2025年1月7日火曜日

松の内最終日に思う

  今日は松の内の最終日。玄関の締め飾りを外しました。昨日は研究所の方々に新年のご挨拶かたがた、オーストラリア土産のコアラやカンガルーをかたどったチョコを配りました。指導教員にも笑顔で渡すことができました。

 昨日の朝は、その指導教員と笑いながら雑談する夢を見ました。必要に迫られてではありますが(年に数回)、話しかけるたびに無表情で簡潔な答えしか返ってこないため、せめて笑顔で話してほしいーという願望があり、そうした夢を見たのでしょう。また迷惑そうに受け答えされるかな、それなら新年のご挨拶なんてしないほうがいいかなと逡巡しながらも、勇気を振り絞ってドアをノックし、挨拶できた自分を褒めてあげたい。

 松の内の最終日になると、何となく”今年”が定着したような気持ちになるから不思議です。昨日当たりで、おもちも食べ終わり、夫も会社に行きましたので、今年が本格的に始動した感じがします。

 今、机に座って、目の前に飾ってあるカレンダーを眺めています。室蘭のナオミちゃんから、毎年送っていただいているカレンダーです。このカレンダーは月ごとに室蘭の名所の写真が使われており、折々にその写真を眺めては、室蘭を懐かしく思い出しています。

室蘭の名所の写真が掲載されているカレンダー。下にあるのは30年以上も前、室蘭の若手職人グループ「室蘭手わざ」が作った文鎮

  昨年、軽井沢の家の屋根裏をリフォームして本棚を作り、大学時代や新聞記者時代のアルバムをようやく整理することが出来ました。2冊は初任地室蘭時代の写真で、そこには20代の私と40代の先輩ヤマモトさんが、職場の仲間と一緒に笑顔で写っていました。ヤマモトさんとはここ10年ほど毎年お会いし、一昨年には娘と一緒にお宅に伺い、昨年末には奥様と一緒に我が家に来ていただき、家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。

 今年こそ、思い出がいっぱい詰まった室蘭を訪れ、ナオミちゃんや、今も年賀状のやり取りをさせていただいている当時の室蘭市役所の広報担当キノシタさん、国際交流担当ミタニさん、当時よく通ったイタリアンレストランの共同オーナーマサ子さん、アケミさんにもお会いしたい。

 カレンダーの写真を見ながら、室蘭に思いを馳せるのでした。

2025年1月6日月曜日

寂しい、年賀状じまい

 2025年の元旦に全国で配達した年賀状などの年賀郵便物は約4億9052万枚で、前年より34%減ったそうです。昨秋に郵便料金が大幅に上がった影響だそうで、「年賀状じまい」が加速していると報じていました(1月3日朝日新聞)。

 時代だから仕方ないかなぁと思いつつ、私は年に一回の年賀状のやり取りが好きなので、いただいた年賀状に「今年で年賀状じまいさせていただきます」という添え書きを見ると、とても寂しく思います。

 年賀状を差し上げ、いただく方々は遠方に住んでいる方も多く、機会があったらお会いしたい方ばかりですので、なおさらです。

 実は、昨年年賀状じまいの連絡をいただいていたのに、つい今年も書いてしまったのが、父方の従妹のヒデちゃんでした。ヒデちゃんは70代で、母方の従妹のジュンちゃんと同様、姉のように慕っている人です。そのヒデちゃんとの年賀状のやり取りがなくなると思うと、それは寂しく、ついつい出してしまったのです。

 出した翌日、その事を母に言うと、「失礼だよ。私も年賀状じまいしますと書いたのに、甥っ子から喪中ハガキが来たときは、どうしてだろう?と思ったもの」と言われたので、慌てて、ヒデちゃんに手紙を書いて送りました。私の家族のこと、亡父への思い、これまで長い間年賀状をいただいたことに対しての感謝の気持ちをつづりました。

 31日にオーストラリアから帰国し自宅のポストを見ると、ヒデちゃんから返事が来ていました。私からの手紙をとても喜んでくれ、また、亡父のことも書いてくれました。

「父の兄弟の中でおじさんは一番のハンサムで、出世して、、、。おじさんが帰ってくるとうれしくて、うれしくて、恋人に会う様な気持ちだったんだよ。父もおじさんを一番信頼していたので、弟たちのことを相談したり、お金も出してもらっていたみたい。本当に、大好きなおじさんでした」

