2016年12月31日土曜日

2016年 私の挑戦 ③

 「2016年 私の挑戦」の中で、最も自分を誇らしく思うのは、ジョギングを始めたことです。半年前にふと思い付いて始めて以来、雨の日以外は毎日続けています。一日たった10分ですが、「継続は力なり」を実感する日々です。

 まずは、走るためのハードルを下げるために、いくつか工夫をしました。一つ目は、スウェットパンツとTシャツで寝ること。起きてすぐスニーカーを履いて玄関を出るためです。二つ目は10分以上は走らないこと。時間を伸ばしていけば、走るのが億劫になると思うからです。

 この二つをきっちり守って、こつこつ走ること半年。一日10分しか走りませんので体形の変化は全くありませんが、気が付くと体力がついていました。電車のホームから改札口までの階段をいつのまにかスタスタと上っていたのです。時には子供と一緒に駆け上がることもあります。体力がなく、家の掃除もままならなかった過去の自分が嘘のようです。

 誕生日には夫にウインドブレーカーをプレゼントしてほしいと頼みました。スポーツ用品店に一緒に行き、思い切って、ショッキングピンクを選びました。50代のおばさんがショッキングピンクのウインドブレーカーを着て走るのは、”痛い”感じに見えるかもしれませんが、本人が気持ちよく走っているのでまあ許されるでしょう。

 10分間走って最後に、全速力で50メートルほど走ります。この全速力が情けないほどに遅い。昔のように、走れない。でも、目標があるので続けています。その目標は息子が小学校に入ってから、保護者参加のリレーを走ることです。

 娘のときは、足が重くて全く走れず悔しい思いをしました。「2015年 私の挑戦」でその顛末を書きました。で、その後、息子のときに”リベンジ”しようと思い至ったのです。息子は地元の公立小に入学し、その後、3年生か4年生のときにインターに転校する予定です。そのとき私は50代後半。還暦近い私が、バトンを片手に颯爽と200mを駆け抜けるーなんて、想像するだけで楽しい。

 そのときは、体も引き締まっているはずー。あれこれ想像しながらの10分間ジョギング。来年も楽しく続けます。

2016年 私の挑戦 ② クラスママに

 「2016年 私の挑戦」で次に上げたいのは、娘のクラスの「クラスママ」を引き受けたことです。これは、日本の学校でいう「保護者幹事」。昨年末の「2015年 私の挑戦」では息子の幼稚園の保護者幹事に手を挙げたことを報告しました。その勢いに乗って、今年は娘のインターナショナルスクールで引き受けることにしたのです。

 「ムツミ、一緒にクラスママやらない?」
 隣のクラスのアメリカ人ママから声掛けされたのが8月のオリエンテーションのとき。娘の学校は8月末に年度が始まるので、その直前に学校から保護者へクラス分けの報告や学習内容の説明などがなされるのです。声を掛けられたのはそのときでした。そのママとは昨年度同じクラスで、割と親しく話をしていた仲。今年度は違うクラスになり残念に思っていたところ、一緒にクラスママをやろうと誘われたのです。やらないわけにはいきません。

 「クラスママ」の主な仕事は、学校やPTAからの連絡事項をメールすること。一学期に一度はランチ会やお茶会を企画し、学校を去る(帰国、もしくは他国に移住)ママさんたちのお別れ会を催し、クラス会費を集めて担任教師へのクリスマスプレゼントなどを買います。

 メールは下書きをし、夫にチェックしてもらってから送信。ランチ会やお茶会は隣のクラスのクラスママと相談しながら企画します。娘の学年にはヨーロッパやアジアからの英語を母国語としないママさんもたくさんいて、英語でのコミュニケーションはそれほどスムーズではありません。本当に伝わっているのかいないのか、保護者会活動に無関心なのか関心があっても出来ないのか、よく分からないままということが多い。ですので、肩の力を抜いて、「関心があれば、返信ください」「ご都合があえば、参加してください」というスタンスで声掛けしています。

