2022年9月30日金曜日

21回目の結婚記念日

  昨日は21回目の結婚記念日でした。夫と隣駅で待ち合わせをし、私の行きつけの和食屋さんに行きました。

 実はこの店、札幌の友人やママ友たちと会うときによく来るのですが、夫を連れて来るのは初めて。子どもたちがいると外食は焼肉やイタリアン、ラーメンなどになりますので、和食屋さんにはなかなか来られないのです。「君がよく、この店の話をするので来てみたかったんだ」と夫。

 野菜のわっぱ蒸しやサンマの塩焼き、カニとイクラの土鍋ご飯、豚串など、お料理がとても美味しく、キリリと冷えた日本酒も進みます。


 話題は夫のアメリカ出張の話でした。まずはサンフランシスコの親友の家に泊まらせてもらったときの話です。

「ジャックは今ほとんど在宅で働いているらしい。自宅の書斎も広くて快適そうだった。羨ましかったよ。東京の家であんなに大きな書斎を持つことは出来ないよなぁ」と夫。

 ジャックには娘さんが2人いて、両方ともに大学を卒業し独立しています。持ち家を貸し出して、借家で再婚した奥さんと2人で暮らしています。その家に私もお邪魔したことがあるのですが、高台にある、それは美しい家なのです。

 夫いわく、「今は円安だからさらに高く感じるけど、家賃は日本円で45万円ぐらいらしい。2人はほとんど外食で、車もそれぞれ持っているから、稼いだお金はほぼ生活費に消えていくみたいだ」。アメリカは今、インフレが進み物価も高く、家賃も値上がりしているそうです。

 ジャックは私と同じく、がんと自己免疫疾患を患ってきました。「ジャックのいいところは、どんな境遇になっても楽観的で明るいところなんだ」と夫。その話を聞きながら、ジャックの笑顔を思い出しました。私もいろいろあるけど、ジャックを見習って、もっと笑顔でいなきゃと思いました。

 サンフランシスコではもう一人の友人ショーナとご主人とも食事をしたようです。「君が博士課程で悩んでいるという話をしたら、ショーナが自分の経験を話してくれた。実は僕はショーナが博士課程まで進んでいたのは知らなかったんだ」と言います。

 「ショーナの指導教員も女性で、その人は精神的に病んでいたらしいんだ。ひどい扱いを受けて、専攻長や学長まで訴えたけど助けてもらえず、結局辞めざるを得なかったらしい。今ならハラスメント相談所みたいなところはあるけど、当時はなかったというしね。ショーナは退学後、良い仕事にも就いたし、ご主人とも出会って幸せになったから良かったんだけど、博士課程では指導教員が難しい人だと大変みたいだよ」

 ショーナが行っていたのは名門スタンフォード大学。博士課程を断念するのは大きな決断だったと思いますが、そうせざるを得ないほど悩みは大きかったのでしょう。私自身、まさに今自分の進退を熟考しているときですので、ショーナの話は身につまされました。

 夫は友人たちと過ごした後、ロサンゼルスに数日間滞在し、いくつかの会議に出席してクライアントにも会い、両親が住むシカゴへ。

 義父は元気でしたが、義母は左ひざの痛みがひどく、歩行が困難になっていると言います。

 「母が大きな歩行器をついて歩くのを見るのは複雑な思いがしたよ。本当は手術をしたくないと言っていたけど、耐えられないほどの痛みらしい」

 私の母も週4回肩や足のリハビリをしに病院に通っていますので、年を取るというのは本当に大変なんだと思います。自分たちの近い将来を見ているような気持ちになりました。

 夫は4人兄弟で、夫は日本、兄はミネソタ州、すぐ下の弟はミシガン州と義父母とは離れて暮らしています。唯一何かあったら頼りになるのが一番下の弟です。私は新型コロナが流行する直前に母を自宅の近くの賃貸マンションに呼びましたので母の心配はないのですが、義父母のサポートが出来ないので申し訳ないという気持ちでいます。

