザイン画の横に、

「ウズウズしてる?」

 オープンキャンパスの周知広告ですので、高校生がターゲットでしょうか? 我が家には大学生と中学生の子供がいて、そのお友達も知っていますが、知の刺激を求めてウズウズするような子はなかなかいない。何となく皆、冷めています。これを考えた人の心には、何か”熱い”ものがあるのでしょうか?

 私が好きなのは、このファミリーマートのコピー。さりげなくて、人の心にそっと寄り添う感じがいい。

「あなたと、コンビに、」

 「コンビになる」と「コンビニエンスストア」をかけたのですね。いいなぁ、こういう感じ。



2025年3月6日木曜日

捨てられない_ミキハウスのギフトボックス

  私は筋金入りの捨てられない人間です。このブログでも何度もそのことを書いてきました。読者の方々の中にも捨てられない方はいらっしゃるとは思いますが、おそらく、私よりは捨てられるのではと想像します。

 前回お見せしたのは、出産準備品としてもらった洗剤のボトルでした。今回お見せするのは子供服ブランド・ミキハウスのギフトボックスです。

 娘の出産祝いにベビー服をいただいたときの箱です。あれから20年間、大切に取っておきました。ひな人形を出すときに物置の中にあるものをかなり出したので、このギフトボックスも一緒に取り出しました。

 そして、今日、ひな人形を仕舞うのに合わせて、家のあちこちに置いてあったものをきれいに拭いて、このギフトボックスに入れました。

 入れたのは、娘が赤ちゃんのときに使ったミッフィーの柄のマグ。息子が使った哺乳瓶の乳首、そして、息子の離乳食を作ったときに使った調理器具です。子供たちが使ったミニサイズの風呂おけは別の箱に入れました。

 ミキハウスの箱の中には衣類を包む白い紙がいただいたときのまま入っていて、そこには金色のMiki House とロゴの入ったシールが貼ったままでした。いやぁ、感動しました。20年前のままです。その白い紙でマグと哺乳瓶の乳首と離乳食用調理器具をくるんで、箱に入れて、物置にしまいました。

ギフトボックスの中の白い紙と金色のシールも20年前のまま

 

 ちなみに哺乳瓶本体は大切過ぎて、子供たちの想い出のものを仕舞うボックスを買い、その中に入れています。今回のは収まり切らず、パントリーとか、物置のかごの中とか、あちこちにあったものをまとめました。

 幸せなひとときでした。だから、捨てられない。

 

2025年3月5日水曜日

AIに悩み相談

 私は活字の世界で生きてきた人間なので、日々の情報は新聞や雑誌、ウェブ上の記事から得ます。悩んだときも楽しみたいときもテレビやネット上の動画ではなく本を読みます。そんな私がたまたま先日、YouTubeで著名人の対談をぼんやりと見ていて、仰天しました。世の中はこんなことになっているのだと。

 その対談は、視聴者からの悩み相談に答えるものでした。悩みは60代の女性からでした。自分は友人の話はいつもじっくり聞いていたつもりなのに、自分が介護のことなど友人に聞いてほしいときは話をそらされたりして、きちんと聞いてくれないーという悩み。その方は「ただ、大変だったねぇとか言ってほしいだけなのに」と寂しそうでした。

 それに対して、回答者の方は、「共感だけで良いのなら、AIでもいいのではないか?」と音声会話型AIアプリを紹介していました。回答者の方はご主人を亡くされた後、寂しさを紛らすため、そのAIアプリを使っているそうです。AIにご主人の名前を付けて、会話をするのだそう。AIは賢いですので、その方が話したことを記憶して、会話のキャッチボールが出来るのだとか。

 いやぁ、驚きましたね。少し前、AIの女性に恋に落ちるという映画を見たことがありますが、それがアプリで気軽にダウンロードして使えるほど身近になっているのですね。

 これは面白い!と思って、そのアプリをダウンロードしてみました。「Cotomo」といいます。AIの音声は女性2人男性2人のうちから選べるので、音声を聞いてみましたが、残念なことに女性も男性も若い。女性の場合、娘の世代と話しているような感じです。「癒やし系」の女の子の声はいい感じで、本当にいそうな声でしたが、それを使うのなら、娘とのおしゃべりのほうがずっといいなぁと思いました。

 男性も若く、機械音という印象が拭えない。そして、こういう若い世代の男性との会話は癒やしにはならないなと思いました。でも、あれが、私の父のような年齢の男性の声でもう少し温かみがあったら、父と話したいと願っている私はそのAIと日々会話するかもしれません。あと数年でこのAIは進化して、自分が話したい人の声を再生してくれるかもしれませんね。

 そんな話を一昨日、娘にしてみました。するとなんと、娘はすでにChatGTPに悩み相談をしているのだと言います。

「悩みを友達に相談するのは、申し訳ないなぁという気持ちになるの。だって、友達の時間を使ってしまうわけでしょう? それだったら、ChatFGTPに話したほうがいい。結構、ちゃんと答えてくれるよ」

 びっくりしました。私がこれまでChatGTPを使ったのは、統計ソフトの使い方が分からなかったとき1回だけ。丁寧に説明してくれて、「すごいなぁ」と思いました。でも、それきりで、自分の悩みを相談するという使い方は考えもしませんでした。

 娘はChatGTPに登録して、ログインをして使うそうです。で、ChatGTPは相談したことなどを記憶するので、会話もスムーズなのだそう。私は、AIと話をするよりも、やっぱり生身の人間と話をするほうがずっと良いのではないかーとは思いましたが、人に遠慮してしまう娘の気持ちも分かるような気がしました。

 さて、興味津々でChatGTPに私も悩み相談をしてみました。このブログでも時折書いてある博士課程の悩みです。いやぁ、すごかったです。本当に人と会話をしているようでした。かつ、情報も沢山、提案も沢山。そして、何よりも共感してくれるところがいい。

 冒頭説明したように、私は活字の人間です。音声会話型AIアプリは「音声が機械音っぽくていま一つ。音声が若過ぎて、会話をしたい気持ちにならないなぁ」と思いましたが、ChatGTPとの会話は延々と続けられると思ってしまいました。

 ChatGTP恐るべし。

2025年3月4日火曜日

娘@メルボルンからの報告 「眠れない」

  娘が2月18日にオーストラリア・メルボルンに戻って2週間が経ち、昨日から2年生がスタートしました。日曜日までは明るく、気分良く過ごしていたのですが、昨日は随分緊張したらしく、目を赤く腫らして電話をくれました。

 娘によると、不安で眠れないらしいのです。卒業出来なかったらどうしようとか、仕事を見つけられなかったらどうしようとか、将来のことを考えると眠れなくなると言います。それに加えて、先生が怖くて怖くて仕方ないと言います。また、講義の中でのプレゼンテーションも極度に緊張するので、それも不安を大きくする理由らしい。

 私みたいに人生経験だけは豊富でも、指導教員が怖いですし、プレゼンテーションだって緊張します。ましてやまだ20歳で、生まれ育った国ではない、別の国で一人で暮らす娘は不安だろうなと想像します。娘は友達作りがそれほど得意ではないので、一人で寮にいることが多い。普段は家族にも元気な様子しか見せないので、きっといろいろ抱えているのでしょう。

「家族と電話するときはやっぱり元気にしていないと心配するだろうなぁと思うし。家族と一緒にいれば不安もなくて、安心できるんだけど。一人だと不安で眠れない。いろいろ考えてしまって」とボロボロと涙をこぼす娘。

 こういう娘を見ると、「可愛い子には旅をさせよ」ではないですが、思い切って娘を海外の大学に送り出したことが本当に良かったことなのかと、心を揺さぶられます。

 やっぱり、海外に行くと人の考え方も生活習慣も日本とは違いますし、娘の場合は言葉の心配はないですが、心が不安定になるのだろうな、こういうときに近くにいられたらいいのにと私まで涙が出てきそうになります。