 これまでに失敗は2回。1回目はクラス会費を集めたときのこと。なかなか集まらないため、メールで「お子さんから、私の娘に手渡していただけますか?」と依頼。ところが肝心の娘にその旨を伝えることを忘れたため、娘がクラス担任に「何人かからクラスファンドを渡されたんです。これはどうすれば良いのですか」と聞いてしまったのです。驚いたクラス担任から私にメールが。私は仕方なく、「それは毎年、クラスママが集めるお金です。クリスマスに担任の先生にプレゼントを買うための費用です」と素っ頓狂な説明をする結果になってしまいました。

 もう一つは、笑えない失敗でした。運動会のとき、クラス担任に「集合写真を写して」と頼まれ、私のカメラで写した写真を担任だけでなく、ついでにクラス全員に送りました。ところが、一人の生徒がそこに写っていなかったのです。写真を送る前に全員いるかどうか確認すべきでしたが、そもそも、子供の顔は全員覚えてはいません。また、集合写真を写すときに一人欠けていることなど想像もしませんでした。で、気軽に「クラス写真ですよ」と送ってしまったのです。

 いなかったのはフランス人の女子。運動会には参加していましたので、終わってからさっさと帰ってしまったのでしょう。そのフランス人のママから、すぐメールが返信されてきました。
 「写真をありがとう。残念ながら、集合写真には全員写っていませんでしたね」
 さすが、フランス人。日本人なら、おそらくこのような返信はしないでしょう。ずいぶん落ち込み、インター歴が長い日本人ママにLINEで「大失敗しちゃったの!」と愚痴ると、「フランス人はきついからねぇ。気にしないほうが良いよ」と慰めてくれました。

 失敗を重ねながら、何とか一学期が過ぎました。クラスママはPTA役員会にも出席しますので、知り合いもたくさんでき、また、学校やPTA活動のことも分かるようになりました。任期は6月末まで。あと半年、頑張ります。

 

 
 

2016年12月30日金曜日

2016年 私の挑戦 ① 

 2016年、私は昨年に続き、いくつかの新しいことに挑戦しました。体調不良が続いた40代に出来なかったことをしようと挑戦した昨年より、少しハードルを上げました。それらを振り返りたいと思います。

 一番大きな挑戦は、「開高健ノンフィクション賞」に応募したことです。血液がんや自己免疫疾患と闘いながら子供2人を産んだ10年間を振り返った手記で、応募総数139作のうち最終候補3作に残りました。

    この闘病記を書き始めたのは7年前。医師の診たても悪く、私自身も「自分はもう長くないな」と実感する中で、「娘に、何か残したい」という一心で書き始めました。

 体調が悪い期間が長く、また、46歳で息子を出産したため、家事・育児をしながら日記とメモを頼りに執筆するのは簡単ではありませんでした。ですので、ついつい先延ばしにしていました。しかし、頭の片隅にはいつも「仕上げなければ」という気持ちもあった。そこで、「締め切りが必要かもしれない」と思いつき、ノンフィクション賞に応募したのです。

 仕上げた後は、「同じような境遇の人や、その家族の方々の参考になれば」と出版を希望しました。私もたくさんの闘病記を参考にさせてもらったので、「お返しに」という気持ちがあったのです。が、「売れない」という理由で、出版は見送られました。

 第4稿まで書き直した「原稿」と、本の体裁で印刷された「ゲラ」は、段ボール箱に詰めて納戸に仕舞いました。日記やメモ、資料などもまとめて机の引き出しに入れてあります。
 
 出版社とのやり取りは、難しいこともありましたが、良い経験になりました。何より、仕上げることが出来たことが良かった。段ボール箱に詰めた原稿やゲラの表紙には、「娘へ」と手書きで書き添えました。いつか娘が成長し、この手記を読んで人生の参考にしてくれればと願っています。

