2026年8月29日土曜日

アサガオ咲いた!

  昨日、やっとアサガオが咲いてくれました。葉ばかり青々として、まったく花が咲かないので、夜間の玄関前ポーチのライトを消したら、3日後に咲きました。

 アサガオは夜の暗い時間を必要とします。昨年も夜間のライトを消したら咲きましたので、今年も同じ理由だったようです。

 咲いたのは一輪だけで、ほかにつぼみも見当たりません。でも、一輪でも咲いたので、良しとしましょう。青色で、とっても綺麗でした。 


2026年8月28日金曜日

科研費申請

  25日に、大学に「科学研究費助成事業(科研費)」を提出しました。科研費は、研究者が自分のしたい研究について研究計画を書き、そのために必要な費用を申請する制度です。専門家による審査を通れば、研究費が支給されます。助成団体は日本学術振興会で、書類は所属する研究機関のチェックを経て、同会に申請します。

 今回私が申請したのは「若手研究」。博士号取得後8年未満の研究者が申請できる助成金で、有り難いことに年齢制限がありません。博士号取得して間もなければ「若手」。いい響きですよね。

 研究計画書には研究の背景や着想に至った経緯、学術的な問い、研究の目的と学術的独自性・創造性、国内外の動向、研究遂行能力と研究環境、人権保護への対応などを書きます。A4用紙7枚です。

 毎夜コツコツと書き、締め切りの前々日にようやく完成しました。そして、締め切りの前日に申請画面のに必要事項を入力して、「次へ」と進もうとすると、どこかでつっかえる。あれこれ確認して、ようやく前に進んだかと思ったら、また、別の所で止まる。で、事務の人に連絡をしてみましたが、そこでも分からず、また、一つ一つ確認しながら進め、結局提出できたのは締め切り当日でした。

 今回は時間に余裕を持って申請しようと心に誓っていて、少なくとも前日に提出を試みたので、何とかなりました。

 私は研究者として雇われていますが、実際の仕事は自分の研究とは違うフィールドの仕事です。仕事は楽しいのですが、せっかく学位を取ったのだから、自分の目指すテーマを研究し続けたい。今回の科研費申請はそのための一歩でした。。

 本当にこういうことは、一つ一つに時間がかかりますが、でも一歩一歩前に進んでいるような気がして、嬉しいです。審査結果の発表は来年2月です。

 取れるといいなぁ。

2026年8月27日木曜日

ジムのお作法

「今年、結婚25周年だよ」。先日、夫にそう言われました。9月の結婚記念日はもちろん忘れませんが、今年25周年だということをすっかり忘れていました。これって、銀婚式? ですよね。

 私たちが結婚式をハワイで挙げたのは2001年9月。その2ヶ月後の11月に、夫が日本に移り住みました。夫はそれから日本、特に、沢山の人がひしめき合う東京でのマナーを少しずつ身に付けました。たとえば、朝、電車を待つマナーです。

 日比谷線の始発駅の中目黒駅では通勤時間の朝、4列の「先発」の電車を待つ人の列があり、その横に「後発」の4列があります。電車が来て、先発の4列の人たちが乗ると、その「後発」の4列がそのまま、列を乱さず「先発」の列にスライドし、数分後に来る次の電車を待ちます。

 日本人の私たちは、この作法を静かに守りますが、たまに、この列を乱すような形で待つような人がいます。きちんと整列していないとか、前の人との距離が妙に広いとか。夫は、こういう人に、とっても怒るのです(実際に、その人に怒るわけではないですが…)。

「狭い日本でお互いにストレスを感じずに暮らしていくには、こういうルールを守らなきゃ駄目なんだ」と。そういう人は外国人であることも多く、おそらく、まだこの独特のルールが分かっていないのだと思います。

 あちこちで見られる、この暗黙のルール。実は私が通うジムにもあります。自分が使った後、トレーニングマシーンを丁寧に拭くことです。先日、たまたま珍しく黒人男性が来ました。「この人どうかな?」とチラリと見ると、ちゃんと自分が使った後、マシーンを拭いていました。それも、受け付けの横にあった除菌スプレーまで持ってきて、振りかけて、備え付けのタオルでしっかりと拭いていました。で、その後来た白人男性。その人も、腹筋をするための台を、使用後ちゃんと拭いていました。

 いやぁ、こういうのって本当に気持ちが良いです。一方、夫が怒ったのは(もちろん、相手に怒ったわけでなく、私に報告してくる)、トレーニングマシーンを占有する日本人でした。夫と私は別々の時間帯に行きますが、お互いにジムでの小さなエピソードを報告し合うのです。