 亡父のことを良く知っているヒデちゃんからの優しい手紙は、本当に嬉しかった。

 ヒデちゃんは4人姉妹でしたが、一番上のお姉さんを幼少期に溺死で、2番目のお姉さんを20代、妹を50代でいずれもがんで亡くしています。とても辛い人生でしたが、「今は穏やかに暮らしています。このまま私がダンナさんを送って、私は一人でゆっくりあの世に行こうと思っています」とつづっていました。

 私たちはヒデちゃんの姉妹のほかに、従姉妹を2人亡くしています。2人は私と同い年で、一人は30代で自死、もう一人は40代でがんで亡くなりました。従姉妹たちに不幸が多く、私も30代でがんになったので、ヒデちゃんに「家系に何かあるのかな?」と電話で聞いてみたことがあります。

 ヒデちゃんはお姉さんを亡くした後は、従姉妹の中で一番上でしたので、四国にあった家族代々の墓を仕舞ったそうです。「誰か分からない遺骨もあったの」と語っていたヒデちゃん。その遺骨も含めて供養をしたそうで、大変な仕事だったと思います。 

 ヒデちゃん、今まで本当にありがとう。来年から年賀状は出さないけど、また手紙を書きますね。

 

 

2025年1月5日日曜日

福田和也さんを悼む

  昨日(1月4日)は、オーストラリア旅行中に止めてあった新聞(朝日新聞)を読みました。昨年12月24日から31日までです。いくつか気になった記事があり、切り抜きました。そのうちの一つが、「2024年亡くなった方々」でした。

 全面を使った特集は1月から12月まで区切られており、その月に亡くなった方の名前と日付けが記されていました。一番上の段には篠山紀信さん、赤松良子さん、小澤征爾さん、谷川俊太郎さん、中山美穂さんら各界の著名人の在りし日のカラー写真が貼られていました。

 1月からざっと、その人の名前を探しました。ありませんでした。えっ?と思い、もう一度探しました。ありませんでした。そこで、スクラップブックを取りに行き、切り取って貼ってあった訃報記事を探しました。ありました。2024年9月22日、1段組みの記事でした。朝、新聞を開いてこの記事が目に飛び込んできて、かなり動揺したことをはっきり覚えています。記事の下には、走り書きのような字で私の思いをつづっていました。もう一度、特集記事の9月の欄を探しました。ありませんでした。

 私が探していたのは、文芸評論家で慶応大名誉教授の福田和也さんの名前です。保守派の論客としても知られていた人でした。死因は急性呼吸器不全で、63歳でした。

 福田さんの著書を初めて読んだのは、日本の作家を100点満点で点数を付け評価した「作家の値うち」(飛鳥新社、2000年)でした。この本に衝撃を受け、三島賞を受賞した「日本の家郷」(新潮社、1993年)を読み、その洗練された文章と語彙の豊富さに圧倒されました。その後、むさぼるように彼の著書を読み、関連の雑誌などにも目を通して、ずっと注目をしていました。病気をしてからは目の前の治療に精一杯で、福田さんの動向をフォローできなくなりましたが、彼が書いた著書は今でも大切に本棚の並べてあります。

 訃報記事を読んだ後しばらくの間、インターネットで追悼記事を探しました。あまりにも少なく、愕然としました。福田さんは、文芸評論家の故・江藤淳に見い出され、江藤さんが自裁した後、何本もの追悼記事を書いていました。それを読んでいた私は、福田さんが江藤さんの死を惜しみ書いたような記事を、なぜ、関連の方々が書かないのだろう?と悲しく思いました。悲しく思っても、私には一ファンとしても、福田さんの追悼記事を書く力はありませんでした。

 いくつか探せた、編集者と福田さんの教え子による追悼記事で、福田さんの死までの道のりが少し分かりました。晩年は、病気の後遺症により、かつての飛ぶ鳥を落とすような勢いは失せ、書く力もかなり弱っていた様子がそこには書かれていました。