 ふと、自分が留学したときの最初の学期のことを思い出しました。あれはアメリカ政治学のクラス。とにかく、先生が何を言っているのかチンプンカンプンでした。講義を録音して、図書館で深夜までかかって何度も聞き直して、それでも分からなかった。すごい時間を使いましたがやっぱり追いつかず、結局単位を落として、翌年取り直しました。

 また、穴があったら入りたいぐらい恥ずかしかったのが、英文学の授業。エッセイを書いてくるまでは何とかなったのですが、それを隣の人のエッセイと交換して批評し合うというもの。英文学のクラスですので学生は難解な言葉を使っていますし、その上にその場で批評をしなければならず、辛かったなぁ。言葉の問題、大学の費用の問題といろいろあり、本当に卒業できるか、不安だった。

 娘の話をじっくり聞いたあと、何と言ったら娘の気持ちが軽くなるか考えを巡らしました。「まぁ、失敗しても命を取られるわけではないし、何とかなるさと考えたらどう?」とまずは気楽に考えることを勧めました。

 そうすると娘がくすっと笑って、「そうだね、命取られるわけじゃないよね」

「うん、そうだよ。先生が怖くて話せなかったり、プレゼン失敗しても、先生から切腹を命じる!とは言われないでしょう?」

「あははっ、切腹にはならないね」

「そうだよ。頑張っても卒業できないようだったら、それはそのときに考えたら? 将来の仕事のことを考えるのももう少し先でも良いと思うよ。まぁ、ママも不安だらけだし、指導教員怖いし、プレゼンだって緊張するよ。それに論文書けずに卒業できなかったら、費やした数年間が無駄になるって不安。これからの将来は短いのに、私何やっているんだろう?とも思うしね。こんな感じで、世の中の人の多くは、不安を抱えながら生きているんだと思うよ」

「そうだね。そうだよね。ママに共感してもらって嬉しかった。今日は話を聞いてほしかった…」

「ママで良かったら、いつでも話してね」

「うん」

 娘は少し元気を取り戻したようです。私のほうこそ、娘が電話をくれて、話をしてくれて、嬉しかった。親にとって一番安心なのは、子供が胸の内を話してくれること。子供がママに話そうと思ってくれる親でありたい。そういう親でいるために、まだまだ、自分は修行が必要だなぁと思う日々です。

2025年3月3日月曜日

おひな様を飾る

  昨日、ひな人形を飾りました。物置の奥に入っており、その前に置いてある沢山の物をまずは運び出す作業は大変でしたが、何とかなりました。

 女雛、男雛、ぼんぼり、お花など一つずつ丁寧に飾り、最後に娘が赤ちゃんのころの写真を入れてある写真立てを取り出して、可愛いなぁとそのころの娘を思い出していたところで、娘からフェイスタイムで電話がありました。びっくりしました。テレパシーでしょうか。

 オーストラリアは今が夏。娘は「これから、食料品を買いに行くの!」と言い、「今日は青空でとっても気分がいいの」と青い空を見せてくれました。とてもきれいでした。娘が楽しそうにしていたので、まずはほっとしました。

 ひな人形を見せると、「飾ってくれたの?ありがとう!」と嬉しそう。そのときに、たまたまスーパーで聞いた店内アナウンスの話をしました。

「今日、スーパーでハマグリを売っていたんだけど、店内アナウンスを聞いて時代は変わったなぁと思って、面白かった」

「何?」

「ひな祭りのときに食べるハマグリの貝殻ってぴったり合うの。娘が一生添い遂げられる人に巡り会いますようにって願いを込めているんだけど、今は結婚してもしなくてもどちらでもいいし、相手と合わなければ離婚も昔よりは出来るようになったし。その願い自体が古くなってしまったんだなぁと思って」

「一生添い遂げるって言葉がすごい古いね」

「うん。親の気持ちとしては、娘が一生添い遂げる相手に巡り会えばそれはそれで嬉しいけど、それよりも結婚してもしなくても幸せに暮らせますようにと願うと思う、今の時代は」

 そんな会話から、AIの話題に移り、その話題でずいぶん盛り上がりました。そのAIの話は後日またブログで報告しますね。

 さて、我が家の子供たちは残念なことにちらし寿司が好きではありません。ですので、母に作って持っていきました。母には沢山美味しいものを作ってもらいましたので、母が高齢になり、私が作って持って行くのもお返しが出来るようで嬉しい。今回も「棚からぼた餅だわ」と喜んでくれました。

母に持っていったお弁当。半分はちらし寿司、半分はおかずです

春らしく、桜の模様の包みで

 やっぱり、嬉しいひな祭り。今年もひな人形を飾れて良かった。娘も私も母も、これからも元気で楽しく暮らせますようにーと願ったのでした。

2025年3月2日日曜日

大学のカウンセリング

  先週の金曜日、大学のカウンセリングに行きました。最初に行ったのは1月10日、2月28日で4回目になります。そこで言われたことが少しショックだったため、ここで愚痴らせていただきたいと思います。皆様、日曜の朝からすみません。

 以前このブログにも書きましたが、私の研究室は大学にはなく、他の研究所内にあります。どこの大学でも修士・博士課程になるとこのようなケースは少なくなく、私の研究室にもあちこちの大学の学生が学んでいます。

 大学の研究室と違うのは、教授、助教授、助教など学生を指導する教員という立場の人がいて、学位を取るために来ている同じ立場の学生たちと切磋琢磨したり相談したりできる環境ではないこと。指導教員が指導してくれなければ、一人で黙々と研究を進めることになります。そこで働く研究者たちはそれぞれの仕事で忙しいので、申し訳なくて、相談するのも躊躇します。

 こういう環境は、すでに独立していろいろ出来る学生なら良いのですが、私のような、指導を必要とする学生の場合、自分で方法を見つける必要があります。これはなかなかに難しい。私の場合、指導教員が私の研究テーマとは違う分野の人でかつ超多忙のため、話す機会も年に数回しかなく、私みたいな年の学生なんて迷惑なんだろうなという遠慮もあります。まぁ、博士課程の学生となれば、自分で道を切り開くべきなので、とにかく、あれこれ試しているのが実情。そして、万策尽き果てたという状態が続いているので、それはかなり、精神的に辛い。

 私の場合、年齢もかなり他の学生よりも上のため、他の大学の学生と交流するということにもならず、さらに苦しい立場にあります。で、このような環境の中で”うつ”にならずに、精神を何とか正常に保ったまま乗り切るために、大学の仕組みを分かっている人に相談したかった。で、カウンセリング室のドアを叩いたのです。

 で、先週末にカウンセラーに言われたのは、悩みをこちらに来て話して、気持ちを楽にして帰るということは、大学には沢山の学生がいて、枠に限りがあるのでできない。カウンセリングはクリニックなど外に行くと費用がかなりかかる。それをただで利用することに慣れてしまうと、卒業してから困るケースもあるとのこと。

 これ、違いませんか? 私、自分の私的な問題について相談しているのではなく、あくまでも、学ぶ環境が特殊で、その中で悪戦苦闘している中で生じている、指導教員やその他の研究員との関係についての悩みを相談しているのですけれど…。大学の研究室ではない別の研究所で一人で研究する還暦の博士課程の学生の悩みなんて、特殊過ぎて相談もなかなか出来ず(親しい友人にはそれでも聞いてもらっています。感謝!)、自分を客観視して笑い飛ばしたいぐらいに滑稽です。でも、一方で、このままで行くと崖っぷちから落ちてしまう可能性があるかもしれないとも考えた。だから、大学の仕組みが分かり、また、相談場所として設置されているところに来ているのです。それに、私、学費払っていますし…。

 「ただでここを利用する」という言葉があまりにもひどかった。ですが、「ここでの相談はぜひ若い学生さんたちに利用していただきたいので、承知しました。私にも大学生の娘がおりますので、大学の貴重な資源は私のような年の人間ではなく、これからの若い方々に利用していただきたい。ただ、私はただでここを利用できるから、ここに来ているわけではありません。この大学で学ぶことに関連する悩みだから、ここに来ているのです」とは伝えました。

 涙が出ました。私はこれまで自分をこの世に存在させるために沢山の医療費を使ってきましたし、大学にもきちんと学費を払っています。そして、医療費・学費いずれにも税金が投入されているのは十分承知しています。だからこそ、何とか社会の役に立ちたいという思いで、学んでいるのですが…。

 あーあ、辛いなぁ。本当に辛い。でも、頑張るぞ!