 それでも義父母はとても仲が良く、元気に暮らしています。来年、ハワイかカリフォルニアで会おうと話をしてきたようです。

 夫のアメリカ話で盛り上がった昨夜。しばし、大学院のことは忘れることが出来ました。

2022年9月25日日曜日

母と銀座へ

 札幌の自宅を売却したことで、複雑な思いを抱えている母に元気を出してもらうため、先週はイベントを2つ企画しました。
 
 まず、19日の敬老の日はおしゃれな雰囲気のイタリアンレストランに連れて行きました。母はイタリアンが大好き。生ハムのサラダとシーフードのパスタ、そしてデザートを楽しみました。


 水曜日はクラシックコンサートへ。会場に向かう前に早めの夕食を準備しました。おかずは北海道産のホッケとシシャモ、大根と厚揚げの煮もの、そしてオクラとトマトの和え物。母はシシャモで有名なむかわ町出身。シシャモの味には一家言ありますが、「美味しい!」と喜んでくれました。また「ホッケを食べるのも久しぶりだよ」と嬉しそうでした。

 コンサートは銀座三越の隣にある「王子ホール」で開かれました。母と銀座に来たのは久しぶりです。母は「あんたが入院していたとき、よく銀座に来たよ」と懐かしそうでした。国立がん研究センター中央病院は築地駅にあります。築地は銀座駅から近いため、私のお見舞いに来る前に銀座三越に寄って、食欲のない私に果物を買ってきてくれたりしたのです。

 また、一緒にお見舞いに来た夫と帰りにお寿司を食べて帰ったこともあると懐かしそうに話してくれました。銀座は母にとって、闘病中の私を見舞った思い出とセットになった場所のようです。コンサートの帰りに、少し街中を歩きました。そして、メインの通りに面したカフェでお茶をしました。素敵な夜でした。



 札幌の家を手離すことを決めたのは母です。「賃貸に出したら?」と勧めてみましたが、「札幌は雪が多いから、除雪をしてもらう業者を雇っていても、もしかしたら入ってくれていないかもしれないと気が気でないの。年月が経つほど処分しずらくなるし。私の友達も皆、一軒家を処分してマンションや施設に移っている」とキッパリ。
 
 強がっていても、長年住んだ家を手離すのは、残念なことに違いありません。ですので、こうして娘家族と一緒に過ごす時間を持てることで人生の晩年に思い切って東京に来て良かったと思ってほしいーそう願っています。

2022年9月21日水曜日

学校だから

  今朝もいつものように、登校する息子を見送りました。小さな背中からはみ出るほど大きかったランドセルが、すっかり小さくなっています。去年まではこちらを振り返ってくれましたが、今は、もう振り返ってくれません。それでも、毎日見送っていると、本当にたまにですが、こちらを振り返って手を振ってくれます。その一瞬を楽しみに毎日、息子の背中が小さくなるまで見送ります。

 今朝は珍しく、出掛けに玄関に仰向けに寝そべってしまいました。

「学校行きたくない」とつぶやく息子。

「どうして?」

「学校だから」

 ……。いやぁ、感動しました。我が息子ながら、何と粋な答えだろうと。学校に行きたくない理由を、これほまでに簡潔に明瞭に言える息子の表現力に感心しました。ブログに書こう!と頭のメモ帳に記しました。

 塾では、毎回、とてつもない低い点を取ってくる息子。長文読解の宿題は毎回、12点中0点です。何を書いているか、親の私にもさっぱり分かりません。ましてや、他人である国語の先生に分かるはずがない。それも、中学受験を勝ち抜こうとしている優秀な子たちを教えている先生です。

 先日は、「他の人が字を読めるように丁寧に書きましょう」とまで書かれてきました。息子は、次頑張ろう!などという殊勝な態度で宿題に向かうことなどありません。でも、ひょうひょうとした態度で、めげずに(気にもせずに)淡々と宿題をやり、0点を取ってきます。国語力は伸びませんが、こういう息子もある意味すごいのでは、と思ってしまいます。