 昨日は久しぶりに本棚から、福田さんの本を1冊取り出し、再読しました。「江藤淳という人」(新潮社)です。印象に残り、今も覚えている文章を探しました。最初の著書を7年がかりで書き上げて出版したものの、あまり反応がなく、落胆し将来への展望もなかったときに、江藤さんが雑誌の編集長に福田さんを推薦してくれたときのことを綴っていました。

「銀座の和光の前の公衆電話ボックスだった。何と云ってやることもなく多少投げやりになっていた当時の私は、日本橋の骨董店を覗いた後に昼から一人で酒を呑んでいた。鈴木氏の言葉を聞いた途端に、恥ずかしい話だが私は落涙してしまった。今でもその瞬間を思い返すと、平静ではいられない。物書きと云われるほどの人間は何かしらの形で、世間から認められたという瞬間を持っていると思うのだが、私にとってそれがこの時だった。江藤淳に認められた、と思った。私の文字と詩と愚行に浸った生が何ほどか救われたように思われた」

 多くの人々が行き交う歩道に立つ公衆電話ボックスで受話器を持ち、思わず涙をこぼす若き日の福田さんの姿がありありと目に浮かぶような文章でした。私自身、書くことを仕事にしていたので、福田さんの気持ちに深く共感したのでした。

 本を再読した後、改めて、インターネットで福田さんについて調べました。文学・思想を扱う月刊誌「ユリイカ」が昨年末、福田さんを特集するムック本を「2025年1月臨時増刊号」として発売していました。「新潮 2024年12月号」でも、3人の作家が追悼記事を書いていました。いずれの雑誌も昨日、ネットを通じて購入しました。

 私も福田さんの一ファンとして、改めて心から哀悼の意を表したいと思います。スクラップブックの訃報記事の下に書いた文章を、恥ずかしながら、ここに掲載します。動揺していたため、良い文章とは言えませんが、福田さんの死を心から惜しむ気持ちは書かれていると思います。

「あまりのショックに言葉が出ない。私がまだ若い頃、どれほど彼の本を読んだことだろう。江藤淳が妻を追って自死したとき、福田和也はたくさんの追悼文を残した。福田氏はまだ、職も定まらない頃、江藤淳の口添えで執筆の機会を得るのだ。公衆電話でようやく仕事を得たことを知った福田氏は落涙する。この文章を読みながら、私はこの福田氏の文章を記憶しようとしたのだ。私が北海道新聞の記者をしていた夏、表参道で福田氏とすれ違った。私は”ファンです”と声を掛けようと思ったが、勇気を出せずに通り過ぎた。それが今でも後悔となり心に残る。日本の文壇は、とてつもない貴重な人を失った。福田氏の冥福を祈る。あなたは、素晴らしい文芸評論家だった」

 

本棚にある福田和也さんの著書

「作家の値うち」に挟まっていた、雑誌の切り抜き(AERA 2000年9月18日)



2025年1月4日土曜日

メルボルン滞在記 ③チーズ&ワイナリー&チョコレート工場ツアー

  今回のメルボルン滞在で最も楽しみにしていたのはチーズ工場とワイナリー、そしてチョコレート工場ツアーでした。

 朝の集合場所はビクトリア国立美術館の前。ホテルから徒歩5分の所です。小型のバスに乗り込んだのはシンガポールから来た5人家族(夫婦と20代と思われる子ども3人)、同じくシンガポールから来た中年の男女3人、香港から来た親子(高齢母と中年の娘)、日本人の女性(オーストラリア在住の若い女性)、そして我々4人の合計15人。

 まず、向かったのはご夫婦で経営するチーズ工場です。5種類のチーズ(ブルーチーズ、カマンベール、コンテ、ドライフルーツ入り、黒コショウ入り)とクラッカー、そして焼き菓子を試食しました。チーズ好きな子どもたちは大喜び。ここでは、美味しかったブルーチーズとカマンベールチーズを買いました。


 次に行ったのはワイナリー。ロゼのスパークリングワイン、ロゼワイン、白ワイン(ソーヴィニオン・ブラン)そして赤ワイン(ピノ・ノワール)を試飲しました。スパークリングとロゼワインが爽やかでとても美味しかった。また、私はタンニンが強く重めなカベルネ・ソーヴィニオンなどボルドー品種が苦手なので、軽めのピノを楽しめました。息子にはブラッド・オレンジジュースが提供されました。




