2023年7月30日日曜日

父からの手紙

  昨日、物置の片付けをしました。この春物置内に窓を付けたとき、夫が中の荷物を出し入れし、それからどこに何があるかさっぱり分からなくなっていたからです。今日、カーテン屋さんが採寸しに来るのに合わせて、思い切って整理整頓し直すことにしたのです。

 きっかけは娘でした。昨日、お友達と一緒に隅田川の花火を観に行くから浴衣を着たいと言い、物置内の収納ケースの中の「腰ひも」が必要になりました。

 浴衣は今年仕立てたもので、数日前に初めて着たときは、梱包のときに使うビニールの紐を使いました。収納ケースの前に様々な物が積み重なっていたため、他のもので代用しようと判断しました。そのとき一緒に出掛けたのは息子でしたので、「まぁ、着崩れても息子だからいいかな?」と思ったからです。昨日はお友達も浴衣を着て一緒に行くというので、さすがにビニールの紐はないだろうと、悪戦苦闘して腰ひもを取り出すことにしたのです。

 エアコンのない物置で汗をかきながら、着物の収納ケースの前の物をよけました。よけておく場所もないので一つ一つ居間に持っていき、物置きのドアが低いために出入りで何度も頭をぶつけました。「これが原因で脳にダメージを与えてしまうかも」と思い、意を決して大掛かりな物置の整理整頓に取り掛かかることにしたのです。

 以前はカラーボックス6つの中に一応は物が収められていました。その後、両側3つずつ置いてあったカラーボックスの上や間にどんどん物を積み重ねました。一応は細い通り道を残して奥の物まで手が届くようにしていましたが、リフォームに合わせて夫が物の出し入れをした後は、すべてのものが積み重ねられ、何一つ取り出せなくなりました。

 そして、昨日。カラーボックスの間にある物を一つ一つ取り出し居間に運ぶ作業をしながらひしひしと感じたのは夫の「怒り」でした。あぁ、これらを物置に押し込んだとき、夫は私に対して、すごい怒りを感じたんだろうなぁと。何でこんなものまでとっておくんだよ!と怒りながら、段ボールを乱暴に詰め込んだのだろうな、と。

 そうです。悪いのは夫ではなくて、私。私は筋金入りの捨てられない人間なのです。改めて物置の中のものに向き合うと、そこには、私がしたかったこと、始めたけど仕上げられなかったもの、大切にしてきたこと、愛おしく感じているもの、すべてがありました。

 作りかけのクリスマスリース、作りかけのスクラップブッキング、プリントアウトしたままアルバムに入れていない大量の写真、20冊以上はある未使用の可愛いアルバム、スクラップブッキングの材料、始めたけど未完了の子どもたちの作品を収める「頑張ったファイル」、子どもたちが描いた絵や工作、子どもたたちが着た小さな服・靴、子どもたちの使った教科書やノート、貝殻やパンフレットなど旅行の想い出の品々……。

 そして、母が札幌の実家を手離したとき、母が「いらない」と判断し、でも、私が捨てられずに持ち込んだ物も段ボール箱何箱もありました。両親が使った食器、母が大事にしていたグラスやお茶碗、私が両親にあげたお土産の数々(私にとってそれらを選んだ懐かしい思い出がある)…。そして、スペースが限られている東京の家には置いておけない、7段飾りの雛人形が入ったいくつもの箱と重たいスチールの台。

 それら一つ一つと向き合うと、いかに自分が物を捨てられないか改めて思い知るとともに、何でも捨てられた母のことを考えます。私のものを一切合切捨て、私の部屋を取り壊した母は、私のような気持ちにはいっさいならなかったのだろうなと寂しい気持ちになります。

 子どもたちが使ったものや作ったもの、着こんだ服やすり減った靴が愛おしくて捨てられずに溜め込む私とは違い、母は、私の着た服、私の書いたノートや絵、私が読んだ絵本や本、すべて、さっぱりと捨てられたのだな、と。「お母さん、私のものを捨てるときは私にひと言言ってね」と頼んでも黙って捨てた母は、それらのものをどういう思いで捨てたのだろうと。もう何十年も思い続けて蓋をして閉じ込めているのに、折々に吹き出す感情がまた、出てきてしまいました。

 センチメンタルな気分になりながら、札幌の実家から送ってそのままにしていた段ボールを空けました。札幌の実家の私の部屋のあったところに横90㌢高さも90㌢ぐらい奥行き50センチぐらいの小さな収納がありました。そこは実家の唯一の”聖域”で、母はその中のものだけは捨てませんでした。入っていたのは、私の幼稚園・小中高校時代のアルバムなど。そこのものを段ボールに入れて、東京の我が家に送ってきていたのです。

 昨日、その段ボールを開けました。で、その中には5つほどファイルがあり、留学時代に書いたレポートや、母や友人ら日本からもらった手紙、会社員時代の給料明細、入社時の資料などが入っていました。手紙のファイルをパラパラとめくっていると、なんと、なんと、留学時代に父からもらった手紙が入っていたのです。

 その手紙は父が私にくれた唯一の手紙でした。内容も覚えていましたが、ずっと見つけることが出来ず、長い間とても残念に思っていたのです。それを見つけたのです。父は私がこの手紙を探せないことをとても寂しく思っていたことを分かっていて、私が見つけるきっかけをくれたんだな、と心がじんわりとあたたまりました。その手紙をここに記したいと思います。

「睦美へ

 元気で頑張っているとのこと、安心しております。お父さんも健康で相変わらず仕事に追われながら元気にしています。12月に入り、こちらは雪もちらちら降り、めっきり寒くなり冬の季節になりました。そちらの気候は北海道に似ているようだが、睦美は寝相が悪いので風邪を引かない様気をつけなさい。

 早いもので睦美がアメリカに留学して3ヶ月たちますが、札幌に帰り(父はそのとき単身赴任をしていました)朝起きたとき、睦美が2階から降りてきてお父さんおはようの声が聞けないのが少し淋しいよ。こんなこと言っては駄目かな…。

 そちらの生活に慣れあまり不便をしていない様だが、環境も違い、また、友達関係で多少苦労があると思うが、君の精神力と堅固な身体があれば大丈夫。安心しております。勉強の方も頑張っているようだね。来年は学部に入れるとのこと、おめでとう。良かったね。

 また、冬はホームステイでサンフランシスコの方に行くようだが、そちらの家庭を見るのも一つの勉強だと思う。お父さんは今になって睦美をアメリカに留学させたのは良かったと思っている。遅すぎたかな? 外国に出るといろいろな事を目で見たり、体験出来ることは人生にとって非常にプラスになり、また、人間を大きくすることだと思う。

 永い間の願望が実現できたのだから、悔いのない留学生活を送ってほしいと思う。ただし、わがままは駄目ですよ。それでは、今日はこの辺で。

 身体に気を付けて頑張ってね。

 一人娘の睦美さんへ

                               丈士さんより」

 父が私に残してくれたのは、遺書と、この手紙だけです。遺書は私の健康と幸せを願う数行の短いものでしたので、この手紙を見つけることが出来て、とっても嬉しかった。父の遺書はコピーをして、手帳に入れています。この手紙もコピーをして、手帳に挟みました。

 お父さん、私はいい年をして、相変わらず頑張っています。頑張っても頑張っても、自分に納得ができません。きっと、このまま、年を重ねていくのだと思っています。有難いことに、子どもたちは健康で元気で、夫も働き者です。お母さんも相変わらず私を頼らず自立し、毎日を丁寧に暮らしています。どうぞ、天国でアンディと共に楽しく暮らしてください。そして、私たち家族を見守っていてください。


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