 今日、年末年始に読む本を買いに大型書店に行ったとき、大賞受賞者の本が平積みになっているのを偶然見かけました。それを見て、「私の手記は出版されなくてよかったんだ」と改めて思いました。子供たちや夫、母の顔を思い浮かべました。闘病記には家族のことも多く触れているため、編集者や友人らから「家族への影響」を心配する声も上がり、私自身も「誰かの役に立ちたい」という願いと「家族への悪影響」の心配の間で揺れていたからです。

 あの手記は世に出るべきではなかった。今はその結論に納得しています。そして、あの手記のことはすっかり忘れて、日々を送っています。
 
 
 
 

2016年12月28日水曜日

雪が恋しい

 パソコンのオペレーションシステム(OS)・Windows7が、Windows10に自動更新されて半年。更新後は電源を入れるたびに、画面に写真が映し出されるようになりました。風景写真が多く、定期的に更新されますが、どれもこれも好きではありませんでした。

 なぜ好きではないのか? 美しい風景なのに、自然ではない。色のコントラストが極端だったり、風景そのものが異様だったり、作り込み過ぎている感じがするのです。デジタルカメラで撮影した写真は修整することが容易なため、加工し過ぎてしまい、不自然な出来になってしまうのかもしれません。少なくとも私は、勝手に送られてくる写真の多くについて、そういう感想を持っています。

 そのような中、2週間ほど前に好みの風景が画面に現れました。森に密生した針葉樹に雪が降り積もっている写真です。「この写真、好きだなあ」と思いました。他の写真に比べて躍動感もダイナミックさも感じられませんでしたが、その”しんとした”感じが実に良かった。

   「何だ、私は単に雪国の風景が好きなんだ」
    はっとさせられました。熱帯の森林も、西欧の美しい街並みも、荒波の中に切り立つ岸壁も、霧の中に浮かぶ灯台も、私の胸を打たない。やはり、生まれ育った土地を彷彿させる風景が好きなのだ、と気付きました。
 
   故郷から遠く離れた土地に居を構えた。「冬は雪がないほうが、ずっと楽」と長らく思っていたのに、気付いたら、雪が無性に恋しい。冬場に故郷に帰れない期間が長かったため、「故郷イコール雪」という気持ちになっているのかも知れません。

   先日、約10年ぶりに、12月の札幌に帰省しました。東京に帰る日、札幌から新千歳空港に向かうバスの窓から見えた風景に、胸を打たれました。思わず、バッグからスマートフォンを取り出し、カシャカシャと写真を写しました。

 「この景色を、今度はいつ見られるのだろう」
 そう考えると、少し切ない気持ちになりました。

2016年12月25日日曜日

雪の札幌へ

  20日から3日間の予定で札幌に帰省し、雪の影響でその後2日間も足止めとなり、昨日東京に戻りました。24日朝に新千歳空港に出直したとき、空港内は毛布をかぶって寝る人や空席待ちをしている人が溢れており、改めて雪国の交通事情のもろさを実感しました。長い列に並んでカウンターで搭乗券を発行してもらい、セキュリティを通り、飛行機に乗り込み、1時間遅れで離陸したときは心から安堵しました。
 私は札幌生まれ札幌育ちにもかかわらず、寒さで発症する持病を抱えてしまったため、長い間冬期は帰省出来ませんでした。が、今年の1月、一人暮らしの母が体調を崩したため、様子を見るために恐る恐る1泊2日で帰省。私の体調に変化がなかったため自信をつけ、今回、母の顔を見に子供たちを連れて、帰省しました。

 年に1、2度しか雪が降らない東京で生まれ育った子供たちは、夏と同じぐらいに帰省を喜びました。滞在中は連日外に出て、雪投げや雪だるまづくりを満喫。実家の横の駐車場に出来ている雪山で、何度も何度も飽きずにそり滑りをしました。子供たちの歓声を聞いたご近所の人も外に出てきて、「雪でこんなに楽しそうに遊ぶ子供たちを見るのは久しぶり。札幌の子供は雪遊びなんかしないから」と目を細めてくれたほどの、はしゃぎぶりでした。
 