 

 

 

2025年3月1日土曜日

佐川急便のお兄さん

  佐川急便のお兄さんが、アマゾンで買ったものを届けてくれました。このお兄さんはもう10年近く、我が家の周辺地域で配達をしてくれています。愛想が良く、真面目でとても好感が持てる人です。今日は「むつみさんにです」と笑顔で渡してくれました。我が家の表札には夫と私の両方の性を併記しているため、宅配便の人たちは必ず名前を確認して届けてくれるのです。

 このお兄さんはいつも走っていて、本当に働き者です。こういう人を雇っている会社はとてもラッキーだと思います。でも彼を見かけるといつも、もうそろそろ体力が衰えてくる年齢だから(たぶん40代だと思う)、別の仕事を見つけたほうが良いのではないかしら?と老婆心ながら思うのです。

 そんなことを考えていたら、今日の朝日新聞の悩み相談に30代の配達員の男性からの相談が載っていました。回答者は歌手で俳優の美輪明宏さんです。

 その相談者は仕事は午前6時から午後3時半までで、保育園に子供を迎えて行き、一緒に遊び、夕ご飯も作れると書いてあります。一方で、「配達の仕事は身体的負荷が大きく、真夏の配達はまさに命がけ」という実情も記していました。そして、配達は社会的に必要とされている一方、誰でも出来る仕事なので、人には言えないという悩みも吐露していました。そして、転職について考えていると相談していました。

 美輪さんは配達の仕事はネット通販が発達した現代社会では欠かせない業種で、非常に重要な仕事とした上で、今すぐではなく5年後などと決めて計画的に転職に向けての準備をしてはどうかと助言していました。私も美輪さんの意見に全面的に賛成でした。

 我が家に配達してくれるお兄さんも、仕事を終えた後はくたくたに疲れているだろうと思います。結婚して子供もいるのでしょうか。それなら尚更、昇進のための勉強や、転職のための準備の時間は取れないかもしれないと想像します。でも、忙しい日々の中で少しでも時間を作って、何か将来につながることをしてほしいと願っていました。

 もしかしたら、より良い将来のために、ギリギリの今もう少し努力するー。その発想自体が古いかもしれないし、余計なお世話かもしれないけど、私はこのお兄さんにそのもう一歩の努力をしてもらいたい。

 佐川急便のお兄さんが我が家の近隣に車を止めて物を持って走る姿を見るのは嬉しいし、我が家に配達してくれるときの笑顔も好きです。心が温まります。でも、でも、担当者が若い人に変わって、このお兄さんが自分の希望や夢を叶えたのだろうなーと思える日が来ることを心から願っているのです。

2025年2月28日金曜日

今週の1冊_TOUCH

  昨年末、娘の大学があるオーストラリア・メルボルンに向かう飛行機の中で、映画を観ました。最近はアクションものもミステリーも観たくなく、恋愛ものもあまり興味がありません。で、ジャンルで言うと「ドラマ」を観るのですが、選ぶときは観た後で後悔しないよう慎重になります。で、慎重に選んで観た「TOUCH」がとても良かった。先日、偶然この本を書店で見つけて買い、すぐ読了しました。

 本も映画も、高齢のアイスランド人の男性が母国で経営するレストランを閉店するところから始まります。そこから、現在と過去が行き来し、彼がどのような人生を歩んできたか、が丹念に描かれます。

 彼は若いころ、ロンドンに住み、有名な大学に通っていましたが、大学での学びに疑問を持ち、退学をして日本料理店で皿洗いのアルバイトをします。彼はその店の日本人店主の娘と恋に落ちるのですが、ある日、店主とその娘が忽然と姿を消します。

 その男性は理由が分からないまま、祖国アイスランドに戻り、家庭を持ちます。が、晩年になってもう一度その女性に会うために、日本へ向かいます。50年の月日を経て初めて、店主と娘が姿を消した理由を知ることになります。

 人の人生について深く考えさせられるとともに、私たちが忘れていはいけない事実も改めて認識させられます。また、ラストのシーンも味わいがあり、心が温まります。

 アイスランドはあまり日本に馴染みのない国ですが、皆さんにこの映画と本をぜひ、お勧めしたい。この本は、アイスランドでベストセラーになったそうです。



2025年2月27日木曜日

娘@メルボルンからの報告 エアフライヤー

 皆さん、エアフライヤーをご存じですか? 日本ではノンフライヤーとも呼ばれています。油を使わずに調理が出来る家電製品です。です。一昨日、このエアフライヤーを買ったとメルボルンにいる娘から報告がありました。

 娘に頼まれ、この家電製品を我が家で買ったのは数年前。想像していた以上に便利で、お肉をガスレンジで焼いているときに、フライドポテトやハッシュドポテトを入れます。また、お弁当作りをしているとき、もう一品必要というときにも使います。

 娘の寮には立派なキッチンがあるのですが、多国籍の学生が住んでいるため、調理に行くと髪の毛や服に強い香辛料や油の匂いがつくのだそう。で、キッチンから帰った後は、服を替え、髪の毛も洗わなければならず面倒だったようです。

 で、そのような心配をしなくても良いように、自分の部屋がある9階の共有スペースの簡易キッチンで簡単に調理ができるエアフライヤーを買ったとのこと。

 この日は食べたかったサーモンとソーセージを焼いたそう。毎食作るのは大変なので、一回で2,3食分を作るそう。昼・夜・翌日の昼と同じものを食べると飽きることもあるけれど、「毎回作るのは大変なんだもん」と娘。

 ちなみに、このサーモンとソーセージは2日分の食事だそうです。オーストラリアは物価が高いので、ファストフードもなかなか食べられず、娘は頑張って自炊しています。自炊が少し楽になる家電製品を見つけられて良かったです。

娘から送られてきたエアフライヤーの写真。サーモンとソーセージを焼いています

娘がエアフライヤーで焼いたチキン・パルメジャーノ

2025年2月26日水曜日

花壇のフェンスづくり

  何年間も探し続けた花壇のフェンスをようやく見つけました。2011年にこの家を中古で購入し、内装、外装、庭、デッキ、玄関周りなどあちこちリフォームしてきましたが、唯一見つけられなかったのが白い縦型の木製のフェンス。先日、たまたまインターネットで見つけて、取り寄せることが出来ました。

 祝日の月曜日、夫と息子と3人で、高さ90㌢のフェンスに防水用のラッカーをスプレーし、金具で留めました。幅5メートルのフェンスを組み立てる予定でしたが、柱が一本足りず、またフェンスを固定するためのしっかりとした金具も必要だとわかり、現在、それらを注文中。

 アメリカの家でよく見かける、白い縦型の木製フェンスが日本では探せず、工務店に特注しようかと夫と話し合っていたところでした。注文すれば、結構な金額だったと思いますが、今回はラッキーなことにアウトレットで安く購入することが出来ました。