 さて、息子の一言に戻ります。たとえば、大人たちが会社に行きたくない理由は人により様々でしょう。嫌いな上司がいる、取り組んでいるプロジェクトが難航している、など。でも、一言でいうと「会社だから」。オジサンが家に帰りたくないのは、口うるさい奥さんが待っているなど様々な理由があるでしょうが、端的に言うと「家だから」。

 それでも、多くの人はそこに向かう。大げさな言い方かもしれませんが、それが生きるということなのでしょう。息子も「あーあ」とため息をつきながら立ち上がり、玄関ドアを開けました。私は一瞬どうしたものかと考え、とりあえず思いっきり息子を抱き締めました。

 「大好きだよ。君が生まれてきてくれたことが、ママにとって人生で一番嬉しいことだった」と力一杯抱き締めました。しばらく、私に抱き締められるがままになっていた息子が言いました。

 「ママ、ありがとう…。ママ、ママ、僕もう行かなきゃならないから」

 そういって、息子は私から離れ、学校に向け駆け出しました。後ろ姿を見送りました。今日も振り返ってはもらえませんでした。明日は振り返ってくれるかな? 明日に期待をしましょう。

 

2022年9月19日月曜日

夫がいない週末は

  一昨日の17日、夫が出張のため米国に向かいました。まずはサンフランシスコの友人たちに会い、その後空路ロサンゼルスへ。仕事が終わった後はまた飛行機に乗りシカゴの両親に会いに行く予定です。コロナ禍帰国が叶わなかったので、両親に会うのは4年ぶりです。

 先日、夫の葬儀に参列するという縁起の悪い夢を見ましたので、サンフランシスコに到着するまで心配でした。ですので、無事着いたという連絡があり、ほっとしました。何事もなく帰国してくれることを願うばかりです。

 留守を預かる私は、娘と息子に口うるさく”宿題はしたの?”などと言っても、聞いてもらえなくなっていますので大変ですが、10日間ほどの3人暮らしを楽しむつもりです。

 まずは土曜日の夜は毎週恒例となっている焼き肉店へ。そして昨日はサンリオピューロランドに行ってきました。高校時代からの親友Nちゃんが招待券を送ってくれたのです。Nちゃんは娘が小さいころから招待券を送ってくれていました。娘も大きくなったこと、そしてNちゃんに姪っ子さんが出来たのでここ数年遠慮していたのですが、娘が”また、キティちゃんランド行きたい!”とNちゃんに頼んで、送ってもらったのです。

 ピューロランドでは乗り物に乗ったり、ショーを見たり、楽しませてもらいました。毎回必ず食べる名物のラーメンも食べて、満足。息子が小さな子たちに交じって、トランポリンでピョンピョン飛んでいたのには笑えました。


  
相性を測るコーナー。娘と息子は100%。ちなみに私と息子は10%(涙)でした

Nちゃんにラインで子どもたちの写真を送りました。息子が”むっちゃんのお父さん似だね!”と返信が返ってきました。私自身、そう思ったことがないのですが、とても嬉しかった。そうかぁ、父に似ているんだ、と息子をまじまじと見ると、愛おしさが増しました。心が温まり、昨夜はよく寝られました。

2022年9月17日土曜日

ようやく整った心

 イギリスから帰国し、実家の売却や指導教官との対峙など、心が疲弊する出来事が続いていました。その間、眠れなかったり、奇妙な夢を見たり、気持ちがなかなか回復しませんでした。昨日の朝、4人分のお弁当作りを楽しむことが出来、ようやく心が整った気持ちがしました。

 作ったのは、鶏そぼろご飯。子どもたちの大好物です。娘と夫、私のお昼ご飯、給食がある息子には朝食にしました。毎朝、娘にはお弁当を作っていましたし、夕食も作っています。でも、心ここにあらずという感じでした。昨日は久しぶりに楽しめました。私にとって、料理を楽しめるようになるのが、気持ちが回復してきているというサインなのです。