一方、私は忘れていた札幌の雪かきの大変さを再認識しました。帰京予定の22日午後に降り始めた雪は止まず、予約していた便が欠航となったため、空港から”出戻って”からは雪かきに追われました。翌23日はニュースで「50年ぶりの大雪」と報じられるほどの雪で、当然、午後の便のほとんどが欠航に。この日は数時間おきに、雪かきをしました。しんしんと降り積もる雪を、もくもくとかく。1回の雪かきは3、40分かかります。母がよく、「さんざん降っても止まぬ雪を窓から見ると、涙が出てくる」と言いますが、体のあちこちが痛んでいる年配者にとっては、辛い作業に違いありません。雪をかきながら、「大雪の今日、普段出来ない親孝行が少しでも出来て良かった」と心から思いました。私の便の欠航は、天国の父の采配かもしれない、と。

 私は札幌を離れて15年になりますが、その間に、実家の周辺の除雪事情も変わりました。以前はほとんど除雪車が通りませんでしたが、今は頻繁に除雪車が通っています。住民が空き地に雪を積み上げていましたが、空き地がなくなってきたため、除雪を業者に依頼するようになったからです。母も数年前からご近所数件と一緒に除雪業者と契約をし、定期的に除雪してもらっています。母が契約している業者はひと冬に10回来てくれ、契約料は3万6千円。日程は事前に決められており、雪が降っても降らなくても、その決められた日に除雪車が来ることになっているようです。

 今回はタイミングが良く、大雪が降った23日に来るはずでした。が、夕方その業者から「あまりに雪が多くて、行けません。2日後に行きます」と連絡が。私は、「除雪業者が大雪を理由に予定変更しちゃだめだよ」と心の中でぶつぶつつぶやきながら、来ることを期待して積めるだけ積み、私の背丈ほどになった門前の雪山の上に刺した、目印の旗を抜いたのでした。
夜、結局その上に雪を積み上げることは出来ず、スコップで雪をかいてはとことこ歩いて横の駐車場に積み上がっている雪山の上に捨てるという、気の遠くなるような作業を黙々と続けました。でも、気分はなぜかさわやかでした。東京にはない静けさと、澄んだ空気の中で作業していることが、気持ち良く感じられたからです。

 ご近所の人も入れ替わり立ち替わりで、雪かきに出てきます。
 「除雪屋さん、今日来られないんだよね。まあ、こんなに雪が多かったら仕方ないよねえ。あさって来てくれるっていうから助かるわぁ」
 北海道人らしい、おおらかなコメントを聞いて、私は「心の中で愚痴った私、人間、小さいよ」と反省したのでした。

 24日朝、雪に覆われた新千歳空港を飛び立ちました。飛行機の窓から見える雪景色はやはり、きれいでした。
1時間半後、路面の乾いた羽田空港に降り立たったときは、何とも味気ない、つまらない気分になりました。やっぱり、私は雪国育ちの人間なんだなあと実感した旅でした。
 

2016年12月14日水曜日

捨てられない! ②

 クリスマスを前に、夫の両親から大きな段ボール箱2箱分のクリスマスプレゼントが届きました。アメリカ人のプレゼントの流儀は、厳選した良い物を1つ、というのではなく、大小取り交ぜいくつも、というもの。ですので、その段ボール箱の中には個別に袋詰めされたプレゼントがたくさん詰まっているのです。開ければ、物が多い我が家がさらに物で溢れるため、クリスマスの日まで玄関に置いたままです。

 義父母から送られる段ボール箱には毎回、プレゼントと一緒に、夫が子供のころに使っていたものが入っています。娘が小さいころは、クマさんのぬいぐるみ、マグカップ、絵本などを送ってくれました。「おさるのジョージ」などの絵本をめくると、義母の字で夫の名前が書かれてあり、今や老眼鏡なしで本が読めない夫にも、こんな本を親に読んでもらった時代があったのだと、ほほえましく思います。