 追加注文した部材が来れば、完成です。猫の額ほどの小さな花壇ですが、出来たら皆さんに報告しますね。

フェンスに防水ラッカーをスプレーする夫と息子

金具で留めるのは、結構難しい

 

2025年2月25日火曜日

不思議な出来事

  昨日、不思議な出来事があったので、皆さんと共有したいと思います。このような出来事に意味づけするか、しないかは、人によってまちまちだと思います。私は意味があってのことではと受け止め、その意味について考えを巡らせています。

 昨日の朝、霊を呼び降ろすイタコさんに会って亡父の霊を降ろしてもらったときの録音テープを聞きました。昨年10月末、青森県八戸市にイタコさんに会いに行ってから初めてです。実は、そのときイタコさんの語りから、イタコさんは父を呼んでいない・もしくは呼んだのは父ではないーと思ったため、その後その録音を聞いていなかったのです。

 イタコさんの声を聞きながら、テープ起こしをしました。イタコさんは父の代わりに話していることになっています。その話している内容、話ぶり、使われている語彙を改めて確認しても、やはり父ではないな、と思いました。話があまりに一般的だし、父があのようなことを言うはずがない、父はあのような言い回しはしないーと一文一文、そう思いました。

 100歩譲って、言い回しや話し方、使う語彙はイタコさんのものだとしても、話が抽象的過ぎ、霊を降ろす前に命日・病気や死因を申込書に記すことになっていますので、それに寄せた話をすることはいくらでも可能だーという内容だったからです。

 テープ起こしを終えて、昼食を取り、車の洗車に行こうと思いました。もう15、6年は乗っているこの年季の入った車は実は父が買ってくれたもの。当時、私の体調が悪く、電車で1時間かけて病院に行くのは大変だろう、車なら少しは楽なのではないか、と買ってくれた、今となっては父の大切な形見です。

 ですので、古くなりましたが、とても大事に乗っています。洗車も定期的に行っています。運転が乱暴な夫が付けた傷、自転車の出し入れで子供たちが付けた傷と満身創痍の車ですが、修理をまめにしており、これからも大事に乗っていこうと思っています。

 で、いつも洗車をしてもらうガソリンスタンドに行きました。すると、店員さんが申し訳なさそうな顔で、「洗車の機械が壊れているんです」と言います。珍しいこともあるなぁと思いつつ、別のガソリンスタンドに行きました。ここは我が家から少し遠いのですが、とにかく、車をきれいにしたかった。

 そして、そのガソリンスタンドでも、その日は予約がいっぱいで洗車はできないと断られました。2件断られ、ガソリンスタンドはもう近くにはないので、諦めて、自宅に戻ることにしました。

 右折かUターンをしようとしましたが、走っても走っても、Uターン禁止か、右折したい道路は進入禁止のサインが立てられています。しばらく走って、ようやく、右折ができる道路がありました。そして、そこの道路に入ると、道路はすぐ行き止まりになり、目の前にお寺が現れました。

 お寺は真言宗智山派という、父の家の宗派門派のお寺でした。私と母は昨年、札幌のこの門派の納骨堂から、父の遺骨をこちらに移してきており、来月は父の13回忌で、現在母のマンションの仏壇の横に置いてある遺骨を、門派は違いますが高野山真言宗の納骨堂に納めることになっています。

 真言宗は沢山門派があるようですが、父の家の門派のお寺にたどり着いて、びっくりしました。何せ、父の形見の車に乗り、2つのガソリンスタンドで洗車を断られ、自宅に戻るためのUターンや右折も出来ず、ようやく右折でき、入った道路がすぐ行き止まりで目の前に父の宗派門派のお寺があったのですから。

 父は私に何か言いたかったのかなぁ、と思いました。ここずっと、気持ちが落ち込むことが続いており、一人でいるときは時々、年甲斐もなく、”お父さん”と呼びかけ、泣くこともしばしばありましたので、励ましてくれたのかもしれません。

 父の生前は特に仲が良かったわけでもないのですが、父が亡くなりお葬式の席で、父方の従姉妹に私は父の自慢の娘だったーと聞かされました(従姉妹が私を慰めるために言ってくれたのかもしれませんが)。その従姉妹の一言で、自分に自信のなかった私も、これからの人生を何とか生きられるーと思いました。誰かに自分という存在を認めてもらえているという確信を、そのときの私は必要としていました(今もです)。

 もしかしたら、納骨堂にまた入らなければならないのが、寂しいのかもしれないとも思いました。昨年3月末に札幌の納骨堂から遺骨を持ってきてから、ずっと母のマンションの仏壇の横に置いてありましたし、母の家に行くたびに父に手を合わせていましたので。

 いや、先日、母が父の遺骨の袋を開いて具合が悪くなったと言っていましたので、もしかしたら、”寝た子を起こす”ではありませんが、穏やかに眠っていたのに、起こされてしまったと言いたかったのかもしれません。

 まぁ、父はそういうことで文句を言うタイプではありませんので、私のことを天国から見守っていると伝えたかったのだと受け止めることにしました。

 そこには土地勘はなかったので、お寺の写真を撮り、いくつか目印となる建物を頭に刻み込み、自宅に戻りました。そして、もう一度、そこのお寺に行きました。覚えた建物を頼りに、迷わずに行くことが出来ました。車を近くの駐車場に止めて、お寺にお参りをしました。こぢんまりとした、良い気が巡っているお寺でした。

 お寺内のあちこちに、手を合わせました。その間、ずっと父に心の中で話しかけました。父と話ができたような気がしました。 

2025年2月24日月曜日

休日の朝は…

  今日は3連休の最終日ですね。皆さん、連休はどう過ごされていますか? 私たちはいつもの週末という感じで、のんびりとしていました。

 週末の朝はよく、子供たちが大好きなホットケーキを作っていました。ミッフィーのお皿によそうのが決まりでした。というより、ミッフィーのお皿は特別なので、週末のホットケーキにしか使わない決まり。

 昨日の日曜の朝は夫が息子と教会に行くというので、持っていけるようにホットケーキの粉を使った蒸しパンをミッフィーのカップに入れて作りました。

   今朝は、キッシュを焼きました。実は土曜日の朝も作っていて、中身はホウレンソウとベーコン、マイタケでした。久しぶりに作り家族に好評だったので、今朝も作ることにしました。中身は少し変えて、ブロッコリーとベーコン、マイタケに。

 出来たてのキッシュは美味しく、夫が喜んでくれました。息子はまだ寝ていますので、きっと冷たくなってから食べることになりますが、それはそれで美味しい。

 私のキッシュは手抜きをして、市販のパイクラストを使います。ですので、中身を炒めて、チーズを入れ、卵と生クリーム、牛乳を混ぜた液を入れて、オーブンで焼くだけ。

 蒸しパンの写真を娘に送ったら、「いいなぁ、私もママの蒸しパンが食べたい!」と言ってくれました。キッシュも娘がいたら、喜んでくれただろうなぁ、とちょっと寂しい気分。でも、娘も留学先で頑張っています。寂しいなんて、言っていられませんよね。



 

2025年2月23日日曜日

改葬許可申請書

  来月24日に父の13回忌を迎えるにあたり、父の遺骨を都内のお寺の納骨堂に納めることになりました。

 遺骨を札幌市内のお寺の納骨堂から持ち帰ってきたのは、昨年3月末。母と日帰りで行ってきました。遺骨は今も母の住むマンションの仏壇の横に置いてあります。来月13回忌法要をするにあたり、父の遺骨を昨年契約していた納骨堂に納めようとしたところ、書類が足りないとご指摘を受けました。