すべのワインが美味しかったので、スパークリング、ロゼワイン、ピノを購入しました。

 試飲の後はお店の外に出て、広々としたぶどう畑を見ました。清々しい気持ちになりました。結婚前、夫が住むサンフランシスコに遊びに行き、ナパ・バレーやソノマなど有名なワイン産地のワイナリーでの試飲を楽しんだときのことを思い出しました。もう1つのワイナリーでもスパークリング、ロゼ、白(ソーヴィニオン・ブラン)、赤(ピノ)を試飲。いずれも美味しいワインでした。





 人生後半の趣味として一緒にワインの勉強を始めようかーと夫と話し合うぐらいに、今回の試飲ツアーは楽しかったです。

昼食後、芝生でくつろぐ娘と息子

 昼食を取った後は、ジンの試飲に。ここは、立って試飲するワイナリーとは違い、ツアー客はテーブルに座ってジン3種類を好みの割剤で割って飲みました。夫が頼んだのはトニック、私と娘はグレープフルーツ・ソーダ。息子はジンジャーエールをオーダーしました。


 最後に訪れたのはチョコレート工場です。娘と息子が、チーズ工場と同じぐらいに楽しみにしていました。10種類のチョコレートを試食、どれも美味しくいただきました。


にぎわうチョコレート工場の店

 今回のツアーのガイドは、オーストラリアに20年以上住んでいるというフランス人男性。異国に長年住んでいるという共通点で夫と話が合ったようで、楽しそうに話し込んでいました。ツアーの最後にくじ引きがあり、何と娘にロゼワインが当たりました。「人生で初めてくじにあたった」と大喜びでした。

 ホテルに帰った後は、購入したチーズとクラッカー、ピノを楽しみました。子どもたちによると、「今日のツアーで一番楽しかったのはチーズの試食!」ということでした。

夕方、ホテルの窓から見えたメルボルンの風景。気球がたくさん上がっています

2025年1月3日金曜日

我が家のお正月 2025年1月3日

  今日は地元の神社に初詣に行きました。毎年、元旦か2日に行っていたのですが、今年は少しのんびりして3日の今日。参拝客も少なく、ゆっくりとお参りが出来ました。

地元の神社は、3日の今日は初詣に訪れる人も少ない

 おみくじは娘が大吉、私と息子が吉、夫が小吉。私のおみくじに書かれていた神託は次のような言葉でした。

健康_心身ともに健やかでしょう

勉強_的を絞って取り組みましょう

仕事_初心忘れるべからず

 気が引き締まりました。大吉の娘が聞きます。「ママ、この仕事の『控えめな言動が吉』ってどういう意味? 目立たないようにしなさいってこと?」

「言動は言葉と態度という意味なの。だから、でしゃばらないようにってことかな」

「ふーん、そうなんだね」

 娘は普通の日本人のように話しますが、読み書きが英語に比べて少し弱いのです。でも、分からないことはすぐ聞いてきます。日本人と話すと会話の流れがあるので、言葉の意味を聞くことはあまりありませんが、娘に聞かれて答えると明確に説明出来ないこともあり、実は勉強になっています。

 おみくじを結び場に結び、お守りを買った後は、「たけくらべ」と書かれた石碑の前で子供たちの記念写真を撮ります。この石碑に刻まれた身長の一番高い所は180㌢。娘は数年前にこれを超えてしまいました。息子は170㌢ありました。娘よりまだ小さいですが、来年はもっと娘に近づくでしょう。

 今年は夫と子供たち、そして私と子供たちのショットも。息子がどこまで193㌢の夫に近づくか、私と子供たちの身長差がどれくらい開くか、来年が楽しみです。

 神社を出た後は駅近のケンタッキーフライドチキンへ。お腹を空かせた子どもたちはチキンを3つずつ食べました。夕食のおかずは息子のリクエストで、焼豚でした。

息子のリクエストの焼豚。「これまでの中で一番美味しい!」と娘が絶賛してくれました


 

 

2025年1月2日木曜日

我が家のお正月 2025年1月2日

  毎年1月2日は、母のマンションで新年を祝うのが恒例になっています。今年も行きました。86歳の母が自立して暮らし、私たちを食事に招待してくれるほど元気でいることに改めて感謝した1日でした。