 息子が生まれてからはミニカーや恐竜のおもちゃなどが送られてきました。前回送られてきたのは、「バットマン」や「スパイダーマン」などが載った雑誌。夫によると、「ダッドが教会のバザーでよく古本を買ってきてくれたんだ。これらもダッドが安く仕入れてくれたもの」といい、物にまつわるエピソードもあり、聞いている私までわくわくします。義父母は、息子4人を育てながら、よく、ここまできちんと取っておいたものだと感心します。
義母が「私は、物を取っておくほうなの」という通り、きっと、屋根裏部屋には、それぞれの息子が使ったものがたくさん保管されているのでしょう。義母はその屋根裏部屋に一度も行ったことがないらしく、物の上げ下ろしはずっと義父の仕事だったというのもほほえましいエピソードです。

 親子は似るもので、捨てられない私のために夫が用意してくれたのも屋根裏部屋。ホームセンターで板を購入し、日曜大工で作ってくれました。長い間病気が途切れず塞ぎ込み物をため込む私に、「捨てたら?」と言う代わりに、「居住空間に物があると邪魔だから、とりあえず、屋根裏部屋に入れておいたら?」と提案することにしたのです。

 夫が屋根裏部屋を作ってくれてから、私は、せっせとそこに娘のおもちゃや衣類を運び入れました。娘の描いた絵や工作品、小学校の教科書やノートもすべて、捨てずにそこに入れています。あまりに増え過ぎたので、さすがの私も反省し、時折、箱の中身を見て「今なら、捨てられる」というものを選び出し、少しずつ処分しています。たとえば、テストやプリントなど。

 さて、このように捨てられない私の気持ちを理解する夫も、時に耐え兼ねて、強硬手段に出ます。私は自分の物は本や衣類などどんどん捨てられるのですが、子供のものが捨てられないため、子供部屋がたいへんなことになってしまうのです。そのあまりの惨状に夫が時に”キレて”しまい、大きなゴミ袋にどんどんとガラクタを放り込み、家の外に出してしまうのです。それを後でこっそり開いては、「これを捨てることはないでしょう?」とブツブツ心の中でつぶやきながら夫に気付かれないように、元に戻すのは私。

 先日は、遊びに来ていた母が強硬手段に出ました。娘のぬいぐるみを無断で捨ててしまったのです。キッチンの物がいくつかなくなっていることに気付き、母を問い質しているうちに、ふと、気になって娘の部屋に行ってみて分かったのです。娘のベッドからキティちゃんのクッションとクジラのぬいぐるみが消えていることが。慌てて外に出してあるごみ袋を開いてみると、娘の誕生祝いにいただいたそのクジラのぬいぐるみが小ぶりなビニール袋の中に詰め込まれていました。他のゴミとは一緒にせず、少なくとも個別包装?されていたことがまだ、救いでした。

 母が娘にプレゼントしたキティちゃんのクッションは”時すでに遅し”で、その前のごみ収集日に私に気付かれることなく捨てられてしまったのでした。

 クジラのぬいぐるみを救い出した私は、「お母さん、一応、ここは人の家なんだから。人の家の物を勝手に捨てちゃだめだよ」と苦言を呈しました。母は平然とした顔で、「それ、ずいぶん古いよ。中はダニでいっぱいかもしれないよ。私は孫の健康が心配で・・・」。私は黙って、それを手洗いし、ベランダに干したのでした。

  干しながら、まじまじとこのクジラを見ると、何とも味のあるかわいい顔をしています。このかわいいぬいぐるみ、しかも、孫が生まれてからずっと一緒だったものを捨てられるとは・・・。やはり、私の母は只者ではないと改めて思ったのでした。

 子供たちが使い、袖を通したものは捨てられない私と、物は物として愛着を持たずに処分できる夫と母。世の中の流れは、夫と母のほうなんだろうなと分かりつつ、やはり捨てられない私なのです。


 

 

 

 

2016年12月3日土曜日

捨てられない!