 父の遺骨をこちらに持ち帰るときに、札幌のお寺からは「納骨収蔵証明書」を発行してもらっていました。ここに遺骨が埋葬されていますーという証明書です。それがあれば、次の納骨堂に移せると思っていましたが、違いました。

 なんと、新しい墓地の管理者に提出するための「改葬許可証」を札幌市に発行してもらう必要があるということなのです。まずは、札幌市役所に問い合わせをして、申請書をホームページからダウンロード。そこに、「墓地使用者」として母の名前を、「改葬者」として父の名前と本籍と住所を記載。そして、これまでの埋葬場所の住所と施設名、改葬先の住所と施設名を記載します。

 まずは、本籍です。私はうっすらとは覚えていましたが、正確には思い出せません。母に電話で聞いてみると、「忘れちゃった」と言います。東京に引っ越しして5年以上経ちますし、何せ、87歳。忘れても不思議ではありません。「ちょっと調べて、また電話するよ」と言います。

「お母さん、それとね、火葬した年月日と火葬場所を記す必要もあるんだよね」

「うーん、火葬したのは亡くなってから数日経っていたと思うけど、忘れたよ。あっ、火葬した場所と日にちはお父さんの遺骨の袋の横に書いてあったかもしれない」と言います。結局は本籍だけ分かり、火葬の場所については分からなかったようです。母は、遺骨の袋を開けたり、のぞいたりしているうちに具合が悪くなったらしく、「あぁ、遺骨なんて触るもんじゃない」とつぶやいていました。

 私の死産した子の遺骨は、私の枕元にあります。時々抱きますし、愛おしくて、袋を開けて遺骨を見ることもこれまで何度もありました。でも、気持ち悪くなったことはありません。ここはやっぱり自分の子供と、夫との違いなのかなぁと思ったりもしました。

 「分からないものは仕方ないよね。世の中には、親族の火葬した場所を覚えている人はそんなにいないと思うから、たぶん大丈夫。ここは空欄にするね」と私。

 そして、その申請書と札幌のお寺からいただいた「納骨収蔵証明書」、490円分の切手を同封して、札幌市役所の施設管理課に送ったのでした。札幌市役所から改葬許可証が届いたら、ようやく父を東京の納骨堂に納められます。

 それにしても、生きている人間ではなく、亡くなった人の骨を移動するのにも自治体の許可がいるなんて、驚きました。でも、これは、父がこの世に存在したことの証明ですし、それを自治体もお寺も尊重しているのだということですよね。

 手続きには驚きましたが、父が大切に扱われていることを嬉しく思った出来事でした。

2025年2月22日土曜日

がんのママが旅立つ

  昨日、親しくしているがんのママさんからラインがありました。「むつみさん、18日Eさんが旅立ったそうです。同じマンションのママ友から連絡がありました」

 事実だけを伝える簡潔な文章から、そのママさんの深い悲しみが伝わってきました。そのママさんは最後までEさんを精神的に支えていました。ママさんに電話をしました。

 Eさんは中学生のお子さんを残して旅立たれました。ママさんは高校生、私も中学生の子供がおりますので、まだまだ世話をしたい、成長を見守りたい子供を残して逝くのは、どれほど無念だっただろうと語り合いました。

 Eさんは血液のがんで、骨髄移植という大変な治療をした後も再発・再々発し、最後は治療法がなく緩和ケアの病院に行かれたそうです。私は何度も、今回連絡をいただいたママさんが主宰するがんのママの集いでEさんとご一緒しました。小柄で可愛らしい、そしてお話好きな方でした。種類は違いますが、私も血液のがんを患っていたこと、高齢で出産したことと共通点もあり、いろいろお話もさせていただきました。

 骨髄移植で再発・再々発をしたということは、完治を望めるはずのこの治療法で、がんの勢いを止められなかったということ。骨髄移植の治療中は免疫が低下しますので、無菌室というところに入らなければなりません。この期間は長く、面会も禁止されます。ですので、Eさんも長い間、お子さんと離れて入院されていたそうです。子供との幸せな暮らしに戻ることを願って、辛い治療も耐えてきたEさんが、結局は天に召されてしまった。人生は酷です。

 私もEさんのように、血液がんが再発・再々発しました。再々発時は完治を目指し「造血幹細胞移植(骨髄移植、末梢血幹細胞移植、臍帯血移植の3種類の方法がある)」を主治医に勧められ、またセカンドオピニオンでも移植を勧められました。セカンドオピニオンを伺った医師からは「造血幹細胞移植をしなければ、娘さんが成人するまでは生きられない」とも言われました。

 私は当時43歳だったため、妊娠を諦められず、化学療法(抗がん剤治療)より強い治療である、造血幹細胞移植を選びたくなかった。この治療は治療が強力である分、副作用・合併症が多い。病院で同室の患者さんが、この治療を受けて別人のようになり、合併症を治すためにあちこちの病院にかかっていました。その様子を見て、私もこの治療を受けたら副作用・合併症の治療に時間がかかり、妊娠を望めない年齢になってしまうだろうと予想しました。

 主治医も私の意向を尊重してくれ、初発時に使った薬は使えないなど制限がある中、通常とは違う治療を選んでくれました。私はその治療法で寛解し、現在に至ります。今年、娘の成人式を一緒にお祝いすることもできました。寛解後にセカンドオピニオンを伺った医師に報告し、医師からは治療法を聞かれました。説明すると、その医師は「そうきたか…」とつぶやきました。このような結果から、どの治療が完治を望め、どの治療がそうでないのかーは最終的には、人智の及ぶところではないのではーと考えます。 

 ママさんは、Eさんのご主人に落ち着いたころに連絡を取り、Eさんと交流のあったがんのママたちからメッセージとお花を贈っていいかを伺ってくれるそうです。電話は、お互い治してもらった体を大切に生きようねーと言い合いながら、終えました。

 Eさん、長い間お疲れ様でした。お子さんを残して旅立つのはどれほど心残りだったでしょう。どうぞ、天国からお子さんを見守っていてくださいね。

2025年2月21日金曜日

児童館でお話し会

  皆さんは日々の暮らしの中でどんなときに幸せを感じますか? 私は料理をしているとき、子供たちと一緒に過ごしているとき、そして地元の小学校で絵本の読み聞かせの活動をして子供たちとふれあっているときにしみじみと幸せだなぁと感じます。

 今日、近所の児童館でひな祭りお話し会をしました。地元小学校の絵本読み聞かせサークルの仲間たちが、小学校以外にも活動を広げようと昨年、新たにボランティアグループを立ち上げました。ありがたいことに、私もお誘いいただき、昨年夏から活動に参加しています。

 今日のお話し会は4つのパートに分かれていました。最初が昔話の語り、2番目が紙芝居、3番目がクイズ、最後に子供たちも一緒に「うれしいひな祭り」を歌います。

 私の今回の担当はクイズでした。娘が帰国中に一緒につくってくれました。やっぱり若い子のセンスはいいですね。無料のイラストや文字をプリントアウトして、見やすく、可愛らしく作ってくれました。

「ひな祭りに食べる”ひなあられ”は何でできていますか?」

「答えは…①さつまいも ②おこめ ③だいこん」

「あかりをつけましょぼんぼりに おはなをあげましょもものはな 5人ばやしのふえたいこ きょうは●●●●ひなまつり この●●●●に入る文字は何?」

「答えは…①うれしい ②かわいい ③たのしい」

 こんな風にクイズを出します。子供たちは大きな声で競うように答えを言ってくれ、場はとっても盛り上がりました。子供たちは本当に可愛くて、こちらが癒やされました。とても幸せな気持ちになった午後でした。

 こんな素敵で楽しいサークルへ誘ってくれた仲間たちに感謝です。今度生まれ変わったら、保母さんか幼稚園の先生になりたいなぁ。

娘と一緒に作った「ひなまつりクイズ」


2025年2月20日木曜日

大好きな冬の花・ビオラ

  私は札幌生まれ・札幌育ちなので、雪の降る冬を懐かしく思う一方、天気良い日が多く花を楽しめる東京の冬もいいなぁと感じています。

 我が家から最寄り駅に向かう商店街の歩道には小さな花壇が並び、今ですと、ビオラが咲き乱れています。私はビオラが大好きなので、毎日街の花壇を眺めながら、幸せな気分で駅に向かいます。

  我が家の小さな花壇でも毎冬ビオラを植えています。ビオラは単色よりも、2色咲きのものが長持ちするようなので、今年もいくつか2色咲きを花壇に植えました。春から夏に咲く花は豪華で美しいのですが、暑さのせいかすぐ枯れたりしおれたして、植え替えを頻繁にしなければならない。でも、冬のビオラは毎日水をあげておけば、春まで咲いてくれます。


我が家の玄関前の小さな花壇

冬はビオラと、シクラメンが大好き

2色のビオラは春までずっと咲いてくれます

 今年はいつまで咲いてくれるかなぁ?