「10回ぐらい使ったら、携帯を長々と見て、また、10回ぐらい使う。そして、また長々と携帯を見ててさ、使いたい人がたくさんいるのに、と思ったよ」

「あっ、その人分かる。比較的若い男の人でしょう?」

「そう。あれ、迷惑だよなぁ」

「実はね、あのマシーンの横に張り紙が貼ってあって、『人気のあるマシーンですので、ご配慮をお願いします』って書いてあるの。たぶん、スタッフも言いづらいのかもね」

 夫も広いアメリカに住んでいたら、こんなことに目くじらは立てなかっただろうな、とちょっとおかしくなったのでした。

 

2026年8月25日火曜日

息子の料理

  今日は仕事の休みの日でしたが、研究費の助成金申請の締め切りのため、朝からパソコンに向かっていました。夏休み中の息子の昼ご飯に、鶏肉のハンバーグとチャーハンを作ろうと考えていたら、息子が「僕、作るよ」と言います。

「ありがとう!じゃあ、お願いね。鶏の挽肉だから、ミートソースでも作る?」

「うん、そうする」

 トマト缶2つ、パスタ、鶏挽肉をキッチンのカウンターに置いて、「楽しみにしてるよ!」と言い、私は助成金申請に戻りました。息子はパントリーから玉ねぎとニンニクを持ってきて、みじん切りを始めました。

 30~40分ほどしてから、「ママ、できたよ!」と息子の声。ダイニングに行くと、ランチョンマットの上に、美味しそうなパスタが置いてありました。冷蔵庫から、私が事前に作っていた野菜サラダを持ってきて、添えます。


「いただきます!」

 パスタ、めっちゃ美味しかったです。数日前に、息子は夕ご飯にバターチキンカレーを作ってくれましたが、これもとっても美味しかった。

息子はやっぱり料理男子です。

2026年8月22日土曜日

プレゼンテーションを終えて

  昨日、職場で研究発表をしました。参加者は東大のダイバーシティ関連の教員・研究員たち約10人。当日、画面共有がうまくいかず、自分のパソコンではメモ付きの画面が見えて、相手側には全画面が見えるという仕組みが使えず残念でしたが、事前にメモをワードに落とし込んでプリントアウトしていたので、乗り切れました。

 私は5月から特任研究員として働いており、今回が博士号取得後の初めての発表でした。発表後に質問を受けて答えるのは苦手なのですが、昨日は普通に答えられました。つくづく思ったのが、国立がん研究センターの研究室で博士課程時代に行った、いくつものプレゼンテーションが役に立ったな、ということ。

 海外を勝負の場とする同センターの研究者たちはそれは優秀で、質問も鋭い。答えられず、「後ほど調べてご連絡します」と答えた場面数知れず。その渦中にいるときは、それは辛かったのですが、乗り越えてみると、自分の糧になっていた。改めてそう思いました。

 私が61歳までの人生で、雇用されて就いた仕事は4つ。最初はサントリー株式会社札幌支店の事務職、次は札幌の英会話学校の講師、次は北海道新聞社の記者職、そして人生最後の職(年齢からして、たぶんそうだと思う)は東大の特任研究員です。

 この道のりを「キャリア」という視点でみると、バラバラです。特に記者職から研究員までの道のりが長く、多難で、大きな方向転換でした。まぁ、よくぞここまでたどり着いたものだ、と思います。

 この茨の道を振り帰ると、要所要所に、病気により社会から離れた私をもう一度社会へ引き戻してくれた人たちがいます。その人たちは、家族や友人のように人生の中での長く付き合ってきた人たちではなく、ピンポイントで現れます。

 たとえば、病気の寛解後、社会復帰のきっかけとなったWebニュースサイト。元テレビ記者と元新聞記者が作ったサイトで、たまたま、元新聞記者の市民講座を受講していた私に声がかかり、サイトのメンバーになりました。ここでの経験は取材・執筆という基本の動作を取り戻すのに大変役に立ちました。

 そして大学院修士課程では、良き指導教員に恵まれ、無事修了。博士課程では、私を受け入れた指導教員が大変なハラスメントをする人でしたが、1年もたたないうちに別の大学へ移りました。今振り返ると、その指導教員は私をこの大学に入れるという役割を担ってくれた人だったように思います。