 大晦日にオーストラリアから帰国し、お土産を持って母の様子を見に行った私に代わり、昨日の元旦は夫が母のところに行ってくれました。前日スーパーで買ったタラバガニとボタンエビ、ウニは母の分をより分けていたので、それを夫に持たせました。

 帰宅後、夫が感動した様子で私に携帯電話で撮影したという画像を見せてくれました。そこに写っていたのは母が準備していた自分用の夕食です。

「これ、お義母さんが自分のために作ったんだよ。すごくない? 何種類ものおかずを皿に綺麗に並べて…。いやぁ、感動したよ」

「そうなの。私も何度か朝食時に行ったことがあるけど、びっくりしたもの。毎食あんなに丁寧に、綺麗にお皿に盛り付けて食べるってすごいよね」

「うん。ああいう風に自分で買い物に行き、料理をして、綺麗に盛り付けて味わって食べているから、お義母さん元気なんだね」

 今日は私と夫にはお寿司をとり、カルパッチョ、伊達巻、レンコンの酢の物を作っていてくれ、子どもたちにはドミノ・ピザを準備していてくれました。以前は子どもたちにも手作りの食事を準備してくれていましたが、さすがに大変になったのでしょう。数年前からピザのテイクアウトになりました。

母が準備していてくれた食事

  おそらく、母はこれまで出来たことが出来なくなったことに落ち込まないで、臨機応変に対応しているのでしょう。それでも、近所のピザ屋さんに出向き自分で注文し、2人分を買ってくる86歳はあっぱれだと思います。

 食事中に、たまたま各自治体が高齢者に発行する、バス・電車が無料になるパスの話になりました。

 東京都では70歳以上が対象ですが、母は「必要ないから」と申請をしていません。「でも、お母さん、バスはよく利用するでしょう。申請したらどう?私、一緒に行くよ」と言うと、母は頑なに首を横に振ります。いらない理由を聞いてみました。

「首からパスを下げて、車掌さんに見せて、ありがとうございますと言いながらバスに乗るでしょう。あれが嫌なの。どんなに年を取っても、自分でお金をチャージしたパスでピピっとタッチして乗ったほうがずっといい。私、バスに乗ってくるお年寄りをいろいろ見ているんだけど、年を取ってもピピっとタッチしている人は、かくしゃくとしていて若いの。私もそうでありたい」

 なるほど、そういう理由なのか、と納得しました。母は自分でできるうちは、自立して生きる…をモットーとしているのですね。母が年を取っても元気な理由が分かったような気がしました。

 食事の後は、お茶の時間です。お茶を点てるのは、毎年、息子の役目。小さいころから、母に教えてもらっていますので、とても上手に点ててくれます。生菓子やお干菓子を準備するのは私の役目で、オーストラリアに旅立つ前に地元の和菓子屋さんに事前注文・購入し、大晦日に母に取りに行ってもらっていました。

母の横でお茶を点てる息子。背が高くなったので、台所が低くなったよう

 
息子が点ててくれたお茶

和菓子とお干菓子は自分たちが好きなものを選びます。私の生菓子は巳

 今年はそれに加えて、メルボルンで買ってきたのコアラとカンガルー型のチョコレートを加えましたので、それぞれがお茶をおかわりし、楽しい時間となりました。

 お茶の後、娘はアルバイト先(スーパー)に向かい、夫と息子、私と母は箱根駅伝をテレビ観戦しました。スポーツ観戦好きな母は、箱根駅伝が大好き。毎年、欠かさず観ています。今日も選手たちに声援を送りながら、楽しく観ました。

 このような日がこれからも続きますように、と願った一日でした。


メルボルン滞在記 ②ビーチと美術館へ

 オーストラリアの物価の高さは現地に住む日本人の友人や、ここ数年同国を訪れたママ友たちが口を揃えて言っていることです。家族4人でファストフード店に行くとハンバーガーと飲み物だけですぐ5千円になるとか、レストランではパスタでも2,3千円ぐらいだとか。で、今回はキッチン付きのホテルにしました。