4人分のお弁当

 週末は子どもたちの用事で、気持ちを紛らわすことが出来ました。先週末の土曜日はイギリスの大学の合同説明会、日曜日は息子が受験を希望する私立中学校の説明会でした。また、昨日の金曜日は私がいいなと思う私立中学校の説明会。

 息子がなぜその中学校を希望するかというと、駅前に「ミスタードーナツ」があるからだそう。息子を連れていった先日の説明会でも、帰りにそこのドーナツを食べました。女子の場合、制服が可愛いなども大きなモチベーションになるようですが、男子は幼くて可愛いです。

 娘は出願する大学を決めている真っ最中で、帰宅後はその話で持ち切りです。カナダの大学1校、イギリスの大学3校、日本の大学3、4校に出願する予定です。私も娘が海外に行ってしまうことを覚悟しなければなりません。心の中では、日本の大学に行ってほしいなと願いつつ、でも、どこに決めようと娘の決断をサポートするつもりです。

2022年9月10日土曜日

  夫が死んだ夢を見た。夢の中の”現実”に対処仕切れない自分に戸惑っているところで目が覚めた。すぐ、携帯電話を探した。手元に見つからないので、携帯電話の充電コードを置いてある所に行った。そこにはなかった。で、昨夜、娘の弓道教室に送迎したときに持って行ったバッグの中だと思い付き、リビングに向かった。

 リビングの床に置いてあったバッグの中を探した。大きなバッグの中にはプリントアウトした沢山の文献と参考資料を入れたファイルが詰まったままだった。昨日は夕方、大学院から帰宅し、バッグを持ち換えずに、そのまま娘を車に乗せて弓道場に向かったのだった。娘が練習する2時間、見学場でパソコンを開いて、研究計画書の続きを書いていた。そして練習が終わった娘と一緒に自宅に戻った。疲れていて、いつも浴びるシャワーも億劫で、パジャマに着替えて寝た。

 だから、バッグはリビングに置いたままだった。資料をより分けて、ようやく、携帯電話を見つけた。

 グーグルで「夫が死んだ夢」と検索した。いくつものサイトを読んだが、夫が死んだ夢は吉夢だということだった。概ね、夫に良い転機が訪れるか、自分自身が抱えている問題などが好転する兆しなどだーという解釈だった。特に、私が見た夫が病気で死んだという夢はすべて、良い夢だそうだ。安堵した。

 夢は葬儀の場面だった。私の場所からは遺影が見えないため、少し体をずらして見ると、笑っている夫が写っていた。「?」。 私は”現実”が理解できていない。当惑したまま、「私、レット・イット・ビー(ビートルズの名曲)を歌うわ」と言い、歌い出す。夫が大好きな曲だ。でも、私はこの曲の歌詞はぼんやりとしか覚えていず、サビの部分しか歌えない。もごもごと歌っていると、参列者の男性が引き取ってくれ、歌ってくれた。私はほっとして、隣の人にどうして夫は死んだのか聞く。

 「昨夜、8時ごろ急にお腹が痛くなって、救急車で病院に運ばれて、そのまま亡くなったそうです」

 私の心は一気に後悔の気持ちで一杯になった。大学院だの、指導教員だの、研究計画だのに振り回されているうちに、大切なものを失ってしまったー。私を支え続けてくれた夫を失ってしまったー。夫が救急車で運ばれるときに、付きそうことも出来なかった。息を引き取るときに一緒にいてあげることも出来なかった。私は取り返しのつかないことをしてしまったー。

 そうした思いで一杯になったときに、ハッと目が覚めた。携帯電話で夢についてのネット検索を終えた後、Tシャツとジーンズに着替えて、家を出た。神社まで歩いた。そして、いつものように、神様に昨日までの出来事を報告して、帰宅した。

