2023年1月15日日曜日

子育ての難しさについて

  昨日、地元小学校に通う5年生の息子が、英語塾のテストを受けました。現在の実力を測るテストで、3月から始まる新6年生のクラス分けの判断材料になるといいます。

 会場は品川にあるオフィスビル。試験開始時間近くに現地に着くと、息子と同年代の子とその親が続々と会場に入っていきました。子どもたちの顔を見るとほとんどが日本人で、ハーフの子はほんのひと握りしかいません。

 この英語塾は帰国子女対象に特化した塾で、日本人の子のほとんどが帰国子女で、ハーフの子が少し。そして、帰国子女の多くが「帰国子女枠」で中学受験をすると聞いています。

 東京・神奈川の中高一貫校では、こうした帰国子女に対して、通常の受験とは別枠で試験を設けています。帰国子女とは海外に暮らしたことがある子どもで、帰国後一定の年数以内であることが条件。帰国子女枠でのテストは英語・国語・算数で、普通の中学受験とは別の日程で行われます。求められる英語のレベルは英検1級レベルと言われています。

 息子はアメリカ人の父親を持ち、英語を日常的に話しますが、日本生まれ日本育ちですので、帰国子女枠を使えません。ですので、息子は帰国子女たちと同レベルで英語を習得しつつ、通常の国語・算数・理科・社会で受験する子どもたちと競うというとても厳しい闘いを強いられています。

 強いられているのではありません。私たち親が強いているのです。品川の会場に息子を送った後、駅近くのカフェで試験時間の2時間をつぶしました。私のテーブルの両隣には、同じ塾に通っていると思われるママさんが携帯電話を見たり本を読んだりしながら、子どもの試験が終わるのを待っています。「どの親も、子どもに少しでも良い進路をーと一生懸命だなぁ」と共感しました。お迎えの時間が近づいてきたころ、両隣のママさんが席を立ちました。私もそれに続きました。

 試験会場前には沢山の親が待っていました。しばらくして、息子が会場から走って出てきました。

「よっ!」

 いつもの挨拶です。

「どうだった?」

「まぁまぁかな」

 駅に向かう道すがら、息子がつぶやきました。「僕の塾の成績が悪い理由はさ、英語の勉強しているからだよ」

「そうだね。普通は英語勉強しないで、4教科だけでいいもんね。逆に英語で受験する子は国・算しかいらないし」

 そうはいっても、息子はハーフです。英語を捨てるわけにはいきません。日本の中学受験に失敗したときに備えて、インターナショナルスクール受験への可能性を残してあげたい。そのために英語は捨てられない。

 塾の先生に1年ほど前に言われたことを思い出します。

「お母さま、5教科は無理です。5年生で5教科を学んでいる子はいませんし、負担が大き過ぎます。思い切って英・国・算に絞るか、英語を捨てて、国・算・理・社の4教科に絞ることをお勧めします」

 私は先生の助言に耳を傾けつつ、自分の考えを貫いてしまいました。なぜ、息子にこれほどの負担を強いたのか。なぜならば、息子は”普通に何でもこなせた”からです。小学校の勉強も出来、英語もネイティブ並みに話し、運動も出来た。中学校受験に挑める力を持っているように思えた。だから、このような負担をしいてしまったのです。

 娘は違いました。小4ですでに、勉強に遅れを取っており、英語もあまり得意ではありませんでした。クラスメートのほとんどが中学受験をするという環境に置いておくと、娘が駄目になってしまうと思えた。だから、日本語をある程度習得し、英語も難しくならない5年生というタイミングで、思い切ってインターに転校させた。それが奏功して、自由な環境で学び、英語を母語とし、好きなアートや音楽に集中できた。ゆっくりと成長できた。

 が、息子は違いました。普通だった。塾通いも出来たし、スポーツも得意だった。英語も話せた。習い事をいくつもこなしても文句も言わず、ひょうひょうとしていた。だから、こうして、あえて難しい選択をしてしまったのです。その結果、もしかしたらどれも中途半端ということになってしまっているのではないかーと感じています。

 息子は私ががん治療に入る前に凍結保存した受精卵を7年後に子宮に戻して生まれました。私が46歳のときに産みました。当時、私はがんを2回再発させてしまい、主治医からもあと数年の命と言われていた。だから、何としても娘にきょうだいを作ってあげたかった。

 そして、凍結保存した受精卵を自分の体調が悪いからといって破棄したり、医学の発展のために寄付したりなどとても出来なかった。受精卵は命かどうかーという議論はありますが、私にとっては命の萌芽だった。だから、自分の子宮に戻す決断しか考えられなかったのです。

 受精卵を子宮に戻すことは反対されることは分かっていましたので、誰にも、主治医にも相談せず、「当事者」である夫の反対を押し切って、私の判断で子宮に戻しました。妊娠が分かって、私が毎日神に祈ったのは「私の命と引き換えに、この子をこの世に無事産ませてください」ということでした。毎日、毎日、そう神様に祈った。だから、無事産まれてきてくれただけで、十分だったのです。

 それなのに、息子が成長し、娘のときのような発達に関する不安も心配もなく、運動も得意、勉強もそこそこできる、英語の習得も速い。そんな成長ぶりを見て、期待をしてしまった。息子に負担を強いていると思うときに、いつも、自分がしていることの矛盾を痛感するのです。命懸けで産んだ子どもに対して、生まれてきてくれたことに感謝するだけでは足りず、多くの負担を強いてしまっている。何と私はおろかなのだろうーと。息子ならできるー。そう信じてしまうのです。

 娘は自然妊娠で生まれました。天からの授かりものです。天から預かっている子どもです。でも、息子は私が自分の命を捨ててでも欲しいと決断し、産んだ子です。私が決断しなければ、この世に存在しなかった子です。だから、私がサポートできるうちに、あれも身に付けさせたい、これも身に付けさせたいーと、無理を強いてしまうのでしょうか。

 夜、また、嫌がる息子に塾の宿題をやらせました。

「算数は終わったの? 漢字もまだやっていないでしょう。もう、どうでもいいと思っているでしょ」

「うん。半分はどうでもいいと思っている。そして半分はどうでもいいと思っている人間が合格するはずはないと分かっている」

 大人びた言葉が返ってきました。娘はとても手がかかりました。そういう意味での難しさがあった。そして、難しさの反面、天使のようなかわいらしさと素直さがある。息子はほとんど手がかからない。たぶん、放っておいてもそつなく生きていくと分かる。でも、逆の意味で難しい。子育ては一筋縄ではいきません。一筋縄でいかない理由は親にあるのだ。そう実感する日々です。

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