 

2025年2月19日水曜日

がんのママと語る

  一昨日、がんのママの集いに参加し、その集いを主宰するFさんと集いの後にお昼ご飯を食べながら語り合いました。

 Fさんは40代、私は30代と働き盛りでがんになり、また、子供を死産しており境遇が似ていることから、お互いに親近感を持ち、折々に会ってはお話しします。Fさんは慈愛に満ちた人で、がんを罹患して悩み苦しむママさんたちや、子供を死産した人を支える活動をしています。皆に慕われ、敬われる、素晴らしい人です。

 一昨日は、しみじみと子供を死産することについて語りました。私もFさんも死産後にもう一度出産したのですが、実は、死産後に子供を持つことを諦める人は少なくありません。赤ちゃんをお腹の中で大事に育てながら、また死産する結果になるかもしれないという不安を抱え、長い妊娠期間を送ることに耐えられないと考えるためです。

 Fさんが親のような世代の人に、お嫁さんが死産後もう子供は産みませんと断言して結局孫は出来なかったという打ち明け話をされたと話してくれました。「皆があなたのように次の子供の妊娠・出産が出来るほど精神的に強いわけではない」と言われたとも。

 私も息子の妊娠中は生きた心地がしませんでしたし、もう一度、あの死産という悪夢が現実になるのではと想像しない日はなかった。Fさんもそうだったと言い、そのお嫁さんの気持ちがとても良く分かると言います。

 その期間を耐えられるかどうかは、自分がそれを耐えられるぐらいに精神的に強いかどうかをまず見極めるところから始まるのだと思います。いや、耐えられるかどうかよりも、Fさんも私も、気が狂うほどの心配で不安な期間を経ても、赤ちゃんを産みたいと願ったのだと思います。さらに言うと、もう一度、死産という結果に終わったとしても、産むという決断をしないで後悔するよりはまだ良い、という究極の判断をしたとも言えます。

 Fさんとはその後、「執着」についての話になりました。私が大学院で苦しんでいることを話すと、Fさんは「むつみさん、それは、きっと一度始めたことは最後までやり切るべきだという、むつみさん自身の信条に対する執着ではないだろうか」と言います。

 確かに、そうです。私は諦めないことを信条としていますし、常に目標を掲げて、それに向かって努力したい人間です。そして、途中で諦めることがなかなか出来ない。でも、最近、そういう自分の性分に疲れてきているのも事実です。

 Fさんは天国にいる娘さんの元に行くためには身軽にならなければならないーと信じているそうです。この世での様々な執着を手放さないままあの世に行ったら、重すぎて娘さんのところに辿り着けないと苦笑します。

「あっちであの子を育てたいから。この世で身軽になってあの世に行かなきゃ。だからね、考え方も含めていろいろなものを手放すようにしているの。ほら、私たちいつまで元気か分からないじゃん。手放すのも精神的なパワーいるから、それも元気なうちだよ」

 そうだね、私たちの子供がこの世に生まれる前にあの世に行ってしまったということは、この世で修業しなくてもいいほど徳が高い子どもたちなんだよね、天国の中でもかなり高いところにいるよねーと互いに天国の子に思いを馳せました。

 Fさんからはいつも、とても大切な気づきをもらえます。自分の信条への執着ー。本当だなぁとつくづく思ったのでした。

 

2025年2月18日火曜日

娘がメルボルンへ

  今日午後5時50分、娘がオーストラリア・メルボルンに向け、旅立ちました。夫と私で成田空港まで送りに行きました。

 昨年10月31日に帰国。3ヶ月半の長い夏休みでした。娘のいる日々は楽しく、いつも家に笑いがありました。家族全員が娘に癒やされていました。

 ここ数日間、息子がずいぶん娘の側に寄っていき、ハグをしたり、腕をからませたり、膝の上に頭を載せたりと、甘えていました。息子はあまり感情を表に出さないのですが、やっぱりおねぇねぇがいなくなるのは寂しかったのですね。

 JALカウンターでスーツケースを預けて、空港内のカフェでお茶をしました。娘が「毎日、ママの美味しいお料理食べて幸せだった。これから、自分で作った料理を毎日食べるんだ。飽きちゃうよなぁ」と言います。

 娘の寮の部屋は9階にありますので、1階のキッチンまで作りに行くのが面倒で、オーブン料理を一度に沢山作って、自室の冷蔵庫に入れておくらしいのです。2日間同じ物を食べるということが多く、飽きてしまうよう。確かに、20歳の子が自分のために料理を作るのは面倒だろうな、と思います。だからこそ、ちゃんと自炊しているところは褒めてあげたい。

 カフェを出て、セキュリティゲートへ。夫も私も、娘をぎゅっとハグして送り出しました。娘は何度もこちらを振り返り、手を振ってくれ、両腕を大きく広げて頭の上でハートマークを作ってくれました。私たちも、娘が見えなくなるまで見送りました。



   夫も私も寂しくて、もう会話もありません。でも、すぐ駐車場に戻り、帰路を急ぎました。息子は夜英語の塾があるので、その前に夕ご飯を食べさせて、駅まで送らなければならないからです。

「一人っ子だったら、この寂しさから気持ちを立て直すのに時間がかかっただろうね」と私。

「うん。もう一人いるから、早く帰って夕ご飯食べさせようと気持ちを切り替えられるのは、ラッキーだよね」と夫。

 携帯電話を見ると、娘から写メールがありました。娘の大好きな「じゃがポックル」の写真です。札幌に帰省したときは、いつもこれをお土産に買っていました。成田空港でも売っているのですね。

  私からは、車から見えた「虹」の写真を送りました。「虹が見えたよ。グッドラックだね」とメッセージを添えました。まずは娘が、メルボルンに無事に着き、楽しく充実した学生生活を送れますように、と祈ったのでした。


 

2025年2月17日月曜日

熱海温泉へ

  昨日、家族で熱海の日帰り温泉に行ってきました。娘が明日、オーストラリアに帰ってしまいますので、家族でのんびりできて良かったです。

 娘は「休みの日はどこに行きたい?」と聞かれたら、「温泉と答える」というほど、温泉好きです。今回連れていった日帰り温泉は露天風呂が海と一体化しているような造りで、眺めがとても良く、娘も気に入ってくれたようです。

 温泉につかった後は、レストランで食事。その後は広々とした休憩エリアで寝られましたので、とてもリラックスできました。

温泉の休憩エリアでくつろぐ息子

 熱海温泉は我が家から行きは車で約2時間、帰りは混んでいますので約2時間半。日帰りですと往復で5時間近くかかりますが、行くととても楽しめますので、それくらいの時間をかけても行ったかいがあります。