 そして、その指導教員に代わって私を引き受けた指導教員からは理不尽な扱いを受け、最後は決裂しました。が、彼女が私の人生で担ってくれた役割は、私を博士号取得まで導くことだったと考えています。実際、決裂後に私は無事、博士課程を修了することが出来ました。

 こうした人たちは、私の人生の節目の局面で現れ、ほどなく私の人生から消えていきます。不思議なものだな、と思います。

 皆さんの人生にも、ある局面で現れ、次の場所へとつないでくれた後、いつのまにかいなくなった人はいますでしょうか? もしかしたら、自分が誰かの人生で、その役割を担っているかもしれませんね。そう考えると、人生は面白いですね。

 まぁ、「あの人は嫌な人だったけど」と思い出されるのも何ですが…(笑)。

2026年8月17日月曜日

ゆきちゃんの命日に

  昨日は大好きなママ友のゆきちゃんの命日でした。昨年、肺がんで亡くなりました。45歳でした。

 息子の幼稚園時代のママ友で、卒園後もずっと親しくしていました。昨日は、仲の良かったママ友3人、そしてハンドベルサークルのママさん1人と一緒に、お宅に伺いました。

 居間にはゆきちゃんの美しい写真が、飾ってありました。遺骨もその横にありました。ゆきちゃんが何よりも大切にしていた家族と、今もずっと一緒でした。

 娘さんが我が家の息子と同い年の中3。毎朝5時に起きて、高3のお兄ちゃんと自分のお弁当を作っているそうです。パパも夕方5時には帰宅して、夕ご飯を作り、家族で一緒に食べているそうです。

 ゆきちゃんは家族に健康的な、美味しい食事を作ることを大切にしていました。そして、とてもお料理上手でした。それがちゃんと子どもにもご主人にも引き継がれていました。

 だけど、きっと天国のゆきちゃんは、娘が朝5時に起きてお弁当作りをしていること、パパが早く帰ってきて夕ご飯を作っていることに安堵しながらも、子どもたちにご飯を作ってあげられないことが何よりも無念だろうな、と思いました。

 キッチンには梅シロップの瓶がありました。ご主人によると、ゆきちゃんが昨年冷凍した梅で作ったそうです。我が家も梅酒、梅シロップ、梅酢を作り、キッチンに置いています。梅の時期になると毎年、ゆきちゃんから来た「むっちゃん、梅仕事してる?」というラインを思い出し切なくなりました。

 ゆきちゃん。パパも子どもたちも、食事をとても大事にしていたよ。ゆきちゃんが去年丁寧に冷凍した梅も、シロップにしていて、美味しそうだった。お弁当作りやお食事、梅仕事、ゆきちゃんが天国に行った後も家族が引き継いでくれて、良かったね。安心してね。

 皆、ゆきちゃんを恋しがっていたよ。私も、いつも、いつも、そう思っている。

2026年8月16日日曜日

スパイダーマン

  昨日、息子と夫と一緒に映画館に「スパイダーマン」を観に行きました。IMAXという大画面スクリーンで、迫力がありました。

 はっきり言って、スパイダーマンはあまり興味がありません。でも、息子とコミュニケーションを図るため、興味のない映画も行きます。

 予想に反して、スパイダーマンは面白かった。主人公のピーター・パーカーの葛藤や心の動きが丁寧に描かれていて、思いのほか引き込まれました。

 帰りは息子が内容について、いろいろ補足説明をしてくれました。ポップコーンを頬張り、コカコーラを飲みながら、大画面の映像に見入るー。最近はめっきり口数が少なくなった息子と一緒に映画を観られるのはあと何回だろう?一回一回を大切にしよう。


 

2026年8月15日土曜日

ジムで

  我が家の近くに区のスポーツジムがあり、先月から週2、3回通って体を鍛えています。61歳でも息子はまだ中3なので、冬に息子と一緒にがんがんスキーを滑りたいので、今から体を鍛えようと通い始めました。この夏、娘とニセコに行き、ラフティングやツリートレッキングなどを楽しみ、「あと10年は子どもたちと遊ぶぞ!」と決意したのも大きな理由です。

 スポーツジムはできてまだ数年で、公園を見下ろす大きな窓の側にランニング・マシーンが設置されています。毎回、そこで30分ウォーキング・ランニングをし、その後はマシーンで腕や足を鍛えています。

 今朝はオープン直後の午前9時8分に着いたのですが、5台あるランニング・マシーンは全部埋まっていました。走っている人も、筋力トレーニングをしている人も皆、黙々と体を動かしており、こういうのっていいなぁと思いました。そして、腹筋をしていたら、汗がボタボタ落ちてきて、高校時代の部活動を思い出しました。