 「片づけは、『捨てない』ほうがうまくいく」
 朝、娘を学校に送り出した後、コーヒーをすすりながら朝刊を読んでいたところ、こんな本の広告が目に飛び込んできました。なんて、胸に響くタイトルでしょうか。この日は夫が一週間の出張から帰ってくる日。整理整頓好きの夫が帰宅するまで、散らかった家を片付けなければならず、うんざりとしていたところでした。

  昨今、世の中には「物を捨てて、すっきり暮らしましょう」というメッセージが溢れています。物を捨てることが出来ない私にとっては、いくら「物への執着を断ち切れば、幸せになる」と言われても、捨てられない。だから、このようなタイトルに引かれてしまうのですね。出版社も分かっているのでしょう。世の中の「捨てましょう」という風潮に賛同しない人が少なからずいることが。

 しかし、タイトルの横の文章を読んでいくと、いまひとつ、ピンとこない。パソコンを立ち上げて、アマゾンで注文する気になれない。私はそこから目をそらし、新聞を読み終え、その後3時間かけて散らかった家を片付けたのでした。

 私の「捨てられない病」は結構、重症です。無類の片付け好きな母に育てられたことの、反動かもしれまません。

 母の潔さは天下一品です。まず、一人っ子の私が独り立ちした後、私の部屋の壁を取り払い、広々とした部屋を作りました。私の使っていたベッド、机を処分し、私が必死に勉強した大学時代のテキストブックも本棚ごと、捨てました。私が小さいころ読んで、子供が生まれたら読み聞かせようと思っていた絵本もすべて、処分。置かせてもらっていたゴルフセット一式もなくなっていました。

 「お母さん、一応、私のものなんだから、ひと言聞いてよ」と言うのですが、「ごめんね。でも、もう、捨ててしまったからしょうがないじゃない」と、反省の色なし。で、「自立した後、親の家に私物を置いておく自分が悪いのだ」と自身に言い聞かせ、今は先手を打って、捨てられては困るものを実家に戻るたびに持ち帰ったり、母にくぎを刺したりします。
 「お母さん、お願いだから、アルバムは捨てないでね。お母さんやお父さんが若いころの写真が貼ってあるあのアルバム」

 昨年は、「雨漏りしてねえ。あんたのクローゼット(もちろん、私のものは処分され、母の服が入っています)も水浸しになったんだよ。で、業者さんに来てもらって、直してもらった」という話を電話で聞いたときは、真っ青になりました。作り付けのクローゼットの引き出しの下に、昔イギリスのロックバンドに憧れたときに買いためた雑誌を、隠していたのです。しばらくしてから帰省し、引き出しを引っ張り出し、その下に雨がしみ込んでくたっとなった雑誌を確認したときは、思わず、胸をなでおろしました。こうやって、”生き延びた”雑誌は、母に気付かれないように、少しずつ、帰省するたびにスーツケースに入れて持ち帰っています。たまたま、どこに転居しようと持ち歩いていて、手元に残っている唯一の児童書「若草物語」とともに、自宅に大切にしまってあります。

 今、片付けられない親についてなげく中年の娘たちの話がよく出てきますが、うちは逆。片付け過ぎる親についてなげく、娘という構図です。いつも家がきちんとしているママ友達に「どうして片付けが好きなの?」と聞いてみると、ほとんどが、「親の家が物で溢れていて、それを見て育ったからかな」と答えます。やはり、「反動」なのですね。