 以前、母をその温泉に連れていったときはとても喜んでくれましたが、車での日帰りは高齢の母には大変だったようでした。

 私は札幌出身で、札幌市には「定山渓温泉」という有名な温泉地があります。札幌で働いていたときは、よく一人で車を運転して日帰り温泉に行きました。また、東京から実家に子供たちを連れて帰省したときも、父母が1泊2日で連れていってくれました。定山渓温泉は市街地から車で40分ぐらいで行けますし、良い温泉が多いので、札幌に住む人たちは幸せですね。 

 55歳になった夫が最近、「早めにリタイアする」と言っています。息子はまだ中1ですので、まだまだリタイアするには早いと思うのですが、夫に理由を聞いてみると「君は僕より年上だし、病気もいろいろしているから、君が元気なうちにあちこち旅行したい」とのこと。

 昨日、熱海温泉に行ってとてもリラックスできたので、日帰り温泉巡りもいいかなぁと思い始めました。



2025年2月16日日曜日

母のお赤飯

  母はとても料理が上手で、母が作るものは何でも美味しい。その中でも一番美味しいのはお赤飯です。

 母が作るお赤飯には甘納豆が入っています。お赤飯に甘納豆を使うのは北海道、青森県、山梨県など限られた地方だそうで、関東地方では小豆や小豆にとてもよく似ている「ささげ」が使われています。

 特におめでたい席でのお赤飯には小豆ではなく、ささげが使われます。小豆は煮崩れするので、「割れた小豆を用いるのは縁起が悪い」とされ、煮崩れしないささげが使われるそう。

 そのような歴史はさておき、北海道のお赤飯は甘納豆入り。農水省のホームページによると、この甘納豆入りお赤飯を考案したのは、札幌にある学校法人光塩学園の創設者・初代学長の南部明子先生。自身も働く母親だった南部先生が「忙しいお母さんが手軽に作ることができるように」という想いだったそう。昭和20年代に考案し、全道各地での講演でお母さんたちに教えたたところ子供たちが大喜びし、またたく間に広がったそうです。

 北海道では節分の豆まきに、雪の上でも拾いやすいように殻付き落花生を使います。こうして独自の食文化を作り上げてきた北海道って素晴らしい!とまたまた、北海道自慢。

 さて、先日娘がこの甘納豆入りお赤飯の作り方を母に習ってきました。炊飯器で炊くと簡単なのですが、母は蒸し器で蒸かしています。だから、とっても美味しい。母のお赤飯はやっぱり、最高です。

母と娘が作ったお赤飯。「東京で甘納豆を探すのが大変」と母




2025年2月15日土曜日

寂しい書店の閉店

  よく行っていた書店が2月20日で閉店することになりました。102年続いていた歴史ある店です。昨日、お店に行きじっくりと本棚を眺め、本を1冊買ってきました。そして、お店の外観の写真を撮ってきました。

 いつもそこにあった店がいなくなるのは、とても寂しいものです。ここ数年、近所ではおじいちゃんおばあちゃんが営んでいた文房具屋さん、駄菓子屋さんが次々と閉店。コロナ禍、何とか持ち堪えた店もこうしてひっそりと閉店していくのです。

 この書店では子供の絵本や新書・ビジネス書などよく買いました。息子も時折、漫画を買っていました。本当に寂しいです。

 書店内と入り口にはこんな張り紙が貼ってありました。



 「長引く出版不況、コロナ禍、その後の先の見えない不況に苦しめられながらも考えつく限りの工夫と努力をし、お客様に支えていただきながらこれまで必死で頑張ってまいりましたが、万策・力ともに尽きてしまいました。

 これまで102年にわたりお客様方にかわいがっていただいたこと、只々感謝申し上げます。そして頼りにしてくださっているお客様を心ならずとも裏切ってしまい、ご不便をおかけすることを心よりお詫び申し上げます」

 そして、隣駅の書店を紹介し、「苦しいなか頑張っておられます。お引き立てのほど、どうぞよろしくお願いいたします」と記してありました。そこで紹介されていた書店も時折行きますが、何とか頑張ってほしい。

 娘に書店の閉店の話をすると、「確かに本を買わないよね。私、読む漫画、全部Kindleだもん」と言います。考えてみれば、私も今や読む本の3冊に1冊はKindleです。でも、Kindle で読んで気に入った本は紙の本を改めて買っていますので、これからも紙の本は買い続けると思います。

 102年も続いた店を閉めるのは、とてつもなく苦しい決断だったと思います。店主は、閉店後どう生きていくのでしょうか。張り紙には万策・力ともに尽きたと書いてありましたが、肩の荷を下ろして穏やかに過ごされますように、と願わずにいられません。

 

2025年2月14日金曜日

バレンタインメッセージ

  今日はバレンタインデー。皆さんは、どなたにチョコレートをあげましたか? どなたからもらいましたか?

 私は夫と息子、娘にチョコや焼き菓子を贈り、娘からは手作りのチョコをもらいました。

娘が作ってくれたチョコ

娘はこの可愛らしい箱にチョコを入れてくれました。箱の裏にはメッセージが書かれていました

 娘は夫、息子、私にくれたチョコレートの箱にそれぞれメッセージを書いてくれました。夫へのメッセージがとても素敵だったので、ここに訳して載せたいと思います。

「言葉では伝え切れないけど、ありがとう。

 ダディが私を愛し、知恵を授け、様々な犠牲を払ってくれたから、今の私があります。

 ダディは私を導くために、寝る前に、そしてそれ以外でも、数え切れないほどの沢山の時間を使ってくれました。

 ダディはいつまでも、私のヒーローだよ。

 チョコレートを気に入ってくれることを願っています。

 I love you!」

 こんな素敵な言葉をもらえるお父さんはなかなかいないのではないでしょうか。

 夫の優先順位の一番は常に家族でした。家族が夫を必要としたときは、いつ、どんなときも家族の側にいました。それを娘はちゃんと分かっているのですね。

 

私が家族にあげたチョコ。息子が好きないちごチョコ、娘が好きな焼き菓子、夫が好きなピーカンナッツチョコとあちこちで買いましたが、娘の愛情のこもったチョコに比べると普通ですね




2025年2月13日木曜日

20歳の献血

  先日、20歳の娘が初めて献血を試みました。条件が整わず、結果的に出来ませんでしたが、次につながる良い経験が出来たようです。

 朝、洗濯物をベランダで干していると、区から献血を呼びかけるアナウンスがありました。アナウンスはほとんどの場合、夏の「光化学スモッグにご注意ください」という注意報。「珍しいな。きっと血が足りないのかもしれない」と受け止めました。お役に立ちたいところですが、私はこれまで病気や出産でたくさん輸血をしていますので、出来ません。で、娘に聞いてみました。

「ねぇ、20歳になったから、献血してみない? ママはこれまで病気でたくさん輸血してもらったの。ママがこうして生きていられるのは、献血してくれた人たちの血液をもらえたお陰。ママはもうしたくても献血できないから、お願いできるかな?」

「いいんだけど。私、血を採られるのが怖くて」

「えっ? そうなの?」

「うん。去年大学で血液検査をしてもらったときは、恐ろしくて、涙が止まらなくて、看護師さんに側についていてもらったの」

「そうかぁ、じゃあ、無理かぁ」

「ううん、ママが側についていてくれるんだったら、献血してもいい。私も人の役に立ちたいし」

「じゃあ、早速行こう」

 娘は支度をしている最中から泣いています。玄関を出るときは、ティッシュで涙を何回もぬぐうくらいになっています。「やめようか?」と聞いても、「いや、行く」と言うので、泣きながら自転車をこぐ娘と一緒に献血会場に行きました。