 思い出すのは、いつも同じシーンです。私はソフトボール部に所属しており、札幌は冬になるとグラウンドが雪で埋まるので、校舎内を何周も走り、廊下で腹筋や背筋などをして鍛え、夏に備えていました。今、再び腹筋をしている自分と、ひたすら筋力トレーニングをしていた当時の記憶と重なりました。あぁ、体を鍛えるって気持ちが良いなぁと思いました。

 50代、60代になったら、子どもの頃のことを思い出し、自分がかつて好きだったことをしよう、というアドバイスをよく聞きます。どう思い返しても、私は「絵ばかり描いていた」とか「編み物が好きだった」とか、好きなことに没頭した記憶はありません。かといって勉強をしたわけでもなく、唯一没頭したのはあの部活動でした。そして今日、ふと思い付いたのです。「そうだ!60代は高校時代のように、体を鍛えよう」と。

 さて、ランニング・マシーンの順番が回ってきました。今日はイヤフォンをつけて携帯電話に保存してある、娘が作ってくれた私の好みの曲のアルバムを聴きながら走りました。荒井由実の「中央フリーウェイ」、ポール・マッカートニー&ステーヴィー・ワンダーの「エボニー&アイボリー」、ビリー・ジョエルの「素顔のままで」、SMAPの「夜空ノムコウ」、アース・ウインド&ファイアーの「レッツ・グルーブ」、久保田利伸の「LA・LA・LA LOVE SONG」…。

 そして、「Isn't She Lovely」。娘の可愛らしい顔を思い出しました。この曲はスティーヴィー・ワンダーが娘の誕生の喜びを歌ったもの。でも、我が娘にぴったりの曲なのです。

 こうして音楽に聴き入りながら走っていると、隣に細身の素敵な女性が来て、軽やかに走り始めました。私は最初にウォーキングでウォームアップしてから走りますが、彼女はいきなり走り始めたのです。若い人かなぁと思ってふと横を見ると、なんと、顔に皺やシミがそれなりにあり、おそらく私ぐらいの年齢でしょう。

「おぬし、やるな!」とつい心の中でうなってしまいました。こういう同世代の女性が引き締まった体をして、軽やかに運動しているのを見るのは気持ちが良いものです。私も見習わなければ。


 

2026年8月13日木曜日

納骨堂へお参り

  今日は盆の入り。母と夫、息子と一緒に父の遺骨を納めてある都内のお寺の納骨堂にお参りに行きました。

 父の遺骨は以前、札幌市内の納骨堂に納めていましたが、母が東京に転居した後にこちらに移しました。

 もう3年になりますが、いまだに札幌のお寺が懐かしい。でも、こうして母と家族と一緒に命日やお盆、お彼岸にお参りに行けるのは良いことですよね。父も天国で喜んでいると思います。

 先月、父の妹のご主人が亡くなり、母はそれを父に報告。「お父さん、山田さんにもう会えた?」と聞いていて、何だか、本当に父があちらで叔父さんに会っているような気がして、父も知り合いが増えて楽しいかなぁと想像しました。

仏壇の前で手を合わせる母

 父が大好きだった和菓子をお供えしました。お参りの後、皆でそれをいただき、お寺を出た後は昨年と同じ中華料理店へ。母は食欲が落ちているようでしたが、それでも、天津あんかけを美味しそうに食べていました。

 また、来年のお盆もこうして家族でお参りをして、中華料理を食べられますように。

2026年8月12日水曜日

娘@メルボルンからの報告_スプリンクラー

  メルボルンにいる娘から、寮のスプリンクラーが作動して部屋の床が水浸しになったと連絡がありました。娘によると、同じ9階の男子学生が慌てて部屋から出てきて、そこから煙がもうもうと出ていたそう。

「きっと、タバコだと思う」と娘。火の出る可能性のあるキッチンは1階ですので、やはり、タバコかもしれません。

 床に置いてあったものが濡れてしまったようで、フェイスタイムで水浸しになった床と物を見せてくれました。「ちょうど2,3日前に床のものを片付けたところだったの。不幸中の幸い」との苦笑する娘に、「やっぱり片付けすると良いことがあるんだね」と私。

 娘は、「寮の空いている部屋に今晩、移ってって言われているの。綺麗になるまで数日かかるみたい。それでね、9階の住人にピザをオーダーしてくれたの。でね、私、ヴィーガンなんですけどって伝えたら、ヴィーガン用のを注文しますって言ってくれた」と嬉しそうでした。