 パソコンを開いて、このブログを書き始めた。間もなく、2階で寝ていた夫が階段を下りてきた。階段の板がミシッ、ミシッと音を立てた。

「おはよう」

「おはよう。食洗器、また、壊れたわよ」

「これ、開けるときに気を付けなきゃ駄目だよ」

「そもそも、あなたが気を付けないで開けたから、壊れたんじゃない(夫は物の扱いが乱暴で、よく物が壊れる)」

「…」

 いつもの夫婦の会話だ。

 夫が冷蔵庫を開けて、卵を取り出し、パカッと割って、ボールに入れる。シャカシャカと卵をかき混ぜる音が聞こえる。カチカチっとコンロの火をつける音と、ジュッーとスクランブルエッグを焼く音が聞こえる。夫の立てる何気ない音が、妙に心地良く聞こえた。

「スクランブルエッグ?」

「そう。君も食べる?」

「うん、少しもらうわ」

 いつものようにダイニングテーブルに座り、2人で、もくもくとスクランブルエッグとソーセージを食べた。あっという間に食べ終わり、夫はテーブルを離れ、朝の支度を始めた。私は、再びパソコンに向かった。昨日までの日常が今日も続いたことに心底安堵しながら、キーボードを打った。

2022年9月3日土曜日

課題に対峙するということ

  昨日は大学院でゼミがあり、博士論文の研究計画の進捗を発表しました。今回で、私は少しは成長したかもしれません。指導教員に公の場で対峙しようと試みたからです。

 4月に入学して、「研究室の引っ越し」が理由で5月初旬まで研究室に入れてもらえず、5月は無視か不機嫌な表情で応対され、6月にようやくスタートしたゼミの初回にはメッタ刺し。入学したばかりなのに「規定年限(4年)では修了できないかもしれない」「マイナスからのスタート」と脅され、持っていた博士論文のテーマも否定。「別のテーマを」と言われ、必死に文献レビューを重ねて、持って行った2つのテーマも否定。

 にっちもさっちもいかず、好意で参加させてもらっている別の教室の准教授と講師に、重要だけど私の抱えている問題とは違うことを試しに相談。すると、「他の教員に相談するのはトラブルの元。まずは指導教員に相談してください」と言われ、「指導教員が指導してくれない場合はどうするの?」という言葉を飲み込みました。

 次に、その上の教授に思い切って指導教員の変更を申し出ました。ギリギリまで考え、現在の指導教員の悪口は控えました。とても良い先生でしたが、「若くないのに、こんなことで相談に来るなんて、今まで苦労したことないのでは? とりあえず1年は頑張って」と言われました。ここでも言葉を飲み込みました。

 その後、考えに考えて、大学の相談所に連絡を取り、ズームで面談をしました。が、解決の糸口となることは提示してもらえませんでした。相談員の「指導教員の変更は、カジュアルに出来るものではありません」という言葉にがっかりしました。そこに相談するに至るまで、どれほどのステップを踏み、熟考したでしょうか。相談所に意を決して相談した人間に「カジュアル」という軽い表現を使う、相談員の資質に疑問を持ちました。「簡単ではありません」「容易ではありません」「手続きが複雑です」「困難が予想されます」など、いくらでも適切な言葉があるでしょうに。

 でも、と私はここで考えました。なぜ、解決の糸口が見つからないのか。そうです。私が助けを求めた人は皆経験はあれど(おそらく、皆40代ぐらい)私より年下か、指導教員と別の教室の教授はおそらく同年代。そうなんです。私は本来なら、相談を受ける立場の人間なのですよ。「指導教員が無視する!指導してくれない!人格を否定する!」と文句を言うこと自体、滑稽なんです。まず、ここで私は自分を笑い飛ばしました。

 この間、私を良く知る友人たちに相談しました。皆、私の体調悪化を心配してくれました。この問題が長引くと心が病み、それが体調悪化の原因になると。それは一番避けるべきだと。そうだな、と思いました。