 あるママ友達のエピソードは、考えさせられるものでした。
 「母にね。私の小さなころの思い出の品々を渡されたの。でも、私まるで覚えていないし。結局、全部捨ててしまったわ。せめて、取捨選択して、母の思い入れのあるものだけ残してほしかった」
 娘や息子が書きなぐった紙の切れ端さえ、いとおしくて捨てられない私には、そのママ友達のお母様の気持ちは良く分かります。うらやましいほどの話ですが、思い出の物はやはり、ある程度の量までに絞っておくべきなのでしょう。

 さて、潔い母ですが、捨てずに取っておいて、私にくれたものがいくつかあります。私が娘を産んだ後、送られてきました。

 一つは、私が赤ちゃんのころ、母が私をお風呂に入れるときに使っていた温度計です。木製で船の形をしており、水色に塗ってあります。手に取るとすっぽりと馴染み触り心地も良く、「あの母にも捨てられなかったほど、思い出深いものだったのだ」と感慨深い。大切に、娘が赤ちゃんのときの思い出の物を詰めた箱に一緒に入れてあります。

 もう一つは母子手帳とへその緒。母と父の名前と住所などが、几帳面な母の字で書かれています。特に養育の記録はありませんが、予防接種の判がいくつも押されています。最後のページには、鉛筆のいたずら書きがあります。おそらく、私が書いたのでしょう。

 娘が小学校に入学したときは、私が赤いランドセルを背負った写真が送られてきました。街の写真館で写したものです。写っているのは私一人。父と母も一緒に写してほしかったなあ、と思いますが、当時はそのようなことも考えなかったのでしょう。もしくは、費用のこともあったのかもしれません。

 娘と息子が赤ちゃんのころの思い出の品々はそれぞれ、ピンクと水色の箱につめて、整理してあります。が、子供たちは成長していますので、思い出の品々は増えるばかり。「工作品は写真に撮って、現物は処分すること」などという、「片付け本」のアドバイスはまだ実行に移せていません。だって、空き箱で作った動物や、段ボール箱で作った家など、いとおし過ぎて捨てられるわけはないではありませんか。

               

 


 

 
 

 

 

2016年12月1日木曜日

日本人ママの心配

  娘の通うインターナショナルスクールで、保護者向けに日本語の授業説明会がありました。公立校からインターに転校し、語彙力が落ちてきている娘の日本語教育をどうしたものかと考えていた私は、真剣に説明に聞き入りました。

 会場になった教室は、あっという間に熱心な保護者たちで埋め尽くされました。第二外国語として日本語の授業を取っている子供の親も参加しているため、日本人教師からの説明はすべて英語です。

 教師はまず、「以前は週3時間だった授業が2時間に削られ、絶対的に時間が足りず、課題を終わらせることが難しい」と説明。それを補うための宿題はしっかりとやらせてほしいと親に協力を求めていました。

 日本人ママから、次々と手が挙がります。
 「日本の学校に行っている子供たちとのギャップはどんどん大きくなり、そのギャップは埋まらない」
 焦りがにじんだ意見です。振り返って、そのママを見て仰天しました。言葉を交わしたときは、ネイティブの日本語でした。が、英語も完璧なのです。話を聞いていくと、自分がインターに通っていたころと比較をしています。当時に比べて、日本語授業への物足りなさを感じているらしいのです。

 教師からは、「通常の授業のすべてを日本語で行い、かつ、週7時間ほどの国語の授業を行う日本の学校で学ぶ子供と、週2時間の日本語の授業だけのインターの子供では、習得のスピードに差があるのは仕方ないでしょう。やはり、ご家庭でどれだけ勉強するかにかかっていると思います」との説明。

 「やっぱり、そうだよな。家庭だよな」と私は思わず、うなずきます。なぜなら、英語での授業についていき、かつ、たくさんの宿題をこなしていく娘に、さらに漢字や文章読解など「国語」の勉強をさせることは、簡単ではないからです。私は、おそらく娘の到達点は英語はネイティブ並みにできるが日本語は「読み書きに難あり」だろうな、とあきらめつつあるのです。