 そして、約1時間後。再び、娘からフェイスタイムで連絡がありました。娘は目に涙を浮かべています。

「私、ピザを食べるのを楽しみに一生懸命片付けて、ようやく終わって取りに行ったらもうなかったの。悲しい…」。

「あら、かわいそうに。管理人さんに伝えた?」

「うん、でも、追加注文はできないって」

「それは残念だね。じゃあ、ピザ、買っておいで。ついでにアイスクリームも」

「うん、ありがとう。今日は遅いから、明日買うね」

 娘はよくこういうことがあります。一生懸命、真面目に取り組んでいるのに、なぜか最後にちょっと損をしてしまう。あぁ、またか、かわいそうにと思いつつ、でも、こういうところが娘らしくて、何とも愛おしいなぁと思うのです。

 今日はピザ買えたかな?とびっきり美味しいピザでありますように。

 

2026年8月10日月曜日

海へ

  8日(土)に学校との話し合いを終え、中3の息子が無事2学期からも学校に通える事を確認し、肩の荷が下りました。翌9日から一泊で千葉県御宿町に泳ぎに行ってきました。

 娘はオーストラリアの大学3年生、息子は東京の私立一貫校の3年生で、子どもたちと遊べる期間は限られているーと最近ひしひしと感じるので、「遊びに行こう!」と思い立ったら、すぐ計画を立てることにしています。

 今回も「海に行こう!」と思い立ち、海が綺麗だという千葉県に行くことにしました。宿泊先は6月にオープンしたばかりのカフェ併設のホテルを予約しました。

 御宿町のビーチはサーフィンで有名らしく、たくさんのサーファーたちが来ていました。台風が接近しているため、波も高く、泳ぐというより次々と打ち寄せる波に体を任せるのに精一杯。でも、「海水浴に来たぞ!」という雰囲気は十分に味わえました。

御宿のビーチ

 ホテルにチェックインをしシャワーを浴びた後は、街へ。バーベキューをしているカフェを見つけて夕食を取りました。夜はベッドに寝っ転がって「スパイダーマン」を観ました。

夕食を取ったカフェ


 

カフェ併設のホテル「Dear Mom」

 


 今朝はホテル併設のカフェで朝食。昨日はあまり泳げなかったので、車で20分ほどの守谷海水浴場へ行きました。ここは入り江になっているため波が穏やか。サーファーの姿もなく、海水浴に来た人たちがのんびりと過ごしていて、私たちもゆっくり楽しめました。

「Dear Mom」での朝食

穏やかだった守谷海水浴場

ただ、息子は昨日の日焼けで皮膚が真っ赤になり、今日は泳げなかったのが残念でした。

 学校のことが一段落ついた直後の小旅行。一緒に泳ぎ、カフェでご飯を食べ、ベッドに寝っ転がって映画を観るー。子どもたちが大きくなった今、こうして一緒に遊べることが何より嬉しい2日間でした。 

2026年8月8日土曜日

闘い終えて…

  一週間ぶりのブログです。今日は息子の学校と闘ってきました。息子がニュージーランドにいる間に学年主任の先生から電話があり、帰国後息子と私たちと学校に来るようにと言われたのです。

 詳しくは書けませんが、ある出来事の発端は息子で、息子の行動により、誰も予想していなかったことが展開してしまったのです。

 先生から電話があったのは7月30日、息子が帰国する5日前です。私と夫はすぐ息子に事情を聞き、私たちとの日本語と英語でのメッセージのやり取りと事の深刻さに息子は数日間寝られなかったらしいのです。

 私と夫で車で成田空港に迎えに行きましたが、元気がなく、荷物をトランクに入れて後部座席に座った途端、安心をしたのか自宅までの1時間半ずっと寝ていました。

 私は弁護士に電話相談したり(取り合ってもらえなかった)、AIに相談したり、インターネットで検索をしたりして、何日もかけて準備をし、今日に臨みました。

 夫は担任の先生(外国人)にメールで連絡し、事情を聞き、今日の面談に出席してもらうことにしました。担任の先生は息子の味方でいてくれ、我々としては心強かった。

 今朝は夫が「具合が悪い」と言うし、息子も起きてこないし、で困りました。でも、「腹が減っては戦が出来ぬ」ということわざがありますので、息子の好きなアサリのパスタを山盛りにして食べさせました。