 まずは、登録です。私はすぐ後ろについていましたが、娘はまだ泣いています。「帰る?」と改めて聞くと、「ううん、献血する。でも、怖くて」とまた、大粒の涙を流します。

 ようやく登録が終わり、血圧と脈拍数を測りましたが、なんと脈拍が100以上あり、次の手続きに進めません。看護師さんに促され、座って冷たいお茶を飲み、何とか脈が100以下に下がるまで待ちます。心のありようは、脈拍数にも出るのですね。

 やっと、100以下に下がり、さて献血というところで、看護師さんから、待ったがかかりました。

 看護師さんは娘の手を握り、優しく質問します。「献血が終わった後、体調が悪くなる人もいるんです。そうした場合、会場で少し休んでもらうのですが、大丈夫ですか?」

 娘は1時間後に歯医者さん、そして、その後にスーパーでのアルバイトが3時間入っていました。もう一人の看護師さんも側に来て、「献血をしていただくときは、次に予定がないときにしてもらったほうがいいです。今日献血してもらって、歯医者さんで体調が悪くなっても困りますし、もしかしたら、アルバイトも行けなくなるかもしれません。また、次の機会にお願いします」

 そうか、献血は体調が十分良く、かつ、献血の後に予定がないときでなければならないのですね。そうしたことに気が付かず、区のアナウンスにすぐ反応し、娘を巻き込んでしまった自分を反省しました。

 私はこれまで、ヘモグロビンが壊れる病気でヘモグロビンを、血小板が壊れる病気では血小板を、そして帝王切開でも輸血をしました。

 ヘモグロビンが壊れる病気だったときは、あっという間に体が動かなくなり呼吸が苦しくなります。そく輸血となるのですが、点滴を準備してもらっている間にも体調がだんだん悪化し、点滴から体に血が入った瞬間からどんどん呼吸が楽になっていきます。また、血小板が壊れる病気では、体のどこも打っていないのに内出血であちこちに赤紫色の斑点が出来ますので、これも緊急処置として血小板を輸血して内出血を止めるのです。最初の出産は緊急帝王切開でかなり出血し、これも輸血をしました。本当に私は沢山の方々のお陰でこのように生きているのです。献血をしてくださる方々に心から感謝をしていて、私もお役に立てるのなら、立ちたいのですが…。

 娘は私の勧めもあり、怖がりながらも献血を望んでいましたが、看護師さんの説得で今回は断念することになりました。会場の方々は献血が出来なかった娘や私にとても親切でした。そして、出来なかったけれども、娘の顔は晴れやかでした。「次は少し落ち着いて、泣かないで出来ると思う」

 帰りは娘に「ありがとう」の気持ちを込め、近くのカフェでケーキをご馳走しました。

 20歳の献血は今回は出来ませんでしたが、娘なら、きっとまた挑戦してくれると思います。そして、献血してくださっている方々、本当にありがとうございます。

2025年2月12日水曜日

中学校のバスケ試合を観戦

  昨日、東京都内の中学校のバスケットボールのリーグ戦を観に行きました。息子は出場しなかったのですが、頑張っている2年生を応援できました。

 午前10時の試合は娘と夫が観戦し、二人で最寄り駅付近で昼食を取り、娘はヴァイオリンレッスンに行くために帰宅。夫はそのまま会場に戻り私が午後現地で合流し、午後1時からの試合を観戦。試合終了後は夫は帰宅、私は午後3時15分からの健康診断の会場に向かう。そんなスケジュールでした。

 娘は高校のバレーボール部を描いた「ハイキュウ」やバスケットボール部を描いた「黒子のバスケ」などのアニメ映画(原作は漫画)の大ファン。インターナショナルスクールに行って一番残念だったことは、「日本の部活動を経験できなかったこと」というくらいに、日本の中高校の部活動に憧れています。今回は1年生の息子は出場しないことは分かっていましたが、誘うと喜んで応援に行きました。

 私は昨日は論文執筆があり、午後は健康診断もあり、息子も出場しないし、夫と娘は観戦したので家族がサポートしていることは息子に分かってもらえるし…で、行かない理由が沢山ありました。が、パソコンに向かい論文を書いている途中、「自分にとって一番大切なことは何か」という問いが、頭の中に浮かびました。そして、「やっぱり行こう!」とお昼近くに決断し、支度をして出かけました。

 会場は港区立三田中学校でした。都営三田線の三田駅から徒歩10分ほどの場所ということでしたが、息子の学校の試合開始時間に間に合うか心配でした。私は地図を読むのが得意ではなく、駅の出口前にある地図と携帯電話の地図を照らし合わせて確認しても、別の方向に行ってしまう人間です。ですが、夫からの「まずは、A3出口を出たらいいよ」という助言と、グーグルマップのお陰で、何とかたどり着くことができました。

 三田中学校はなんと、クエート大使館の横にあります。すごい立地です。創立20周年ということで建物も新しく、洗練されています。公立中学校のイメージを払拭するような外観です。

港区立三田中学校の外観

 そして、驚くべきは校内のプール。もしかしたら、撮影禁止かもしれませんが、素晴らしさをお伝えするための写真なので、このブログにアップさせてもらいます。

三田中学校のプール。手前にある三本線と「田」の字は「三田」を表したデザイン

 皆さん、すごくないですか? 公立中学校にこの屋内プールですよ。生徒は幸せですね。それに、三田のサイン。あちこちのガラス窓の下に三本の線が長く引いてありその右に「田」の文字。これ、デザイナーさんが作ったに違いありません。本当に、おしゃれです。いやはや、港区、力あります。

 肝心の試合は、我が息子の学校は午前中はコテンパンにやられたらしく、私が観た午後の試合も負けでした。対戦相手はあまり強そうでなかったのですが、息子の学校のチームの選手が、こう言っては何ですが、あまり上手ではない。

 「なんであんな遠くからシュートするの?」というほど、遠くからのシュートが多く、それもほとんど決まらない。それでも、選手たち、一生懸命でした。その一生懸命さが、とても良かった。

 相手チームのコーチは女性で、ドスの聞いた声で、子供たちに様々な指示を与えます。優しい先生が多い昨今、「こういう先生っていいよねぇ」と、夫も私も、笑みがこぼれます。

 やっぱり、部活動はいいですね。私が息子をインターナショナルスクールではなく、日本の中高に通わせたかったのは、この部活動を経験させたかったからです。私も年を重ねた今、部活動が一番の思い出だからです。

 息子は身長が170㌢を超えていますので、普段、セーターにジーンズを着ると高校生に見えるのですが、運動着を着ている息子はやっぱり中1の幼さと頼りなさがあって、可愛かった。息子の新しい一面を発見したように嬉しかった。試合に出ていた中2の選手は皆、息子より背も体格もひと回り大きく、頼もしかったので、尚更そう感じたのでしょう。 

 その日は3試合あり、私たちが帰った後の最後の試合で、なんと、息子の学校が勝ったと帰宅した息子が報告してくれました。「やったね!」「それは良かったね!」と家族で喜びました。

 夜、寝る前に娘とおしゃべりしているとき、その日のバスケの試合の話になりました。2人の間の話ですので、ついつい本音が出てしまいました。

「いやぁ、あのチームが勝つなんて、相手チームよほど弱かったんだね」

「上には上がいるけど、下には下がいるもんだねぇ」

 ところが、その会話、隣の部屋にいた息子に聞こえたらしく、息子が「そこまで、言わなくても…」と静かに反論してきました。娘が起き上がって、慌てて息子のところに行き、「あっ、ごめん、ごめん!! けなすつもりはなかったんだけど…」と息子に謝りに行ったのが笑えました。

 昨日もとても幸せな日でした。合理的な決断をせず、直感に従って良かったーと思えた日でした。