 しかし、そう腹をくくれるのも、娘がハーフだからです。日本語が多少できなくても進路の選択肢は少なくはならないだろうと、楽観視できるからです。一方、生粋の日本人の子供を持つ親の悩みは深い。

 次に出た意見も日本人ママから。
 「年齢に適した本を推薦してほしい。以前は授業で課題図書を読んでいたのに、それがなくなり残念に思っています」
 その意見に対しても、教師は「圧倒的に時間が不足する中で、教科書に沿った授業をするのが精一杯で、たいへん申し訳なく思っています」と説明。さらに、子供たちの意欲に踏み込んだ説明もなされました。
 主要教科の勉強が難しくなり、子供たちが宿題に追われるようになっていく中で、子供たち自身が日本語の勉強を軽視し、日本語の本も読まなくなる傾向があるというのです。

 その説明についても、私は「やっぱり、そういう傾向はあるんだ」と納得。娘には子供向けの「世界文学全集」を少しずつ買い与えるなど読書に興味を持ってもらうように努力はしていました。娘も、「ママ、次はこれを買って!」というほど読んでいたのに、今では日本語の本をほとんど読まなくなりました。その代わり、寝る前は英語の本を読むようになりました。また、日本語の宿題やテスト勉強も前ほどには熱心にはやらなくなりました。

 教師の話を聞きながら、少し前に娘を厳しく叱責したことを思い出しました。翌日漢字のテストがあるのに、前日の夜10時まで勉強せず、また、テストのことを私には言わなかったのです。地理や英語、算数のテストがあるときは夫に横についてもらい、必死にやっているのに、です。

 そのとき、私は娘にこう言いました。
 「あなた、日本語をばかにしているの?」
 「他の科目は必至に勉強するのに、漢字のテストはどうして勉強しないの? 勉強しないと結果がどうなるかはこれまでの経験で分かっているでしょう?」
 私はこう娘にたたみかけました。

 娘は驚いた表情で、「バカになんてしていない。忘れていたの。ごめんなさい。ママ。横について一緒に勉強して」

 私はきっぱりと断りました。ここで許せば、また、同じことの繰り返しになると思ったからです。娘はその後、泣きながら夜遅くまで漢字の練習をしていました。

 娘の通う学校には、外国人の子供たちだけではなく、日本人の子供も在籍しています。中には日本に生まれ育ちながら親の方針により通っている子もいますが、多くは親の海外赴任で英語圏の学校で学び、帰国後インターに編入した子供たちです。その子供たちの親の心配は「日本語」と「進路」。生粋の日本人でありながら、日本語の習得が遅れがちな子供の将来を心配し、今、どのような手を打つべきか、迷いながらの日々のようです。

 アメリカなど先進国に赴任すれば、当地に進出している日本の塾の担当者らに「いかに日本の受験を取り巻く環境は厳しいか」とあおられる。後進国に赴任すれば、補習校も情報もない中で、日本から取り寄せた教材を頼りに、子供に勉強させる。日本に帰国すれば、とりあえずインターに入れたものの、子供の進路はどうすれば良いのか、溢れんばかりの情報の中で迷う。

 娘は今中学1年生ですが、日本の学校に行っていれば小学6年生です。娘の同級生には密かに、日本の私立中学の受験を目指し、塾に通っている子供も幾人かいるようです。学校での「英語での勉強」に加えて、塾で「日本語での勉強」をする子供たちの負担を考えると、少しかわいそうにもなりますが、親も子供の将来を考え熟慮の上での決断なのでしょう。

 子供の将来についてママたちと話をしていたとき、理系の大学に進みたいと希望している、娘の同級生のママが言いました。
「インター卒の子供たちが行ける日本の大学は増えているけど、文系がほとんどなの。娘が、将来理系の大学に進むなら、留学しかない。だから、ここで軌道修正して、日本の学校の中で学ばせて、日本でも外国でも、娘が納得する進路を進めるようにしてあげたい」

 ママたちの心配は尽きないのです。