 インターネットで検索をしました。「指導教員と合わないなんて、ザラにいる。研究者として優秀であれば、そんなことは問題にならないはず」「博士過程なら指導教員の指導なしに研究が進められるくらいでないと」という意見が大半。でも、優秀でない研究者はどうしたらよいのでしょう? 私は授業料を払って、「足らざるところを教えてください」と教えを乞うている人間なのです。授業料を払って、かつ自立して研究できている優秀な博士課程の研究生とは違う。力不足の人間はどうしたらよいのでしょう。

 悩みました。寝られませんでした。で、開き直って、昨日のゼミでは私が入学当初に持っていった研究計画を自分なりに納得いく形でパワーポイントを使って発表してみました。スライドの一枚には「これまでのフィードバック」として、私が指導教員に提示したテーマと指導教員のコメント(私への人格否定ではなく、テーマの否定)を書き込みました。もちろん、指導教員には敬意を払った書き方で、です。

 そして、指導教員から「あなたは、このテーマの当事者だから、客観的な見方が出来ない。がんを外したテーマを」と言われてきたことについて、皆に、真正面から「当事者が闘病の過程で気付いたことを研究テーマにすることについてご意見をください」と聞いたのです。

 発表自体は私の研究計画でしたので、私のささやかな指導教員への”抵抗”など、ゼミのメンバーは見向きもしませんでした。そして、メンバーからは、フィードバックをたくさんもらえました。もちろん、私の研究計画は足りないところだらけです。でも、自分が当初やりたいと思っていたテーマと、自分がこの半年指導教員について悩み続けたことの一部を自分なりに相手に敬意を払った形で公にすることが出来て、すっきりとまではいかないまでも、自分自身に納得しました。

 指導教員が私の世話をするように頼んでいる研究者からはゼミの後に、こう言われました。

「あなたは修士のときに●●もしていないし、●●もしていないから、先生も心配しているの(心配?本当に?)。●●さんは医療者としてのバックグラウンドがあってさえも、博士を取るのはむずかしかったの。私は修士のときに●●もしたし、●●もしたけど、本当に大変だった。ましてや、、、」。

 そうですか。重ねてのご指摘、ありがとうございました。指導教員とあなたからのこの半年間のコメントで、いかに私が駄目か、十分過ぎるほど認識しています。

 ゼミで学生は私だけで、指導教員を含む参加者の6人はすべて博士号を持っています。救いは、指導教員と私の指導係の2人以外の4人からのコメントでした。厳しいフィードバックの後、「とはいえ、私も常日頃、これは難しいと感じています。今もうんうんうなりながら、考えています」「このテーマは4年の博士課程で終わらせるのは難しいと思う。僕も今でも研究計画を通すのに苦労している。4年で終らせられるテーマにしたらどうだろう」など。上から目線の「あなたは駄目」ではなく、「この点は難しいよね」という共感は、嬉しいし、救われます。

 ゼミでの指導教員の言葉は嘲笑を含んでいましたが、いつもよりトゲがありませんでした。私からのメッセージは伝わったのでしょうか。それとも、”あぁ、面倒”と思ったのでしょうか。それとも、”この人、駄目ね”と呆れたのでしょうか。それは分かりませんが、とりあえず、私のストレスのレベルは少し下がりました。

 悩んでいたこの間、何冊もの本を読みました。その中の一冊で、何度も読み返した本があります。それには、こう書いてありました。

「我々が何かの人間関係の問題に直面したときには、相手に相当の非があると思えても、やはり自分にも何がしかの非がある。自分の欠点や未熟さが原因の一端となっていることも、少なくない」

 この本によると、困難は「成長の課題」であり、ここから逃げても、「卒業しない試験」は、逃げても、必ず追いかけてくるそうです。

 だから、課題に私なりに考え抜いた方法で、対峙しようと思いました。昨夜は久しぶりにぐっすりと寝られました。そして、今朝、近所の神社に行き、神様に報告してきました。その後、たぶんこれまで毎朝上の空で読んでいた新聞の内容がすっと頭に入ってきました。