 幸いなことにホテルの近くにスーパーがありましたので、初日の夜にパンやハム、チーズ、果物などを買って、冷蔵庫に入れました。

 メルボルン2日目(26日)はランチ用にハムとチーズのサンドウイッチを作り、前日食べたイチゴのパックを洗って乾かし、それに詰めました。 

 行ったのは、カラフルな小屋が海岸沿いに並ぶ風景が有名な「ブライトンビーチ」です。泳ぐのが大好きな中1の息子は大喜び。その日は35度を超える暑さでしたが、湿気がないため過ごしやすく、海水も冷たくて気持ち良く、札幌の夏を思い出しました。

海岸沿いにカラフルな小屋が建つブライトンビーチ

海岸を歩く娘と息子。お揃いの東京オリンピック・チームジャパンのTシャツを着て

 数時間をビーチで過ごし、持参したランチを食べた後は電車「トラム」に乗って、中心街に戻りました。ホテルに帰る途中、「ビクトリア国立美術館」に立ち寄りました。ここでは、日本人アーチストの草間彌生さんの大規模回顧展が開かれていました。

 

草間彌生回顧展が開かれていたビクトリア国立美術館

 オーストラリアでの草間さんの人気は大変高く、美術館は人で一杯。皆、大型モニュメントの前で記念写真を撮っており、改めて草間さんの人気を実感しました。というのも、これまでオーストラリア人と話すと「Yayoi Kusama」の名前が出てくることが多く、日本よりオーストラリアでの知名度がずっと高いことに驚いていたのです。国立美術館の前には沢山の木があるのですが、すべての木の幹が草間さんのデザインである水玉模様の布で覆われており、美術館の力の入れようにも驚くばかり。

人気のモニュメント

 

ビクトリア国立美術館の前の木はすべて、草間彌生さんのデザインの布で覆われていた

 個人的には草間さんの作品を美しいと感じることはなく、また、アートを専攻する娘も「あまり好きではないの」と言うので、回顧展には寄らずに常設展のみ鑑賞しました。十分楽しめました。

 常設展を堪能した後、美術館の前で自撮りの記念写真を撮っていると、娘の知り合いの男子大学生に会いました。オーストラリア人と日本人のハーフで、娘より2学年先輩で音楽(作曲)の専攻だそうです。それは爽やかな青年で、娘が「写真撮ってくれますか?」と頼むと快くシャッターを押してくれました。そして、息子を見て、「君にそっくりだね。双子?」と聞いてきました。

 息子は黒縁のメガネをかけているのですが、普段メガネをかけない娘もたまたまその日黒縁のメガネをかけていました。息子はこの夏ぐんと背が伸びて(おそらく170㌢近くあります)、183㌢の娘に近づいてきましたので双子に見えたのかもしれません。私は常々、本来だったら双子だった娘に申し訳ない気持ちを持っており、また、天国にいる息子のこともいつも想っていますので、この青年の言葉にドキッとしました。

 中1の息子はこの1年でぐんと成長し、風貌も性格も大人びています。逆に娘は体は大きいですが、心が純粋で子どものような無邪気さがあります。また、2人は7歳の年齢差があるにも関わらず、とても仲が良く、いつも手をつないで歩き、じゃれ合っています。その2人の姿が、天国の息子が生きて生まれて育っていれば娘とこんな風に仲良くしていただろうという私の想像とだんだん一致してきています。

 でも、天国の息子と今目の前にいる息子は別人で、目の前の息子は天国の息子の生まれ変わりでは決してないーと自分自身に言い聞かせています。息子の死産を受け止められず、この世にもう一度生まれてきてくれるなら、自分の命を差し出してもいいとまで思い詰めた私に、天は死産の7年後に息子を授けてくれた。でも、息子をこの世に無事迎え入れた瞬間から、私は今私が抱いている息子は天国の息子の生まれ変わりではなく、別個の人間なのだと自分に言い聞かせなければならなかった。なぜなら、息子は誰かの代わりではないからです。メルボルンで出会った青年のひと言でずいぶん考えさせられました。

 さて、26日は各スーパーがアルコールの販売を再開する日でした。美術館からホテルに戻る途中にスーパーに寄り、夫は赤ワインのカベルネ・ソーヴィニオンを、私は白ワインのソーヴィニオン・ブランを買いました。夕食用にはピザやサラダを購入。ホテルに戻り、オーブンでピザを焼き、家族でのんびりと過ごしたのでした。

メルボルン2日目の夜はピザとサラダ