 話し合いは2時間ほどでした。私が先生方に質問をし、答えに対して疑問を呈するという形で進みました。結果的には息子が今後気を付けることを約束し、終わりました。

 ずいぶん心配しましたが、収束しました。学校の帰りにカフェに寄り、夫とはスパークリングワインで「お疲れ様でした」。息子も元気を取り戻し、あれこれ沢山食べました。それにしても、男子の中2中3は大変だと聞いていましたが、本当でした。

 有り難かったのが担任の先生の存在。「男子は中3までが一番大変ですが、高校生になれば、落ち着きますよ」と笑っていたのが、救いでした。

 

2026年8月2日日曜日

ベアを洗う

  明日、息子がニュージーランドから帰国します。2週間の滞在期間中、電話をくれたのは1回だけ。そのほかは、短いメッセージだけでした。やっぱり男子ですね。

 でも、お友達と一緒の写真を送ってくれました。山の上のベンチに座って、お友達4人とオークランドの街を見下ろす一枚。青春そのものという感じの、良い写真でした。

 今日は、息子が今でも一緒に寝ているクマのぬいぐるみ「ベア」と「ベアジュニア」を洗って干しました。ふんわりと良い匂いになって、息子を待っています。

 あぁ、私もベアになりたいなぁ。



2026年8月1日土曜日

がんのママの集いで

  今日、私が主宰するがんのママさんとAYA世代女性の集いがありました。5人のママさんと3人のお子さんたちが参加し、賑やかな会となりました。

 乳がん4人、胃がん1人が参加してくれました。このうち3人が、がんのあった臓器・部位を全摘出されていました。  

 今日の話題の一つは、がんになる前の自分に戻れないことによる気持ちの落ち込みをどう切り替えていくかーでした。

 手術や抗がん剤治療後、以前のように働けない、眠れない、動けない、食べられないー。症状は徐々に改善しても、体調は元には戻らず、外見も変わります。さらに、再発への不安も抱えながら生きていくことは、決して簡単なことではありません。

 あるママさんは、精神科医のカウンセリングを受けながら、「かつての自分に戻りたい、でも戻れない」と落ち込むたびに自分を客観視する方法を実践していました。

 別のママさんは、ある会合で教えてもらった気持ちを切り替えるための”名言”を心に留め、折に触れてそれを自分に言い聞かせているそうです。

 また、「失った臓器は戻らないし、外見も変わり、前のように出来ずに気持ちは落ち込んだ」と振り返りながらも、「”New"な自分を受け入れることで前向きに生きられるようになった」と話してくれるママさんもいました。

 今回の参加者で一番若い30代の女性は、「自分の中で、がんになったことを”格下げ”しているんです」と話してくれました。
「がんにならなくても、『あのときああすれば良かった』と後悔する自分がいたかもしれない」と考えることで、「失ったものはあるけど、その”新しい自分”として生きていく」覚悟を決めたと言います。

 かつての自分に戻ることができないー。

 このことについては私もずいぶん苦しみました。仕事=経済的自立=という、自分のアイデンティティの核だっただったものを手放さなければならかったことを長く引きずり、10年ほど続いた病気に次ぐ病気という悪循環で日常生活もままならない中で、この”喪失”に苦しみました。
 
 腫瘍精神科医のカウンセリングも受け、「生きていることに感謝すること」の大切さを説かれました。8回のカウンセリングを終えましたが、「先生は私の苦しみも悲しみも全く理解していない。だから、私はまた自力で元気になるしかない」と言い切り、目をぬらしながら診察室を出ました。頼ったはずの医師を突っぱねるほど、当時の私は、自分に折り合いをつけられずにいました。
 
「キャンサーギフト」という美しい言葉も折々にがん患者から聞きますが、本当にそうなのでしょうか? 将来への夢や希望が持てるAYA世代、働き盛り、そして、子育て真っ最中の世代ががんになり、「がんになって良かった」と前向きに受け止め、前進し続けることが出来るものなのでしょうか?

 そんな問いに対する答えを、30代の女性がきっぱりと言い切ってくれました。「がんになったことは良かったとは思わないけど、気づけたことはあった」。

 この言葉に、彼女より年上の私たちは深くうなずきました。おそらく、これが本当のところなのではないでしょうか。

 一度は死を覚悟しながらも、こうして生きていることに感謝をしている。でも、ときどき、かつての自分を思い出しては落ち込む。そして、そのたびに、自分を鼓舞したり、なだめたりしながら、何とか気持ちを切り替える。

 皆、こんな風に生きている。それを実感した一日でした。